「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(35) 第5巻「地上生活と霊界」 第6章 我々と霊界の立場

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第六章 我々と霊界の立場

1)人生の結実と生霊体

2)審判と公認(証明書)

3)霊界入籍

 

 

1)人生の結実と生霊体

 

 我々の生の1代というものは、わずかの間です。この1代が、永遠と瞬間を上がったり下がったりするのです。この生が延長されれば、無限に延長され、反面、これを折れば、ここから新しい天地が起こるのです。秤と同じように、上がったり下がったりするのです。
 皆さんは全部、先祖たちの顔を代わりにかぶってきた歴史的な復活体です。その歴史は、どれほどになるでしょうか。何十万年になったと言われます。そのように長い歴史過程が、結局は自分一人をつくるために苦労してきたのです。金氏なら金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが生まれて死んだと考えるのです。ですから我々は、歴史的な結実体です。
 このような結実体が、虫が食って穴がぽかりと空いた果実でいいでしょうか。開いてみると、真っ黒な種が、ころころと転がって出てくるリンゴが良いですか、その種が、べたべたして付いているリンゴが良いですか。皆さんをぱかっと裂けば、よく熟した種が出てくるでしょうか。皆さんの二世が間違いなく、天の実になると思いますか。皆さんの心の中を裂いてみれば、よく熟した統一教会が出てくるでしょうか。
 6000年の人類歴史の結実体が、熟さずに落ちる果実のように落ちていいでしょうか。「ああ、私は落ちそうだ。風がもう少し吹けば落ちるだろう。先生、揺すらないでそっとしておかなければなりません」と言ってもいいでしょうか。ここにそのような人もいるでしょう。反面、「先生が斧で打って、自分を思いどおりに揺すっても、斧が折れない限りは、絶対落ちません」という群れもいるでしょう。皆さんはどちらの群れに属しますか。(46-155,1971.8.13)


 人の一生において、生まれる時、結婚する時、そして死ぬ時が重要だということを我々は知っています。
 ある個人が生まれ、成長して、実を結ぶためには、必ず相対と因縁を結ばなければならず、その次には、最後の道を行くようになっているのです。これは、一つの国も同じです。どのような国も必ず創建期があり、次には繁栄期があるのです。その次には、夕方のような期間を必ず経ていくのです。
 一つの生命体になったら、自体内で生命が実を結べる内容が備わっていなければなりません。そうでなければ、いくら結実の時が来たとしても、結実を見ることができないのです。

 それゆえ、自分の環境を克服しなければなりません。それだけでなく、結実され得るすべての与件を受け継ぎ、その結実のための動機となる自らの力をもたなければなりません。そうしてこそ結実の過程を経て、新しい歴史過程であるとか、人類社会が必要とする一つの結実体となることができるのです。
 人は生まれて、必ずそれ自体として環境を克服しなければなりません。かといって、それを克服することだけで終わるのではなく、未来に新しい生命を受け継いで、結実の内容をもち得る過程を経ていかなければなりません。この過程を経たのちには、正しく実効を現し得る一つの位置を占めなければならないのです。例えば、穀物は種が蒔かれて、芽が出て、育って、実を結んだのちにこそ主人の手によって収められ、倉庫に蓄えられるのと同様に、必ずある目的において必要で、収められる過程を経なければならないのです。
 それゆえ皆さんは、皆さん自体にそのような願いを引き継ぐことができる内的要因を準備して、内的要因を中心として外的な環境に再び適用しなければいけないという立場にあることを知らなければなりません。これは、守勢的立場ではなく、必ず攻勢的な立場で表さなければなりません。
 柿の木を見ると、春に花が咲きます。柿の花は、他の花のように際立って華やかではありません。また、柿の花は葉の色と似ています。それで、ちらっと見ただけでは、花があるのかないのか、よく分かりません。また、実が結ばれても葉に包まれているときには、実があるのかないのか、よく分かりません。その葉が余りにも青々としているために、実があるのかないのか、感じられないのです。実は、夏を過ぎて秋になれば、色が変わり始めます。これが完熟すれば、実の中まで赤くなります。そうして、葉はみな落ちても、その実だけが一際輝きながら、木についています。
 統一教会員も、これと同じです。統一教会自体について見るとき、1970年代が結実の時代だとするなら、葉のようなすべての要因は全部消えるべきでしょう。枝だけが残ったところに、一つの結実の価値をもった実が、全体の価値として現れる、そのような柿の木の実のような存在になり得るかということが問題です。
 このような実には、宣伝する必要がありません。それ自体を見て、内外に備わったその価値を、誰もが100パーセント評価することができるのです。そうするために、その柿の木なら柿の木自体が、実として完成する時まで、どれほど苦労の過程を経たことでしょうか。その実は完熟するまで、枝に咲いた他の多くの花の実よりもっと闘争をし、もっと努力したということ事実を、我々は知るべきです。夏の間、風が吹いて雨が降り、暴風雨が吹きつける、そのような険しい環境と、栄養が足りず未熟なままで実が落ちるかもしれないといった、いくつもの環境をみな克服したのです。
 その木が実をたくさんつけられずに、実を一つだけ残したとすれば、その実は、木の全体のエキスと外的な闘争力を総合した内容をもった実なのです。そのような実だけが残るのです。木にたった一つの実が残ったら、その一つの実が、その木の価値に代わり得るのです。それが柿の木なら、その一つの柿の実によって秋を迎えるとき、自らの価値と威信と権威を立てることができるのではないだろうかというのです。
 木に花がたくさん咲き、実をたくさん結んでも、それらが全部落ちてしまい、秋になったのに一つの実も結べずに枝だけ残ったならば、その木はどれほどみすぼらしく、悲しいでしょうか。しかし、多くの実は結べなかったとしても、どのような木の実とも比較できないほど完熟した一つの実をつけたなら、その一つの実をもって、数千、数万の実の前に堂々と誇ることができるのです。
 現代社会に数多くの宗教があります。キリスト教ならキリスト教の中にも、数多くの教派があります。このような現実の中で、結実の時代を迎えた統一教会自体を中心として見るなら、神様が我々に、ある結実を要求していらっしゃるのです。先ほど言ったように、一つの木に多くの実が結ばれなければなりませんが、そうできずに一つの実だけを残したとしても、その実が、その木としてはそれ以上出すことのできない完全な実なら、その木は、その実によって秋を迎えた価値と権威と威信を立てることができるのです。
 これと同様に、我々統一教会も、必ず結実がなければなりません。統一教会が出発して、今まで激しい波風と試練を経ながら、一つの結実に向かって進んでいます。ここから、どのような結実になるかということが、大いなる問題にならざるを得ません。
 このような立場で皆さん自らが、果たして自分は正常な春を迎えたか、正常な夏を迎えたか、そして、正常な秋を迎えて完熟した実になり得るだろうか、ということを点検してみなければならないでしょう。
 実自体を見れば、そこには木の枝もあり、木の葉もあり、根もあり、また種もあるのです。その実を摘んだということは、その木自体をもったというのと同じ立場です。実には種が多いために、その実を中心として数十あるいは数百本の木をもつことができます。
 一つの木の実は、その木が10年過ぎても、20年過ぎても、その木が引き継がせてあげようという全体的な生命の要因を、相続しなければなりません。それでこそ、完全な実として収められるのです。
 そして、実が育つ過程で、その要因を一度でも切断してはいけません。絶えず育つように置いておかなければなりません。生命が始まったその日から、実として収められ、主人の手を経て倉庫に入って蓄えられるときまで、その要因が、どのひと時も途切れてはいけないのです。風が吹く時や、あるいはそれより強い暴風雨が吹きつける時や、どのような試練の過程があっても、この要因が途切れてはいけないのです。その要因は、終始一貫、連綿として、それ自体に保有されていなければならないのです。
 このような観点から見るとき、皆さん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期のために準備するすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけません。時がたてばたつほど念を押し、そこにプラスする過程なくしては、完熟した結実を見ることができないのです。(36-10,1970.11.8)


2)審判と公認(証明書)

 ①審判の種類


 怨讐を愛さなくては行くことのできない道が、原理の道であるということを御存じの神様が、「終わりの日」に審判を通じて世界人類を滅ぼされるでしょうか。違います。神様は、人間に対しては父母の立場にいらっしゃいます。今日キリスト教でいう、いわゆる「火の審判」というものは、言葉そのままの「火の審判」ではないのです。(31-167,1970.5.24)


 師弟の間にも、先生が守るべき法があり、弟子が守るべき法があるのです。統一教会でも、先生が守るべき法があり、皆さんが守るべき法があるということを知るべきです。ですからみ言に対する審判は、み言を聞いている皆さんが受けるということです。み言を誤って聞けば、審判を受けるのです。
 その次には、実体を成すのです。実体を成すべきなのに、実体を成すための活動ができなければ実体審判があるのです。審判には、み言の審判があり、実体の審判があり、心情の審判があります。三大審判過程を経なければならないのです。
 まず、原理のみ言が審判し、その次には実体の審判をするのです。誰が審判するのでしょうか。伝道やいろいろな活動を熱心にし、すべての法度を守り、実体を成した人たちが審判するのです。一生懸命にした人たちが審判するのです。それが審判です。み言どおりにしないときは、サタンも審判するのです。他人が、実体が、讒訴するのです。統一教会の皆さんは、先生が審判し、統一教会の幹部たちが審判し、み旨に従ってきた人たちが審判するのです。
 皆さんは、どのように行くべきでしょうか。サタン世界で食口を経て、先生の認定を受けて、霊界を経て、神様の所へ行くのです。それが行くべき道です。法です。そのように行くのが正しい方向です。
 讒訴条件があれば、これが合わさって、実体的に讒訴するのです。実体審判です。そこで、うそが通じますか。仕方なくするのは、しないのと同じです。神様と先生を思いながら、その仕事をすれば、神様の中身が、先生の中身が、その中に刻み込まれるのです。栗のいがに中身が入ったのと同じようにです。このように、心の中で神様を思い、先生を思えば、先生のみ言が、神様のみ言が、中身になるのです。
 統一教会の皆さんは、神様と先生と食口たちが歓迎し得る人になるべきです。それで皆さんは、むいてみたら栗の実のようでなければなりません。我々は、神様のために、真の父母のために生きなければなりません。そのような仕事をするのです。霊界に行って、神様のために真の父母を中心として生活しようとするならば、ここで拍子が合わなければなりません。それでこそ調和するのです。
 それゆえ、恐ろしい実体判断を受ける過程を経なければならないのです。これが法です。このようになる日には、心情的基盤が自動的に生じるのです。皆さんが熱心に伝道したり苦労しているのに、なぜ悪口を言われて迫害されるのでしょうか。それは、皆さんに心情がないからで、心情を探すためなのです。愛を探すためです。そのような人たちを愛することができる人になるためなのです。
 皆さんがこのような訓練過程を経ないことには、いくら天の人になろうとしても駄目なのです。言い換えれば、サタン世界の愛以上の愛を、自分が見つけなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。愛を探し求め、天国に行こうと、そうするのです。愛を探し当てた人が、天国に行くのです。
 その時の審判主は誰でしょうか。神様が審判主になり、イエス様が審判主になり、先生が審判主になるでしょう。ですから、実践をしなければなりません。これが、我々の当面の課業であり、神様の命令だという事実を知るべきです。(103-236,1979.3.1)


 ②天国に行くパスポートを準備せよ


 誰にも最後の日が来ます。サタン世界で最後の理想世界を立てるためには、あらゆる体験をして、そこに合格しなればいけません。天国に行くパスポートをもたなければなりません。パスポートをもらった個人と家庭と国家がたくさん現れなければなりません。パスポートをもった国家があってこそ、神様が天地を任せることができるのです。本来の創造理想です。
 パスポートは、サタンを追放するのです。サタンは来れないというのです。生活の中で、サタンが関係しません。サタンの干渉を受けないようにするには分立しなければなりません。個人分立、家庭分立、氏族分立、民族分立、国家分立、世界分立、天宙分立までしなければなりません。「統一原理」でサタン分立歴史を習ったでしょう? 何をもって分立するでしょうか。蕩減の道を通じて分立しなければなりません。
 学者も大統領も、例外ではありません。蕩減の道は、探して行かなければなりません。蕩減の道は、教えてもらって行く道ではありません。自分が探して行かなければなりません。これをしないと、地獄に行くのです。地獄の鎖が、皆さんの目に、鼻に、考えに、みな引っ掛かっているという事実を知るべきです。これは脅迫ではありません。堕落ということを、ひっくり返すために必要なことなのです。
 白い紙に書いてある文を消すのは、どれほど大変ですか。サタンが書いた文字を消すのは、インクの字を消すよりも難しいのです。それを消すには一度死んでから生き返らなければなりません。生きているとは名ばかりで、死んでいるということを知るべきです。これが残っている限り、サタンが、「私のものだ」と言うのです。それでイエス様は、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。(129-183,1983.10.30)


 霊界には、イエス様とか孔子、釈迦のような立派な人たちがいます。聖賢たちも多く、偉人たちも多く、立派な人たちが多いのに、何をもって上がっていきますか。またそこには、ローマの迫害時代に殉教して死んだ人がどれほど多く、公的に犠牲になった人たちがどれほど多いでしょうか。それなのに、何をもって、どのように上がっていきますか。ここでは、アメリカの軍隊のある小隊に入るには、証明書があってこそ入ります。それなのに、霊界という高次元の立場まで踏んで上がることができますか。数千億が集まって、時間と空間を超越して眺めているのに、「あの人は歓迎する」と言われるほどになりましたか。皆さん、自信がありますか。霊界は距離がありません。彼らは、皆さんが上がっていくのを見守っているのです。それなのに、どのように上がっていきますか。そこを通過するためには、証明書が必要です。証明書がなければ通過できません。「私は文学博士の学位をもって行く」と、そのように言って行くことができますか。それは、霊界のトイレの紙くずほどにもなりません。
 私がなぜ、この堕落世界、悪なる世界の反対を突き抜けて、上がっていかなければならないのでしょうか。証明書をもらうためです。俗世間的なことではありません。私が俗世間に進出したならば、誰にも引けを取らないほどに出世をしたことでしょう。そのような能力をもった人です。(146-330,1986.8.10)


 イエス様は、天国は相続しましたが、この世は相続できませんでした。では、この世は誰が相続したのでしょうか。カインが相続しました。それゆえこの世は、カインの国です。ですから、アベルは天国を相続したのちに、この世のカインが保証する証明証をもらわなければなりません。天国に行くには、サタンの証明証をもらって行かなければならないのです。
 堕落人間は、この二つの原則に引っ掛かっているのです。このような原則が解けなかったために、今までの6000年の歴史が、繰り返しの連続だったのです。しかし、今、分かったのです。聖書を見ると、「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)というみ言があります。それが分かったのなら、歯を食いしばってでも愛さなければなりません。どの程度まで愛すべきでしょうか。怨讐であるカインまで愛さなければなりません。(34-278,1970.9.13)


 人間の堕落は、神様の立ち会いのもとでなされたのではなく、サタンが主体となってなされたので、堕落圏から逃れるには、サタンを屈服させなければなりません。「サタン、こいつ! お前と組んで私がこのようになったから、お前を屈服させて、私は帰る」と言うべきです。それで、サタンを屈服させた証書をもらわなければ、神様の愛を受けることはできません。イエス様も三大試練で勝利しました。歴史的に勝利したというサタンのサインをもらわなければ、天国に行くことはできないのです。どのようにしてでも、サタンのサインをもらわなければなりません。イエス様がサタンから三大試練を受けて勝利したとき、その立場でサタンが涙を流しながら、「あなたと私は永遠に違う」と認めました。(24-337,1969.9.14)


 カインを屈服させるためには、終わりまでカインを愛し切らなければなりません。そのような人でなくては、カインを救うことができないのです。皆さんが天国に行くには、サタンの証明証をもらわなければなりません。サタンの証明証とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。このような立場で見るとき、サタンは検事であり、神様は判事であり、イエス様は弁護士です。
 サタンが、「お前はこれこれこのようにしただろう?」と言って、さっと罠にかけて神様に、「この人は、このようにしなければならない!」と言えば、神様もどうすることもできないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、「神様、この人の先祖はこのようなことをしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてやらなければなりません」と言うのです。このようなことをしてきています。
 それゆえ、皆さんが天国に行くには、サタンの証明書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。それで統一教会は、そのようなことをしようというのです。反対する人を怨讐として対すべきなのにもかかわらず、愛さなければならないとは、あきれたことです。怨讐を愛せというのです。彼らのために福を祈ってあげなければならないのです。そのようにしなければいけません。カインとアベルが一つにならなければ、復帰ができないのです。父母に帰ることができないのです。(48-316,1971.9.26)


 キリスト教は、歴史時代に数多くの人々と共に、悲惨な運命を開拓しながら、真のオリーブの木を探す歴史を経てきたのです。真のオリーブの木は、すなわち神様の息子です。その息子が来れば、その方のエキスを受けて、枝をもらわなければなりません。その枝に自分を接ぎ木しなければならないのです。そのようになると、歴史時代のすべての先祖たちが蕩減条件を提示して、サタンに引っ掛かって倒れ、今まで結ばれている歴史的な条件が、その場で全部なくなるのです。沃土、暖かいねぐらのような基盤ではなく、砂利の多い土地のような所で、接ぎ木されるというのです。今までサタン世界にない本性を備えたので、神様の息子になり得るという証明書を、サタンからもらわなければならないためです。それは神様がしてくださるのではありません。神様が思い通りにしてくださるなら、6000年前にすべてして下さったのです。
 刑務所から出てくるために、判事が公認してくれるのではありません。では、誰がしてくれるのでしょうか。検事が公認してくれるのです。公判廷では、検事はサタンです。それゆえ、裁判の場で検事の公認を受けなければ出てくることができないのです。それゆえ、サタンの公認を受けなければ、神様は「お前は私の息子だ。私が生かしてあげよう」と言えないのです。必ずサタンの公認を受けてこなければならないのです。皆さんは、サタンの公認を受けましたか、受けていませんか。サタンの公認を受けなければなりません。
 統一教会は、何を教えてくれる教会でしょうか。サタンから公認を受ける方法を教えてくれる所です。サタンから公認を受けるといっても、霊的にだけ公認を受けたのではいけません。霊肉を合わせた実体として公認を受けなければならないのです。(17-124,1966.12.11)


 天国に行くパスポートを、何もせずにもつことはできません。ただ、座って、試験も受けないで、論文も書かずにもらった学位は、偽物です。統一教会にも本物と偽物がいます。正確な尺度で測ったのちにこそ、本物になるのです。(129-186,1983.10.30)


 天国へは、どんなにきれいで純粋な心をもっていたとしても行くことができません。天国に入る手続きを踏まなければなりません。登録をするには、資格証を出すべきでしょう? いくら「私は絶対的に純粋な心をもった純粋な人である」と言っても、天国に行けないのです。通過し得る形式がなければなりません。
 滅びゆくこのアメリカに入るためにも、ビザとか何とか、どれほどややこしいですか。天国に入るのは、アメリカに入ることよりも難しいのです。
 あらゆる法の手続きを踏まなければなりません。それを学ばなければならないのです。それゆえ、統一教会でなく、統一大学です。天国の大学だというのです。ですから、先生が地上で指示したすべてが、あの世に行く時において条件になるのです。これができなくては行けません。
 このように言えば、先生を見て「何もしないで命令だけするのではないか」と言うおしれませんが、先生はそれをみな実践して命令するのです。する前に言っているのではありません。なぜでしょうか。真の父母なら、教えてあげなければならないからです。先生は相談する相手がいないのです。アメリカの大統領にも、復帰摂理について相談できません。ここにドクター・ダーストが来ていますが、復帰摂理路程を相談できないのです。相談するようになれば、天使長が讒訴するのです。天使長は、人間を堕落させた張本人です。それゆえ、神様と先生以外は知らないのです。
 今は、統一教会が世界の峠を越えていくのです。今は、統一教会を誰かがなくすことはできず、先生を誰も監獄にほうり込むことはできないのです。皆さんが今、結婚して、生活して、息子、娘を生むことは、忙しいことではありません。皆さんは、いつ死ぬか分かりません。行く途中に、車の事故に遭って霊界に行くかもしれません。ありとあらゆることが、たくさん起きるのです。いつ、どの瞬間に行くか分かりません。
 祝福された家庭が、これから霊界に行く問題を等閑視して、自分たちだけで面白く暮らして霊界に行くならば、統一教会の先生の前に出ることができますか。祝福を受けた家庭というものは、長成期完成級圏内にいるために、世界圏にまで上がることができていません。長成期完成級にいるために、世界を越えなければなりません。そのような過程にいるために、越えなければならないのです。先生が、霊界に行くことができる道をみな準備したのに、皆さんがしないでじっとしていたら、どれほど悲惨でしょうか。
 先生は無能な人ではありません。性格を見ても、誰にも負けない性格です。先生は、踏まれることを嫌いますが、踏まれても生きてきたし、反対されるのが嫌ですが、反対されて生きてきたのです。そのような基盤で、統一教会に入ってきた皆さんは、どのように行くべきかということがはっきり分かる人です。早く国と世界を越えていかなければなりません。皆さんは、お嫁に行くのが忙しいですか、暮らすのが忙しいですか、霊界に行く準備をするのが忙しいですか。
 自分が生きるということは、霊界に拍子を合わせるための準備です。誰もが、霊界に拍子を会わせて生きなければならないのです。我々統一教会を信じていった人たちが霊界に行くときには、先生が教えてあげた条件が、霊界の門前にしっかりと打ち込まれていて、皆さんに質問するのです。
 先生が今まで教えたことすべてが条件になって、書かれているのです。そこで答えられなければ入れないのです。中間ぐらいの霊界で待たなければなりません。そこで、先生が霊界に来るのを待たなければなりません。「先生が霊界に早く来たらいい」と待つのに、先生が霊界に行っても、先生が行く所に皆さんがすべて入れるわけではありません。(146-337,1986.8.10)


 「悪魔を追放しよう!」、これが先生の標語です。人類歴史の数多くの人々を蹂躙してきた悪党、サタンのしてきたすべての行動を、公儀の裁判長である神様の前に、検事となって讒訴しようというのです。我々が検事になって、悪魔サタンを讒訴しようというのです。そうすれば、悪魔が検事に屈服するでしょうか、屈服しないでしょうか。そこには弁護士がいません。悪魔には、弁護士がいません。しかし、人間には弁護士がいるのです。イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は、私の名を信じ、善なることをしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は、悪魔も連れていけないということは、悪魔と神様と協定した条約ではないですか」と言うのです。そうすると神様も、「そうだ」というのです。
 イエス様の名で善なる立場に立てた人たちは、悪魔が引いていくことはできません。それで、「イエス様を信じなさい」と言うのです。よく調べもしないで、イエス様を信じさえすれば天国に行きますか。私が霊界に行って、立派な牧師たちが地獄に行ってひれ伏して、「私は文先生がこのような方だとは知らなかった!」と言っているのをたくさん見ました。夢のような話です。皆さんの従う先生は、そのような人です。高次元の世界、5次元世界以上の理論をもっている責任者なのです。私に従おうとすれば、そのような内容を知らなければなりません。(149-98,1986.11.17)


 我々には、国がなければなりません。国はありますが、我々が行く国は、ほかの国です。その国の公認された市民権を新しくもらわなくては、天国に入ることはできないのです。公認された市民権をもった人には、サタンが東西南北を通じても、過去、現在、未来を通じても、讒訴しようとしても讒訴できないのです。(148-288,1986.10.25)

 

(2021.12.09:写経奉献)

 

3)霊界入籍

 ①天国市民が楽しむ自由


 女性が美人として生まれれば、間違いなく外的についていくのです。醜い女性は、外的に行くのではなく、内的に行くようになっているのです。
 外的に行けば行くほど、サタン世界に染まったサタンのぼろきれになりますが、内的に行くようになれば、神側に近づきます。内的に行くことができる人は、外的な側にも思いどおりに行くことができますが、外的な側に行った人は、内的な側に絶対来ることができないのです。
 では、統一教会の人たちは、どのような人になるのでしょうか。内的世界にも入ることができ、外的世界にも出ていくことができ、また、出てから入ってくることができ、東西南北を訪ねていくことができる人になるのが理想的です。内的世界が主体になって、外的世界を支配し得る人をつくろうというのです。
 外的世界は、悪が侵犯したために、その世界に行けば地獄に行き、内的な世界に行けば、善なる霊界である天国に行くのです。この外的世界と内的世界を自由に往来することができれば、地獄にも行くことができ、天国にも行くことができるということなのです。それを知っているがゆえに、「どこに行っても歓迎され得る人になってみよう」というのが先生の主張です。それが神様の主張です。
 神様は、地獄に自由に行くことができます。手続きを踏まずに行くことができます。また、天国の王宮に行くにも、手続きを踏まずに行けます。どこでも思いどおり行けるのです。(116-177,1982.1.1)


 ②霊界に行くときもっていく贈り物


 霊界の神様の前に行くときに、もっていく贈り物とは何でしょうか。お金でもなく、学士、博士の名誉でもありません。自分の愛する夫がいいとか、豊かに暮らしているとか、そのようなことではありません。そのようなものは贈り物にはならないというのです。そこには世界のため、神様のための愛をもっていかなければなりません。それが残るのです。ヨハネによる福音書第3章16節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様が世の中を愛するとあります。それで、ひとり子を与えてくださいました。ひとり子は、世の中を愛するために来た人です。
 それゆえ、愛を中心として信ずれば、滅びないのです。救われるのです。主人が世界を愛するので、世界を共に愛さなければならないということなのです。今日のキリスト教は、教派の名で全部分かれていきました。世界がどうで、神様がどうでということは考えもしないのです。自分の教派と自分の国だけを愛して滅びていくこのキリスト教を眺めるとき、我々は教派を超えて、国を超えて世界を愛し、神様を愛さなければならないのです。(98-329,1978.8.13)


 いくら殺人強盗だとしても、証拠物がないときは、判事でもどうすることもできません。強盗が、「私が殺人をしたのをいつ見たか」と言ってくれば、どうしようもないのです。しかし、証拠を突き付ければ、微動だにできません。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。賛美歌に「イエス、イエス、信じることは、もらった証拠が多い」という句があります。皆さんは、もらった証拠がありますか。もらったと威張って伝道に出るものの、そのようなものが証拠だと思いますか。そのような証拠をもって何をしますか。伝道して残った人もいなければ、何の関係もないということです。
 皆さんは、天国に行くときに贈り物としてもっていく物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんがもって行ったふろしきを開いて見せることができるでしょうか。大した物でもないのに開いて見せることができるでしょうか。統一教会がどんな苦労をし、皆さんがどんな苦労をしたというのですか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国のため、世界のためだと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。
 まだ行くべき道が残っています。霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行くのに、天国に行く時は、何も持たずに体だけで行くことができますか。
 皆さんは、統一教会の信徒として、神様からどのような使命をもらった者たちですか。皆さんは、神様の精兵として、神様の息子、娘として、結婚するようになれば、その家の中の家門を受け継がなければならないのです。そうするために、皆さんは暮らすようになります。独立性を育てなければならないのです。このような高潔な使命が、皆さんにあるのです。それゆえ、先生と毎日生活できず、離れていても、また、神様がいつも皆さんに直接命令しなくても、皆さんは、神様の管理圏で使命を賦与された人たちだということを忘れてはいけません。
 皆さんは、自身を絶対視しなければなりません。そうして、その絶対的な価値によってなされた成果が万民のものとして、後代の子孫のものとして、天上世界の宝物として、永遠に保障されるという決意をもたなければなりません。これが任命された者の責任です。その責任を果たせなければ、乞食よりもっとかわいそうです。乞食たちは時が来れば、もらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせてお粥も食べられないのです。
 このような責任を完遂するのに、神様が「10年間の間にせよ」と言ったなら、10年間、忠誠と精誠を尽くさなければなりません。歴史を輝かすことができる子女の道を、価値ある道として復帰してくる期間を、どのように短縮させますか。神様が計画した10年という期間を、7年に短縮させるためには、自分の汗が必要であり、自分の血が必要であり、自分の努力が必要であり、自分の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通じて、量と質をそこに補充しなくては、国家的で世界的な版図を吸収することはできないのです。統一教会の信徒たちは、このような責任を負って行く人たちにならなければなりません。
 そのような時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事はみな終わり、これからは装飾をする時代です。内部装飾は、主人の手が必要なため、私がいなければいけないのです。壁などは直接関係がありませんが、直接関係してくる、必要とされるすべての与件を備えるためには、必ず段階的期間が必要です。それゆえ、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。
 自分の生涯を、時期に合わせて計画し実践していかなければなりません。準備時代には、あらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。それでこそ、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「その精巧さにおいて、精誠を込めた度数がずば抜けている」と言われなければなりません。
 ですから、皆さんはみ旨の世界において、準備時代が来て「準備しなさい」という任命を受ければ、準備しなければいけないのです。その次には、実践時代が来ます。その時は、昼夜を問わず実践をしなければなりません。その次には成就時代が来ますが、その成就時代は希望が宿る時期なのです。(32-71,1970.6.21)


 ③三大主体思想と入籍


 心は、神様の代わりです。心は、烈祖、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は国王を代表するのです。ところで、これまでこの心を、どれほど蔑視し、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にある、真の愛の主体としていらっしゃる方の代わりであるその心が、この地上で、自分一人を収拾するためにどれほど犠牲になってきましたか。
 蔑まれ、引きずり回されながらも、人が悪い考えをもって明け方にどろぼうでもするようになれば、「おい、こいつ!」と、再び忠告するのです。皆さんがそのような心を、どれほど弄びましたか。心は、父母の代わりであり、師の代わりであり、主人の代わりです。心の世界では、公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりもよく知っています。第三者、証人は必要ないのです。
 父母の前で堂々とできない自分、師の前で恥ずかしい自分、国の君主の前で恥ずかしい自分、神様の前に恥ずかしい自分です。そうであるために、「悔い改めよ」と言うのです。本郷に帰るには、悔い改めなければならないのです。本郷では、神様を王として侍らなければなりません。神様は、宇宙の王であり、国の王であり、氏族の王であり、家庭の王です。
 神様は、宇宙の師であり、国の師であり、氏族の師であり、家庭の師です。神様は、宇宙の主人であり、国の主人であり、氏族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、「ため」にする愛、「ため」にして忘れることができる愛の本質があるがゆえに、この三大主体思想が天国を代表するのです。
 自分自身が、その三大思想を全部備えるなら最も理想的ですが、それを全部備えられなくても、真の父母の立場に立てば、師は右、主人は左に立つのです。それゆえ、この三つのうち、どの一つでももてばいいのです。真なる父母になるなり、真なる師になるなり、真なる主人になるなり、いずれか一つの立場だけにでも立つようになれば、天国入籍は問題ないのです。(209-154,1990.11.28)


 ④入籍の条件


 堕落とは何かというと、み言と実体と心情の因縁が離れていったことです。ですから、皆さんは、み言を知って、み言を実践しなければなりません。み言を実践するには、父母の心情を備えて動いていかなければなりません。蕩減復帰をすることができる実体的な行動を経た者となって、初めて祝福してあげることができます。口先だけではいけません。こうして、天の一族、言い換えれば、この国の生命体になるのです。
 我々の生命現象において、霊形体と生命体と生霊体があります。これらは霊界の反応的な現象なので、この世で霊形体、生命体、生霊体と同様の因縁を経るのです。生霊体になればそこに入籍して、自分の位置を見つけて入るのが復帰の路程です。ですから今からは、皆さんが入籍するのです。
 もしそのようにつながって入籍される場合には、皆さんがいくら過って、いくら失敗をしたとしても、サタン世界で立てた法をもっては、処理できないようになります。アメリカ人たちを韓国の国法をもって処理することができますか。国籍が違うのでできません。
 そのような圏内に入れば、その圏内の法だけが適用されるようになります。ですから、サタン世界の法は、いったん越えさえすれば、いくらどのようにしても適用されないのです。サタン世界の法が適用されないので、結局はこの地上の法をもってしては駄目なのです。それに相応する蕩減条件を立てればいいのです。そうすれば、地獄には行かないようになります。
 人は一度生まれたなら、一度は死ななければなりません。それは公式です。では、死んでからどこに行くのですか。統一教会員は、霊人体があるということを知っています。その霊人体は、育たなければならないのです。
 これから、皆さんに問題となることとは何かというと、時が来れば、全体が自分の自叙伝を書かなければならないのです。これからそのような時が来ます。統一教会に入って何をしたか、その記録の内容が何かというのです。ここにおいて、どこかの会社に就職して生活したといった内容は、何の条件にもならないのです。かえって、統一教会に入って会社にいたという事実は、恥ずかしいことです。今に、そういう時が来ます。
 これから、入籍が始まります。南北が統一されれば、入籍をしなければなりません。宗族的メシヤという言葉が問題なのではありません。その内容と事実が問題なのです。そのようなすべてのみ言の内容が、今後自分が永遠の道を行くための蕩減条件になるのです。あの世に行って、皆さんがその道を行くために、心で体恤しながらどれほど努力したか、努力だけでなく実績をどれほど残したかということが問題になるのです。
 救いの道というものは、今まで生きてきた、そのままの習慣的生活を通じて得ることができるものではありません。完全に蕩減の道を行かなければならないのです。救いの摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。それゆえ、再創造されるためには、堕落する前と同様に、本然の位置、ゼロの位置に帰らなければならないのです。
 そこには、意識もなく、習慣もなく、金氏とか李氏とか、自分の姓もないのです。そのようなゼロの位置に帰らなければなりません。天の創造本然の基準から見ると、造られたすべての万物は、ゼロから出発したのです。
 ところで、人間が堕落することによって、天国に行く途中、その道に反することが人間世界にあふれているのです。これを切ってしまわなければなりません。それは言葉ではできません。すべての民族が、サタンの愛を中心として、サタンの生命、サタンの血統と因縁を結んで歩んできた歴史的な文化背景の中で、習慣性、あるいは風習が混在してあふれているために、これはそのままでは除去できないのです。
 聖書は、「死なんとする者は生きん」と言いました。逆説的な論理がそれで成立するのです。死のうとしてこそ生きるのです。自分の生命を投入しなければならないのです。
 それで、このすべてを洗濯すべきです。言い換えれば、蕩減して、復帰しなければならないのです。そのような過程が、絶対に必要なのです。堕落世界で所有していた習慣性とか、罪悪性が残っている限り、神様と関係を結ぶことはできないのです。(213-97,1991.1.16)


 皆さんが霊界に行くとき、1週間以上神様のために断食ができなければ、あの世に行って入籍ができません。なぜでしょうか。神様は、6000年の復帰歴史路程で苦労されたので、それを考えながら断食をしなければならないのです。それで、統一教会では、七日断食期間があります。それは、皆さんを苦労させようというのではなく、神様の前に肉身を打ったという条件を立てさせるためなのです。(17-183,1966.12.18)


 我々はどのように暮らすべきでしょうか。その方法は、個人は家庭、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界、世界は天地、天地は神様のために、神様の愛のために生きることです。このように生きて死んでいくのです。我々は他の人たちとは違うのです。伝統がしっかりと立っているのです。なぜそうでしょうか。伝統を立てなければ、あの世に行って入籍する所がありません。あの世がそのような組織になっているので、そこに合わせなければ、入籍することができないのです。堕落していない本来の人として再現して、入らなければなりません。そのような人にならなければ、入れません。これが原理観です。(131-56,1984.4.1)


 皆さんは、天国に入籍をしなければいけません。アブラハムは、神様の近くに行くため、祭壇の上に自分と共に万物を捧げました。万物を失ったために、それを復帰の条件とし、人を失ったために、アベルの位置に立って、万物をアベルの立場に立ててカインに条件を立てさせ、神様に捧げるのです。そのようにして初めて、神様は受け入れてくださるのです。(15-153,1965.10.7)


 皆さんが入籍するのに先立って、絶対的人間として生まれるためには、どのようになるべきでしょうか。これをはっきりと知らなくては、絶対的に完成品に代わり得る位置、すべてに勝ち、自分の主体性を天の前に主張することができるその位置を訪ねていくことができないのです。
 我々人間は、神様を中心として生まれました。どこまでも出生の動機は、創造主です。創造主によって生まれたのです。創造主の何によってできたのでしょうか。これが問題です。創造主がダイヤモンドが好きで、ダイヤモンドを任せるために我々を造ったのか、権力が好きで、権力を相続させるために造ったのか、知識が好きで、すべて知識を伝授するために造ったのでしょうか。始まりの起源、出発の起源とは何でしょうか。これが問題です。
 絶対的な神様が起源となり、その方によって内的に因縁を結んで生まれた私を主張したとしても、これから本郷の地に帰るプログラムを正確に知らなければ、その進行上のすべては未完成として結論づけられるようになっています。
 私の出生の動機は、どこまでも我々の父母によるのです。父の生命、母の生命が、私を織り成し、出生させたのですが、二人の内外の人格を伝授することにおいては、生命同士がぶつかって出てきたのではないというのです。生命に先立って、このことを連結する根元的な作動があったのですが、その作動の動機が何かというと、愛だというのです。生命が貴いか、愛が貴いかという問題をめぐって考えてみるとき、生命は第2の位置にあるのです。愛が第1の位置です。(177-305,1988.5.22)


 入籍のために本郷の地に行くべきですが、本郷の地に帰ることは簡単ではありません。手続きを踏んで、完全に合格しなければなりません。どの窓口に行っても、どの地へ行っても、大韓民国のどこへ行っても入籍することができる窓口があります。そこへ行けば甲という人、乙という人、丙という人、ありとあらゆる男女が入り口に座っていても、その人が判を押してあげなければならないのです。(177-310,1988.5.22)


 ⑤霊界の族長になる人


 神様と一つになったなら、カインを愛さなければなりません。神様の愛を受ける立場に立ったなら、心を尽くして、命を尽くして、思いを尽くして神様を愛するのと同じように、氏族と民族と国を愛さなければなりません。これが地上の第一の戒めです。天国の戒めではなく、地上天国の戒めです。天上天国の戒めは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)ということですが、地上天国の一番の戒めは、「あなたの心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くして、あなたの国とあなたの民族を愛せよ」ということです。
 それゆえ、神様の愛をどのように植えつけるか、神様の権能と天国の畏敬性にどのように因縁づけるかということが問題なのです。そうするには、自分を中心として、横的に広がった舞台をもたなければなりません。そのような人が、霊界に行って、神様の威厳を永遠に相続することができる支派長や族長、祭司長になるでしょう。(34-70,1970.8.29)


 これから神の国を中心として、入籍時代が来ます。14万4000の群れに入るというでしょう? 14万4000とは何か分かりますか。入籍時代に向かっていくには、自分の氏族圏が、天国の故郷の地と同じ立場にならなければなりません。それでこそ天国の入籍時代に、氏族的に入籍するのです。
 個人の救いの時代は、過ぎるのです。一国の大統領が、統一教会に入教して宣誓すれば、その人たちも天国の眷属になり、教会が提示する礼式を経てさえいけば、みなサタン圏から脱するのです。(219-100,1991.8.25)


 いつか我々が考えるべき重要な問題は、自分の体と心を統一して、妻と一族を結ばなければならないということです。体が蘇生なら、夫婦は長成、氏族は完成です。それゆえ、皆さんの氏族を一つにしなければなりません。
 南北統一されれば、その次には、入籍が起こります。そのような時代に、恥ずかしくないように、同参することができなければなりません。その時は、皆さんが統一教会に入ってきた以後の歴史を、みな記録しなければなりません。間違っていれば、あの世で引っ掛かります。何をしたかというすべてを、一つ一つ明らかにしておいて、それを踏んで越えていくとき、この事実が自分をつかむようなことがあってはいけません。讒訴条件にならないように、記録を残しておいて越えていってこそ、初めて入籍時代に入るのです。(213-206,1991.1.20)

 

(2021.12.10:写経奉献)

 

 

■天聖經(34) 第5巻「地上生活と霊界」 第5章 メシヤと霊界

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第五章 メシヤと霊界

1)イエス様と霊界

2)再臨主と霊界

3)真の父母と霊界

4)先生と霊界

5)真の父母の家庭と霊界

 

 

1)イエス様と霊界

 イエス様は、洗礼ヨハネの使命を果たす路程で、十字架を背負って亡くなられました。それで、息子の使命を果たすことができませんでした。イエス様は亡くなられたのち、今までどのようなことをされたかというと、天使長を探されたのです。天使長を探したのちには、息子の道を行かなければならないのです。それゆえ人間は、僕として行くべき道と、養子が行くべき道を探すのです。イエス様は、直系の息子の使命を果たせなかったのです。天使長の道、僕の道、養子の道を行ったのです。
 それゆえ、イエス様を信じても、せいぜい養子にしかなれないのです。この養子は、血筋が違う立場にあるカインと同様の存在です。血筋を連結しない因縁は天使長レベルです。今まで摂理歴史は、その血筋を連結するための闘いをしてきているのです。
 イエス様は、十字架で息子として死んだのではありません。イエス様が霊と肉が一つになった息子の立場で、神様に勝利をお返しする立場で祭物になっていたなら、再臨する必要はありません。完全に捧げられませんでした。半分しか捧げられませんでした。体は失ってしまい、霊だけ捧げられました。これでは、霊界の天使世界と似たり寄ったりです。
 それゆえ、キリスト教を信じていく人たちは、天国に入れず、楽園レベル以下の霊界に行って待つのです。楽園レベル以下の霊界は、天使長が支配する霊界、すなわち天使長圏に該当するのです。
 それゆえ霊界で勝利圏を保障されるためには、地上に勝利圏をつくっておかなければなりません。それを継承させるのが、神様のみ旨であり、イエス様が来ては逝かれたみ旨であるために、キリスト教は霊界の勝利圏と地上の勝利圏を一遍に探して立てて、天使長圏を継承しなければならないのです。これがキリスト教の使命です。キリスト教では、実体的完成があり得ません。霊的完成だけがあるのです。それゆえキリスト教は、霊界を主にして来たのです。
 再び来られる主は、霊界の天使長圏を屈服させ得る権限をもたなければなりません。それがなくては、地上での出発をすることができないのです。再び来られる主は、イエス様が洗礼ヨハネから継承したように、霊界で勝利したイエス様以下の霊的世界全体を継承する立場で来なければなりません。洗礼ヨハネが、イエス様に霊的な継承はしましたが、その約束どおりには実践できなくて、分かれました。それで、これを再度なすために、キリスト教を立ててきたのです。(47-157,1971.8.28)


 イエス様は、この地で十字架で亡くなったことだけでも無念なのに、死んで三日間地獄に行っていました。それが試験です。人間には、死が最高の恐怖なのに、イエス様には、地獄に行くことが最高の恐怖だというのです。ではイエス様は、その地獄で恐怖の主人になったのでしょうか。イエス様は地獄に行って、三日間、苦痛を克服するための試練がありました。(34-144,1970.8.30)


 神様は公平であられるので、メシヤは平等な思想をもって人類を訪ねてくるのです。メシヤは、堕落した人間を全部救うための救い主として来るために、どんな人間にも公平に対してくれます。公平な目的と、公平な時代的環境を持って来ます。それゆえメシヤと一つになる人は、メシヤの弟子になることができます。
 メシヤは、人間世界の一番底の地獄から、一番栄光の立場まで行くという言葉が成立します。人類の救いのために生命を差し出して、行かない所がないという結論が出てきます。
 このような原理で見ると、メシヤが雲に乗って空中に来るというのは、全く荒唐無稽なことです。真っ赤なうそです。そのように言う人は、霊界に対して何も分からない人です。先生の教えることが事実であるか否か、霊界に行ってみなさいというのです。死んでみれば分かります。メシヤは、そのような公式によって動きます。
 なぜ、霊人たちが人間の世の中と接しようとするのでしょうか。これが今まで分かりませんでした。それはどうしてですか。地で解決しなければ完成の道を解決できないからです。優れた人も、劣った人も、この法度にみな引っ掛かっているのです。
 このように、メシヤと共に霊界を全部開いていくのです。これをなすには、地で相対的関係がなされなければならないのです。
 ですから、メシヤの個人時代があり、家庭時代があり、氏族時代があり、世界時代があります。これが、霊界までつながるのです。地で個人の勝利基盤、家庭の勝利基盤、氏族の勝利基盤、民族の勝利基盤、国家の勝利基盤、世界の勝利基盤まで築かなければなりません。
 このために、すべての霊界を地上に動員するのです。中心を探していくためには、メシヤが世の中に来て、苦労しながら行かなければなりません。苦労しながら個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を順番に復帰しなければなりません。それで今、人々が一つの目的点を、一つの世界を探して入るようになります。(91-278,1977.2.27)


2)再臨主と霊界


 再臨主は、第3イスラエルだけではなく、第1、第2イスラエルの先祖として来なければなりません。統一教会員は、イエス様当時の第1イスラエルが疑ったのと同じ立場を越えて、父の心情を通じて、父の腹の中にある子女のような立場に立つべきです。
 再臨主は、霊界を収拾しなければなりません。霊界を収拾することによって、第1イスラエルを立てた基台の上から出発しなければなりません。霊界にいる人たちは、真の父母と因縁をもつことができないので、この過程を経なければなりません。霊界には12支派型がありますが、第2イスラエルになるべきキリスト教は、支派を編成する中心を失いました。ゆえに、統一の理念を立てて、支派編成をしなければなりません。(10-218,1960.10.14)


 神様は無形なので、霊界に行っても見えません。それゆえ神様は、体をもった父にならなければならないのです。
 体をもった父になることによって、無形と有形が一つになるのです。それは、宇宙が一つになることを象徴します。
 神様は、体をまとうために、アダム、エバを造りました。体をまとえるようにすることは、愛だけが可能なのです。愛があってこそ、神様の形状に似た体を備えるようになります。
 アダムとエバが神様の体を備えれば、彼らの心の中に神様がいらっしゃって、地上世界と無形世界を統治するというのです。神様の王宮を造るのです。
 神様の王宮は、愛の王宮だというのです。愛を中心としてのみ、霊と肉が合わさるようになるのであって、他のものをもってしては合わさることができません。(143-93,1986.3.16)


3)真の父母と霊界

 ①肉身の父母と真の父母の違い


 肉身の父母と真の父母は、愛に対する概念が違います。肉身の父母は、肉身を中心とした愛を教えてくれて、真の父母は、霊的な世界を中心とした真の愛を教えてくれます。
 肉身の父母だけでいいのに、真の父母がなぜ必要ですか。堕落したためです。今まで堕落した父母は大きなものをみな取ってしまい、自分を中心として絶えず下っていくことを教えました。
 それゆえ、父母の愛を中心として、このサタン世界に永遠にいるようにさせるための、一つの決定的な線が引かれましたが、これを断つすべがありませんでした。
 では、真の父母とは何でしょうか。このような基盤から上がれば上がるほど、だんだん大きいことを教えてあげるのです。天国、永遠の国に行って拍子が合うように、呼吸に支障がないように教えるのです。
 肉身の父母から教育を受けた人が霊界に行くと、壁に覆われたような片隅に行って、閉じこもっていなければなりません。(壁の外を)見回すと、みな自らを否定して人のために犠牲になりたい人たちだけがいるので、窒息しそうなくらいに苦しいのです。
 誰がこれをつくったのでしょうか。サタンがつくりました。それで、真の父母が来て解放してくれるのを願っています。それを解放するには、そのまま解いてはいけません。反対に解かなければなりません。(129-99,1983.10.1)


 神様に帰るには、4次元の世界である霊界の訓練までも受けなければなりません。霊界を愛し、霊界と一つになる訓練場所が、神様を愛して、真の父母を愛する場所です。この地上で真の父母として霊界と実体世界に神様をつなげる使命を果たすために、メシヤが来るようになります。メシヤの使命は、それしかないのです。メシヤは本当に我々を愛し、その誰よりも我々のためにしているのです。
 メシヤ、すなわち真の父母がこの地に来る前までは、霊界が全部分かれていました。世の中が一つになっていないのと同じです。このように多い塀を、真の父母が実体をもって全部崩していくのです。そうしてこそ通じるのです。それで真の父母は、肉身世界だけでなく、霊界を代表するのです。
 初めて真の父母に侍り、絶対的に愛することによって、霊界と通じる道を築くことができるのです。メシヤの前に絶対服従することによって、霊界のある霊人にも絶対服従したという条件を立て、神様の命令の前に絶対服従したという条件を立てるようになるというのです。神様の代身である真の父母に絶対服従すべきだというのです。それはなぜ、そうすべきなのでしょうか。天国の民と一つになり得る伝統を立てるためです。
 真の父母になぜ侍らなければならないのでしょうか。真の父母が、霊界と神様を代表しているからです。真の父母と心情的な絆を結び、真の父母が愛の中に結んでおいた心情的な勝利圏に同参できる資格を得るためです。(105-112,1979.9.30)


 ②真の父母が軸である


 真なる父母がどこにいて、真なる兄弟がどこにいて、真なる家庭がどこにあり、真なる社会がどこにあり、真なる国家がどこにあり、真なる世界がどこにあるのでしょうか。それがなければ、不幸の中から出て、不幸の中に行く人生ですが、これが本然の人生の道ではありません。
 それゆえ、真を探し、身もだえしてもがくのが我々の人生です。これは、今まで宗教や哲学を動員して、いくら解決しようとしても解決できないのです。これを人間の力で解決することはできません。(159-282,1968.5.19)


 我々は、真の父母と世界を一つにしなければならないのです。神様の心情で、霊界の軸と地上の軸が真の父母と一つにならなければなりません。霊界でも地上でも真の父母というのは、中心から抜くことはできません。
 悪なる父母が生じることによって、横的な面で戦いが起こり、二つに分かれました。また、縦的な善の神と、悪の神の世界に分かれました。偽りの父母が生じ、このようになったので、ここに真の父母が来ることによって、これらが授け受けするのです。偽りの父母によって堕落が生じたので、これに対峙するためには真の父母が出てこなければなりません。真が出てこなければならないのです。(149-279,1986.12.7)


 ③真の父母中心


 民主世界は右翼を代表し、共産世界は左翼を代表します。これらが今、崩れていっています。アメリカも同じです。両世界には中心がありません。今、必要なのは、「頭翼思想」と「神主義」です。どのような人道主義も、神様の前に立つことはできません。神様だけが絶対的であり、永遠のセンターです。「頭翼思想」だけが、全人類の中心になり得ます。
 「真の父母主義」は、真の霊界と肉界の中心になります。頭翼思想と神主義は真の愛を中心として見るとき、すべて同様の概念です。(205-263,1990.9.9)


 真の父母を必要とする限界線とはどこでしょうか。これには限界線がありません。世の中もそうであり、霊界もそうであり、どこでも永遠なのです。ですが、アメリカの大統領の限界線とはどこでしょうか。4年から8年後になれば、転がり落ちます。しかし、真の父母は転がり落ちません。限界線が違います。アメリカの大統領は、4年から8年にさえなれば、荷物をまとめて辞任しなければなりませんが、真の父母はそのようになっていません。
 この地上世界だけが真の父母様を必要とするのではなく、霊界も同じです。どうしてでしょうか。そこには、地上で愛をもって暮らした人が行って宮殿をつくらなければならないのに、そのような人がいないのです。愛の宮殿は神様もつくれずに、霊界の人もつくれないのです。真の父母様がつくらなければなりません。
 霊界において、愛の宮殿は真の父母から始まるのです。霊界に宮殿があっても、真の父母が行って「ここを宮殿にします」と言って宣布すれば、それを中心として全霊界が落ち着くのです。そのような責任が残っているために、霊界でも真の父母を絶対に必要としています。(205-255,1990.9.9)


 ④真の父母と結ばれた因縁の強度


 「真の父母」は、人類が探すべき真なる父母です。その真の父母がいることによって、真なる善が成立するのです。真の父母とは、どのような方でしょうか。神様と共に行くことができる一つの足場になる方です。真の父母とは、「人間と神様との間隔とくぼみを埋めるための一つの祭壇であり、死亡世界を越え得る橋である」と言うことができるでしょう。その立場は、神様と自分が共にいることができる立場であり、神様と父子の因縁を結ぶことができ、神様と一体をなし得る一つの焦点です。すなわち、堕落によって分かれた神様と再び一つになることができ、分かれた二つの境界線が一致し得る一つの起点になります。蕩減の祭物の立場に立たれた方が、真の父母なのです。
 我々が切迫して神様を呼ぶとき、神様が千年の事情をみな忘れて、自分と因縁を結ぶことができる立場があるなら、その立場は世の中のいかなるものとも換えられない立場です。
 神様と共にいることができず、神様と因縁を結ぶことができない人類が、自由な環境で神様と因縁を結ぶことができるよう神様が送って下さった方が、真の父母です。
 では、真の父母との因縁を無条件に自分に結んでくださった神様に、何をもって感謝しますか。皆さんは、どれほど感謝を捧げましたか。そして、皆さんが救われるようにしてくれた、その恵みに対して、歓喜で和合しながら勝利を誓わなければならない自分だということを、どれほど考えてみましたか。無限の希望をもって、無窮の価値をもって、再出発するという考えを、どれほどしてみましたか。これが問題です。
 息子、娘を探してこられた歴史的な願いが、真の父母を通じてなされるということを御存じの神様が、その真の父母をどれほど憧憬してこられたか! それなのに、真の父母を憧憬する基準と、死亡世界で救いを憧憬する我々の基準を比較してみるなら、我々は真の父母を神様よりもっと貴重に思って、神様よりもっと貴く思って、神様よりもっと価値があると感じるべきなのに、今までそうできませんでした。
 人間が真の父母と共にいることができ、真の父母と因縁を結ぶことができ、真の父母と再会することができる立場を、神様がどれほど期待なさるでしょうか。そのような立場に自分が至り、「そのような勝利の基盤を自分が築こう」と言えなければなりません。どのような困難があっても克服し、その立場を自分の生涯の価値を左右する転換点とみなし、また、その因縁を自分の生涯の原動力にしようと、どれほど誓うかが重要です。このように見るとき、我々がどれほど偽りであり、流れていく風の便りのように落ちつ着かず、彷徨するのかを悟らなければなりません。
 神様と共にいることができる自分になっているのでしょうか。そうではありません。救い主が必要なのです。救い主は、どのような方でしょうか。真の父母の因縁を備えた方です。このように見るとき、この真の父母の因縁とは、どれほど驚くべき因縁ですか。真の父母によって、自分の真なる一生が始まるのであり、新しい生命が因縁づけられるのです。この生命の因縁によって、新しい家庭が出発するのであり、新しい社会と国家と世界が出発するのです。そして、2000年のすべての生死の道を解決する勝利の与件が備えられるという事実を、悟らなければなりません。
 そこには自分がないのです。神様は、堕落した世界を救うために受難の道を歩まなければならない方ではありません。堕落した世界に対すべき神様ではありません。神様は真の愛の因縁をもって出てこられる方です。新しい希望と、新しい復帰の基盤を備えて来られる方です。そのような立場で、神様と自分の因縁が結ばれるのです。四方が一致し得る因縁が、一つの起点からつながって、死亡の世界を爆破して、新しい光明の天地の基盤を持つようになるのです。このように、父母と子供の間の因縁が実現することによって、世界は新しい出発をすることができるのです。
 真の父母と皆さんの因縁は、どのような剣や、権力をもっても断つことができず、サタンの力でも断つことができません。なぜでしょうか。この因縁は、今日のすべての問題を突破して、人間たちを救うことができる勝利の特権を持っている因縁であり、人間たちが歴史的に願ってきた力が結集している本拠地だからです。ある一時代的な力を結集させては、歴史的な力が結集したこの関係を断つことができないのです。このように、すべての悪を除去して、新しい因縁を備えて、勝利のための出発点に神様が歴史的な祭物として立てた方が、真の父母です。
 神様が深刻な立場にいらっしゃるならば、私も深刻な立場に行き、神様が苦しい事情にいらっしゃるならば、私も苦しい事情にいなければなりません。父の事情が、私の事情として感じられなければならないのです。子としての道理を果たし、神様を慰めてさしあげる人がこの地に出てこなくては、歴史的な問題を解決する道はありません。
 我々は、限りなく難しい立場に立っても、神様の同情を願うのではなく、神様に同情してさしあげるべきです。そのような因縁に従ってきた歴史の結晶体が、イエス様でした。しかし、イエス様がみ旨を成せなかったために、再び来られる主が、そのみ旨を成さなければなりません。再び来られる主も、その道を行かなければなりません。真の父母は、歴史的な希望の集約体です。神様が、全体に代わる歴史的な実体として立てた方が、真の父母なのです。
 真の父母との因縁には、霊界からではなく、地上からつながらなければなりません。真の父母は、実体を備えて地上に来られるため、自分が呼べば答えてもらうことができ、自分が難しい立場にあれば、同情してもらうことができるのです。このように平面的な途上で真の父母に会うことができるということは、人間たちにとってどれほど幸福なことか分かりません。
 神様は、今までどのような困難があっても、それを克服して、決定的な勝利を収めようとされました。ここで、自分が勝利の王者になるか、なれないかということが問題です。その心情に一体となって、「離そうとしても離すことができない自身になった」と言えなければなりません。言い換えれば、神様と共にいるという信念、真の父母と共にいるという信念が、生涯路程の軸にならなければなりません。それで、我々が行く方向で動揺がなく、千年、万年持ちこたえ得る自我になってこそ、地上天国と天上天国がつながるのです。すなわち、天上の主人として臨むのであり、地上の主人として臨むのです。ここで初めて、天上天国と地上天国が開かれるのです。
 このような因縁は、楽な立場で結ばれるのではありません。難しい立場、それ以上ない深刻な立場、死ぬか生きるかというさなかにおいて、より一層冒険する立場で結ばれるのです。
 それゆえ、聖書を見れば、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。これは、イエス様の時代錯誤的な言葉のように思えますが、このように行くのが、復帰の道を行くにあたって、心情の世界を踏まえていくにあたって、正常な姿勢であり、正常な態度だといえます。このような境地を追求していく自分であることが明らかであるなら、自分の行く道は真なる路程になるのです。(31-74,1970.4.19)


 皆さん、今、40を越えて50になった人が多いのですが、「それまで何をしましたか」と聞くならば、何と答えますか。10年、20年以内に死ぬかもしれません。死を前にしたとき、み旨を知り歩んできた過程を振り返り、私が、悪魔の子孫として残った世界人類を復帰する責任を果たせないことによって、神様がまだ定着することができず、僕のように恨めしい仮面を脱げなかったと考えるとき、霊界に行ってどのように顔を上げるでしょうか。どのようにそこへ行って、自分の姿勢を備えていくことができ、どのように暮らしていくべきでしょうか。ただとどまっていなければならないのであり、そうでなければ、白日のもとに100パーセントがあらわになるのです。
 霊界に行かないということはありません。みな行くようになっています。何をもって行くでしょうか。貧しい家の娘が、自分のみすぼらしい姿だけ見ても一族の前に頭を上げることができないのに、婚礼家具も備えられず、その兄弟の一族だけでも、世話すべき人が100人近くいる中、4代が集まって暮らすお金持ちの息子の家に、入って暮らすことができますか。手ぶらで行って、その嘲弄をどうやって避けますか。「うちの伝統によれば、誰々はこうであり、おばさんは全部こうであり、うちの姉さんもこのようにこうこうして、みなそうなのに……」と言うようになるとき、そこで落第生のような身の上になって、顔を上げて座って御飯を食べることができますか。さじを持つことができますか。はしを持つことができますか。考えてみてください。
 仲間に入れなければ、いたたまれないのです。皆さんは、何を持っていきますか。「統一教会を40年信じたならば何を持ってきましたか」と言えば、何と答えますか。霊界は、ここよりひどい所でしょうか、良い所でしょうか。皆さんが死んだとき、行く所がここよりひどい所でしょうか、良い所でしょうか。千万倍いい所です。自分が、すべてのものを正確に測定できる世界です。
 霊界は、自分がどのような立場にいるかという、その悲痛さを実感できる所です。一段階上がろうとすれば、何千年、何万年もかかるのです。
 皆さんは、祝福という貴いものを受けたために、門は開いていますが、入っていける礼服を着ていないのです。祝宴を行う家には、礼服を着て行くべきです。新郎の付き添いに行くのに、労働服を着て行ってよいでしょうか。考えてみてください。そこに合う装いをしてその場に行ってこそ、その環境の歓迎を受けるのであって、そうできなければ追放されるのです。「こいつ、どけ!」と言うのです。
 昔、木浦に金持ちがいましたが、木浦の北部地方の土地が、全部その人のものだというほどの金持ちでした。ところで、先生の友達がその人の一人娘と結婚して、その家の婿になりました。その時は、日本の統治下だったために、結婚式をしても今のようにモーニングコートを着て、礼服を着て新式の西洋式の結婚はできませんでした。国防服を着て、胸に花を一つ差して結婚する時です。
 ところで、その人は、金持ちである上に立派な友達も多いので、新式の結婚式をさせました。その時、先生を含めて4人が新郎の付き添いに行きました。付き添いの服を新婦の家で準備したのですが、それらをすべて自分の婿と同じ背丈に合わせました。先生と新郎は背が同じですが、新郎は先生のようには体が太っていませんでした。
 ですから、会わせたワイシャツが、ボタンをかけても、へそがみな見えるのです。きつい服を着て背筋にひどく力が入ったので、あとでしびれてくるのです。その場で声を出すことができますか。壁のある所に行ってうつ伏せになり、しびれを解いたことを思い出します。
 全羅南道の名の通った人がみな集まったその大衆の前で、何千人が集まったその場面で、付き添い人としてそのように立っていたので、「ねずみの穴でもあれば入ったほうが楽だ」と思うほど、とても耐えられなかったというのです。
 仲間に入れないことは、そのようにいたたまれないことなのです。先生が霊界をよく知って、聖者たちだとか何だとか、偉いという教祖たちをみな知っているのに、その者たちに負けられないというのです。その仲間から外れてはいけないのです。(212-224,1991.1.6)


4)先生と霊界

 ①先生の霊的条件成立とその基盤


 完全なマイナスは、完全なプラスを自動的に生じさせ、完全なプラスは、完全なマイナスを自動的に創造するのが原則です。それがこの宇宙の創造原則であり、存在の法則です。それで、この地上で原則的で完全な運動をすれば、霊界がつながるのです。歴史始まって以来、このようなことが初めて起こりました。ですから、霊界で問題となることは、この地でも問題になり、それをこの地で解決すれば、霊界でも解決します。
 そうするたびに蕩減が必要です。先生は蕩減の道を、一人で責任をもって、歴史と宇宙、そして霊界と肉界の問題を解決してきたのです。どのような時に蕩減すべきかを知り、それが崩れる場合には、霊界がどのようになって、地上がどのようになるということを、はっきり知っているのです。
 聖書では、「あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ18:18)とあります。地で解くためには、蕩減が必要です。しかし、皆さんは蕩減の道を知りません。個人的環境での主体・対象蕩減時代、家庭的環境での主体・対象蕩減時代、氏族的環境での主体・対象蕩減時代を経て、民族的主体・対象蕩減時代、国家的主体・対象蕩減時代を経て、世界的主体・対象蕩減時代に行くべきです。これを皆さんは知りませんが、先生は知っているため、先生が言ったことがそのまま霊界に反応して現れるのです。(131-226,1984.5.4)


 天国は、地上の一番悲惨な所で成されます。地上の一番悲惨な所とはどこですか。監獄中の監獄、そこでも一番のどん底です。
 霊界と肉界の基盤を、統一教会の文先生が築きました。地獄のどん底、監獄のうちで一番悲惨な監獄から、霊界と協力しながら基盤を築いてきたのです。基盤を広げてくる過程で多くの反対を受けました。家庭でそうであり、氏族でそうであり、民族でそうであり、国家でそうであり、アジアでそうであり、世界の中心国家であるアメリカでもそうであり、全世界が反対しました。
 先生は、万民に道を開いてあげなければならないために、死刑囚とも友達になり、窃盗犯と手錠を一緒にはめて回り、共に御飯を食べながら彼らを慰めてあげました。この前は、ラスベガスまで行って、刑務所に収監された人たちのために祈祷をしてきたのです。ニューヨークのニューヨーカー・ホテルを買ったのも、これからニューヨークの一番の悪の巣窟から掃除をして、新しく基盤を築こうとしたからです。
 そこに行って、交わってあげ、慰めてあげなければなりません。そうしてこそ、各界、各層、サタン世界の滅びるべき人にまでも、その道を開いてあげ、道を築いてあげることができます。そうしながら、地上で道を築いてあげてこそ、霊界のふさがったものが開かれ、世界が一つになり得るのです。それゆえ、超民族的に黒人も結婚させてあげ、白人も結婚させてあげ、白人にも家を買ってあげるであろうし、黒人にも家を買ってあげるでしょう。このように先生は、世界にないことをしている人です。(91-160,1977.2.6)


 先生は、霊界で勝利しました。このことを誰ができるでしょうか。広く世界にいる数多くの修行を積んだ人たちは、これから先生の所に来て、習わなければなりません。間違いなく、そのようになるのです。それゆえ、一民族が反対し、世界の人類が反対しても、問題ありません。霊界にいる数千億の人たちは、全部先生の言葉を聞くのです。(13-50,1963.10.16)


 ②霊界に行く特許権


 文明時代の発展の要素は、大部分、特許権につながっています。ところで、特許権はみなそれぞれ異なります。服を作る特許権、何でも全部特許権です。特許権だけもてば、どこへ行っても世渡りすることができるというのが、世の中の実状です。霊界でもそのような法があるというのです。特許権は白人にだけ通じる、という法はありません。黒人は駄目で、アジア人は駄目だという法はないのです。どこに行っても、通じます。
 霊界に行ける特許権を取るために、歴史上に苦労した宗主たちと宗教人たちがたくさんいましたが、そのような宗教人たちの中で、チャンピオンの特許権をもった人がいます。
 霊界に行ける特許権をもった人は何によって判別されるのでしょうか。ここに集まったまだらなこの人たちが、全部一つになって、「どこでも上がっていく」と言うので、それでいいというのです。では、神様はどうですか。先生が、「駄目だよ」と言えますか。神様が、「先生のサインがなければ行けない」と言うかもしれません。
 アメリカの立派な大統領でも、いかなる王、いかなる聖者、いかなる宗主でも、「先生のサインが必要だ」と言うときは、全部頭を下げて先生の所に来ざるを得ないのです。
 博士学位を受けるには、その教授が足でけっても、「ああ、ありがとうございます」と言ってこそ、サインしてくれるのであって、そうでなければしてくれないのです。「私が鼻を見ても、顔を見ても、格幅を見ても、何を見ても良くできて、相撲をしても勝ち、御飯を食べてもたくさん食べ、何でも1等になり得るし、10も100もいいのに、それを一つくらい知らないといって、博士学位をくれないのですか」と言っても通じないのです。先生が、そのような霊界の特許権をもったかもしれないというのです。
 先生が監獄に行ったとき、よこしまなうわさが流れ、(先生のことを)誰もが滅びてなくなると思っていましたが、(先生は)今も生きて、堂々と大きなことを言っています。アンテナをもって、全部見て、聞いて、やって、知って、大きなことをどんどん言っているのです。
 神様も、先生のサインができているか、できていないかを見て、その次に決済するでしょう。先生のサインがあるかないかを見て、先生のサインがあれば「OK」と言い、ないときは「ノー」と言われるでしょう。
 言葉で言うのは易しいのであって、事実がどれほど難しいかということを、皆さん考えてみてください。先生が、もしそのような印さえもっていれば、これからの世界、霊界は、全部先生の手中に動いているのであり、この肉界は、いずれ一つの谷を行かざるを得ないという結論が出てきます。(134-17,1985.1.1)


 自然界は、真理に満ちているのです。皆さんは、霊界についてよく分からないでしょうが、先生は霊界の専門家です。そこは、21世紀ではなく、22世紀、30世紀になっても、先生がいなければ開門することができません。理論的に霊界を教示して、霊界を開門するにおいて体系的内容を明らかにしてくれた元祖が文先生だという名声が、永遠に残るでしょう。世界的に優れているという霊通人であっても、先生の所に来て、習わなければならないのです。それゆえ、先生が統一教会の教祖になったのです。世界のキリスト教を統一するというのです。先生の言うことさえ聞いたなら、既にみな統一されたでしょう。(203-325,1990.6.28)


 先生がアベルの立場で長子権を復帰して、一度宣布してしまえば、それまで霊界が地上を利用していたことを中断します。霊界が地上のために動くようになるのです。むやみに霊界に対して「これから地上に協助せよ、地上に屈服せよ」と言えば、そのようになりますか。内容もないのに、「こうせよ」と言えば、そのようになりますか。これはこうで、あれはああだということを説明して、それが可能になるようにしなければなりません。それでこそ南北が統一されて、東西が一つになり、みな収拾されるのではありませんか。(210-193,1990.12.19)

 

(2021.12.07:写経奉献)

 

 ③霊界の統一と地上世界統一


 霊界を統一しなければ、地上を統一させることはできません。では、霊界を統一した主人がいらっしゃるなら、地上の統一は問題でしょうか。それは難しくないのです。
 これから我々は、霊通する人まで主管しなければならないのです。今、霊界に通じる人たちの大将が先生です。彼らもここに来て、習わなければなりません。彼らは一方向しか知りません。それゆえ、霊界から教えてくれるといって、それを絶対視してはいけないのです。それを原理で解読して、方向をわきまえていかなければ、霊通人たちはサタンになりやすいのです。
 今は、霊界が先生を証し、先生についてきています。先生は、霊界の内容を専門的に知っているために、サタンだ何だということをよく分類して、今までここまで率いてくることができました。それで滅びないのです。
 霊界には、何千億の霊人たちがいます。それに比べて世界の人類は、あまりにも少ないのです。これから我々が国家基準さえ超えるようになれば、霊界を動員することができるのです。世界人類は、問題にもなりません。そのような時が来れば、我々の時が遠くないということを知るべきです。このように見るとき、世界はこれからどのようになり、共産世界はどのようになるのか、大体の輪郭が出てきます。(54-233,1972.3.24)


 あの世に行ってみると、殺人した者、殺された者、ありとあらゆる人が1箇所に集まっているので、そこでは刀を持って闘おうともするし、復讐しようともするのです。ですから、数多くの塀でふさがれています。
 それゆえ、悪なる霊たちが怨讐の子供たちの所に行って、急死するように事故を起こして連れていくというようなことが起こるのです。これを解かなければなりません。これを皆解くためには、地上世界で解かなければなりません。解くためには、もっと良いものを与えなければなりません。死ぬよりもっと良いもの、怨讐関係になったことよりもっと良いものをあげなければ解かれないのです。
 何を持って霊界を解放し、神様を解放するのでしょうか。このような関係は、人間の先祖がこれを結ばせて天上世界をめちゃくちゃにしたので、今日、後代の子孫は、先祖のすべての過ちを償わなければなりません。真の孝行者の伝統を受け継いだ子供なら、父母の借りを支払わなければなりません。父母が借りたものを支払わなければならないのです。
 そのような意味で、霊界の先祖のふさがった塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって、先祖たちがここに来て、皆さんに教えるようになるのです。これは夢のような事実です。
 先生は皆さんをさっと見れば、先祖がどうで何をやったのか分かります。悪なる霊人の子孫を見ると、真っ暗になります。その先祖の顔がさっと見えたかと思ったら、ふっと消えるのです。それゆえ、悪なる霊、善なる霊を分けるのです。霊界を結束しなければなりませんが、霊界を収拾できない人は、天下を統一できないのです。天運の根が天なのに、天を収拾できない人が、どうしてその結果をこの世の中の道理にして、世界を統一しますか。それゆえ、地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。(191-205,1989.6.24)


 皆さん、先生に夢の中で会ってみたことがありますか。みんな会わなければなりません。このような団体は世の中にありません。国もありません。なぜ、統一教会が世界的に成長しているのでしょうか。どこに宣教師として送っても、霊界を実感する生活をしなければなりません。
 どのようなことが起こるのでしょうか。宣教師は3カ月が過ぎれば、その国を離れて再びビザをもらわなければなりません。そうでなければ、その国にいることができません。それだけでなく、その国をたって、他の国に行くにも、自由にたつことができません。そういう時は、霊界が教えてくれます。「どこどこにある川を越えろ」とです。その川には、わにがたくさんいます。そのような川を泳いで越えれば、わにが丸ごとのみ込んで跡形もなくなります。そのような危険な所を通って、国境を越えていくようにするために、霊界がよく教えてくれます。「何時何分から、何時何分の間に越えればいい!」と言ってです。そうする以外に方法がありません。そのような命令を啓示として受けながら、行き来する宣教師が多いというのです。
 共産圏はすべて「神様がいない」と言って、神様の存在に反対する世界です。共産党は、どの国でもみんな宗教が入ってくると、それを撲滅します。そのような状況の中で、神様は準備しなければなりません。
 そのような経験をしてみれば、神様がいないと否定する人は一人もいなくなります。そのような事実を実感する感動は、生命を越えて永遠に残るのです。そのような境地で神様を愛し、真の父母様を慕いながら通過した経験は、永遠に残るのです。それが人生の中心になります。その瞬間、霊界との壁は、一瞬にしてなくなるようになります。直行することができるのです。
 信じるのが先ですか、知るのが先ですか。信じることは事実と遠い所にあり、知ることは事実と一致します。
 皆さん、「信仰生活」と言いますが、信仰を生活化していますか。そこには、体恤圏が表面化していくのです。内面化ではなく表面化した実体圏とつながって生活しているという誇りが、どれほど大きく有り難いことか分かりません。そのような境地もあるのです。
 「霊界は間違いなくある。神様は、間違いなくいらっしゃる! 誰が否定しても、いらっしゃる」と実感しているという事実は、恐ろしいことです。それは神様の世界に属する心です。いくら地上で苦難を通過するとしても、その人は神の国の国民です。神様の子女です。
 皆さん、いくら難しいことがあっても、自分の心が絶対変わらないという境地に入っているか自問してみてください。そこまで行かなければなりません。それが峠です。サタン世界の城壁を越えて入れば、神様の存在が実証されるでしょう。そうでないときには、城に入る橋を越えたのに宮中に入れなかったのと同じです。一度入ってみなければ、何も分かりません。城の外でいくら眺めてみても、そこに行けません。(224-108,1991.11.23)


 ④心情と実績で異なる霊界での待遇


 統一教会の先生の誇りは、神様を知っていることです。霊界で知っている以上に知っているのです。いくら多くの人がいたとしても、神様はご自身の心情を知る人を一番好まれます。(146-333,1986.8.10)


 宗教人たちが涙に浸り、膝が切れてえぐれるほど一生涯祈祷を捧げても、イエス様に出会い、導かれるかどうかというのです。それなのに、皆さんはこうして先生に会って、このような話を聞くことができるということは歴史的な事件なのです。皆さんが先生にいかなる資格をくれてもくれなくても、先生は既にあらゆる資格を持っています。
 先生は多くのことを成しました。誰の話にも耳を傾けない世界の学者たちを一つにつなぎ合わせました。また、互いに争っている宗教界もつなぎ合わせ、民族同士で争っているのをつなぎ合わせて世界的な合同結婚式をしたことは、これまでの歴史になかった事件です。
 今までに先生が成してきたことは、霊界の誰が成したことにも勝ります。誰よりも多くのことを成してきました。ですから、統一教会が、霊界のどん底にいるでしょうか、最高の位置にいるでしょうか。最高の位置にあります。これは先生の作り話ではありません。(146-333,1986.8.10)


 ⑤霊的体験の生活化


 先生があらゆることを調べ、霊界の裏道まで尋ね歩いて調べてみると、天地の道理は簡単なものでした。真理は簡単なのです。
 二人が絶対的な力で合わさり、真空状態になったところに神様が入ってこられ、骨髄のような芯になるのです。ここに、男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸になるのです。(170-171,1987.11.15)


 先生は霊界に対してたくさん知っていますが、霊界の話はあまりしません。霊界を知ると、狂う人が多いのです。特に女性たちは、「あんな夫と長生きする必要なんてない。早く天国にでも行ったほうがいい。先生の言っていた天国がいい。ああ早く天国に行きたい」と言うことでしょう。しかし、夫を教育して導かなければ天国に行くことはできません。(182-61,1988.10.14)


 先生は、霊的体験をしても、多くは話しません。体験があるのかないのか、皆さんはよく分からないのです。それをどのようにするのでしょうか。真理で調整しなければなりません。「これは、これこれこうであるために、このようになるのである」と言いながら、中庸の道を行くのです。そうしていつも天の摂理観に方向を一致させることによって、霊界の発展をもたらすことができ、地上世界の発展をもたらすことができると見るのです。
 そうするには、霊的世界がどのように動いており、真理とどのように関係を結ばれるのかを知った上で霊界と関係を結ぶことを生活化しなければなりません。神霊と真理が必ず一つにならなければならないのです。この調和が取れていなければなりません。なぜそうなのかというと、我々人間自体がそのようになっているからです。(76-138.1975.2.2)


 ⑥愛を残して行くべき霊界


 先生に従ってくる中で、霊界に行った人たちがたくさんいます。先生に従う人たちを、あのソ連の衛星国家、ソ連の重要都市に浸透させておきました。ある時は、「宣教活動をしていて死刑宣告を受けた」という報告を聞きました。そのような報告を聞く指導者としての先生の心は、深刻なものです。子供が病気で寝込んでいたとしても、心配するようになっていません。彼らが私を尊敬するのは、世界のために生きているからです。彼らのために涙を流してあげるべきであり、心配をしてあげるべき立場に立っているのです。それゆえ、先生は平安な生活ができないのです。
 私が越えるべき峠を越え、私が果たすべき責任を果たすためには、休もうにも休むことができず、止まろうにも止まることができません。そのように走っているうちに、このような老年になったのです。しかし、心は「今からまた始めなければならない」と言うのです。そうして霊界に行くのです。
 そのように生きている生活の裏面に、何を残すのでしょうか。人類を愛したということです。他の何ものでもありません。国を愛したということ、統一教会を愛したということ、それ以外に残し得る何かがあれば、それは滅びる歴史とともに流れていってしまうでしょう。(136-135,1985.12.22)


5)真の父母の家庭と霊界

 ①霊界の長子権成立


 興進が霊界に行くことによって、地上と天に分かれた天使とアベルが、双子のように一つに結ばれるようになりました。その一つになった基盤の上に、父母が出動するのです。これが原理観です。
 興進は息子格のアベルですが、その息子は、真の父母の愛によって、原理主管圏の蕩減条件を立てた基盤で霊界に行きました。サタン主管圏から勝利して直接主管圏を成した立場で、霊界に行ったのです。それゆえ、堕落以後、最初に完成した資格を備えた息子として天上世界に行ったという条件を持っているのです。本来、堕落しなかったなら、霊界に行ったすべての人たちが真の父母の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格を持つのです。これをもたずには、天上界に行けないようになっているのが原理です。
 イエス様やキリスト教は、今までその立場を経ることができずに行ったために、全部中間霊界にいるのです。ところで、興進が行くことによって、神様と接ぎ木することができる中心が繰り広げられるのです。また、興進は祝福を受け、自分の相手が地上に残っているので、家庭生活をしてから死んだのと同じ立場になるのです。それで、興進の家庭を中心として、地上家庭を訪問することができる霊界基盤が設定されます。これが貴いのです。興進の家庭基盤を設定したということが、最も貴いのです。
 イエス様が死んだとしても、このようなことができたなら、今日キリスト教はそのように犠牲になりません。しかし、仕方がないというのです。なぜでしょうか。真の父母の心情圏で結果主管圏内のサタンを除去できず、直接主管圏内に愛の基盤を備えられなかったために、イエス様自身があの世に行って再臨しなければならないのです。しかし、興進は再臨する必要がないのです。
 興進は霊界と肉界、二つの世界に暮らしているというのです。そうなれば、どのようなことが起こるのでしょうか。霊界と地上を双子のような心情圏として見るとき、父母が長子の立場にいるのです。家系の代数で見れば、すなわち、縦的に見れば、父母が先です。興進が2代なのです。下だというのです。
 ところが、霊界では反対だというのです。地上で先生と興進の出生について見るとき、先生は兄の立場にいて、興進は弟の立場にいます。先生がカインの立場にいて、興進がアベルの立場にいるのです。これが霊界に行っては、興進が長子になります。興進が兄の立場にいて、それ以外のすべての霊人たちは、弟の立場にいるのです。心情圏を中心として、そのようになるのです。神様の立場から見れば、先生は父なので長男であり、興進は弟になるのです。
 霊界で見れば、興進が愛の圏を中心として最初に生まれた息子であり、そして霊界にいる人が弟の立場に立つのです。逆さまになるのです。それで、長子権の心情基準が自らの位置を決めて入っていくという結論が出てくるのです。これは原理講義するとき、よく説明しなければならないのです。今、霊界にいる霊人たちの前に、イエス様の前にもそうであり、すべての善の聖者たちの前にもそうですが、心情圏を中心として誰が長子として先に生まれたかといえば、興進だというのです。ですから、心情圏を中心としては、興進が長子であり、他の霊人は次に生まれる次子だということです。
 それゆえ興進が、長子権の福を次子圏に相続してあげることができるのです。サタンは、相続してあげまいとしたのです。サタンは、相続をしてあげず、自分が強奪するのに、長子の興進は、地上でもっていた福を全部残してくれると言うのです。ですから、つながります。今までサタン世界は、全部残してあげまいとするのに、興進は絶えず残してあげようとするのです。(131-52,1984.4.1)


 ②霊界に立った愛の中心


 興進が全世界の人を自分の生命以上に愛したという条件を残したために、皆さんにも生命以上に愛することができる因縁がつながったのです。興進は、真の父母の代わりに行きました。それゆえ、興進を愛することは、真の父母を愛するということと連結されるのです。
 霊界では、今までそのような中心がありませんでした。霊界とつなげ得る中心がなかったのですが、興進が行くことによって、興進を愛するすべての霊界の霊人たちには、父を愛する条件がつながるのです。これは、統一教会と連結されます。統一教会として見れば、興進は、地上で生命を捧げて戦うにおいての標準になり、霊界では愛をつなげるのにおいての、今までの歴史にない霊界の代表になったのです。地上では、統一教会の信徒たちに生命を捧げてもみ旨を愛すべきだという手本を見せてくれました。真の父母を愛しなさいというのです。世界のために真の父母を愛していくべきなのです。ですから、興進が霊界に行くことによって、霊界が興進を愛することで、地上の真の父母と愛の関係が成立するというのです。
 それで霊界では、興進を迎える日が、歴史始まって以来一番嬉しい日になるのです。興進は愛のメシヤとして、霊界の門を開き、地上では標本的な殉教の道を開いたというのです。それで、統一教会の信徒たちは、興進を愛すべきなのです。
 霊界でも興進を愛し、統一教会でも興進を愛するから、私たちの真の父母はどのようにすべきでしょうか。神様の愛を歓迎して、地上の愛を歓迎する意味で、自分の息子を祭物として捧げることを栄光と思わなければなりません。誇りと思うことができなければならないのです。また、神様が今まで青少年のアダム、エバを息子、娘として愛せなかったのですが、霊界では愛せるようになったと考えなければなりません。
 それで先生が、「私自身が青春時代に、韓国に基盤を築いて栄光の神様にすること、私1代に世界的基盤を築いてあなたを慰安してさしあげること、これらのできなかったことを、この息子によって蕩減してください」という祈祷を捧げました。
 今、霊界も愛して、地上も愛するので、父母も愛しなさいという標語を立てるべきです。先生は、興進が霊界から地上世界と霊界で、愛の復活圏を成すのだと考えます。興進の死を通じて、愛を復活させるというのです。霊界を抱いて、地上を抱いて、愛の復活圏を宣布するでしょう。
 そうするようになれば、死亡圏と決別をするのです。それゆえ、葬式の時も悲しんではいけないのです。(130-202,1984.1.15)


 ③地上と霊界の王権確立


 興進が霊界に行く前の日、統一式を終えてから祈祷したこととは何でしょうか。「お前は地上を離れても、地上にいるのと同様に、お前の養子を選んでやり、息子の班列に同参させてやろう」と祈祷で約束したのです。そうするには、地上で祝福をしてやらなければならないのです。そうしなくては、そのことが不可能です。神様は、地上を救うためにメシヤを送りましたが、今日真の父母は、霊界を救うために父母様の代わりに全権大使として愛の王子を送ったということを知るべきです。なぜ、地上にそのような世界的基盤を立てるべきなのでしょうか。イエス様も、その立場に行けなかったのです。神様が初めて歴史始まって以来、「自分の息子」と言い、愛することができる少年をもったという事実を知るべきです。初めて、霊界で神様が愛し、地上で真の父母が愛しているというのです。それで、二つの世界がつながるのです。この世界は、堕落の愛の圏内、すなわち原理結果主管圏内にあるために、真の父母の愛の因縁は今までありませんでした。しかし、これが初めて出現したという、驚くべき事実を知るべきです。
 では、あの世に行ってどのようになるのでしょうか。韓国人として生まれたために、韓国の善王の実を現すということを知るべきです。霊界のそのような王権が興進の立場です。
 そのような立場で、韓国の善王たちと比べるとき、興進は年は幼いですが、アベルの王だというのです。霊界は、この地上のように事情が完全に分かるのです。完全に一つになるのです。カインとアベルが一つになれば、その上に天の父母が運行することができるのです。天の父母の運行圏が生じるのです。
 それゆえに、興進の王権と韓国のアベル王権が一つになることによって、韓国を中心とした主管圏が形成されます。それが一つになることによって、アベル王権の位置に立つようになるのです。
 その次には、すべての国の王たちが、アベル圏に立つのです。皆さんは、地上にいるから分かりませんが、霊界では一遍に一つになるのです。それで、すべての王権、韓国を中心として120の国家が完全に一つになることができるというのです。
 その王の前にアベルとなることのできる人たち、ユダヤ教を信じて逝ったとか、キリスト教を信じて逝った人たちは、王権を立てるのはすべてメシヤとして侍るためのものであったので、そのメシヤをあがめ尊ぶすべての宗教界のアベルの民は、次々と完全に一つになるのです。
 ところで、ここに一つ問題があります。王権を立てるには、興進が一人でいてはいけません。女王権をどのように探すかということが問題になるのです。これが第1の問題です。王権を結合しようとすれば、女王を探し、王の相対を決定してあげなければなりません。そのようになれば、この王権が霊界につながるのです。
 また、女王が地上にいるがゆえに、120カ国の王権の民を連れて、地上に連結できる基盤がつながります。神様の愛を中心とした霊界と肉界の統一です。このように結婚させてやることによって、興進は思いどおりに地上に来て活動するようになります。
 このとき、興進が一人で来るのではなく、王権を統一したすべての王が地上についてくるようになります。ですから、このような式をせざるを得ません。今出れば、反対する人はありとあらゆることを言うでしょう。興進を愛の代表として送って、真の父母が霊界に行ってすることを代わりにさせようというのです。
 それゆえ、興進が昇華してから50日になれば、五旬節と同じです。120人がマルコの屋根裏部屋で聖霊が降臨するとき火を受けて、世界的役事が繰り広げられたのと同様に、薫淑嬢が結婚することによって、霊界にいる120カ国の王たちが、この地に来て復活し、世界的役事を展開できる運動が繰り広げられるようになりました。ですから、霊界にいる120の王権がこの地に訪ねてきて、地上と一つになるのです。このような二つの、とてつもなく重要な意味があるのです。
 それで、120カ国のうち、どこでも真の父母に侍ることができる一つの国さえ生じるなら、そこから天国が開門するのです。(131-14,1984.2.20)

(2021.12.8:写経奉献)

 

 

 

■天聖經(33) 第5巻「地上生活と霊界」 第4章 天国

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第4章 天国

1)天国に対する理解

2)天国に行くための準備

3)天国に行くことができる要素と条件

4)天国の門と天国入城

5)天国と地獄に関係した指示のみ言

 


1)天国に対する理解

 ①天国の所在地

 

 聖書に、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)とあります。天国は、この世界の果てにあるのではなく、自分の心にあります。その心がとどまる立場とは、どのような立場でしょうか。死のいかなる要素も内包している立場ではなく、それを克服して一つの生命が波及し得る立場です。
 天国は、肉身の世界では探すことはできません。この世界ではありません。ですから、天国の起点というものは、心の中に描くことが実現される、ある所です。そのある所を探すことによって、天国を迎えることができるのです。
 それゆえ、天国はある終末世界を経て来るのではなく、自分の心で描く一つの起点とともに来るのです。秤を水平にすることができる一つの支持点と同じものです。秤は、水平になるのが目的ですが、これは水平から右に傾かなければなりません。重さが左に傾いてはいけません。右に傾くことが出発です。
 それで、天国は心から始まってくるのです。心のどこからでしょうか。世の中に勝った心から始まるのです。いくら環境的に天国が築かれたとしても、自分の心が悪で、それを描くことができず、そこに動ずることができない立場にいるなら、天国が来ても、その天国は役に立たないものです。それゆえ、天国を迎え得る基盤になるのは、環境ではなく、自分自身です。自分自身が問題です。天国を維持することができる支柱、支持するその支持点とはどこかというと、環境に先立って、自分の心なのです。(46-23,1971.7.18)

 

 イエス様は、従っていた弟子たちが現実を清算できずに、これから天国で幸福の基盤を備えるという出世意識を持っているのを見て、その根本を撃破してしまうために、「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われたのです。心の天国を描けない人は、天国の環境になっても、その天国を動かすことはできないのです。心で決心ができずには、完全な行動をすることはできないのです。完全な決心から、完全な行動が生じるのです。
 それゆえ、自分の心が善にどれほど憧れるかが問題です。歴史的な善に憧れながらその善と同行するために、いくら血のにじむような環境があったとしても、それを克服して、いくら孤独な環境の中で闘争の路程があるとしても、それを避けていくのではなく、撃破していくという心で、不変の道を開拓しなければなりません。「その心に、一体となり得る体の生活環境を開拓する」と決意して誓うところから天国が始まるのであって、心と体が別々に行動するところに天国があるのではありません。心と体が一体となったところから、天国に向かった前進が繰り広げられるのであって、心と体の行動が分かれるところには天国はできません。
 そのような観点でイエス様は、心と体が一致し得る内容をもち、左右に傾く環境を除去しながら前進できる主体性を備えてこそ、天国を迎えるようになるという事実を教えてくださったのです。
 天国は、他人によって来るのではありません。自分によって来るのです。我々は堕落した人間なので、自分を否定しなければなりません。自分自ら天国を提示できなくなるときには、他人を通して提示するようになるでしょう。そのようになれば、私は天国を提示した人と一つになってこそ、天国に行くことができます。ついていかなければなりません。絶対的に歩調を合わせなければなりません。彼が東に行けば、自分も東に行かなければならないのです。彼が東に行くのに、自分は西に行く、彼がこのようにしたのに、このようにしてはいけない、という心をもってはいけません。そこに批判があってはいけないのです。(46-24,1971.7.18)

 

 「天国は、自分の心にある」と言いましたが、その天国とはどのような所でしょうか。神様の愛が中心となっている所です。神様の愛を中心とした環境圏を設定した所が天国です。では、その圏に行ってとどまる人は、どのような人でなければならないでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人でなければなりません。そのようば人以外には、行くことはできないのです。
 神様の愛の本質と和合できる人とは、どのような人でしょうか。自分を中心にする人は、価値がありません。相手のために自分の生命を投入し、自分のすべての精誠を投入し、自分のすべてを投入しながら与えようとする人だけが、神様の愛の圏内に存続し得るのです。歴史上の偉人もそのようにし、聖人もそうしました。(46-36,1971.7.18)

 

(2021.12.2:写経奉献)

 

 キリスト教と天国


 教会に何百年通ったとしても、自分を中心とする心をもって通えば、天国には行けません。救いを受けられません。
 真の宗教とはどのような宗教かということを知るべきであり、真なる人とはどのような人かということを知るべきであり、真なる国とはどのような国かということを知るべきです。(78-118,1975.5.6)


 霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中で、「私がこのように殉教すれば、天国に行けるだろう」と言った人たちは、天国に行けないというのです。反面、「天の父が私に訪ねてくるために受難の道を歩まれ、血を流されたのだ。主に恩返しをするためには、どのような道でも行く」と言いながら、「その恩返しできる立場で、私が同参できる栄光の一時を迎えたことは、どれほど有り難いか」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったというのです。そのような人は自分のために死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死ねば、天国に行くだろう」と言って死んだのなら、それは自分のために死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。(41-355,1971.2.18)


 聖書に「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ22:37,38)と言いました。ここに引っ掛かる人は、天国に入れません。
 2番目の戒めとは何でしょうか。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同22:39)と言いました。神様を第一に愛し、隣人を第二に愛する人が、孝行者になるのです。(198-259,1990.2.4)


 キリスト教でいうように、イエス様を信じて天国に行けますか。イエス様御自身も、相対理想を成さなければ行けないのです。イエス様お一人で、真なる愛を成すことができますか、神様も成せなかったのに。ですから、再び来なければなりません。そうであれば、雲に乗って来ていいですか。今は、現実的内容をみな目で数えることができ、測ることができるこの民族が、私についてくるようになっています。(176-210,1988.5.9)


 今日キリスト教を信じる人たちは、「イエス様を信じれば救われて、天国に行く」と言います。天国に行くにも、「自分一人で行く」と言い、「自分の母や父を連れて天国に行く」と言う人は少ないのです。これから、宗教は個人の救いのみを主張してはいけません。
 神様が立てた真の宗教なら、宇宙的で、最後まで残り得る宗教にならなければなりません。人類が願う最後の宗教があるなら、その宗教は、「個人だけを天国に行かせるのがみ旨だ」とは言わないでしょう。天国を個人だけに紹介してはいけません。母と父にも紹介しなければなりません。そのように紹介して、族長までその内容を知るようになれば、一遍について入るようになるのです。(41-341,1971.2.18)


 ③イエス様と楽園


 「イエス様を信じて天国に行こう」と言いますが、誰が天国に行くというのですか。自分個人が行くのですか。今までお母さん、お父さんに仕えて、家庭が共に天国に行こうという、そのような宗教はありませんでした。今までの宗教は、個人の救いを中心にしました。しかしこれからは、「家庭が共に天国に入らなければならない」と言う宗教が出てこなければなりません。家庭が一時に救われ得る宗教理念が出てきてこそ、天国の門が開かれるのです。今までの宗教は、一人で綱にぶら下がってぶらりぶらりと上がっていくような、個人の救いの宗教でした。それゆえ、修行の世界では、独身生活を強調したのです。家庭をもっていることが怨讐なのです。イエス様も、「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ10:36)と言いました。
 みな上がってきては、地の主権をつかまなければならず、独身男女は祝福行事に入らなければならないのです。天国は、本来の息子、娘が結婚して、神様の愛を受けて入る所です。それが、本来、人間が堕落しないで完成すべき天国です。
 イエス様は、霊界に一人で行きました。そのために、天国に入れず、楽園に行ったのです。楽園は、天国に行くための待合室です。楽園は、理想的な天国ではないのです。天国は、夫婦が家族たちを連れて入るべきなのです。それゆえイエス様は、再び来て、新郎新婦を迎え、新しく編成された家庭と民族を連れて天国に入らなければならないのです。そのようにするために、神様がイエス様を楽園にとどめさせたのです。それゆえ、再び地上に来て、その原則的な内的基盤を築いて、天国に入らなければならないのです。大ざっぱな計算にはなっていません。
 それで、これからはお母さん、お父さんが救われるのです。家庭が全部天国に行くことができる宗教、そのような救いの道理を教えてくれる宗教があれば、そこから国が立てられるのです。個人では、国が立てられないのです。それゆえキリスト教には、国がないのです。結婚できなかった独身男女を集めておいたのが、キリスト教なのです。カトリックの神父と修道女を皆さんは見たでしょう。
 この地上に、キリスト教国家がたくさんありますが、その国家の主権者は、キリスト教指導者、すなわち教区長や牧師ではありません。厳然として違います。キリスト教は、霊的な国です。地上には国がありません。地に国がないために、今まで数多くのキリスト教徒が殺されたのです。地上に主権があったなら、キリスト教徒は国家の保護を受けることができるために、死なないというのです。
 しかし、国がないために、流離弧客(注:さすらう一人ぼっちの旅人)となって、追い回され、集団で殺されたのです。これから我々は、世界のキリスト教徒を合わせて、その国の主権をもって、自分の家、自分の国、自分の世界を探さなければなりません。それをキリスト教徒はしなければなりません。(41-346,1971.2.18)


 今まで神様は一度も、霊と肉が完成したという条件を備えた人を抱き締めて、愛してみることができなかったのです。イエス様も愛してみることができませんでした。それゆえ、イエス様は今も楽園で祈っていらっしゃるのです。
 我々は我々の霊と肉、その全体を抱こうとされる神様の愛を知り、そのような圏内において「神の子女」という名分を立て、万物を主管することができなければなりません。そのような世界が、神様が復帰しようとされる主管世界であり、安息の園であることを知るべきです。今や、我々は個体の問題に帰り、復帰の運命に置かれたことを知り、新しい理念を探してさまよわなければならないというのです。そうすべき時が来ました。これからは、真の人生観の問題、宇宙観の問題が台頭するでしょう。(5-49,1958.12.14)


 イエス様が、どうして天国に入れなかったのでしょうか。天国は、堕落せずに生きた者が入ることができるように、神様が人間に造ってくださったものです。人間は、本来の原則的な基準に立ってこそ、天国に入ることができます。それゆえ、イエス様御自身も堕落した人間を救い、堕落しなかった人類の父母であるアダム、エバの立場で、息子、娘を率いて入らなければならないのです。しかしイエス様は、一人で生まれて、一人で死んだので、子孫がいません。いないために、楽園に行くようになったのです。天国に入れずに、楽園にいるのです。天国に行くための待合室のような所に行っているのです。
 それで、イエス様は再び来て、新婦を探さなければならないのです。本来のエデンの園で、アダム、エバが新郎新婦になってこそ天国に行くようになっていました。人類始祖は堕落しましたが、その原則は残っているために、その原則どおりに花咲かせるため、イエス様は来なければならないのです。「再び来て、地で解かなければならない」という聖書のみ言と同じです。(41-300,1959.2.22)


 堕落がなかったなら天国は、ひとり子、ひとり娘が神様の愛を中心として神様の家庭をつくり、神様の愛で暮らしてから、引っ越していく所です。天国へは家庭が入るようになっています。個人は、天国に入れないのです。イエス様は、家庭を成せなかったことによって、天国に入れず、天国の待合室に行って待っているのです。それが楽園です。楽園は、天国に入る準備をするための待合室のような所です。
 このように見るとき、天国は空いています。これを考えれば、神様の復帰摂理歴史は、悲しい歴史なのです。神様は、アダム、エバを失ってしまいました。二人を失ってしまったことだけで終わるのではありません。アダム、エバを失ってしまったということは、アダム、エバの一族を失ってしまったことなのです。その一族が拡大して、民族になり、一つの国家を成し、一つの世界に拡大したはずですが、それらを失ってしまったのです。ですから、アダム一人を失ってしまうことによって、天の国の王権を中心とした王国を失ってしまい、宗族を失ってしまい、天の国の男性と女性、ひとり子、ひとり娘まで失ってしまったのです。(143-25,1986.3.15)


 ④心情と天国


 天国とは、どのような所でしょうか。準備したものを持って誇る所であり、侍る生活をしたのを誇る所です。では、その天国とは、どのような人が行く所でしょうか。主を信じて福を受けようと、福を先立たせていく者が行く所でしょうか。違います。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行く所です。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して、喜んで逝くことができる者が行く所です。そこに復活があるのです。生活の内幕は現れません。どのように生活すべきかということが、今、我々が侍る生活の中で、考えるべき重大な問題です。(8-304,1960.2.14)


 天国という所は、心情を通じなくては行くことができない所です。天国は、全体を主管し得る本然の国であり、本性の国です。その国は、事情をもっては所有することはできません。深くしみ込む心情の因縁をもってこそ、所有することができる国です。それゆえキリスト教は究極的に、事情に通じる教会ではありません。心情に通じる教会です。地に対して摂理される天には、事情の因縁を越えて、心情を謳うことができる基盤を築こうという目的があるのです。
 堕落とは何でしょうか。神様の事情を論ずることができないのではなく、心情を論ずることができないのが堕落です。堕落した人間を探してこられる神様は、失った息子、娘に対する心情はもっていても、その心情を分かち合うことができる人がいないので、その人たちを探して立てる役事をされます。それが救いの役事であり、その人たちを立てるために送られた者が、救世主です。
 我々は、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、私自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。私自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しく思うのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたいと思うのが、我々造られた人間の本然の心情です。心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何の因縁もないというのです。
 侍るためには、侍ることができるようになる準備が必要です。その準備の過程を経たのちには、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経たのちに、初めて行く所が天国です。心情で侍る人が行く所が天国です。侍ることができる準備と、侍る生活をたたえ、高くとどろかせる世界が天国です。我々は、このような目的の世界に向かっていくべき運命に置かれているのです。
 堕落の血統を受け、生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心情を尽くして天に侍った1日があったかといえば、なかったのです。堕落する前に、我々の先祖のアダムとエバは、創造理想を通じて育ちましたが、心情の因縁を立てて神様に侍ったことがなかったのです。
 神様の恨とは何でしょうか。心情を中心として神様に侍るべき人間が、侍ることができない立場に落ちたので、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られることができなかったのです。信じる者がいないのが恨ではなく、神様を知る者がいないのが恨ではありません。心情を通じて神様に侍り、心情を通じて神様に対し得る人がいないことが、天と地の恨なのです。(8-290,1960.2.14)


 今日、数多くの宗教人たちは、「天国は自分の宗教を通じてのみ成される」と言います。それは、すべて妄想的な言葉です。数多くの宗教が、各々その教祖が教える教理を通じて天国がなされる、といいます。キリスト教だけ見ても、数十の教派に分かれています。自分の教派でなければ異端視し、サタン視する現実において、その教団が神様から公証を受けてそんな言葉をいうなら分かりませんが、ただ自分の教派を立てて、自分の教派を残すための欲からそういうのなら、動機が純粋ではありません。そのような教団は、すべて滅びるようになります。もし統一教会がそうなら、統一教会から滅びるべきです。
 このように見るとき、宗教の先決問題は、天国を成すことではありません。それが1次的な目的ではありません。天国が出てくる前に、天国を受け継ぐことができる、一つの特定の民族が必要なのです。神様は、そのような民族をつくるために選民を立てられたのです。歴史上にこのような選民思想があるという事実は、悪の世の中に善の一派を残すための主導的な思潮が歴史の背後にあることを証すのです。
 悪の世界で選民が出てくるようになれば、天国は成され始めます。しかし、天国の民が出てくるには、天国の子孫が出てこなければなりません。また、民と国が出てくる前に、天国を成すことができる家庭が出てこなければならないのです。家庭が出てくるには、天が保障し得る一人の男性が出てこなければならず、一人の女性が出てこなければなりません。
 そのような男性と女性だけが出てくればいいのでしょうか。違います。その男性と女性を通じて、息子、娘が出てこなければなりません。そうして、神様が永遠の息子、娘だと保証することができる、一つの家庭が出てこなければなりません。このような家庭なしに、氏族と民族を成すことができず、そのような民族なしに、国家と世界を成すことができないということは、極めて当然な事実です。
 神様が訪ねてこられる拠点は個人です。個人に囲いを巡らせているのです。それで、今まで宗教は、個人の救いを目的にしてきたのです。しかし、神様が探しているのは、個人の救いではありません。家庭です。それゆえ、天国の家庭の基盤を探して立てる前に、天国氏族、天国民族、天国国家、天国世界などは、あり得ないのです。(47-250,1971.8.29)


 天国と地獄はどこから分かれるかというと、聖書をよく知って、言葉をよく話すことで天国と地獄が決定されるのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線に左右されるのです。(32-231,1970.7.19)


 ⑤肉身と地獄


 アダム、エバは神様の体です。コリント人への第1の手紙第3章に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(16節)と言われたように、この体には、神様がいらっしゃることができる家です。その体は、今日堕落した人間たちの体ではありません。イエス様を信じて救われようとする、故障して修理工場を経てきた体に、神様がいらっしゃりたいのではありません。純粋な、初愛を含んだ創造理想的人間でなければなりません。しかし、神様の愛の圏内から脱した人間なのです。
 地獄とは何でしょうか。悪魔の愛の圏内をいいます。悪魔は、憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻だけを崇拝するのです。それで、悪魔の圏はそのようなものだけが盛んなのです。それが戦争として現れます。そのような悪魔をなくしてしまわなければなりません。
 神様の胸にくぎが刺さった事情とは何でしょうか。悪魔が生じたためです。悪魔の血肉を愛で植えたという事実、悪魔の種を植えたというこの無念な事実、悪魔の家庭を見たというその事実のゆえです。神様の管理下で千年、万年愛し合いながら暮らすことができる家庭が、悪魔の家庭の顕現とともに、破壊されたのです。その代わりに、悪魔の氏族を中心とした家庭が、世界的に広がりました。今、世界には180余りの国があります。それも、数多くの氏族が互いに戦い、弱者が強者に吸収されたので、この程度なのです。これを神様のみ旨の中で一つにしなければなりません。
 では、サタンはどこに根拠地を立てたのでしょうか。サタンも神様が分かります。神様は、創造本性の起源であり、悪魔は本来、その起源を通じて造られたために、相対的基準に立っているのです。人の場合、この起源的基準が良心です。良心は、誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それで、神側だといいます。体は誰に似たのでしょうか。悪魔に似たために、サタン側だと言います。
 良心が、体のためにどれほど犠牲になりましたか。夜も昼も自分を管理するのに疲れているものが、良心です。それでも疲れを見せずに、体が悪い行動をしようとすれば妨げるのです。自分に一番近い父母の代わり、神様の代わり、師の代わりになる存在が、良心です。心自体には教育は必要ありません。しかし、体には教育が絶対必要です。
 それゆえ、体がしようとする通りにすれば、地獄と通じるのであり、心がしようとするとおりにすれば、天国と通ずるのです。天国と地獄の分岐線が自分です。38度線を中心として南北に分け、サタンが乗っています。それを知っているので、分けておいたのです。これを分けておかずに死ねば、個人的な38度線、霊界がふさがってしまいます。家庭的38度線、国家的38度線で全部ふさがってしまいます。世界的38度線、宇宙的38度線をどのように越えるのですか。(214-281,1991.2.3)


 皆さんが、胸の痛むほど悔しく思うべきこととは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙するために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。
 宗教というものは何でしょうか。罪の根と闘うのが、宗教の本質的闘争歴史です。しかし、自分は全部地獄に行く版図になっていながら、自分自身が悪魔の舞踏する場になっていながら、宗教の旗を掲げて社会を救うと、大騒ぎするのです。
 自分を憎まなければならないのです。この体を憎むべきです。自分の体に怨讐の血が蠢動するのに、これを刀で断つこともできず、火で焼くこともできない自分であることを知るべきです。神様の保護を受けることのできない立場に立って、万物を消化し消耗する、消耗工場になっているという悲痛な事実を知るべきです。(214-285,1991.2.3)


 復帰摂理で見て、これが最後のみ旨だと思うなら、瞬間瞬間を深刻に考える自分になったかを反省してみなければなりません。世の中に巻き込まれて回る姿勢ではいけません。一度も深刻な場に立てず、一瞬も深刻な瞬間をもてなかったなら、おの人は神様の前に恥ずかしい人です。
 私は、どれほど天地の公法をよく守って、天地が公認することができる立場で生きているでしょうか。死が差し迫って、今までどのように生きたかと自問したとき、生涯を通じて善に生きたという心が、60パーセントを越えなければ地獄行きです。
 体は制限を受けても、心は制限を受けまいとする闘争の歴史をもたなければなりません。天と地、歴史と現実に、そして子孫に対しても、「私は解放された。だから、私の伝統を受け継ぎなさい!」と言うことができなければなりません。そのような瞬間をもてなかったなら、その人は容赦なく地獄行きです。(19-27,1967.12.10)


 世界も混乱です。では、霊界はどうでしょうか。そのような混乱した人間の群像が霊界に行って1箇所に集まっているので、混乱せざるを得ません。どろぼうすることも習慣になれば、いつももどろぼうするようになります。ですから、地球星でどろぼうしていた者たちが天上世界に行っても、ただで得ようと願います。それで、処置に困るので、地獄というものができたのです。
 地獄は、神様が造ったものではありません。地獄は生まれたのです。ごみ箱を作っておいて、家を建てたりはしません。家を建ててみると、ごみ箱が必要になったのです。同様です。既成教会員たちはみな、根本を知りません。(148-28,1986.10.4)


 もし、偽物の包みをもっていたなら、いつ清算するでしょうか。皆さんには、そのような心がありませんか。片方の目が見えなければ、その目を抜いてしまうとか、治しておかなければなりません。分別しなければなりません。神様がいらっしゃるなら、このようなことを是正できる方法を教えてあげなければなりません。それで宗教が出てきたのです。
 神様は、ねたみの心や嫉妬が多いために、地獄を造っておいたのではありません。偽物が生じて、偽物を処理する処置の倉庫として、地獄を造ったのです。誰がごみ箱を先に作って、家を建てるでしょうか。キムチを漬けようと、良い白菜を買ってきたのに、漬けてみると虫が食ったくずのようなものが出てきたので、ごみ箱に入れるようになるのです。堕落は、人間の最初の先祖が犯しました。
 それゆえ、これを蕩減して罪を清算するためには、真の父母の資格をもってこそ可能になるのです。(20-118,1968.5.1)


 宇宙の最高のおじいさんとは誰かといえば、神様です。その次に、この世界を一つにするのに、全天地を一つにするのに、その終わりの子孫とは誰かというと、未来の子孫です。これをつなげなければなりません。何でつなげるかといえば、家庭です。国ではありません。天国に行くのに、「アメリカ人だ」と言っても認めてくれません。「後進国の者だ」と言っても排斥しません。この主流家庭の組織を中心として、神様のみ旨とともに、過去、現在、未来をつなげ得るモデル型だけを認めます。これが公式だということを知るべきです。そのようになった実を持っていって、貯蔵する倉庫が天国です。
 今まで、人間の世の中に生まれた人たちには、神様が救うことができる条件が一つもなかったために、全部地獄行きでした。虫が食って、うじがわきましたが、それを豚にでも食べさせるとか、他のものに使おうとして、仕方なく持っていって貯蔵した所が地獄です。地獄と楽園があるというのです。このように話せば、天国は空いているということを実感できます。(135-118,1985.10.4)


 霊界に行ってみれば、人々が、いろいろな段階の所にとどまっていますが、その人たちは、どのようにしてそのようになったのでしょうか。どれだけ愛の道理に従い、孝行をし、国に忠誠を尽くしたのか、世界で聖人の道理を果たしたのかという度数の差に従い、該当する立場にとどまっているのです。
 人間がこの地で行くべき道は、正道です。正道には個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、国家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、神様御自身にも正道があります。このような、たった一つの道がなければならないのです。その道とは、何の道でしょうか。本然の愛の道です。(147-183,1986.9.21)


 あの世に行くようになれば、愛の理想に符合し得る、訓練された素性を備えられなかったときには、反作用が働きます。誰かが「地獄へ行け」とは言いません。それゆえ、聖書には「怨讐を愛せよ」とあります。本当の愛は、怨讐にその愛を及ぼして、1次、2次、3次、4次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもったために、イエス様も「怨讐を愛せ」と言われたのです。
 今日、キリスト教徒たちは、怨讐とは個人の怨讐であると思っていますが、違います。無限の価値をもった、この愛の法度に背いた者です。サタンとは誰でしょうか。サタンとは、神様の前に姦夫だったという事実を知るべきです。私があの霊界に行って、くまなく探して調べたので話しているのです。このようなことを言って、「異端だ」と言う声を聞きました。「異端の魁首だ」、「キリスト教世界を滅ぼす」とか、「死ぬべきだ」とかいう、ありとあらゆる悪口を聞きました。ですが、「死ね」と悪口を言った牧師の死んでいくのを見ても、私はまだ死にませんでした。それは何によってでしょうか。天意によってです。まだすべきことが残っているからです。(127-173,1982.10.24)


 皆さん! 自分の子供の中に、殺人強盗になるとか、国家の犯罪を犯して、死刑を受ける息子がいるとしましょう。息子が死ぬ場に行くときに、その父母がついていって、「お前は死ぬ場に行くから、死ねばいい」と言う父母がいますか。その息子にしがみついて、自分も死ぬ場に共に臨もうとするのが父母です。
 子供の死が永遠に続くなら、父母がそれを眺めてじっとしているでしょうか。永遠をかけて死んでいくというなら、永遠をかけて生かしてやりたい心をもつはずであり、子供を生かすためにいかなる苦労もいとわないはずです。このように考えるとき、神様はかわいそうなお方です。
 人間が死んで地獄に行くのを見るとき、神様は永遠に生かしてあげたくて、やきもきするのです。それでこそ天の父母の立場で責任を果たすのであって、「えい! みな掃いて捨ててしまおう」と言えば、父母の立場に立てないのです。それゆえ、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。
 息子が、自分を生かすためにやきもきする情景を見れば、「うちのお母さん、お父さんは、私のゆえにあのようになっているのだな」と思い、千万回罪を悔い改めるようになります。そのような母がいて、父がいれば、その子供は、骨が溶け、肉がやせ細るほど悔い改めるようになるのです。父母によって、そうし得る道が生じるのです。
 サタンも、人類を救おうという神様の愛の前には、讒訴できないのです。父母の愛を通じては、悔い改める者を許せない法がありません。それで、そのような心情を通じて、地獄までも解放しなければなりません。それが真の孝行者として行くべき道ではないでしょうか。それで統一教会では、「地獄までも救おう」と言うのです。なぜでしょうか。それは、神様がそのようなお方だからです。(62-51,1972.9.10)


 地獄という所は、一度引っ掛かれば、永遠に脱することができない所です。それなのに皆さんは、自分のお母さん、お父さん、そして親戚が、地獄に行くということを実感できません。ただ「何とかなるだろう」と言って、おしまいです。しかし、愛する父母が、本当に地獄に行くと考えてみてください。世の中の監獄に入るだけでも、泣き叫びながらありとあらゆることをしてでも、引き出そうとするのが人情なのに、まして天情で結ばれた息子、娘が、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹すべてが、永遠に出てこれない監獄に行くことが分かるなら、そのようにしますか。
 皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あるにはあるようだと思っても、どのようなものか知らずにいるのです。確信がなく、ぼんやりとしているでしょう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、そのときはもう遅いのです。
 それで、今まで死んだ父母たちが霊的に現れて、伝道をたくさんします。自分たちが、統一教会に通う息子、娘に反対して死んで、霊界に行ってみると大変になったのです。それで、霊的に現れて、伝道する霊人たちがたくさんいます。そのようにしなければ、3世界で引っ掛かるのです。
 それゆえ、天上世界であらゆる精誠を捧げて、善なる先祖の名前で特赦を受けて、自分の子供に現れて教えてあげるのです。誰にでも現れることができるのではありません。そのような世界に行ってこそ、統一教会がとてつもない所だということが分かるようになるのです。その時、どれほど驚くかというのです。
 「統一教会は、ただこのように集まって別かれる所だ」と言うかもしれませんが、そうではありません。ここで線を引けば、永遠に引けるのです。この門を閉めれば、永遠に開ける者がいないし、開けば再び閉める者がいません。地上で結ばれたことは、地上で解かなければならないために、皆さん自身が結んだことは、皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。それゆえ、皆さんが伝道をするにおいて、これからはほかの所に行ってするなというのです。(34-266,1970.9.13)


 ⑥地獄人も天国を願う


 死に際に、「神様、私は今まで神様のみ意のままにできませんでしたが、私の心としては、天国に行こうとしました。ですから、私を蕩減条件を立てたことにしてください」と言えば、神様も公平なので、そのような人は、天国に行けそうな場所に連れていくのです。どんな場所に連れていくのでしょうか。行こうとしたために、天国に行こうとする場所に連れていくのです。行いに従って報いてくださるのです。行くには行くのですが、天国に行こうとする場所に行きます。その場所は、楽園以下の場所です。地獄にいる人も天国に行こうとするのです。(57-265,1972.6.4)


 ⑦地上天国と天上天国


 個人が安息しようとするなら、家庭の安息圏をつくるべきです。言い換えれば、家庭の囲いをつくるべきなのです。家庭が安息するには、氏族的囲いをつくるべきです。囲いがなければ、いつも侵犯されます。その次に、氏族が安息するには、民族が囲いになるべきです。その次に、民族が安息するには、国家が囲いになるべきです。そして、国家が安息するには、世界が囲いになるべきです。それゆえ私たちが、国家の囲い、世界の囲いをつくっておいて、中で安息することができる時が来ます。この世界が安息するには、霊界と肉界を統一させて、囲いをつくらなければなりません。そうしたのちに、初めて、神様の愛が地上の全世界のどこにでも及ぶことができる地上の天国が完成し、天上天国が自動的に完成するのです。(68-20,1973.7.23)


 我々が暮らしたい所は天国です。天国には境界線がありません。天国では二つの言葉を使いません。人種の差がありません。人はすべて神様の懐から生まれたので、人類はみな兄弟です。神様を中心として見れば、神様の息子、娘なので、みな兄弟で、地上天国を中心として見れば、すべてが民です。地上天国の民というものです。
 国を形成するには、三大要因があります。国が形成されるには主権と民、そして国土がなければなりません。そのため世界は、神様が統治する世界になれませんでした。地球星全体が、我々の国になれずに、世界の民が、一つの国の民になれませんでした。我々は、天国についていろいろいいますが、天国はこのような条件が備えられたのちに成立するのです。これが成されなかったために、いまだにカインとアベルが戦いを続けるので、我々は安息することができないのです。
 我々は、復帰過程で暮らしたいのではなく、天国で暮らしたいのです。それゆえ、我々が天国を築くというのは、我々が暮らす所を準備しようということです。我々の暮らす所は、天国をつくっておいてこそ生じるのです。これをつくれなければ、我々の子孫はいつも追われる民族になるでしょう。我々は、あらゆる精誠を尽くして、子孫にそのような荷を残さない先祖にならなければなりません。(66-281,1973.5.16)


 天国に行こうとすれば、「罪を犯さなかった」、「神様の愛を直接受けることができる」、「イエス様を信じる必要がない」、「救いが必要ない」という息子、娘の資格を得られる過程を経なければなりません。そのように生きた人が天国に行ってこそ、神様の理想の天国がなされます。
 イエス様は、血族を通じてそれを成せませんでした。それゆえ、イエス様が再び来て、これを解怨成就しなければなりません。そうせずには、天国に入れません。天国を開く条件は、どこにあるのでしょうか。地にあります。それゆえイエス様は、天国の鍵を地に残して逝かれました。
 イエス様と12使徒が家庭を成せなかったために、今日統一教会で祝福家庭を通し、70門徒、120門徒の家庭を再び探し立てなければならないのです。そうしてこそ、天国が開きます。(160-89,1968.8.11)


 神様がアダムとエバを創造しておいて、婚姻のうたげをしてあげようと、成熟することを待たれましたが、彼らが堕落したので神様はみ旨を果たせず、彼らは偽りの父母になりました。4000年ぶりに堕落しない立場でイエス様とイエス様の新婦が合わさって、偽りの父母が出発することによって失った、真の父母の基準を再び取り戻すのです。
 真なる父母が生んだ息子、娘たちは、偽りの息子、娘ではなく、真なる息子、娘です。そこから真なる家庭が出てくるのです。真なる家庭が出てきて、真なる氏族が出てきて、真なる民族が出てきて、真なる国が出てきて、そうすることによって真なる世界になります。その世界では、神様を中心として、家庭で天国生活をして、氏族で天国生活をして、民族で天国生活をして、世界で天国生活をしなければなりません。それでこそこの地が、地上天国になるのです。
 そのように生きて、この地上で体を脱いで永遠の天国に入れば、そこが霊界の天国です。これが、神様の摂理の概観です。今日、この地にサタンの血統を受けて生まれた人間は、真の息子、娘とは血統が違います。それゆえ、ローマ人への手紙第8章を見れば、養子の立場で「アバ、父よ」と呼ぶとあります。血統が異なるため、橋を架けて神様を呼べるのであって、直接には呼べないようになっているというのです。
 しかし、イエス様だけは、神様の直系の血統の因縁をもって来ました。それで、「ひとり子だ」と言ったのです。(160-44,1968.8.11)


 今、再臨の1日が来れば、天国でない楽園と地獄のどん底に、新しい理想圏をつくっていかなければなりません。地獄のどん底で、カインとアベルを探して、新しい神様の家庭圏を形成するのです。新しい神様の氏族圏、新しい神様の民族圏、新しい神様の国家圏、新しい神様の世界圏を成して、地上にいる人たちを、全部蕩減復帰しなければなりません。カインとアベルを蕩減復帰して、すべてを吸収、消化して、統一した世界を地上で編成せずして、天国を築こうとする神様の希望を、解怨成就する道はありません。
 それでイエス様も、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ16:19)と言いました。地で天国を成さずには、天上世界に天国が生じません。地上に天国の主権を立てなくては、霊界で善の主権を回復することができないという、とてつもない事情が内在しているのです。(143-30,1986.3.15)


 皆さんは、天国に行くという考えをしてはいけません。地上に天国を建設するという考えをすべきです。天国を建設する前に、まず皆さん自身が天国人にならなければなりません。天国人になるには、「父の心が自分の心であり、自分の心が父の心である」と自信をもって言うことができる程度に、父と心情一体をなさなければなりません。それで、地上で父の心に代わり、主と先祖たちの心に代わらなければなりません。それでこそ、歴史的なすべての問題を解決することができるのです。(3-295,1958.1.19)

 

(2021.12.3:写経奉献)

 

 ⑧天国に対する正しい観


 風が吹き、暴風雨が吹きつけることがあっても、自分が死んで滅びても、「この信念だけは間違いない。自分が間違うことはあっても、み旨は間違いない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と、夕の信仰が違う信仰姿勢をもっていながら、天国を恋しく思うなら、それはあまりにも愚かなことです。
 天国に接近することができる道とは、どのような道でしょうか。自分を考える立場では、天国に行くことができる道は生じません。自分が天国と距離が遠いということを発見するようになれば、自分というものを打破してしまわなければなりません。自分を攻撃する所でのみ、天国、あるいは間接的な天国でも開放され得る道が開かれます。
 しかし、自分を擁護する立場で、相対を自分に適用させようとする人、自分自らを主体的立場に置いて相対を引っ張っていこうという人は、天国とは関係を結べません。
 明らかなことは、天国は自分から成されるのです。いくら相対的天国が完備されたとしても、その天国が呼ぶときに、答えることができる自分自身になれないでいるなら、その天国とは関係がなくなります。
 天国とはどのような所でしょうか。サタンを屈服した所です。自身を屈服した所ではありません。自体だけを屈服した所ではありません。堕落した世界圏、習慣的な環境圏、あるいは常習化した所には、天国は臨むことができません。この常習化された環境を、サタンが凝り固まって支配しているために、サタンがここに寓居しているために、このサタンの環境を克服してしまってこそ、天国が来るのです。天国は、サタン世界の内容と相反する所で成されます。もし、そのようでなかったら、天国に成り得ません。天国という名前がついていても、それは環境をたぶらかすためのトリックにしかならないのです。
 天国という概念は、サタンを屈服した立場で、サタンが相対することができる一切の要因を否定した立場で、否定するだけでなく清算した立場で、成立することができます。サタンの否定的与件が残っている、歴史的な遺物であるとか、生活のすべての内容を否定して清算した基盤で、天国が肯定され得るのであって、それを残しては、天国の内容を提示することはできないのです。
 天国は、このように高貴なものです。絶対的基準の前に一致し得るものが天国だといいますが、我々が描く天国の概念は、あまりりにも混み入っています。あまりりにも邪となった立場で、天国を待ち望んでいます。このような生活環境で、絶対的な信仰基準をもって克服するところから天国が始まるのは間違いありませんが、それだけでは天国は決定され得ません。その基盤で、数千年間神様を苦労させ、数多くの人類を弄んだサタンを克服してこそ、天国が繰り広げられるのです。
 そのまま素直に信じてだけ行く立場だけでは天国が成され得ないということは、言うまでもありません。信じる心だけもっては、絶対に天国が成され得ません。その過程でサタンがいつも戦いを提示するために、戦いの路程を克服してこそ、天国が成されるのです。ここには主権がなければならないし、数多くの民がいなければならないのです。数多くの家庭が、国家なら国家自体を成して、一つの目的のために克服していかなければなりません。神様の立場から互いに相いれないことなく、主体と共に、どのような時、どのような環境、どのような所でも、こたえて和動することができなければならないのです。生命を捧げる覚悟をして信じる立場では、心に臨在する天国を感じるかもしれませんが、実体的な天国は成されません。2000年の歴史を通して、数多くの殉教と受難の代価を払っても、現実の舞台で天国は成就され得ませんでした。天国は、そのように簡単に成されるものではありません。
 聖書に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)という句があります。「主」という言葉は、永生について忘れられない、絶対的な内容を備えた立場で認識することができる言葉です。主なる神を信じるところから、天国が到来するのではなく、主なる神を愛するところから、天国が来るのです。父のみ旨は愛するところから成されます。信じるところからではなく、愛するところから成されます。
 今まで我々の信仰が、どれほど至らず、原則に到達するのに、どれほど遠い距離にいたかということを悟るべきです。もしかすると、ここに初めて来た人がいるかもしれませんが、個人を中心としては、慰めを受けられる立場に立てないのです。皆さん個人の心に天国が成されて、個人を中心として神様が喜ばれるといって、天国になるでしょうか。それは、個人の天国にはなるかもしれませんが、全体の天国にはなれません。
 神様が願うことは、個人の天国ではありません。個人が成立させた天国を眺めて喜ばれるのではありません。一人が喜ぶのを見て、天国がすっかりできたと言えるでしょうか。神様は、喜ぶことができる一人、イエス・キリストをこの地に送ったのは、彼を中心に万国を横的につなげて、全体の天国を模索しようとされたのです。それゆえ、メシヤをこの地に送り、犠牲にしたのです。(46-74,1971.7.25)


2)天国に行くための準備

 ①天国の拠点


 我々が真理に近ければ近いほど、真理に心酔するればするほど、その真理は、誰にも奪われない我々の中心となっていくでしょう。千万回混乱する地であっても、宇宙がにわかに破壊されても、中心を心にはっきりと立てた人は、決して変わらず、動揺もしないでしょう。
 しかし、心の中にそのような中心を受け入れる準備をしていなければ、いくら真の真理が現れても、それを知らず、真の生命が現れても知らず、真なる愛が現れても知ることができないでしょう。
 今日のキリスト教が、真なる真理と真なる生命、そして真なる愛を探そうとするなら、終わりまで自分を捨てて、誰も奪っていけない心の中心を立てる宗教になるべきです。
 今まで地球は、新しい大陸が発見され、だんだん広くなると思ったのに、むしろ日がたつほど狭くなってきています。言い換えれば、文明が発達できなかった時には、世界が広いように感じましたが、歴史が流れて文明が発達しながら、世界はだんだん狭く感じられるようになっているのです。このようなことを見るとき、真理の歴史を経てなされる理想世界は、すべてが自分と直接的な関係を結ぶようになる宇宙的な世界であることが分かります。
 天国人の基準、すなわち天国の生命と、天国の愛は、私たち自体から結実されなければいけません。
真理と生命と愛は、一つの家庭のようなものなので、真理には必ず愛と生命が伴うべきであり、愛にも生命と真理が伴うべきなのです。生命について見るときにも、同様です。そこにも愛と真理が伴うべきなのです。
 真理と生命と愛は、なぜこのようにつながっているのでしょうか。一つの物事が存在するためには、必ずその物事を中心として、上下、前後、左右がなければならないのです。存在するものは、何でもこのような3数の圏を脱することができません。これが存在の基本形態です。
 このように、三つが出会い、一つの統一的な形態を成していますが、力が逆順に進めば、本来とは異なった力の作用が現れるのです。それゆえ、本来、愛と生命と真理の神様であられますが、堕落した以後の人間が、愛と生命と真理が均衡の取れた三角形態を成せなかったので、神様はみ旨を成せなかったのです。(2-133,1957.3.17)


 イエス様に従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領して、イスラエルの王として君臨するようになれば、自分たちは一つずつの職位をもてると思ったのです。そのようなことは、問題ではありません。まず、自分の心の中に天国の基盤を築くべきであり、その心を中心として、体が神様と一つになり得る基盤を築くべきです。これが一番大きな問題なのです。天国は、自分自身から始まるのです。それゆえ、天国の拠点は、自分の心なのです。(47-273,1971.8.29)


 天国の拠点とは、どこにあるのでしょうか。キリスト教徒の中には、「イエス様を信じて天国に行く」と言う人がたくさんいます。それならば、天国の拠点はどこにあるのでしょうか。「天国はどこにあるか」と聞くペテロにイエス様は、「あなたの心の中にある」と言いましたが、その天国の拠点とはどこでしょうか。悲しむ心が天国の拠点になり、自分を主張しようとする心が、天国の拠点になるのでしょうか。社会を否定する心が天国の拠点になるのでしょうか。それは、我々が願う内容の拠点ではなく、神様が賛同することができる天国の拠点ではないのです。
 天国の拠点を探す人は、この地上の誰よりも孤独な立場にぶつからなければならなりません。それは、なぜそうなのでしょうか。神様が孤独であるために、その人も孤独でなければならず、神様が克服の歴史を経てきたために、その人も克服の歴史路程を経ていかなければならないのです。
 天地に悲しみがいっぱいだとして、人間がその悲しみを感じながら悔い改め、慟哭の涙を流すなら、その立場が天国の拠点になり得るでしょうか。それをもってしても、駄目なのです。新しい喜びを感じ得る時を願いながら教団に仕える反面、この世の罪悪を解決しなければならないと決意できなければなりません。そのような責任を誓う一つの方向がなくては、天の拠点はあり得ないのです。
 人々の中には、自分は良心的で、社会的に人々が仰ぎ見る立場にいるために、「天国は自分から始まる」と堂々と主張する人がいますが、それはその人が、善と悪は共に出発するという認識をもったからです。しかし、善と悪は、同時に出発し得ないのです。悪が東に行けば、善は西に行くべきであり、悪が動けば、善は停止しなければならないのです。また、悪が欲望をもてば、善は欲望をもってはいけないのです。善と悪は反対です。
 天国を探すための出発は、人間の世の中に対する希望をみな失ってしまったところから始まりました。それゆえ、現実生活で満足する人たちの中には、真の宗教人は存在し得ないのです。
 生死が行き交う運命にぶつかり、自分の存在を認識できない絶望に落ちるとき、習慣的な生活におぼれているのではなく、自分の生命までも否定しながら、新しい価値を探していかなければならないのです。このように進むところから、真なる善の出発ができます。
 このような観点で見るとき、「自分の人格が天の拠点である」と自信をもって言える人がいるでしょうか。いないのです。また、「私が今、率いている家庭が、天の拠点である。神様がおられるなら、うちの家庭を知らないとは言えない」と自信をもって話せるという家庭も、やはりないのです。また、「我々の氏族は、これこれこのような善の功績をもっているために、神様が我々の氏族に知らぬ振りをすることはできない」と、自信をもって言える氏族がこの世界のどこにいて、そのような民族がどこにいるか、国家がどこにあるか、主義思想がどこにあるかというとき、呆然としてしまいます。
 それで、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」というのです。では、その言葉はどういう意味でしょうか。悪の世界で、自分自身を千年以上守るために努力する人であってこそ、千年生きるという夢を見ることができるのであり、自分自身を万年以上犠牲にしても、それを有り難く考えることができる心をもってこそ、万年生き得る希望を見いだすのです。同様に、永遠の生命、永遠の幸福、永遠の天国を叫ぶ人がいれば、彼は永遠を目標として現時点を克服しなければならず、現時点で自分を犠牲にしながら、耐えて越えていかなければなりません。このような立場に立ってこそ、永遠の拠点が生じるのです。(47-247,1971.8.29)


 ②天国に行く基準


 神様を愛さずには、サタン圏内を脱することができないのです。それゆえ、自分の妻より、自分の夫より、神様をもっと愛さなければいけません。堕落した人類が、サタン圏内の愛落とし穴から、端まで出てきましたが、まだ完全に出てこれませんでした。それゆえ、自分の父や母を神様より愛してはいけないのです。(41-299,1971.2.17)


 天国に入ることができる人とは、どのような人でしょうか。まず、神様の心に合う人でなければなりません。どのくらい合わなければならないでしょうか。神様が永遠の目的を中心として、永遠の理想を描いていく方であるなら、永遠の基準で心が合うべきです。10年ぐらいは合っていたのに、また合わなくなってしまったのではいけないのです。永遠な神様に、永遠に心を合わせるべきです。そうするには、どのようにすべきでしょうか。永遠に互いに好むことができる息子になるべきです。そのような息子になるには、悲しみの対象としての姿を見せてはいけません。
 その次には、神様の体に合わなければなりません。ここで体というのは、方向性をいいます。考えは四方の中心点に代わりますが、体は方向性として現れるのです。神様の心に合う息子になろうとするには、神様の体が東に行くとき、神様と共に東へ行かなければならないのです。神様は、温かいものを好むのに、イエス様が冷たいものを好んでよいでしょうか。神様は今、笑いたいし、話したいのに、イエス様が「寝たい」と言ってよいでしょうか。外的な体を中心として現れるすべてが、一致しなければならないのです。
 それだけでいいでしょうか。違います。神様は、和気あいあいとした雰囲気を好むのに、殺伐としていてはいけません。神様が和気あいあいとしているときは、和気あいあいとしていなければなりません。内と外が合わなければならないのです。このように、内外だけが合えば済むのでしょうか。その次には、神様のみ旨と一致することをしなければなりません。そうするには、心にないことがあり得ますか。体が嫌がることがあり得ますか。体と心が好むことをしなければならないのです。神様がいらっしゃるなら、神様が好まれることがあるのです。また、イエス様が神様の息子なら、イエス様もそのようなことを好まなければならないのです。(47-257,1971.8.29)


 天国は、命を懸けなくては絶対に行くことができない所です。命を懸けない人が天国にいるか、いないか、天国に行ってみてください。信仰の本質がそのようになっているのです。(37-250,1970.12.27)


 ③天国の始まり


 天国は、どこから始まるのでしょうか。神様の悲しみを解かずには、天国に入ることができません。我々人間が、堕落して以来、今まで、悲しい歴史をつづってきたために、悲しい歴史のすべての因縁を直接探さなければなりません。アダム、エバから、6000年歴史から、その因縁を探さなければならないのです。そのような悲しみの神様を教えようというものが、統一教会の原理です。
 世の中の人たちは、悲しみがあれば、みな嫌だと逃げます。そのいかなる悲しい事情よりも、もっと悲惨な神様の悲しみを教えてくれるのが、統一教会の原理です。世の中なら、悲しいことがあれば回避して逃げますが、統一教会の原理は、この悲しい所を経ていこうとするのが信条です。
 世の中では、悲しいことがあれば全部避けていこうとしますが、本来人間は、そうできないようになっています。神様に対する悲しみを知れば知るほど、神様の悲惨な内容を知れば知るほど、実際における統一教会は、それを解いてさしあげようとする強い力が出てきます。力は、無限に爆発作用を引き起こす動機になります。これが、統一教会がもった偉大な力です。(21-113,1968.11.17)


 ④天国の本質


 天国とは、どのような世界でしょうか。そこは、本然の世界なので、サタンに讒訴され得る個人や家庭や氏族は、入ることができません。天国に入ろうとすれば、個人と家庭と自分の親戚である氏族が一つにならなければなりません。言い換えれば、3代が一つにならなければなりません。アダム家庭について見るとき、アダム1代、カインとアベル2代、カインとアベルの息子が3代、このように3代が一つにならなければなりません。神様を中心として見るようになれば、神様が1代、アダム、エバが2代、カインとアベルが3代になります。(21-54,1968.9.1)


 天国は「ため」に生きる世界であるために、「ため」に生きるという観念だけ中心にもっていかなければなりません。「ため」に生きてもらおうという考えだけをもてば、壊れていくのです。
 天国は、神様の愛が充満した世界です。愛の本質は「ため」に生きてもらうのではなく、全体のために生きるというものです。それゆえ、天国は世の中とは違います。
 宗教の教えは、「ため」に生き、絶対服従して、犠牲奉仕せよというものですが、世の中にはこのようなことはありません。これは、世の中の何も分からない乞食の輩がすることのようですが、天法を知らなくとも福を受けることができるようにするための、サタン世界に対する神様の暗号による作戦でした。(46-42,1971.7.18)


 ⑤天国の枠


 私たちは、本郷の地を見つけることができませんでした。本郷の地を見つけられなかったから、本郷の祖国を失ってしまいました。本郷の祖国は、地上天国をいいます。天国といえば、地上天国があり、天上天国があります。
 国になるためには、三大要素が必要です。第1は、主権がなければならず、その次には、国土がなければならず、国民がいなければなりません。しかし、神様には主管できる主権がありません。主管し得る人類がいません。ですから、祖国がないのと同じです。このようなものが、本然の人間が暮らすべき世界ではないのです。(155-26,1964.10.6)


3)天国に行くことができる要素と条件

 ①天国に行くことができる要素

  イ)苦労が必要


 永遠に残るものがあるなら、それは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたなら、先生に抗議をしてもかまいません。民族と世界、天地のために働いて打たれる人は、知恵深い人です。(19-30,1967.12.10)


 一国の責任者が怨讐に捕まっていき、優待を受けるようになれば、責任者を失った国の人々は団結ができません。捕まっていった責任者が悲惨に死ねば死ぬほど、彼と因縁をもった人々は、鉄石のように団結するのです。
 そのため、霊界が我々と結束され得る内容は、苦労だというのです。我々が苦労すれば苦労するほど、霊界は私たちと関係ができて団結するのです。
 そうしないで、ただうかうかしていれば霊界も同じです。そのような意味で、神様はサタンを通じて作戦されるのです。執拗に苦労させ、殺したりもするのです。死ぬこと自体はかわいそうですが、反作用で結合するようになります。(49-108,1971.10.9)


 天国に行こうとする人は、「悲惨に暮らせ、悲惨に死ね、悲惨に行け」というのです。その言葉は善い言葉ですか、悪い言葉ですか。善い言葉です。それでは、「出ていって死ぬほど出て伝道しなさい」という言葉も善い言葉です。「人のために命を捨てなさい」というのです。自分のためではなく、人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば、大宇宙の主人として立てて下さるのです。
 貴いものは、万物と人間と神様ですが、「この世界を善なる立場で抱く」と命を懸けて犠牲になった人は、その三つを懸けて犠牲になったために、神様は、その三つ以上のものを返してあげなければならないのです。イエス様はそのような観点で、「あなたの家の家族が怨讐だ」、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言ったのです。そうしなくては天国に行けないために、これが一番幸福な教訓になるのです。一番高く、一番貴く、一番なくてはならない、絶対的な福音なのです。
 それで、統一教会に来るようになれば、地上で豊かに暮らそうとしません。ひどく貧乏で、ひどく苦労して死んで、道端に倒れて犬もかみついていかない死骸になったとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこには、すべての聖なる人たちが集まって、城を築くでしょう。統一教会の群れを、国のために、世界のためにひどい苦労をさせて、孝行者、忠臣にしてみようというのが、先生の考えです。「行かない」と言うなら張り飛ばすべきです。足でけって、現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。
 それゆえ、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)とおっしゃったのが、第2の戒めではなく、第1の戒めです。
 その次に、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39)とおっしゃいました。あなたの隣人とは誰ですか。世界万民が隣人であり、兄弟です。世界万民のために心を尽くし、精神を尽くし、命を懸けなさいというのです。命を懸ければ、すっかり成したということです。み旨のために一度死んでみようというのです。どこで死ぬのでしょうか。自分の死に場所を探さなければなりません。一つの爆弾として生まれたら、きれいに岩に落ちて爆発すべきであって、下水のたまりに落ちるなというのです。我々は撃ってしまった爆弾です。「磐石の上に落ちよう。ひどいもの同士、一度やってみよう」と言うのです。このような決心をしたために、今日統一教会の文先生が50歳を越えても、まだ行くべき道が遠いと思わず、躊躇もしません。
 あすの希望を実現するために精誠を捧げながら涙を流し、努力と精誠を、熱と誠を尽くすのです。この目標に符合し得る一つの帰一点、その一点を備えるために、命をちりあくたのように捨てる覚悟をしていくのが、統一教会の先生がもった主流的な思想です。ここには、冒険が内外につながっているのです。無慈悲な血みどろの闘いを展開していっているのです。
 命の限りを尽くしても、死なずに生き残る基盤になるなら、これは人類歴史に手本になるであろうし、万民の幸福の基調になるでしょう。全天下がそれを和動の起点として、大運動を展開することができる軸になる立場で、神様を動かして、人類の希望を結束させ得る立場で、自分が動ずれば全体が動き、自分が静ずれば全体が静ずるようにするという宇宙史的な責任感を感じながら暮らす男性なら、決して臆病者ではないのです。(49-303,1971.10.17)


 修行の道に入っては、人は死ぬときまで死の道を行かなければなりません。死んですべき苦労を、生きて蕩減しようとするので、そのような道を行かなければならないのです。死んで億千万年苦労することを、縮小して、生きている間に蕩減してしまおうというのです。このように修行の道は、永遠に行くべき受難の路程をこの地上で苦難の道を歩んでいくことで蕩減しようというのです。(31-320,1970.6.7)


  ロ)愛が必要


 天国へは、愛の軌道に乗って、行くのです。このように話すと、実感がわくでしょう。その愛の紐を引けば引くほど、細くなるのではないのです。ゴム紐は、引けば引くほど細くなりますが、愛の紐は、引けば引くほど、反対に太くなります。
 ですから、み旨のために苦労の親分になることが、世界を占領し得る秘法なのです。苦労の親分が、天国の栄光を独り占めするのです。(57-162,1972.5.31)


 今日、宗教を信じる人たちが「天国に行こう」と言いますが、天国にそのまま行けますか。まず、地上で天国を迎えてから、行かなければならないのです。地上で天国を迎えるためには、愛の法度を経なければなりません。
 皆さんの家庭に、子女たちがたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をもっと愛すべき十字架が加重されるということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送るのは、背負う十字架が多いということなので、国のために捧げるべき責任が多いという意味です。そのような内容を知って、責任を果たす人になるべきです。そのような家庭であってこそ、その家庭に後代を相続することができる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。(32-232,1970.7.19)


 どのように天国に行くのでしょうか。神様の愛に狂って生きるべきです。アダムとエバ以上に、神様を愛すべきであり、ペテロ、ヤコブヨハネ以上にイエス様を愛すべきです。そうしなければ、神様が私を愛することができる、真の愛の相対圏を復帰することができません。これだけ復帰するようになれば、万事が思いどおりになります。
 お金がないと心配せず、息子、娘がいないと憂慮せずに、10年、20年その道を続けて行ってみれば、大きな山や険しい峰にも登れるようになります。自分には、だんだん下っていき、苦労ばかりするように感じられるのですが、だんだん高くなるのです。統一教会は、打たれながら大きくなります。一つの家の中で、10人が暮らしているとすると、公的目的のために10人の反対を受けながらも耐え抜く人が、その家庭の主人になるのです。すぐ天国の主人になるのです。(142-289,1986.3.13)


 皆さんは、五色人種の息子、娘を抱いて、その孫たちを抱くことができなければなりません。それで、神様の真なる愛をもって、真なる父母として、世界人を愛する家庭の主人になったという立場に立つべきです。神様の愛を中心とした、本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表し得る立場に立つことによって、初めて天国に入ることができるのです。
 天国に入るには、真なる神様と真なる父母の、真の愛に一つになるべきです。その血統的関係から生まれた息子、娘と共に、この地上に生きてから行く所が天国ですが、今までそのように生きて行った人は一人もいません。それゆえ、天国は空いているのです。(176-210,1988.5.9)


 天国に行く道は、兄弟を神様のように愛するところから開かれます。皆さんは、先生についていこうとしますが、その心で兄弟に従って共に行こうと努力しなければなりません。天国に一番高く、早く、良く導く者は、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すようになります。(66-125,1973.4.18)


 では皆さんは、世界天国に向かっていきますか、個人天国に向かっていきますか。世界天国に向かっていくと言うでしょう。先生も欲が深くて、世界天国に行く愛の綱をぎゅっとつかむために40年間、迫害されながらこのことをしたのです。個人の愛の綱を越えて、家庭の愛の綱、氏族の愛の綱、民族の愛の綱、国家の愛の綱、世界の愛の綱をぎゅっとつかむためにです。ぎゅっとつかんでどこに行くのでしょうか。世界の愛の綱を探した次には、福を受けて出世したので、還故郷するのです。故郷に行って、かわいそうな人たちを、生かしてあげるべきではないですか。(143-141,1986.3.17)


  ハ)実績をもつべし


 過去には、祈祷をして精誠を捧げても、瞬間しかその宗教の教祖と会えませんでした。会ってはみな別かれました。それで、また上がらなければなりません。しかし、今は全部宗教圏を中心として、地上に再臨することができる時が来ました。そのような時代が来たために、皆さんが過去と、現在と、未来を動かせる実績をもてなければ、天国に行けません。過去の時代は、天使と善なる霊人たちの時代であり、現在の時代は、父母の時代です。そして、未来の時代は、神様の時代です。それゆえ、霊界を動員し、父母様を動員し、神様を動員した実績をもたない人は、天国に入れません。アダム、エバに天使が動いて協助し、神様が動いたのと同じです。そうした次に、宇宙はアダム、エバが動かさなければならないのです。皆さん、神様を中心とした3世界すなわち、過去、現在、未来を支配し得る人だけが、天国に入ります。そうしてこそ、本然の世界である天国に行くのです。(161-199,1987.2.3)


 天国に行くことができる条件は、自分の息子、娘よりも神様をもっと愛すべきなのです。夫より、妻よりも、主をもっと愛するべきなのです。自分の体よりも、聖霊をもっと愛するべきなのです。これが三位一体です。(10-100,1960.7.17)


 では、天国に誰が入って暮らすのでしょうか。神様を喜ばせた息子、娘が入って暮らすべきなのです。ところで、堕落という名詞が生まれた以後、数千年の歴史を経てきながら、数多くの人類が膨張、繁殖しました。そのように繁殖した人たちの中で、神様を幸福にしてさしあげた人が、この地に生まれませんでした。(143-23,1986.3.15)


 皆さんは、統一教会を信じて天国に行くのを願っているかもしれませんが、自分がこの地上で実績を積むことができなければ、たとえ天国に行くとしても、恥ずかしいのです。我々は、観念的に信仰生活をして、天国に行くという群れではありません。すべての努力と精誠を注いで、天国を建設するという群れです。これに反対したり、制止する人がいるなら、許すことができません。天国を建設するためには、自分の心身はもちろんであり、自分のすべての所有物と環境まで全部投入しなければなりません。そして、国家の運命に責任をもつべきであり、さらにアジアの運命にまでも責任をもたなければいけません。(22-226,1969.5.2)


  ニ)「ため」に生きるべし


 皆さんが50年の生涯の中で、25年以上をこの宇宙のために、天倫に従って生きたなら、天国に行くのです。それならば、あの世に行って良い霊界にとどまることができますが、自分を中心にして生きたことが多くなれば、残念ですが善なる本郷の世界に行くのではなく、自分だけのためにしようとする悪の本郷の地獄に行くのです。そのような事実を知り、今から皆さんは自分のために生きた過去の生活を清算して、余生を全体のために、国のために、世界のために、天地のために、神様のために生きなければなりません。そうすれば、ここから地獄ではなく、天上の理想世界に向かって進むことは間違いありません(78-119,1975.5.6)


 霊界がどのようになっているかという事実については、誰にも負けない体験をし、また、霊界は私の専門的な分野です。あの霊界の秩序的起源を尋ねてみれば、どのようになっているでしょうか。「ため」に存在するようになっている世界が、天国です。そこは、我々の本郷です。
 我々は良かれ悪しかれ、いずれそこに行くべき運命に置かれています。それが我々の一生の道です。我々は、そこに向かって旅人の道を行っているのです。では、ここで問題となるのは、自分のために暮らしたか、人のための生活をしたかということです。その差に従って、人のために生きたことが多いというときは、天国に行くことができるのです。その反対になるときは、地獄へ行くのです。この原則は、この場では信じられないでしょうが、死んでみれば分かるようになります。神様は、人類を救うために、宗教を立てて摂理してこられます。それゆえ、高次的な宗教であるほど、その本郷のみ旨と本郷の原則に一致する教訓を述べざるを得ず、「犠牲になれ、奉仕せよ」という勧告をせざる得なかったのです。
 このように、神様が歴史と宗教の背後から摂理しているという事実を否定することができません。このような原則について見るとき、「ため」になろうとする宗教は発展することができますが、自分を中心にして世界に問題を起こしながら、主体的な立場に立とうとする宗教は下っていくという結論も、ここから見いだすことができるのです。(74-51,1974.11.27)


 天国は愛の世界であり、中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界です。(98-35,1978.4.8)

 

(2021.12.4:写経奉献)

 

 ②天国に行くことができる生活

  イ)我々の立場


 人間の創造は、神様が人間を神様の愛に同参させたことです。神様の愛から出発し、神様の愛の懐で成熟し、次に家庭を成して世界的な愛をつなぐ愛の完成者になり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが、人生の道です。
 堕落することによって、これが根本的に破綻しました。神様と人間との関係が隔離されてしまったのです。いくら神様の前に帰ろうとしても、帰ることができず、また、神様が我々人間の所にいくら来ようとしても、来ることができない間隔が生じました。壁が生じて、国境が生じたのです。その壁は、神様も越えることができず、神様を父母として侍る人間も越えることができません。
 この壁が、我々個人の心と体の間に入り込むようになりました。夫婦の間にも、壁が入り込むようになりました。家庭がそうであり、氏族と民族と国家と世界、全霊界の天国と地獄の間にも、このような塀が生じたのです。この塀を取り除かなくては、神様がいくら天国の栄光のみ座にいらっしゃるとしても、地上にいる我々は、包囲されたこの塀を越えることができません。
 これが、この地上に生きている人間の悲劇です。この悲劇をどのように打破するか。我々人間が、神様を父母として侍って生きるべきであり、神様からすべての生活を指導されるべき立場にあるのにもかかわらず、神様がいるのか、いないのかも分からず、あるいは「決定的に神がいない」、さらには「神は死んだ。我々人間世界で神を掃いて捨てなければならない」という悲惨な歴史的な環境が、我々が生きている世界に展開されています。(135-267,1985.12.15)


  ロ)天国に行けない場合


 み旨が動機になるでしょうか、自分が動機になるでしょうか。自分が動機になってはいけないのです。それなのに、いつもみ旨をあとにして、自分を動機とする時の多いのが、今日の人間たちです。み旨は受難の道を要求していますが、「私」はそれに背こうとします。相反する立場なのです。み旨は右に行けというのに、自分は左に行こうとします。「私が統一教会に入ってきて、誰々よりも苦労しなかったというのか」という条件を提示して、自分を弁明しようとします。
 自分を弁明しようとする者は、天国に入ることができません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。そこには一言半句、何かを提示する内容もありません。弁明される立場です。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が100パーセント認められるものだとしても、神様が見るときは一つです。自分が100と認めるものが、神様には一つなのです。それゆえ、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことはできないのです。
 天国はどこから始まるでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。
 皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。
 このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、1日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べてする習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服してしまったのちに、初めて成される天国が成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。(46-79,1971.7.25)


 今までの歴史上に、神様の前に呼ばれた人たちは、全部50代以上、60代以上でした。年が多くて、やつれて、間もなく共同墓地に行くしかない人たち、葬送曲を歌う日が近い輩だったのです。そのような背後から、神様は今日、このようにやつれてやせた老年層を捕まえて摂理しますが、これからは壮年層を捕まえて摂理しなければならないのに、彼らを捕まえてどのように摂理を展開させるかという心配をされたのです。神様は、そのような事情を抱いて歴史路程を歩んできたのです。
 老年時代が過ぎて壮年時代に、壮年時代が過ぎて青年時代に、青年時代が過ぎて少年時代に、少年時代が過ぎて幼児時代に、そのように皆さんは再び生まれなければならないのです。そうでなけば、天国に行けないのです。皆さんは、少しも汚れなく無邪気な幼子のように、かわいがられることができなければなりません。それで、イエス様はニコデモに、「新しく生まれなければならない」(ヨハネ3:7)と言いました。生まれ変わらなければ、すなわち「重生しなければいけない」と言われたのです。それで、神様は最後に収拾する役事として、母の腹中から救いの役事をしようというのです。どれほどすごいことでしょうか。(20-95,1968.4.28)


  ハ)天国のための我々の生活


 皆さんが70年、80年を生きると見るとき、その中で3分の2が悲しい生活だとするなら、この3分の2をどのようにすべきでしょうか。
 神様を中心として、うれしい生活にしなければなりません。天国化させなければならないのです。天国は与えながら生きる所です。神様も与えなければならないのです。父母は、子供に与えなければならないのです。良いものを与えてしまっても、もっと良いものがあれば、それもまた与えたいのが父母の心です。(34-141,1970.8.30)


 皆さんは今、戦っています。自分の一生の間、大砲を撃っているのです。世の中に対する前に、自身の体と心が戦っているのです。これをどのように平和にするか。この戦いで体が勝つか、心が勝つか。「私は間違いなく心が勝つ」と言える人にならなければなりません。心が勝つ人は、善の側であり、体が勝つ人は、悪の側です。
 では、体と心が戦っている戦場で、心が体を倒して勝つことができる秘法、または体が心をたたいて捕まえる秘訣とは何か、その戦法とは何でしょうか。これが問題です。その武器とすべての装備が、どのような方向を経て動員されるかという問題が、善になるか、悪になるかを決定づけるのです。ここにおいて重要なのは、この対立を解決し得る要因とは何かということです。悪の世界に暮らしている人間に、善が成立し得る必要要件とは何でしょうか。悪が成立する要件とは何でしょうか。これを知って、取ったり、取り除いたりしようというのです。この要件は、知ってみれば簡単です。(36-61,1970.11.15)


 優れているという男性、優れているという女性がいるときに、男性が男性の権利をもって「祝福を自分一人で受ける」、また、女性が女性の権利をもって「自分は一人で祝福を受ける」と言えますか。神様のみ旨を絶対視して、人類の希望として提示されたすべての条件を越えなければならないのです。そのままでは、できないのです。これからの地上天国ですることとは何かというと、夫婦が、世界的な歓迎を受け、世界から尊重される妻と夫になるための道を尋ねていくことです。それが、地上天国で暮らす生活方法です。(162-69,1987.3.27)


 「私」という一人は、善だけをつかんでいくことはできません。これは世界的に善が占めるとか、悪が占めるとうようになれば解決されますが、善が占めるときには生き、悪が占めるときには滅びるのです。このようにこの世界は、死ぬか、生きるかという興亡の道を走っているのです。
 個人は、歴史的所産物です。家庭も歴史的所産物であり、国家と世界も歴史の所産物です。その歴史の所産物の中で、善の所産物がどれほどになるでしょうか。自分の個体について比重を計算してみるとき、善の所産物がどれほどになるでしょうか。我々が暮らしている生活環境の中で、善の所産物が何パーセントになり、個体の人格の中で、何パーセントになるかというのが問題です。
 悪に接する要因をたくさんもっているか、善に接する要因をたくさんもっているかを見るようになるとき、全体が悪に接する要因によって囲まれています。
 悪の道においては、教育は必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができるのです。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくても誰でも行くことができるのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったために、今日人類道徳を中心として、良心の標準を見極めていきなさいと教育するのです。
 何を中心とした教育でしょうか。善を中心として、良心を中心として教育をしたのにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどれほどいるでしょうか。悪のことは習わなくても、誰でもみなすることができるのです。誰でも、満点になることができるのです。
 このような環境の中で暮らしている我々に、良心はいつも「善であれ」と勧告します。我々の心は、いつも善の人になれと、休まず自分を刺激し、自分に勧告するにもかかわらず、善の自分になったでしょうか。このような問題を考えてみるときに、きょうも嘆息であり、あすも嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息なので、嘆息で一生を終えるのではないでしょうか。言い換えれば、悪のことで終わりを見るのではないかというのです。このような結論を下すしかないのです。悪から生まれたために、悪でのたくり、悪に行くのが、今までこの世の中に生まれては死んだ数多くの人間たちの生涯であり、今この地に生きている数多くの人類の行路というものです。
 今日、統一教会は何をする所でしょうか。悪くなれと教えてくれるものでしょうか。それなら統一教会は必要ありません。悪は教えてあげる必要がないのです。悪の道は教えてあげなくても、楽に行くのです。(33-56,1970.11.15)


  ニ)我々と天国


 イエス様は死を目の前にしても、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、み意のままになさって下さい」(マタイ26:39)と言いました。死に際にも、神様に抗議するのではなく、父のみ旨がもっと大きいように、もっと大きな犠牲も当然捧げますという姿勢でした。この立場では、もっと深く入れるために、神様ともっと近い立場に入るのです。そのような人の前では、神様もどうすることもできません。そのような人を打つ人は、すぐに滅びます。神様自らが制裁をされるのです。それゆえ、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(同6:3)と言いました。
 ある日、「誰かに何千万ウォンをあげたから、それに対する利子をいくら持ってこなければならないのに」と言いながら、与えたものを記憶する人は、天国の主人になれません。与えたものを忘れなければなりません。
 父母が子供を育てるとき、いくらいくらを投資したから、その利子をもらうという、そのような父母がいますか。与えても、みな忘れるのが父母の心です。与えたものを忘れるだけでなく、もっと良いものを与えられなくてふびんに思うのが父母の愛です。その愛は永遠に続くために、父母のいない人を孤児と言い、孤児になるのを好む人はいないのです。(36-85,1970.11.15)


 天国とはどのような所か分かりますか。「ため」に生きる人たちが行く世界が天国です。自分のためにする人は、絶対行けません。そのような人は、地獄に行くのです。有名な牧師だからといって行けますか。行ってみれば分かります。
 我々統一教会は、怨讐まで救ってやり、共産党まで救おうとするのに、共産党統一教会を全部首を切ってなくそうとします。これが違うのです。ですから、どのような思想がこの世界を支配すべきでしょうか。我々は共産党よりもっと強くなければなりません。悪なる人になって強くてはいけないのです。「ため」にする愛を中心として強くなれば、世界を救って余りあるのです。
 今の我々は、天国で暮らす人ではなく、天国に行こうとしている人です。このような生活がどれほど続くと思いますか。きょう終わるだろうか。10年、100年かかるだろうか。そのようにしていて、死んだらどうしますか。それゆえに、接ぎ木されなければならないのです。ぷつりと切ってしまって、接ぎ木されなければならないというのです。(91-173,1977.2.6)


 最後に、どのような世界に行くのでしょうか。地獄に行くでしょうか、天国に行くでしょうか。皆さんは行きながら、「先生! 私を助けてください」と言う人になりますか、「先生! どうぞ来てください」と言う人になりますか。死ぬか生きるかなのです。皆さんは、「結婚して豊かに暮らす」と言いますが、先生が「豊かに暮らせ」と言うのは、「変わらない夫婦になれ」ということです。変わらない夫婦になるには、移り変わる世界に行って共に修練を受け、南北に別れ、四方に分かれて暮らす世界に行っても、分かれてはいけません。このように訓練された立場に立たなければなりません。(129-182,1983.10.30)


 ③四位基台と天国

  イ)天国は家庭が入る


 先生が、今まで家庭的にだけこのことをしてきたなら、迫害を受けることがありますか。先生は、お父さん、お母さん、親戚一家、姻族の八親等まで、全部集まった場で、み言で彼らを感動させる自信があります。間違いなく、親戚や一家全体をみ旨の前に立てる自信があるのです。それが天のみ旨ではないために、そうすることができませんでした。イエス様もそうすることができなかったために、自分の親戚の前から追い出されました。
 しかし、皆さんはそのようなすべての時を過ごした立場なので、親戚を伝道することができ、父母に取りすがって涙を流しながら、自分の切なる心情を吐露することができる時代的環境を迎えました。
 そのため、皆さんの立場は先生の立場より良いのです。今は、皆さんの親や親戚たちがみ旨を受け入れまいとするなら、泣き叫んで、どのような手を使ってでも感動させることができる時です。お兄さんは、どうしても対話するのが少し難しいですが、弟ぐらいは、「やあ、お前、信じるのか、信じないのか」と言いながら、小突いて強制的にでも信じるようにできる自由な時が来ました。このような時を迎えているのに、皆さんが責任を果たせなくては、天の前に面目がないのです。先生もこれからは、そのような人たちに対することができません。
 これをしなければ、天国に行けません。天国へは、家庭を成してこそ行けるのです。(21-66,1968.9.1)


 統一教会は、個人では絶対救われことができないと見ます。個人としては、天国に行けないのです。一人では行けません。原則がそうです。エデンの園のアダム、エバが二人一緒に天国に行くようになっているのであって、夫または妻だけ天国に行くようになっているでしょうか。夫婦が合わさり、家庭が合わさらずには、天国に行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行き、母は天国に行けば何の天国ですか。天国は、夫婦が行くべきであり、家庭が行くべきであり、家庭だけでなく、家庭の一族が行くべきであり、国家全体が行くべきなのです。(50-63,1971.10.30)


 天国は、どこから始まるのでしょうか。自身が生まれた心情的起源までも否定するところから始まるのです。それで、修行の道を行く人は、独身生活をするのです。しかし、ここには難しい問題があります。再臨主が来て、この問題を解決してあげる時までは、個人的問題に逢着するするようになるのです。
 個人の救いを中心にしては、これから行くべき道がないために、人類を救うためには、家庭を救わなければなりません。このような家庭全体が救われ得る道を開いてあげるために、再臨主が再びこの地に来られるのです。今日キリスト教徒が、「イエス様を信じて天国に行く」と言っていますが、全部個人主義に陥っているのです。本来、天国には一人で行くようになっていません。アダム、エバが堕落しないで、神様の愛の圏にとどまっていたなら、彼らは天国に行くでしょうか、行けないでしょうか。そのようになったなら、地獄はありもしません。
 天国は、夫婦が息子、娘を率いて行く所です。息子、娘、孫たちと共に、その一門を率いて行く所です。さらには、国全体が行く所です。それゆえ、天国になるのです。天国は、このようにして成される所です。(41-300,1971.2.17)


 一人で座って「ここが天国だ」と言えば、神様が考えるとき、どれほどもどかしいでしょうか。これをもって「良し」と言えますか。しかし神様が、人間世界を見るとき、宗教の世界を見るとき、どれほどもどかしいですか。(96-71,1977.12.18)


 我々統一教会は、どのような水準にまでなるべきでしょうか。釈迦牟尼よりも立派な人になるべきであり、イエス様や孔子よりも立派な人になるべきです。今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし統一教会は、個人の救いよりも、家庭の救いを目的とするのです。統一教会が一般宗教と違う点は、これです。救いを目的としますが、家庭を救い、天国に行くにしても自分一人で行かないのです。
 統一教会の救済観は、夫は天国に行き、夫人は地獄に送ろうというのではありません。二人とも天国に行こうというのです。母、父を地獄に送るのではなく、母、父を連れて、息子、娘も連れて、天国に行こうというのです。統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する氏族までそっくり連れて、天国に行くことができる道理を教える宗教なので、他の宗教とは次元が違います。
 それゆえ、今までの宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は、世界のための家庭であり、神様のための家庭です。これが統一教会の信徒が行くべき道です。(34-359,1970.9.20)


 家庭で幸福の対象者が誰かというとき、夫には妻であり、妻には夫であり、父母には子供であり、子供には父母です。この基地から天国建設が可能なのです。
 「天国はあなた個人にある」という話はされましたが、「天国はあなたの家庭にある」という言葉は言えなかったイエス様が、どれほどかわいそうであり、孤独であられたかを考えてみてください。
 それでも、皆さんは家庭をもち、幸福を謳歌しています。我々にはそのようにできる一瞬があるのに、天下を救うための求道者の主人であり、神様のひとり子であられるイエス様が、このような環境、天国基地を夢にも見ることができず、「天国はあなたの心にある」と言いながら、心で天国を犠牲にしようと歩き回って3年も満たせずに十字架で亡くなったので、その方の生涯が、どれほど孤独であり悲惨かというのです。
 イエス様が願った天国が心の天国ならば、心の天国を越えて環境の天国を築くということは永遠に不可能なのです。家庭天国を越えて、社会天国を築き、国家天国を築くというのは永遠に不可能です。世界天国はいつ成されて、天上天国はいつ成し遂げられるのでしょうか。メシヤには、万民を救い、霊界を解放して、神様を解放させるべき責任があるのです。
 このような立場を考えるとき、どれほど驚愕することでしょうか。イエス様が十字架に釘打たれて死んだのは何でもないのです。そこで倒れれば、天の前に面目が立てられないのです。天国理想、理想社会の覇者として立つようになるので、面目を隠すことができ、覆ってくれるふろしきがあれば探したかったのです。100回死んでも、その恥ずかしさを免れる道がないイエス様の心情を分かる者が、誰かいたかというのです。(120-48,1982.10.3)


 天国という所は、一人では行けません。天国という所は、必ず相対理想を決定づけてこそ入るようになっているために、堕落人間が天国に入るためには、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければなりません。
 皆さんに祝福をしてあげるのは、天国の門をすっかり開けておくということです。「祝福」という名詞を掲げて、閉じている天国の門を開けてあげることです。
 その門から家庭が入るのです。息子、娘をもって入らなければならないのです。家庭は、すべての実績をもった歴史的な実にならなければなりません。神様の6000年の復帰歴史が、一次アダム、二次アダム、三次アダムの時代を経たので、家庭でも三人の息子を経て、その三人の息子にも相対を立てておかなければならないのです。それで、家庭的に入るのです。(152-240,1963.5.25)


  ロ)イエス様と家庭


 神様を中心として、永遠に共に暮らすことができる愛の家庭を標準として教えてくれた宗教が、キリスト教です。神様が人間に会おうとするのも、家庭をつくるためです。人間の願いがこれです。これ以上の願いはないのです。(39-343,1971.1.16)


 イエス様は、家庭を成そうとしましたが、そのみ旨を成せずに十字架で亡くなりました。新郎新婦の名前を残して逝かれたのです。それでイエス様は、再び来て「小羊の婚宴」をすると言いました。これは何かというと、神様が安息し得る理想的な家庭を出現させることです。
 それによって、イエス様は真の父母の立場に行くようになるのです。真の父母の立場から、真の子女を生んで、真の兄弟を成し、このような真の家庭を中心として、真の氏族と真の民族を成し、新しい民族と新しい国家を形成なさらなければならないのです。これをするために、イエス様は再び来なければならないという結論が出てくるのです。(39-345,1971.1.16)


  ハ)四位基台と天国


 復帰といえば、四位基台復帰をいうのです。四位基台復帰をするには、父を復帰し、母を復帰し、息子、娘を復帰しなければならないのです。それゆえ、祝福された皆さんは、夫婦が完全に復帰されて、息子、娘を生んで、堕落しなかった立場に立てておかなければなりません。そうするためには、新しい伝統を入れなければなりません。そうしようとすれば、聖人より良くなければならないというのです。(58-35,1972.6.6)


 家庭天国を成すところで、初めて神様が理想とする地上天国が安着するようになります。それは四位基台にならなければなりません。
 「統一原理」において創造理想の完成は、四位基台完成だと言います。それはどうしてでしょうか。神様とアダム、エバを中心として、3段階を経て、縦的世界と横的世界が繰り広げられると、四位基台を成そうとするからです。
 アダム、エバの息子、娘がいてこそ、横的な世界が繰り広げられるのです。そのようになれば、縦的な世界が自然に生じるのです。体を中心とした、体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だというのです。そこで初めて神様が臨在なされることができるために、地上に天国が実現するのです。(96-29,1978.1.1)


4)天国の門と天国入城

 ①人間の心門


 釈迦牟尼のような方も、神秘的な境地に入って、「天上天下唯我独尊」という言葉を言いました。修道しながら精神を統一して、霊的世界に入って神様の前に完全な対象の位置に入ると「天上天下唯我独尊」という言葉が可能なのです。先生が世の中をぎゅっとつかめば、世の中がこの握りこぶしの中で溶ける気持ちがするのです。そのような境地に入るようになれば、奇跡は自動的に生じます。病気を治すのは、自然に信仰生活の付属物としてついて回るのです。
 それゆえ、心門に合わせて、心田を啓発しなければならないのです。この心の畑を啓発して、方向基準を開拓するためには、必ず主体であられる神様を発見すべきです。ところで、主体であられる神様は曖昧です。曖昧な神様につながるには精神を集中させて、自分の心から出発する道以外にはないのです。心から、心を明らかにしておけば、必ず方向を知るようになるのです。自然についていくのです。
 皆さんもそれを感じるでしょう。東に向かって祈祷をしたのに、神秘の境地に入れば、方向が変わるのです。そのようなことが繰り広げられるのです。それゆえ、心の門があるのです。
 祈祷は良くできるときもあり、いくら斎戒沐浴をし精誠を捧げても、できないときがあります。部屋によって、また部屋の位置によっても違います。一つの中心には東西南北があるために、その位置によって違うのです。また、方向によって違うのです。山に行っても、祈祷が良くできる所もあります。また、サタンが集まっている所もあります。それは陰地です。陰地と陽地は、霊的にそのようになっているのです。何回か体験すれば、そのようなことがみな分かります。
 暗示や夢のお告げや、啓示、黙示などが繰り広げられるのは、人間と神様との関係を結ぶために広がる、開拓的で発展的な不可避な現象なので、これをおろそかにせず、生活に適用できるよう努力しなければなりません。(76-143,1975.2.2)


 そのために皆さんは、心の門を開いて、心の畑を啓発することを今までしてきているのです。心の畑が啓発されたならば、それで終わるのではなく、それを相対的な世界に適用させることができなければならないのです。(76-155,1975.2.2)

 

(2021.12.5)

 

 ②開天門とは何か

  イ)開天門すべき理由


 きょうは、「開天門の日(1985年2月1日、米国ダンベリー刑務所内で宣布)」です。(人類始祖の)父母が過って失敗したので、失敗したすべての責任を神様が負ったのです。神様がもたれた責任を引き継いで、レバレンド・ムーンが門を開いてあげなければなりません。
 個人が行く門を開かなければならず、家庭が行く門を開かなければなりません。その次には、氏族が行く門を開かなければなりません。すべての門がふさがっています。民族が行く門もふさがりました。国家が行く門もふさがりました。世界が行く門もふさがりました。これをみな開いておかなければなりません。レバレンド・ムーンが、統一教会の家庭を通じて門を開こうとするのです。
 神様は、より大きなものを探すために、小さいものを準備してくる作戦をします。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、その次に天宙、霊界までも、地獄と天国に分かれています。これが、誰のためにそのようになりましたか。アダム、エバが真なる父母になっていたなら、これが一つの世界になったのに、堕落して偽りの父母が生じることによって、地獄と天国がふさがるようになったのです。
 この歴史的な恨みの塀を、誰が克服してしまうべきでしょうか。真の御父母様が克服してしまうべきです。そのことは、国の王権をもち、み座でするのではありません。
 人類が地上の地獄に暮らしていて、霊人たちが霊界の地獄で苦痛を受けているので、地上地獄の門と天上地獄の門をすべて開いて、地上の個人から国家と世界を連結させ、その次に、地上から天上世界まで通じ得るように道をつなげなければなりません。ハイウェイをつなげなければなりません。主流と通じることができる、たった一つの道としてつなげなければなりません。
 それで、皆さんの心と体が一つになり、一つになった基準で家庭を経て、氏族を経て、民族と国家、世界を越えて、天上世界に行ってもふさぐ塀があってはいけません。みな克服してしまうべきです。
 最後の問題は、ふさがっている霊的な地獄の門天国の門を開くことです。地上地獄の門を開き、天上地獄の門を開かずしては、天国に入ることはできません。地獄に勝った人だけが天国に行くことができます。何によって勝つべきでしょうか。祈祷で勝つことができるのではありません。神様の愛をもって勝つべきです。
 そうせずしては、天国に入れないために、レバレンド・ムーンは神様の愛を中心として地上を経て、天上世界の地獄の門まで開いて、地上から天上まで行ける道を築いておきました。「国際平和高速道路」という言葉も、それで出てきました。ふさがった塀を壊してしまうのです。
 イエス様が、天国の王子、ひとり子の権威をもつことができたのは、サタン世界だけを愛したのではなく、霊界まで愛したためです。
 霊的世界も塀でふさがっています。仏教圏があり、儒教圏があり、すべて塀でふさがっています。これを全部、より高い神様の心情を通じて払いのけておかなければなりません。天上世界の高いみ座から、存在する塀を壊してしまい、逆さまに下りてこなければなりません。
 何万年の我々の先祖の塀から、その次に何千年の我々先祖の塀、何百年のこの時代の塀、今、何年前に行ったすべての人たちの塀まで、全部壊し、地上のすべての塀を壊して、これを地獄までつなげることができる道を築かなければ、開天門がなされないのです。(140-43,1986.2.1)


  ロ)開天門の始原


 先生が有り難く思うのは、お母様です。お母様は先生がダンベリーにいる間、たびたび深い次元の心情的谷を経験しただろうと思います。分別のなかったころに出会って、その時から平衡線で上がってくる人生でした。そのように生きたために、基準がだんだん上がってきているのです。
 その前には、心情の深い谷は体験できなかったでしょう。ダンベリーによって別れてみたから、先生の貴い価値を知るようになったのです。女性が、夫に対して、その孤独な事情がどうであるかということを知ることができたのです。
 それで、2月1日を期して、天上世界と地獄の門を開く式をするようになったのです。今は、駄目なのです。極と極の立場に立てておいてこれをつなげ得る立場でだけ、初めて一つの解決点が生じるのです。霊界と肉界をつなぐのです。1885年2月1日午前3時(アメリカ時間)ダンベリーとイースト・ガーデンで、そのような基準を立てたのです。
 神様の心をもって、愛の力がつながり得ることを、皆さんがしなければいけません。ずうずうしい責任者になって、神様に救われる立場で、自分がこれから行こうとするのでしょうか、この垂直線から行こうとするのでしょうか。
 天性に向かって行く道は、男性と女性が一つになって行くべきですが、どこで一つになるのでしょうか。軸で一つになるべきなのです。軸で一つになって、軸に従っていかなければなりません。上がっていくときは、軸に向かって上がっていくべきであり、下がっていくときも、軸に向かって下がっていくべきなのです。
 そのような道を、家庭を中心として、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏まで蕩減復帰の原則により、誰でもが行かなければならないのです。誰でも、そのような道を経なければなりません。なぜなら、堕落圏にいるためです。(136-47,1985.12.20)


 先生は一生の間、怨讐を愛することをしました。個人段階からそのことをし、家庭段階でそのことをし、氏族、民族、国家、世界段階、その次に天宙段階までそのことをしました。
 ダンベリーになぜ入ったのでしょうか。霊界と肉界が塀でふさがっています。堕落した父母によってもつれてしまったものを解くためには、霊界と地獄に道を築いておかなければならなかったのです。
 1985年2月1日午前3時を期して、お母さんと特別祈祷をすることによって、そのような条件を立てました。その時から、地獄のすべての塀が崩れて、誰でも努力すれば、天上世界に上がることができる道が生じました。
 また、霊界において自分の親戚たちの中で善の霊がいれば、地獄に来て教育をして、率いていくこともできるようになりました。霊界の救世主の役割が始まったのです。
 救世主の役割が霊界にはなく、この地にだけあったのに、このような道を築いてあげることによって、あの世の善の霊たちが地獄にいる悪の霊たちを教育して、善の先祖が救世主の役割をしながら、発展して上がることができる道が開かれるようになりました。(136-187,1985.12.22)


  ハ)真の父母と天国の門


 統一教会の使命とは何でしょうか。統一教会は、過去の宗教とは異なり、個人的な救いだけを願う宗教ではありません。堕落しなかった本然の理想世界を願う宗教です。本然の理想世界は、完成した人間が、神様の愛の中で夫婦の因縁を結んで、息子、娘を生んで天国に行く所を言います。
 お父さんが地獄へ行き、お母さんが天国に行っては、それが何の天国ですか。父母は天国に行って、子供が地獄に行けば、それが何の天国かというのです。天国は、父母と子女、氏族、民族、国家がみな入る天の国です。
 人類が偽りの父母として出発したので、天国の門を開いて入るには、真の父母が出てこなければなりません。神様も、自ら天国の門を開くことができません。
 神様が自ら天国の門を開くことができるなら、そのような能力がある方が、なぜしないでしょうか。堕落は、人間がしたために、罪を犯した人間が罰を受けなければなりません。人間が天国を失ってしまったから、人間が取り戻さなければならないのです。それで6000年もかかったのです。
 では、天国を開門するためには、どのようにすべきでしょうか。僕の僕の立場にいる人を、養子として直系の息子と因縁を結ぶようにして、その直系の息子に絶対服従させなければなりません。ここにおける直系の息子とは誰かというと、堕落する前のアダムです。また、養子は誰かというと、堕落する前の天使長です。本来、養子は僕の立場なので、直系の息子のように愛することができません。(42-286,1971.3.27)


 堕落しなかったなら、霊界に行った人たちが、神様の愛と真の父母の愛の核につながって天国に入るのですが、歴史始まって以来、そのような因縁をもてなかったために、天国行きが全部保留になりました。どこで保留になったかというと、地獄で保留になり、その次には楽園で保留になっています。それゆえ、天国は空いているのです。
 天国には誰が先に入るべきかというと、真の父母が先に入らなければなりません。「天国は空いている」と言えば、レバレンド・ムーンを見て「ばかげた話をする」と言うかもしれませんが、イエス様も天国に入れませんでした。天国は一人では入れません。
 人間の先祖が、思春期を過ごし、神様を中心とした愛の理想をなして生き、真なる愛の種を残して父母になり、先に入るべき所が天国です。しかしまだ、神様の愛を中心として、父母としてこの地上に愛の種を残した父母がなく、そのような子孫を残した基盤が生じなかったために、天国は空いているのです。
 天国に行くには、地獄を経なければなりません。天国に行くには、地獄に勝たなければなりません。地獄に勝った人が、天国に行くのです。地獄を越えて、天国に入る道端にとどまっている所が楽園です。(140-45,1986.2.1)


 人類を一人の男性と一人の女性として見なさいというのです。40億の人類がいるなら、「40億の人類の半分である20億の人類は男性であり、20億の人類は女性である。20億個の細胞をもった男性が生まれ、20億個の細胞をもった女性が生まれた。私は、これを愛する」と、このように考えなさいというのです。40億の人類を植えて、アダムの再創造とエバの再創造の役事をするのです。
 その言葉はどういう意味かというと、20億の人類の中から、初愛をすることができる一人の男性を選び、20億の人類の中から、初愛をもって結ばれ得る一人の女性を選び出すためのものなので、このような代表者を20億の人類の愛の実として見るのです。それで、「20億の人類の愛の実になる実体を、自分を生んでくれたお母さん、お父さんよりも、もっと愛し、40億の人類を自分のお母さん、お父さんより、もっと愛する」というようになれば、神様の愛の圏を中心として、一つになった立場で、人類を愛することができるので、自分はサタン世界とは関係ない立場に立つのです。
 その代表的な方が真の父という方であり、真の母という方です。真の父母を愛する以上の心をもって人類を愛せば、万事がOKです。天上地獄の門も開かれ、地上地獄の門も開かれるのです。そのような人になるところは、どこでもハイウェイです。その代わりに、ガソリン代は皆さんが出さなければなりません。
 本然の世界では、天国に行く道は、真の父母が導くのではなく、天使たちが導くのです。
 真の御父母が皆さんを導くのは、原理ではありません。真の父母が道を築いておいたので、真の御父母を愛すれば、この道をついていくようになっています。
 今や、その道についていきながら、真の父母を愛する立場に立って、人類を真の父母以上に愛するようになれば、皆さんが行く道は、万事が都合よく運びます。ふさがる道がなく、小道がないのです。ハイウェイで直通する主流の心情路程を行くのです。ですから、皆さんは地上から天国まで直行することができるのです。
 世の中を眺めれば、二人、男性と女性がいます。父母様を愛する心をもって、皆さんはサタン圏を超越した心情圏に入るのです。父母様の前に引っ掛かる条件があれば、皆さんはまた行かなければなりません。それで、先生が一生を経て、父母の立場で子女たちが行くべき道を、責任をもってみな築いたのです。
 皆さんが父母様を愛する心で、人類を愛する立場にあるなら、皆さんは、真の父母と一つになって水平線に立つようになります。そうなれば、堕落した心情圏は下になるので、サタンが皆さんに触れることはできません。皆さんは、天国に直通することができるのです。そのようなことを始めるためのものが、「開天門の日」宣布です。(140-56,1986.2.1)


ニ)開天門の前に立った我々の姿勢


 真の父母が地上にハイウェイをつくっておき、天上において勝利の覇権をもたらして伝授してあげたので、伝授してあげたその立場で、体と心に神様の愛の根を張り真の父母と一つになることによって、サタンは皆さんを連れていくことができないのです。
 そうなれば、皆さんはどのようになるのでしょうか。先生が世界のために代表として、カインの息子、娘を救ってあげる蕩減復帰の役事をしたので、皆さんも真の父母を愛する以上の心情をもって、世界を愛したというようになれば、皆さんが地上世界や天上世界に行く道を、邪となったものが妨げることはできないのです。
 皆さんが地上から出発して、世界を越えて、天上世界、天国にまで直行することができるのです。しかし、そのようにできないときは、皆さんの行く道が、幾重にも重なった大きな山と険しい峰になります。
 これを先生が知ったために、今まで命を捧げて準備して、きょう皆さんに「開天門の日」記念に参席できる特権を与えたので、どうか、そのような心情圏をなして、皆さんが無事通過することができる勝利者になることを願います。(140-62,1986.2.1)


 ③責任分担を通した天国行き


 皆さんは今、どこにいますか。自分の位置を知るべきです。皆さん自身が、どこにいるか知るべきです。サタンと神様が、人間の責任分担の遂行可否について、「これは、あなたのものであり、これは私のものである」と分けています。人間は責任分担を果たせなければ、神様のものになれません。サタンが、「これは私のものだ」と主張します。
 皆さんが、神様の愛、夫婦の理想的な愛、子女の理想的な愛を慕いながら責任分担を果たすようになっているのであって、「お金が必要だし、何々が必要だ。子供の教育をしなければならない」と、このようなことを言いながら責任分担を果たすようにはなっていないのです。
 天国に入ろうとすれば、門番が責任分担を尋ねるのです。「あなたの責任分担を果たしましたか」と。堕落した世界には、絶対天国に行く人はいないのです。それゆえ神様は、アダム、イエス様の時代を経て、再臨時代を迎え、三次アダムを立てて、責任分担基準を撃破するための運動をしてくるのです。
 今、すべての宗教人たちが宗教を信じるのは、全部天国に行くための責任分担を果たそうということです。責任分担についてサタンは、すべての宗教人たちを一遍に燃やして祭物として捧げても、責任分担というものを人類の前に出してあげることができないと考えるのですが、神様は、この宗教人たちを犠牲にすることがあっても、責任分担を探してこなければならないと思うのです。(149-323,1986.12.21)


 ④天国と地獄は自身が選択する


 信仰生活をしながら、我々は不平を言ってはいけません。不平を言える内容がありません。喜ばなければなりません。涙を流しながらも、喜んで行かなければなりません。涙を流しながら、笑って行くべきなのです。
 このように教えてあげましたが、しなければ、それをどうしますか。しなければ、やりようがありません。神様もやりようがないし、先生もやりようがないのです。
 それゆえ、天国に行き、地獄に行くのは、自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのではなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言うところを感謝していけば、天国なのです。(96-122,1978.1.2)


 天国へは、誰かが教えてあげて行くようになっていません。良心的に生きる人は、自動的に行くようになっている所が天国です。太陽の光が差せば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草木までも、自ら方向性をもって回るのに、まして万物の霊長である人間が、自分の行くべき道を知らないはずがないのです。このような現象が起こるのです。(75-42,1975.1.1)


5)天国と地獄に関係した指示のみ言

 ①天国・地獄観設定


 自分の家庭を中心に、氏族圏を復帰することは、メシヤの使命です。このような氏族的メシヤの使命を果たすことによって、天国、地獄観を設定し、「そこに行けば天国であり、ここに行けば地獄である」ということをはっきりと分別して、地獄側に行かず、他の人も行かないようにしなければなりません。氏族がそのようになった場合には、その周辺の多くの氏族、町もみな、追いかけて来ざるを得ないのです。(217-84,1991.4.16)


 ②永生と地上生活の重要性


 地上の生活と霊界の生活とは、別々ではありません。地上の生活も重要であり、霊界の生活も重要です。霊界の生活は、地上生活からつながるという、そのことです。二つとも重要ですが、今日この地に生きる人たちは、永生の概念が分かりません。この地の生活が重要だと思っているのです。これが問題なのです。我々統一教会員にも、現在の生活が永生を保障する基盤であるということを知らない人がたくさんいます。
 それゆえ、「永生は今からだ」という天国観を設定した基盤上に、永遠の生命のために、自分が生きるという、その生命の重要性をいつでも感じなさいというのです。これを知らなければ、他のことをするのです。今、自分がするすべてのことで、永生の価値が決定するということです。
 地上世界と霊界は、互いに見つめ合って動きます。地上世界が上がれば霊界も上がり、地上世界が下がれば霊界も下がります。一方が回れば、他方も同様に回ります。
 それゆえ、現世においてそれを実感して、永生にプラスさせる生活をしなければなりません。永生と現世は分かれないのです。天国と地獄を明らかにしなければ、それが分かりません。永生と地上生活の重要性を感じながら、働きなさいというのです。それは、誰も面倒を見てくれる人がいません。誰よりも自分自身が、神様をよく知っているのです。
 そのようになれば、皆さんが進んでいくときは天運が抱擁し、その村を離れれば、その村の人たちが、「あの人はどこに行ったか。何日間見ないけれど、どのようになったのか。朝晩に聞いたその声が懐かしい!」と言いながら探すようになるのです。そのようにならざるを得ません。天運が共にあるために、良心をもった人は、自動的にその方向に、鉄粉が磁石にくっ付くように、すべての生命が光を向かうのと同じで、合わさるのです。
 先生がいなければいけません。日本人も、韓国人も、アメリカ人も同様です。なぜそうなのでしょうか。永生の観念には、一体化させようとする秩序があるからです。それをもって、すべての地上的な標準、永遠の標準とみなすことができます。それは、最も重要なことなのです。(217-85,1991.4.16)


(2021.12.6:写経奉献)

 

 

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