「家庭連合」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●真の父母は、ユダヤ教・基督教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

追悼! 康賢實真のお母様。「天使のラッパを高らかに!」

 

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康賢實オモニの著書「天使のラッパを高らかに」

 

 ●はじめに(栄光在天)

 家庭連合からすべての「信仰実績」を剥奪され、「教会史」からも存在すら抹消され、無視され、嘲けられ続けておられる方。このような非情な仕打ちを受けた元老が、かつていたでありましょうか・・・。


 「康賢實オモニ」に対するあまりにも不当なる汚名は返上されなければなりませぬ。それどころか神様と天界の真のお父様から、溢れんばかりの栄誉と賞賛を満身に受けるべき資格を持った天の聖人。それこそが「康賢實オモニ」の真のお姿に他なりません。


 今回一人でも多くの「成約聖徒」が、「康賢實真のお母様天宙聖和式」に真心からの追悼の祈りを捧げられますように祈念します。私から次の三章を奉献いたします。


●第一章 康賢實オモニは拉致され連れ去られたのか?

●第二章 康賢實オモニの「天使のラッパを高らかに!(信仰手記)」

●第三章 康賢實オモニの愛唱の聖句

 

 

●第一章 
康賢實オモニは拉致され連れ去られたのか?



 康賢實オモニムが、2016年12月に「家庭連合」から「米国サンクチュアリ協会」の亨進様のもとに「再献身」された時、当時の家庭連合内の教区長、代表婦人部長、基台長、の紋切り型の解説は次のようなものでした。


『康賢實女史は高齢のため「認知症」正常な判断能力が無く、「韓国聖殿」信徒に強制的に拉致され「米国サンクチュアリ協会」に連れ去られた。』



果たして、「康賢實オモニ」は「認知症」で「拉致された」のでしょうか。是非、最近公開された次の「YOUTUBE動画」で検証してください。

 


●「康賢實オモニ」が訪米のため「自宅から仁川空港に到着する迄」の様子

(2分31秒)(製作:キムフジオさん) 

youtu.be


 ご覧のとおり「康賢實オモニ」は自分の信仰的信念と強固な覚悟で渡米したのです。

 

 

●第二章 
康賢實オモニの「天使のラッパを高らかに!」
(信仰手記からの要約転載です)

 

●私の信仰のモットーは「真実であること」。

 私は釜山のボンネッコルで初めて先生にお会いしました。その当時、私は「長老教会の伝道師」であり「高麗神学校の学生」でした。その頃の私の信仰のモットーは「真実であること」でありました。1日に聖書を30章読むこと。お祈りを3~4時間すること。家庭訪問を3~4軒すること。このような日課を決め教会に勤めておりました。



●ボンネッコルの謎の青年

 ある日私の通う教会の女子大学生が『伝道師さん。あのボンネッコルで、ある青年が不思議なことを言っていました。「私たち堕落人間達が、堕落以前の世界に向かって辿って行く道を紹介する」』というのです。それで私はその大学生に『世の終わりには偽キリストが多く現れるから、わたしが一度行って確かめてくる』ととがめました。



●神様に一週間祈り求める


 それから、私はこの女子大学生に聞いたことをお祈りしました。「お父様、私が行って話を伺うのがあなたのみ旨にかなうか否か、かなうなら道を開けてください。行かない方がみ旨でしたら道を塞いでください」と一週間は祈ったと思います。



●1952年5月10日に先生を訪ねる。


 そして1952年5月10日土曜日、雨の日。雨でなかったら家庭訪問をするつもりが、雨のため出かけられず、教会に行ってお祈りを捧げました。ふと「この機会にあの不思議な青年に一度会ってみたい」と思い出されてそこに尋ねて行きました。その動機は「もしその青年が賢く、神様に召されるべき人物なら、こちらから行って伝道しなくてはならない」という思いでした。


●一生暮らせばあまりにも恨みが残る家。

 おばさんに連れられ、案内された家でお祈りして目を開けると、部屋があまりにみすぼらしく私は驚きました。家といっても、ただ石と土を混ぜ、小さく築き上げてあるだけ。畳2枚も敷けない小さな部屋で、壁のあるところは紙切れ1枚も貼らず。天井は雨が漏った跡があちこち汚く色どられ、オンドルの上は古いカッパの切れ端を2、3枚重ねて敷いています。「人がこの家に生まれて一生涯暮らすとすると、どのくらいの恨みが残るだろうか」。こう考えていると、一人の青年が入ってきました。この方が、まさに私たちの先生であられたことは、申すまでもありません。

 

●伝道師さん7年前から神様が愛しています。

 その時の先生の印象は、どこかの工場の労働者にしか見えませんでした。その時の先生のご様子はとてもみすぼらしいお姿でした。私を見て「どこから来たのか」とお尋ねになり、この下にある凡川教会に勤めている伝道師だと言うと、とても驚かれました。先生は「伝道師さん、7年前から神様があなたを非常に愛していらっしゃいます」とおっしゃるのです。占いをする人には見えませんが、7年前とおっしゃるので、7年前に私に何があった考えました。すると、私が神の召命感に燃え上がり、福音事業に献身を決意したのがちょうど7年前と思いつきました。


●あまりのみすぼらしさに、この道を疑う。


 この時からが問題でした。この道を行くか行かないかが問題なのでした。環境からは到底信じることができません。畳2枚も敷けない、雨のもるちっぽけな洞穴のような部屋で、多くて3人ないしは2人で礼拝しているのですから。私はどうしても信じることができませんでした。それで先生のところでお話しを聞いている時は、多少なりとも頷けるけれども、先生のところから離れると、どうしても信じられなく疑わしくなります。「私はどうして変なキリストを信じようとするのだろう。長老教会のイエスを信じても、いくらでも救いを受けることができる。また私より信仰の立派な人がいくらでもいて、安らかに信じられる」という思いがしました。他の教会は礼拝に群衆が波のよう居るのに、いつ見てもここは2人か3人じゃないかそう思いながら、今日も先生のところへ訪ねていくのです。


●「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」


 翌日、先生も玉おばあさんも、とても古ぼけた着物を着ていらっしゃいました。部屋の中は何もかもがめちゃくちゃで、私は嫌な気がしたし、気の毒に思われました。「この方達は大きなことは言うけど、いつ、どのように、この先生のおっしゃる世界になるのだろう。理論だけで実際はそうはいかない」と思いながら座っていると、先生は私に「聖書のどこでもいいから、一つ開けてみろ」とおっしゃるので、私は言われるままに開けました。すると先生が「そこ(マタイ伝14章31節)を読みなさい」とおっしゃるのです。それで読むと「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」とあるのです。その時先生は聖書を持ち上げ「これは人のことばでなく、神のことばである。神様が『信仰の薄いものよ、なぜ疑うのか』と言ってもまだ疑うのか」と叱るのです。


●基督教も宗教も天宙も原理で統一される。


 先生は続け「遠からずキリスト教がこの原理で統一される」とおっしゃいました。私はびっくりしました。「キリスト教統一には、教会の頭が集まり会議すれば、その後統一されるかもしれぬが、韓国・釜山のちっぽけなみすぼらしいボンネッコルの洞穴の部屋で、どうしてそれが可能なのか」と我知らず尋ねますと、先生は微笑みながら「今は不可能に見えるが、遠からずそうなるでしょう。キリスト教の統一は問題ではない。ついには宗教統一までなるのです」私はますます驚きました。しばらくお話を続けられて、「宗教統一どころか、世界人類が一つになる時が来る。すなわち天宙の諸々がこの原理のもとに一元化する」とおっしゃるのです。天宙という言葉をその時初めて聞き、私は「天宙ってなんですか」とお聞きすると、「天宙というものは天地を指すのだ」とおっしゃるのです。その時私は口軽くも「話ではいくらでもできますが、私には信じられません」と言いました。すると先生は怒りもせず「これは神のみ旨だから、時が来れば自然にそうなるのだ」とおっしゃるのです。


●あまりに疑いが出て正直に先生に話す。


 この時、幾日か過ぎても、あえて先生に言えません。あまりにも疑いを持ったからです。しかし数日が過ぎ、とうとう言いました。すると先生は「入る時は自分の思うままに自由に入れるが、出る時はそう簡単にはならない」とおっしゃるのです。本当に、私が静かに出ていこうとしても、たびたび事件が起こり、どうしても出て行けませんでした。私が今でも教会にいるのは、神が留まらせてくださったからです。その当時、先生自ら、私に関心を寄せ、お祈りして下さいました。またみ旨の前に立てんと真剣になって下さったお陰なのです。霊界も役事してくれました。しかし、それでも私は信仰が定まらず、悩み悩んだ後、これではいけないと思い談判祈祷しました。『神様どうか私に、真実に、神様がお喜びなされる道を教えてください』と。


●この道は神様の6000年間の大事業である。


そのとき神様は『私が6000年間地上に摂理し役事して来た仕事が、正にこの大事業なのである』とおっしゃってくださりました。それから後、私は先生だけを中心に生活してきました。先生は玉おばあさんと私に『手を出せ』と言われ、その上に先生の手を置き泣きながらお祈りをしました。『お父様、韓国の教会と社会が反対し背いております。それでも信じ、私はお約束通り、勝利の栄光をあなたに差し上げます。いくら苦労し超えられない峠があろうと、決して決して負けることなく、神のみ旨をこの地上に成し遂げてみせます』とお祈りしながら、3人で涙を川のように流した時もありました。


●今日統一教会があるのは、先生の血と汗と涙の道ゆえです。


今日、これ程までに「統一教会」が築き上げられたのは、「血」と「涙」の流れる先生のご苦労が言うに言えない程あったからです。もちろん皆さんもご承知でしょうが、実は私たちには想像もできないほどの困難な十字架の道を、先生たった一人で寂しく彷徨しながら、開拓してくださったこの道なのです。(終わり)

 

 

●第三章 
康賢實オモニの愛唱の聖句

康賢實オモニは次に紹介する「4つの聖句」を生涯大切に愛唱していました。

 

●第一の聖句【コリント第1の手紙 13章】


 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

 

 


●第二の聖句【ローマ人への手紙 3章10節から31節】


 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。


 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか、また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。すると、信仰のゆえに、わたしは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

 

 

●第三の聖句【ヨハネによる福音書 14章1節から7節】


 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。 エスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

 



●第四の聖句【ヨハネによる福音書 3章16節から17節】


 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

 

 

●おわりに

 真に「康賢実真のお母様」は真実な方であります。お父様が興南を出て、釜山から再出発された時、原理原本を書き終えられたその日にお父様を尋ねてこられた方。再出発摂理の初穂として誰よりもお父様の苦労と心情を共有し、共に神様のために涙を流されたお方であります。この後、大邸などの開拓伝道を勝利して、神様の御旨を支え続け、統一教会の礎を築かれた大功労者であります。

 今回、韓氏オモニの背信により、お父様が築いてこられた摂理基盤が水泡に帰し、再び礎造りの苦労をされる「三代王権」に対し、1952年当時のように命を懸けてお父様と二代王様をお支え申し上げようと、単身すべてを投げ打ち、米国ペンシルベニアに駆けつけてこられました。

 そして「人類の真の母の位置」に立たれましたが、聖書の黙示録の預言はもとより、お父様の絶対相対として、失敗したエバの蕩減復帰の使命を背負われ、絶対愛、絶対信仰、絶対服従の忠誠の基準を確立し、完全一体勝利を天の前に奉献しました。

 今や天界で真のお父様と一体となられ、真の「聖霊実体」として罪悪世界を慰労と平安の御業で、聖化し導かれる事と拝察いたします。

 誠に誠に「再臨のキリスト」のみに絶対的な忠誠忠孝を貫かれた天の愛する娘。私たちも必ずや相続させていただき、共に栄光を天にお捧げしてまいります。


「康賢実真のお母様」誠にありがとうございます!感謝申し上げます!

『康賢実真のお母様天宙聖和式』の挙行を祝し 億萬歳!億萬歳!億萬歳!

 
(2019年3月16日)

 

 

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