永田正治 (Masaharu Nagata )
●はじめに(文責:川原徳昭)
物事の本質は、単純明瞭である。
文鮮明師を再臨主と信じるなら、文師の心情を中心に問題を整理しなければならない。
文鮮明師聖和前、顕進様の離反と、財団資産を占有した事実に対して、文師がどれだけの「血涙」を流されたかを「郭・顕進様派」の皆様は思いを馳せなければならない。
ところが、「郭・顕進様派」の皆様の中には、文鮮明師は、霊界に行かれ、事実を知り逆に謝罪していると考えている方がいる。実に本末転倒、かつ自己本位で開いた口がふさがりませぬ。
自分たちの過去に対する真摯な謝罪もなければ、一片の悔い改めもない。
「郭・顕進様派」が「信仰集団」ではなく、ただの「公益財団法人(政治結社)」であることを、この一事が証明して余りあるではないか。
●本日の論点
「メシア的な人物」発言にこそ郭氏の信仰観が表現されている。
私たちは、アボニムに対し「彼をメシア的な人物と認め」などと言いません。これを「言葉狩り」という神経が分かりません。
イエス様をメシア的な人物などと言いません。
お釈迦様を教祖的な人物などと言いません。
孔子様を教祖的な人物などと言いません。
エリアを預言者的な人物などと言いません。
イザヤを預言者的な人物などと言いません。
エレミアを預言者的な人物などと言いません。
ペテロを使徒的な人物などと言いません。
カントを学者的な人物などと言いません。
アインシュタインを学者的な人物などと言いません。
西田幾多郎を学者的な人物などと言いません。
上のような表現をしたら、その分野でかなり知識の乏しい人物か、国語能力がかなり低い人物と思われます。どんな立場かあまりに明確な人物に、「…的な人物」などと絶対に言いません。私は当たり前のことを指摘しましたが、加油氏はそれを「言葉狩り」と言います。私が「言葉狩り」をしているのではなく、「事必帰正」の言葉が極めて不適切なのです。よくそれを逆に、「言葉狩り」などと批判できますね。
オウム真理教の麻原彰晃も、「教祖的な人物」などと言いません。彼もオウム真理教の教祖だから、「麻原教祖」と言います。誰かが、麻原を「教祖的な人物」と言ったらどうですか?まず、日本人で、そんな表現を使う人はいないでしょう。絶対に言わない言葉です。そのくらい、アボニムを「彼を教祖的な人物と認め」などということは、あり得ない異常な表現です。あなたがそう言ったことがありますか?また、食口で、そんな表現を使っているのを聞いたことがありますか?
また、加油氏は「食口の良く言う「原理的な生活」といった場合、原理のようだが原理ではない生活という意味になるでしょうか。『~的』という言葉に否定の意味は一切ありません。また引用された前書きの部分は、一般人向けの用語解説や前提を説明した箇所であり、表現はより一般的になり、郭先生の信仰的主観ともいえません」という主張をしました。
私はそれについてこう反論しました。「原理的な生活」と、「メシア的な人物」は、示される意味が大きく異なります。「メシア」は、世界に一人しか存在しない固有名詞で、私たちにとって、アボニム=メシアであり、他にメシアはいません。それをあえて、「メシア的な人物」などと絶対に言いません。反対に、「原理的な生活」の、「生活」は、「全ての人間の生活」を指すことができます。これは、誰に対しても使える表現なのです。「一人」か「全ての人」の違いです。この二つの表現を同列に扱うことなどできません。
加油氏は「前提」は一般向けの文章で、一般に理解を容易にするために書いたものだから、この表現になったかのような弁明をし、それは譲れないと言っています。この「前提」が一般むけなはずがありません。前提の3と4を示します。この難解な文章を読んで、一般人が何を理解し、本文を読むときに、何が容易に理解できるようになるのですか?私は、なぜこんな文章を書くにか意味が分からないし、内容自体、統一教会の普通の教会員の理解とかけ離れたものになっています。読者は以下を読まれ判断してください。
3.広い意味での「統一運動」と、狭い意味で特定組織を言及する時の混乱についてこの本で、私は故・文鮮明総裁の霊感を受けた多くの個人や組織、事業を「統一運動」と言及し、時には「統一教会」とも表現しています。さらに広い意味での「統一運動」と、特定組織の間には差があることを理解することが重要です。また、文総裁は、新しい宗派を作ろうとする意図がないとはっきり主張しており、代わりに、人類が宗教を超越し、神様の息子娘として一つとなり、世界平和をなすことを願われました。 文総裁は、ご自分の教えを全世界のキリスト教界に伝播するために、1954年に「世界基督教統一神霊協会」を設立しました。そして1996年に「世界平和統一家庭連合(家庭連合)」を創設する時、文総裁は、霊的成長と発展のための中心は、宗教組織や聖職者ではなく、家族単位であることを明らかにされました。重要な点は、世界基督教統一神霊協会と世界平和統一家庭連合のどちらの組織も「統一教会」でないばかりか、これらが組織階層を構成したことはなく、どの組織階層の一部でもないということです。この組織は法的な組織階層構図がない、膨大な統一運動団体の中の2つに過ぎません。文総裁は「宗教時代の終焉」を宣言し、世界基督教統一神霊協会の使命終結を宣言した後、新たに別途の摂理機関として家庭連合を創設しましたが、人々はその後もなお、文総裁の霊感を受けて活動する組織と事業を指して、「統一教会」と呼びました。このため、組織と運動に対する名称においては、いまだ混乱が続いています。文総裁は、いわゆる「教会」時代が過ぎたと言われましたが、社会の大半においてもそうであり、統一運動内の組織文化においても、ダイナミックに変化している統一運動に対して、依然として固定観念が残っています。 また、残念ながら、現在の統一運動は、正統性と権威と統制権を主張するいくつかの勢力が、互いに似通っていたり、区別しがたい団体名を使用して分裂しており、この状況をさらに混乱させています。
4.「霊的権限と法的権限の問題」 文鮮明総裁は、カリスマ性を持って統一家を率いた霊的指導者でした。私を含めた多くの人達は、彼をメシア的な人物として認め、その方が神様のみ旨に絶対的で献身的に一生を生きてこられた姿を見ながら、その方を尊敬しました。したがって、文総裁は、統一運動を構成する多くの個人や組織に対して、大変な道徳的かつ霊的な権威を持っておられました。文総裁の霊的指導を尊重する人達が、その方の決定が神様のみ旨と一致したものと受け入れることは、珍しいことではありませんでした。しかし、文鮮明総裁が霊的権威と法的権限を区別され、ほぼ大部分の統一運動の内部組織を統制する法的位置を持たれなかったことを理解することは重要です。(P.5)
加油氏はおそらく20代の青年なのでしょうね。文面から強くそんな印象を受けます。私は加油氏に言いたい。自分は「加油」という匿名で、批判する相手は「言葉狩りしかしない永田正治氏」と、あえて実名を強調する。失礼だとは思いませんか?人の「名前」というものは重いものです。私は、サンクチュアリ教会の青年がこんなことをしたら注意してやめさせます。今からでも実名を明かして、他者を批判してください。
●おわりに(文責:川原徳昭)
私の素性は、本ブログの最初の記事に「家庭連合退会届」がありそれを参照してください。
永田正治氏が主張することは、もっともな見解です。
もし、見解を相互に闘わせたいのであれば、「加油氏」も本名と所属(家庭連合所属か否か・三男派での役職)を証しするべきです。その手続きを踏まえるのであれば、私もお相手いたしましょう。(私も質問を受けているからです)真実が究明されることが目的であれば、異存はないはずです。
ただし、私は、永田氏のような物腰やわらかい紳士ではございません。そこで、対応としては、「郭氏顕進様派」の根本的な問題点を特集記事で連載させていただく形になるであろうことをご容赦ください。
あなたへの論説に付き合っている時間もヒマも持ち合わせていないからです。
実名公開への返答を待ちます。
なければ、あなたへの問いかけに対し、真面目に対応する義務も責任もないことをご容解ください。
祈り。アージュ。
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