「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(01)第1巻『真の神様』 第1章 神様の本体

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第一章 神様の本体

1)神様は無形の主体であられる

2)無形の神様は体が必要

3)神様は人格的な神

4)神様は父であられる

5)法度の中での全知全能である

6)愛によって遍在される

7)既存の神観の問題点

 

 

1)神様は無形の主体であられる

 ①無形でいらしゃる神様

 

 神様はどんな形態ももっていらっしゃいません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。(35-156,1970.10.13)

 

 神様は、果たしていらっしゃるのでしょうか。誰かがつねって「あっ」と叫ぶよりも、おなかがすいて御飯を食べるよりも、もっと事実的に感じられる神様がいらっしゃるのでしょうか。問題は、そこにあります。本当に神様がいらっしゃるとするならば、問題はすべて解決されます。(89-72)

 

 人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心は、どこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中に、ない所はありません。
 同じように神様がいらっしゃるならば、神様も、この世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます。(38-242)

 

 神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であられるので、霊界に行っても見ることができません。(89-72,1976.7.11)

 

 知恵の神様、全知全能なる神様は、中央で思いどおりに振る舞える無形な存在としていながら主管するのが、一番便利だと考えられたのです。神様は、無形であるので、存在世界を思いどおりに突き抜けてきても、少しも支障を感じません。皆さんには体がありますが、神様が来て思いどおりに過ぎていかれても、皆さんには分からないのです。
 神様が、こくりこくりと居眠りしている皆さんの体を、思いのままに踏んでいかれても、分からないのです。それで、どんなに便利でしょう。ですから神様は、考えた末に、見えない神様としているのが一番便利だろうと思い、見えない神様になられたという論理は、妥当な論理です。(138-167,1986.1.21)

 

 私たちは、空気が通っていることが分かりません。空気が通っているのに、それを感じられません。空気が通っていることを感じられないのに、神様が通っていることが分かるのかというのです。
 神様は、無形の神としていらっしゃるのが最高に便利な方法です。そうしながら、この大きな宇宙をふろしきで包んでも余りある、そのような神様でなければならないのです。無形の神様ですが、神様の心は、この宇宙よりも大きいものを要求しているのです。(138-167,1986.1.21)

 

 皆さん! 愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆さんの血統を継げる精子卵子をみなもっているでしょう。良心ももっていますか。それでは愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見ましたか。その存在の現象は知っていますが、触ったり、見たりできないことを知らなければなりません。ただ心で感じてこそ知ることができるのです。
 同じ論理で、神様がいるのか、いないのかと言う時、または神様を見たのか、見なかったのかと尋ねる時、「見なかった」とは言えないのです。(275-13,1995.10.30)

 

 心の中に神様が入ってきて、いらっしゃれば心が分かります。神様が心の中に入ってくれば、壁も突き通して見ることができ、じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。永遠なる神様が心の中に入ってこられれば、そのようにすることができます。永遠を時間ではとらえることはできませんが、永遠の中に時間があります。ですから、神様は見えなくても、心には分かるのです。(41-285,1971.2.17)

 

 神様はどのように愛するのか、というときに、答えるのが大変でしょう? 神様は、無形の神なので、どこでも通ることを知らなければなりません。若奥様の目の中に入って、心臓の中にも入って……。どこにでも行けないところはないのです。すべてに通じるのです。それでは、神様はどこに住んでいらっしゃるのでしょうか。神様の住んでいる家は、私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入り、生きるというのです。(128-325,1983.10.2)

 

 全知全能なる神様、すべての天下を料理される神様が、ここにいらっしゃるとしましょう。力でいえば、太白山も吹き飛ばし、地球に穴を開けられる能力の神様なのですが、そのような神様を皆さんの目で見ながら生きるとすれば、生活することができると思いますか。
 神様が見えなくて良かったというのです。見えれば皆さんは、神経が衰弱して、一時間も我慢できないのです。ですから、神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。これは笑い話ではありません。今までの話は、私がそのような問題を中心として深刻に通過してきた経験談です。他人のことを言ったのではなく、私が今までたどってきた経歴報告のような話です。(38-244,1971.1.8)

 

 もし、この世界に、空気が1升しか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地悪な方ならば、世界統一は問題ありません。多分、5分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって、「お前たち、統一するのか、しないのか」と言えば、世界人類が合唱して「統一します」と言うのです。そのようにすれば一遍に統一できますが、神様が空気をもってそのようにされないのは、有り難いことです。空気がなければ、私たちは生きることができません。このように空気は、生命に絶対に必要な要素です。ところが、空気に対して有り難く思いもせずに、どろぼうみたいに使っています。(38-244,1971.1.8)

 

 天宙の大主宰なる神様が人間の目に見えるようになれば、神様をお互いが奪い合おうとして、けんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神様が見えなくて良かったのです。
 もし神様が見えたとすれば、アメリカとソ連がお互いに、自分の神様だと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止められますか。神様は全知で、こんな争いが起こるかもしれないので、無形でいらっしゃるのです。神様が見えることを願うのは、ばかげた行為なのです。見えなくて良かったのです。(41-285,1971.2.17)

 

 この宇宙は、神秘に包まれています。その大きさが210億光年にもなる大宇宙です。1光年とは光が1年間かかって行く距離をいいます。1秒間に地球を7周半も回ることができる光ですが、この光が1年間かかって行くのが1光年です。
 それでは。このように大きい宇宙を支配できる主人は、どれほど大きいでしょうか。背が高いとすれば、どれほど高いでしょうか。神様がそれほど大きければ、神様自身が足手まといな体を引きずりながら歩き回ることができるでしょうか。ずるずると歩き回るとすれば、どれほど大変でしょうか。一度動けば、宇宙がすべて驚いてひっくり返るのです。神様は、知恵深い方です。それで、「見えない主人になろう」と考えられたのです。(138-167,1986.1.21)

 

 神様は、どれほど重いですか。それを考えたことがありますか。神様は、どれほど重いですか。斤数で量れば何斤になるでしょうか。何億万トンになるでしょうか。重ければ、その体で歩き回るのは大変ですが、神様は、無形でいらっしゃるので理想的です。財布に入れて歩いても重くありません。
 また、無形なので、どんなに狭い針の穴も通り抜けることができます。思いどおりに運行できるのです。大きいと言えば大きいのに、小さいと言えば無限に小さく、この宇宙どこにでも思いどおりに運行することができるのです。(136-106,1985.12.22)

 

 一番貴重な物があったとすれば、いつも持ち歩きながら、一時もその物と離れたくないのです。それでは、最高の宝物といえる神様をもっているとすれば、その方をどこにしまっておきたいでしょうか。安全にしまっておける倉庫があるとすれば、どこでしょうか。その倉庫が私たちの心です。人間の心が神様を安全にしまっておける倉庫です。(41-285,1971.2.17)

 

 神様は無形なので、有形の存在を自分より重要視しなければならないという結論が出るのです。そうでなければ回らないのです。また、人は、自分の体より見えない心と神様を重要視しなければならないのです。(111-49,1981.1.18)

 

 ②本来は自然に分かるようになっていた

 

 人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのか、いないのかという弁論は必要なかったはずです。生まれながらにして、自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中で、お乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに、目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場にあることを知るようになっていたはずです。
 ところが、堕落することにより、全部忘れ去ってしまったのです。それで、神様がいるのか、いないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは、悲惨な事実です。
(20-306,1968.7.14)

 

 人は、この宇宙の被造万物の中の傑作品です。どのくらい傑作品かというと、皆さんが察し得ないくらい大きく、素晴らしい傑作品です。それでは、絶対的な神様がいらっしゃり、人を造られたとすれば、神様自身が言うこと、見ること、感じることが人間には分からないように造られるでしょうか。(53-51,1972.2.8)

 

 神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを、歴史を通して認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば、神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。
 堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が「神様は存在しない」と否認するでしょうか。否認することができないのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-307)

 

 「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は、私が考える前にいらっしゃった方であり、私のすべての感覚、私の一切を主管する方である、という立場でなければなりません。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知ることが原則です。
 私たちは、寒ければ寒いということを、知って感じるのではなく、感じて知るのではないですか。これと同じように、神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを、皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。
 言い換えれば、体恤的立場をどのように私たちが確定するのかということ、これが問題なのです。(58-291,1972.6.25)

 

 皆さんが寝ていても「お父様」と言うことができ、独り言でも「お父様」と言えなければなりません。御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながら、その生活の裏面で父に対する懐かしさをもって「お父様」と言えば、父の手がつかめます。夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言えば、父の懐に抱かれるのです。
 このような表現的圏において、体恤的感情をどのように体得するかということは、信仰生活で何よりも貴い内容であることを知らなければなりません。そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんが、その人の信仰基準になり得るのです。
 そのような愛の心情をもったならば、どこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、「天よ、共にいてくださるように」と言う前に、既に神様は共にいるのです。このようなことを皆さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。(58-299,1972.6.25)

 

 統一教会の「原理」は、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だと言います。二性性相であられる神様自身の分性的実体としてアダムとエバを造り、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何のことかと言えば、アダムとエバが成熟すれば、神様の男性性相はアダムの心の中に、神様の女性性相はエバの心の中に入っていくということです。
 だからといって、神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。(138-245,1986.1.24)

 

 神様は二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在だということは、今まで話さなかったのです。そこに、愛を中心とした統一的存在であることを付け加えなければならないのです。(223-268,1991.11.12)

 

2)無形の神様は体が必要

 ①体をもつためにアダムとエバを創造

 

 神様は、どうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様は、どのような形ももっていません。大きいと言えば、無限大です。小さいと言えば、無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても、実体をもった万物は、その神様に直接主管されません。ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。神様は、地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するには、その中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様は、アダムを創造されたのです。(35-156,1970.10.13)

 

 アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとされるのが、神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様がアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいる自分自身のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。(35-158,1970.10.13)

 

 神様は、なぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形の方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は、第1に、アダムの体を無形の神様がもつことであり、2番目は、体もつことによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。
 この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。3つ目は、神様は中心軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。(232-210,1992.7.6)

 

 霊界に行っても神様を見ることができません。神様は見えないのです。力が見えるでしょうか。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。体がないのです。ですから、実体世界を指導して主管するためには実体をもたなければならないのです。神様は、どのような神様ですか。アダムが堕落しないで完成して地上で暮らし、天上に行くようになれば、アダムの形状をもった神様になるのです。それで、見えない神様と見えるアダムが一つになるのです。そのようになれば、アダムが「ははは」と笑うのは、神様が「ははは」と笑うことになるので、それはすなわち宇宙が「ははは」と笑うことだというのです。(105-193,1979.10.21)

 

 無形の神としていらっしゃる神様では、この宇宙を相手に刺激を感じることができないのです。心自体だけをもってしては、どんなに刺激しても感動しないのです。無形では、それと同じなので刺激が来ないのです。これが互いに反するもの、熱いお湯と冷水が合わされば爆発するでしょう? そのような刺激が必要だというのです。(141-37,1986.2.16)

 

 神様は、霊界でも無形です。形がありません。それで、姿をもった人間の父母になるためには、神様も姿をもたなければ中心になることはできないのです。(222-337,1991.11.7)

 

 神様の最後の創造目的は、体をもつことです。実体世界を主管するためには無形の神様では駄目なので、万民の父母として体をもって現れなければならないのです。感覚器官をもって刺激を感じ得る主体と対象として立つためには、体をもたなければなりません。(25-342,1969.10.12)

 

 実体世界を造られた神様が無形であっては、実体世界を支配することはできません。それで体が必要なのです。(アダムとエバを)創造された目的は、神様も実体をもって、実体の父母になるためです。その実体がアダム、エバです。
 アダム、エバが完成したならば神様は、アダム、エバの心の位置に入り、神様を中心とした王権を成すのです。王権が成立するとともに父母権が成立するのです。父母権とともに本然のアダムは長子権をもつのです。今日の次子権は必要ないのです。アダム自体が長子の中の長子で、エバも長女の中の長女です。そのようになれば二人の息子、娘は、人類の父母の中の父母になるのです。父母であると同時に、永遠の世界の王になるのです。(214-39,1991.2.1)

 

 なぜ神様が人に体をもたせたのでしょうか。体のない神様がいらっしゃったなら、どれほどよいかというのです。神様が一人でいらっしゃればよいのに、問題となるような体をなぜ造られたのかというのです。神様自身は無形の神です。無形の神様が体をもった人間の先祖になることはできないのです。体をもった息子、娘に対そうとするので、体をもった神様の立場へ出ていかなければならないのです。
 それでアダムの体が神様の体のようになるのです。しかし神様は、アダムの心のような位置より、一層次元が高い世界の段階に上がっていくのです。(223-183,1991.11.10)

 

 神様は無形で形体が見えないので、形体を得て現れるのです。また、形体をもっている人間と万物を主管するために、神様がアダムとエバの形体をもって現れます。そのようになればアダムとエバは神様と一体となるので、神様はアダムとエバの心のような方になるのです。
 アダムとエバの心の位置に神様が臨在して一つになったので、結局はアダムの内的な主人、内的なアダムのような方が神様であることを知らなければなりません。(90-194,1977.1.1)

 

 なぜ人を創造したのでしょうか。この宇宙は実体があるので、実体の主人であるアダムとエバを中心として管理、主導し得る立場に立つためです。神様は、霊界において無形であられるので、支配することができません。それで実体の仮面をかぶり、実体の体をもつことによって、あの世で、地球で生産されてくる自分の息子、娘となる子孫を、実体で支配し得る王になるために人を造られたのです。
 その王の顔がアダムの顔です。王を造ったので、王妃が必要なのです。王妃とは誰ですか。エバが王妃にならなければならないのです。アダムとエバは、地上の祖先であると同時に、天上世界の祖先になるのです。(199-144,1990.2.16)

 

 ②アダムは第一の祖先、有形の神様

 

 神様は、第1に、体をもつためにアダムとエバを創造され、第2に、愛を完成するために創造されたのです。このようなアダム、エバが完成し、二人が一つとなれる愛の実体になれば神様が臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、神様の形状的実体の父母になったアダムとエバが、実体の子女を繁殖することによって理想世界ができるのです。そのようになれば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるのです。その目的もあって人間を造られたのです。
 それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることにより、人類の真の父母、実体の父母としていらっしゃり、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で体をもち、父母の位置に顕現することができるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-307)

 

 実体をもった、神様の体として造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには、実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。
 それゆえ、アダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。(22-279,1969.5.4)

 

 神様がアダムとエバを必要とするのには、二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就しようとすることです。もう一つは、無形の神様が形状をもって現れるためなのです。ですから、無形の神様が有形の形状をもって有形世界と関係を結べるその基礎、その核心がアダムとエバなのです。(92-147,1974.4.1)

 

 天の国に無形の神様が一人でいて何をしますか。見えない神様では何の意味もないのです。人間の父母になるには、体をもって感じることができなければならないのです。このような人間と同じ体をもたなければならないので、体をもつために仕方なくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得なかった、ということを知らなければなりません。(139-91,1984.7.10)

 

 体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。ですから、神様の形状に似たそのような体をもち得る姿として、アダムとエバを造ったのです。
 そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その王と王妃の心の中に神様がいらっしゃり、地上世界と無形世界を統治するのです。神様の王国を造るのです。王国は、愛の王国だというのです。愛を中心としてのみ、霊と肉が合わさるようになっているのであって、他のものをもってしては合わさることができないのです。(143-93,1986.3.16)

 

 エバは未来において、神様の王女です。王女であると同時に、将来の神様の相対でした。エバを愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人となるのです。
 なぜそうなのかといえば、愛を分かち合うためには体が必要です。体が必要なのです。あの世へ行ってみれば、神様は無形です。空中で太陽のような光が24時間いつも浮かんでいるのです。空中から、神様がみな無形で管理しているのです。その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。
 ですから無形の神様は、愛の理想の絶対作品、パートナーとして、体をもったアダムとエバを造ったのです。神様は誰の姿かといえば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、一つは外的な父母だというのです。(199-361,1990.2.21)

 

 神様は、愛を共にするために天地を創造されたのです。ですから男性と女性を、無形の神様が永遠の愛の実体として登場させるのです。愛の中心の実体として登場させるのが人類の善なる真の先祖、真の父母なのです。皆さんは、真の父母をもてませんでした。しかし今日、統一教会には真の父母の教理があります。(38-173,1971.1.3)

 

 神様は、アダム、エバをなぜ造ったのでしょうか。無形の神をもってしては、実体世界を主管できないからです。無形の神をもってしては、見えない神をもってしては、この見える世界、創造物、宇宙世界を支配することができないのです。
 ですから神様は、愛を中心として体をもたなければならないのです。それで創造をしたのです。愛を中心として体をもてば、内外共に刺激が起こるのです。刺激が起こるのです。(166-232,1987.6.7)

 

 無形の神様は実体がないので、その形体を身代わりしたのが真の父母だというのです。真の父母は、個人的な父母、家庭的な父母、氏族的な父母、民族的な父母、国家的な父母であり、霊界に行っても、これからは真の父母の形状で神様が現れるのです。(98-224,1978.8.1)

 

 統一教会が偉大なのは正にそれです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かといえば、レバレンド・ムーンの形状を神様が用いられるというのです。(166-232,1987.6.7)

 

 神様は、無形の神様なのです。無形の神様が、有形の神様として現れようというのです。有形の神様とは何ですか。堕落していない、私たちがいう真の父母です。(201-83,1990.3.4)

 

 究極的に神様は霊的で無形なので、人間は直接神様から教えを受け、重生の体験をすることはできません。それで神様は、中心人物を立てて、人間が彼を通じて教えを受け、重生を体験することができるようにされました。この方が正に有形、無形の真の父母です。(91-101,1977.2.3)

 

 神様がアダムとエバを造った目的は、どこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見なさい。体をもっているのです。しかし無形の神様は、体がありません。体をもたなければ、霊界世界や地上世界を治めることができないのです。それで、神様がいらっしゃったとしても、神様が人間の父母として現れるためには体をもたなければならないのですが、その体をもった代表が誰かと言えば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。
 そうすることでアダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。実体をもった神様、すなわち永遠の無形世界の神様の形状を代わりにもって現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。(133-91,1984.7.10)

 

 神様は、神様と人間が主体と対象として、縦的な愛の関係を完成することだけを目標にしてはいらっしゃいませんでした。縦的な愛を完成し、アダムとエバの横的愛の結実をもたらそうとされたのです。
 その瞬間が正に、内的父母であられる神様が外的父母であるアダムとエバと完全一体を成すために臨在される、愛の理想の成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状をもって有形世界に永存される父母になるのです。この時、アダムとエバは、真の父母、真の先祖となるのです。(135-10,1985.8.20)

 

3)神様は人格的な神

 ①神様は知情意をもった人格神

 

 今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創造主であり、至高至善の位置にいらっしゃるので、被造人間、すなわち被造物と創造主は関係をもち得ないと考えます。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方であると見ます。しかし、愛の概念を中心として見る時、至高至善の神様であり、どんなに低俗な被造物であっても、愛の関係を結ぶためには人格的内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。人格を備えた人間と性稟が同じでなければならないのです。(138-245,1986.1.24)

 

 神様は、どのような神なのでしょうか。人格的な神です。知情意を合わせた内容をもった人格的な神です。そのような人格的な神が最高に願うものが愛なので、その愛の対象として私たち人間を造ったというのです。これは驚くべき事実です。(143-149,1986.3.17)

 

 神様は第一原因的存在ですが、人間をどのように造ったのでしょうか。神様と同じように造ったというのです。神様と同じように造るのに、神様の形状をかたどって、形状どおりに造りました。その言葉は何を意味するかといえば、私が父に似ると同時に、父は誰に似ましたか。私に似たというのです。それで答えになります。ですから神様を模索してみるとき、神様はどのような方ですか。「私のような方だ」と言えば、さっと入ってくるのです。(127-233,1983.5.15)

 

 神様は誰に似たのでしょうか。神様の必要とするものが愛ならば、神様が愛するのに、神様に似たものを愛するでしょうか、神様と似ていない動物の子を愛するでしょうか。神様は喜ぶことができ、愛を分かち合うことができる相対的なものを必要とするのです。ですから人間がそのような相対ならば、人間を中心として見るとき、神は人格的神でなければならないという結論が出てくるのです。そうでありながら、人間とはすべての要素が100パーセント和合しなければなりません。体と心の素性において、すべてが和合し得る神でなければなりません。ですから神様は、知情意をもった神でなければならないのです。(162-271,1987.4.17)

 

 神様がいらっしゃるのならば、人間とはどのような関係なのでしょうか。神様が人間と関係をもつためには、人格的神でなければならないのです。人格的神になるには、人間と同じでならなければならないのです。
 人間には心があり体があるのと同じように、このような素性がある人間を造られた神様も、人間と共に共同目的をもち得るその本体ならば、人間に似なければならないというのです。二性性相という概念は、ここから出てくるのです。(167-243,1987.7.21)

 

 神様は、人間のような人格をもっていますか。人と同じならば神様は男性でしょうか、女性でしょうか。それでは、男性と同じようにぶら下がったものがあるでしょうか、ないでしょうか。神様は何性相と言いましたか。二性性相の主体なのですが、凹凸があるでしょうか、ないでしょうか。それを考えたことがありますか。(181-203)

 

 神様が笑うでしょうか、笑わないでしょうか。神様が笑うのを見ましたか。神様も目があるでしょうか、鼻があるでしょうか、口があるでしょうか、耳があるでしょうか、体があるでしょうか。
 既成教会の信者たちをよく見てみると、でたらめです。神様に目があるのか、ということも知りません。「目を本当に見たか」と言えば、知らないのです。神様は誰に似ましたか。誰に似たのでしょうか。「神様に似た」と言うのです。そのような答えがどこにありますか。神様は誰に似たのですか。息子、娘に似たのです。それで神様は、人格的神でなければなりません。人格的神として神様が私に、人格的最高の基準を要求するのです。人格的最高の基準とは何ですか。それはお金でもなく、権力でもなく、愛なのです。(182-59,1988.10.14)

 

 神様がいらっしゃるのならば、神様も人格的神でなければなりません。人と同じでなければなりません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標とか、そのようなすべてのものが具体的でなければならないのです。
(174-162,1988.2.28)

 

 神様は、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能であられるというのです。また、遍在されます。いらっしゃらない所がありません。この方が必要なものとは何ですか。ダイヤモンドですか。それは、いつでもつくることができます。黄金ですか。宝石ですか。違います。神様が必要なものとは、愛です。神様が一人でいて、「ああ、愛があってとてもいい」と言い、「ひひひ」と言いますか。神様が必要なものとは何ですか。神様も、人格的神ならば口があるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。人格的神ならばです。(142-30,1986.3.3)

 

 神様はいったい、どんな方なのでしょうか。全知全能で、遍在され、ただ一言で世界を殺したり生かしたりする……。そのような神様を私たちは必要としません。私たちの本心は、どのような神様を願うでしょうか。「愛をもって、私のお母さん、お父さん以上の愛で愛さざるを得ない方なのだな。我が国に義なる国王がいるとすれば、義なる大統領がいるとすれば、その国王以上、その大統領以上の方なのだな」と、このような方を願います。大統領は4年ごとに変わるので慌ただしくて、別に尊敬するほどでもありませんが……。(147-271,1986.10.1)

 

 今日、この世界を探し求めてこられた神様がいらっしゃるとすれば、その神様は、知情意を備えた神様であるに違いありません。なぜでしょうか。人間がそうだからです。
 それは人倫を中心とした知情意ではなく、天倫を中心とした知情意です。(9-291,1960.6.12)

 

 絶対的神様は、悲しむことができるでしょうか、できないでしょうか。全知全能なる神様は、悲しみの場を避けることができるでしょうか、できないでしょうか。その悲しみとかかわることができるでしょうか、できないでしょうか。これは深刻な問題です。私たちのような人間は、それをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的である神様は絶対的に悲しみがあってはならないというならば、その神様は知情意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父となることはできないのです。論理的に矛盾します。ですから神様は、私たち人間よりも喜怒哀楽を感じ得る主体とならなければなりません。(203-288,1990.6.27)

 

 神様に対して正しく証した宗教団体はありません。仏教でも儒教でも、みな同じだというのです。神様と言えば、すぐに唖然として物が言えなくなります。彼らは人格的な神様、知情意を兼ね備えた神様を知らないのです。しかし統一教会は、神人一体を主張しているのです。それが偉大だというのです。(227-112,1992.2.11)

 

 統一教会が誇れるのは、神様をよく知っているということです。神様をはっきりと知っているというのです。神様は、知情意を備えた人格的神であると同時に、愛の主体だというのです。それを私たちは、はっきり知っています。その愛の神は、天情が中心なのです。天情の中心位置は行ったり来たりできないのです。(210-314,1990.12.27)

 

 ②神人一体の人格神を要求

 

 神様も知情意をもった方であられるだけに、神様にも願いがあり、事情があり、心情があります。神様の願いは何で、神様の心情が何で、神様の事情とは何でしょうか。人間の事情よりも先にこれさえ知ればいいのです。これさえ知れば、自然に人の願いが何であるか一遍に分かるのです。なぜでしょうか。人間の目的は神様であり、神様の目的は人間なので釣り合うのです。人間の事情をよく知り、願いをよく知り、心情をよく知る人は、神様の願い、神様の事情、神様の心情と通じることができるのです。(151-208,1962.12.15)

 

 愛を論じるならば、人格的神でなければなりません。情緒的、人格的に人と同じ素性をもった神でなければならないのですが、そのような神を提示した宗教は、キリスト教以外にはないのです。神様を「父」と言ったのは偉大な発見だというのです。神様を「父だ」と言ったのです。神様を父だと発見したという事実は、今先生が話す、神様を内的父と外的父と見て実体に一致する愛によって統一的な権限をつくろうとするその基準、確実にこの基準までは発見できませんでしたが、そんな内容を暗々裡に解明し得る標題を掲げたということで、それは驚くべきことです。
 そして唯一神を論じました。ですからこの宗教は、世界的宗教であり、世界がこの宗教を中心としてまとまれるというのです。この宗教によって世界が一つになれる道を立てていくと、このように見るのです。(139-239,1986.1.31)

 

 今日、数多くの道がありますが、心情を通過できる一つの道が歴史路程において現れませんでした。そのような道は、必ず現れなければなりません。もしそれが現れないとするならば、神様は存在しないのです。人間が守らなければならない社会的倫理と道徳を教えてくれる道もあり、無限な霊界を教えてくれる道もありますが、倫理道徳と無形世界に対する教えを統合し、一つの心情の骨子を基盤とする宗教がなければなりません。そのような宗教を探してみると、キリスト教だったのです。キリスト教は、心情の宗教です。
 人間は、堕落することによって神様を失ってしまい、神様が私たちの父だということが分からなくなったのです。実体をもった真の父母を失いましたが、キリスト教は、その真の父母を紹介できる宗教です。(9-140,1960.5.1)

 

 哲学の最後の終着点は、神様を発見することです。その神様は、どのような神でしょうか。絶対的な神、不変の神、唯一の神です。神様を発見することにおいて、その神様は、私たち人間に必要な人格的神でなければなりません。
 私たち人間と関係を結ぶためには、私たち人間が考えるすべての内外を備え、意志を備え、理想を備えた人格的神でなければならないというのです。すべての面で通じることができ、情緒面やみ旨的な面や、または知識的面で私たち人間と通じることができ、完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、どんなに「神様がいる」と言っても、私たちとは全くかかわることができないのです。このように見るとき哲学は、人格的神にならなければならないという標題のもとで、あがめ尊んでこなかったのです。(138-142,1986.1.21)

 

 神様は、誰に似ましたか。息子、娘に似ました。皆さんは誰ですか。神様の息子、娘です。神様に似たのです。そして神様は人格的な神です。神様がつまらない神様でいいでしょうか。キリスト教の驚くべきことは、人格、愛を中心として、知情意を中心として情緒的な人格的神を論じたことです。これが偉大です。そして、唯一神を論じました。(177-274,1988.5.20)

 

 神様が人格的神ならば、神様に愛が必要でしょうか、必要ないでしょうか。私たち人間が神様の息子、娘として生まれ、神様に対して「父だ」と言うなら、父が必要なように、私も必要なのです。私も必要なように、父も私が必要なのです。(184-199,1989.1.1)

 

 人格的な神がいるとすれば、その神を中心として何が連結されなければならないでしょうか。皆さん、神様と言えば、高い所にいらっしゃるというでしょう? そこに私の体が連結されるでしょうか。違います。心が連結されるのです。人格的な神であり、第一原因なる存在の神様を中心として人生を生きていくのに、垂直な心を中心として生きていくのであり、地球星が太陽系を中心として角度を合わせて軸を成して公転しながら、1日、2日、365日と回るのと同じように、回りながら生きていくのです。このように見なければなりません。(194-154,1989.10.22)

 

 神様がいらっしゃるならば、神様の摂理を通して行かなければ、世界が未来に希望を残す何ものもないという、論理的な結論を下すようになっています。
 ここにおいて統一教会が出てきて、神様がいるという実存性と、知情意の完成基準に立った人格的神を認定し、心情圏を中心とした理想世界を実現しようとしたのです。
 統一教会が初めて、神と人間の関係を確実にしたというのです。(213-302,1991.1.21)

 

4)神様は父であられる

 ①神様と人間は父子の関係

 

 神様と人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。神秘の境地に入って、この宇宙の中心が何であるかと尋ねると、父子の関係だと、いう答えを得るのです。宇宙の中心とは何でしょうか。一言で、父子の関係です。
(48-208,1971.9.19)

 

 天地の中心と宇宙の根本とは何ですかと、神様に祈祷してみれば、「父と息子、娘の関係、父子の関係だ」と言います。分からない人は、肉親の父、母、息子、娘との関係だと思うでしょうが、神様との根本関係を言っているのです。(19-158,1968.1.1)

 

 神様がなぜ人間を創造されたのかといえば、一人でいれば刺激がないからです。喜びとは、相対関係によってわき出るものです。一人では喜びの刺激を得ることができません。神様の相対的位置に立って、初めて最高の愛を得ることができるのです。そのようになれば、神様の性相がそのまま実体化されます。神様が悲しくなれば、人間も悲しくならざるを得ません。ですから人間と神様の関係は、離そうとしても離すことのできない不可分の関係です。どんなに研究してみても、結論はここに到達するようになるのです。(み旨と世界-279)

 

 神様と人間が父子の関係だと言いましたが、父子の関係がもつ特定内容とは何でしょうか。父と息子が出会える最高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば愛と生命と理想は一つの場所にあります。その場所に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定することができる最初の因縁が、父子の関係です。(69-78)

 

 神様は、私たちに愛を与えるとき、どれくらい与えたいと思われるのでしょうか。神様の愛はこれくらいならよいだろうという限界を引いて与える、そのような愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様はすべて与えても、「あなたと共に、あなたの中で生きたい」と言われます。そのようにさせる本質とは何でしょうか。愛です。神様も愛の中に入り、僕になってもよいとおっしゃるのです。父は、愛する息子が自分の食卓の上に上がってうんちをしても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。
 神様は、今まで人間に愛を与えたからといって、「私は完全にすべて与えたのに、あなたなたちはなぜくれないのか。ひどいではないか」とは言いません。絶対的な愛をもった神様は、今でも与えたい愛をすべて与えられずに、もどかしく思っていらっしゃいます。自己を主張することができない神様です。完全な愛を与えようとしたのが神様の人間創造の目的ならば、神様は今まで完全な愛を与えられなかったので、人間世界に対して愛を与えたいと思われる神様です。そのような神様なので、考えるほどよいのです。「私はすべて与えたので、これからはあなた方がもってきなさい」と言おっしゃる神様ならば、必要ないのです。(36-77,1970.11.15)

 

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて投入して創造した人間なので、神様を引っ張れば、引かれてこざるを得ないのです。(20-207,1968.6.9)

 

 神様は愛のために創造しました。愛ゆえに創造したので、男性と女性が愛し合うのを見るのはもっとよいのです。それゆえ、神様は存在世界の前に現れるとき、愛の本質として現れます。(86-82,1976.3.7)

 

 子供は、お母さんとお父さんの愛の実現体であり、投入体です。お母さん、お父さんの生命の延長体です。またお母さん、お父さんの理想の具現体です。子供はお母さん、お父さんの愛と生命と理想の基盤から生まれるので、父母は、その子を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対なのです。(69-78,1973.10.20)

 

 神様と人間は、絶対的な相対として愛の関係を中心として生まれた存在です。その位置が、神様は父となり、私たちは息子、娘となる位置です。もしそれ以上の位置があるならば、人間の欲望は、またその位置を占有しようとするのです。人間の欲望は最高を追求するので、それ以上のものがあったとすれば、私たち人間に与えなければならないのです。このような点から見るとき、当然神様は人類の父であり、人間は神様の息子、娘です。(48-205)

 

 神様が人間を造るとき、無価値に造ったのではないことが分かります。無価値に造ったのならば、神様は異常な神様です。神様は絶対的な方なので、何でもすべて知っています。それなのにそれを知らずに造ったならば、その神様は不完全な神様です。神様は絶対的な方なので、私たち人間を造るときも絶対的な相対として造りました。(54-87,1972.3.20)

 

 天地を創造した神様は、どのような方でしょうか。極めて善なる方であり、すべての万物の根本となる方であり、愛の主体です。ですから神様は、天地万物を創造したのち、全宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。
 神様は、自分が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのものを任せられることのできる人がいれば、一番貴いものをそっくりそのまま与えたいのです。(13-247)

 

 神様が私たちの父ならば、息子、娘を造るのに、いい加減に造り、駄目なものを造りたくなかったのは間違いないことです。神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立てるように造られたので、私たちの良心は最高のものを希望するのです。(53-324,1972.2.28)

 

 神様が絶対的な方であられるのなら、その絶対的な方がなぜ人間を造られたのかというのです。お金のために造ったのではなく、知識のために造ったのでもなく、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるただ一つの道のために人間を造られました。このような観点から見るとき、神様は父であり、人間は息子、娘であることが一つの軸を成すのです。この軸がもし連結されていたならば、人間と神様が愛によって一体になった関係に何が作用しても、絶対に離すことはできないのです。(137-57,1985.12.18)

 

 神様は人間を創造するとき、完全に投入することにより、より価値があり理想的な完全な形で展開しました。神様はアダムとエバを造られ、彼らのために生きるというのです。神様のためではありません。自分のために生きていた時から、相手のために生きる時に展開されました。理想的な存在は、自分を中心としません。理想的な存在は、人のために生きている所に、対象のために生きている所にあります。この原則が宇宙の根本です。(69-81,1973.10.20)

 

 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能の方であったとしても、お一人ではうれしいはずがありません。「幸福」という名詞、あるいは「うれしい」という言葉は一人では成立しない言葉です。必ず、相対的な関係を備えた立場においてこそ「うれしい」、「幸福だ」という言葉を語ることができます。一人でいて「幸福だ」と言う人がいますか。どんなに全知全能の神様であっても、お一人でいては幸福ではありません。歌が上手な声楽家が、誰もいない所で歌を歌ったとしましょう。それで幸福ですか。そこには相対がいなければなりません。与えたり、受けたりすることができてこそ、うれしいのです。それゆえ、神様も喜ばれるためには、必ず対象がいなければなりません。(65-20)

 

 神様は、完全に投入して、愛の対象を創造しました。そのようにしたのは、神様も愛の対象が必要だったからです。ところが、愛は一人ではできません。どんなに絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛することができるので、その愛の対象として人間を造りました。
 それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書に、み言で造ったとありますが、いい加減ではなかったのです。千辛万苦を経て、自分の120パーセント、何百倍を投入して造ったのです。(197-164)

 

 神様の天地創造を考えるとき、既成教会の信者たちは、「神様は全知全能なのでみ言で造られた」と信じています。しかし魔法を使うように、そのように造ったのではありません。知性の限りを尽くし、自分の身をすべて投入して息子、娘を創造しました。(65-20,1972.11.13)

 

 ですから愛するのです。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。私の骨の中の骨、肉の中の肉、私の思想の中の思想、私の全体の中の全体を投入したので希望の対象とするのです。
 神様は、創造の理想的出発点をどこに置いたのでしょうか。神様の前にすべて「ため」に生きよ、というのではありません。「お前、私の所に来てくっつけ」という吸収ではありません。投入です。「くっつけ」ではなく、投入です。その言葉を振り返れば、「ために存在する原則」に理想的出発点を置いています。ですから神様は、人間のために投入しました。神様自身は人間のために存在します。(78-111,1975.5.6)

 

 神様が「私は愛である」と言いましたが、それは何でしょうか。夜も喜び、昼も喜び、働きながらも喜び、休みながらも喜び、踊りながらも喜び、泣きながらも喜ぶということです。それで、「私には愛がある。すべてある」と言われたのです。「すべて」という言葉は、その中に全部入っているということです。愛が一番好きな方は誰かといえば、神様です。そのような愛をすべてもっている神様なので、その愛の味を占めれば死んでも離せないのです。(44-188,1971.5.7)

 

 神様は全知全能で、遍在されるお方として、惜しむものがなく、もっていないものがありません。すべてのものをもっていますが、その全部の価値よりも貴く立てて誇りたいものがあるとすれば、それは愛です。愛以外は必要ないというのです。(108-223,1980.10.16)

 

 創造理想完成は、どこから始まるのでしょうか。創造理想完成は、神様から始まるのではなく、人間から始まるのです。創造理想完成なので創造物から始まります。創造物の中心は人間です。ゆえに人間の完成がない限り、神様の完成はあり得ません。神人一体なので、そうなのです。(149-9,1986.11.1)

 

 神に一致することができる、神のみ旨に一致することができる、神のみ旨を中心としては過程的み旨ではなく、完成的み旨の中心の核と一致することができるものとは何でしょうか。それが神様の全知全能なのでしょうか。全能性をもってしても駄目なのです。全権でしょうか。違うというのです。
 それでは遍在する素性でしょうか。それも違います。それは何でなければならないのでしょうか。神様自身も生きて生活するのは、もちろん霊界があって時空の関係を超越した所で生きていくのです。生きていくには、何を中心として生きていくのでしょうか。無限な力がある、遍在する、全権的権限がある、それではありません。神様も、愛を中心として生きていく、このように見るのです。生きていくには始まりもそうで、過程もそうで、永遠にそうなのです。神様も、真なる愛の対象をもつようになれば喜ぶからです。(126-223,1983.4.24)

 

 神様は絶対的であり、全知全能なので、愛をひたすら与え、与えて、また分け与えても、限りなく補充することができる愛の倉庫をもっています。それでは、神様の倉庫から愛を多く盗み、夜も昼も限りなく愛を取って分け与えるとき、神様が「やあ、こいつ! 盗人、愛どろぼう!」と言って処罰するでしょうか。全知全能な神様なので、「そのようにしろ、してもいい。いくらでもやってみろ。お前が永遠にやってみろ。お前が入ってきても余る。それで私が神様だ。だから私が主体だ!」と、神様がそのように言われるのです。「私が主体なので、客体に与えて余りあってこそ主体だ。お前たち客体である人間に与えて、余ってこそ主体としての神様であって、そうでなければ神様になれない。私がそうなのだ!」と言われるのです。「私から愛を盗んで神様の愛の発電所のように限りなく与えたいならば、いくらでも補給してあげよう」と言われます。
 それで、「これが全部なくなれば私はまたもっていきたいのですが、神様の愛のパイプに私を連結したらどうでしょうか」と言う時、「そうしたければしなさい」と言われるのです。(116-240,1982.1.1)

 

 ②神様は一番近くにいらっしゃる方

 

 真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。それでは真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何なのでしょうか。神様は真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だというのですが、それは何を意味しますか。みな同じ言葉です。真理が成立するには、愛と生命がなくてはならないのです。ですから最も核心である生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどのような方でしょうか。私たち人間の、父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は簡単な方であられます。(21-183,1968.11.20)

 

 神様には、白い髭が生えているでしょう? それが似合うのです。その神様が髭をそっと触るとき、息子が「僕は長い髭が好きだ」と言えばその髭は長くなり、「短い髭が好きだ」と言えば短い髭になるのです。
 全知全能な神様なので、神様の顔は男性に対するときは粗雑で乱暴に見え、男性格が好きなアダムには男性のように見え、エバのような女性には女性が喜ぶ姿に見えたことでしょう。(110-281,1981.1.1)

 

 神様は天地創造の以前からいらっしゃったでしょうか、いなっしゃらなかったでしょうか。それでは、神様の年は何歳でしょうか。そう、70しか知らない人は「70だ」と言ってもいいです。そのような人には神様は「ほほ、私は70」と言われるのです。五つしか知らない人が「神様何歳ですか」と言えば、「ほほ、五つだ」と言われるのです。それ以上知らないからです。
 数がどんなに多くても、その数で数えられるような神様ではありません。数以上の位置にいるのです。気分がよいでしょう。私たちの神様がそうだというのです。(173-252,1988.2.1)

 

 神様も、冗談が本当に好きです。ユーモアが好きです。ユーモアの大王は誰でしょうか。誰かというと、神様です。全知全能なのでユーモアも多いのです。笑うときも、にこにこ笑ったり、おなかをよじって笑ったり、転げて笑ったりさせることができる大王とは誰ですか。神様です。そのような大王が神様だというのです。(171-148,1988.1.1)

 

 神様は、外的に男性に似たとするならば、内的には女性に似たのです。神様は、強く、全知全能でもありますが、お釈迦様のほほえみに花を添えられる、そのような慈悲の心もあるというのです。女性の中の女性のような心もなければなりません。そうしてこそ、両面がみな生きるのです。(206-49,1990.10.3)

 

 神様は、宇宙の大主宰であり全知全能であられて、持たざるものがないくらい能力が多い方ですが、どんなにそうであったとしても、愛の因縁をもって孝子の立場に立った息子が、尋ねもしないで胸元を探ってきたからと言って、「おい! お前、誰に向かってこんなことをするのか」と言いますか。「誰に向かって」と言ったとしても、知らないふりをして何度も胸元を探り、昔、自分の父親の胸に触ったようにこうして……。「私は昔、う父親の胸に触ったように触りたくてそうしたのです」と言えばどうしますか。気分を悪くするでしょうか。
 お父さんは本当に幸福を感じるでしょう。だんだん大きくなれば自分のもとを離れ、塀を越え、川を越え、山を越えようとしますが、越えていった息子が、塀を越え、敷居を越え、服を越え、昔のように自分の胸に触ろうとする時、お父さんは気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。もうすぐ死にそうなおじいさんも、「早くここに来て触れ、早く!」と、気分が良くてそう言うでしょう。(169-76,1987.10.25)

 

 神様は創造主ですが、付け足すものがどこにあり、引っ張るものがどこにありますか。大きくなろうとすれば吸収して引っ張るとか、誰かが付け足してくれるとかしなければならないのです。自分が吸収するか、第三者の存在がもってきて付け足してくれるかしなければなりません。ところが神様自身において、付けるものもなく引っ張るものもないのに、自体がどのように大きくなれる概念を立てるのかというのです。これが重要な問題です。私がこれを話せば、皆さんがむやみに話して困るので、話さないのです。研究してみてください。宿題を出すので研究してみてください。論文を書いてみなさい、私が点数をつけてあげます。(218-263,1991.8.19)

 

 本来、絶対者なる神様はどのように始まったのでしょうか。一度にさっと出てきて生まれたのでしょうか。それが気になりませんか。そのようなことを言えば既成教会の信者たちは、「ううー、創造主は聖なる方なのに、その冒涜もも普通の冒涜ではない。」と言うのです。悪ふざけはやめなさいというのです。神様が生まれて出てきたのでしょうか。ただそのままいたのでしょうか。気になりませんか。その問題に対するには、論理的背景を備えなければなりません。
 尹博士。どのように出てきましたか。物理学の博士様がそれを知らなければならないではないですか。博士様がそのように顔を隠せば、恥ずかしいではないですか。統一教会員も仕方なく、「自然にいらっしゃる」と言うでしょうが、違うのです。神様も発展していかなければならないのです。そのように言えば正しいのです。(218-263,1991.8.19)

 

 調和の無限の力をもっているのは何ですか。神様も研究したことでしょう。神様が人格的神として人と同じならば、全知全能なるその方もそれに対するとき、その中に行って安息の睡眠を取りたいのです。神様がいつも目を大きく開き、「こいつ、昼夜休まずに蕩減復帰をしろ」と、このように言うことができません。神様も、道理がそうではないですか。息をする道理と同じです。息を吐けば吸わなければなりません。神様も働けば、休まなければなりません。神様が働くのもすべて、休む喜びを感じようとするからなのです。神様も、そのすべてのものが相対的授受関係の因縁になっています。(164-70,1987.4.26)

 

 では、神様がいらっしゃるというとき、その神様はいったいどのようなお方でしょか。全知全能な方、遍在される方、それもよいです。全知全能で、遍在され、できないことがない方・・・・・・。しかし、どんなにできないことがない力をもっていて、どんなにすべてのものより優れた立ち場に立っていたとしても、「自分だけのために行きよ」という神様ならば、どうなりますか。千ならば千、万ならば万、数多くの人々、おそらく、数千億になるでしょうが、その人々が集まって住むそのような霊界があるとすれば、霊界において神様が「ああ、私は全知全能で、絶対的な存在なので、お前たちは絶対的に私のために生きよ」と、このように言われたらどでしょう。すべて神様だけのために尽くさなければならない立場に立ったならば、どうなりますか。私たち人間の良心の本質から見るとき、それを永遠に歓迎することができないのです。それは必ず相反します。皆さんの心においては、いつも相反するしかないのです。(138-75,1986.1.19)

 

 神様が愛することができる相対は、私たち人間しかいません。被造物の中で、神様自身が、また別の神様を造ることはできないのです。どうしてですか。全知全能なる神様なので、神様と同じ、もう一つの神様を造るだろうと、それも可能だと思いますが、神様がそのように造ればどうなりますか。同じ神様が御飯を食べるとき、一緒に御飯を食べ、手入れをするときは一緒に手入れをして、立つときは一緒に立って、ついて回りながらです。神様が座れば一緒に座り、このように億千万年一緒に行動するならば生きていけますか。考えてみなさい。どんなに気が遠くなるでしょうか。一日もたたずに、目が回ってひっくり返ってしまいます。また、話はどうしますか。話をすれば何日話すと思いますか。三日間ですか。「あれ、あの、同じではないか! 死にそうだ」と言うでしょう。(141-26,1986.2.16)

 

 宗教の中心とは何でしょうか。神です。神様です。もちろん神様に対する名前はたくさんあります。しかし名前が問題ではありません。その神様は、二人になることができないのです。根源は一つなので、一つの神です。一つの神について話すとき、各国の言語が違うので一つの神様を表す名詞は違っていますが、その本体は一つなのです。(210-199,1990.12.23)

 

 天と地自体も、自ら存在したくて存在するようになったのではなく、必ず存在するようになった動機と根源を通じて、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考えるとき、ここからさらにさかのぼり、必ず中心的な主体性を備えて天地を動かすとか、あるいはここに創造するという力の作用体、根本の作用体がいなければならないのです。このような立場にいるその方を、私たちは「神様」と言いますが、民族が違い、言語が違うからといって、違う表現をするその名詞が問題ではありません。いずれにせよ、この宇宙の中心がなければならないのです。その中心は全体、この存在世界において、存在が作用し移動するとしても、その移動するのに従って移動するのではなく、この動く相対的な世界の中心において、億千万年動かない中心的な本体がなければならないのです。(154-298,1964.10.5)

 

5)法度の中での全知全能である

 ①原則的基盤の上で全知全能である

 

 神様が天地万物を創造するようになった動機とは何でしょうか。根本に入っていくのです。神様は、お金が必要ありません。お金のためでもありません。知識のためでもなく、知りたくて造ったのでもありません。何かの権力のためでもありません。全知全能で遍在されるその方は、知らないことがありません。知恵の王であり、能力の王であり、黄金の王です。ダイヤモンドも、いくらでもつくることができます。
 しかし、神様にはダイヤモンドが必要ありません。いつもあるのに、それが必要ですか。なかったら必要でしょう。また、知識というものも、この宇宙のすべての原理原則を中心として運動し作用する、一つの構成体をすべてコントロールできる法理、法度をつくられたその知識に比べれば、今日の科学者たちがどんなに研究したところで、自然界の法則一つ発見して、それをもって博士になったと威張ったりしても、そのようなものは何でもありません。芸術もそうなのです。芸術というものが、他の所にあるのではなく、すべて自然から学んできたものであって、自然には、ないものがないのです。(182-121,1988.10.16)

 

 神様は全知全能なる方なのに、力がなぜ必要でしょうか。宇宙を動かせる主体であられるのに、そうではないですか。力の大王だから、力は必要ないのです。歴史上の英雄や豪傑がいくら偉いとしても、歴史において大国を統治した君王や帝王はすべて流れていきました。彼らはみな神様の権威の下に、踊りを踊って消え去った人たちです。神様は、私たち人間が必要とするお金も知識も必要ありません。(176-165,1988.5.9)

 

 神様自身は、絶対的な存在です。全知全能なる方です。遍在されます。その方には知らないものがなく、できないこともありません。そのように、すべてのものを備えた主体として絶対的な位置にいらっしゃる神様とって、何が必要でしょうか。神様が絶対的な主体だとしても、主体自体が、主体となると同時に相対になりたいと思う心もなければならないのです。なぜそうでなければならないのでしょうか。人には東だけ必要なのではありません。東があれば西が必要であり、東西があれば南北が必要であり、南北があれば前後、上下が必要であり、一つの球形を成すことを願うのです。ですから宇宙は、球形を標準にして動くのです。(201-12,1990.2.28)

 

 あの星の国には、どのようなものがあるでしょうか。ダイヤモンドの星があるでしょうか、ないでしょうか。全知全能なる神様が宇宙を造ったのならば、ダイヤモンドの星を一つだけ造ったでしょうか。(49-294,1971.10.17)

 

 神様が一番好きなものは何ですか。学者、有名な学者ですか。有名な学者も、大したことはありません。自分が何を研究して何をどうしたとしても、神様が造ったすべての自然界のある公式とか原則を発表しただけであって、それ自体を造ったのではありません。
 神様は、学者も好きではないというのです。その次は大統領ですか。レーガンアメリカ大統領を神様が好まれますか。世界大統領ですか。宇宙大統領なる方が神様です。全知全能なる絶対者なのに何が必要でしょうか。権力も神様は好まれません。その次には何ですか。お金ですか。話にもならないのです。(141-247,1986.2.26)

 

 神様は全知全能なる方です。憤って一度この地を打つならば、めちゃくちゃにすべてが崩壊してしまうのです。大統領や世界の偉大な人たちであっても、一度叫んだならば、漏れなくすべて流れ去ってしまうでしょう。そのお方には権力が必要でしょうか。神様には、権力は必要ありません。それは、ちんぴらが好むものです。誰が好むのかといえば、悪魔が好むのです。(210-18,1990.11.30)

 

 神様は、天地創造をなぜされたのでしょうか。「力を誇ろうとして、全知全能を誇るために一度造ってみたのだ」と言えばすてきでしょうか。そのようなとき、力によって生まれたものたちが「神様、ありがとう。力でもって造ってくださって!」と言いながら有り難いと言うでしょうか。神様が、「知恵が多くてお前を造ったのだ」と言うとき、気分はい良いですか。「能力が多くてお前をこのように造ったのだ」と言うとき、気分は良いですか。「能力や知恵で造ったならば、私の喜びと何の関係があるでしょうか。それは神様の能力であって、私の能力ですか。神様の知恵であって、私の知恵ですか。私を見れば、無気力この上もない私なのに……」と、このように考えるのです。それで問題になるのです。(175-150,1988.4.16)

 

 今日、キリスト教で、「父なる神様、全知全能の神様」と言いますが、全知全能なる神様も原則的基盤の上での全知全能であって、無原則的基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にする神様ではありません。法を立てたならば、永遠なる方が制定した法は永遠のものです。自分が立てたものを自分勝手にしないのです。
 それに順応して越えていこうとするその神様の権威、それが驚くべきことなのです。公義を立てるにおいては、すべて天理の原則にかなう公法を立てるにおいては、絶対に神様がまず踏んで越えていったのちに、万民が従うようになっていて、宇宙が従うようになっているのであって、それを2番目にすることはできないのです。そのような人間創造の理想的基準があるのです。(162-184,1987.4.12)

 

 神様一人ではできないのです。今日、既成教会の牧師は、「全知全能の神様が、創造能力をもった神様がいつでも思いどおりにできるでしょう」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。天地すべての存在物は、法則、大原則によって作用するのです。いくら神様でも、この法則を破壊して行動することはできないのです。この国の大統領でも、憲法を中心として制定したすべての法、立法を通じて制定した法を重要視しなければならないのです。そのようにしていないので、今騒いでいるのではないですか。(166-99,1987.5.30)

 

 このように言えば少しおかしいですが、神様が愛をしたいならばつくればいいでしょう? なぜ愛をつくれなかったのでしょうか。それは、思いどおりにつくったならば神様が立つ位置がなくなるからです。それでつくらないのです。それはつくれないのと同じなのです。何のことか分かりますか。「ええ! 神様は全知全能なのにつくれないとは……」。
 そうなると二元論や多神論という結果になってしまうのに……。しかし疑えばそうなるのです。(173-211,1988.2.18)

 

 最近人々は、神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だ、というのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。神様が唯一なのと、私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるのかというのです。永遠不変ならば何をしますか。神様自身には良くても、私たち人間には何ら関係がないならば、それは空しいことです。必要ないのです。盲目的な信仰は、できないというのです。このようなことを、すべて分別してあげなければなりません。(223-261,1991.11.12)

 

 神様は知らないものがありません。全知全能であられ、全権者であられ、遍在されるというのです。それが私と何の関係がありますか。私と何の関係があるのかというのです。「ああ、全権があるので私を支配するのに良いですね、どこにでも遍在しているので私を監視するのに良いですね。知らないものがないので私をすべて精密に分析して、身動きできないように造ったのですね」と、神様が私を全知全能で支配されるとすれば、良いことがあるでしょうか。(130-209,1984.1.22)

 

 神様は天地を、何をもって主管しますか。法をもって主管しますが、その法も、愛で治める法です。そして、治める方向を後援するために、宇宙の法も、存続するのです。神様が人間創造をした理由は、愛が恋しくてです。一人でじっとしていればよいのに、何のためでしょうか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。(121-103,1982.10.24)

 

 ②愛のみが絶対基準である

 

 神様が一つだけ、どうすることもできないものがあります。神様は全知全能でしょう。全知全能ですが、一つだけ思いどおりにできないものがあるのです。それは何だと思いますか。金がつくれないでしょうか。ダイヤモンドがつくれないでしょうか。力がないでしょうか。全知全能なる方が一つだけ思いどおりにできないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です。先生の心にも愛がありますか。あると思いますか。皆さんの心にも愛がありますか。あることはあるのです。あることはありますが、自分一人で、「私の愛する人、私一人の愛、私の恋人!」と言っていれば気違いになるのです。(142-269,1986.3.13)

 

 神様一人で愛をなすことができますか。全知全能であられ、唯一無二であられる神様独りで、「ああ、気分が良い!」と、そう言いますか。そうすれば、「神様も気が狂った」と言うしかありません。レバレンド・ムーンも愛を感じることができるものをもっているからといって、一人で「ああ、うれしいな! ああ、私の愛する人よ!」と、こう言うならば、「気の狂ったやつだ」と言われるのではないですか。
 しかし、相対となる紙の切れ端でも、このような手ぬぐいを中心として、「愛するお前、手ぬぐいよ!」と言うならば、誰が悪口を言いますか。宇宙に代わって登場できる相対的価値と権威は、愛の世界でのみ可能なのです。(142-31,1986.3.3)

 

 どんなに絶対者の神様だとしても、一人では愛をもつことはできないのです。愛は必ず相対的関係でのみ見つけられるものなので、どんなに全知全能な方だとしても、愛だけは一人で所有することができないのです。もちろん愛の素性をもっていますが、愛の刺激と愛の信号は相対を通じてのみ再現されるのであって、自体だけでは顕現することができません。これが愛だというのです。愛の力です。(138-245,1986.1.24)

 

 寡婦と男やもめを「かわいそうだ」と言いますが、なぜかそう言うのですか。愛はその中にありますが、発動する何かがないからです。神様がいくら全知全能で遍在する神様だとしても、相手がいないときは愛が作用しないのです。天宙を造られた神様は、誰を中心として相対したいのでしょうか。アダムとエバを中心として愛の作用をしたいのです。(130-21,1983.12.11)

 

 神様は愛が好きですが、神様が一番好きな愛はどのような愛でしょうか。真の愛です。真の愛ですが、どのようなものが真の愛ですか。真の愛とは、愛の根をどこにおいていますか。その根を神様においていないのです。それは、おかしな話でしょう。全知全能の神様が真の愛の主人公なのにもかかわらず、その愛の根は神様から始めたくないというのです。その愛の対象になり得る人に根を植えたいと考えるのです。(177-269,1988.5.20)

 

 神様が天地を創造するとき、誰のためにしたのでしょうか。神様自身のためにしたのでしょうか、相対的な創造物のためにしたのでしょうか。神様は、もちろん自分のために造ったと見ることができますが、相対を重要視することにすべての創造の基準をおいたことを知らなければなりません。その相対の主体が誰かといえば、人間です。人間を中心とし、すべての人間の幸福を中心として考えたのです。神様ご自身はもともと、全知全能な方ではないですか。(109-268,1980.11.2)

 

 神様は絶対的であり、また全知全能で遍在する神様ですが、神様も愛だけは思いどおりにできないのです。神様も愛の支配を受けます。
 それでは、神様は何ですか。神様は全知全能ではないのでしょうか。「神様、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。神様がなぜそうなのですか。(98-38,1978.4.8)

 

 神様独りでは神様の本分を尽くせないのです。それは何のおもしろ味がありますか。食べ物が心配ですか。寝るのが心配ですか。着るものが心配ですか。思いどおりに供給を受けることができるのです。飛行機に乗って空中を回るとしても、1時間も回ったらおもしろくないのです。どんなに全知全能なる神様であり、どんなに威張った神様でも、おもしろくないのです。私たち人間と同じなのです。それで、神様も仕方がないのです。自分が努力して貴いとするものを創造しておいて、そこに行ってみるというおもしろ味がなければならないのです。(161-116,1987.1.11)

 

 神様は、何が恋しくて創造したのでしょうか。絶対的なのに、神様は何が恋しくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能なる方なのに、備えていないものがない方なのに、何が必要で人を造ったのかというのです。
 創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく知識でもなく、所有物でもないというのです。神様に何がなかったのでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様も、やはり独りでいては愛をなせないのです。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。(149-149,1986.11.21)

 

 神様に何の愛が必要なのでしょうか。神様も愛をもっていますが、相対がいなければ愛せないというのです。皆さん、愛をもっていますか。ところが一人で「ああ、いいな! ああ、私の愛する人よ!」と、それがいいですか。愛というのは、相対が現れなければ作用しないのです。
 これが宇宙の原則です。どんなに全知全能なる神様でも、愛の相対がいなくなれば孤独な神様であり、悲しい神様なのです。(94-262,1977.10.1)

 

 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方だとしても、独りでは良いことはあり得ません。「幸福」という名詞、あるいは「良い」という言葉は、独りでいて設定される言葉ではありません。必ず相対的関係をもった位置にいてこそ良いのであって、そうでなければ「幸福」という言葉はあり得ません。
 どんなに全知全能なる神様だとしても、独りでじっとしていてごらんなさい。それが幸福でしょうか。歌が上手な音楽家が一人で歌を歌ったとしましょう。それが幸福ですか。相手がいなければなりません。授受するものがあってこそ良いのです。それと同じです。神様が喜ぶためには、神様が独りでいてはならないのです。(65-20,1972.11.13)

 

 神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに。一人でいる両班が絶対的権限をもって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば、知識があって何をするのですか。神様の本質が何かということが重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。(218-363,1991.8.19)

 

 全知全能なる神様も、真の愛の前ではどうすることもできません。大韓民国の大統領がどんなに素晴らしいとしても、真の愛の場ではどうすることもできません。妻を本当に愛するというときは、妻の前に敬拝したいですか、したくないですか。敬拝しても足りません。
 宇宙の中で偶然にも、私がこうして心から愛してやまない妻が、どこから来たのでしょうか。その人がいないと考えれば、四肢がすべて麻痺します。実際にいないと考えるときは大変です。しかし、いるのでどんなに良いですか。良いので大統領でも仕方なくひれ伏して、「思慕する人よ、愛し給え! 愛します!」と言います。そのようなとき、小柄な女性が座って見ていれば、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。(211-83,1991.12.29)

 

 神様がどんなに全知全能だとしても、愛を一人で思いどおりにできません。「全知全能だから愛も思いどおりにできるだろう」と言うかもしれませんが、そうであるなら問題が大きいのです。愛の対象が必要ないという論理に逢着するのです。ですから神様も絶対的な中心存在として自分自身の愛、神様的愛に対する刺激と喜びを感じるためには、愛の対象が必要なのです。(208-233,1990.11.20)

 

 神様自身も相対が必要なのです。神様も愛を独りでは成せません。私が人もいないのに一人で立って、「ああ、きょうは本当にいいな」と、このように熱烈に語るならば、「気が狂った」と言われるのではないですか。
 しかし、相手がいて熱心に語ったなら、筋道に合い、環境与件にかなうようになっているでしょう。どんなに全知全能の神様でも、独りで、「うれしい、うれしい、ああ、私の愛がいい!」と踊りを踊れば、それは何ですか。それを知らなければなりません。神様も愛を成すためには、独りでは駄目です。相対を立てておかなければ刺激的な愛を感じることができません。これが問題です。(141-106,1986.2.19)

 

 世の中に存在するものの中で、神様と相対になる力はありません。神様は全知全能であり、絶対的だからです。また、永遠不滅の自存の方が神様です。そのような神様が願われるものがあるとすれば、何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。神様が絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、神様にも絶対に必要なもので、それが真の愛です。(祝福過程と理想天国Ⅰ-302)

 

 ③神様も愛の前には絶対服従である

 

 神様も愛が好きなのですから、愛に夢中になることができるでしょうか。天地を造られた全知全能の素晴らしい神様が? 神様が愛に夢中になることができるでしょうか。家の中で虎みたいなおじいさんが、小柄なおばあさんにどうすることもできないこともあるのです。それは、何の鼻をつままれてそうなのかというのです。愛の鼻です。愛には偉大な力があるというのです。ですから神様も、愛の前ではどうすることもできません。(137-84,1985.12.24)

 

 能力が多く、全知全能の神様がいらっしゃるならば、神様は、どのようなものを好まれるのでしょうか。神様は人間より優れているので、愛を好まざるを得ないという結論が最も理論的に妥当なのです。それでは、神様の愛とはいったい何でしょうか。永遠の昔から、永遠に「ため」に生きる愛をもっていらっしゃり、そのような愛をしようとする方が神様だというのです。(90-86,1976.12.19)

 

 皆さんは、神様を中心として息子にならなければなりません。神様を中心として息子になるには、何を中心としてなりたいですか。お金ですか。神様が「私は全知全能の神様なので、大きい権力を中心として、父子の関係にならなければならない」と言いますか。知識ですか。それはすべて付録です。神様は愛を中心として、その愛と私は一つにならなければならないのです。「その愛だけが最高だ」。そうでなければなりません。この愛を完全に占領する日には、天下にどんなに権能が多い神様でも、「うん、うん」と言われるのです。(69-181,1973.11.12)

 

 いくら神様が全知全能だとしても、男性、女性は愛に絶対服従だと命令することができますか。「私も真の愛には絶対服従するから、私のようにお前たちも真の愛に服従しろ!」と、こう言ってこそ父なる神様として堂々たる神様になるのであって、神様は守らずに、「おい! 息子、娘、お前たちは愛に絶対服従しろ!」と言えば、それは話になりません。
 真の愛の位置にいる神様が、独裁者の神様になるのです。神様も同じように、「私が真の愛に永遠に絶対服従するように、息子、娘も真の愛を中心として永遠に服従すべきだ!」と言うとき、息子、娘が「アーメン!」と言うのです。そうでないときには、「お父さんは自分勝手にして、私たちだけに服従しろと言うのでしょうか? ふん!」と言うのです。問題になります。このように見るとき、神様も真の愛には絶対服従するという論理を立てなければならないのです。(211-84,1990.12.29)

 

 どんなに全知全能なる神様でも、真の愛の前には絶対服従するのです。どうですか。この言葉を聞くのは良いですか、悪いですか。その真の愛は東から聞けば良く、西から聞けば悪いでしょうか。西から聞いても良く、南から聞いても良く、北から聞いても良く、上から聞いても良く、下から聞いても良いのです。夜も昼も四季も越えて、青年時代と老年時代を越えて、真の愛は永遠に聞いても悪くないというのです。(211-75,1990.12.29)

 

 絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できる所、愛が立つことができる所を探されるのです。神様も愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。神様は、すべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。そうしてこそ話が通じるのです。
 「神様は人類の父である」と言うでしょう。それでは、父自身が愛を中心として生きずに、「子供たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きなさい」と言うことができますか。根源がなければ駄目なのです。それゆえ、神様自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」という教育をすることができるのです。(207-261,1990.11.11)

 

 絶対的な神様も、「ああ、私が絶対的で全知全能ですべてに遍在しすべてをもっているが、私も絶対的なその何かに従って生きてみたい」と言うのです。
 神様も、「ため」に尽くしたい心があるのです。そのような神様なので、私のために尽くせという愛をしないのです。「ため」に尽くせという愛は、いけないのです。(201-115,1990.3.27)

 

 統一は何を中心としてするのでしょうか。「神様は全知全能だ」と言うのですから、それは全知性を中心としてですか。知識を中心としてですか。違います。それでは何を中心としてですか。力でもってですか。力をもってしても駄目です。どんなに春に力があるとしても、花を咲かせる環境を越えることはできません。どんなに夏に力があるとしても、生い茂らせることができる、そのような時期を越えることはできません。秋を迎えれば、それがすべて枯れてしまうのです。秋がどんなに結実の時期だとしても、冬を克服できないのです。これを克服するためには、いつも太陽を中心に仕えていなければなりません。
 そこにおいて春夏秋冬を克服することができます。それ以外はできません。それは何のことかといえば、息子、娘、姉、弟、兄弟同士でけんかしている場面において、父母の伝統であられる神様がそこに入ってきて中心となり、「このようにしろ!」と言うとき、統一ができないでしょうか。「統一できない」と言う者は狂った者です。(221-190,1991.10.24)

 

 今日、現代神学が滅びざるを得ない内容とは何かと言えば、「神様は全知全能なる神様なので、その方は愛も思いどおりにすることができる」と考えることです。自分一人で思いどおりに愛することができますか。うちの奥さんがいなくして、できますか。「できる」と言う者は、狂った者です。それでは、神様独りで愛することができますか。(209-81,1990.11.27)

 

 神様は全知全能ですが、神様のように全知全能なものがもう一つあって、二つの全知全能なものが愛するようになれば、その世界はどんなものだと思いますか。バランスが合わないで、かえって逃げてしまうというのです。その二人の中で引っ掛かって、行くこともできないし、来ることもできないのです。横に外れてしまうのです。弱いものは強いものに行き、強いものは弱いものに入っていってこそ、ちょうど真ん中に挟まれて身動きがとれないのです。弱いものは強いものを、強いものを願います。
 女みたいな男が好きな女性は、死んでしまえというのです。女のような男を愛するという女性は、死んでしまってもいいというのです。女性が女性の手に触れれば気分が良いですか。女同士で手を握ると気分が良いですか。ソフトな女性の手がソフトな手を握れば、それはどれだけ気分が悪いでしょうか。二つのソフトな手の感じが、どれだけ気分が悪いですか。それは、死ぬよりもっと嫌なのです。だから、死んでしまえというのです。(167-300,1987.8.20)

 

6)愛によって遍在される

 ①愛だけが境界を出入りする

 

 神様の心は、神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあるのです。天地のどこに行っても、そこに神様の心があるというのです。ですから天は、いらっしゃらない所がないのです。すなわち「遍在する」と言いました。
 神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。最高の道に通じた人がいたとすれば、神様の心に所有された人です。飛ぶ鳥1羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌う境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、神様の心の中にあるのです。(8-180,1959.12.13)

 

 それでは、神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息吹のように感じなさい。台風がきたら、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知り、神様の愛を太陽に学ぶのです。
 神様の心情を体恤する一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てられたのが自然です。木の葉を見て、自分の息子、娘のように思って一人つぶやくことができる人がいれば、彼は聖人に近いのです。(59-101,1972.7.9)

 

 神様が遍在されるので私たちも遍在するものに似たいし、神様が全知全能なので私たちも全知全能になりたいし、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二を願うのです。これが似ました。私自身が神様に似たので、私を神様に似るようにつくりたいのです。私自身がすべての天下を治めたいのです。これがすべて、同じように神様に似たのです。(26-167,1969.10.25)

 

 愛を通じて体恤的な生活をしなければならないのです。それで、神様が悲しまれるときに私が悲しみを感じ、神様が喜ばれるときに我知らずうれしくなるのです。孝子は千里、万里離れていたとしても、父母の愛はいつもその孝子のそばにあるのです。神様の遍在性において、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。知識的内容に存在するのではありません。
 しかし、愛はそうではありません。極と極を越えて遍在を妥当に、可能にするのが子供を愛する父母の心、子供に向かう父母の心です。愛を通じるその道に、父母の愛は遍在します。どこでも、ない所がないのです。それは愛だけが可能です。愛だけが、その息子を完全に支配し得るのです。全能の権限は、そこに該当するのです。このようになっています。(59-101,1972.7.9)

 

 愛には偉大な属性があります。神様の絶対的な愛、不変的な真の愛と一致した立場に立つようになれば、神様がいらっしゃるところに私が加勢することができ、いつでも同居し得る権限をもつようになります。
 そのようになれば、私が目をつぶらなくても神様に出会い、神様の悲痛な心情を体恤した者は、道を歩いていても立ち止まって痛哭する、そのような体恤的世界があるのです。
 堕落した世の中でも、母の愛は、もし息子が外地で不慮の事故に遭ったとしたら、第六感で分かる場合が少なくないのです。寝ていたとしても、「あっ! 誰々よ」と叫んで起きるのです。(201-356,1990.4.30)

 

 動脈が偉大か、静脈が偉大か、どちらが偉大ですか。同じです。それでは神様が偉大か、人間が偉大か。同じです。
 愛を中心として見れば、神様が動脈的だとしたら私たち人間は静脈的な存在なので、神様と対等になることができる、そのような特権をもった人間の価値があるのです。
 「天上天下唯我独尊であり、全知全能であり、遍在し、私を通じないものはない」。それは何を中心としてそうなのですか。愛を中心としてです。それでこそ理解できるのです。(109-146,1980.11.1)

 

 神様は、どのようなお方でしょうか。神様は、欲張りの中でも大王の欲張りです。いらっしゃらない所がない、遍在される神様です。いらっしゃらない所がない神様なので、どれほど欲張りですか。「欲張り者」とか「欲張り」と言ってはいけませんが、ともかく欲が多いのです。(121-70,1982.10.24)

 

 神様には絶対服従できる道があるでしょうか、ないでしょうか。絶対主管しようとするそのような絶対、独裁者的な性格をもった神様が、絶対服従できなくなるときには、高いものは主管することができても、低いものは主管することができません。「遍在性」という言葉自体が、矛盾した言葉になります。
 神様も私たちに似たので……。父母は自分の息子、娘に似ているでしょう? そうではないですか。神様を「私たちの父だ」と言います。神様も絶対服従して生きたいのです。そういう道がなければ、神様はどれだけ孤独でしょうか。(129-29,1989.7.2)

 

 ある画家が描いた作品をもって、夜も昼も心酔し、眺めて涙を流し感嘆する人がいるならば、それを描いた画家は気分が悪いでしょうか。
 そのような人がいれば連れてきて、部屋に招待し、「どうしたのですか」と、その事情を聞いてみたくなるのではないですか。「いやあ、嬉しいなあ。実に慕わしい。ずっと一緒にいたいものだ」と言ったからといって、「気でも違ったのですか」と言われるでしょうか。
 皆さんは、神様を知りませんが、全宇宙に満ちあふれている神様の遍在性を見ると、知識的な主体としてではなく、愛(の主体)としていらっしゃいます。ですから、「いかに各分野で同感圏を体恤し得るか」という立場で神様を再認識し、再発見しなさいというのです。(59-103,1972.7.9)

 

 ②宇宙には愛がない所がない

 

 神様は絶対的な神様ですが、なぜ絶対的なのでしょうか。愛に絶対服従するからです。気分が良いですか、悪いですか。また、神様は遍在します。遍在。神様の愛がない所がありません。(223-246,1991.11.10)

 

 神様の愛は、宇宙を抱いても余りあるのです。中心的な基盤をもっています。最も大きい基盤を包容する愛の中心者が神様です。もし神様が動く場合には、小さいものも全部ついて動かなければなりません。一つの大きな円の中に、全部入っているでしょう。それで、「神様が全世界、全宇宙をカバーする」と言っても。理論的な言葉になるのです。(205-33,1990.7.7)

 

 神様がいなくなるときは、宇宙がすべて空になるのです。空のようになるのです。しかし、神様がいるようになれば、宇宙はいっぱいに満ちているのです。なぜですか。愛があるからです。ですから私が一人でいても、神様がいることを知れば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。どこにでもいらっしゃるのです。どこにでもいらっしゃることを感じるようになるのです。それで、愛の中にいて遍在の感動を知ることができるのです。しかし、私が神様を分からなくなるときは、すべてのものが空になるのです。ないのと同じだというのです。(91-323,1973.3.1)

 

 愛の主体がいなければ、何もないように感じます。しかし、愛の主体がいれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっぱいに満ちてこそすべてのものが満ちるので、無限に与えることができるし、真実に与えることができるという結論が出てきます。授受することは理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は、距離を超越します。愛がどれほど速いのかといえば、光もついていくことができません。一番速いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。(95-39,1979.9.11)

 

 愛とは何でしょうか。回ることができる潤滑作用と軌道作用をしてくれるものです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かそうとすれば油を入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとすれば、潤滑作用をしなければなりません。ですから、最高の喜びの潤滑作用をするものは愛しかありません。それは根が遍在する神様なので、なくなることはありません。(180-161,1988.8.22)

 

 愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛1本を引っ張れば体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引っ張られ、愛が動けば宇宙がすべて和して回るようになります。(89-90,1976.10.4)

 

 この宇宙に、すべての人々の心を満たしてくれる一つの主体があるとすれば、それはどのような主体でしょうか。絶対的な一つの中心者でないわけにはいかないのです。どのような心の位置にも、愛をいっぱいに満たせる絶対者がいなければなりません。ですから彼は、無限な絶対者でなければなりません。今日、数十億になる人類の心を、すべて満たしてあげなければならない神様のその愛の量が、どれほどでしょうか。それは絶対的でなければなりません。「全知全能で遍在」という言葉が、だから必要なのです。その言葉は、神様に必要な単語だというのです。(116-240,1982.1.1)

 

7)既存神観の問題点

 ①既存神観は二律背反的である

 

 宗教の教えに対する反問には、いろいろあります。「神様は果たしているのでしょうか」。「神様が全知、全能、遍在し、至善、至美で、愛であり、審判の主であり、人類の父などと表現しますが、そうだということをどうやって知ることができますか」。「じっとしていてもいいはずの神様が、なぜ宇宙を創造したのでしょうか」。「神様の創造の目的は何なのか」。「創造には方法があったであろうが、その方法は何なのか」。「絶対的な神様が創造した世界に、なぜ弱肉強食という現状が起こっているのか」。「人間が堕落して罪の世界ができたと言うが、完全な神様が創造した人間がなぜ堕落するようになったのか」などがそれです。(122-302,1982.11.25)

 

 神様は問題が多いのです。「全知全能だ」と言いながら、なぜイエス様を十字架に架けるようにしたのでしょうか。十字架の道理でなくては救援することができませんか。それにどうやって答えるのですか。「全知全能だ」と言いながら、十字架上のイエス様を救うことができないのなら、そんな神様は、残忍な神様です。人間の前から追放しなければならない神様です。何を信じるというのですか。(136-128,1985.12.22)

 

 神様は人間を堕落するようにしておいて、なぜ悲しまれるのかという根源を明らかにして、人間と神様との関係がどのようになっていて、また全知全能だという神様が、なぜこのように無能な神様になっているのか、ということを知ろうとした人がいませんでした。(133-216,1984.7.19)

 

 今まで神学者たちや霊界に通じる数多くの人たちは、サタンがいることは知っていましたが、全知全能なる神様の前に反対するサタンを、なぜ防御できなかったのかという問題は分かりませんでした。これが霊界に通じていても問題です。いつでも神側に行こうとすれば、必ずサタンが妨害するようになっているのです。多方面から、一方ではなく八方から反対するようになっているのですが、それをなぜ神様が干渉できず、制裁できないのでしょうか。このような問題が今でも謎です。霊界に通じても、これだけは分からないのです。(133-86,1984.7.10)

 

 全知全能の神様が、今まで数万年の歴史を通じて人類を導いてきましたが、どうして善の目的を成し得る世界に導くことができず、しまいにはこのような失望と絶望の世界に向かわなければならなくなったのでしょうか。これは深刻な問題です。神様がいないと断定し得る内容にもなるのです。
 神がいないならば、私たち人間が願う理想とか、あるいは平和な世界、人間が追求していくユートピア的な内容が、未来に可能なものとして人間の前に到来するのでしょうか。今まで長い歴史路程を通じて考える人、あるいは無数の哲人たちがそのような世界を追求したのにもかかわらず、それにまだ到達できず、現在にとどまっているという事実を見るとき、私たちの未来に、そのような希望の世界をもたらしてくれるとは考えられないのです。(130-18,1983.12.11)

 

 全知全能の神様が、なぜサタンをそのままにほうっておくのでしょうか。一朝にして首を切って処断してしまえばいいのに、なぜほうっておくのでしょうか。それが宗教において一番の難問題なのですが、それは簡単な内容でしょうか。(127-112,1983.5.5)

 

 今、数多くの宗教人たちは「神様」と言えば、栄光の宝座に座って、全知全能であられ、遍在される方、また絶対的な権限をもっていらっしゃる方だ、このように考えているのです。それで、神様は苦痛とか悲しみとか、そのような概念と関係ない方だ、このように考えています。そういいながら、キリスト教では神様をどのような方というかといえば、「天のお父様だ」と、このように呼ぶのです。そして「お父様」と呼ぶすべての信者は、「罪悪の世の中で悔い改めなければならず、信仰をしなければならない」と言います。父子の関係にあるのに、神様と人間がこのように二律背反しているというのです。(123-154,1983.1.1)

 

 今日、キリスト教で、「神様は聖なる方であり、全知全能なる方として、公義の審判主として宝座に座って万民を審判する審判長だ」と言うのですが、皆さん、裁判長がいいですか。裁判長を10年したら、病気にかかって死にます。死ぬというより、病気になってのけぞって倒れます。病気にならなければ偽物です。人の命を奪う死刑宣告を下したりもしたのですが、自分が下した判決が、絶対的ではあり得ないというのです。論法、解説法はいろいろな方向があるのに、自分の判決によってその人の生死の問題を決定するようなことをしたので、そうだというのです。それは深刻な問題です。宇宙の公法に照らしてみるとき、法は絶対的ではあり得ません。ですから、考える人であれば、10年判事をしたら病気にならないといけないというのです。(198-285,1990.2.5)

 

 さあ、それでは、この天地の大主宰なる神様がいらっしゃるならば、一度尋ねてみましょう。神様を中心として、今日、既成教会では、全知全能の神様は、この玉座に座り、審判主として来られ、悪いやつは地獄へ送り、善い者は天国へ送り……。それを見て喜ぶ神様ならば、狂った神様でしょう。神様は、善悪を超越した絶対善の立場にいらっしゃいます。(194-32,1989.10.15)

 

 既成教会の牧師たちは、神様は宝座に座って、全知全能であり、遍在者だといいますが、それのどこがおもしろいのでしょうか。宝座に、王座に何万年もただ座っていたとしたなら、おしりが全部ぶよぶよになるのではないですか。皆さん、座っているのが好きなら、三日間だけ座っていてみなさい。(192-29)

 

 それで神様は、何をしているのですか。キリスト教でいえば、神様は宝座に座って永遠に栄光の中で……。独り座っていて何が栄光でしょうか。永遠の以前から今日まで1箇所に座っていて、「おお、私の権力はすごいな。私のこの全知全能で邪悪な……」。そのように言うのでしょうか。そして何をするというのでしょうか。神様も愛を中心として、今でも生きてこられたのです。このような論理を否定することはできません。(191-22,1989.6.4)

 

 神様が自分勝手にするようであれば、今日までの数万年の歴史、人類歴史をいえば、85万年、150万年と見てきましたが、そのように長久なる歳月の間、なぜ人間をこのような姿に造ってきたのでしょうか。もしそうであれば、神様はいないという結論を出すことができるのです。「全知全能なる神様」という言葉も使えません。これはみな、荒唐無稽な論法です。なぜできないのかというのです。なぜできないのですか。条件に引っ掛かったからです。(162-186,1987.4.12)

 

 堕落していなかったら、どのようになるのでしょうか。今日、既成教会では、「神様は全知全能で、聖なる方であり、我々人間は俗なる者だ」といいますが、間違っています。あの世に行ってみなさい。今日、この世で自分たちも、「天のお父様」と言っていますが、この父というのは何なのでしょうか。神々しく相対できない関係から「父」という言葉が出てきますか。それは既に初めから論理的矛盾だということです。矛盾だらけです。しかし文総裁が言うことは、事理にかなっています。(240-191,1992.12.13)

 

 私がこのような話をなぜするのでしょうか。神様が始めて、人間を息子、娘として造られたのですが、この息子、娘が神様を褒めたたえながら歌い踊る、そのようなことを見たでしょうか、見れなかったでしょうか。人間が堕落して追い出されたので、いまだにこのような日を迎えることができないのです。このような神様であることを既成教会の人たちは知りません。
 神様が栄光の中にいながら全知全能であり、何でもすべてできる神様だと思っているのですが、このような神様ならば、なぜ数千年の間このように人間を救うことができなかったのかというのです。それを、どのように答弁するのですか。それは人間が罪を犯したからです。人間が罪を犯したので、罪の清算も人間がしなければならないのです。(226-304,1992.2.9)

 

 神様が絶対に願うことは何でしょうか。これが問題になるのです。神様が願うことは何ですか。神様の体が絶対的に願うことは何でしょうか。能力ですか。今日、既成教会の既成神学では、神様は全知全能であられるので、公義の審判主として来られ、善なる人は天国に送り、悪なる人は地獄に送ると言います。そのような裁判長がいいのですか。裁判長が好きですか。意地悪な神様になって地獄へ送り、天国へ送るように造りましたか。論理的に全部不当な仕打ちだ、という結論になるのです。(211-75,1990.12.29)

 

 既成神学では、創造主なる神様は聖なる方であり、神様から創造された被造物は俗なるものであるという論理をもって出てきます。これは宇宙生成の本性的原理に違反する論理です。キリスト教の伝統的主流思想が愛だといったのに、俗なる罪人と聖なる神とは、どのように一つになれますか。理論的根拠を出してみなさいというのです。理論を提示できないなら、むなしいことです。偽物です。
 ですから神様にも、絶対的な神自身が絶対服従して、絶対者である神の生命を捨てでも、「ため」に尽くしたい相対がいなければならないというのです。(204-100,1990.7.1)

 

 今日、既成神学者は、「信仰全体を我々が批判する時だ。今までの神観、人生観に対するすべてのものを再検討する時が来た」と言います。今までの神学思潮は、「聖なる創造主と被造物は対等な立場に立てない」ということでした。それでは、愛はどのようにしますか。神様独りで愛しますか。平和だ、幸福だというものは、何ですか。神様独りでしますか、と尋ねたら、答えはどのようにしますか。対象がいなくてはいけません。(77-317,1975.4.30)

 

 この被造世界が生まれるようになった動機とは何でしょうか。神様も愛が必要で天地を創造したというのです。このような事実を知らない今日の既成神学の神観は、それで間違っているというのです。絶対的な力の神、力さえもてば何でもできるというふうにです。
 ですからキリスト教文化が通過する所は、血を流してきたのです。西洋文明がキリスト教文化に従って発展してきましたが、これからはキリスト教文化が終末の世界に破綻的結果をもたらすだろうということを、このような論理から予測できるのです。(209-29,1990.11.25)

 

 歴史は、科学の時代に来ています。すべての根源を把握して種の起源を探究し、根本を追求する科学の発展時代が来ることによって、宗教もそこに歩調を合わせざるを得ないのです。そこに主体的な観をもって、世界がどうであり創造の内容がどうだということを説明して、神様を立証できる宗教が現れなければならないのに、そのような宗教がないので、神が生きている限り、そのような宗教の内容を準備しなければならないのです。(211-139,1990.12.30)

 

 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたならば、人間の創造に動機と目的があったことは明らかです。その動機と目的が明かされるためには、絶対者がどのような方なのかという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、その方の創造の目的と動機が明らかになるでしょうし、したがって平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるでしょう。(110-253,1980.11.27)

 

 絶対的であり、永遠であり、唯一であり、不変の神様がいらっしゃるならば、そのような神様によって新しい見地から、真なる愛、真なる理想、真なる平和、真なる幸福の起源を要求せざるを得ないのです。このような立場から見るとき、神様自身から見る神観、神様自身から見る人生観、神様自身から見る物質観、これをはっきりさせるところから、初めて私たちは、新たな平和と新たな幸福の世界を迎えられると見るのです。(77-260,1975.4.14)

 

 宗教紛争の根本原因も、やはり本体論の曖昧さにあります。絶対者はただ一つであって、二つも三つもあり得ないにもかかわらず、各宗教の指導者たちは自分の絶対者だけが正しい神様であり、それ以外の神様は真の神ではないと見ているので、結局宗教ごとに絶対者がいることになり、絶対者が多数いるという背理が成立します。
 したがって、すべての宗教の神様は相対的な神様にすぎないという結論になり、各宗教を通じて立てようとした絶対的価値観、すなわち神様の愛と真理に関する理論は相対的なものにとどまっています。すなわち、これまでの宗教は、混乱を収拾し得る絶対的価値観を立てることができなかったという結論になるのです。これは、すべての宗教が絶対者に対する正確な解明ができなかったので生じた、必然的な結果だと言わざるを得ません。(122-302,1982.11.25)

 

 各宗教ごとに、その教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者は主なる神です。キリスト教の絶対者はGod、すなわち神様です。イスラームイスラム教)の絶対者はアッラーです。儒教や仏教は絶対者を明確にしていませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結しているので、「天」が儒教の絶対者だと見ることができるし、仏教では、諸法は常に変化していて、真理は諸法の背後にある「真如」から探し出さるとしているので、真如が仏教の絶対者だと見ることができるのです。
(122-300,1982.11.25)

 

 新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神ではなく、同一な一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、この神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにできなければなりません。
 それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと、人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。(122-303,1982.11.25)

 

 統一教会の「原理」が偉大なのは何かといえば、創造性が具体的だということです。創造がどのようにされたのか、ということが分かるようになっているのです。その次に、どのように堕落したのかという実質的な論理があります。その次には、歴史観があります。
 歴史過程において神様が堕落した人間を放置したままにしないで、再創造するためにどれほど苦労されたのか、ということがはっきりしているというのです。そうして、過程を通して目的の世界に到達するということを、理論的に一目瞭然に明らかにしたのです。(208-296,1990.11.20)

 

(2021.10.19:写経奉献)

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