「成約摂理」の研究

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■天聖經(02) 第1巻「真の神様」 第2章 神様と創造の役事

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第1巻 真の神様

第2章 神様と創造の役事

1)神様の創造の動機は愛

2)人間を創造された目的

3)アダムとエバを通じた愛の目的

4)愛の理想は家庭を中心に完成する

5)神様が万物世界を造られた目的

 

 

1)神様の創造の動機は愛

 ①創造の役事は完全投入

 

 神様の天地創造は、生命の接着を目的としたものではありません。愛の理想を同化させるためのものです。(188-196,1989.2.26)

 

 科学者は、宇宙は力で形成されており、この力によって宇宙が発生したと言います。
 しかし、そうではありません。電気は、先に力があって作用するのではなく、作用を通して電気が生じます。
 そして作用する前に、プラスとマイナス、すなわち主体と対象がなければなりません。作用は一人ではできないので、作用するためには必ず、主体と対象がなければなりません。(197-164)

 

 結局、プラスとマイナスがあってこそ作用し、その作用を通して電気が生じます。同じように力も、主体と対象が作用をして初めて生じます。
 ですから今日、学者がいっているように、力から宇宙が発生したのではありません。また、力が先なのではなく、作用が先です。(111-126,1981.2.8)

 

 愛が先でしょうか、生命が先でしょうか。愛が先です。地球が神様の生命から出たからといって、生命が一番だとは言いません。愛が一番だといいます。
 神様が天地創造をする時、まず生命からしたといっても、その生命の発源地、動機は愛です。生命が生じたのは愛のゆえです。(88-82)

 

 神様がなぜ天地を創造したのでしょうか。いくら絶対者だといっても、独りで喜びを感じることはできず、たとえ喜んだとしても、喜びの刺激を感じることができないので創造をしました。
 絶対者がたとえ「私は絶対者だ。私は愛の主人公である。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。(38-152,1971.1.3)

 

 神様が御自身だけを思ったとするならば、天地創造をしたでしょうか。創造とは、力の投入を意味します。
 芸術家は、最高の作品を作ることが願いです。芸術家は、傑作品を作るために、ありとあらゆる精誠を投入します。すべてを投入したところからのみ、完全な傑作品が出てきます。これ以上できないというときに、初めて傑作品が生まれるのです。
 創造は、自分を投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入せずしては、いかなるものも生じません。
 完全に投入するところに完全な対象が成立するという原則を考えると、神様は主体として対象を造るために完全に投入しました。神様自身が、御自身のためではなく、対象のために存在しようと運動を始めたのが創造です。(78-111,1975.5.6)

 

 創造するとは、力の投入のことを意味します。
 投入をしたのですが、どれだけ投入したのでしょうか。神様がみ言によって造るときに、「こうなれ、ああなれ」といたずらに創造したかのように考えられています。違います。ここには真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入しました。私たちも、精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものは愛しません。
 それゆえ、創造する前と創造した後では違います。創造する前は自分のことを考えたのですが、創造を始めてからは対象を大事にしました。
 私が存在するのは私のためではなく、相対のためであり、息子、娘のためである、このようになっています。(69-81,1973.10.20)

 

 神様が天地を創造するということは、御自身の本質を投入するということです。結局、エネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは、自分の本質の減少を意味します。対象世界の創造は、愛によってなされたのですが、神様はそのみ旨をなすために、自己を投入しました。
 投入したそのものが自分に実るようにしたのではなく、相対に実るようにしました。投入することにより、神様が疎遠さを感じるのではなく、満足を感じるのです。それは、愛によって造ったからです。(60-85,1972.8.6)

 

 私たちが朝食を食べて重労働をすれば、空腹になります。そして、すぐ疲れます。なぜでしょうか。力を投入すると消耗するからです。
 世の中の万事において、損をして喜ぶということはありません。プラスとなってこそ良いのです。それゆえ、神様も天地万物を造って良しとするために、必ずプラスとなり得る何かがなければなりません。
 それでは神様は、プラスとなり得るものをいつ得ることができるのでしょうか。ここに、被造物の完成という標準があります。「この時まで投入すれば、その時からは返ってくる」というものがあります。同じことです。何かをしようという望みをもって努力し、その限界点を乗り越えると、必ず結果が返ってきます。これが宇宙の法則です。
 神様も同じです。人を造ったのは、神様の力を投入したということです。力を投入しました。自分自身を消耗しました。
 ところが、投入できるものを完全に投入して人を創造したとするならば、その完成した人は、どこかに逃げるわけではありません。完成すれば、その次には神様に戻ってきます。
 戻ってくるに当たって、100を投入したときに、100よりも小さい価値をもつものとして戻ってくるのではなく、神様の創造の価値を加えて戻ってくるのです。(65-20,1972.11.13)

 

 宇宙は、どのように出発したのでしょうか。神様を見てみると、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自己を消耗するところから始まったのです。
 では、自己を消耗して相対をつくって、何をしようというのでしょうか。二者共に消耗するのですが、消耗して得るのが愛です。愛さえ得るならば、いくら消耗してもいいというのです。そのような概念が愛であるゆえに、愛を中心として神様が創造を始めたのです。
 神様が損をするようなことをしたのではありません。投入することは損になりますが、神様はなぜそうしたのでしょうか。愛はすべてを満たしても余りある力をもっているがゆえに、消耗して投入しましたが、その代わりに愛を得るのです。
 愛は投入すればするほどだんだん小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていくのです。
 そうではなく、真の愛が小さくなるという原理であれば、神様自体が投入して消耗するのです。反対になります。真の愛は、投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。(237-124,1992.11.13)

 

 愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充することのできる愛の力があるので、疲れ果てることがないのです。
 ですから、困難で苦痛でも、嫌ではないのです。それが嫌だとすれば、どうしますか。愛のための道には、永遠に嫌だという心はあり得ません。
 神様の本質には、怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです。(237-130,1992.11.13)

 

 神様の創造理想を中心として投入、投入、投入しなさいというのです。投入すれば回っていくのです。空気を例に挙げれば、絶対低気圧と絶対高気圧があれば、その中間の気圧が生じます。誰が呼ばなくても、天が降りてくるのです。
 それゆえ100パーセント以上投入したいと思う人は、いつも天が満たしてくれるのです。宇宙の原則がそうなっています。
 完全に投入して忘れるところには、永遠の運動が連結するために、その基準において永生の論理が出てくるのです。永生、永遠の生命、そうでなければ統一の原則をどこから引き出してくるのですか。
 「ため」に生きれば、ぐるぐる回ります。ぐるぐる回って、どこに行くのでしょうか。
 だんだん小さくなって上がっていきます。ぐるぐる回って、広がれば下りていきますが、だんだん上がっていくので、神様は自動的にアダムとエバの肩の上に両足を置くしかありません。(205-95,1990.7.7)

 

 神様が天地万物を、なぜ造ったのでしょうか。造ったという事実は、力を投入したということです。力の投入です。
 力の投入というのは、自体の消耗を意味します。いくら全知全能の神様でも、力をすっかり引き出したのにそれが戻ってこなければ、消耗するのです。(65-20,1972.11.13)

 

 神様は、万物と人間を創造するためにあらゆる力を投入されました。すべてを投入し、また投入されました。
 他のものは、投入すれば全部消耗しますが、真の愛だけは、投入すれば投入するほどより栄え、生産するのです。
 真の愛は、100を投入すれば120が戻ってきます。それゆえ、真の愛を実践する者は、滅びるようでも滅びることなく、永遠に栄えて永生するのです。(219-118,1991.8.28)

 

 神様がなぜ存在されるのでしょうか。何ゆえにいようとされるのでしょうか。愛ゆえにいらっしゃろうとするのです。
 それゆえ、愛の相対が必要なのです。ですから全知全能なる神様は、愛の相対を創造しなければならなかったのです。
 本質的理想によって、愛を中心として創造を始めたということを、これまで私たちは知らなかったのです。愛ゆえに、すべての被造世界が創造されたのです。(208-235,1990.11.20)

 

 神様の願いは、真に与え得る世界的な足場をもつことです。
 神様は、与えることにおいて誰も讒訴することはできず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を望んでいます。
 そのような立場を世界的に広げて、万民をそこで生きるようにすることが、神様の得ようとされる所期の目的です。(13-249,1964.4.12)

 

 ②愛を通じた創造理想の実現

 

 愛の実現のために、この世を創造された神様でした。
 人間と万物が神様の愛を中心として一つとなり、和気あいあいとした愛の世界を築くのを見て喜ぶために、そして人間が神様の愛を中心として真の夫婦の因縁を結び、真の愛の家庭と氏族、民族、世界を築くのを見て喜ぶために、そしてそのような人間と愛によって一つとなることで愛の喜びを味わうために、被造世界を創造した神様でした。正にこれが神様の創造の理想だったのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-302)

 

 無限なる神様の愛が目的を中心として愛し得る本心の根本、これが正に心情です。その価値は変わることのないものです。
 神様の存在の価値を論じようとするならば、この愛について論じなければなりません。価値というものは、相対的与件ができた中で決定されるものです。
 喜びというのは、神様の心情から出発するものです。その目的はどこで遂げられるかというと、人間によって遂げられるのです。見えない神様の心情が、目に見える人間の心情で顕現するのです。
 そのような心情をもった人間が横的に広がって家庭を築けば、その家庭が世界的に広がって世界の中心になるのです。
 そのような家庭を築くよう、神様はアダムとエバに、生育せよ、繁殖せよと祝福されたのです。天宙主義は、生育し、繁殖して、万物を主管するという根本の上に成立するのです。(27-28,1969.11.15)

 

 神様は、なぜ被造世界を創造されたのでしょうか。神様は、被造世界を通して喜びを享受されようとしたのです。
 神様がいくら絶体者だとはいっても、喜びを独りで感じることはできません。喜びは、相手がいてこそ生じるからです。
 神様が必要とされるのは知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。神様自身が絶対的であり、全知全能であられるがゆえに、そのようなものは必要とされません。
 科学がいくら発達しても、神様が造られたものに追いつき、越えることはできません。膨大な宇宙は、秩序の中で法度に従って運行しています。人間の考えや科学が及び得ない膨大な宇宙を神様が創造し、また運行していらっしゃるということを考えると、神様は、絶対的な科学者でもあられます。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-302)

 

 神様の本然の愛に綱を結び、その愛の味を味わった人が離れるようなことがあるでしょうか。
 蜜を吸っている蜂のおしりを引っ張ると、その蜂はおしりが取れても蜜から口を離しません。皆さんがその味を感じたとするならば、どうでしょうか。行っても途中で戻ってきて、再びそこにくっつこうとすることでしょう。(137-57,1985.12.18)

 

 神様の愛は、統一教会の「原理」によれば、四位基台の完成という結論になります。
 だとすれば、四位基台の完成とは何でしょうか。父母の愛は、子女たちに伝達されて感じるようになっています。
 四位基台の中心は、父母の愛を中心に子女と一つとなり、男女の愛が一つとなり、最後に神様の愛と一つとなるのが四位基台なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-302)

 

 アダムは、神様と一つとならなければなりません。これを結びつけるものは愛です。
 存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結びつける中心点が、すなわち愛という絆です。
 肉体をもった人間が神様と一体となれば、その心情と感情は、無限な体恤境と幸福感に酔うようになります。(35-156)

 

 結局、愛によって神様と人間は一つとなるのです。愛によって人間と世界が一つとなり、神様の創造目的である理想世界の実現は、ここから出発するのです。
 神様を中心とした新たな愛、すなわち創造の法度による愛が決定されたところから、初めて神様の理想が出発します。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-302)

 

 私たち人間が寝て朝起きたとき、その心に願うことは何でしょうか。
 朝食を取ることが問題ではなく、仕事に出掛けることが問題ではなく、全世界のことを気遣うのが問題ではなく、愛の心を夜も昼も春夏秋冬変わることなく、一生の間変わらずにもつことを願うのです。
 そのような男性、そのような女性が完全に水平線をなし、縦的な神様と共に90度に連結され、人情と天情が合わさる、そのような立場の愛、そのような愛の理想境、そのために神様は天地を創造されたのです。(213-157,1991.1.20)

 

 神様が創造するに当たって、愛のために投入し、投入し、忘れるという本質から出発したがゆえに、相対もそれを受けるためには共に投入しなければならないのです。上から投入し、下から投入するのと同じです。
 こうして天地が合徳、一つとなるのです。天地を抱き、動かし得る愛を中心として一つとなるのです。そこに偉大なる力が来るのです。(237-130,1992.11.13)

 

 愛を占領しようとするならば、投入しては忘れ、投入しては忘れなければなりません。
 なぜ、そのような愛をもたなければならないのでしょうか。愛は動けば動くほど小さくなるのではなく、大きくなるものだからです。
 力学の世界での自然現象は、動かせば動かすほど、作用すれば作用するほど小さくなります。自然世界は動けば動くほど小さくなりますが、真の愛の世界は動けば動くほど大きくなっていくのです。
 神様は、それを知っていたので、真の愛を中心に創造を始めることができたのです。(237-127,1992.11.13)

 

2)人間を創造された目的

 ①神様の愛の対象として造った

 

 神様は、人間を愛ゆえに造りました。人間は、なぜ造られたのでしょうか。愛ゆえに造られました。
 人間が万物と違うのは、神様の息子、娘として造られたことです。神様の直系の愛を受けられる対象者として造られたのです。これが人間の特権です。(132-244,1984.6.20)

 

 完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは、宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は、誰でしょうか。これが問題です。神様は、なぜ人を造ったのでしょうか。人は、神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。(129-138,1983.10.9)

 

 人を創造して育て、天宙の主人である神様の代わりに愛をもった者として、自分よりも高い座につかせ、主人にしてあげようということなのです。(204-221,1990.7.11)

 

 万有の中心は誰でしょうか。人なのです。その人というのは、どのような存在なのでしょうか。全知全能なる神様の前に相対的価値として登場したのが人間だ、と見るのです。
 人間は、万有の愛の表象体として、一つの灯台のように光を放てる一つの中心として現れた存在です。そのような存在が人です。(115-182,1981.11.15)

 

 人とは何ですか。神様の愛の対象存在です。神様が二性性相である以上、プラスとマイナスの二性性相の主体である以上、その主体の前に対象となるためには、プラスとマイナスのような二性性相の形態が必要です。
 その形態というのは、主体の性稟とは反対の形態ではありません。すべての性稟の相対性を備えて、愛という本質にぴったりと合わさる相対的形態のことをいうのです。
 これが相対という存在なのですが、それは他のものには合いません。愛にだけ合うようになっているのです。神様には、知識や、他のものは必要ありません。愛が必要なのです。人間がこの宇宙の中心だというのは、愛の理想を果たすために被造世界を造ったからです。
 愛の神様に代わり、主人の前に最初に中心の位置に立って愛される特権をもっているので、「人間は万物の霊長である」という言葉が成立するのです。(132-244,1984.6.20)

 

 神様はなぜ、人間を創造したのでしょうか。
 息子、娘の生命を見るために創造されたのではありません。その息子、娘と共に愛し合うために人間を創造されたのです。いくら考えても、そうとしか考えられません。人間を創造された目的は、愛のゆえです。
 神様の愛を中心として、その基盤の上で生命が創造されたのであり、生命を造って愛を誘発したのではないのです。
 言い換えれば、本来、神様の心に愛が芽生え始めて、生命が始まります。その生命は愛から始まったので、結果も愛にならなければなりません。それゆえ愛を除けば、私たち人間は不幸なのです。(57-21,1972.5.21)

 

 神様に必要なものは何でしょうか。神様には、生命も必要ではありません。生命の主体であるのに、そのようなものがどうして必要でしょうか。それでは何が必要でしょうか。愛が必要なのです。
 なぜ神様に愛が必要なのでしょうか。愛というのは相対的関係から成立するものだからです。神様も愛を必要とする神様にならなければ、この創造世界や人間世界と関係を結ぶことができません。
 それで、愛をもって尋ねてこなければ存在世界と関係を結ぶことができないという結論になるので、神様は愛を標準に定めてきたのです。(121-100,1982.10.24)

 

 神様は人を最も貴いものと思っていらっしゃいますが、なぜ貴いものと考えられるのでしょうか。
 神様は、愛の相対を必要とするので最も貴く思うのです。いくら神様が愛をもっていたとしても、愛する対象がいなければ愛を感じることができないのです。相対的関係においてのみ愛を感じるのです。
 神様が人を最も貴く思われるのは、人間は神様が愛し得る対象の位置に、愛の対象の位置にいらっしゃるからです。神様が最も貴く思われるのは、正に人間なのです。(143-309,1986.3.21)

 

 神様がなぜ人を造られたのでしょうか。
 それは、愛を完成するためです。その愛は、神様から始まるのではありません。相対から求め得られるものです。相対がなければ見いだされることはありません。神様が最高に貴いものを成就させるためには、相対が必要なのです。
 神様も相対がなければならないのです。それで相対を造られたのです。神様御自身も、相対から絶対的な愛をつくりあげるように、相対を求めていくのです。
 それゆえ神様も、愛のためにおられるのです。愛のために存在されるのです。愛の驚くべきところは、ここなのです。
 人は神様のためにあり、神様も人のためにあるのです。それゆえ真の愛というものは、「ため」に生きるところから始まるのです。
 本来人間は、どこから生まれたのでしょうか。神様の愛から始まったのです。愛ゆえに生まれたのです。愛が起源なのです。(143-309,1986.3.21)

 

 神様御自身が愛するための愛の対象が必要なので、人を造られたのです。独りで愛することはできません。対象圏がなければ、愛は成り立ちません。
 神様も愛が絶対必要なので被造万物を造り、被造万物を代表した万物の霊長として人を造られたのです。人が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。
 愛を共有するために、その対象的存在として造られたのが人間なのです。ですから人間自体が神様の体です。
 神様の体となったアダムとエバの二人が夫婦になったということは、神様が夫婦になることなのです。
 そうなれば天上世界に行って、アダムとエバの姿で神様が人類の祖先となり、霊界と地上世界を治めるようになっているのです。(139-212,1986.1.21)

 

 ②愛と生命の核心をすべて投入

 

 神様は、あらゆる万物を造り、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造られました。
 人間を造るのに、神様がいたずらに造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。人間を造り、万物を代表する中心として立てるまでの神様の苦労と精誠は、言葉では到底表すことができないという事実を、私たちは知らなければなりません。
 神様が人間を造るとき、ありとあらゆる精誠を尽くし、心血と、御自身の生命の核心をすべて注いで造り、愛と心情をそっくりそのまま注いで造られたのです。どのような力をもっても離すことができず、離れようにも離れることのできない因縁の中で造られたのです。
 このように造られた人間なので、その人間を見つめられる神様に初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。(20-205,1968.6.9)

 

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をそっくり注いで造られた間なので、このような人間が神様を引っ張れば、引っ張られるしかなく、また神様が人間を引っ張れば、引っ張られるしかないのです。
 神様は、このような因縁の中で、内容と目的が一致する人間として造られたのです。もし、そのように造った人を見て神様が賛美するみ言や詩があるとすれば、それは、この世のいかなる詩人や文人にも表現できない最高の作品となることでしょう。その対象は、神様でもなく、万物でもなく、唯一万物を代表した人間なのです。(20-207,1968.6.9)

 

 被造万物の中で、神様の愛の対象となり得る存在は、私たち人間です。神様は、愛の対象を造るため、全心全力を尽くして、自己のすべてを投入されたのです。
 神様は、このように御自身の全体を投入して何をされようというのでしょうか。宇宙の愛の核を設定しようというのです。それが創造理想でした。(166-147,1987.6.5)

 

 「愛」について語るとき、神様には、そのようなものはありません。神様が造られた創造物にはありますが、神様には、そのようなものはありません。あったとしても心の中に内的にあるのであり、形として表れることはありません。
 それで何をするのでしょうか。それが誰にあるのかというと、人間であるアダムにあり、エバにあります。ですから、神様よりも、もっと貴いものを人間がもっているということを知らなければなりません。(206-125,1990.10.3)

 

 人間の欲望の最終着点、人間は欲望の最大の完成基準に向かう方向性があるのですが、それが私たちに作用しているという事実を発見しなければなりません。
 聖書には「私たちの体は神様の聖殿である」とあります。それがどういうことなのか解釈できずにいるのです。
 それは偉大な言葉です。たとえ神様でも、神様と私が愛をささやける愛の対象圏となり、その愛の対象圏と一つとなれば、宇宙を相続し得る権限が生じるからです。愛という原則基盤を通して神様の造った世界、霊界、無形世界、実体世界、このすべて、宇宙の相続権を獲得することができるのです。残念なことにこの驚くべき事実を知らずにいるのです。(137-67,1985.12.18)

 

3)アダムとエバを通じた愛の理想

 ①アダムは無形の神様の体として造った

 

 神様はなぜアダムとエバを必要としたのでしょうか。二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就しようということです。二つ目は、無形の神様が形状をもって現れるためです。
 それゆえ、無形の神様が有形の形状をまとって有形世界と関係を結ぶためのその基礎、その核心がアダムとエバなのです。
 それでアダムとエバが完成して霊界に行けば、アダムとエバは神様の体と同じであり、神様はアダムとエバの心と同じ位置で見えないのです。一人の人、霊的世界で完成した一人の人を、実体世界の体と心のような一つの結果としようとしたのが、神様がアダムとエバを創造された目的です。(92-147,1977.4.1)

 

 天の国に無形の神様が一人でいて、何をするというのでしょうか。見えない神様だけでは、どうすることもできないのです。
 私たち人間の父母となるためには、体をもって感じることができなければなりません。人間のような体を着なければならないので、体をまとうために、仕方なくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得なかった、ということを知らなければなりません。(133-91,1984.7.10)

 

 なぜ、アダムとエバを二重構造で造るしかなかったのでしょうか。無形の神様と同じくなるには、心と体が一生を通じて生きながら、あの世に行くまでに一つとなったという基準を立てなければなりません。
 そうせずしてあの世に現れれば、その形状が神様と一つとならないのです。実体的王権をもった父母が無形の父母である神様と一体となり、永遠の天上世界に体をもった王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造で造りました。
 神様も、アダムとエバに連結しなければ世の中と関係を結ぶ道がないのです。アダムとエバと関係を結んでこそ、アダムとエバの息子、娘と関係が結ばれるのです。(133-91,1984.7.10)

 

 神様が人を造った理由は、同じ父母の位置に立てるためであり、体をもつためなのです。
 「同じ父母の位置」というのは内外をいうのです。ですから、外的な神様はアダムとエバであり、神様は内的な神様なのです。体的な神様がアダムとエバであり、心的な神様が無形の神様です。
 その神様が人類の父母です。本来の父母です。その父母が何人もいるのではありません。一人です。一人なので、その一人の方が入れるアダムとエバを、男性と女性の二性性相をもった分聖殿のようにしておき、神様がそこに入るのです。
 神様が臨在し、作用してこそアダムとエバの二人が理想的作用をするのであって、神様が作用しなければ、神様のみ旨も何も分からないのです。(133-91,1984.7.10)

 

 神様は父の位置、父母の位置に立ったお方です。人間を地の神様として立て、創造主である神様は天の神様として縦的な神様として立てて、これが天地合徳し、こうして愛によって生きようというのです。神様も一人では寂しいのです。(188-196,1989.2.26)

 

 創造主は、縦的な真の愛を中心とした縦的な父であり、堕落していない本然の人間祖先であるアダムとエバは、完全に90度で一つとなり得る位置に立った完成した父母、横的な体の父母なのです。
 創造主は、真の愛を中心とした心の父母であり、アダムとエバは、横的な体の父母なのですが、この二つが合わさって天の父母と地の父母が一つとなり、天と人が合わさって息子、娘が生まれたならば、この地に生まれるすべての人々に宗教は必要ないのです。そのままで神様の国へ行くのです。
 堕落ゆえに、このような複雑な問題が生じたのです。堕落しなかったならば、私たちの体と心が分かれることはなかったことでしょう。(210-139,1990.12.17)

 

 神様が男性と女性を造られた目的は、二人が愛し合って一つとならしめるためでした。
 アダムはアダムのために、エバエバのために造ったのではありません。アダムはエバのために、エバはアダムのために造られたのです。
 また、神様御自身の愛と喜びのためにアダムとエバを造られたのです。神様がアダムとエバを造られたのは、知識、お金、権力のためではありません。全知全能なる神様はそのようなものが必要だったのではなく、唯一、愛が必要だったのです。
 神様がアダムとエバを造られたのは、知識を与えるためでもなく、権力を与えるためでもなく、たくさんの財物を与えて裕福に暮らさせるためでもありません。彼らを創造された目的は、愛の実体として立てるためだったのです。
 神様が人間を創造した目的は、家庭を通して愛の基盤をつくろうとされたのです。愛のない被造世界は地獄であり、神様御自身もまた存在価値が無意味なものとなるからです。
 神様が人間を創造された目的は、愛のためだったというのが創造の絶対法であることを知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-307)

 

 神様がなぜ人間を創造されたのでしょうか。男性は東であり、女性は西なのですが、縦的な神様を中心として東西、四方、平面が必要です。そこでは360度なので無限な面があるのです。
 その面を通して何をしようというのでしょうか。天国の民を生産する工場、出発地がこの地球です。
 それゆえ天国の民は、この地球で生きてから行った人です。行ってみてください。地球星のほかに国はありません。宇宙に人がいるなどといっていますが、いったい何が住んでいるというのでしょうか。宇宙はすべて、人のために造られたものです。(206-209,1990.10.7)

 

 私たち人間は、神様より優れているでしょうか、劣っているでしょうか。神様が人間を創造するとき、縦的なアダムとエバしか造ることができませんでした。
 しかしながら私たちは、息子、娘を生もうとすれば、20人以上も生むことができます。それは、神様にはできないことです。
 神様は、アダムとエバしか造れませんでした。なぜでしょうか。縦的なものは絶対的な基準が一つなので、絶対的男性一人、絶対的女性一人しか造れないのです。(236-259,1992.11.8)

 

 アダムとエバは、神様の息子、娘として生まれましたが、神様の中にあった双胎が実体として現れたものです。無形の男性、女性の双胎が有形の男性、女性の実体として現れたのがアダムとエバでした。神様の息子、娘がこのように始まったのです。
 神様の無形の心情圏の内容を実体心情圏として完成させて、無形と有形が一つとなるためのものが創造理想です。創造理想は、愛を中心として対象圏を成そうというものです。(237-160,1992.11.16)

 

 アダムとは何でしょうか。神様の内在的性稟の半分を実体として展開した表示体です。エバは何でしょうか。女性の性稟を実体として展開した表示体であり、表した存在です。
 表したというとき、表したということは、実体をもっている表示体であるということです。表れる前に、表れていない動機があって表れたということです。
 その表れていない動機が何であるかというと、私たち統一教会では無形の実体である神様です。このように見るのです。(140-123,1986.2.9)

 

 一男一女は、無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。男性は、神様のプラス(+)性稟を、女性は、神様のマイナス(-)性稟を表した実体対象です。
 創造の理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することです。
 一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は、神様のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つとなることです。すなわち神様に似た中和体となるのです。
 それゆえ人間二人、すなわち夫婦は、神様の全体を表象する結合体なのです。(9-83,1960.4.16)

 

 ②夫婦は第二創造主の位置

 

 夫婦が一つとなって息子、娘を生むことにより、永続することができます。ですから、創造した創造主の位置に上がって息子、娘を生んでみることにより、神様が創造した喜びを平面の世の中で感じることができるのです。
 それゆえ自分の妻は、息子、娘のようでなければなりません。息子、娘と兄弟の立場を合わせたものです。
 ですから別れることができません。愛は、そういい加減にはできていません。このようなすべての伝統を通過した後に息子、娘を生んでこそ、神様が本来の創造理想として願った本然的基準に到達するのです。
 それゆえ、家庭が天国の基盤です。(223-24,1991.11.7)

 

 このように夫婦が息子、娘を生んで父母の位置に上がることにより、神様の位置で神様が人間を創造するときに、どれほど喜ばれたかを体恤するのです。
 天地の大主体であられる神様の権限の、すべてを相続することのできる位置に入り得る体恤的環境を、体恤的内容として伝授してあげるのが、息子、娘を生産することです。息子、娘を生んで大切に育て、結婚させるまでが母親と父親の責任です。
 神様がアダムとエバを育てて結婚させなければならなかったのですが、できなかったのです。アダムとエバも、息子、娘を生んで結婚させることができませんでした。この恨を解かなければなりません。これが教育の原論になるのです。結論は簡単です。(223-196,1991.11.10)

 

 人間は、横的な父母の立場に立つのです。アダムとエバは、子供であると同時に兄弟です。兄弟であると同時に夫婦であり、夫婦であると同時に、のちに息子、娘を生むことにより、神様の位置に上がるのです。
 息子、娘を生んで愛するということは、神様が人間を創造して喜んだすべてを相続することなのです。(223-267,1991.11.12)

 

 神様がアダムとエバを創造したのと同じように、創造主の立場でその喜びを感じさせるためのものが子女なのです。
 子女は、アダムとエバによる第二創造物です。無形の神様は、有形の実体としてアダムとエバを造りました。アダムとエバが完成すれば、神様の有形実体の完成として愛の中心代表となります。
 その神様がアダムとエバを創造して喜びを感じたのと同じように、実体的に神様の創造の喜びを感じることができるように、体験させるために与えたのが子女だというのです。(238-62,1992.11.19)

 

 神様が理想的な宇宙の円満な家庭理想を完成しようと、子女と、兄弟と、夫婦と、父母の立場を備えて自分の愛を相続させようとされるのです。
 愛をもっているがゆえに、私を第二の創造主の立場に立てるのです。それが息子、娘です。息子、娘は、それほど貴いのです。(238-40,1992.11.19)

 

 女性が子供を妊娠すれば、新しい世の中が生じるのです。その子供が活動を始めると、たくさんの夢を見ます。女性は、そうでなければなりません。神様が創造されていた時のその夢、夢は多いのです。
 「将来この子が大きくなって、こうなったらいいのに」というのは、神様が創造しながらアダムとエバの準備した、その思いに似たものです。女性の立体的夢は、そのようなものです。
 「私一人ではない。天下が私の息子、娘の手の中にあり、私の懐で育つのだ」と、このように考えながら、愛を中心として天下を呼吸しているのです。(228-263,1992.7.5)

 

 子供を生む立場に立つことは、結婚から上弦世界を占領するのです。神様の位置に上がって子女を愛することは、神様が創造以後に、人間をどれほど愛したかという内縁を体恤させることです。(224-28,1991.11.21)

 

 アダムとエバが神様のように愛してこそ、そこに神様が臨在するのであり、アダムが勝手に、エバが勝手にしてはならないのです。完全に一つとなってこそ、無形の神様がここに往来するのです。
 そうして神様の愛の冠を、愛のふろしきをかぶせようとするのです。それが理想です。そうしてこそ、神様がにおいをかぎ当てるのです。神様は、どこへ行ってもくんくんとにおいをかぐのです。(112-103,1981.4.5)

 

 それでは、神様も口づけするのを好むでしょうか。無形の神様は、二つが合わさっているので刺激を感じません。愛も、一つとなったり離れたりします。夫と妻が最初、死ぬか生きるかというほど愛しているときは、雷が鳴り、稲妻が光るように愛するのです。次は、雨ののちに雲が晴れるように、愛が一度燃えたのち、再びゼロに戻るのです。(224-36,1991.11.21)

 

 神様は、二性性相の中和体であると同時に、格としては男性格をもっています。神様の父格の愛に対し、相対的立場にあるのが男性であるので、これは垂直関係です。垂直関係。女性は垂直関係ではありません。女性は何でしょうか。垂直の相対となる横的関係なのです。
 神様の人格を中心として格に従って見るとき、男性は縦的関係である上下関係であり、女性は左右関係である横的関係です。それでは、縦が先でしょうか、横が先でしょうか。縦が先なので、先の位置に近づこうとするのが、すべての自然の道理が追求して求める道なのです。それゆえ神様の愛を中心とすると、娘よりも息子なのです。こうしてこそ、すべて整理されるのです。(177-324,1988.5.22)

 

 女性には一カ月に一度ずつ生理がありますね。誰のためですか。子孫がどれほど貴いかを知らなければなりません。アダムとエバを造られた目的は、天国の民を生産することです。霊界では生産ということがありません。
 神様は縦的な愛の主人であられるので、縦的なことにおいて軸が一つしかありません。一点しかないのです。一点では生産できないので、横的な面積が必要なのです。それで、人間と一つとなり、天国の民をたくさん繁殖し、移譲するというのが神様の創造目的です。(222-72,1991.10.28)

 

 天国の民の生産地が夫婦である、ということを知らなければなりません。それゆえ、人間を創造しないわけにはいかないのです。これが天国の息子、娘、神様の息子、娘です。天の皇族を中心として連結し、天国の民を拡大するのです。この地上には、私たち人類始祖の肉身を通じて天国の民を生産するための基地だった、ということを誰が知っているでしょうか。(219-49,1991.8.25)

 

 アダムとエバの二人が愛し合うのを御覧になった神様は、孤独な存在ではありません。御自身の中に内在した愛の素性というものが、こんなにまで強力なものだったのかと、相対的な喜びを感じるのです。(み旨と世界-279)

 

 皆さん、愛し合うのを神様が見るでしょうか、見ないでしょうか。天下時空を超越する神様がこの世界50億人類が愛し合う夜に、目を閉じるでしょうか、どうでしょうか。見ているとすると、気分はどうでしょうか。善い妻、善い夫がどれほど多いでしょうか。考えてみてください。ありとあらゆることが起きるというのです。仕方なく妻の役割を果たし、仕方なく引かれていき、仕方なく機嫌をとり、そのように暮らすのではありません。それがどうして「愛」と言えるでしょうか。それが人生ですか。世の中がすべて、神様の願った創造理想どおりに、花の香りが漂うエデンの園のように蝶と蜂が飛び回り、天地が和動しながら暮らせる環境となって、神様がそこに心酔して眠ることができれば、どんなによいでしょうか。そう考えたことはありますか。一度そのように暮らしてみてください。(222-252,1991.11.3)

 

 神様は夫婦の立場に至ることができず、父母の立場に至ることができませんでした。これを復帰しなければなりません。そのためには、真の父母が来なければなりません。真の父母が来て、縦的な父母と横的な父母となって初めて神様が創造当時に理想的子女を繁殖したのと同じように、そのすべてがここで実るのです。
 神様は縦的創造だけをしましたが、霊肉の実体が完成した位置にあるアダムは、横的創造をすることができます。神様は、息子、娘の二人しか創造できませんでしたが、神様に代わって実体の父母の立場に立った人間は、アダムとエバを無数に生むことができるのです。10人生むこともできれば、20人生むこともできるのです。しかし、神様はそうすることはできません。このように横的な拡大の道を中心として多くの民が生まれて、天国の民として移っていくのです。(236-146,1992.11.4)

 

 真の父母様は、数多くの宗教の結実です。神様の創造の偉業を代表できる結実です。歴史の終着点であり、宗教の目的であり、人類の最高の希望です。すべてがここに帰結するのです。ここは自由です。個人解放、天上天下がすべてここで解放されるのです。これらすべては、愛から統一天下が繰り広げられるのです。(220-221,1991.10.19)

 

4)愛の理想は家庭を中心に完成する

 ①神様の創造理想は四位基台完成

 

 神様の創造目的は、何でしようか。アダムとエバを造り、ただ見るためではありません。男性と女性を造ったのは、男性は男性なりに、女性は女性なりに老いて死ぬようにするためではありません。息子が成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して神様を中心とした真の地上天国を建設するためでした。神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここで男性であるアダムは天を代表し、女性のエバは地を代表します。天地です。
 それゆえ、彼らは二人ですが、彼らが横的に一つとなれば天と地が統一されるのです。神様の愛を中心として二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。(21-43,1968.9.1)

 

 神様は、アダムとエバを創造されたその当時よりも、彼らを通して繰り広げられる未来に、より大きなみ旨を置かれました。最も貴いものが来るようにしました。それは創造目的を完成することです。愛を中心とした四位基台を完成するのです。(み旨と世界-533)

 

 神様は個体の性稟を中心としてプラス的性稟の代表として息子のアダムを造り、その息子を最高に愛されました。息子を愛するときに、女性的な愛を合わせて愛されました。また、娘であるエバを愛するときも、男性的な愛を合わせて愛されたのです。このように分立した二人が一つとなるので、第3の出発の起源が生じるのです。それが子女です。それゆえ子女は、より新しい希望を触発してくれる愛の対象だというのです。
 アダムとエバは、神様の愛と父母の愛を代表した実体として生まれました。したがって、その息子、娘を神様も好み、アダムも好み、エバも好むのです。皆さんは、三対象目的ということを知っています。その三対象目的は、このようにして完成するのです。
(32-238,1970.7.19)

 

 人間に対する神様のみ旨は、創造目的を完成して創造理想を実現することです。創造理想の実現とは、男女が結婚して愛で一つとなることで終わるのではありません。その次には息子、娘がいなければなりません。なぜそうなのかというと、天地の道理は上下、前後の関係が連結することだからです。きのうがあればきょうがあり、きょうがあればあすがあるのです。連結しなければなりません。
 それゆえ夫婦だけでは、きょうはあっても、あすはありません。あすがなければ、すべてが終わるのです。夫婦が上ならば下(子女)がいなければなりません。下がなければ終わるのです。それゆえ天地の道理は、上下があってこそ左右があるのです。
 父母はその息子、娘を結婚させて初めて、「自分の責任を果たした」と言えます。夫婦である父母と、息子、娘が結婚してこそ上下関係となるのです。上下関係ができてこそ理想がかなうのです。左右として夫と妻が合わさり、上下関係の父母と子女がいてこそ縦横が連結し、この宇宙の理想的球形世界を実現することができます。
 また、ここに兄弟姉妹がいて初めて球形が繰り広げられるのです。それで理想実現が完成すれば、横的に縦的に連結する十字的円形を描かなければなりません。その二つの理想実現圏を男性と女性が感じるとき、初めて自ら理想的な立場で暮らしているということができます。それが統一教会でいう四位基台です。それゆえ、創造理想完成は四位基台完成であるというのです。(85-178)

 

 人は、自分だけにとどまっていてはなりません。自分から始まって3段階を経ていかなければなりません。これが、私と相対と子女なのです。神様を中心とした私と相対と子女の関係、これが四位基台です。そして、この四位基台を完成することが神様の創造目的なのです。(19-106)

 

 四位基台を造成するためには、まず夫婦の心情を経なければなりません。そうしてこそ子女の心情をもつことができ、父母の心情をもつことができます。(185-178,1976.3.3)

 

 創造理想は家庭完成によってなされる

 

 人間祖先を通じた神様の理想は、男性と女性が結合して理想的な家庭を築くことでした。そうなれば、理想的な家庭の中心は男性でもなく女性でもありません。家庭というのは父母と子女、夫婦の結合からなる一つのまとまりなのですが、その結ばれた中心がすなわち神様の愛です。神様の愛を中心として家庭を完成することが神様のみ旨である、という結論が出てきます。(127-9)

 

 家庭は、永久不変の起源であり、礎です。これは父親も変えることはできず、兄弟も変えることはできず、いかなる国のいかなる制度によっても変えることはできません。また世界的にも変えることはできず、天地も、神様も変えることはできません。それゆえ、家庭というものには「革命」という名詞は、永遠に必要ないのです。(25-85,1969.9.30)

 

 人間には父子関係がなければならず、夫婦関係、兄弟関係がなければなりません。すなわちこの三つの関係が一点になければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が異なってはならないのです。この中心点が異なれば、上下、左右、前後関係の均衡がすべて崩れるのです。それで結局、上下、左右、前後、そして一つの中心点まで合わせて7数となるのです。このように7数となるのは、すなわち神様を中心として完全な真の愛で一つとなり、このすべてが完全に球形を成し、調和と統一を成す家庭になるということです。(299-114)

 

 父母と子女、夫婦、そして兄弟姉妹がみな、真の愛を中心として合わさることを願うところが私たちの理想家庭です。ここから永遠な世界的平準化が始まることにより、地上天国が出発するのであり、また地上天国も自動的に築かれるのです。(300-226)

 

 神様は、真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体となります。父母は、神様に代わる生きた神様であり、夫と妻は、お互いにもう一方の神様であり、息子、娘は、もう一つの小さい神様です。このように、3代が真の愛を中心としてつくられた家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤をつくらずしては天国が築かれません。家庭というのは宇宙の中心です。家庭完成は、宇宙完成の基礎であるがゆえに、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。このような場合に神様は、宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心にいらっしゃいます。(298-306,1999.1.17)

 

 神様を中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛がすべて含まれています。このように消化された位置において父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば誰でも天国生活をすることができます。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-942)

 

 一つの家庭は、社会の倫理的基盤であり、人間世界において最も見本となり、根源的であり、1次的な組織です。このような家庭において、愛が最善の価値基準となるのです。
 人の一生で最も重要な時はいつかというと、生まれる時、結婚する時、死ぬ時です。それでは、生まれる時はどのように生まれるべきでしょうか。良く生まれなければなりません。次には結婚する時です。結婚というのは、生きるためにするものです。すなわち四位基台の造成のためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立ててこそ神様のみ旨が完成し、人間の志が遂げられるのです。このような宇宙の法度が指向する内容を備え、その形態を備えるためのものが家庭です。(24-230,1969.8.17)

 

 神様の創造理想は、人間始祖であるアダムとエバが善なる子女を繁殖して、神様を中心とした一つの世界をつくり上げることでした。(み旨と世界-137)

 

 「家和万事成」という言葉があります。その家庭が平和であれば、万事がうまくいくという意味です。完成した家庭は、平和の家庭であり、これは天国の基礎です。
 家庭の原動力は真の愛です。私よりも神様を、そして対象を命のように愛する純粋で美しい愛、これが真の愛です。神様はこの宇宙に、真の愛の力よりも大きい力は創造されませんでした。真の愛は、神様の愛です。(219-118,1991.8.28)

 

 この地球上に神様のみ旨が成し遂げられたならば、アダムを中心とした単一文化圏が形成されたことでしょう。今日のように多くの民族がそれぞれ異なった文化と文明を形成するのではなく、アダムを中心として一つの単一文化、単一思想、単一文明をもった世界となったことでしょう。そのようになったとすれば、文化、歴史、風習、言語、伝統などがすべて統一されていたことでしょう。
 神様の愛圏の中で理想的な家庭を築き、氏族を築き、民族と国家を形成し、さらに拡大されて、アダムの理想が実現された一つの理想的世界を築いたことでしょう。
 木の根、幹、葉が一つの生命につながっているように、愛を中心として上には神様を父をして侍り、下には万民を兄弟のごとく一つの生命体、愛の生命体となるようにして、神様を中心とした永遠な理想世界を築くことこそが、神様のみ旨から見た世界観です。
 このような世界の人間には、救いは必要なく、メシヤも必要ありません。なぜならば、その世界に暮らす人間は、神様の善なる息子、娘だからです。(110-213,1980.11.18)

 

5)神様が万物世界を造られた目的

 ①万物を造られた目的

 

 本来、神様は天地万物を遊び道具として造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。目的も方向もなく、何の理念的な内容もなく、ただ造られたのではありません。それは、大きな目的と大宇宙の理念をもって造られました。それゆえ極めて微少な物から宇宙に至るまで、すべての存在物には、神様の心情を通じた理念が宿っていのを、私たちは否定することができません。
 それでは、このような理念をもって造られた目的は何なのでしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛と共に通じ、愛と共にに喜び、愛と共に生き、愛と共に死ぬという世界を目的とされたに違いないのです。
 私たちが眠りから覚めて目を開ければ、目の前に広がった万象が見えます。見えるその万象を通して、何か分からないけれども間接的な印象を受け、その反応する感覚で生活における感覚を高めていくのです。私たちの周辺にある極めて微少な物でも、必ず私たちと因縁が結ばれていて、関係しています。私たちが無視しても、その万物はその日その日、天倫の理念によって存在の価値を示し、人間と関係を結んでいるのです。
 なぜそうなのでしょうか。極めて小さい存在から、万物を主管し得る万物の霊長である人間に至るまで、その存在目的を中心として見れば、神様の大宇宙の理念に通じ得る愛の理念圏内に入っているからです。それゆえ、小さなものは大きなものに吸収され、その材料となり、一つの要素となり、大理念を中心として一つの目的に向かうのです。
 歴史は、このように進展していくのであり、存在世界は、天倫という原則の軌道に沿って一つの目的のために動くという事実を、否定することはできません。(9-164,1960.5.8)

 

 なぜ神様は、万物を造ったのでしょうか。御自身が愛する対象を、対象者をもつためです。御自身が愛する対象圏を造るためです。その対象が食べて生きたのちに、自分の本然の世界に戻ってきて、永遠な神様の愛の本国に来て生きるようにするためです。(142-76,1986.3.1)

 

 聖書には、天地を創造したことが簡単に述べられています。み言によって天地万物を創造したというのです。「星ができよ」と言うと星が生じ、「地球ができよ」と言うと地球ができたということになっています。しかしながら、そこには無限な秩序と法度に従って前進的な原則を継承させ、小さなものから大きなものへと発展させてきたことを、私たちは知らなければならないのです。そうして、このすべての万物を造り、万物の精髄として集約したのがアダムとエバ、人類の祖先です。(65-21,1972.11.13)

 

 今日のキリスト教信者が考えるところでは、神様は全知全能なので一言、「このような天地となれ」と言って、「このようになった」と言います。しかし、そうではありません。神様がすべてを投入したのです。もてる精力をすべて投入したのです。もてる愛の力をすべて投入し、未来に自分の愛する息子、娘、自分の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてすべての物を造ったのです。それゆえ私たちは、そのような観念をもって万物を見なければならないのです。(112-306,1981.4.25)

 

 創造するとき、何をもってしたのでしょうか。初めに神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えとともに計画がありました。
 人間を創造し、こういう人間世界を造ろうという、本来の神様のみ旨と計画があったことが分かります。(76-92,1975.2.1)

 

 一つ知らなければならないことは、神様が世の中を造るとき、環境を先に創造したということです。環境の創造を先にしたのです。これを知らなければなりません。そこは必ず主体、対象を中心として作用する世界です。結果がそのようになっているのです。主体、対象が合わさって作用する現象の世界として、自然界は展開されています。(131-217,1984.5.4)

 

 天地創造の道理を見れば、核心を先に造ってから相対を造るのではありません。核心を造る前に、相対的な条件を造るのです。人を造るために土を造っておいて……。外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。
 現在のものよりも大きいもの、無価値なところから、より価値のあるものを求めていくのです。天地創造の道理がそうなのです。人間創造を考えても、体を先に造り、それから霊を造ったのです。(152-319,1963.8.18)

 

 神様は、六日間造った万物を御覧になり、誇りたかったのです。すべての被造物を御覧になり、無限に喜ばれたのです。その喜びの心をもって「良し、良し」と重ねて言われたそのみ言は、誰に向かってのみ言なのでしょうか。万物に向かって言われたみ言だったのです。万物に向かって、それほどに懇切な気持ちを抱いて言われた、ということを私たちは知らなければなりません。(5-238,1959.2.8)

 

 神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。
 造られた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に、神様は喜びを感じられたのです。それでは、復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象のそれぞれの個体を見て、神様を賛美できる心情的な因縁を立体的に備えた人々が住む世界です。
 天から見た人格の価値は、そこにあります。それゆえ昔、聖フランチェスコのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし、夢ではなく事実です。(9-168,1960.5.8)

 

 愛は、独りでいるときにもありますが、愛の作用は、相手がいなければ生じません。神様でもどうすることもできません。神様が最も好む愛なのですが、その愛は独りでは完成しません。独りでは、愛の喜びを感じることができず、愛の衝動を感じることはできません。そのような理由から、神様が宇宙を造られることになりました。神様が愛し、喜び得る相対として宇宙を創造したのです。そうして宇宙を創造してから、その宇宙の主人としてアダムとエバを創造しました。(143-81,1986.3.16)

 

 ②神秘の宇宙、その規模と構造

 

 被造世界のすべての物は、神様の愛する息子、娘が愛の理想を見つけていくことができるように、教材として造られたものです。それゆえ相対的な構造になっています。鉱物も主体と対象の関係によって作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないのです。運動しなければ永続、存続できません。それゆえ宇宙は、人間を中心としてその中心点に到達できるように創造された世界なのです。(137-59,1985.12.18)

 

 宇宙とは何でしょうか。神様の体のようなものです。目に見える体と同じようなものです。神様の分身です。ですから、私が本当に愛することができる、という観念が成立するのです。宇宙を愛するということの実感がわくのです。皆さんも頭をなでてやったりするでしょう。服にも何かがついていれば、取り除くでしょう。それはなぜですか。私のものだから、私と一緒にあるから、このような観念があるのです。
 皆さんが今後どうすべきかといえば、心の中に神様を迎え、心が一つとなり、体が一つとなり、万物が一つとなる、そのような統一の世界を築かなければなりません。(86-174,1976.3.28)

 

 この宇宙がどれほど大きいかというと、何億光年です。光は1秒間に30万キロメートル進みます。その30万キロメートルとはどれほどかというと、地球を7回半回れる距離です。その距離を1秒間に走る光が、1年かかって進む距離を、天文学では1光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きい宇宙です。(127-213)

 

 グリニッジ天文台では、今まで100億光年離れた世界の星まですべて発見しましたが、今では、150億光年離れた世界の星も見ることができる時代となり、それ以上の時代となってきているのです。
 この宇宙がどれほど大きいかというと、それも原理的な数です。210億光年、それほど大きいのです。それがどういうことかというと、光がここから出発し、これが出発して1秒間に3億メートル......。光の速度で1秒間に3億メートル行きます。距離でいえば地球の7回り半にもなる距離です。あっという間に7回半も回ります。それほど速い光が1日かかっただけでも、腰が曲がって考えも鈍くなり、「私には分からない」ということになるでしょうに、それが100年でもなく、100の何万倍です。100の100万倍、それが1億ですが、1億光年。出発して1億光年。行っている途中なのに、人が100歳まで生きるとすれば100万人が死んでいくのです。1億光年ですから、人が生まれて、100年生きては死ぬのを続けて、100万人が死ぬときになってもまだ続くのです。
 それでは、210億光年ならばどれほどでしょうか。人がずらっと並んで生きては死に、また生きて、100歳まで生きて、このように2億1000万人が生きて、それほど行ったのにまだ続くのです。その遠い距離は直線ではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙なのです。(181-195,1988.10.3)

 

 宇宙の完成とはいったい何でしょうか。宇宙を完成するには、私が完成しなければなりません。いくら宇宙が完成したといっても、私が完成できなければ何の関係もないのです。世の中がいくら良くても、外的世界が良くて踊りを踊るとしても、自分が今苦痛にさいなまれているとすれば、その外的世界の喜ぶべき環境もすべて、自分と関係のないものであるということを私たちは知っています。(166-210,1987.6.7)

 

 宇宙の完成は、外的な世界も良いのですが、内的な私自身、私にとっても良くなければなりません。良いというのは、心にとっても良く、体にとっても良くなければならいません。私の細胞で言えば、すべての細胞にとって良くなければなりません。目の細胞と足の裏の細胞とでは異なりますね。異なります。その細胞がみな喜び、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心、どれ一つとして残すことなく全体が喜ぶことができ、それがただ離れているのではなく一つに連結され、連帯的な内容を中心として共鳴的な愛の喜びを感じることができる、そのような世界となってこそ、宇宙が完成がなされるのです。(166-210,1987.6.7)

 

 ③自然は愛の理想を教えてくれる教材

 

 祈祷する人は、自然は第1の聖書だと言いました。第2ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。ですから事実の内容を判断し、前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。(20-271,1968.7.7)

 

 因縁というのは、極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も、400兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。このようなことを感じる詩人がいたとすれば、偉大な詩人です。1枚の木の葉が揺れるのを見て、天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。
 私たちの周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊な境地に入ると、小さな一粒の砂にも宇宙の道理があり、原子一つにも無尽蔵の宇宙の調和があるのを知ることができます。存在するものすべては、はっきりとは分かりませんが、ある複合的な力を通じて現れた結果であることを否定することはできません。分子を経て原子、原子を経て素粒子……。このようなものが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を備えて存在するのです。それゆえ存在するすべての物は、神様の愛の手を経てできたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を、徹底的に知らなければなりません。(9-168,1960.5.8)

 

 修道者とは、どのような人なのでしょうか。一株の草をつかんでも、「神様!」と言うことのできる心情で、自分の価値と同等にその価値を認識することのできる人が最高の修道者だと言えます。そのように、その価値を謳い得る人が最高の芸術家だと言うことができます。
 様々に存在する万象を見て、神様の様々な愛と心情の妙味を発見し、それらと友となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとするならば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとするならば、その人は全宇宙を代表できる人だと言えます。そのような人が万物の霊長です。ところが、食べること以外に能のない人が万物の霊長といえるでしょうか。(9-168,1960.5.8)

 

 子供たちを見れば、子犬だとか、何かの虫だとか、飛ぶもの、動物といった、動くものを中心に好みます。それはどうしてでしょうか。本来、人はそのようになっているのです。それがどういうことかというと、人間は、自然世界や、この地球の動きを見て興味をもつということです。もちろん相対基準は違うかもしれませんが、それを鑑賞することに人間はおもしろさを感じ、興味をもつのです。そうすることで、自分自身の愛の属性をすべて学ぶのです。
 虫たちが生き、昆虫が生き、また動物たちが生きるのを見ると、すべてがつがいになっているのが分かります。このように考えると、自然とは何かというと、人間一人を愛の対象として、相対理想を教育するために展開させた教材、博物館なのです。(137-211)

 

 神様は宇宙を、被造世界のすべての物を愛する息子、娘が愛の理想を求めていけるように、教材として造りました。それで、すべては相対構造になっています。鉱物も、主体と対象の関係によって作用します。物質の構成単位である原子も、陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなければ存続することができません。運動せずしては、永続し、存続することができません。ですから作用しなければなりません。
 人間は、成長しながら自然を見て習得します。「昆虫の世界は、こうなのだなあ」と学ぶのです。月が照らし、星が光る秋の夜にじっと耳を澄ますと、昆虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏として聞こえます。なぜ昆虫たちは、そのように鳴くのでしょうか。それは相手を求めて理想を歌うのです。愛をささやくのです。鳥やその他の動物たちも悲しい声、喜びの声を何で示すかというと、愛という共通分母に従って声を出します。レベルは低く、軸から離れていますが、その軸を中心として平行線を描きながら回っています。すべての存在は、そのようになっています。(137-59)

 

 鳥たちの歌には、三つの種類があります。一つは、空腹の信号の歌であり、次は、愛する相手のための歌であり、次は、危険なときの歌があります。それらは、みな異なります。私たち普通の人には分かりませんが、鳥たちの世界では、みな分かるのです。空腹で鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活は、何を中心としているでしょうか。空腹なのは、一度食事をすれば解決します。だからといって、毎日のように危険な場にいるのでもありません。大部分の歌は何を中心としているかというと、相手と授け受ける関係で、歌が行き来するのです。(137-211,1986.1.3)

 

 人間は主体と対象、すなわち相対的なペアとして造られ、また、人間のためにある万物世界も、すべて愛の原理のもとに調和を成し、人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとっては、愛の教材であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。(135-12,1985.8.20)

 

 すべての鳥や動物は、つがいになっています。互いに愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が愛を中心として和動するようになります。渡り鳥も同じです。南にいた鳥が北に飛んでいき、北にいた鳥が南に飛んでいき、地域を越えて愛します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神様の造った博物館の教材を通じて学びます。
 人間と神様が好きで愛すれば、天下のすべての万物はそこに調子を合わせて和動します。神様が愛し喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜んで拍手を送り、賛美を送ります。歌を歌える鳥は、歌を歌って賛美し、美しい花は、香りを漂わせて賛美します。
 最高の愛の主人公たちが楽しめる雰囲気を拡張するためのものが、この被造世界です。
 見た目には気持ちの悪いひきがえるも、愛するときには「ウッウッウッ」と言います。どれほど素晴らしいことでしょうか。足を打ちつけて後ろ足を上げたり下げたりしながら愛するその姿は、どんなに素晴らしいことでしょうか。それは最高の芸術です。(142-273,1986.3.13)

 

 アダムとエバは成熟するに従って、「ああ、あんなふうに愛するのだなあ」と分かるようになります。神様は万物世界を、人間の愛の理想を成熟させるための教材として展開しておきました。それを学んでいくのです。
 だんだん大きくなるに従って、「ああ、昔は妹のように、兄さんのように暮らしたけれど、こうしてみると……」このように感情が変化してくるのです。「ああ、そうか」と学んでいくのです。それで、「お前と私は死んでも会わなければならない。他へは行けない」と平衡線で直行しつつ、ぶつかるようになるのです。(137-59,1985.12.18)

 

 最初は神様の子女として生を受けたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼いときから成長するに従って、だんだん大きくなっていくのです。そうして知能が発達するので、神様がなぜ被造世界を造ったのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けるのです。
 被造世界の動くものすべては、私たち人間始祖、本来の祖先となるべきアダムとエバが生活するためのすべてのことを教えてくれる教材でした。完成したアダムとエバではなかったので、理想生活をしていくに当たっての標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。(137-128,1986.1.1)

 

 ④自然に対する私たちの姿勢

 

 朝、目を覚まして自然を見れば、その自然が、かすかに私の本性と絆を結び、新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし、人間の世の中を見れば見るほど、絶望と悲しみの感情が高まるという事実がよく分かることでしょう。本来、堕落していない本然の人間が住む世の中であれば、人間の価値は、見る人をして悲しみを感じさせるようなものではないのです。一株の草や一輪の花、一本の木と同じぐらいの価値のものとして造られた人間ではないのです。いかなる被造万物とも替えることのできない高貴な人間であり、その何ものとも比較し得ない価値ある姿で、天上に代わって出てくるべき人間でした。(9-97,1960.4.24)

 

 神様の愛が宿っている自然を見て、「この世の王や有名な人がもっている立派だと言われる物に比べることができようか。骨董品と比べられようか。有名な婦人が着ている豪華な服などが比べ物になろうか」という思いをもたなければなりません。それができなければ、私たちは自然世界の前に、我知らず罪を犯しているのです。
 一つの生命体を見て、「人間がつくった物と比べられようか。どんなに立派な人でも、神様よりも立派であるはずはない」と、神様が心情を注いで造られた万物にすがって何よりも貴く感じる者がいるとするならば、その人は天の息子、娘に違いありません。このような人には祈祷が必要ありません。神様のように生きる人です。天は人間をそのような位置にまで押し出すのです。(9-175,1960.5.8)

 

 人間は、自分の愛する人のものは何でも好み、かわいがります。それなのに、最も愛すべき神様の造られた万物をかわいがらないのです。このような人々が神様の息子、娘でしょうか。嘆息する万物の恨を解怨すべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草からも、6000年前、それらを造られたときの神様の心情と創造のみ手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。
 それゆえ道の途中で一株の草を見ても、涙することができなければなりません。「主人を失ってどれほど寂しかったことか」と言いながらです。ここで話をしているこの私は、たくさん泣きました。岩をつかんで泣いたりもし、風が吹くのを見ても泣いたことがあります。なぜそうでなければならないのか、み言を聞いたので、もう理解できるでしょう。(9-176,1960.5.8)

 

 「神様が造られた価値ある万物が、神様と永遠の因縁を結んだ貴い万物が、今日どこかの王宮で国宝だの宝物だのと、貴く思われている物ほどの扱いも受けていない悲しみを私が分かってあげなければ、私だけは分かってあげなければならない」と考えてきました。
 「この地で暮らす世界人類が誰も分かってあげなかったとしても、私は分かってあげなければ」という思いを皆さんがもったならば、その民族は今後、世界人類を支配し得る新しい民族となることでしょう。
 これは観念ではなく、事実です。どこの誰が万物を、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物よりも、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドよりも貴く思い、しっかりとつかんで離すまいとするでしょうか。そのような人は、どこにいますか。神様は、御自身が造られたものを心情的に分かってくれて、それにすがって涙する人を見て、「よし、よし」と言われるのです。(9-176,1960.5.8)

 

 自然とは何でしょうか。神様が私のために、「ため」に生きる愛をもった息子、娘が生まれたときに、「ため」に生きる物としてプレゼントとして下さった展示品です。鳥の声一つ、一株の草さえも、愛の息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。道に転がっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知って、その国の装飾品として造られたのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、この上なく調和した和合の園、愛のための世界を見てそれを相続し得る夢の王子、希望の王子とするために創造されたのです。
 それゆえ、万物を通して学ぶのです。雄と雌が「チュンチュン」と鳴くときには、これは主人であるおばさんも学べというのです。お互いに「ため」に生きる世界に向かって自分の人生を、命を懸けて生きる本然の被造世界の美しさを賛美できなければなりません。そうなれば、その家の垣には、小鳥もやって来て棲もうとするのです。ひなを産もうとするのです。(175-187,1988.4.16)

 

 博物館のある作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に優るでしょうか。神様の作品であるこの地球の万物博物館を、誰が神様以上に愛したでしょうか。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。
 道端で踏みつけられる一輪のたんぽぽと、博物館にある新羅時代の金の冠を比べることができるでしょうか。神様が直接造られたものであるのに。そのような神様の心情をもって、「神様のための本然の王の立場から、愛を受けていたその立場から、お前を愛することのできない私が申し訳ない。恥ずかしい」と言える心をもって「ため」に生きる、そのような王がいたとするならば、一株の草もその王に従って永遠不変に一緒にいたいと思うのです。そのように生きるべき人間なのです。(175-187,1988.4.16)

 

 ⑤自然を愛し、人を愛しなさい

 

 自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することのできない人は、神様を愛することができないということを知らなければなりません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛せる人は、神様を愛するようになるのです。(70-182,1974.2.9)

 

 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも五色人種をみな愛さなければなりません。「私は白人だけがいい」。神様はそう言うでしょうか。それならば、みな白い服だけを着なければなりません。白人たちはみな白い服ばかりを着なければなりません。色のついた服は、すべて捨てなければならないのです。黒い服をなぜ着るのですか。色のついた服をなぜ着るのですか。矛盾しています。(133-30,1984.7.1)

 

 元素も微物も、すべて愛の道を行くのです。神様と一体となれる愛と、直接に接し得る細胞を求めていくのです。それが人間です。ですから、愛のためには犠牲にならなければならないのです。
 投入しなければなりません。生命と財産をすべて投入した伝統があるがゆえに、低級のものはより高級なところへ、自分のすべてを投入しようとするのです。それゆえ、ダーウィンの進化論ではなく、愛を中心として吸収する論理です。第2の価値的な内容を創造するときに、その創造要素として適用されるならば、今の小さなものとしてよりも、どれほど価値的な内容が上がるかというのです。(204-129,1990.7.1)

 

 神様の造られたすべての存在を、愛の対象として感じなければなりません。すべての微生物まで愛し、人はもちろん、天にあるものまですべて、無形のもの、有形のものを愛し得る、愛され得る皆さんにならなければなりません。
 朝、鳥が「チュンチュン」鳴くならば、「このすずめめ、ゆっくり寝ようと思ったのにどうして『チュンチュン』鳴くのか」と言うのではなく、「ああ、有り難い。私を起こしに来てくれたんだ。大事なお客さんが私を迎えに来るのを、お前が知らせてくれるのか」と考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。(112-219,1981.4.12)

 

 神様は、人間世界を造ると同時に天使世界を造りました。それでは、天使世界とはどのような世界でしょうか。人間が一つの結実のために、花のような存在としての美を備え、香りを放ち現れるときに、初めて愛の巣が完成するのです。それゆえすべての生命力は、そこから出発するようになり、すべての生命の因縁をもった存在が、そこから和動できるようになるのです。このように和動できるようになる起源が、正に人間なのです。
 そのような人間を中心として、天にいる天軍天使たちが人間と、蝶と蜂のように互いに授け受けることができる和動の主体圏を成すようになれば、それこそ神様が喜ばれ、人間が喜び、天使が喜び、全被造万物が愛に浸る和動の花園になったことでしょう。また、春のうたげが始まったことでしょう。(31-124,1970.5.3)

 

(2021.10.20:写経奉献)

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