「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(05) 第2巻「真の父母」 第1章 「真の父母」とは

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第一章 「真の父母」とは

1)「真の父母」という言葉の意味

2)真の起源

3)真の原器

4)真と真の人

5)「真の父母」とは何か

6)我々がしるべき「真の父母」の語義

 

 

1)「真の父母」という言葉の意味

 

 我々統一教会員たちが平素使う言葉の中に、「真の父母」という言葉があります。それは簡単な言葉ですが、その内容は実に驚くべきものです。歴史始まって以来、どの本にもありません。真の父母は、最も易しい言葉ですが、それは我々だけがもっている言葉であり、我々だけが使う言葉です。人類の先祖が堕落したとするなら、堕落した父母は偽りの父母、悪い父母であり、堕落しない父母は善の父母であり、真の父母だということが一遍に分かったはずなのに、キリスト教は2000年の歴史を経ながらも、それを今まで発表できなかったのです。それを発表できる、この時を待ってきたのです。
 過去の歴史時代に、「真の父母」ということを考えた人がいたかもしれませんが、その背後の内容までは解くことができなかったのです。統一教会の膨大な『原理講論』全体の内容を備えずしては、それを確実には解き得ないので、誰も簡単に「真の父母」という言葉を使えなかったのです。「原理」のみ言、あるいは、我々が知っている統一教会歴史観、また人類の根源に対する事実を明らかにしたということは、驚くべき事実です。
 「真の父母」という言葉を確実に知ることによって、何が分かるのでしょうか。我々人類の始祖の堕落が不倫の関係によってなされ、神様と関係のない、創造理想を立てようとした真なる父母と関係のない、血統的因縁を残したということです。すなわち、誤った血筋を受け継ぐようになったということです。
 それゆえ、「真の父母」という言葉は、人類始祖から歴史的にすべての人間が誤った血統の中に生きることを清算してしまい、「神様を中心として、新しい本然の根を中心とした、愛と、生命と、血統がつながる」という意味を中心として使う言葉です。これは本当に驚くべき言葉です。(201-60,1990.3.1)

 

2)真の起源

 ①「真」とは

 

 この天地間に真なる方がいらっしゃったら、その方は誰でしょうか。絶対者です。この「絶対者」を、今日我々の韓国語で言うと、「お一人しかいらっしゃらない御主人様」ということです。一人(韓国語でハナ)しかいらっしゃらない御主人様をもっと縮めて言うと、神様(ハナニム)になります。お一人しかいらっしゃらない御主人様が、神様だということです。
 では、神様はどのようなお方でしょうか。神様は、地上の良い人からも好まれ、悪い人からも好まれるお方です。罪を犯して死刑場に出て死ぬようになる死刑囚も、「神様! 私をかわいそうに思ってください! 」と言って死にます。
 では、悪いことをして死んでいく立場にある人も、どうして神様の前では、良い心で犠牲になり、希望をもって再出発することを誓いながら、その神様に最高に寄与し、また頼り、彼と共にいたいと思うのでしょうか。内心では切に、「父母から離れ、兄弟から離れても、誰よりも近くで事情を通じたい」と思うのです。
 真なる人は、好きな者だけを好むのではなく、自分を殺そうとする怨讐までも好きにならなければなりません。また、彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真なる人です。
 皆さんは今まで育ってきた過程で、憎い人がいたはずです。では、憎い人がいる人は、真なる人ですか、偽りの人ですか。偽りの人です。間違いなく偽りの人です。この世界には偽りの人が多いのです。
 真なる人になろうとする人なら、両面を備えているべきです。統一教会の群れの中でも「私」を好む人はとても好きで、「私」を憎む人は積極的に憎むとすれば、良い連中ですか、悪い連中ですか、悪い連中です。
 それで、「私」を憎む人も好きになろうというのです。「私」を憎む人を「私」が好きになれば、その人も好むのです。「私」を憎む人に「私」が3回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、一度やってください。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。(39-302,1971.1.16)

 

 皆さん、我が国(韓国)には良い人が多いでしょう? 世の中には立派な人がたくさんいます。偉人もいます。それなら、大韓民国の偉人は誰ですか? 「大韓民国の偉人」と言えば、大概李舜臣将軍をいいます。李舜臣将軍も偉人です。皆さんは李舜臣将軍を好みます。
 では、李舜臣将軍は真なる人ですか、そうではないですか。それは分からないのです。分からないのに、「好きだ」と言うのです。しかし、それほど先生は好きではありません。私がこう言うから、「おかしい。あの方はなぜああ言うのか。我が国の忠臣を嫌うとは! それでは、あの人は共産党か、民族反逆者か」と言うかもしれませんが、私は李舜臣将軍が嫌いです。なぜ嫌いなのか答えてあげましょう。
 「李舜臣将軍」と言えば、韓国人すべてが、忠臣として知っています。しかし、日本人はどう思っていますか。怨讐ではありませんか。日本人は、李舜臣将軍を怨讐と思うのです。これは、日本の歴史の本にも明らかにされています。李舜臣将軍は、日本人の前には怨讐であり、韓国人の前には忠臣だということです。それで先生は、彼があまり好きでないのです。
 「真」ということは、イギリスに行っても真であり、ドイツに行っても真であり、アメリカに行っても真であり、韓国に来ても真であり、アフリカに行っても真であり、日本に行っても真になるべきなのです。ですから、真には怨讐がないのです。真は、好きでない人がいないのです。一方では好きで、他の一方で嫌うのは、完全な真になれないのです。
 李舜臣将軍が完全な「真なる人」であるなら、日本人も韓国人と共に、偉人、真の人として崇拝すべきです。しかし、真なる人の基準で見ると、李舜臣将軍は完全な真の人ではないということです。少しは真になれますが。大韓民国では真の人ですが、日本ではそうではないのです。ここに異議はないでしょう。私は真なる人を願うので、李舜臣将軍のように真になりきれない人は、好きではないのです。
 では、この世の中で真なる人とはどのような人でしょうか。前に言ったように、悪い人からも好まれ、良い人からも好まれる人です。悪い人は良い人が一番好きな人でなければなりません。ここには良い人と悪い人が混ざっていますが、共に願って希望することは、すべて最高のものです。最高を、みな好むのです。みな好むということは、良い人も好み、悪い人も好むということです。
 それゆえ、「彼は悪い人だから悪い」と言っていては、真ではありません。悪い人からも最高に好まれ、良い人からも最高に好まれるべきなのです。これが真なる人の定義です。真なる人とは、悪い人も一番好み、良い人も一番好む人です。そのような者がいれば、その方が真なる方です。(39-301,1971.1.16)

 

 ②真の起源

 

 「真」ということは、個人に限ってだけあるのではありません。全体を越えに越えて適用され、全体を越えに越えて価値的な因縁を結ぼうとするのが真なのです。真は、誰もが好み、誰もが求めるものであるために、どこにでもなければならないというのです。(63-88,1972.10.8)

 

 我々は、個人の目的のために集まったのではなく、全体の目的のために集まりました。それゆえ、自分個人より家庭のために、家庭より民族、民族より国家、国家よりまず世界のためにあるべきです。また、自分個人が真になる前に、家庭が真になるべきであり、さらには国家と世界が真になるべきです。
 人間は、自分個人としては、いかなる福の動機にもなり得ない、復帰路程の途上に立っているのです。では、その動機とは何でしょうか。真です。人間が真なる姿を成すには、すべての生死禍福の根源であられる神様と関係を結ぶべきです。その関係を結ばなければ、人間個体内では真なる姿を成し得ません。
 真は、必ず神様が中心となるべきです。それで人間は、全体的に収拾して、主管し得る決定的な基盤をもつようになるとき、真が成されるのです。その基盤をもてなければ、「真」という名詞は成立し得ないことを知るべきです。
 真の起原は、神様です。神様がいらっしゃることによって、真が成されます。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。
 真があってこそ、真なる結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって、神様の願いが成され得るということです。それゆえ、「真」、「善」という名詞は、人間を主にして立てられたのではなく、神様を主にして立てられたのです。
 このような観点から見ても、真は、人間が勝手に考えられるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が我々を主管している、ということを知るべきです。それゆえ我々は、いつも真の前に屈伏すべきです。真を立てて、そこに順応すべきです。皆さんの現実的な生活や、あるいは良心を探ってみても、そこに順応すべきです。皆さんの現実的な生活や、あるいは良心を探ってみても、真は完全に天に属しているという事実を否定する道理はないでしょう。(24-315,1969.9.14)

 

 我々は、祈るとき、「真なる神様、天にいらっしゃる聖なる神様」という言葉を、漠然と習慣的に言う場合が多くあります。しかし、本当の意味での真は、今までありませんでした。それがなかったので、真の起源は、人間たちが歩んできた歴史の背景にあるのではなく、これを超越した位置にあるのです。こそから出発するのです。すなわち、その起源は、環境を超越した位置から追求しなければならないので、宗教は、人を中心として信じていくのではありません。
 もちろん、教祖を中心として信仰の標準を立てる人たちもいます。しかし、それを超越した立場で神様を介在させ、真を追求してくる人たちもいるのです。これを見るとき、歴史過程を経てきた数多くの人間の生活路程においても、また、現実者会においても、真の起源をもち得なかった、ということです。
 人間自体に連結された位置からは、真の起源を備えることはできません。真は、絶対的な基準です。それゆえ、「神様」、「絶対者」、「神」という名詞がここに登場せざるを得ません。それはなぜそうなのでしょうか。今まで地上に真の愛がなかったので、そうなのです。それゆえ、真を指向しながら生きる人自体では、真の動機になり得ません。その動機は、神様でなければなりません。必ず、宗教や人類歴史上において、最後の重要な分岐点に行き着くと、神様が登場します。絶対者が必ず、必要になるのです。
 哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求し、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずそこには「神」や「超越者」、「絶対者」という名詞が介在するのです。それはなぜそうなのでしょうか。絶対者と関係を結ばなくては、どんな学問や、存在価値も、その起源の問題が解決できないからです。それで人間は、深刻な場では必ず、真を通じて解決しようとしたのです。このような事実を、我々は否定することができません。
 それゆえ、真の起源は、人間だけでなるのではなく、必ず絶対者、神様が介在すべきなのです。真を主張する宗教は、神様を離れては考えることができません。真を主張する人倫道徳も、神様を否定できません。
 ですから、孔子も「順天者は興り、逆天者は滅ぶ」と言いました。天を中心として言った言葉です。必ず天を介在させなければなりません。その興亡盛衰が、人間によって左右されるのではなく、天によって左右されるのです。このような事実について見るとき、天が動機になり得る起源が備えられなくては真になり得ないので、この地に生きている人類の中で、真なる人がいるかということが問題になります。
 では、真がとどまり得る場所はどこでしょうか。もちろん、天を起源として真の位置を地上にたてようとされるでしょう。これは、神様の願いです。それで、どこにとどまるか、ということが問題になります。我々の生活の周辺にとどまるのです。それでイエス様も、「天国はあなた方の中にある」と言われたのです。真なる国の天国は、心の中にあるのです。何の邪心もない、深々とした谷に位置しているのです。
 我々の心の基礎を分析してみると、知、情、意になっています。その中でも、どこにとどまるのでしょうか。知、情、意のうちで何が根本であるかというとき、意でもなく、知でもなく、情です。
 皆さんは、自分に一番貴いものがあれば、それをどこに置きたいですか。自分だけが知っている所に置きたいでしょう。そこは誰にも触れられず、関与できない、すなわち自分だけが管理し得る所です。そこはどこでしょうか。心の深い所です。心の深い所に埋めておくのです。「ここであれば安心だ」と言える所に置くのです。すなわち、人々がよく貴重品を入れておくたんすのような所に置くようになるのです。このような点から見るとき、真がとどまり得る所は、自分の心の深い位置です。(24-317,1969.9.14)

 

3)真の原器

 

 真なる心は、変わりません。それゆえ、それがなくては、皆さんが基準を立てることができません。「ああだ、こうだ」と評価できないのです。絶対的な基準で公証を受けることのできる内容の根をもてないのです。そこに及び得ないと評価される存在は、流れていってしまうのです。メーターのようなものも、その原器があります。
 それを中心として、「合うか、違うか」ということを判定できるのです。いかなる問題が起きても、ここに合わせてみて、ぴったり合えば、万事に不平を言っていた人たちも一時に、みな離れていくのです。(186-65,1989.1.29)

 

 愛には革命もなく、変化もないのです。変わるものに、貴いものはありません。ダイアモンドは、堅さにおいて変わらないために宝物としての扱いを受け、金は黄金色が変わらない特異な権威をもったために貴いのです。また、真珠は、調和した色、優雅な色をもっていますが、それが変わらないために貴いのです。貴いという宝物を、なぜ変わらない特性を中心として策定したのでしょうか。それが、宇宙の万物の存在価値を比較できる基準だからです。
 では、この宇宙のすべてのものを測定し得る価値の基準において、一番の基準となるのは何でしょうか。それが問題です。金でしょうか、ダイアモンドでしょうか。それは変わらない愛、壊れない愛です。壊れるようですが、壊れません。勝手にできるようですが、勝手にできないのです。そこに自分が含まれるのです。そこに策定されるのであって、自分が策定できないのです。
 この宇宙において、そのような原因中の原因になり得る度量衡や原器とは何かと考えるとき、どうでしょうか。それはある測定器の原器ではなく、変わらないある物質でもありません。神様もその標準を変更させることができず、人間も変更させることができません。永遠不変でありながら、宝の価値をもち、地の果てや、地獄や、天上世界や、どこでも昼夜を克服し、地域を克服し、距離を克服し、絶対的な測定の基準、比較の基準になり得るものとは何でしょか。
 地球にも緯度、経度においてゼロ点基準があります。それはイギリスのグリニッジ天文台を中心として、ゼロ点になっています。どんなに変わらせようとしても、変わらないのです。そのような基準がなければなりません。それがなければ、秩序の世界が形成されないのです。
 この宇宙で測定し得るすべての存在が、その等差と位置を決定したいその本来の基準、神様もそこに従うことができ、全体がそこに従わざるを得ない一つの基準とは何んでしょうか。それは、お金、黄金の塊、ダイアモンドのようなものではありません。それらはすべて、神様がつくり得るものです。神様が一人で、勝手にできるものです。
 愛ももちろん神様がつくれると見ますが、その愛を所有するのは、一人では不可能です。二人で所有すべきです。愛は、神様も一人では見いだせないのです。それゆえ、その基準、測定原器とはんで何でしょうか? 宇宙万象の存在世界だけではなく、永遠の世界ですべてのことを測定し得る基準、絶対的に一つしかないその原器とは何でしょうか。根本問題です。
 それが、愛というものです。それで、愛は春夏秋冬、季節の変化に影響を受けないのです。(137-235,1986.1.3)

 

 皆さんは、距離を測る尺度があるのを知っているでしょう。もし、1センチメートル単位なら、そのモデルというものは絶対的です。それは一つしかありません。そこに比較して、同じなら、それはみな正しいというのです。しかし、いくら「自分が一番だ」と言っても、その原型ときっちりと比較してみるとき、合わなければ不合格者なのです。
 また、1センチメートルは10ミリメートルです。ですから1ミリメートルというものも絶対的です。それが10であれば1センチメートルになり、100であれば10センチメートルになります。このように上がっていくのです。それでこそ、それが連結して、どこへでもそれは共通的であり、統一的な内容を持つようになるのです。では、人々の世界には、そのようなものがないのでしょうか。人々の世界が統一されるには、原則的な基準から体と心が闘わず、一つになった形、「こうであるべき」というフォームがあるでしょう。(128-78,1983.6.5)

 

 皆さん、メートルがあれば、そのメートルが1メートル、100メートル、いくら大きくても、問題ではありません。そのメートルの基本単位とは何でしょうか。1ミリメートルです。1ミリメートルはあまりにも小さいので、大概1センチメートルにします。どんなに大きくともその単位は、1ミリメートルからすべて合わなければなりません。これが、すべてきっちりと合って、「すべてが1ミリメートルだ」と言うようになるとき、我々は、それを世界の標準として使用するのです。それは、アメリカの1ミリメートル、韓国の1ミリメートル、あるいはイギリスの1ミリメートルも、すべてが同様です。変わりがありません。それが真理です。
 皆さん、真理とは何ですか。真です。真とは何でしょうか。それ以上の基準として立てられないという位置に立ったものを、真理と言います。ここに、物理学博士も来ていますが、物理学を勉強するには、自然世界のすべての動きを知らなければなりません。その動くものは、漠然と動きません。
 皆さん、この地球が、どんなに大きいでしょうか。この膨大な地球が、1年に1回ずつ太陽系の周囲を巡回するのに、それが1分の違いもありません。1秒の違いもなくぴったり合うのです。差異があれば、大変なことになります。差異があれば、どんどん小さくなるか、どんどん大きくなるという問題が起こるのです。そうなれば、陸地と海がすべて分かれるのです。
 地球の年齢を45億年としていますが、45億年間、異常なく、公式基準上に連結された運動をしてきたのです。そこには原理というもの、公式というもの、公理というものを中心として、測定する単位を必要とするのです。同様に、真とは何でしょうか。真とは、1にも合いますが、千万を合わせても、きっちりと合うのです。
 金の中で純金といえば、24金です。24金は、真の金です。25金は、26金はないでしょう。中央に立てて、バランスをとれるそのような位置、我々が視覚的に最小単位に立ち返るとき、それに垂直的な平衡線上に合ってこそ真です。これが垂直なら、これが平衡となるのに、このようになってはいけません。このようなものは、真ではありません。
 それでも、24金までは、これが直線になるのです。そのような基準圏内に立っているために、「24金が真だ」と言うのです。そこは垂直を持って合わせても、縦的基準をもって合わせてもすべて合うのです。宇宙的なな縦の前に平衡線として立ち、宇宙的な横の前にも平衡線を成すのです。
 宇宙の大運動を見れば、それが漠然と動くのではありません。みな法度を中心として動きます。主体と対象関係の運動をするところは、必ず垂直です。
 その垂直が変わるものは、飛んでいってしまいます。流れていってしまうのです。壊れてしますのです。垂直がしっかりと確定してこそ、空間世界に自分の位置を確定し、存続の基盤をもつようになるのです。このような言葉は、少し難しいでしょう。
 同様に、我々人間のはかりとは何でしょうか。人間にもはかりがなければならないでしょう。数学の問題を解くには、世界的に共通の数理的基準を中心として解くのです。ある基準に合格した共通的な基盤が世界的な舞台に立つようになるとき、そのようなものを「真理」と言うのです。
 真理の中には、何があるでしょうか。真理の中には、必ず東西南北の四方があるのです。真理があるときは、必ず環境があるのです。では、環境が先ですか。真理が先ですか。これが問題となるのです。環境が先なのです。
 我々人間を見るとき、どうですか。真なる人間とは、どのような人間かというのです。縦横の標準にならなければなりません。「縦からも見ても合う。ペチャンコにならなかった。横から見ても合う」と言える基準にならなければならないのです。
 縦横が一致してこそ、公式的法度上において、前後、左右、上下の差異がありません。同じです。これを、どこにもっていって合わせても、きっちりと合うのです。東にも合い、西にも合い、北にも合い、南にも合い、地上世界にも合い、霊界にも合うとき、「真である!」と言うのです。ところが、いくら大きいものでも、ミリメートルで測定して半端が出たとすれば、それが半ミリメートルにもならなかったとしても、それはすべて否定されるようになります。不完全なのです。それはごみ箱に入るべきです。そのような何かがなければならないのではないですか。測定する基準がなければならないのです。(180-14,1988.8.20)

 

4)真と真の人

 

 皆さん! 「真」という言葉は何の言葉ですか。それは丸いものですか。角張ったものですか、平たいものですか。それの定義とは何でしょうか。そして、真に対する定義を下すのに、何を中心として下すのでしょうか。それが問題なのです。私たちが「真の人」と言うとき、その真の人はどのような人ですか。真の人にも目、鼻、口、体がみなあります。
 では、真ということは、ある一定の場所の制限を受けることをいいますか、一定の場所を超越することをいいますか。超越することをいいます。どうしてその制限線を超えなければならないのでしょうか。それは何を意味するのでしょうか。我々は、すべてを代表して測り得る内容をもたなければならないということが分かります。
 数学なら公式をいい、物理なら公理を言い、それらの定義をいうとき、その定義とはどのようなものでしょうか。公式というもの、公式の単位というものは、簡単なものですが、その公式的というものは、すべてのものを比較できる主体性をもつべきです。それでこそ公式や単位の基準が設定されます。これを知るべきなのです。それが違えば、膨大な宇宙にぴったり合わないのです。
 我々が、尺度のようなものを見ても、12進法とか10進法などがあります。それは小さいですが、形態はみなぴったり合うのです。そうでなくては、これがかみ合いません。全体がかみ合って回らないのです。ある部分では合っても、全体が合わないようになるときには、これが成立しないのです。全体存在の成立が喪失されるということを知るべきです。
 それは、人間世界も同様です。真なる人とは何でしょうか。人間が生きていくにおいて、スケールとメジャーのようなものがあって、力を連結させて、世界に拡大していくのです。それがすべて、バランスをとって拡大するということです。人間の生涯、人間が生きていく道にも、そのような公式的な道がなければならないという言葉が出てくるようになるのです。(133-9,1984.7.1)

 

 今、人間世界には、数十億の人類が暮らしていますが、この地球村に暮らす人たちの先祖たちは、どれほど多く地上で生きては死んでいったでしょうか。それを考えてみましたか。少なくとも現在暮らしている人々の何百倍、何千倍の人々が生きて死んだでしょう。では、その人たちの中で、人類が願う真なる人が何人いたでしょうか。真ということは、1000年前も、今も、いつでも真です。
 「純金」と言えば、24金です。それは、空間や時間によっては変わりません。どんな立場に処しても、変わらないのです。それは、王の手に行っても、どんな不良の手に行っても、変わり得ないのです。そのようなときの黄金色を、「真なる色だ」と言うのです。
 人々は黄金色を好むでしょう? 光というものは何に似ているでしょうか。黄金色に似たのです。明るい色は、黄金色に近い色です。太陽の光も黄金色です。夕焼けは、もっとそうです。
 それと同じように、我々人間において、千年、万年、億万年変わりえない色を持った、そのような真なる男性がいるでしょうか。これが問題です。真なる女性がいるでしょうか。どう思いますか。  
 宗教界では、人間は堕落したと見ています。もちろん、背景が異なる宗教もありますが、すべて救いを受けるために、価値のある新しい人間を探しています。その言葉は、どういう意味をもっているのでしょうか。真なる本然の人間、真なる本然の人間像に及ばなかったために、それをいつも追求するというのです。それは、1000年前も、何億年前も、今日も同じです。今日以後にも人類が存続するどんな環境でも、どんな時代でも、それを追求するようになっています。
 皆さんも、その真なる人を探しているのです。真なる男性、真なる女性を探しているのです。歴史時代に生命をもって生まれた男女たちは、自他を問わずそこに命を懸けて考えるようになっています。それゆえ、ある村で暮らすようになれば、その村で一番進んだ真なる人になろうというのです。(177-99,1988.5.17)


5)「真の父母」とは何か

 ①二つの石板と「真の父母」

 

 イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱がありました。昼に導くのが雲の柱で、夜に導くのが火の柱でした。それは何を意味するのでしょうか。男女を代表して「終わりの日」に父母が来て、イスラエル民族から侍られるのを象徴的に見せてくれたのです。この火の柱と雲の柱の導きに従わない人は、みな滅亡するのです。
 また、イスラエル民族が荒野に出て40年間さすらい、方向をつかめずにいるので、神様はその民族が滅亡するのを心配して、モーセシナイ山に呼び上げて、40日断食をさせ、二つの石板を与えました。それは、アダムとエバ、真の父母を象徴するのです。
 契約の箱の中に、どうして二つの石板を入れたのでしょうか。二つの石板は、神様のみ旨を終結できる中心としてのアダム、エバを象徴したのです。それで、契約の箱の中に入れたのです。(135-172,1985.4.7)

 

 我々の願いとは何でしょうか。神様は縦的な父母であり、アダムとエバは横的な父母ですが、縦横の父母が一つになって喜び得る場において、愛され得る息子、娘になるのです。ところで、そのようにできなかったのが恨です。そのような愛を一度受けてみたらという熱望をみな持っているというのです。宗教も全部そのようなものです。
 縦的な神様と横的な面で一つになって、愛し得る父母がこの地上にいたでしょうか。 いませんでした。人類の初めの先祖が堕落したために、偽りの父母になりました。アダムとエバが偽りの父母になったために、そのような父母がいませんでした。それで、真の父母が出てこなければならないのです。
 そのような歴史的使命を代行する一つの名詞をかぶせて呼ぶ、その存在とは誰でしょうか。これが「救世主」という存在であり、「メシヤ」という存在です。救ってあげるには、何を救ってあげるのですか。体を救ってあげるのではなく、理想的な愛の願いを成してくれるのです。
 そうするには、どのようにしなければならないでしょうか。その救いを成してあげるには、メシヤはどのような存在として来なければならないでしょうか。間違いなく、真の父母として来なければなりません。メシアは、真の父母として来なければなりません。イエス様を、キリスト教ではメシヤ、救世主として信じます。真の父母として来るには、どのように来なければならないでしょうか。一人では駄目なのです。真なる父に代わり得る、一人の男性として出てこなければなりません。
 今まで、数多くの宗教は、一人の男性を探してきたのです。男性の中でも、生活をよくする男性を探してきたのが儒教の教えだと見ることができ、霊界を主にした男性を探してきたのが仏教の教えだと見ることができるのです。
 では、キリスト教は何んでしょうか。神様の息子になって、愛する家庭をつくろうというのです。もっと具体的な内容をもって来たのがキリスト教です。それゆえ、神様の前において、「私はひとり子だ」とイエス様が言われたのです。
 ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたなら大変です。ひとり娘がいなければなりません。それで、ひとり娘を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり娘が互いに好む場で結婚しなければならないのです。それで、神様が縦的な父母として喜び、その神様のひとり子とひとり娘が横的な父母として喜び得る新郎新婦になって、地上で息子、娘を生まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。
 それゆえ、イエス様においてイスラエルの国に背いてでも、ユダヤ教に背いてでも一番必要としたのがありましたが、それが何だったのでしょうか。正に女性です。男性の前に女性がいなくてはなりません。イエス様は、そのみ旨を成せなかったために死んでいきながら、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言ったのです。こうして、キリスト教では2000年間、新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信者たちが新婦になろうともがいてきたのです。その標準とは何でしょうか。それがメシヤですが、真なる父母の位置をもって合わせるのです。それが「子羊の婚宴」です。(58-218,1972.6.11)

 

 ②「真の父母」の定義

 

 統一教会でいう「真の父母」とは何ですか。これが問題です。アダム、エバが堕落しなかったなら、どのようになったでしょうか。堕落しなかったなら、神様が縦的な愛となり、アダム、エバは神様の体にななったのです。神様の体と同じなのです。神様は骨のようであり、アダム・エバは肉のようなものだというのです。神様も心があり、体があります。
 神様は、内的な場で内的な父母になり、アダムとエバは、外的な場で外的な父母になります。内的な父母と外的な父母が愛で一つにならなければなりません。神様と人間が愛で結ばれることにより、真の父母、完成した人間が成就されるのです。愛で結ばれなければ、完成した人間はいないのです。
 それが何かというと、本然的な我々の先祖なのです。神様が創造された本然の人間です。そのような人から我々が生まれるのです。そのような神性をもった人により、我々が生まれなければならないのです。それゆえ、我々は神性を帯びた神様の性稟ももつのです。
 ですから、アダム、エバの完成は、どのように成るのでしょうか。神様の愛に結ばれてこそ完成するのであって、これが結ばれなければ駄目なのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたのが、正に我々の先祖の血統の根です。そこが、我々先祖の血統です。そこから全人類が生じるのです。
 ところが、堕落のために、男性の愛、女性の愛、神様の愛がみな分かれました。堕落によって、男性の愛、女性の愛、神様の愛が結ばれませんでした。
 堕落しなかったら、自動的に結ばれます。男女は自動的に愛で結ばれます。なぜ、男女が一つになろうとしますか。愛のためです。愛で一つになったのちに、何をしようとしますか。神様の祝福を受けようとするのです。それが目的です。(184-71,1988.11.13)

 

 摂理の時代を見れば、復帰摂理は、「終わりの日」を通じて成されます。「終わりの日」に近づけば近づくほど、宗教の目的が成される時代が来るのです。その宗教の目的が成され得る最後の時が、父母様が現れる時だというのです。
 その父母は、真の父母ですが、真の父母という方はどのような方でしょうか。これが問題です。真の父母という方は、我々の原理が教えてくれているように、原理結果主管圏と直接主管圏、すなわち間接主管圏と直接主管圏を経て、責任分担を完成した位置で、神様の愛を中心として一体の理想を成した父母です。歴史上初めて、神様と人間が愛を中心として一体の理想を成た父母ということです。神様の愛の理想が、初めて地上に真の父母の家庭を中心として着陸し始めたのです。
 堕落することによって、この真の父母の理想が壊れてしまったのです。アダム、エバが責任分担という使命を前にして原理結果主管圏、すなわち間接主管圏から直接主管圏に橋を架けて、これをすべて完結しなければならなかったのに、そうできなかったのです。
 それによって、サタンがこの間接主管圏内を侵害し始めたのです。これを知らなければなりません。これを知らなければ、あの世へ行って登録できないのです。
(143-75,1986.3.16)

 

 真なる父母とはいったい何でしょうか。この宇宙が生じて以来、初めて真なる愛、理想的愛がスパークし得る出発点というのです。それで「真なる父母」と言うのです。
 では、真なる父母の前には、何の息子、娘がいなければならないでしょうか。真なる子女がいなければなりません。では、真なる子女とはどのような子女でしょうか。その真なる父母の最初の愛を受けるに十分な内外の美を持った息子、娘だというのです。(125-164,1983.3.20)

 

 統一教会で言う「真の父母」という言葉は、何ですか。神様が真の父母を指名されたのです。それはどういう意味ですか。それは、神様の愛が初めて人間世界に着陸したということです。真の父母が起点だということです。(130-111,1984.1.1)

 

 「真の父母」とは何でしょうか。神様の愛を核としたその愛を中心として、アダムとエバが完全に絶対的に一つになって、出発し得る最初の我々人間の先祖だったのです。それをはっきりと知るべきです。真の父母を知らなければ、「真の子女」ということは分からないのです。(135-160,1985.11.12)

 

 歴史の核心とになり、時代の核心とになり、未来の核心となる思想とは何でしょうか。言い換えれば、歴史について見るときは、歴史的な実であり、時代について見るときは、時代の中心であり、未来について見るときは、未来の起源になり得る、世界の思想の中心は何でしょうか。それは、真なる男性と、真なる女性です。
 では、その真なる男性と真なる女性の生活観とは、どんなものでしょうか。世界のために生きがいを持って生きるのです。二人が愛するのは、世界のために愛するのであり、息子、娘を生むのも、世界をもっと愛し得る動機をつくるために生むのです。このような思想が、我々が今、主張している思想なのです。このような内容を皆さんが細密に知っているか分かりませんが、私が知っている立場で見るときは、横的に、すべての立体的な世界を見ても、縦的な世界、歴史全般を見ても、必ず歴史は、その基準で解明されなければならないのです。それは、自動的な結論として出てくるのです。(25-145,1969.10.3)

 

 堕落の起源になる所はどこですか。アダムとエバ、すなわち一つの父母から始まりました。アダムとエバが堕落して、偽りの父母になったことにより、すべての問題が起きるようになったのです。このために、心情問題、血統問題、人格問題、言語問題、生活問題、国家問題、世界問題が生じたのです。
 では、これを一度に蓄積させることができ、このすべてを総合することができる真なる基準は、どこから始まるのでしょうか。これは、ある宗族圏内で成されるのではなく、社会圏内とか、国家圏内で成されるのでもありません。世界圏内でも絶対不可能なものです。すべての問題の起源が、偽りの父母から始まったために、真なる父母の因縁を中心としてのみ、復帰され得るのです。
 真の父母を中心としてこそ、初めて神様の心情と一致し得るのです。真の父母を中心として本然の血統が始まり、真の父母を中心として本然の人格が始まり、真の父母を中心として言語が本来の位置に帰り、真の父母を中心として生活が本然の形態に帰り、真の父母を中心として本然の国家が形成され、真の父母を中心として本然の世界が成されるのです。
 では、この全体を総集約した核心的な母体とは何でしょうか。真の父母です。真の父母お一人によって、すべてが決定されるのです。
 それゆえ、その方のすべての思想を自分が全部引き継がなければなりません。その心情、その人格、その生活観、その国家観、その世界観を全部引き継がなくては、中心となる位置に立てないのです。(28-247,1970.1.22)

 

 真の父母を抜いては、教育もあり得ず、生活の基盤もあり得ません。真の父母と完全に一つにならなければならないのです。「『真の父母』の生活が私の生活であり、『真の父母』の理念が私の理念であり、『真の父母』の仕事が私の仕事であり、『真の父母』の愛の圏が私の愛の圏である」と、このようにならなければならないのです。皆さんはそうなっていますか。(44-142,1971.5.6)

 

 ③「 真の父母」は人格の実体

 

 歴史上の聖賢たちの中で、「私は人類歴史において、人間たちを代表して、体と心が闘わず完全に統一を成したので、私を見習いなさい」と言う人がいましたか。
 体が重要ですか。心が重要ですか。心も重要で、体も重要です。もっと重要なことは、私の心と体の統一圏です。それが重要なことです。それが駄目な人は、いくら世界が統一されたとしても、その世界と何のかかわりもない人です。(142-324,1986.3.14)

 

 今皆さんは、心が違い、体が違います。では、これがいつ一つになるのでしょうか。 今まで、人類歴史路程において、「心と体の闘い、これを統一させる」と言える人が出てこなかったのです。
 パウロのような人も嘆息しました。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ・・・・・・わたしはなんと惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってkれるのだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ7:22~25)。正にそう思ったのです。主イエス・キリストの中にいる神様の愛によって解放されるのです。(164-41,1987.5.3)

 

 心と体が一つになれない原因はどこにあるのでしょうか。神様はどのような方かといえば、この宇宙の根本となる縦的な愛の錘です。その錘りが地に降りてくるようになるときに、神様お一人では駄目なのです。いくら神様といっても、愛を下ろすには、水平線でこの基準を引き出せる力が必要です。
 電気が強ければ、マイナス電気が地上近くに来るようになると、近い所で雷が落ちるのです。降りてこなければなりません。高い所にあっても、降りてこなければなりません。同様に、高い愛が降りてくるには、地上にマイナスの愛がまず生じなければなりません。マイナスの愛がまず生じたならば、プラスの愛は自動的に生じるようになっています。それがペアになっています。 
 作用するこの世界には、必ず「対応」と「反作用」があるのです。互いに対応し、互いに作用する反面、反作用があるのです。一般の人たちは、「この反作用は、対応する力の作用に反対する」と見ますが、そうではありません。反作用というのは、対応した存在を保護するために作用します。こうしてこそ、理論的に善悪のすべてが解決するのです。「善を中心として、悪というものに対して保護すべきである」という論理を見いださずには、善悪対決の歴史を処理する方法はないのです。
 神様は、どこを通じて往来するのでしょうか。縦的な愛が設定されなければなりません。その縦的な愛が縦的な価値を持つためには、横的な基盤が築かれたところに入ってこなければなりません。
 男女もそうではないですか。皆さんが分別のない時は何も分かりませんが、大きくなると、女性も世界を持とうとし、男性も世界を持とうとします。そのように世界を持とうとするときはどうなるでしょうか。そのように進んではいけません。
 どこへ行って会わなければならないでしょうか。すっかり大きくなり、成熟して、会わなければならないのです。そのためには、「世界が自分のものである」と言える位置まで至らなければなりません。
 「世界を占領しよう」と言いますが、占領するには、自分の力をもってしてはできません。愛でなければ駄目なのです。その愛の力があるために、男性にも女性にも世界征服のための理想と夢があるのです。
 皆さん、世界全部を自分のものとしたいでしょう? 天があれば、見えない世界があれば、その見えない無限の世界までも自分のものとしたいでしょう? なぜそうですか。縦的な欲望、横的な欲望があるためにそうなのです。
 横的な欲望は、横的な世界である地球星全体を自分のものにしようとし、縦的な欲望は、この宇宙を自分のものにしようとします。体は制限されています。地球星の限界線を脱することはできません。しかし、縦的な世界は、いくらでも大きくなります。
 そのようなことを見るとき、心の位置を代表し得る父が神様であり、体の位置を代表し得る父が、堕落しなかった、真の愛を中心とした人類の始祖なのです。
 統一教会では、歴史時代に分からなかった、このような事実を探り出して「真の父母」という言葉を使うのです。ですから、横的な真の父母の位置が、本来創造した理想観として見た神様の息子、娘の位置なのです。すなわち、アダム、エバの位置なのです。ですから、神様とは何でしょうか。体のようなものがアダム・エバなら、縦的な心のような父の位置にいるのが神様です。
 心のような神様と、体のようなこの方が一つになるには、何によって一つになるのですか。力ではなく、知識でもなく、権力でもありません。愛です。
 我々の心的な人格、体的な人格が本来一つになり得る原則的モデルに似たのが私個人であるために、原則的な根本を訪ねてみるときに、体のような父がいなければならず、心のような父がいなければならないのです。そこで、心的父の位置が神様の位置であり、体的な父の位置が人類の始祖になるのです。
 では、人類の始祖と心的父である神様は、どこで一つになりますか。真の愛を中心として、愛の球形の中で、核の位置で一つになるべきなのです。縦的なものを中心として、男女は訪ねていくのです。(177-337,1988.5.22)

 

6)我々が知るべき「真の父母」の語義

 ① 「真の父母」という言葉は貴い

 

 皆さんは、「真の父母」という言葉がどれほど重要な言葉であり、どれほど貴い言葉であるかということを知るべきです。皆さんの国と大統領、先生、父母、兄弟は信じられなくても、真の父母だけは信ずべき義務があるのです。「真の父母」という観念の中には、地獄とか、悪なるサタン世界を救う、救いの観念がこもっているという事実を知るべきです。
 皆さんはサタン世界で死ぬしかない立場にいるのに、父母が、皆さんの死の前に盾となり得る力となってあげることで、天地が公認し、歴史が公認し得るとすれば、それはどれほど誇らしいことでしょうか。神様が保障し、歴史が保障する真の父母なのです!「真の父母」という言葉がどのように出てきたか、それを知るべきなのです。
 レバレンド・ムーンは、真の父母になろうと思ってこのことを始めたのではないのです。レバレンド・ムーンでなければできないので、仕方なく進み出て、この仕事をしているのです。(116-113,1981.12.27)

 

②「真の父母」という言葉は誇らしく途方もない

 

 今まで代を継いだ我々の立場は、どのようなものでしたか。我々の千万代の先祖たちがみな復活して、その復活した栄光を褒めたたえるとしても、それは堕落圏を脱し得ない栄光であり、堕落圏を脱し得ない賞賛でした。
 しかし、今日統一教会で言う「真の父母」というその言葉は、どのようなものでしょうか。たとえ皆さんの立場は悲惨であっても、数限りない先祖たち共に、あるいは万民解放圏をもった栄光の位置で褒めたたえられること以上の価値をもった、誇るべき言葉であるという事実を皆さんは知るべきです。父母様に会った中で、神様に会うことができる道が連結するのであり、統一教会に出会ったこの位置は、遠くない将来に、神の国と父母様の願う祖国を探し得る道が連結されています。
 今まで人類は、文化背景が違い、国境を境にして「自分たちの祖国だ」と言いながら暮らしてきました。過去の先祖たちが暮らしてきて、今の我々も暮らし、子孫たちも暮らすでしょうが、それはすべてが堕落圏であることに間違いないのです。
 その堕落圏をけって出て、今日の勝利を先祖たちと共に、自分の一族と共に、未来の子孫たちの前に誇り、高く褒めたたえ得る、愛の祖国を探すべきです。その愛の祖国の中で、愛の父母を持つことができ、それだけでなく、祖国の中心である神様がいらっしゃるなら、その神様に侍ることができるというときは、それ以上の栄光の位置はないというのです。(138-105,1986.1.19)

 

 メシアは、神様の愛を完成したアダム格であるために、本然の父の資格として来るのです。それゆえ、その父を中心として母を選択し、神様の本然の愛を中心としたその基盤を中心として、個人・家庭・氏族・民族・国家基準までの所有権が、真の愛を中心としてメシアのものとなった以後に、国家のものであり、国民のものであり、家庭のものであり、個人のものであるという所有権版図が広がらなければならないのです。
 ですから、メシア本然の愛が、個人から国家まで形成されて、ローマと世界までその波紋が伝播されていたなら、今日の再臨の思想は必要なかったのです。
 このように見るとき、アメリカは神様の愛の圏に属した国でしょうか。違います。この地球上に、そのような過程を通過した国はないのです。キリスト教を中心とした数多くの教会が、このような神様の愛の原則に一致した所有権に属していないのです。絶対的にありません。天国が地上にはないのです。このように考えるとき、「真の父母」という言葉がどれほど偉大で、どれほどとてつもないかというのです。これだけが、堕落圏のサタン世界を貫き、上がっていくことができる一つの基地になります。
 ですから、「真の父母」という言葉が現れるようになったことを有り難く思うべきです。その言葉だけを千回聞いても、万回聞いても感謝して余りある内容だというのです。(129-193,1983.11.5)

 

 ③「真の父母」という言葉は驚くべき言葉

 

 我々は、人類史祖の堕落によって、我々の故郷を失ってしまいました。また、国を失ってしまい、世界を失ってしまったのです。さらには、神様まで失ってしまい、神様の愛までも失ってしまったのです。このような膨大で、とてつもないすべてを、再び探し得る一つの起源が何かというと、真の父母だというのです。
 神様が、今まで歴史的に願ってきた摂理の目的とは何でしょうか。真の父母の基準です。人類が堕落した以後、今まで蕩減歴史をしてきたのは、何をするためでしょうか。 真の父母を探すためです。数多くのキリスト教徒たちが、今まで再臨の日を待ち焦がれてきたのもこのためであり、数多くの宗教が、すべてこの一日を願っているのもこのためです。このような事実を考えるとき、真の父母が生まれたのは、恐ろしくも驚くべき事件なのです。
 皆さんが故郷に行こうとするのは、そこに父母がいて、兄弟がいるためです。父母を中心として連結した愛がある所なので、故郷をしのぶのです。そのような故郷を抱いている国、そのような故郷の愛が連結し得るその国を、人々は「自分の祖国だ」と言っています。一般的に、祖国というのはそのようなものです。
 そのような面で、本然の愛を中心として見るとき、我々には故郷もなく、祖国もないのです。過去にもなく、現在にもないのです。あるといっても、それは悪とかかわりのあるものであって、我々とは何の関係もないものです。真とは関係ないのです。(67-226,1973.6.27)

 

 統一教会の「真の父母」という言葉は、驚くべき言葉です。偽りの父母は、サタンの愛を中心として落ちましたが、真の父母は神様の愛を中心として上がるので、愛の世界に前進していくのです。では、なぜ我々がその愛を探そうとするのでしょうか。愛というものは、偉大なものです。永遠に平等なものです。愛という名前だけ聞けば、いくら高い位置にも、一度に同参することができる資格をもつのです。(144-241,1986.4.25)

 

 統一教会では、「真の父母」という言葉を言っています。これは驚くべき言葉です。「真の父母」とは何ですか。偽りの父母が生まれたので、真の父母が出てこなければなりません。真の父母は何をすべきでしょうか。サタン世界の根となる誤った血統を正すべきであり、誤った生命を取り返すべきであり、誤った愛の道を正しく開かなければなりません。(169-37,1987.10.4)

 

 先生はハンサムではありませんが、変わらない希望があります。それは神様のみ旨を追求しようとすることです。その理想的な目的の基準、その定着点が何かといえば、真の父母です、真の父母。では、神様のみ旨の完成とは何んでしょうか。創造理想の完成とは何でしょうか。アダムとエバが愛の理想を成して、直接主管圏内で父母の位置に立つことが、理想的基準です。それがみ旨の完成の位置です。
 先生がこの地上に「真の父母」という名前を持って来たことが、どれほど驚くべきことかを知るべきです。
 真の父母という言葉! 世の中の言葉の中で一番福となる言葉とは何でしょうか。堕落した人間においては、国を失って捜すことよりも、世界を失って捜すことよりも、「真の父母」という言葉を捜すことが、一番福となるのです。それは、天地の何よりも貴い言葉です。(127-220,1983.5.8)

 

 ④「真の父母」という言葉は恐ろしい言葉

 

 統一教会での恐ろしい一つの教えとはなんでしょうか。それは「真の父母」という言葉です。これは、神様も恐れる言葉であり、サタンも恐れる言葉です。我々人間は、堕落圏内にいるので、真の父母を中心として見るとき、その真の父母に従っている人たちは、その方のみ言によって審判を受けるのです。
 このような方が出てこなければいいのに、出てきたために審判しなければいけない立場に立つので、神様がその方の言葉を聞いてあげるのです。また、サタンがなぜ「真の父母」という言葉を恐れるのですか。この言葉を信じて従おうものなら、自分のすべてが破壊されてしまい、破綻してしまうためです。それで、彼には極めて恐ろしい言葉になるのです。サタンは、いつも真の父母の行く道を妨げ、倒れるのを願い、悪くなることを願うのです。ですから、皆さんがこの道に従っていくのに、どれほど信じて従うかということが問題になるのです。
 皆さんが、そのような先端の場に立ったなら、一歩一歩、行動一つ一つに千年以上の精誠を尽くして、感激しながら行こうとしなければならないのです。(65-276,1973.1.1)

 

(祈り)
 私は、「真の父母」の名前が、どれほど恐ろしいかということをよく知っています。
 私は平穏な位置を探すために生きる道を取ったのではなく、このみ旨の使命を完結させるために、今まで闘ってきました。
 過去を回想すれば、事情も多く、無念なこともたくさんありましたが、あなたの事情、あなたの無念さに比べられないことが分かったので、ひざまづいて涙をあなたの前に見せられない、恥ずかしい姿であることが分かるのでございます。
 そのようなことを感じる私の心をお分かりになり、この日を期して、天上世界と地上世界の門を開いてくださいませ!(134-112,1985.2.25)

 

 「真の父母」とは何でしょうか。「真の父母」という言葉は、そんなに簡単な言葉ではありません。一番恐ろしい言葉です。その言葉が、どれほど恐ろしい言葉か分かりません。
 この「真の父母」という言葉一言のために、歴史が左右されます。この言葉を見つけ出すために、今まで数多くの烈士が犠牲の道を行きました。連続的な血の闘争を経て、身もだえし、絶叫しながら希望を抱いて探し出した名前が、「真の父母」という聖なる名前です。
 真の父母の前には、真の子女がいなければなりません。それで、皆さんが真の子女になりましたか。考えてみてください。真とは、過去にも、現在にも、未来においても、変わらないものです。(33-109,1970.8.9)

 

(2021.10.23:写経奉献)

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