「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(14) 第3巻「真の愛」 第2章 愛の実際

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第二章 愛の実際

1)神様の愛

2)真の父母の愛

3)父母の愛

4)夫婦の愛

5)性愛

6)子女の愛

7)兄弟の愛

8)愛国、愛世、人類愛

9)自然愛

 

 

1)神様の愛

 ①愛は神様から始まる

 

 神様は、愛の神様です。パウロは、「キリストの中にある神様の愛の綱を誰が切るか」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は、生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。(24-324,1969.9.14)

 

 神様の愛は、太陽より強いのです。朝日が出れば、すべての植物の芽は、太陽に向かいます。これと同じように、神様の愛は、生命の起源であり、私たちの本心の起源であり、理想的要素の主体的起源です。そのようになっています。(99-230,1978.9.25)

 

 神様は、愛の実体、愛の中心存在なので、アルファとオメガがありません。真正な愛は、始めと終わりがあり得ません。
 心情の世界で一時間生きるのは、千年の歴史に誇ることができ、一日生きるのは、万年の歴史に誇ることができるように、高貴なことを体験できるようにするのが真の愛です。愛は、細胞が膨張する気運まで感じることができます。そのような世界が、神様の愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのは難しいのですが、あたかも、のどかな春の日に雲に乗って飛んでいくような感じを与える恍惚な世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような気分になる世界です。(20-25,1968.3.31)

 

 神様の愛をどのように表現できるでしょうか。それは、ちょうど暖かい春の日に、空には白い雲がふわふわと浮いていて、地にはかげろうがぼんやりと立ち上り、虫が歩き回り、ありたちも世の中を見物しようと這い出たり、戻っていったり、さらさらと流れる小川には柳が芽を出し、かえるが春の日の新しい歌を歌い、花々が、群れを成して飛び交う蝶を喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境では酔って眠り込んでしまいそうですが、眠り込まずに、気分が良くて永遠に「いいなあ」と言える、そのような味だというのです。神様が求める理想相対を中心として感じる気分は、蝶が飛び、蜂が飛び交う花園のようなものです。これを考えただけでも気分が良いですか、悪いですか。この鈍い男性たちは、それをよく知らないでしょう。(37-29,1970.12.22)

 

 神様がいらっしゃる所には、愛が充満します。与えれば与えるほど、もっと与えたいと思い、受ければ受けるほど、そこに千万倍加えてあげたいと思う所です。ですから、そこが天国ですか、地獄ですか。そこでは、もっと与え、もっと受けられるので、爆発的な刺激を感じるようになるというのです。すべての細胞が噴き出るような刺激を感じるのです。神様の愛がそうなのです。(39-335,1971.1.16)

 

 天地を創造した神様は、どのような方でしょうか。極めて善なる方であり、万物の根本なる方であり、愛の主体です。ですから神様は、天地万物を創造したのち、宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は、御自身が本当に信じることができ、愛することができ、任せることができる人がいれば、一番貴いものを、そのまま譲りたいのです。(13-247,1964.4.12)

 

 神様は、どのような味を一番好まれますか。神様が匂いをかぐならば、どのような匂いを一番好まれますか。聞くならば、何を聞くことを好み、感じるならば、何を感じることを好まれますか。神様が好まれるものは、一つしかありません。それは愛です。神様の五官を集中させ、喜びを充満させ得るものがあるならば、それは愛よりほかにありません。(136-116,1985.12.22)

 

 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるのでしょうか。それは、間違いなく人間だという結論を出すことができます。ですから、「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。(218-211,1991.7.29)

 

 神様の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。もちろんそこには、兄弟の愛も入り、これを拡大すれば、国家や世界の愛も入ります。神様の愛は、父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に素晴らしい言葉です。(67-171,1973.6.3)

 

 神様が必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか。絶対的愛を願われます。私たちも同じです。神様が絶対の愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とします。すべて神様に似なければなりません。(279-246,1996.9.15)

 

 神様は、愛ゆえに創造されました。愛ゆえに創造したので、男性と女性がお互いに愛し合うのを見るのがもっといいのです。ですから神様は、存在世界の前に現れる時、愛の本質として現れます。(86-82,1976.3.7)

 

 神様が今まで人間に愛を与えたからといって、「私はすべてを完全に与えたのに、あなたはなぜ与えないのか」と、このように言うことができるでしょうか。絶対的な愛をもった神様は、いまだに与えたいと思う愛をすべて与えることができずに、残念に思われています。自我を主張できない神様です。完全な愛を与えようと思ったのが神様の人間創造の目的ならば、神様は、今まで完全な愛を与えることができなかったので、人間世界に対して愛を与えたいと思われるのです。そのような神様なので、考えるほどよいのです。「私はすべて与えたのだから、今はあなたがもってきなさい」と言う神様ならば必要ありません。
 神様は、私たちに愛を与えるとき、どれだけ与えたいと思うのでしょうか。神様の愛は、このくらいならよしとする限界において与える、そのような愛ではありません。無制限に与えようとする愛です。神様はそっくりそのまま与えても、「お前によって、お前の中で暮らしたい」とおっしゃいます。そのようにさせる本質は何ですか。愛なのです。神様も、愛の中に入れば僕の生活をしてもよいというのです。父親は、愛する息子が自分の食卓の上にあがってきてうんちをしても、それを見つめて喜びを感じます。愛は法を超越するのです。(298-308,1991.1.17)

 

 神様は、全知全能であられ、遍在される方として惜しむものがなく、備えられないものがありません。すべてのものを備えていますが、そのすべての価値よりも貴いものとして先頭に立てたいと思い、誇りたいものがあるならば、それは何でしょうか。神様は、愛以外には必要ないのです。愛以外には必要ないというのです。(108-223,1980.10.16)

 

 神様が「私は愛だ」と言われたのですが、それは何ですか。夜にもうれしく、昼にもうれしく、仕事をしながらもうれしく、休みながらもうれしく、踊りながらもうれしく、泣きながらもうれしいというのです。ですから、「私には愛がある。そっくりそのままある」と言われたのです。「そっくりそのまま」という言葉は、その中にすべて入るということです。愛を一番好む方が誰かといえば、神様です。そのような愛をそっくりそのままもっている神様なので、その愛を味わえば、死んでも手放すことができません。(44-188,1971.5.7)

 

 神様は、真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だというのですが、それはどういうことですか。すべて同じ話です。真理が成立するには、愛と生命がなくてはできないのです。ですから、最も核心の生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様でいらっしゃるのですが、その神様はどのような方なのでしょうか。私たちの人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は簡単な方です。(21-183,1968.11.20)

 

 子女として造られた人間が兄弟を成し、夫婦となり、そして、父母の位置に進みながら育っていくのを見ながら、神様は、そのすべての段階における愛の主人として位置を確立することができるのです。ゆえに、そのように神様を愛の主人にさせた人間こそが、神様より貴い存在であると見ることができます。ちょうど、愛する人のことを、自分自身より何千倍も価値ものとして、貴く思うのと同じです。
 神様は、愛の骨です。それを知らなければなりません。愛を中心として、神様の愛は「骨の愛」であり、今日の人間の愛は「肉の愛」です。骨と肉が一つになって形態を備えるのです。そのような理になっています。(181-206,1999.10.3)

 

 愛とは何でしょうか。回ることができる潤滑作用と軌道作用をしてくれるのです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も、動かすためにはガソリンを入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとするには潤滑作用をしなければなりません。ですから、最高の喜びの潤滑作用ができるのは、愛しかありません。それは、根が永遠の神様なので、なくなりません。作用すれば発展するようになっています。(180-161,1988.8.22)

 

 神様の愛は、変わらないところに現れます。神様の愛は、不変なので永遠です。神様の愛が私に現れるならば、変わらない心の土台の上に現れます。ですから一生の間、食べるのもその愛のために食べ、寝るのもその愛のために寝、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のために変わらない完全な基準をもっている限り、神様の愛は現れます。そうでなければ、この宇宙の公約全部がむなしいものです。(83-179,1976.2.8)

 

 神様は、私たちの父です。夜も昼も子供が侵害を受けないかと心配し、子供に何か問題が生じないかと保護してあげ、またある反対の用件が現れないかと防御してくれる父母です。そのような父母の本質を求めていく道が、善の道、愛の道です。人間は息子、娘として、神様の完全な愛を受けなければなりません。(57-85,1975.5.29)

 

 神様は今まで、御自身と近い側にいる人たちと、氏族、国家にまで愛を与えました。「少ない」と言って受け取らないのではないかと、加えに加えて祝福してくださいました。それも不足で、愛する息子の生命までも与えました。神様は、一人しかいない息子を殺されてからも、再び愛を加えて与えようとされます。ですから、その愛が返ってくる日には、天地が丸ごと理想的な天国に変わることになります。愛を受ければ、もっと多くを返してあげるのが愛の原則です。私たちが神様に百の愛を捧げるならば、神様は千の愛、万の愛で報いてくださるでしょう。(38-166,1971.1.3)

 

 神様の愛さえもてば、神様の胸の中に入っていてもいいし、神様の鼻をつかんでもいいし、世界のどこに行っても境界線がありません。どこでも通じるようになっています。(91-227,1977.2.20)

 

 神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとは言われません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-380)

 

 神様と人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交流するところ、愛が交流するところ、理想が交流するところです。その点とは、どのような点でしょうか。親子関係の位置です。このように見る時、神様は愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なので、子女に対しては威信と体面を超越します。
 いくら罪人のできの悪い子供でも神様をつかめば、神様が「やい、こいつ、駄目だ!」と言われるのではなく、神様が抱き締め、ほお擦りして愛してくださるのです。このようなことを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。(69-79,1973.10.20)

 

 神様は、千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっていらっしゃる方です。そのような方なので私たちが神様を求めるのであって、与えたのちに「おい、これはいくらいくらだ」と言う商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。(36-290,1970.12.13)

 

 神様の愛に接すれば、どうなるのでしょうか。髪の毛も踊り、細胞も踊るというのです。100パーセントその愛に酔えば、ひっくり返るのではなく、千年、万年共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になります。「神仙の遊びに斧の柄の腐るのも気づかない(注:遊びに夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」という諺があるように、それほど人間が想像できない高次元の愛に酔うことのできる道があります。(59-316,1972.7.30)

 

 神様がいらっしゃる所には、愛が充満します。与えれば与えるほどもっと与えたいし、受ければ受けるほど、そこに千万倍加えて与えたいのです。ですからそこが、天国ですか、地獄ですか。そこでもっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになります。すべての細胞が張り裂けるような刺激を感じるのです。神様の愛は、そのようなものです。(39-334,1971.1.16)

 

 愛ならどこでも埋めることができ、愛ならどこでも及ぶことができます。愛する人が抱き締めたらどうですか。手を取って「ああ、愛している」と言いますか。おそらく目の玉が飛び出し、鼻水、よだれが出るほど抱き締めてくれることを願うでしょう。そのように抱き締めてじっと立っていないで、ぐるぐる回ります。そのように愛によって一つになってこそ、宇宙が回ります。(81-18,1975.11.23)

 

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄を丸ごと投入して創造した人間なので、人間が神様を引っ張れば、引いてこられざるを得ず、また神様が人間を引っ張れば、引いていかれざるを得ません。(20-207,1968.6.9)

 

 人間は、なぜ神様が好きで、ついていくのでしょうか。神様は、千年、万年すべてのものを与え、また与えても恥ずかしがりながら、「今はこれしかないが、もう少し待ちなさい。何百倍、何千倍もっといいものをあげるから」と言いながら、きょう与えることで満足するのではなく、未来にもっと多くのものを与えると約束する心をもっていらっしゃる方だからです。(36-290,1970.12.13)

 

 人間は、なぜ永生するのでしょうか。なぜ誰でも永生を求めるのかというのです。絶対的主体者であられる神様の前に、愛の対象としての価値をもつことができ、絶対的な愛の神様の前に永遠であらざるを得ないので、私は、永遠な愛の相対圏を求めるようになるのです。この場に立つ時には、上も下も同様に神様であり、私になります。愛で一体となりさえすれば、神様を私のポケットの中に入れることもできるのです。(137-67,1985.12.18)

 

 私たちがこのような神様の愛の圏に通ずれば、どのような気分がするでしょうか。春の日に、いい香りのする園で美しい花々を見つめ、香りという香りをすべて嗅いで、酔った気分のようなものです。そういう時には、私たちのすべての細胞が踊りを踊ります。(24-324,1969.9.14)

 

 神様の愛が縦的な愛ならば、男女間の愛は横的な愛です。男性と女性が出会うには、横的な愛を縦的な愛に接ぎ木しなければなりません。90度の角度に合わせなければなりません。これに合わない愛、縦的な基準と連結されない愛は、さすらいの愛として破壊されてしまいます。ですから縦横が一致した愛の圏内に入るには、愛を中心として全宇宙を支配することができるのです。全宇宙と関係を結べば、知識も権力もお金も生命も必要ありません。生命も、その中では永生するのです。(136-203,1985.12.29)

 

 神様はアダム、エバの体を好まれるのではなく、二人の間の愛を好まれます。神様が人間に対して願う終着点とは何でしょうか。息子、娘に会って愛する場です。そして人間が願う終着点も神様を父として侍り、息子、娘として愛される場です。(56-145,1972.5.14)

 

 神様にとってアダムは、自分の中の自分であり、未来の理想的な愛の中の愛です。それでアダムは、神様の体です。またエバは神様の夫人であり、体です。アダムは、神様の体に相対する霊的相対であり、エバは肉的相対です。ですからアダムとエバが夫婦になって愛するのは、誰と共に愛するのでしょうか。神様と共に愛するのです。それで結婚は、極めて神聖なのです。(102-208,1978.12.31)

 

 神様に知識は必要ありません。神様は、知識を創造した方です。神様に権力は必要ありません。全知全能だというのです。神様にお金は必要ありません。ダイヤモンドや黄金も思うままに造ることができます。
 神様に必要なものは、たった一つです。それが何かと言えば、愛です。神様一人で愛を受けることができますか。「神様は愛を思うままにできるのではないか」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。神様において一番必要なものとは、真の愛を分かつことのできる対象者だというのです。人々はこれを知りませんでした。(137-52,1985.12.18)

 

 神様は、私たちに愛を与える時、限りなく与えようとします。神様はすべて与えても、「お前の中で生きたい」と言われます。そのようになる本質は、愛にあります。神様も愛の中に入れば、「僕の暮らしをしてもいい」と言うのです。愛は、法を超越します。(36-77,1970.11.15)

 

 神様の愛は、どのような味がするのでしょうか。すべてのものを総合した最高の味です。好きでつかめば果てしなくつかむことができ、開けば果てしなく開け得る力をもっています。ですから愛によれば、いくらでも満たすことができ、どこでも及ぶことができるというのです。(81-18,1975.11.23)

 

 神様は、愛の母体です。ここから父母の愛がわき出たし、夫婦の愛がわき出たし、子女の愛がわき出たし、親戚の愛、民族の愛がわき出ました。(50-267,1971.11.8)

 

 愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。
 見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならない、という言葉が正しいのです。神様は、私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。(96-261,1978.2.12)

 

 男女の間で愛し合うようになれば、いろいろなことが起こります。そうでしょう。しかし、神様を訪ねていける道を知り、神様の愛の味を本当に知れば、神様のその愛は、この世のどのようなものとも比べられないものです。そのような愛の味を知った人がいれば、どのような苦難も彼を占領できないし、どのような悲しみも彼を占領できないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるのではありませんか。これを探すことが問題になるのです。(39-240,1971.1.15)

 

 神様は絶対的な方なので、そのような神様に他の所で侍ることはできません。愛する人同士は、共に行きたいし、共にいたいし、共に住みたいと思うのです。どのように共に住みたいのでしょうか。神様に深くしみ込んで一つになって、共に住みたいと思うのです。それが愛の本質です。(56-147,1972.5.14)

 

 心は、狭いですか、広いですか。心の形を皆さん自身はよく知りませんが、心は、無限に大きいのです。それでは、その心がどれほどいいでしょうか。世界人類一人一人に数百億円をあげても、またあげたいのが心です。心は、このように素晴らしいものです。ですから人間は、無限の愛、無限の希望の花として咲くことができるのです。それは、なぜそうなのでしょうか。無限に神様の性稟に似たからです。(27-59,1969.11.23)

 

 皆さんの心は、どれほど大きいでしょうか。これは、測定できないほど大きいというのです。また、小さいと言えば、とても小さいのです。針の先も入れないほど小さいのが、人の心だというのです。心は、大きく広げれば、無限に広げることができるし、狭めれば無限に狭めることができます。そのような本質、本性をもっているのです。なぜ心がそのようになっているのでしょうか。それは、神様が臨在できる神様の家になっているからなのです。(145-312,1986.6.1)

 

 愛は、一番近い距離を通ります。簡単な言葉ですが、貴い言葉です。なぜ垂直にならなければならないのでしょうか。これが問題です。なぜ水平になって、バランスをとらなければならないのでしょうか。
 愛を中心として垂直になるには、愛は直短距離を通らなければなりません。愛する人を探していく時、隣近所を訪ねるようにのろのろ行きますか。矢のように直行しますか。夜も昼も関係なく、春夏秋冬いくら歴史が長いといっても、愛は直短距離を通ろうとします。(187-50,1989.1.6)

 

 愛だけは万有において、直短距離を通れるようになっています。ですから、上にあるものが下に降りてくる時、直短距離で降りてきますが、その場が垂直です。(187-50,1989.1.6)

 

 ②愛の目的は、神人愛一体理想

 

 天地の中心と宇宙の根本とは何でしょうか。神秘的な境地に入って神様に祈ってみると、父と息子、娘の関係、すなわち「親子の関係である」とおっしゃいました。知らない人たちは、肉親の父、母、息子、娘の関係だと思っていますが、それは、神様との根本関係をいっているのです。(19-158,1965.1.1)

 

 父と息子が出会える最高の場所とは、どこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば愛と生命と理想が一つの場所にあるというのです。その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。
 それを決定できる最初の因縁と最初の統一の場所が親子関係の成される場でなければ、それはあり得ません。これは間違いない事実です。(69-78,1973.10.20)

 

 神様が絶対的な方ならば、その絶対的な方がなぜ人間を造ったのかということが問題です。お金のために造ったのでもなく、知識のために造ったのでもなく、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じ得るたった一つの道なので、人間をお造りになりました。このような観点から見るとき、神様は父であり人間は息子、娘だということが一つの軸を成すのです。この軸がもし連結したならば、人間と神様が愛で一体となった関係を、何が作用しても絶対に離すことができないということです。(137-57,1985.12.18)

 

 本来はアダム、エバが互いに最高の喜びの中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花が咲かなければなりません。そこで花のように咲き、その香りが全天下を覆っても余りあり、神様がその花を見つめ、花の香りを嗅ぎながら自らそこに酔うことのできる、そのような愛を神様は夢見ていたのです。(104-45,1979.3.28)

 

 神様が創造当時、理想として願った真の愛、偉大な愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは、「天国だ、地獄だ」と心配することもなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。(275-54,1995.10.31)

 

 神様は愛を好まれるのですが、神様が最も好まれる愛とは、どのような愛ですか。真の愛です。それでは、真の愛は、愛の根をどこに置くのですか。その根を神様に置いていないということです。それは不思議な話でしょう? 全知全能の神様が真の愛の主人公であるにもかかわらず、その愛の根は神様から始めたくないということです。その愛の対象となれる人間に根を植えようと思われるのです。(177-269,1988.5.20)

 

 では、動脈が偉大なのか、静脈が偉大なのか、どちらが偉大ですか。同じです。それでは、神様が偉大なのか、人間が偉大なのですか。同じです。愛を中心として、神様が動脈ならば、私たち人間は静脈的な存在なので神様と対等になる、そのような特権をもった人間の価値があるのです。「天上天下に唯我独尊であり、全知全能であり、無所不在であり、私を経ないものがない」、それは何を中心としてですか。愛を中心としてです。それが理解できるというのです。(109-146,1980.11.1)

 

 愛が先ですか。生命が先ですか。愛が先です。宇宙が神様の生命から出てきたからといって、生命が一番とはいいません。愛が一番といいます。神様は、天地創造を生命からしたとしても、その生命の発源地、動機は愛です。生命が生まれたのは、愛からです。(86-79,1976.3.7)

 

 真の愛を中心として、男性と女性が神様の代身となった立場に立てば、宇宙のすべてのものに連結されます。そのようになる時、神様のすべてのものが私のものになるのです。真の愛が偉大な理由は、真の愛によって私自身が神様の対象になることができ、神様も私自身になれるからです。
 聖書に、「神様が私の中にいて、イエス様が私の中にいる」という内容があります。父が息子の中に、孫がおじいさんの中に、おじいさんが孫の中にいるという言葉は、ここから生まれた言葉です。おじいさんとおばあさんは、孫を中心として情を結ばなければなりません。このようになってこそ愛の垂直線が始まるのです。
 また孫は、おじいさん、おばあさんと一つにならなければなりません。おじいさんとおばあさんは神様のような立場にいるので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ愛の軸を見つけることはできません。これを立てたのちに、横的に展開するのです。人間の完成は、神様と縦的な関係を結ぶところから出発します。(298-308,1991.1.17)

 

 神様が絶対的な方なら、その方がなぜ人間を造ったのでしょうか。お金のために、知識のために、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるたった一つの道のために人間を造られました。
 このような観点で神様は父であり、人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。もし軸が連結されれば、人間と神様が愛によって一体となった関係を、何が作用しても絶対に切り離すことはできません。
 神様の本然の愛に綱を結んでその愛を味わった人が、別れるでしょうか。蜂は春に蜜の味を味わいます。蜜を吸っている蜂のおしりを引っ張れば、おしりが離れても蜜から口を離しません。(137-57,1985.12.18)

 

 神様から愛を受けたいと思う、その最高の場とはどのような場でしょうか。その場は、まさしく息子の場であり、娘の場です。神様には天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる帰着点は、どのようなところでしょうか。そこは絶対的な神様も願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一つの父母を中心とした息子、娘の立場で、互いに愛を授け受けできる場です。(39-9,1971.1.9)

 

 愛の巣の中で抱かれ、愛の巣の中で生まれる息子、娘には、どれほど価値がありますか。神様が毎日のように訪ねてきて、見物したいし、触ってあげたいし、ささやきたい宇宙の主人がいるならば、どれほど価値があり、幸福でしょうか。そのような宇宙の主人公として生きられるようにするのが愛です。(163-114,1987.4.19)

 

 アダムと神様が一つになり、互いに愛があふれる時、アダムは神様になることができます。アダムが愛によって神様と完全に一つになる時に、神様はアダムの中にいらっしゃいます。聖書にも、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ3:16)とあります。私たちが神様の聖殿だというのです。(48-230,1971.9.19)

 

 私たち人間は、神様が造った創造的な傑作品として神様に似ています。神様が永遠であられるので、私たちも永遠の性稟をもたなければならないので、私たちの心は、年を取らないのです。人は、永生しなければならず、永生してこそ傑作品の存在的価値をもてるのです。ですから人間は万物の霊長になるのです。(159-279,1968.5.19)

 

 神様の愛は、神様の愛だけで終わりません。その愛は必ず、人間によって横的に広がります。電気のプラスとマイナスがやり取りすれば、反応する極ができます。そのようなものが他のところでまた展開します。このように神様の愛は、横的に広がってきます。(34-235,1970.9.13)

 

 この世で最も神聖なものは何ですか。世の中で最も神聖なものは真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が存在されるのならば、その他の道はありません。神様が心より望むのは真の愛の道であり、真の愛の道を通さなくては、神様の前に進めないということを知らなければなりません。神様は、愛を通して見て、聞いて、食べて、触ってみたいということです。
 人間も神様から愛のキスを受けたとすれば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の望みはここにあるのであって、「ダイヤモンドや宝石を所有してうれしい」とは言われないということです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-380)

 

 人類は、世界舞台で一番になることを願う前に、本然のアダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神様の前に直系の王子と王女の立場を備えれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。
 しかし、堕落することにより、占めなければならない長子権王子、長子権王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。それで人類は、神様の真の愛を再び探そうと、初めの息子と初めの娘の立場を探してくる人生の道を歩んできたのです。(226-48,1992.2.1)

 

 堕落していないアダム、エバの体は、神様が臨在できる家です。アダム、エバが神様を心の中心として真の愛によって永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になったならば、今日私たちの心と体は闘わなかったことでしょう。堕落とは、悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血筋を引き継いだことです。ですから、この血筋を改造しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木に改造してこそ、救援摂理の完成が成されます。(226-48,1992.2.1)

 

(2021.11.01:写経奉献)第2章つづく。

 

 

2)真の父母の愛

 ①原罪のない真の先祖、人類の救世主

 

 真の父母とは何でしょうか。堕落していなければ、神様は縦的な愛になり、アダムとエバは神様の体になるのです。神様の体と同じだということです。神様は骨と同じであり、アダムとエバは体と同じだというのです。神様にも心があり、体があります。神様は、内的な位置で内的な父母になり、アダムとエバは外的な位置で外的な父母になるのです。内的・外的父母が一つになったその場で愛によってつづられて内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間との愛の結託によって真の父母、すなわち完成した人間が成就されるはずだったというのです。愛と結託できなくなれば、完成人間はないということです。(184-71,1988.11.13)


 今日まで歴史は、何を求めてきたのでしょうか。時代は、何を求めてきたのでしょうか。未来は、何を求めていくべきでしょうか。真の父母です。ですから全体がここに帰結されずしては、幸福の基準は、歴史過程や宇宙の中では見つけることができません。(26-199,1969.10.25)


 真の父母とは、どのような存在でしょうか。真の父母は、全体の希望の象徴です。堕落した人類の前に、絶対的な希望の象徴なのです。彼は、歴史的な結実体であり、時代的な中心であり、人類が生きている今日、この世界に連結され得る未来線上においての出発点です。(35-236,1970.10.19)


「チャンプモ(真の父母)」というその名前の3文字を考えるとき、真の父母によって歴史が統治され、真の父母によって新しい世界へ帰ることができる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈伏させ得る内的な因縁が決定し、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服し、初めて神様を解怨成就してさしあげられる中心が決定するのです。したがって、真の父母と共に生き、真の父母の命令に従って行動できるこの驚くべき恩賜に、皆さんがまず感謝しなければなりません。(43-144,1971.4.29)


 人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が、真の父母だというのです。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の子孫をすべて失うようなことがあったとしても、真の父母に出会うならば歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。そのような方が、正に真の父母だということを知らなければなりません。(35-236,1970.10.19)


 皆さんは、神様と真の父母のために涙を流さなければなりません。涙を流さずしては、誰も復帰の道を行くことはできません。神様は、今まで人間を救うために涙の道を歩んでこられたからです。(御旨と世界163)


 皆さんは、先生がこの地上に真の父母という名前をもってきたことが、どれほど驚くべきことかを知らなければならないというのです。真の父母という言葉がありますが、世の中の言葉の中で最も福のある言葉は何でしょうか。堕落した人間にとっては、失った国を取り戻すことよりも、真の父母という言葉が最も福のある言葉です。それは、天地の何よりも貴いことを知らなければならないというのです。(127-221,1983.5.8)


 「真の父母」という言葉一言のために、歴史が左右されます。この言葉を探し立てるために、今まで数多くの先烈たちが犠牲の道を行きました。連続的な血の闘争を経て、身もだえしながら、絶叫しながら、希望を抱いて探し立てた名前が、「真の父母」という聖なる名前です。真の父母の前には真の子女がいなければなりません。では、皆さんが真の子女になったでしょうか。真とは、過去にも、現在にも、未来にも変わらないことです。(33-109,1970.8.9)


 神様の復帰歴史は、真の父母を立てるための歴史とも見ることができます。したがって、カイン、アベルから今日に至るまで、天は内的に真の父母を復帰するために摂理してきました。誰でもこの目的を成し遂げるための根本摂理に敵対したり妨害すれば、彼は天道の前に捨てられるようになり、結局滅びるほかはないでしょう。(9-10,1960.3.27)


 メシヤは真の父母です。私たちは真の子女です。同じ運命圏に立って、そこに加わらなければなりません。(55-99,1972.4.23)


 メシヤがこの地上に来られるとき、その方は個人として来られますが、個人ではありません。その方の価値は、全世界人類が信じている信仰の結実体であり、全世界人類が願っている希望の結実体であり、全世界が願っている愛の結実体です。
 その結実体には、すべての歴史路程が連結しています。すなわち、過去、現在、未来がすべて連結しています。そして、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界がすべて連結していて、天と地がすべて連結しているのです。(13-143,1964.1.1)


 メシヤがこの地に来て、代行しなければならない立場とは、真の父母の立場です。それでは、真の父母とは何でしょうか。縦的な真の父の代わりに、横的な真の愛を中心とした横的な父母です。
 キリスト教では、「メシヤが神様であり、神様がメシヤだ」と言いますが、それは違います。神様は縦的な真の父です。これは一つしかありません。他の道に行くことはできません。メシヤは、横的な真の父母だというのです。(186-40,1989.1.24)


 真の父母がこの地に出現するまでには、その背後に皆さんが想像もできない涙ぐましい事情が多かったということを知らなければなりません。皆さんが知らないところで、どれほど多くの涙を流したか知れません。その内容は、神様だけが御存じです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-449)


 私たちが知っている真の父母とは何ですか。人間の先祖です。ですから、真の父母を自分の父母のように侍らなければならないというのです。(118-147,1982.5.23)


 真の父母がこの地上の人間たちの前に、何をしに訪ねてくるのですか。人間が最も喜ぶものをつくってあげるために来るというのです。それは何かというと、皆さんを真の父母、小さい真の父母にすることです。(125-117,1983.3.14)


 どこから真の愛が出発するのですか。真の父母からです。これは福音の中の福音です。世の中に何か良い言葉があるとしても、夫という言葉が良い言葉であり、妻という言葉が良い言葉だとしても、堕落した世界は、真の父母が現れなくては真の夫と妻が現れないので、真の父母以上に良い福音はないというのです。これをはっきりと知らなければなりません。(131-187,1984.5.1)


 人類は、真の父母が必要です。なぜそうなのでしょうか。愛の軸に連結され得る原則的なことが、歴史始まって以来初めて起こったのです。歴史始まって以来、以前にもなく、これからもありません。これをはっきりと知らなければなりません。軸は一つです。二つではありません。その軸とは何かといえば、真の愛です。今皆さんの父母が愛し合うのは、真の愛ではありません。(137-107,1985.12.24)


 神様の摂理の目的とは何かと言えば、一つの焦点です。神様の理想が実現される場も、正にその場です。私たちが失った父母、失った真の父母に出会えるところも正にそこです。それで、その基台がすべての中心です。その場、それが「真の父母だ」というのです。歴史上、多くの場がありましたが、この場が最も価値ある場です。それが、どれほど重要なのか考えてみてください。すべての聖人たちもこの基台、この問題のために闘ってきました。(52-95,1971.12.23)


 人類が願うものは何でしょうか。真の父母に侍ることです。6000年前にアダムとエバが成婚して全人類が神様の子孫になるべきだったにもかかわらず、堕落によって人間たちは、サタンの子孫になってしまいました。
 ですから私たちは、6000年前に失った天の側の真の父母を、再びこの地上に探し立て、真の父母の愛の因縁を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ、天国の民になれるのです。(19-203,1968.1.7)


 神様は、真の父母を絶対的に必要とされます。全能なる神様も、真の父母なしには摂理を成し遂げることができないからです。
 霊界に行っている数億の霊人たちも、真の父母を絶対的に必要としています。真の父母が生まれない以上は、天使長界の霊人たちも、地上でみ旨が成就できるように役事したかいを見いだすことができないからです。神様の前に立つためにも、真の父母が必要なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-454)


 すべての歴史は、真の父母を迎えるためのものです。宗教も真の父母を求めてきて、世界も真の父母を求めてきて、国家も真の父母を求めてきました。真の父母を探す道を模索してきたのです。(御旨と世界-75)


 人間は、歴史時代に真の父母を失って孤児になったので、一つになる道がありません。本然の父母の愛からすべてのものが解決されなければなりませんが、そのようにできませんでした。ですからすべての人が必要とする方が、真の父母です。(128-107,1983.6.5)


 今までの歴史的な願いとは何でしょうか。真の父母に侍ることです。神様がイスラエルの国とユダヤ教を立てられたのも、メシヤを迎えるためのものでした。メシヤは、どのような方かと言えば、真の父母です。また、キリスト教キリスト教文化世界をつくったのは再臨主を迎えるためでしたが、再臨主は、第三アダムとして来られる真の父母です。(御旨と世界-75)


 すべてのものは、どこに帰結するのでしょうか。真の父母に出会うところに帰結します。人類の真の父母が現れることが歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いです。それで真の父母が現れる時は、歴史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後の時なのです。(51-354,1971.12.5)


 真の父母とは何ですか。肉親の父母と真の父母と、何が違いますか。愛を中心として言う時、その肉親の父母と真の父母とは何が違いますか。愛に対する概念が違います。愛の概念が違うのです。肉的父母は、肉身を中心とした愛を教えてくれるのであり、霊的父母は、霊的な世界を中心とした愛を教えてくれるのです。内容が違うのです。(129-99,1983.10.1)


 民主主義は兄弟主義ですが、その上が父母主義です。これから父母主義時代が訪れてくることを知らなければなりません。父母を選挙で選出しますか。再臨主を選挙で選ぶことができますか。神様を選挙で採択できますか。できません。民主主義は不信の風潮を造成する基台になっています。なぜですか。自分の利益のためにはあらゆることをするからです。財力を動員して、人材を動員して、謀略、中傷など、あらゆることをするというのです。(211-343,1991.1.1)


 ②真の愛で人類を生んでくださる


 皆さんは、真の父母と関係のない場で、天の前から追い出された偽りの父母の血筋を受けて生まれたので、真の父母の血筋に生まれ変わるためには、偽りの血筋を踏みつぶし、完全に抜き取ってしまわなければなりません。そうして、血統を根本的に替えずしては天の国に行くことができません。(22-271,1969.5.4)


 血統転換を成し遂げるためには、アダムの骨髄まで、骨肉の中心部まで入って、将来の子供になるその種に、神様の愛と結束した勝利的条件を充足させなくては、将来神様の子女として生まれることができません。これは理論的に間違いないというのです。聖書にそのようにしてきた記録があるでしょうか。そうだとすれば、聖書は神様のみ言だというのです。(35-163,1970.10.13)


 堕落した人間が要求する救世主とは、どのような救世主でしょうか。堕落した父母の立場からではなく、堕落していないアダムとエバのような立場で神様のみ旨と一致し、神様の愛を受け、神様の祝福を受け得る真の父母の立場で、人類を生んでくれる救世主でなければなりません。そうでなければ、人間が原罪と関係のない立場に上がることができないのです。(22-269,1969.5.4)


 血統を転換するのは、メシヤがするでしょうが、転換するように行動するのは、自分自身でなければならないといいました。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至れません。それは決してたやすく成されず、生きるか死ぬかの境地を通過しなければなりません。40日断食祈祷だとか、血を吐く死の境地に行ってこそ血統転換が可能です。(御旨と世界-62)


 真の父母が必要なのは、何のためでしょうか。心情圏を中心として、その根を下ろさなければならないからです。今は根が違います。堕落によって幹と枝が全部違います。ここで新しく根が真の父母から始まって、何が出てきたのでしょうか。ここで幹と枝が出てきて接ぎ木するのです。切り取って接ぎ木するのです。接ぎ木して、それが宇宙の大きい主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根まで切らなければならないというのです。(164-155,1987.5.10)


 今日、万民が願うものとは何でしょうか。世界国家を迎える前に、真の父母を迎えようとするのです。また未来の子孫たちは、誰から出発したいと思うのでしょうか。皆さんの息子、娘は、皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。真の父母の血筋を通じて生まれたいのです。ですから真の父母は、新しい未来の出発点になるのです。(35-237,1970.10.19)


 真の父母は、何をしなければならないでしょうか。サタン世界の根となる間違った血統を正さなければならず、間違った生命をもとがえさなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書に、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。サタン世界は死ななければならないからです。(169-39,1987.10.4)


 私たちが完全な新しい生命として再創造され、根本的に生まれ変わるのは、真の父母の体を通してのみなされるようになります。真の父母によってのみ霊肉が共に救われる完全な救援が可能になるのです。このようにして誕生した私たちの子女は、原罪がないので、救援の過程を通さないで天国に行くようになります。(御旨と世界-125)


 真の父母と真の父母の子女というものは、永遠不滅の宿命的な業です。これを誰も分けることができないのです。千年、万年その道を行かなければなりません。行くべき道は、二つの道ではなく一つです。他の方法はないのです。秘法がありません。その道を行かなければならないのです。(203-192,1990.6.24)


 真の父母は、世界の人々を呼び、父母の立場から結婚させてあげます。ここでは人種の違いを越えるだけでなく、善人と悪人も共に結婚させてあげるのです。
 真の父母は、悪なる愛、悪なる生命、悪なる血統をすべて否定しますが、アベルを殺したカインは、取り除いてしまわず、同じ位置で祝福してあげます。海の潮の干満を見るとき、出ていく水と入ってくる水が合い、水平を成した時のように、救援摂理(蕩減復帰)が終結する善悪の転換期で、善人と悪人をすべて共に祝福してあげることにより、サタンを完全に追放するようになるのです。
 エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今や真の父母が正しく結婚させてあげることをもって、もう一度ひっくり返すのです。偽りの父母が犯してしまったことを真の父母が清算することで、地獄を撤廃し、数百、数千億の霊界の先祖たちまでも祝福結婚させてあげるようなことが起こるのです。真の愛を中心とした地上の子孫たちの家庭基盤を通して、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋がお互いに連結されます。(300-224,1999.3.14)


 養子は、どのようにしなければならないのでしょうか。真の息子に接ぎ木されなければなりません。野生のオリーブの木を切って、真のオリーブの木の芽に接ぎ木しなければなりません。野生のオリーブの木が真のオリーブの木になる運動をしなければなりません。重生するためには、真の父母の血統を引き継がなければなりません。それで人類が願うのは、真の父母であり、イエス様と聖霊が願うのは「小羊の婚宴」です。(19-164,1968.1.1)


 まず何よりも、父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準を中心として父母に侍らなければ、救いを受けられないのです。皆さんは、そのように侍ったことがありますか。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。ですから「私は真の父母と永遠に一つになれる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越できるくらいに堅くもたなければなりません。そうでなくてはなりません。(30-238,1970.3.23)


 肉的な父母さえいればいいのに、霊的な父母がなぜ必要なのでしょうか。堕落したからです。今まで堕落した父母が何を教えてくれたのでしょうか。大きいものを半分以上みな取ってしまい、自分を中心として降りていくことを教えてくれました。それで、父母の愛を中心としてサタン世界に永遠にいさせるための一つの決定的な線が引かれました。これを切る道がありません。
 それでは、真の父母とは何でしょうか。そのような基盤で、もっと大きなものをだんだん教えてあげるのです。それで天の国、永遠の国に合うように教えるのです。永遠の国に行って拍子が合うように教えるのです。呼吸に支障のないように教えるのです。(129-99,1983.10.1)


3)父母の愛

 ①父母の愛は本質の愛である

 

 子供は、父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子供を生み、愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで愛する息子に対して、「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。(69-78,1973.10.20)


 子供は愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子供を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するのです。(69-78,1973.10.20)


 父母は、変わることができますか。父母の愛を革命することは、歴史時代になかったことを知らなければなりません。いくら革命が起こるとしても愛を革命することはできないので、愛は永遠に存続しなければならないことになります。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、私を絶対に必要とするのです。唯一に必要とし、不変に必要とし、永遠に必要とするのです。(74-18,1974.11.10)


 子供は、なぜ父母を恋しがるのでしょうか。そこに自分の愛の家があるからです。(137-141,1986.1.1)


 父母の愛を、なぜ尊重視するのでしょうか。見返りを願わず犠牲になるからです。そこでは、ある結果を願わないのです。それで満足し、それで幸福だというのです。与えることで幸福だというのです。すべてのものが、もらうことによって幸福なのではありません。与える者が、もらう者より福があります。なぜ福があるのでしょうか。神側の代身となることができるからです。(46-36,1971.7.18)


 父母の子供に対する愛は、ただそのまま生活的な因縁を通じるだけの愛ではなく、骨髄からわき出る愛なのです。忘れようとしても忘れられず、切ろうとしても切ることのできない愛の心を父母はもっているのです。子供と生命の因縁が結ばれていることを感じる時、父母には子供を愛する心が自然にわき出るのです。(32-15,1970.6.14)


 真の愛とは何でしょうか。「ため」に生きる愛ですが、与えてはただ忘れるのです。ことさら与えたことを覚えていません。また、いくら注いであげても疲れません。70歳になった息子に対して、「おい、車に気をつけなさい」と言っても不自然ではなく、数十年その言葉を何回繰り返しても、嫌になったり疲れるということはありません。堕落したこの世の父母がこうならば、ましてや本質世界で神様の愛を授け受ける時、疲れるはずはありません。(143-180,1986.3.20)


 父母は、子供を愛するのに自分を主張せず、自分がない立場で子供を愛するのです。父母は権限をもって、いつも堂々とした立場で子供を愛するのではありません。(59-298,1972.7.30)


 父母は、自分を犠牲にしても子供が立派に育つことを願います。父母は、変わらない愛の主人です。父母という存在は、子供が千態、万態に変わってどのようなことをやっても、「子供のために」という心だけは変わりません。ですから、変わらない父母の愛は貴いのです。(141-241,1986.2.26)


 父母は、愛する子供のために骨が溶けるほど苦労しますが、大変だとは思いません。なぜでしょうか。愛しているからです。自分の血と肉を削って与え、その価値がいくらなのか帳簿に付けておきますか。しないでしょう。かえって、全部を与えられなくて、もどかしがるのです。(39-335,1971.1.16)


 親子関係は、どのようなものでしょうか。愛を中心として、どのような関係でしょうか。親子関係は父母の愛が原因ならば、その子供は愛の実であり、結実です。このように見るのです。結実と原因が掛け離れたところから出発するのではなく、一つの場から出発したものです。
 父母の愛が原因ですが、その愛の中で「私が結実として現れた」という言葉はどのような意味でしょうか。父母が愛した結果として登場したのが、現在の「私」だというのです。ですから、愛と共に一体化した原因と結果の立場を対等にもって生まれたのが、親子の関係において子供だというのです。(127-13,1983.5.1)


 親子関係は、縦的な側面を代表します。ですから親子関係の愛は、変わることができません。私たち人間の歴史上でもそうでしょう。夫婦の愛は、横的な因縁なので四方性を備えたものです。ですから父母が子供を捨てることはできず、子供が父母を捨てることはできないのです。(145-275,1986.5.25)


 子供において父母に対する喜びは、それこそ世界を代表した喜びにならなければならず、父母において子供に対する喜びは、世界を代表した欲望を充足させられる喜びにならなければなりません。親子の関係は、それこそ宇宙の根本でないはずがありません。喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるならこれ以上の悲しい場がないと、結論づけることができます。(62-18,1972.9.10)


 親子の関係は、何について言うものですか。これは血筋が連結されたものです。父という言葉の中には愛が介在しており、血筋が介在しているのです。直系の子女になるためには、愛によって一体とならなければなりません。血筋によって連結されなければなりません。血は、生命を構成するものです。父母の伝統を受け継いだ生命をもつのです。何によってですか。愛によってです。(142-266,1986.3.13)


 私は、どこから生まれたのでしょうか。私は、父母の愛が最高に花咲くところから生まれたというのです。花咲くには美しく花咲き、美しく咲くだけでなく香りを漂わせ、その香りは父母も好み、神様も好み、万宇宙も好む、理想的な花として咲き得る、そのような中から私が生まれたというのです。(83-162,1976.2.8)


 宇宙を総合した男性、女性として生まれたその父母が、愛の花を咲かせるその場に、喜びのその場に、一つの種として植えられたのが子女なのです。(83-162,1976.2.8)


 私は誰でしょうか。父母の愛の出発の根源に同参した者です。これは原因と結果が1箇所から出発したので、離そうとしても離すことができません。原因的な父母の愛と、結果的な私の生命の愛の根源は一つです。そのような意味から見る時、愛を中心として父子一身という言葉が可能だというのです。(127-13,1983.5.1)


 愛を抜けば、「一身」や「一体」という言葉はあり得ません。私は、腹中から父母の愛を受けます。愛の本質によって腹中に私を懐妊したその時から、父母の愛とすべての関心が集中するようになっています。なぜそうなのでしょうか。愛の結実だからです。それで愛によって生まれ、愛から生命の因縁を受け継ぎ、愛を受けながら大きくなって相対を迎えられる時になれば、相対をめとるのです。(127-13,1983.5.1)


 親子の関係は、いかなるものをもってしても壊すことができません。原子爆弾でも壊すことができません。絶対に壊すことができず、別れることができず、捨てることができない関係です。(21-69,1968.9.9)


 父母と子女の因縁は、切ろうとしても切れません。私の愛と私の生命の主体性をもったものが子女なので、これを切れば私を否定し、私の生命を否定する立場に立つので、愛の結実を否定できないのです。ですから父母は、子女のために生命を捨てられるという論理を得ることができるのです。(83-162,1976.2.8)


 夫婦同士暮らしながらどんなに楽しく愛すると言っても、子供がいない夫婦が幸福な夫婦ですか、子供がいる夫婦が幸福な夫婦ですか。子供がいないのは、未完成品です。未完成夫婦だというのです。そうでしょうか、そうではないでしょうか。(92-219,1977.4.17)


 父母が子供を愛するのを、誰も打つことができません。打てないというのです。宇宙が保護するようになっています。それを知らなければなりません。愛する父母が愛する子女を抱いて愛するその場は、この宇宙の法が攻撃できず、保護するようになっているのです。今までこれを知りませんでした。(130-152,1984.1.8)


 子供が病気になって体が不自由になっている時は、高く深い父母の心情は、その体の不自由な子供に流れるのが原則です。違いますか。そのような不具者の心情は、谷底にあります。父母の心情は、てっぺんの大きいところにあります。そのような父母の心情が、頂上からその深い谷底に流れていきます。(147-166,1986.9.7)


 子供のために生きる父母の胸には、悪いものがありません。服がぼろであればぼろであるほど、悲惨なら悲惨なほど、それが涙の深い谷底を深く掘っていくのです。(173-263,1988.2.21)


 皆さん、赤ちゃんがうんちするのを恥ずかしがればどうなりますか。うんちをしておしっこをしても恥ずかしがらずに、母親がうんちを片付けるのを見て、きゃっきゃと笑っているのです。それはどれほど純真でしょうか。それは愛によってのみ可能です。愛には醜いものがないのです。愛によってのみ、すべて克服できるのです。(116-84,1981.12.20)


 胸の中で乳を飲ませて育てる母親の切なる心、子供がうんちをし、おしっこをして臭くても、愛によってその環境を忘れられるのが父母の心です。堕落した父母が子供を思う心もそうだとすれば、ましてや愛の主体であられる神様が、本然の心情を通じてアダム、エバを愛したかったその心が、どれほど切なるものだったでしょうか。一度深く考えてみてください。(20-209,1968.6.9)


 父母の心は、与えても足らないと感じ、愛しても十分愛し切れないところがあるのではないかと、もっと愛したい心、与えてももっと与えられなかったことを残念に思う心、このようなものがあるので、永遠の愛と通じる本質に属することができるのです。これが愛の出発の伝統的動機です。(60-82,1972.8.6)


 父母が離婚するのは、刀で子供を半分に切るのと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう親は、どこに行っても災いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできません。(298-300,1999.1.17)


 赤ちゃんのおなかがすけば、母親の乳が張ってきます。乳が張って痛くなると、全身が締め付けられるように感じます。おなかがすいた赤ちゃんを抱いて乳を飲ませる母親の気持ちは、表現し難いものです。張った乳が赤ちゃんに飲まれて小さくなると、母親は心地よく、気分が良くなります。それは母親でなければ分かりません。また赤ちゃんがちゅうちゅう乳を吸いながら乳を触るのを見る時は、愛がどっとわき出るのです。(187-100,1989.1.6)


 子女をもった母は、夫と子女のうちどちらを死の場に差し出すかと尋ねれば、その母が本当に子女を愛しているなら、夫を死の場に差し出すのであって、子女は出さないというのです。夫が聞けば寂しく思うかもしれません。最近の世の中なら、「それは、子女が死ねば、また生めばよいではないか」と言いますが、それは付加条件であり、原則を突き詰めて順序がどのようになっているかというと、夫婦というものは横的であり最後に生じるものです。そうですか、そうではありませんか。愛の役事がそうだというのです。(48-214,1971.9.19)


 本然の愛とはいったい何でしょうか。それは、父母が子女のために生命を捧げることができる、その愛です。自分の生命を越えて愛するというのです。なぜそうでなければならないというのですか。本来、この宇宙が創造されたのは生命のためではありません。愛ゆえにつくられたので、愛が先です。ですから、愛に符号する生命なのであって、生命に愛が符合するのではないということです。
 ですから、真の愛は生命を犠牲にし、生命を越えて愛するのです。それが天の愛であり、宇宙と通じ得る愛であることを知らなければなりません。(132-153,1984.5.31)


 鮭の一生を見れば、鮭は卵を産んでから死にます。卵をはらんで産むために雄と雌が無条件に一つになって……。それを見ると、死ぬ日が決まった死刑囚の立場で夫婦が愛する、それ以上に愛し合うのではないかというのです。雌が卵を産めば、雄は地を掘って保護してくれます。それこそ理想的なカップルです。そして卵を産めば死ぬのです。死にゆく雄、雌のいろいろな姿を見る時、本当に大きな衝撃を受けます。そうやって、その親の体は赤ちゃんたちの餌になるのです。(128-259,1983.8.28)


 創造主がいるならば、なぜそのように造ったのでしょうか。それを見れば赤ちゃんがどれほど重要か、愛がどれほど重要かということが分かります。愛が最高のものであり、赤ちゃんが最高のものだということを見せるための一つの表現として、鮭をつくったのだろうという理論は、極めて当然な言葉です。鮭の一生は本当に驚くべき人間の教材です。(128-260,1983.8.28)


 ②分け与え、また分け与えても完全な愛


 子女をなぜ愛するのでしょうか。なぜ愛さざるを得ないのでしょうか。それは、神様の創造の偉業を、私たちが横的な実体圏から受け継いだのと同じだからです。アダムとエバを造っておいて神様が喜んだ、その喜びを私たちも感じるのです。神様の愛を受け継いで、神様の創造的権限を受け継ぐのです。(76-45,1975.1.26)


 子供をたくさん育てた父母は、何かしら愛の心情が広く、大きく、深いことを知ることができます。子供をたくさん育てた人は、悪い怨讐も打つことができないということを自ら感じ得る人です。それほど何かしら広い土台に立っていて、広い法度をもって生きているのです。(51-318,1971.12.5)


 赤ちゃんは、生まれると母親の愛の電波に従って、自動的に乳を探していきます。醜女も美人も関係なく、母親ならいいのです。これこそ調和した無二の、聖なる姿なのです。(298-304,1999.1.17)


 人は、愛によって生まれ、愛を受けながら大きくなります。「私」という存在は、父母の愛の実なのです。お母さん、お父さんの愛がどのようなものかを、実際の実で見せてくれたのが「私」です。父母は、愛の実である「私」を愛さなければなりません。その実を通じて無限の愛が実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的神様の愛まで連結され得る道がここにあるのです。(126-245,1983.4.24)


 私は、父母の前に二つとない愛の同参者、同伴者です。愛をもってお母さん、お父さんと同等になることができ、同等な場に上がっていくことができるのです。それが愛の特権です。父母は真に愛する息子、娘に自分のすべてのものを相続させようとします。宇宙の相続は、愛の伝統上で同等な愛の価値的位置を得る時、すべてのものを心置きなく100パーセント相続するようになっているのです。それで父母は、孝子(親孝行)を願うのです。孝子は、父母の永遠の愛の同伴者として愛の相続を受けるのです。(140-233,1986.2.12)


 愛によって生まれた赤ちゃんは、どのようなことをしても憎くなく、ただただ好きなのは、その赤ちゃんが自分の血と肉によって、また愛によって造られた分身体だからです。おしっこをして、うんちを垂れ、はなを垂らしても、ただかわいく、愛らしいのです。その中に愛が染み込んでいるからです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 父母と子供の間の愛は、父母から来ます。私たちは生まれながらにして父母の愛を受けます。父母の愛を受けて成長し、横的な夫婦の愛を体験するようになり、夫婦の愛が継続するためには、また子女を生んで愛さなければなりません。父母は、子供がいてこそ真の愛を感じることができます。兄弟同士の愛だけでは、父母の愛がどのようなものか分かりません。言い換えれば、父母から始まって一回り回って父母に帰ってこそ、その愛を知るようになるのです。(66-119,1973.4.18)


 私には父母の愛の綱、理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることができません。かえって宇宙のすべての力がこれを擁護しています。ですから、私がどこに行っても、父母はついてくるのです。霊界までも父母は、いつも共にいようとします。ですから、父母が同行するのを嫌うのは罪です。
 したがって、私たちは、父母を自分の体のように思い、愛し、親孝行することが、人間にとって最高に価値あることだということを知らなければなりません。(298-300,1999.1.17)


 私たちが生まれたのは、父母の愛からです。父母の愛から接ぎ木して出てきたのです。生命の連結を言う前に、血筋を言う前に、愛によって血筋がつながり、生命がつながったのです。「私」というものがなぜ貴いのでしょうか。生命をもったから貴いのではなく、父母の愛に同参したから貴いのです。愛は父母が成しましたが、愛の実は「私」です。始まりと結実をもって生まれたのが、正に「私」なので貴いのです。(140-233,1986.2.12)


 真の父母は、愛の伝統を継承させようと骨を折ります。そこには、東洋人も西洋人も関係がありません。氏族を超越してすべての父母たちが立てようとするものとは、普遍的な愛の伝統です。人は誰でも、自分の家庭を完全にむつまじく結合し、幸福で平和な生を営もうとします。
 洋の東西を問わず、すべての人は、そのような人生を渇望します。このような場合、その伝統は本質なのです。なぜならば、伝統のみが未来と連結されているからです。(統一世界1978.11.11)


 夫婦間の愛と親子間の愛の中で、どちらが大きいでしょうか。西洋の人々は、夫婦間の愛が大きいと思っています。しかし、そうではありません。夫婦間の愛より、子供のための愛がもっと大きいのです。夫婦同士の愛では、自分を愛してくれなければけんかが起こりますが、親子間では、愛さなければいけないといってけんかが起こります。父母の愛が中心であり縦的なもので、天の法度に近い道に従っていくからです。ですから「ため」に生きる愛がより真の愛に近いということを、私たちは知ることができます。どんなに強い男性も、どんなにきつい女性も、その愛の前には頭を下げるのです。(90-85,1976.12.19)

 

父母が貴いのは、子供のために与えるからです。それがあとで入れ替わるのです。父母は、年が多くなれば、また子供になるのです。昔は父母が子供の先生でしたが、年が70、80歳になると再び子供になるのです。その時は、子供が父母を身代わりするのです。父母が自分を育ててくれた代わりに、子供がその父母を愛さなければなりません。それが天地の道理です。(137-96,1985.12.24)

 

(2012.11.02:写経奉献)つづく。

 

 

4)夫婦の愛

 ①夫婦の愛は全宇宙の花


 男性は神様の陽性的な形状をもった存在であり、女性は神様の陰性的な形状をもった存在です。夫婦は、天下を一つのふろしきに包んだようなものです。それゆえに、夫婦は神様の理想的な愛の心情を感じることができます。(13-,1963.10.17)


 神様は縦的二性性相であり、人間は横的二性性相です。その二者が合わさって完全な丸いりんご模様を成し、四つの性相形態をもった東西南北に愛の理想を引き付け得る母体にしよう、というのが夫婦の理想です。(127-79,1983.5.5)


 夫婦が神様を愛し、人類を愛する心の基台の上で爆発するように互いに愛し合うならば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であり、人類のための愛でない訳がありません。その愛の根は、どこにあるのでしょうか。自分にあるのではありません。神様が愛の根源であり、人類の愛の根源なのです。(35-240,1970.10.19)


 理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を実体に展開できる夫婦、最高の文学を実体に展開できる夫婦なのです。最高の理想、最高の文化世界に接する前に、最高の愛によって夫婦が授け受ける甘味な愛が世界最高の芸術作品にならなければなりません。夫婦生活自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体にならなければなりません。(22-270,1969.5.4)


 人にはいつも刺激が必要です。幸福は、刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たく、一日中共にいたいと思わなければなりません。そのために自らに対する研究をしなければならず、神様に対する研究をしなければなりません。(23-57,1969.5.11)


 神様の愛が人間の3大愛を中心として、共に花咲くことのできる家庭を成すことが世界の願いであり、人類の願いであり、未来の願いだというのです。これにより、初めて天地の法度の前に歴史の香りを香らせることができるのであり、新しい花として登場できる貴く美しいものが夫婦の愛だということを知らなければなりません。(35-240,1970.10.19)


 愛は、永遠です。そのような愛は、二つではなく一つです。男女の間が愛で結ばれたなら地上で百年偕老(注:共に年を取ること)しなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることによって一体となるのです。二つの体が一つになれば神様と回るようになり、愛の四位基台を成すようになるので、これが正に理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛のみが臨在するようになるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-344)


 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、その愛情が生活圏を乗り越え、生涯を乗り越え、神様の目的と完全に一致したという家庭を成さなければなりません。そうしなければ、神様のいらっしゃる天国に入ることができません。(35-180,1970.10.13)


 男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がみなつぶれてしまいます。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-544)


 夫婦の愛を通じて一つになり、神様のような立場で創造能力を成したのが子女です。(52-314,1972.2.3)


 純粋な男性、女性として赤い愛の情熱の心をもって天地を代表することのできる男女、そのように結ばれた夫婦を天は探しています。そのような夫婦の愛をもって、そのような愛で息子、娘を育てなければなりません。(127-100,1983.5.5)


 最近、インスタント食品のような愛し方をする人々が至る所にいますが、それが問題です。香水のおふろに入るからといって、愛が深まるのではありません。田舎に住みながら、冷水に体を浸して洗ってから寝床に就く夫婦の愛が、もっと純粋で長く続き、深くなるものだといえます。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-353)


 新郎新婦はお金や権力、名誉を中心として一つになるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体にならなければなりません。妻は夫のために、夫は妻を愛する中で、夫婦が神様を愛する家庭を築いていかなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-880)


 男性は真の父の分身であり、女性は真の母の分身です。ですから夫が妻を無視すれば、真の母を無視することになり、妻が夫を欺けば、真の父を欺くことになります。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-869)


 男性が女性を主管し、女性が男性を主管できる力は愛です。愛以外にどのような力も、男女間において互いに主管できません。ただ愛のみが主管できるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-334)


 女性と男性を力で比べれば相手になりませんが、愛が介在すれば、妻と夫が互いに押し合い引き合って一つになるのです。人間が神様の前に愛の対象的存在になったならば、神様は喜ばれるでしょうか。喜ばれるのです。(270-242,1995.6.7)


 最高に好きなメロディーとは何かと言えば、男性と女性が互いに好きで喜ぶ、夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦がこの世を抱くことができ、宇宙全体を受け入れることのできる心で生を営む時、そのほほえみは自然に発生します。そのような夫婦の美しい姿が、神様の前に一束の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想や抽象ではありません。本来の世界のことを言っているだけです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 愛する夫婦間の対話は、この世のどのような詩や絵画よりも美しいのです。また、愛する者同士が交わす「私たち同士」、「私たち二人で」という言葉が、どれほど美しく素晴らしい言葉でしょうか。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 男性と女性が祝福を受けて完全な愛を交わし、喜びを分かつ時、神様の目には地上に咲いた花のようだというのです。また、彼らの愛によって成されるすべての造化、万象は、神様には香水のようなものです。このような美しい香りの中に、神様は住みたくて訪ねてこられるのです。神様の愛が訪ねてこれる土台が、正に夫婦の愛の場です。その場は、万物と宇宙が和動する場となるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 ②夫婦の愛は分散すれば不完全


 人間は本性的に、自分に対する相対の愛が分散することを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、親子間の縦的な愛の関係と違い、分散すれば既にその完全性が破壊されます。
 夫婦間に絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理のゆえです。人には、自分の相対に絶対に尽くし、「ため」に生きなければならない愛の責任性があります。(227-200,1996.4.16)


 愛の強力な力によって結ばれた夫婦ならば、相対がどのようなことをしてもうれしく、愛らしく思えなければなりません。夫の体から出る臭いが嫌だと言ったり、妻のしぐさが気に入らないと思ったり感じたりするのは、二人の間に完全な愛が成されていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれているからです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 夫婦が一緒に暮らすのに、一生の間楽に暮らすよりは、愛を中心として曲折を経ながら、台風も来て、暴風雨も降り、雷も落ちる、そのような多様性を感じながら、理想の愛を追求するのがもっと幸福なことでしょう。(167-213,1987.7.19)


 男女の問題を解決するためには、お金や知識ではなく、愛が必要です。(161-293,1987.3.1)


 人の言葉をよく聞いてみると、女性の声のほうが男性の声より高いのです。なぜそのように高く造ったのでしょうか。力においては男性よりも弱いのですが、情においては女性のほうが高いというのです。それでは、男性はどうでしょうか。男性は、広い愛をもっています。自分の夫と息子、娘だけを思う愛においては、女性が高いですが、親戚や国を愛する心は、男性たちがもっと高いのです。それで息子、娘を愛したり、家庭を愛するのは母親に習い、世の中を愛するのは父親に習うようになります。どちらか一方だけでは不安ですが、これらをつなぎ合わせることによって均衡を成すことができます。(129-55,1983.10.1)


 最初の3年間は、接ぎ木しようとしても合いません。家が違い、風習が違い、礼節が違う男性と女性は、合うはずがありません。一つになるまで、合わせていく努力をしてこそ合うようになります。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-895)


 愛を通じてのみ、より大きいものが出てきます。「ため」に生きる愛からのみ、数が増えていきます。ですから、夫婦が闘う愛からは亡国の種が生まれます。しかし、「ため」に生きる愛からは、天地のすべての精髄を取った、神様のような知恵の王子、王女が生まれます。(204-106,1990.7.1)


 なぜ夫婦げんかをするのでしょうか。互いに愛を受けようとするからです。互いに愛を受けようとする輩は、長く続きません。互いに愛を受けようとする家庭は、壊れます。しかし、互いに愛そうとする家庭は、「壊れよ」と願をかけても壊れません。互いに「ため」に生きようとする愛は、永遠なものです。(36-76,1970.11.15)


 愛は、愚鈍で間抜けなものです。どのような状況も意に介しません。本当に愛するならば、横で誰が見ていようが関係ありません。誰かが見ることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ても意識しないそのような境地にある愛なので、どれほど愚直で愚鈍でしょうか。(33-113,1970.8.9)


 経済問題を中心とした困難が、夫婦の因縁にひびを入らせることはできません。有識と無学が夫婦の愛を薄くすることはできません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-880)


 純粋な男性、女性として赤い愛と情熱の心をもって天地を代表し得る男性、女性、そのように結ばれた夫婦を天は探していらっしゃいます。(127-100,1983.5.5)


 愛する人たちの間になぜ、離婚問題が生じるのでしょうか。離婚した人や離婚を考えているという人みんなが、初めは生死を共にするほど愛する関係だったことを考えれば、何かが間違っているというのです。
 離婚するようになった理由はいろいろあるでしょうが、結局何かが変わったということで、二人の間が変わったということを意味します。彼らは愛を守り、培うことができなかったので、そのようになったのです。愛それ自体は変わりませんが、人の心が変わったのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-351)


 この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくる時に力が出ます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出、夫も力の出る妻を見て力が出るようになります。それで彼らは、お金を稼ぐことができなければ不安で、夫婦関係が壊れたりもします。しかし真の夫婦は、神様を中心として愛の一体を成さなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-880)


 ある男性は、自分の妻がいてもきれいな女性を見ると、「自分の妻だったらいい」と思います。このように二つの心をもった男性を指して、「どろぼう根性をもった者」と言います。二つの心から始まったのがサタンなので、二つの心をもった男性を指して、「サタンだ」と言っても間違いではありません。そのような人がいれば、サタンと変わりありません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-348)


 夫婦は対だと見ることができます。顔がそれぞれ違うように、人の運も違います。一生の運命が違います。夫の運命が悪くても妻の運命が良ければ、それによって夫の運が良くなることができます。反対に、妻の運命が悪くても夫の運が良ければ、それもやはり良くなります。
 ですから夫婦の運命は、山と谷を崩して平地を造るようなものだと考えることができます。平地を造り、そこに夫婦の理想をもって木を植え、畑を耕し、いろいろな愛の計画を推進することができます。そのような道理を考えてみる時、相対を外面的にだけ見て結び合わせてはいけません。結婚とは、そのように恐ろしいものです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-544)


 夫に会えばいいと思っていたのに、悪い時もあるというのです。良いものだけを願ってはいけません。24時間ずっと日差しだけ照りつけたらどうでしょうか。夜もなければなりません。高ければ、低くなるのが原則ではありませんか。(30-143,1970.3.21)


 幸福な家庭は、夫が出て帰ってきたなら、外であったすべてのことを妻と共に相談し、新しく開拓できる要因を発見する家庭です。お互いに力を合わせて研究する家庭が、幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子供たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭を築こう、と同調するようになります。(29-133,1970.2.25)


 愛する夫婦同士、一方的に相手の顔がどうだと決めつけてはいけません。自分の相対の顔が一つの模様でのみ感じられるならば、それほど嫌なものはありません。相手の顔は、うれしい気持ちで見れば、うれしい状態で現れ、愛の心をもって見る時は、美しく見えるのです。川が流れるとき、くねるように曲がるたびに新しい模様が現れるごとく、いつも相手の顔を新しく感じなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 人間の美というものは、顔だけにあるのではありません。四方八方から見て感じることができます。美は、ボールのように立体的なものです。上から見ても、横から見ても、どのような方向から見ても、自分なりの完成された美をもっています。
 ですから、自分の妻の顔をむやみに評価してはいけません。美人の中には貧しい人が多いのです。しかし、徳や福を備えている女性は違います。顔のきれいな美人も、子供を2、3人生んだだけで顔がおかしくなる場合があります。ですから、子供を生んでも美を維持できる人が美しい女性だと言えます。(御旨と世界-543)


 夫と妻が互いに愛し合うのにも、神様の代身者として、夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛すれば、互いに不足な面が現れ、結局は離婚する事態まで起こります。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-880)


 愛は、互いに慕い合う時、価値があります。口があれば口を開き、目があれば目を開いて「愛を下さい」と言ってこそ、愛を与える人も気分がいいのであって、ぼーっとしていたら、愛が来ても逃げていくことを知らなければなりません。愛する人が深刻ではなく、消極的に出てくる時、どれほど気分が悪いですか。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 夫婦がキスするために歯を磨くとすれば、それは自然な愛ではなく、歯磨き粉の臭いのために、人だけがもつ固有の体臭を味わうことができません。歯を磨いてキスする人を見ていれば、その人が愛の味を見るためなのか、歯磨き粉の臭いを味わうためなのか分からないほどです。
 最近の世態を見れば、人間の幸福がどのようなものか混同するほどに計算的で、人為的で、虚飾的な愛が蔓延しているのを見ることができます。そのような愛は、滅亡の道に導いている主犯だと言えます。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-353)


 テンジャンクッ(韓国式の味噌汁)は、土鍋で作ってこそ本来の味が出ます。深みのあるおいしいその味は、一度味わったらどこに行っても忘れることができないのです。同じように、人も、深い風味のある味のごとき愛を一度味わったら、変わらないでしょう。甘いだけのインスタント食品はすぐに嫌になるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に手に入るならば、それは「真の愛だ」と言えないでしょう。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-353)


 エデンの園で裸になって踊るのを誰が見ていたでしょうか。人がいない所では、そのようなこともできるのです。部屋で夫婦が裸になって踊るからといって、それが心配なことですか。夫婦同士なら裸になって踊るどころか、どのようなことをしても、誰が何というでしょうか。夫婦同士でするのに、何の関係があるでしょうか。(21-242,1968.11.24)


 鳩も互いに「くっくっくっ」と声を出しながら愛し合うのに、夫婦同士が出会う時、本当に愛する人同士が出会う時、出会う声があるとすればどのような声でしょうか。雷が鳴る音よりも大きいことはあっても、小さくはないでしょう。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 夫婦が床に入ってささやく蜜語は、この世のすべての疲れや憎しみを解かす清涼剤になるのです。夫婦がささやく言葉の中で、「あなたは私を愛さなければならない」という言葉はあり得ません。愛が自然なように、愛の蜜語も柔らかく美しいものでなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-887)


 夫婦が愛し合うのに、夫の父が横で寝ていても夫の母が横で寝ていても、クライマックスになる時は率直に声を出してもいいというのです。「あの家はどんなに夫婦の仲がいいのか、夜に異様な声がすると、町内のねずみたちがびっくりして、鳴いていた鶏たちもさっと鳴きやむ」と言われるほど、町中に愛のうわさを立てなさいというのです。「ねずみたちが驚き、鶏も鳴きやむほどに発声する出来事がなぜ起こるのか」と聞けば、「そんなこと言わなくても分かるでしょ? 天地が震動する愛の喊声が響きわたるのです」と言ってもいいのです。(136-34,1985.12.20)


 夫婦の愛の場は、全宇宙の花です。歴史時代、総合実体として現れた新郎新婦が愛によって一つになる新しい部屋には、神様が来られて住み着かれます。
 ですから愛の中で成される新婚夫婦の新しい部屋が、どれほど厳粛で恐ろしい場でしょうか。神様との道をつないでおいて、完全な愛のマイナス的役割をしていると考える時、ここから天地の愛の太陽が昇り始めるのです。生命の安息の場、理想の安息の場と化して、妻の部屋を訪ねなければなりません。(179-91,1988.7.22)


 最近は足袋を履きませんが、昔は足袋を履く時は、一カ月でも二カ月でも足の指が出るほど履きました。そうすると悪臭が出て、すっぱくて渋くてありとあらゆる臭いがしますが、愛する妻の鼻は、「その臭いがどのような香りよりもいい」と言うのです。悪臭のする足の指も愛する時は、行ってなめるのです。行ってなめてみると味が辛く、甘く、すっぱく、変だというのです。愛のアンテナを立てて測定すれば、測定値が「嫌だ」という計数よりも、「いい」という計数がさっと上がるというのです。(194-49,1989.10.15)


 息子、娘を再創造するのは簡単ですか。ありとあらゆることをやってこそ、新しい息子、娘が生まれるのです。とても大変なことを全部しなければなりません。ですから愛する夫のつばが汚いですか、汚くないですか。仮に夫が自分の手につばを吐いたとして、絹の服を着ていてこするところがなければ、それをなめてしまいたいですか、そうしたくないですか。率直に話してください。「なめてしまいたい」と言ってこそ真の愛です。愛には汚いものがないのです。(194-165,1989.10.22)


 夫婦の愛に火がつけば、二つの生命が一つになり、その次に血統が一つになって愛で沸きたち始めます。その中で、自分の命に主人として種が植え付けられるのです。男性の生命体と女性の生命体がこのように出会い、遠心力と求心力が一つになって愛で運動し始めれば、すべてが回っていきます。上がっていって、下っていき・・・・・・。上がっていく位置に芽生えれば息子になり、下る位置に芽生えれば娘になるのです。理論的にはそうです。私は、そうかそうでないか分かりません。理論的に合うので、事実がそうかそうでないか研究して合わせれば、博士学位やノーベル賞の受賞にふさわしい人になるでしょう。(300-53,1999.2.21)


 赤ん坊を生む場は、神様の位置に上がっていくことによって、神様の上限世界を占領するものです。子女を愛することによって、神様が創造以後に人間をどれほど愛したのか、その内縁を体恤させるのです。(224-28,1991.11.21)


 愛を中心とした生活で、すべてのものが解決されます。欲張りじいさんの虎のような目も、愛するようになれば絵に描いたお月様のような姿になり、硬くこわばっていた口も、にたりと開きます。凍っていたものが完全に溶かされるのが愛であり、溶けていたのを凍らせることができるのも愛です。極と極を包括して余りあるのが愛です。「好きだ」という「好」の字をよく見てください。男と女を合わせて「好きだ」という字を書きました。「夫婦げんかは刀で水を切るようなものだ」という言葉がありますが、刀で水を切れば跡が残りますか。残りません。一度けんかをしても、面と向かって笑えば、また平和が訪れます。夫婦が愛するのは、神様まで連結するためです。(127-245,1983.5.15)


 本物の愛は、全身が一つになり、心情と血筋がすべて一つになって愛するのです。このように愛せる人が夫婦です。夫婦のいない世の中ならば生きるのに味がありますか。(26-151,1969.10.25)        


 堕落した世界においても、男女がお互いに愛する時、「あ、電気が通る」と言います。その時にできる電気は、天使長から始まるもので単細胞的なものです。本然の世界で生じる愛の電気は、宇宙的な愛の稲妻によって、強度において数千倍を越えるだけでなく、人体の各器官の細胞が動く声も雷の音のようなものです。
 本然の世界で真の愛を行う男女は、愛の稲妻が出会う接触点に向かって総力を結集しなければ、神様と出会えないというのが愛の原理観です。それが創造目的の完成です。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-380)


 皆さん、愛するのを神様が見ますか、見ませんか。天下の時空を超越する神様が、この世界の50億人類が愛し合う夜になれば、目を閉じるでしょうか、どうするでしょうか。見ていれば、気分がどうなのでしょうか。良い妻、良い夫がどれくらい多いでしょうか。考えてみてください。ありとあらゆる事が起きるというのです。仕方なく妻の役割を果たし、仕方なく引かれていき、仕方なく機嫌を取り、そのように暮らすのではありません。それがどうして「愛」と言えるのでしょうか。それが人生ですか。世の中がすべて、神様が望んだ創造理想のとおりに、花の香りが漂うエデンの園のように、蝶や蜂が飛び回り、天地に和動しながら暮らせる環境となって、神様がそこに心酔して眠ることができれば、どれほど良いでしょうか。それを考えてみましたか。一度そのように暮らしてみなければなりません。(222-252,1991.11.3)


 女性は、なぜ髭がないのでしょうか。神様は、アダムが髭を生やした姿を御覧になって気分が良くなかったので、エバを造られる時、髭なしに造られたのです。したがって、神様の創造物の中で1番の傑作品は誰でしょうか。女性たちです。女性たちが傑作品ですが、誰のための傑作品なのでしょうか。正に男性のための傑作品なのです。そのように考えてみてください。(38-181,1971.1.3)


5)性愛

 ①性は愛の本宮、天の至聖所


 神様の至聖所とは、どこでしょうか。愛が宿る男女の性の器官です。ここが天の至聖所です。(134-185,1985.4.7)


 男性と女性の愛の象徴は、何でしょうか。愛の終着地点がどこでしょうか。男女を一体にする性の器官です。それは愛を中心として、心と体が完全に合わさることのできる通路になるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-337)


 男性と女性は、何が違いますか。性の器官を含むその体がまず違います。それでは、男性の生殖器は、誰にとって絶対に必要ですか。男性の生殖器は、女性のためにあるのです。
 人間の生殖器が一つは凹で、一つは凸ですが、なぜそのようになっていますか。二つともとがらせるとか、二つとも平べったくすることもできるのに、どうしてそのように異なってできているのでしょうか。すべて相対のためです。
 男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願います。絶対に女性のものが男性のもので、男性のものが女性のものだという事実を今まで知りませんでした。それを占領することによって愛を知るのです。(299-119,1999.2.7)


 男性と女性の生殖器は、王宮の宝庫です。天の国における王宮の宝庫です。神様も自分勝手にできません。その鍵は、祭司長だけが開けることができます。女性として生まれ、服を2度脱いではいけません。主人の前で服を脱ぐのは許されますが、ほかは悪魔です。最近の男たち、今に見ていなさいとというのです。(194-345,1989.10.30)


 生殖器とは何かと言えば、愛の王宮であり、永遠の生命が誕生する王宮であり、永遠に変わらない天の伝統を受け継ぐ血族、血統を受け継ぐ王宮だというのです。真の生命の王宮、真の愛の王宮、真の血統の王宮だというのです。最も貴いところです。自分勝手にできません。神様の公認がなければ開けられないのです。神様と宇宙の公認を受けた自分の夫、自分の妻以外には触れることができません。(216-207,1991.3.31)


 生殖器は、何のために存在するのでしょうか。愛のためです。愛を見つけるために生まれたというのです。(132-112)


 生殖器とは何ですか。それは、真の愛を中心とした王宮であり、真の生命を中心とした王宮であり、真の血統を中心とした王宮です。一番貴いものです。これがなければ神様の理想、神様の家庭、神様のみ旨が成就できないのです。これは、全体の完成を成すことのできる一つの起源です。(216-218,1991.4.1)


 生殖器を絶対的に貴く思う世界になるならば、その世界は良い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。神様が人間を創造される時、最も重要なものとして精誠を込めて造られた箇所とはどこですか。目ですか、鼻ですか、心臓ですか。そうでなければ頭脳ですか。これらは、全部死んでなくなるのです。事実がそうではありませんか。(279-244,1996.9.15)


 生殖器は、愛の王宮です。今その愛の王宮がどのようになっていますか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であり、そのように貴いものが人間の生殖器です。聖なるものです。それが堕落によって汚いものになってしまいました。本然の神様の観点から見れば、汚いのではなく、それは聖なるものです。最も貴いものです。生命、愛、血統がここに連結されています。このように聖なるものをサタンが汚しました。(218-176,1991.7.28)


 私の生殖器は、愛の本宮です。私の生殖器は、生命の本宮です。王宮だというのです。私の生殖器は、血統の王宮です。このようになってこそ、神様が臨在できる王宮になることができるのです。神様は、万王の王であられ、本宮に訪ねていって住まれる方であるので、神様に侍るために、愛の本宮にならなければならず、生命の本宮にならなければならず、血統の本宮にならなければならず、良心の本宮にならなければなりません。アーメン、アーメン、アーメン。み言のとおりになるでしょう、アーメン。(280-197,1997.1.1)


 愛が中心となって二人が生命の合一体となり、一つとなる場所、男性の血、女性の血が一つのるつぼで一つとなる場所が生殖器です。その場所は息子、娘よりも貴く、夫より、神様よりも貴いということを知らなければなりません。このような話をするので「異端者」と言われるのでしょうが……。その場所がなんですって? 子供より貴く、夫より貴く、父母より貴い場所です。それがなければ父母も無価値なものであり、夫婦も無価値なものであり、息子、娘も無価値なものとなるのです。そのように貴いので、宝物の中の宝物として、世の中のどこの誰にも見えないように、一生の間、錠がかけられているのです。
 そして、その鍵は男性のものは女性がもち、女性の物は男性がもっているのですが、各々一つしかありません。一つのキーのみもたなければなりません。フリーセックスのように、10個、20個もちたいですか。門を開けても主人がいない家のように、通り過ぎる人がみな出たり入ったりする廃虚の家のようになりたいですか。(280-199,1997.1.1)


 男性と女性が愛する本宮、生殖器とは何ですか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮です。おじいさん、おばあさんもそれをつかんで生き、父母もそれをつかんで生き、自分たち夫婦もそれをつかんで生き、これから生まれる息子、娘もすべてそれをつかんで生きるでしょう? それをつかまないで暮らす女性、男性がいますか。下品な言葉だというのですか。なぜ下品な言葉ですか。神聖な言葉です。神聖な言葉として、受け入れなければなりません。ここで永遠の愛が連結し、永遠の生命、永遠の血統が出てきます。最も貴いのです。(210-101,1990.12.1)


 女性、男性の貞操を守り保護するということは、宇宙を保護することと同じです。男性、女性の愛の秩序が宇宙の根本であるためです。(176-221,1988.5.1)


 なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれました。神様は知恵の大王であられるので、男女の愛の器官を取り替えたのです。男性のものだと言っても、その主人は男性ではありません。
 女性の場合も同じです。主人を残しておいて自分勝手に行動した人は、愛を違反したことに対する審判を受けなければなりません。法の中で最も恐ろしい法の罰を受けることを知るならば、自分の妻をおいて、あえておかしいことを考えることができますか。反対に夫人たちは、夫をおいて他のことを考えることができますか。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-337)


 神様は、公平な方です。それで互いに「あなたのもの」、「私のもの」と言ってけんかをするといけないので、男性のものは女性に植え付けて、女性のものは男性に植え付けておいたのです。ですから愛は、おぞましいようですが、実にすばらしいものなのです。(136-23,1985.12.20)


 愛は調和を成さなければなりません。それで、愛には汚いものがありません。私たちの生殖器を見ても、生殖器は最も貴いものなのに、人体の一番汚い箇所の近くにあります。なぜそうでしょうか。和合するのが天地の調和の道理なので、最も貴いものをそこに配置したのが男女の生殖器です。それで一番良くない、汚い部分に装置したのです。(194-49,1989.10.15)


 男性と女性の生殖器は、どこにありますか。それは一番安全地域、一番の安全地であると同時に一番汚いところです。それを見れば神様は本当に知恵の王様です。人間の世の中に、「愛はそのような汚いものも支配する」ということを教えてくれるのです。肛門の近い箇所にあります。小便が出る道と別の道が同じなのです。(194-175,1989.10.22)


 皆さん、指1本を切りますか。生殖器を切りますか。それは笑い事ではありません。縦的な基準がなければなりません。四肢は横的です。ですから、ぴたっと真ん中に縦がぶらさがっているのです。三位基台ではないですか。それが神様の代身です。男性のそれの中で、二つあるのはアダムとエバの二性性相であり、伸びている一つのものは神様の代身です。(205-348,1990.10.2)


 神様に会うために結婚するのです。驚くべき話です。神様がほかにいるのではありません。その場に入るようになれば、神様が生きていらっしゃいます。(203-255,1990.6.26)


 頭よりも、それがさらに重要です。頭には真の愛の起源がありません。頭には真の生命の起源がありません。頭には真の血統の起源がありません。その起源がどこにありますか。生殖器です。それは間違いないでしょう? 生殖器にすべてのものがあります。そこに生命があり、愛があり、血統があります。そちらが愛の本宮なのです。生命の根もそこにあります。血統も同じことです。人間の体だけでなく、人間世界と人類歴史を通して一番貴い所です。それがなければ人類の繁殖が不可能です。(203-104,1990.6.17)


 人間にとって愛のアンテナは、生殖器です。それで男性は凸で、女性は凹です。この二つが合わされば、丸くなりながらなくなります。それは、陰電気と陽電気が合わさって、雷が落ちればゼロに帰るのと同じです。初めに戻ります。(187-54,1989.1.6)


 もし男性が男性の生殖器を自分のものとしてもったならば、絶対にあげようとしないし、女性も女性のものをあげようとしないでしょう。そうすると男性と女性は、ただそのまま対立して千年も万年も耐えるしかないのですが、愛を中心として互いに交換したのでお互いが必要となり、授け受けて回るようになるのです。授け受ける作用を必ず交換してこそ、価値が現れるようになっているのです。(140-245,1986.2.12)


 堕落した世界において、愛は最も危険なものになってしまいました。愛をよく管理できなければ天下が崩れ、ひっくり返るのは、堕落したからです。人間は、愛がなぜ偽りとなり醜くなったのか知りませんでしたが、その愛を守り保護しようとしたのは、真の愛が現れてくれることを願う本能のためでした。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-344)


 堕落することによって、男女の生殖器がこのよこしまな死亡の波、死亡の法、滅亡の地獄を開門させた本宮となり、天道を破綻させた魔物になったので、悪なるものになりました。これが、今まで歴史に隠された秘密でした。(197-175,1990.1.13)


 愛の王宮はどこですか。このような話をするからといって、おかしいと思ってはいけません。それを正すことができなければ、世の中がみなずれます。道理に合わなければ、天下にあらゆるよこしまなことが起きるのです。文総裁が今まで苦心し、人間の根本問題、宇宙の根本を明らかにしてみると、ぴたっと到着した所が生殖器でした。生殖器に到着して、静かに考えてみると、天地の調和がここで渦巻いていたというのです。驚くべき事実です。(197-24,1990.1.7)


 愛する時、なぜ男性が上に上がらなければならないのでしょうか。そうしてこそ縦になるからです。種はどこから来るのでしょうか。天から来ます。何を通じて来るのでしょうか。愛を通じて来ます。それ一つが全部を証明します。そして、種というのは、父から縦的な愛の凸を通じて来ます。凸が凹と合えば天地が振動します。(187-52,1989.1.6)


 愛するようになれば幸福になり、愛に酔って感じる感情はこのようなものだと言って、早く経験してみようとして走れば大変なことになるのです。
 愛の門は、時が来てこそ開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主人になったという時、堂々と開かなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-366)


 男性と女性は、なぜ愛を好むのでしょうか。人間の体は、大体400兆個にもなる細胞で構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するのかといえば、愛する時なのです。人体のすべての細胞を動かすことのできる時が、正に男女が愛し合う時なのです。(118-14,1982.4.26)


 男女が互いに愛し合う時、「ああ、電気が通じる」と言います。その時、生じる電気は天使長から始まるもので、単細胞的なものです。本然の世界で生じる愛の電気は、宇宙的な愛の稲妻で、強度において数千倍を越えるだけでなく、人体の各器官の細胞が動く音も雷の音と同じです。
 本然の世界において真の愛で愛し合う男女は、愛の稲妻が出会う接触点に向かって総力を結集しなければ神様と出会えない、というのが愛の原理観です。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-380)


 誰が神様の愛のパートナーになりますか。男性一人ででしょうか、女性一人だけでパートナーになるでしょうか。神様は、どのようなパートナーを願われるでしょうか。お金のパートナーですか。知識のパートナーですか。権力のパートナーですか。違います。神様は、愛のパートナーを願われるので、男性と女性が性の器官を通じて一つになるその場を中心として顕現され、人間と出会われるのです。(279-250,1996.9.15)


 自分の体を全部自分のものだと言いますが、愛だけは、自分のものではありません。愛は、全部相対のものです。旧約聖書を見れば「聖所」や「至聖所」という言葉が出てきます。聖所は人を象徴するものであり、至聖所は愛の家を象徴するものです。人は、それぞれ聖所をもっていて、至聖所をもっています。
 言い換えれば、聖所は、神様に侍ることのできる家です。至聖所は、神様だけが特権的愛の主管圏をもつことができるので、神様との関係を結ぶことのできるところです。至聖所を守る祭司長は、絶対に二人ではありません。一人です。昔、エバの前に、その至聖所の鍵をもっていたのはアダムで、アダムの至聖所の鍵をもっていたのはエバだったことを知らなければなりません。(132-246,1984.6.20)


 男性と女性の口は聖所だということを知らなければなりません。口は蘇生で、女性にとっては胸が長成で、その次に陰部が完成です。それらが私たちの体の聖所という箇所です。その聖所を開ける鍵は誰でももっているのではなく、天道によって相続しなければ、鍵をもてないことになっています。(123-195,1983.1.1)


 宗教は、受難の道を行かなければなりません。体と闘わなければなりません。一番の怨讐とは何かといえば、悪魔の血が激動する色欲です。淫乱から解放しなければなりません。その次に、愛から解放しなければなりません。
 サタンの血でつづられた血統から逃れるためには、淫乱から解放しなければなりません。そうして、生命に接ぎ木するには、神様と関係を結ばなければなりません。そうしてこそ愛が始まります。愛の伝統的中心は、神様です。生命の祖先も、神様です。この宇宙で一番恐ろしいものとは男女問題です。(194-345,1989.10.30)


 愛するようになれば血が沸くでしょう。ぞくぞく震えるでしょう。なぜ震えるか知っていますか。混じりなさいというのです。東西南北が混じり、上下が混じって一つになり、愛の火花が散る方向にすべての焦点が行列の方向性を備え、男性のために完全投入、女性のために完全投入、私の生命、財産をすべて尽くして投入、また投入しようと飛びつくのです。それが永遠に終わらない愛の道なので、永遠に好むのです。(204-100,1990.7.1)


 神様が人間に贈り物をするのに、悪い贈り物をしたでしょうか。良いものの中でも、一番良い贈り物を下さるようになっています。それはどこにあるものでしょうか。深い所にあるもの、自分の奥の奥の深い所から取って、愛する人に与えたいのです。それで愛が良いのです。(194-175,1989.10.22)


 真の自由は、責任性を前提とします。もし責任性なしに個々人の愛の自由だけを主張して実践するならば、どれほど大きい混乱と破局が来るでしょうか。至高なる愛の理想を成す人間の完成は、愛に対する責任性をもつ時、可能となるのです。(277-200,1996.4.16)


 人間は、愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己主管によって自由の主体となる責任性をもたなければなりません。人間において愛の責任性は、法や耳目によって守られるものではなく、神様との生命的、縦的関係の中で、自己主管、自己決断によって守られるものです。(277-200,1996.4.16)


 生殖器を目の見えない人のように方向を失ったまま使用すれば、地獄に行き、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば、天国の高い所に行くのです。これは、明快な結論です。(279-256,1996.9.15)


 エデンの園でアダムとエバが、青少年期に木陰で淫乱によって堕落し、フリーセックスを植えたので、収穫期である終わりの日には必ず、世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延する現象が現れるのです。(279-256,1996.9.15)


 ②愛の法は習って知るものではない


 皆さんは、家庭で愛する法を習いましたか。どこのお父さんが子供に、「お父さんから愛する法を習いなさい」と言いますか。またお母さんも子供に、「お母さんから愛する法を習いなさい」と言いますか。また、父母が子供に対する愛し方を誰かに習いましたか。新郎新婦はこのように愛さなければならないと誰かから習いましたか。習ったことがありませんが、よく知っています。それは、本当に神秘的なことです。(23-20,1969.5.11)


 父母が子供を愛するのに、誰かに教えてもらって愛しますか。ここにいる母親の皆さん、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。どこに愛を教える学校がありますか。そこに何の学士、博士がいますか。何もありませんが、誰でもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。完全なものは、手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないほど完全なものなのです。完全なものは、変わらないものであり、変わらないものは、永遠に続くというのです。(38-228,1971.1.8)


 愛というものは、言葉ではよく理解できません。父母の愛をいくら説明しても、父母がいない人には分かりません。夫婦の愛をいくら説明しても、一人で暮らしている人には理解できません。結局、自分が感じることができる主体や対象圏から、行動の一致点を備えることができる所から、彼が好むことができるものを私が好むことができる所から、また彼の一切が私の一切に連結され得るその場から、相対の愛を感じるのです。(58-290,1972.6.25)


 赤ちゃんが生まれると、すぐに母親の乳を探し、動物たちが生まれながらにして母親の乳を求めるのは、教育と訓練を受けなくても、自然に行為に移されるのです。これは正に、愛の力が作用しているからです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1060)


 真実な愛は、天理の法度なので、教育される前に、自然に成されるのです。父母の愛が、生まれた子供の顔が醜いか、かわいいかによって、大きくなったり小さくなったりしては現れず、父母が立派か立派でないかによって、父母に対する尊敬と愛が変わる子供はいません。「顔が醜いので私のお母さんでない」と言う子供がいますか。お前は私が生むには生んだが、「醜いので私の子ではない」と言う父母はいないでしょう。
 もし、そのような父母や子供がいれば、彼らを「人間だ」と言うことはできないでしょう。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1060)


 真の愛は、経験を通じて得られ、体恤を通じて知るようになっています。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通じて体得できるものではありません。生活を通じてのみ完全に体得するものです。赤ちゃんとして造られたアダムとエバは、成長しながら真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を段階的生活を通じて経験し、体験することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得する時、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。(277-196,1996.4.16)

 

(2021.11.03:写経奉献)つづく。

 

6)子女の愛

 ①子女は父母の愛の結集体


 愛する父母の前に、子供というものは極めて世界的な代表です。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-934)


 子供がいなければ、なぜ孤独な人だというのでしょうか。子供は、愛を中心として全宇宙を造られた主体者であられる神様の心情的事情を体恤するためのものです。子供は、私が動機となって生まれたけれども、その子供を生んで、愛することによって「ああ、神様が人間をこのように愛したのだなあ」ということが分かるようにするのです。(136-202,1985.12.29)


 父母が子供のために犠牲になるのは、父母として子供を通して神様に帰っていきたいという願いがあるがゆえです。子供を愛する中で父母の愛を体恤するようになり、さらには神様の愛を感じて悟るようになるためです。これは本然の発露です。子供をもったことのない人は、父母の愛を感じることができないだけでなく、神様に対する愛までも悟ることができないので、その人がもっている愛は、いつも不完全なものになるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1002)


 天国に残り得る子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを、自分自身が返さなければなりません。
 父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものをふいてくれた父母の心で困難を耐えて、父母に仕えてこそ孝子になることができます。(35-241,1970.10.19)


 愛をもった父母にむち打たれ、しかられても、その子供はうれしいのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1027)


 父母が、子供のために生命までも与えてくれました。ですから、子供も父母のために生命まで与えなければなりません。生命が愛から生まれたので、本質的な愛の前に生命を犠牲にしていくのが理論的な結論です。矛盾的な理論ではないというのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1009)


 子供が父母に借りをつくるまいと努力をする時、父母も生きがいを感じます。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1009)


 愛を中心としてむちを振るったとしても、打ったのちに痛哭する父母に対して子供が反抗したり、悪口を言ったりできますか。真の愛は、調和の両面的価値をもっているのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1027)


 立派な母親は、子供を懐に抱き、「世界を動かせる善なる存在になるために、どのような困難な立場でも耐えられなければならない」と子供に教えるのです。母親は、善は滅びないという天理に通じているからです。(13-238,1964.3.24)


 皆さんが子供を生んでお乳をあげ、「かわいい」と言いますが、なぜ「かわいい」と言うのでしょうか。それは天と地に代わって神様の子供を抱いているがゆえに、「かわいい」と言わなければなりません。
 神様の愛に従った天倫の運勢は、世界を越え、天地を抱擁するために動いています。子供を抱いてお乳を与える母親は、天と地に代わって神様の愛する息子、娘を抱いているという切なる心情で、息子、娘を抱かなければなりません。(8-105,1959.11.22)


 子供たちの誇りと幸福の基地は、父母の愛です。子供は、真の愛によって和合一体となった父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。子供に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、霊性を完全なものにしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。(277-200,1996.4.16)


 父親がいくら子供を愛するといっても、母親の愛にはかないません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-905)


 母親は、精誠を捧げたとすれば誰よりも精誠を捧げたし、苦労をしたとすれば誰よりも苦労したし、愛したとすれば誰よりも愛したと見るしかありません。そのような意味でも、女性が情緒的な分野において高く貴い位置を所有しているのであって、父親がいくら子供を愛するといっても、母親ほどに子供に対する愛は分かりません。
 ですから天国に行くならば、女性が心情の天国に行くでしょう。そのような観点から見れば、女性として生まれたことは、悪くありません。また、神様は公平だということも分かります。(85-166,1976.3.3)


 ②真なる子女の道理は「孝」


 父母を知ったなら、父母の前に何をしなければならないでしょうか。孝行をしなければなりません。孝子にならなければなりません。また、父母を中心として、その国の忠臣にならなければなりません。父母が国を抱え、世界を抱えてきたからです。忠臣になる前に、孝子にならなければならず、孝子になる前に、真なる兄弟を誇ることのできる食口(家族)にならなければなりません。食口とは、称え合うことのできる兄弟圏を表す名称です。(30-220,1970.3.23)


 孝子が貴いのは、変わりのない愛によって幼い時も、成長する時も、老年時代も父母を敬うからです。そのような人を、「孝子」と言うのです。(168-161,1987.9.20)


 孝子になろうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。常に、父母の心の方向と一致しなければなりません。孝行者の道を行く人は、父母と全く違った行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならないのであり、父母が西に行けば西に行かなければならないのです。そこに異議があってはなりません。10回行って、10回「帰れ」と言われても、また振り返ってついていかなければならないのです。(63-32,1972.9.10)


 家庭で「孝行をしなさい」と言うのですが、これは父母を中心として、父母が行かなければならない愛の道の同参者になりなさいということです。父母の真の愛の道には、天倫がついていきます。父母のみ行くのではなくて、見えない縦的な天倫がここに因縁づけられて、共に行くのです。ですから父母と一つになりなさいというのは、縦的な歴史と横的な歴史の心情圏をつなげていきなさいということです。これが父母の前に孝行だというのです。(136-203,1985.12.29)


 家庭を中心として見る時、父母の前に孝行をすることが息子、娘としての責任ですが、なぜ孝行しなければならないのでしょうか。孝行する道は、国に対する忠臣の道と連結されるのです。竹のように連結されるというのです。忠臣、つまり国に忠誠を誓う人はどのようにしなければならないかというと、世界に対して聖人の道を行かなければならないのです。それが一直線にならなければなりません。
 このように見る時に、孝行はできなくても、国の忠臣になるなら、その父母が「ああ、お前は私に孝行をしなかった」と言うことはできないのです。「本当によくやった」と言うのです。父母を捨てて家を出て親不孝をしたとしても、国の忠臣になる時は、母親や父親が死んで霊界に行っても、「やあ、本当にお前はよくやった」と褒めるというのです。(100-155,1978.10.9)


 孝子とは何でしょうか。孝子は父母の悲しみに代わって責任をもつために、困難な場を探していって、責任を果たすことによって父母に喜びを捧げる人です。父母が10の仕事をするのに子供は15ほど努力をしたならば、父母は5に対する喜びを感じるようになります。そのような分野をどのように補充して、父母のために捧げることができるかを考えながら努力する人が孝子なのです。(24-161,1969.8.24)


 真の父母とは、どのような父母でしょうか。子供を永遠無窮に愛することに際限のない父母です。それでは真の子女とは、どのような子女でしょうか。真の子女は、真の父母の愛の前に永遠無窮に父母を愛し、また愛があふれることのできる愛の心をもった子女です。そのような立場が真の孝子の立場です。(127-16,1983.5.1)


 神様が子女に願うこととは何でしょうか。お金をたくさんもうけた百万長者になることでしょうか。国の最高権力を手中にする大統領になることでしょうか。神様が息子、娘であるアダム、エバに願われたのは、彼らが育って孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。(299-117,1999.2.7)


 それでは皆さんは、神様が願われるように家庭では孝子になろうという気持ち、国では忠臣になろうという気持ち、世界では聖人になろうという気持ち、そして天地の前に聖子になろうという気持ちをもったことがありますか。歴史的に見る時、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、聖子になれと教えてきました。(287-23,1997.8.10)


 愛の伝統の中で育った子女たちが、もし父母が離婚しようとしているなら無関心でいられるでしょうか。絶対にそうではありません。子供たちはすべて、「私は、あなたの子女です。私は、あなたの結合体です。私のためにはどのような妥協もしなければならず、私の立派な父母とならなければなりません。私は、父母が必要です」と主張するでしょう。私たちは若者に、「父母とは、その子女のゆえに離婚する権利がない者だ」ということと、父母の責任を、父母に悟らせなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1009)


7)兄弟の愛

 ①兄弟愛は万民同胞愛の模型


 兄弟をなぜ与えられたのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかと言うと、男性は、妹や姉を見ながら「お母さんはこんなふうに育ったのだなあ!」ということが分かるのです。そこに母親が育っていくのを見るのです。
 また女性は、兄や弟が育っていくのを見て、父親がそのように育ち生活してきたのだという内容を見るのです。それが兄弟愛だということを知らなければなりません。そのように育って一つになるというのです。ですから兄弟を愛さなければならないでしょうか、愛してはいけないでしょうか。(184-60,1988.11.13)


 父母に息子、娘の二人しかいないとすればどうでしょうか。息子を見てみるとき彼には姉が必要であり、また兄が必要でしょう。また娘には兄が必要であり、姉が必要です。また彼らには、弟と妹が必要です。兄がいなければならず、姉がいなければならず、弟妹がいなければなりません。これがみなそろわなければ不幸なのです。妹、弟、姉、兄、みなそろって完全に一つになる家庭は神様が保護します。これが、氏族と民族と国家の起源となるからです。
 兄と姉は東西を意味し、弟と妹は南北を意味するので、それが完成すれば立体になるのです。これが愛の法度です。このような愛の法度が定着するとき、平和の起源は成されるのです。(20-40,1968.3.11)


 兄の立場で妹を愛し、妹の立場で兄を愛するのですが、ただ愛するのではないのです。必ず父母を介在させて、幼い時父母の懐で育ったことを重要視しながら愛さなければなりません。父母と子女が一つになった基盤において連結した兄弟でなければなりません。そうしてこそ、大きくなりながら共に上がっていくのです。小学校、中学校を、ずっとそのようにして上がっていくのです。(236-11,1992.11.2)


 この世をいくら行ったり来たりしてみても、家庭にある兄弟の愛、血を分けて生まれた兄弟愛のようなものはないのです。社会に出ても、自分の兄弟よりも近い人がいるでしょうか。近くなったとしても別れるのです。(228-199,1992.4.3)


 なぜ兄弟が必要でしょうか。縦横を中心として連結されるのが兄弟です。アダムとエバを横的だとすると、神様とアダム、エバは縦的な関係です。これは平面にしかなりません。ですから横的な基準が必要で、前後が必要です。家庭愛を超越できるのは兄弟愛しかありません。万民同胞愛という言葉と同じです。それがあって球形が成されるというのです。(236-11,1992.11.2)


 同胞愛、兄弟愛をもって世界を抱いてこそすべてが理想的な球形になるのですが、ぶつかっても衝撃がないのです。そうしてこそ初めて、神様が考えたすべての実体がここに来て結実されるのです。神様の子女の理想がここに来て結実されて合わさることにより、子女の愛の結実体になるのです。その次に、兄弟の愛の結実体、夫婦の愛の結実体、父母の愛の結実体になるのです。無形の神様が創造当時に構想した実体をすべて成したなら、神様と上下、前後、左右が一致できるのです。(236-146,1992.11.4)


 兄弟を通して国民が形成され、人類が形成されるのです。兄弟は、前後を表示するのですが、それが肉になるのです。平べったいものだったのですが、肉が付いたのです。そこから円形が生まれるのです。ですから円形をつくるのが兄弟であり、国民なのです。兄弟が拡大されて国民になるのです。
 兄弟愛というものは、世界愛と通じるのです。たくさんの兄弟が育つ家庭は、世界の人類を抱き、理想的な天国、地上天国と天上天国をつくるモデルのようなものです。ですから兄弟は、ここで拡張されるのです。(235-268,1992.10.1)


 兄弟が多ければ、御飯を食べるにしても、一つの器で、二人が分け合って食べなければならないのです。御飯が一つしかないと言ってけんかをするのではないのです。兄弟が多くて生活が大変でも、「私がひもじい思いをしても分けてあげなければ。弟にあげなければならない」と、このような愛の心をもてば最高だというのです。(112-195,1981.4.12)


8)愛国、愛世、人類愛

 ①孝子、忠臣、聖人、聖子の道に


 神様と一つになる時は、千態万状に回るようになります。そうして兄弟間でも、父母が子供を愛するのを見本として、兄は弟を愛さなければなりません。そのように愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛となり、さらには民族愛となります。このように行くと世界愛になります。(28-168,1970.1.11)


 人類の共同的な目的のために生きる人がいれば、その人は人類愛を中心として一つになるでしょう。同じように国民が祖国愛をもっているならば、愛国思想を中心として一つになるでしょう。愛国の心が強ければ強いほど、国家を成すために愛国思想を中心として一つになるはずです。愛国運動は一人ではできないという立場を知ったならば、横的な因縁を連結させなければなりません。これが同志糾合というものです。(29-131,1970.2.26)


 真の愛が定着できる基地が家庭です。ゆえに、本来の家庭は、宇宙愛を掌握し、宇宙の保護様相を体得しながら、宇宙愛圏を拡大させ、家庭を越え、国家を愛する愛国の道を行くべきであり、さらに、民族と国家を越え、世界を愛する道に行かなければなりません。家庭を愛する人を「孝子」あるいは「烈女」と言い、国を愛する人を「愛国者」と言うならば、世界を愛する人を何と言いますか。その人はすなわち、「聖人」であると言うのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-924)


 世界的な人物になるためには、どのようにすべきでしょうか。人倫道徳だけを中心としてはなれません。人間だけを中心としてはなれないというのです。人間だけを中心としては国を超えられません。国を超えられるそのような内容は、天にあるのです。天宙思想をもたなければ国を超越できないのです。(38-260,1971.1.8)


 聖人の隊列に同参した人たちを見れば、神様をあがめ尊びましたか、尊びませんでしたか。神様を除いて聖人になった人がいますか。(39-316,1971.1.16)


 ですから、聖人たちが何を紹介したのかというと、人間だけを紹介したのではなく、神様を紹介しました。また、聖人は、人倫の道理だけを教えてくれたのではなく、天倫の道理を兼ねて教えてくれたのです。(33-290,1970.8.21)


 家庭で父母のために生き、愛する人は孝子であり、国のために生き、愛する人愛国者であり、世界を愛する人は聖人です。それでは、先生が教えるのは何ですか。神様と世界と宇宙を愛する聖子になりなさいということです。皆さんはどれになりますか。聖子になりますか、孝子、孝女になりますか。聖子になるには、神様と同じ愛を心にもたなければなりません。(129-96,1983.10.1)


 愛は、生活と歴史から取り除けない、実在の内容を動かしている実体です。そして、社会制度だとかすべてのものを動かしている内的な力の母体です。ですから教育する時も、国家愛を教えます。兄弟愛、父母愛、夫婦愛、世界的な博愛、すべてに愛が入っています。これは何を意味するのでしょうか。人類の生活圏だとか歴史過程を経ながら愛をたどらずには、歴史を連結させることはできないと言っているのです。(187-45,1989.1.6)


 皆さんは、どうしなければならないのでしょうか。忠臣にならなければなりません。忠臣とは何でしょうか。国の中心者のために精誠を捧げるのが忠臣でしょうか。違います。国民のためにも、国の中心者のためにするのと同じようにできる人が忠臣であることを知らなければなりません。孝子とは何でしょうか。父母だけのために精誠を尽くす人ではありません。父母のためにするように、兄弟のためにも精誠を尽くす人が孝子だということを知らなければなりません。
 聖人とは何でしょうか。聖人は世界人類のために今まで犠牲になった人です。聖子とは何でしょうか。神様を中心として世界に行き、神様のためにしたように世界の人々のために尽くせる人だというのです。歴史的な聖人は、今まで世界の人のために死んだ人です。神様の息子である聖子とは何でしょうか。神様にも忠誠を尽くしますが、神様がそうであるように万民のために生きる人です。(133-242,1984.7.19)


 孝子、忠臣、聖人、聖人の次は何でしょうか。聖人であっても、そのまま聖子にはなれないのです。神様の息子になれないというのです。聖子にならなければなりません。いくら国の中心者を愛して国民を愛したとしても、聖子になるためには、天の国の王宮法を知らなければなりません。王宮法によって統治され、そこに拍子を合わせることのできる、他の一つの法を知らなければならないのです。(147-281,1986.10.1)


 本来、孝子は心が変わらずに父母にまっすぐに行く人であり、忠臣は心が王様にまっすぐに行く人です。同じように、聖人は心が変わらずに神様にまっすぐに行く人です。別の言葉で言えば、死ぬ立場になっても、その心が変わらずまっすぐに行ってこそ孝子であり、忠臣であり、聖人になることができます。(97-274,1978.3.26)


 家庭で父母のために生きて愛する人は孝子であり、国のために生きて愛する人愛国者であり、世界のために生きて愛する人は聖人です。皆さんは世界と宇宙を愛する聖子にならなければなりません。そうするには、神様のような愛をもたなければなりません。(129-96,1983.10.1)


 孝子は、家が滅びても生きています。それゆえに、孝子の碑があり、忠臣の碑があり、聖人の碑があるのです。聖子は、聖人とは違います。聖子は、人間世界の国の法だけでなく、天国の王宮法まで守ることを知っている人です。したがって、孝子の道、忠臣の道、聖人の道をすべて直通できるのが、聖子の道です。それは太くて回りも大きいのですが、その核の流れは垂直です。(175-213,1988.4.17)


 人間はどのように生きるのでしょうか。私たちの人生航路の骨子を選び出すと、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道の根本があるはずです。共にいたくて、共に住みたい心、上下にかかわらず共にいたくて、前後、左右、昼夜を超越して、生涯を越えて共に生きたい心に徹した人生ではないでしょうか。このような結論が出てくるというのです。(148-258,1986.10.1)


 人間がどんなに立派だとしても、愛がなければ無意味です。また幸福というものも何を中心として連結されるのかというと、それは愛です。兄弟間、友人間、同胞間、人類間、天地間など、このすべてのものの間を連結させることのできる媒介体が、すなわち愛だというのです。愛は麹のようなものです。(175-165,1988.4.16)


 宇宙を造り、宇宙の法度を立てた神様は、どのようなお方ですか。全宇宙を通して、誰よりも「ために生きる」代表的な位置に立った方です。その方が神様だというのです。ですから、その方に会おうとすれば、ために生きなければならないということです。その方は知識の大王ですが、「知識をもって神様の前に来なさい」とは言いません。能力の大王ですが、「能力をもってきなさい」とは言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり大王ですが、「それを持ってきなさい」とは言わないということです。ために生きて来れば、全員が来ることができるというのです。(133-16,1984.7.1)


 神様が人間の前にいるのは、ために存在しているからです。ですから、千年、万年神様に従っていこうとするというのです。「ために生きる」天理の宇宙の存在世界の前に、自分自身の存在位置を維持するためには、ために存在しなければなりません。ために存在することによって、東洋と西洋に通じることができ、古今に通じることができるのです。神様は、昔も今も、東洋でも西洋でも、すべて同じ愛をもっているので、東洋と西洋を克服でき、過去、現在、未来を克服できるのです。それはどういうことかというと、過去も現在も未来も克服できるので、いつも発展することができ、東洋と西洋を克服するので、東洋と西洋を統一できるというのです。これは愛においてのみ可能なのです。(187-89,1989.1.6)


9)自然愛

 ①神様が万物世界を造られた意義


 神様は、なぜ万物を造られたのでしょうか。人間に愛する対象を、対象者をもたせるためです。人間に愛する対象圏をつくるためです。人が食べて暮らして、その本然の世界に戻ってきて、永遠なる神様の愛の本国に入って生きるためです。それを知らなければなりません。(142-76,1986.3.1)


 今日、キリスト教の信者たちは、「神様は全知全能なので、一言『このような天地になれ』と言ってこのようになった」と考えています。しかし、そのようにはなっていないのです。神様は、すべてのものを投入したのです。もっている精力をすべて投入したのです。もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてつくったのです。ゆえに、そのような観念をもって私たちが万物を眺めなければならないのです。(112-306,1981.4.25)


 神様が被造世界を造られるとき、そこには喜びがありました。造っては、それを見て良しとされました。喜びがあったというのです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたとき感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在されていたので、創造された万物を見て、神様は喜びを感じられたのです。
 それでは、復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体を見ながらも、神様を褒めたたえることができる心情的な因縁を立体的に備えた人たちが暮らす世界です。天が御覧になる人格の価値は、そこにあります。
 それで、昔、聖フランチェスコのような人が動物に向かって、あるいは鳥に向かって説教したという話もうそではありません。夢のような話です。けれども、夢ではなく事実です。(9-168,1960.5.8)


 被造世界のすべてのものは、神様が愛する息子、娘が愛の理想を見つけ出していけるように、教材として造っておかれたものです。それで相対的構造なのです。鉱物も主体と対象の関係として作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係として作用するのです。作用しなくては存続できないのです。運動しなくては、永続、存続することができません。
 それゆえ、宇宙は人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界なのです。(137-59,1985.12.18)


 宇宙は、神秘的な世界です。神様がいたずらや遊びの材料として造られたのではなく、精誠を込めて、愛する人間のために造ったとするならば、はたして、この世界はどれほど美しいことでしょうか。ですから、私たちがこの宇宙を眺めるとき、天の父が私のために造られたという、この上ない有り難い心をもたなければなりません。そのような心をもって、丘を散策し、草木や花を眺め、鳥を眺め、水が流れるのを見て、風が吹く、このようなすべてのものを見れば、本当に感嘆せざるを得ません。(87-319,1976.6.27)


 宇宙の完成は、外的な世界も良いのですが、内的な私自身、私も良くなければなりません。良いところにおいては、心もうれしく体もうれしくなければなりません。私の細胞を見れば、細胞の全部がうれしくなければなりません。目の細胞と足の裏にある細胞は違うでしょう。違うのですが、その細胞がすべて喜んで、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心のどこの一つすら残さずに全体が喜ぶことができ、それがただ離れているのではなく、一つにつながり、連体的な内容を中心として共鳴的な愛の喜びを感じられる、そのような世界であってこそ宇宙完成になるのです。(166-210,1987.6.7)


 因縁というものは、極めて小さい所から結ばれるのです。皆さんの個体も、400兆ほどにもなる細胞で因縁が結ばれている生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物は、どれ一つとっても、神様の心情の枠外で生じたものがありません。このようなことを感じる詩人は、偉大な詩人です。1枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいるとすれば、その人は宇宙的な詩人であるはずです。
 私たちの周囲で私たちも知らずに繰り広げられている天下万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っているということが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であるということは否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子……。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ゆえに、存在するすべてのものは、神様の愛の手を通って出てきたものでり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を徹頭徹尾知らなければなりません。(9-168,1960.5.8)


 道人とは、どのような人ですか。草一株をつかんでも「神様!」と言える心情で、自分の価値と同等にその価値を認識できる人が最高の道人であるはずです。そのように、その価値を謳える人が最高の芸術家であるといえるでしょう。色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表し得る人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。(9-168,1960.5.8)


 ②自然は愛の理想を教えてくれる教材


 人間は大きくなっていきながら、自然を見て習得します。「昆虫の世界はこうなっているのか!」と学ぶのです。月が照り、星が光る秋の夜、耳を澄ませてみると、虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏に聞こえます。何のために虫たちがそのように鳴くのでしょうか。それは相対を探し求め、理想を歌っているのです。愛をささやいているのです。鳥や、他のすべての動物たちも、悲しい声、うれしい声を何で表示するかといえば、愛という共通分母に従って鳴き声を出すのです。等級は低くく、軸から遠い距離にありますが、その軸を中心としてバランスをとりながら回っています。すべての存在がそのようになっています。(137-59,1985.12.18)


 鳥たちの歌には三つの種類があります。第1に、おなかがすくときに合図する歌であり、次は、互いに愛する相対のために歌う歌であり、その次は、危険なときに鳴く歌です。それは、すべて異なっているのです。普通の人たちには分かりませんが、自分たちの世界ではすべて分かっているです。おなかがすいて鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活が何を中心として成っているのでしょうか。おなかがすくことなどは、一度食べれば終わるものなのです。そうかといって、毎日のように何か危険な立場にあるのでもありません。大部分の歌は、何を中心として歌うのかといえば、相対と授け受けする関係で、歌が行ったり来たりするというのです。(137-211,1986.1.3)


 人間は、主体と対象、すなわち相対的なペアに造られていて、また人間のために存在するすべての万物世界も、愛の原理のもとに調和をなし、また人間の愛により生命と理想を実現するようになっています。万物世界は、人間にとって、特に成長するアダムとエバにとっては、愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。(135-12,1985.8.20)


 すべての鳥や動物は、対になっています。お互いが愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が、愛を中心として和動を繰り広げます。渡り鳥も同じです。南方にいた鳥が北方に飛んでいき、北方にいた鳥が南方に飛んでいき、地域を行き来しながら愛を成します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神様が造られた博物館の教材を通して学びます。
 人間と神様が喜び、愛せば、天下のすべての万物たちはそこに拍子を合わせて和動します。神様が愛し、喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜び、拍手を送り、称賛を送ります。歌える鳥は、歌を歌って褒めたたえ、美しい花は、香りを放って褒めたたえます。最高の愛の主人公たちが楽しむことができる香りの雰囲気を拡張させるためのものが、この被造世界です。見かけがぞっとするようなひきがえるも、愛を交わすときには「うっうっうっ」とします。どんなに素晴らしいことでしょうか。足をたたいて、後ろ足を上げたり下げたりしながら愛し合っているその姿は、どんなにすてきですか。それは、最高の芸術です。(142-273,1986.3.13)


 春になって鳥が歌を歌えば、その鳥の歌を聞くやいなや、自分の妻を思い、自分の子供を思い、自分の国を思い、世界を思い、神様まで思わなければなりません。そうすれば、すべて完了です。鳥は鳥同士でのみ考えますが、人間は関係性をもっています。動物世界、植物世界、天上世界の中間媒介体としての関係性をもったのは人間だけの特権です。すべてを連結させることができます。これは人間だけの特権です。(131-125,1984.4.22)


 アダムとエバは、成熟していくに従って、「ああ、あんなふうに愛するのだなあ!」と知るようになります。神様は万物世界を、人間の愛の理想を成熟させることができる教材として広げておきました。それを学んでいくのです。だんだん大きくなるに従って、「ははあ、昔は妹のように、お兄さんのように一緒に過ごしていたのに、よくよく見れば……」と、このように感情が変化します。「あ、こうなんだ!」と学んでいきます。それで「お前と私は死んでも会わなければならない。他の所には行けない」といって、平衡線を直行しながら出くわすようになります。(137-59,1985.12.18)


 愛は神経と同じです。私たちが髪の毛を1本引っ張れば、体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば、宇宙が引っ張られ、愛さえ動けば、宇宙がすべて和するようになります。そのため、愛があれば踊りも踊るようになります。踊りはなぜ生まれましたか。愛のために生まれました。また、歌も愛のために生まれ、笑いも愛のために生まれました。愛を取り除いてしまえば、すべてが固まってしまいます。(89-90,1976.10.4)

 

 人は、蜂よりは蝶を好みます。蝶は、踊りを踊りながら飛ぶからです。すべて飛ぶものは、拍子に、調子に合わせて飛びます。早く飛ぶものも拍子に合わせて飛び、ゆっくり飛ぶものも拍子に合わせて飛びます。飛び方は様々ですが、いずれにしても全部拍子に合わせて飛びます。また、山で鹿が跳び回り、うさぎが遊ぶのも音楽的です。何かを食べるのも音楽的です。人も、何かを食べる時、とても音楽的です。それは、すべて音楽の象徴です。このように考えるとき、そのようなこの宇宙を永遠に私のために造り、私のために取り付けたとすれば、その方に対して私たちは、有り難く思わなければなりません。見物人のように、隣村のことのように考えてはいけません。
 山にも高い山があれば低い山もあります。それでは、私たちは山が高くもあり低くもあるのが好きですか、のっぺりしていて平坦なのが好きですか。高くもあり低くもあるのが好きです。それはなぜでしょうか。その形が踊りを踊ろうとするある型を具備しているからです。あらゆる形の曲線を描きながら、上がっていったり、下がっていったりしながら、様々な形態を表現しながら形づくられているからこそ良いのです。そうなれば、それが正に踊りです。自然の中には、素晴らしい踊りがあり、素晴らしい音楽があります。素晴らしい芸術があります。それらのものが自然の中には実にたくさんあります。(87-321,1976.6.27)


 最初に神様の子女として生まれたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼かったところから成長していくに従って、だんだん大きくなっていくのです。そうして、知能も発達していくので、神様がなぜ被造世界を造られたのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けてくるのです。被造世界で動くすべてのことは、私たちの人間始祖、本来の先祖になるべきアダムとエバが生活できるように、すべてのことを教えてくれる教材でした。完成したアダムエバではないので、理想生活をしていくにあたっての標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。(137-126,1986.1.1)


 朝、目を覚まして自然を眺めれば、その自然がおぼろげに私の本性と因縁を結び、新たな理想の感情を芽生えさせます。しかし、人間社会は眺めれば眺めるほど、絶望と悲しみの感情を高めてくれるという事実をよく知っているでしょう。本来、堕落しない本然の人間たちが住む世の中であるならば、人間の価値は、そのように眺める者をして、悲しみを感じさせる程度のものではないのです。草一株や、花一輪、一本の木と同じ程度の価値で造られた人間ではないのです。被造物のその何ものを与えても替えられない高貴な人間であり、その何ものにも比べられない価値の姿で、天上に代わって現れるべき人間でした。(9-97,1960.4.24)


 神様の愛が宿っている自然を眺めて、「世の中の王様、あるいは有名な人がもっている見事だという品物に比べられるだろうか。骨董品と比べられるだろうか。ある有名な婦人が着ている豪華な服と比べられるだろうか」という心をもたなければなりません。そのようにできなければ、私たちは、自然世界の前に、自分でも知らずに罪を犯しているのです。一つの生命体を見るとき、「人間が造ったある物に比べられるだろうか。どんなに素晴らしい人であっても神様より素晴らしいだろうか」といって、神様が心情を傾けて造られた万物をつかんで、何よりも貴く感じる者がいるとすれば、この人は間違いなく天の息子、娘であるはずです。このような人は、祈祷が必要ありません。神様と共に暮らす人です。天は人間を、そのような位置まで駆り立てるのです。(9-176,1960.5.8)


 自然は、どんなにつまらないものでも、そのどんなものとも比べられません。道端に価値なく立っている1本の木も、有名な画家が描いたどんな絵画とも比較ができません。どんなに名のある画家が最高の傑作品として花を描いたとしても、描かれたその絵画からは、いくら凝視しても花は咲きません。香りもしません。また、種も結べません。しかし、価値なく道端に立っている木からは、花が咲き、実を結び、種を残します。そして、その種を植えれば、その木よりも良い木がいくらでも出てくるのです。ゆえに、その有名な画家が描いた絵画とも比較できません。
 人間は、自分が愛する人のものは何でも好み、慈しみます。しかし、一番愛さなければならない神様が造られた万物を慈しむことを知りません。このような人たちが神様の息子、娘になれますか。嘆息している万物の恨を解怨してあげるべき責任を負った皆さんは、1本の木、一株の草にも6000年前にそれらを造られた時の神様の心情と、創造に差し伸べられた手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。
 そのため、道を歩いていて、一株の草を見ても、涙を流すことができなければなりません。1本の木をつかんでも、泣くことができなければなりません。「主人を失ってしまってどんなに寂しかったことか」と言いながら。ここで話をしている文鮮明先生は、たくさん泣いたのです。岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見て泣いたのです。なぜ、そうでなければならないのか、今、み言を聞いたから理解できるはずです。(9-176,1960.5.8)


 「神様が造られた価値のある万物が、神様と共に永遠なる因縁を結んだ貴い万物が、今日、ある王宮で、国宝だとか宝物だとか言われて貴ばれている品物ほどの扱いも受けることができないやるせなさを、私は分かってあげなければ。私だけは分かってあげなければ」と思いながら生きてきました。「この地上に生きている世界人類がみな分かってくれなくても、私は分かってあげなければならない」という心を皆さん方がもつならば、この民族が将来、世界人類を支配できる新しい民族になるはずです。これは観念でなく事実です。どこの誰が万物をおいて、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物より、世の中で一番貴い宝石だというダイヤモンドより、貴く思って手放さないようにしますか。そのような人がどこにいますか。神様は、御自身が造られたものを心情的に理解してくれ、それをつかんで涙を流す人を見て「良し」と言われるのです。(9-177,1960.5.8)


 自然とは何でしょうか。神様が私のために、ために生きる愛をもった息子、娘が生まれる時、ために生きることのできる万物として、贈り物として下さった展示品です。鳥の鳴き声一つが、成長していく草一株が、愛する息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。路傍にころがっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知っていて、その国の装飾品としてつくったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、造化無双の和合の園として、愛のためのそのような世界を見て、その相続を受けることができる夢の王子、希望の王子を造るために創造されたのです。
 そのため、万物を通して学ぶのです。雄と雌が「ちゅんちゅん」するとき、これをその主人になるおばさんも学べというのです。互いに慈しむ世界に向かい、自分の一生を命を懸けて生きている本然の被造世界のその美しさを、褒めたたえられなければなりません。そのようになれば、その家の垣根に鳥も飛んできて暮らそうともするのです。雛を産もうとするのです。何の話か分かりますか。(175-187,1988.4.16)


 博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したのかというのです。自分の国の博物館以上に愛したのかというのです。道端で踏まれるたんぽぽ一株が、博物館にある新羅時代の金の冠と比べられますか。神様が直接つくられたものであるのに。そのような神様の心情をもって、「お前を、本然の神様が慈しむことができる王の位置で、愛を受けたその位置で、愛せない私自身が申し訳ない。恥ずかしい」と言い得る心をもって慈しむ、そのような王がいるとすれば、その草もその王に従っていき、永遠不変、共にいたいと思うでしょう。そのように生きなければならない人間なのです。(175-187,1988.4.16)


 自然を愛し、人を愛するすべを知らなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができない、ということを知らなければなりません。万物は神様の象徴的な存在であり、人間は実体的存在であるために、万物と人間を愛するすべを知っている人は、神様を愛するようになるのです。(70-181,1974.2.9)


 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも、五色人種をすべて愛さなければなりません。「ああ、私は白人たちだけが好きだ」と、神様がそのように言いますか。そうであれば、すべて白い服のみ着なければなりません。白人たちはみな、白い服のみ着なければなりません。色の付いた服は、すべて捨てなければならないのです。黒い服をどうして着ますか。色の付いた服をどうして着ますか。矛盾しているのです。(133-28,1984.7.1)


 神様が造られたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。すべて、虫けらまで愛し、人はいうまでもなく、すべての天にあるものまで、無形のもの、有形のものを愛することができ、愛を受けることができる皆さんにならなければなりません。朝、鳥が「ちゅんちゅんちゅん」と鳴くときは、「やい、このすずめ、私が朝寝しようとするのに何でちゅんちゅん鳴くのか」と言わないで、「ああ、お前、有り難い、ああ、私を起こしに来たのだろ、大切なお客様が私に会いに来るのをお前が教えてくれるのか」と、このように考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。(112-219,1981.4.12)


(2021.11.4:写経奉献)

 

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