「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(21) 第4巻『真の家庭』 第4章 愛を中心とした人生行路

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第4章 愛を中心とした人生行路

1)人間はなぜ生まれたのか

2)愛を中心とした創造本然の人生

3)人間の永遠なる生命の要素は愛

4)神様の愛はどのようなものか

5)愛と喜びの相続のための神様の祝福

6)愛の中心を求めていく人生行路

7)3時代を行く人生路程

8)地上生活は霊界の拍子に合わせるための訓練場所

 

 

1)人間はなぜ生まれたのか

 

 生命が先か愛が先かというとき、互いに「先だ」と言うことができますが、果たしてどちらが先でしょうか。愛が先です。宇宙の根本は、存在の起源に先立って愛の流通がなくては、存在価値は出てこれません。(143-277,1986.3.20)

 

 私たちの生命の起源がどこなのかを考えるとき、生命が先か愛が先かということが問題です。今までこれを見分けることができませんでした。生命が先ではなく愛が先です。あとになったものは、先になったものに順応しなければならないので、愛のためには生命を捧げるのが当然なのです。このように、これは収拾しておかなければなりません。
 そのようにすれば、人生を真に生きる道はどこなのかということが出てきます。人生が愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出てきます。小宇宙ではなく大宇宙が歓迎できる愛を探して、神様が公認され、天使世界が公認し、万物が、ひいては父母が公認できる大宇宙の愛の中に生まれ、その中で愛し、死んでいくのが人間が生まれた目的だと見るのです。(83-164,1976.2.8)

 

 人間とは、自分が希望して生まれた存在ではありません。それでは、お父さんとお母さんの希望によって生まれたのでしょうか。そうではありません。神様の希望によって生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して、新しい生命体として生まれたのが「私」です。
 そして、愛は全体を創造する力をもっています。宇宙の愛のすべてを受けて、全宇宙の中心的な存在として生まれたのが、正に「私」です。
 愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、また愛を残すのが人生における最高の目的です。
 自分の家庭で、宇宙の中心である愛の使命を果たすことが最も価値ある事です。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1063)

 

 人がなぜ生まれたか、ということを知らなければなりません。人は、知識や権力ゆえに生まれたのではありません。人は、愛のために生まれました。また、愛から生まれました。それでは、愛はゆえにそのように偉大なのでしょうか。それは、生命の源泉であるからです。
 皆さんは、父母の愛の中から生まれたのです。お金を数えたり、知識を追求する所から生まれたのではありません。このように愛の中で生まれたので、愛によって結実しなければならないのです。ですから、子女が必要なのです。
 夫婦が一つとなり、息子、娘という相対がいるとき完全なのです。人間自身も愛を離れては存在することができません。ですから、「私」という存在は、愛を根本として生きていくのです。すべての万物も、その存在の始まりが神様の愛から出発しています。
 万物の存在が愛を根本として始まったとすれば、彼造世界の中心存在である人間は、より一層愛によって出発した存在であることを否定できないのです。人間は、愛から出発し、愛によって円熟するので、愛の基準を離れては生きることができない存在なのです。(祝福家庭と理想天国I-1062)

 

2)愛を中心とした創造本然の人生

 

 人間というものが存在するようになった原因は何でしょうか。人間は愛から始まったのです。
 それでは、人間存在の目的は、どこにあると考えますか。人間という存在の目的は、愛の理想を完成することです。人間が愛を原因として存在するようになったので、愛の基台を成して、拡張させ、連結して完成することが目的となるのです。
 すなわち、出発が愛なので、目的も愛をもって到達しなければならないというのです。そのようにするためには、相対的関係にある男性と女性が愛を中心として一つになり、前後、左右、上下に連結できなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1064)

 

 私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこで喜ばなければ何の意味もありません。生きて生活するのが喜びでなければなりません。
 生活するのは目的のためにするのです。その目的を成就したとき、そこには存在、それ自体以上の新しい何かがあるのです。それは何でしょうか。男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らにとって何よりも貴いものは何でしょうか。愛です。
 愛だけが、これと連結させ得る幸福の要因となるのです。人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管すべき主体的な愛の権威を立てられなくなるときには、再び新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点が愛より上にはなり得ないのです。(29-130)

 

 皆さんは、何ゆえに生きていますか。食べるために、と答える人もいるでしょうし、あるいは仕事をするために、または何の目的もない生を生きているという人もいるでしょう。
 人間は、何のために生きるのでしょうか。愛のために生きるというなら、どれほど素晴らしい答えかというのです。
 人間は、愛の結実として生まれ、愛し合いながら生き、永遠なる愛である神様の懐に帰るようになっているというのが創造本然の生なのです。(祝福家庭と理想天国I-1064)

 

 愛によって生まれ、愛の中で成長し、さらに異なる次元の愛に連結されるのは、父母の愛を離れ、相対の愛を求めていくことなのです。父母の愛は蘇生的愛ということができ、夫婦の愛は長成的愛ということができます。夫婦同士がいくら愛し合っても、子女がいなければ愛の完成を見ることは出来ません。ですから、子女を願うのです。これが完成的愛です。ですから、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を経る過程が生涯の根本であり、神様の創造的愛の理想の根本となる道です。(48-12,1971.8.31)

 

 生命は愛から生まれます。愛から生まれ、父母から愛を受け、愛によって成長して、愛する妻に出会ってまた愛し合い、その愛の中に死んでいきますが、これが人生なのです。ですから、悲しみと苦痛はあり得ないのが本来の人生なのです。(祝福家庭と理想天国I-1065)

 

 本来の宇宙の根本位置は、愛を中心として総合的に縦横、同時に結合できる基準となることによって、父母の愛と夫婦の愛、子女の愛が結合できる根本位置となります。その位置は、全宇宙が集中する位置となり、全宇宙の細胞の方向が集中する位置となります。霊界の善霊たちがすべてここに集中します。
 それだけでなく、この位置を誰も侵犯できないように保護するようになっているというのです。ですから、この位置が破壊されれば、大変なことが起こるようになります。ですから、完全に保護されるためにはある形態が必要なのですが、その形態を統一教会の用語で「四位基台」というのです。(祝福家庭と理想天国I-1066)

 

3)人間の永遠なる生命の要素は愛

 

 人間は、胎児の時、お母さんから供給される栄養を受けただけでなく、愛を供給されたことを忘れてはならないでしょう。それと同じように、地上で暮らしている人間たちも、宇宙(自然)から物質的な栄養を供給されているだけでなく、生命の本質的要素である愛を神様から供給されているのです。
 すべての植物が太陽の光を生命の要素として吸収するのと同様に、人間たちには、愛が生命の要素となるのです。私たちの希望は、永遠に愛と共に欽慕しながら暮らせる地上天国や天上天国が建設されることです。
 人間は、生まれる時、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。
 しかし、ある程度まで成長すると、父母の愛だけでは足りなくなり、兄弟間の愛と氏族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天地間のすべての愛を受けながら成熟していくのです。
 特に思春期に近づくと、異性間の愛を求めるようになりますが、異性間の愛によって総合的な愛の圏内に進入するようになり、初めて愛の中心を求めていけるようになるのです。男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。「私」の道は、愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を成すために行くのです。女性が化粧をしたりマッサージをするのも、愛のためです。何かを願うのも、仕事をするのも、すべて愛のためなのです。高貴な愛を得るために苦難に打ち勝っていくのです。(祝福家庭と理想天国I-1066)

 

 私たちは、生まれる時から父母の愛を受けるのであり、父母が生存している限り、少年時代、青年時代、壮年時代などの時代を問わず愛するのです。父母の愛を受けて成長するようになれば、横的な夫婦の愛が各自に生じるようになっています。(祝福家庭と理想天国I-1067)

 

 結婚とは何でしょうか。男性は女性について知らなかったことを学ぶために、女性は男性について知らなかったことを学ぶために家庭という学校に入学するのです。すべての履修単位がAプラスになってこそ、夫も喜び、妻も喜ぶのです。息子、娘を生むのは、世界を愛する方法を学ぶためなのです。息子、娘がいなければ未来と連結されません。未来の世界と連結するための教育の材料として息子、娘を与えたのです。そして、先祖たちやおじいさん、おばあさんの前に孝行の道を行くのは、霊界からの教育を受けるためであることを知らなければなりません。このすべてのものが、愛を中心として連結されます。おじいさんとおばあさん、夫と妻、息子、娘が一つの愛を中心としてすべて連結されているのです。
 人体の血管のように、霊界の千万代の先祖までも上がっていって降りてくることができ、遠い子孫までも通じることができるのです。つまり、これが霊界の組織であり、宇宙の組織だということを知らなければなりません。すべてがそこに征服されてしまうのです。愛の僕となり、愛の奴隷となるのが最大の幸福だということができます。(祝福家庭と理想天国I-1067)

 

4)神様の愛はどのようなものか

 

 皆さんが神様の愛を一度調べてみてください。神様の愛をどのように表現することができるでしょうか。
 それは、ちょうど暖かい春の日和に、空には白い雲がふわりと浮かんでいて、地にはかげろうがぼんやりと立ち上がり、虫が歩き回り、ありたちも世の中を見物しようと這い出たり、戻っていったり、さらさらと流れる小川のほとりには柳が芽を出し、かえるが春の日和の新しい歌を歌い、花々が、群れを成して飛び交う蜂や蝶を喜ぶ、そのような環境では酔って眠り込んでしまうようですが眠り込まず、気分が良くて永遠に「いいなあ」と言える、そのような味だというのです。
 神様が求められる理想相対を中心として感じる気分は、蝶が飛び、蜂が飛んでくる花の園のようなものです。これは、考えただけでも気分が良いですか、悪いですか。この鈍い男性たちは、それを知らないでしょう。それは、気分が良いというのです。懐かしい人に会えば、手をぎゅっと握って握手をします。握手するとき、懐かしくて、「ああ、これは久しぶりだ」と言いながら手をぎゅっとつかめば、気分が良いですか、悪いですか。気分が悪いという人がいれば、「えい、こいつめ」と言って足でけ飛ばしてしまいなさいというのです。懐かしければ、手をぎゅっと握りますか、握りませんか。皆さんはそうすれば喜びますか。(「喜びます」)。喜びたいと思っているだけでしょう。どうして「喜ぶ」と分かるのですか。知ってこそ喜ぶのであって、分からずにどうして喜ぶのですか。そのように喜んでてつかめば、手をほどくことができないというのです。
 ここにいる若い女性たち、お嫁に行って夫が自分を愛してくれれば、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。一度考えてごらんなさい。良いでしょうか、悪いでしょうか。
 人は率直でなければなりません。愛してくれるなら、この世の中にうらやむものはないのです。いつも夫の横にぴったりくっついて暮らすのです。男性が牛の前足のような手で、女性の手をぎゅっと握ってあげることは良いことです。
 映画を見ても、そのような映画を見たいと思うのです。女性が男性に、「まあ、あなたの手は本当にきれいね」と言えば、気分が悪いというのです。そのようになっています。
 愛は、永遠です。愛は、二つでなく一つです。一つになるということです。男性と女性がカップルをなして愛し合えば、ぴったりくっついてしまうのです。そこまではいかなくても、これ以上の心情まで行くというのです。それが正に神様の愛だというのです。そのような愛をもって暮らせば、一つになるでしょうか、ならないでしょうか。考えてごらんなさい。すべて一つになるようになっているのです。(祝福家庭と理想天国I-1068)

 

 男性と女性の間で愛し合うようになれば、ありとあらゆることが起こります。そうでしょう? しかし、神様を尋ね求めていく道を知り、神様の愛を本当に味わえば・・・・・・。その神様の愛は、この世のどのようなものとも比べることができないのです。そのような愛を味わった人がいれば、どのような苦難も彼を占領することはできず、どのような悲しみも彼を占領することはできないでしょう。そのような絶対的な解放の圏があるのではないですか。これを見いだすことが問題となるのです。(39-240,1971.1.15)

 

 神様の愛は、大きく3大愛として現れます。それは、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。この3大愛が一つに一致する中心は神様の愛です。(173-278,1975.11.23)

 

5)愛と喜びの相続の為の神様の祝福

 

 神様において、一番の栄光の時は、肉体をまとうことができる時です。その次には、愛することのできる人(夫婦)をもつ時であり、その次には、孫を愛せる時です。息子、娘より孫を愛せる時が一層栄光の時です。
 ところで、神様がアダムを造られて、どれほど良かったかということを、どのように教えてあげたのでしょうか。「やあ! 私はお前を造ってこんなに良かった」ということを教えてあげなければなりませんでした。それは、息子、娘を生むことによって教えてあげられます。分かりますか。人は、幼い時、父母の愛がどのようなものかを知りませんが、あとで家庭を築いて赤ん坊ができるようになれば、父母の愛がどのようなものかを知るようになるというのです。自分の父母が私を育てるとき、このように愛してくれたのだと知るようになっています。
 ですから、子女が相対を得る日が栄光の日であり、その次には、その息子が子女を得る日が栄光の日です。(祝福家庭と理想天国I-936)

 

 神様の愛を知らなければなりません。父母の愛を知り、父母に侍ることができなければならず、夫の愛を知り、夫に侍ることができなければなりません。子供の愛を知り、子供に侍ることができなければなりません。子供に命令をするだけではなく、侍ってみることもできなければなりません。理解することもできなければなりません。そのようにしてこそ、神様の愛が理解できます。子女がいなくては未完成状態です。神様の愛を知ることがができません。
 神様が子女としての人間を、どれほど愛したのか分かりません。また、夫になってみなくては妻が分からず、妻になってみなくては夫が分かりません。子女も、父母になるまでは、父母の愛がどのようなものかが分かりません。ですから、息子、娘がいなければ、真なる父母になれないのです。(133-138,1984.7.10)

 

 父母が子女の結婚を願うのは、子女たちに父母の愛をすべて相続させ、伝授してあげたいからです。父母は死んでいきながら、子孫にその実体を残しておきます。ですから、子孫が必要なのです。
 愛は永遠に続くのです。愛は、人間の最高の願望なので、万民が両手を挙げ、相続しようとします。その愛を残しておくことにより、霊界でも堂々と神様の前に出ていく事ができます。
 そのような愛を完遂できる所が家庭です。家庭を通して天国に行くということは、すなわち、そこにおいて愛の一休圏が成されるということです。(祝福家庭と理想天国I-937)

 

 人間は、原理原則に従っていかなければなりません。春になれば種を撒き、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になればすべて整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そのようにしてこそ、再び春を迎えるようになるとき、また種として植えることができるのです。
 これは何の話かといえば、これから皆さんは、父母となり、皆さんのような息子、娘を生まなければならないということです。皆さんの息子、娘を、皆さんのように育てなければならないというのです。(26-158,1969.10.25)

 

 皆さんは、息子、娘がいなければなぜ寂しいですか。それは、サークルラインを形成できないからです。鳥たちが雛に餌を食べさせてあげるのを見たとき、母のこの上ない愛を知るようになります。西洋の人たちは知りませんが、東洋では大人より子女たちを好みます。大人たちに向かっては礼儀正しく敬いますが、息子、娘たちにはこの上ない愛を惜しみません。息子、娘を生み育ててみることによって、父母が子女をどれほど愛したのかを悟るようになります。
 人間は誰でも、結婚をしたのちに子女を生み育ててみなければなりません。そのようにしてこそ、子供の愛と父母の愛を所有することができます。
 しかし、西洋の人々は、そうではないようです。息子、娘を生み育てることを、忌避しています。息子、娘が、結婚して離婚するのに妨害になるという考えゆえに、自分の子女をもつことをはばかっています。しかし、人間は、生まれて四位基台を成せなければ、神様が人間を愛する心情を知り得ないので、天国に行けまぜん。(祝福家庭と理想天国I-937)

 

6)愛の中心を求めていく人生行路

 

 人間は、愛によって生まれ、父母の愛の中で大きくなり、横的に愛を広めながら成熟するようになります。横的な愛は、異性の相対に出会うと1段階、愛を完成するようになり、天地の愛を代表できる基準に人れば、その実を結んで子女を身ごもるようになるのです。子女は、核心的な心情の立場から生じた愛の結果として生まれるようになります。
 男性と女性が心情的に愛し合って生まれた息子は、愛の核心に通じる道をつくってくれ、その中心を通過すれば、正に神様と出会うようになるのです。人間は、愛の実として子女を身ごもることによって、神様が万物を創造し、人間を創造されたときの愛を体恤するようになるのです。また、父母の愛として生まれて受けた愛を、子女を愛してみることによって、父母の心情を体恤するようになるのです。父母が子女に注いできた愛は、物質的な愛ではなく、本質的な愛です。
 天地が変わっても、歴史時代が変わっても変わらないのは、父母が子女に与える愛です。父母になって子女を愛することによって、神様が人間をどのように愛してこられたのかを考えることができるようになり、体験を通して確認するのです。父母になって子女を愛することによって、父母が私をどのように、どのくらい愛してくれたのかを感じて悟るようになります。
 そして、老いた父母に対してさらに敬い、愛によって孝行の道理を立てるようにするのです。そのようにできなければ、父母としての資格がないだけでなく、子女に対する愛も偽善だといわざるを得ないでしょう。
 人間は、父母になって子女を愛してみることによって、神様が人間をどれだけ愛してこられたのかを感じて悟らなければなりません。また、神様を一層心から愛さなければなりません。子女に対する愛よりも老いた父母をもっと愛さなければならず、老いた父母に対する愛よりも神様をもっと愛さなければならないのが愛の秩序であり、法度であることを知らなければなりません。
 人間は、生まれる時、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。しかし、ある程度まで成長すると、父母の愛だけでは不足になり、兄弟間の愛と氏族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。
 すなわち、天宙間のすべての愛を受けながら成熟していくのです。特に思春期に近づくと、異性間の愛を求めるようになりますが、異性間の愛によって総合的な愛の圏内に進入するようになり、初めて愛の中心を求めていくことができるようになるのです。天地は球形の世界なので、横的な愛を授受し、回転しながら円形を一次的になすようになります。
 特に異性を相対者として選び、愛し合うとき、その結実として子女を身ごもって父母になりますが、このときお互いが愛を授受して回転するようになれば、横的な愛に続いて縦的な愛も実現するようになり、球形世界を成すのと同時に愛の中心を求めるようになるのです。
 愛の運動を通して生じた愛の中心は、すべての被造世界の存在の核でもあります。地球が存在するのも、この愛の中心を中心として運動を続けているからです。そこは、愛の中心運動を継続できる無限な力が集まった所です。このような愛の球形を通じて生じた中心は、間違いなくその場に神様がいらっしゃる所でもあります。
 ですから、世の中に存在するすべての被造物は、神様の愛によって創造されて存在し、神様の愛の中心を求めていくのです。神様は、正に愛の溶鉱炉であられるのです。(126-245,1983.4.24)

 

7)3時代を行く人生路程

 

 人間は、お母さんのおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるようになっています。人間は、この世に生まれる前には、お母さんのおなかの中で10ヵ月を過ごします。おなかの中にいる時、幼い胎児の自由には限界があります。胎児は、お母さんの栄養をへその緒で受け取って育つとき、2つの手を開いたり閉じたり、口を開けたりすぼめたり、2本の足でばたばたするのが精いっぱいです。しかし、その胎児には、お母さんのおなかの中が自由天地であり、生の全領域なのです。その胎児は10ヵ月目にこの世に生まれて育つようになりますが、それ以後の世界が、今日、私たちの生きている現在の地上世界であり、人間社会なのです。(祝福家庭と理想天国I-1071)

 

 人は、なぜ生まれたのでしょうか。愛のために生まれました。ですから、真なる父母の愛に根を張り、お母さんとお父さんの保護と愛の懐である腹中で育ち、20歳まで分別なく父母から大切に育てられ、汚い物でもそれを忘れて、すべてを喜んで消化できる愛の中で成長してから、愛の相対者に出会い、互いのために天理の愛に接ぎ木されなければなりません。そのような人生の過程を歩みながら、神様の愛がどのようなものかを体験すれば、神様の対象愛の実休圏が完成するので、息子、娘を生んで愛するようになるのです。(143-285,1986.3.20)

 

 この世に生まれた人間は、胎児期のお母さんのおなかの中に比喩される宇宙で、生を生きているのです。一言で言って、お母さんの懐のような宇宙で、人間の100年の生涯を生きているのです。胎児がお母さんのおなかの外にある人間の世界を知らなかったように、今日、地上世界で生きている人間たちは、死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいるのです。
 お母さんのおなかの中では人間世界を知らなくても、実在として人間世界があったように、死後の世界もあるだろうと、ただ漠然とした心証をもっているだけなのです。
 しかし、はっきりとしていることは、人間の死後の世界に対する心証的な存在可否にかかわりなく、確実に存在しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知できる五官作用外にあるので、宗教を通した信仰をもって不信を克服しなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-1071)

 

 人間には3時代があります。動物界にも水中時代があり、陸上時代があり、空中時代があります。すべてのものが3時代を経なければならないのです。
 ところで、人は、万物の霊長であり、すべての万物を主管できる資格を備えるためには、人にも水中時代があって、どのような存在よりも完全な生活体を備えなければなりません。次に陸上時代においても、どんな動物よりも最高の資格をもった存在でなければなりません。次に、空中時代がなければなりません。
 しかし、人間には翼がありません。翼がないのにどのようにして飛ぶ事ができますか。飛び回るのは、どのような鳥よりも、どのような昆虫よりも、高く飛ぶことができ、遠くまでも飛ぶことができなければならないのです。そのためには、どのようにすればよいのでしょうか。それは、実体である肉身ではできません。いくらジャンプしても、あまり行かないのです。
 しかし、人間は、万物の霊長であり、神様が霊的な存在なので、主管圏や相対的な立場に立つためには、その活動舞台が神様と同じでなければなりません。
 今日、電気や光でいうならば、光の速度は1秒に30万キロメートル行きます。それよりも、もっと早く作用することができるのが人間です。それが正に霊人体です。(112-202,1981.4.12)

 

 私たちは、この世に住んでいますが、この世の中だけがあるのではなく霊界があります。それでは、私達が行くべき所、私たちが行って住むべき所はどこでしょうか。霊界です。霊界とは、愛の空気が充満した永遠の世界です。ですから、一生は永遠の世界に入るための準備期間です。(140-121,1986.2.9)

 

8)地上生活は霊界の拍子に合わせるための訓練場所

 

 私は、霊界での体験をたくさんもっていますが、霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は、地上で、空気を吸ってガスを吐き出しますが、霊界では愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心として授け受けするようになってはいません。霊界で授け受ける愛は真なる愛なのです。(146-267,1986.5.15)

 

 皆さんが霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。すなわち、父母、兄弟姉妹、夫婦、子女に対する愛を十分にもった者、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受することができるでしょう。彼は、何の制限もなく、どこでも、どの方向にでも行く事ができます。その反対に愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人孤立していて自由が全くありません。
 父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係なのです。この三つの関係は、互いに異なります。ですから、地上でこの三つの互いに異なる方法で深い愛の経験をもってこそ、制限なしに縦的、横的に行くことができ、円で旋回することができます。
 例えば、父母が早く亡くなることによって父母の愛を味わうことができなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったために、すくなからず悲劇的な人であり、同じように家庭生活、すなわち夫婦関係を経験できなかった者は、生の重要な部分が不足するので、霊界ではとてもみすぼらしい人になります。
 また、兄弟姉妹がいない人は、すべての分野の欠乏によって完全な生を生きることができないので、霊界でみすぼらしい立場に立つようになります。
 皆さんはなぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。
 それでは、それがなぜ必要でしょうか。そのような愛の空気が充満した所が霊界だからです。霊界の拍子に合わせる訓練をするために、家庭をもたなければならないということを知らなければなりません。これを感じないで行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような愛の空気をかぐための鼻がない人と同じだというのです。(祝福家庭と理想天国I-1067)

 

 皆さんは、お父さんとお母さんから生まれました。次にさらに根本的なことは、お父さんとお母さんのおなかを借りて神様から生まれたという事実です。
 皆さんは、宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を見いださなければなりません。肉身の父母は通過の父母です。ですから、死の瞬間は、真なる父母に会いにいく歓喜の時間です。
 そこには、真なる父母の真なる愛があります。そこを天上天国といいます。そこの構成要素は愛であり、そこは父母の愛で充満しています。その愛は「私」のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則のもとに、すべての法度を通り得る愛です。そこに合格するためには、宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練の場所です。(105-108,1979.9.30)

 

 この地上での生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間なのですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩すると、これは一点ほどのわずかな時間に過ぎません。あまりにも短い瞬間です。この瞬間の時間内に、肉身生活を越えて霊界のために準備しなければならないのです。(207-99,1990.11.1)

 

 

(2021.10.11:写経奉献)

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