「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(25) 第4巻『真の家庭』 第8章 真なる父母の愛

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第8章 真なる父母の愛

1)何でも与えたいと思う父母の愛

2)子供より素晴らしくなることを願う父母の心

3)父母の愛は永遠不変の愛

4)すべてを犠牲にする父母の愛

5)子供に対する父母の愛は絶対的

6)限りない父母の愛

7)父母の愛はすべての愛の基準であり、伝統になる

 

 

1)何でも与えたいと思う父母の心

 

 子供を生んで育ててみた親たちは分かるでしょう。愛している大切な息子、娘を通じて恵みを受けたいし、幸福も感じたいのです。また、うれしいこと、恵みを受けることがあれば、その息子、娘に永遠に残してあげたいでしょう。そのような希望の心を抱き、その息子、娘がまっすぐに育って万国からあがめられ、万世にたたえられる息子、娘になることを堕落した人間も願っています。
 夜も昼も、その息子、娘がけがをしないかと保護し、切ない心情で落ち着かないのが父母の心です。堕落した父母の心でさえもそうだというのです。
 胸に抱き、乳を飲ませて育てる母親の切ない心、子供が大便をし、おしっこを漏らしてにおいがしても、愛でその環境を忘れることができるのが父母の心です。堕落した父母が子女を思う心がそうであるならば、ましてや愛の主体であられる神様が、本然の心情を通じてアダムとエバを愛されたかったそのみ心は、どれほど切なかったでしょうか。皆さん、一度考えてみてください。皆さんが子女を抱いて育てるとき、子守歌を歌ってあげ、話し掛け、立派になることを願うその心は、父母ならば誰でももっていることでしょう。
 いくら愚かで足りない父母でも、その子女に欠陥があれば、父母の心はその胸が涙ですべて濡れるほど、これ以上ない苦痛を味わうのであり、これが解かれれば、その苦痛に比例して喜びが伴うのです。堕落した父母の心でもそうなのですから、神様の御心情はいかばかりでしょうか。(20-209,1968.6.9)

 

 父母は、息子が罪を犯して牢獄へ行けば、「あいつ、よく行った」と言うのではなく、その子を許し、涙を流して愛そうとします。それが父母の愛です。
 それで父母の愛が貴いのです。もしも、その息子が死刑囚になって死ぬ時間になれば、息子の死刑執行の時をお母さんが知っていれば痛哭するでしょう。
 この世のすべての法をみな変えてしまうことがあったとしても、息子を救える道が一つでもあるならば、どのような冒険でも命を懸けてやるのです。そのような変わらない愛をもっているので、父母の愛は貴いのです。(91-147)

 

 自分の体を打ち、自分の体を失ってでも、自分を犠牲にしながら子女のためには死んでもかまわないというのが父母の心情です。(50-281,1971.11.8)

 

 子供を愛する父母は、子供を愛するとき、「私がお前に何日にゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したのだ。その価値は何千何百何十銭だ」と言って帳簿に付けますか。
 父母が子供を愛するのに、この世の王宮の王子、王女以上にしてあげたいのですが、それ以上にしてあげたい気持ちを感じる場で、「私が精誠を尽くしても、これだけしかできなくてすまない」と言うのです。「もっとよくしてあげたい」という気持ちを父母はもっているのです。それで父母の愛を好むのです。
 皆さん、それを知らなければなりません。与えても不足を感じ、愛しても愛し足りないことがないかといってもっと愛したい心、与えてからも物足りずにやりきれない思い、このようなものがあるので、これは永遠の愛と通じ、本質に属することができるのです。それが愛の出発の伝統的な動機です。(60-84,1972.8.6)

 

 父母は、子供に対して自分の一番良いものをすべてあげたいのです。それが父母の心です。
 これは、誰に似てそうなのかといえば、神様に似てそうなのです。それでは、神様はどのようなお方でしょうか。子女となる人間が本当に現れれば、彼には自分よりもっと貴いものをあげようとするお方が神様なのです。(56-147,1972.5.14)

 

2)子供がより素晴らしくなることを願う父母の心

 

 ここで中年以上の皆さんに、「昔、若い時、自分の相対を探すのに、自分よりできの悪い人を求めましたか、それとも自分より素晴らしい人を求めましたか」と聞くならば、答えはみな同じでしょう。
 できの悪い人ではなく、素晴らしい人です。洋の東西を問わず、誰に聞いてもそのような結論を下すでしょう。ましてや、愛する父母が子女に対する時は、その子女が父母である自分よりもできの悪いことを願う父母はいないのです。
 ある美男美女が結婚して初めて子女を生んだ時、その子の顔を見ると、その父母の顔に比べると何でもないような顔でも、その父母に対して、あなたの子女はあなたよりもきれいだと褒めれば褒めるほど、その父母はとても気分が良くなるのです。(77-102,1975.4.1)

 

 父母の心情とは、どんなに自分の顔がきれいだとしても、自分が抱いている赤ちゃんを見て通り過ぎる人が、「わー! この子はお母さんより何千万倍もかわいい」と言えば、喜びます。それは、お母さんがその赤ちゃんよりも何千万倍もブスだという言葉です。しかし、そのような言葉を言われて、「何ですって? 私より何千万倍もかわいいって? それでは私は何千万倍もブスだってことじやないの」と言いながら食って掛かるお母さんはいません。ただうれしくて、どうしていいか分からないのです。これが母親の心です。このような心は、誰に似たのでしょうか。お母さんは、結果的な存在であって、動機的な存在ではありません。
 息子が父親よりもできの悪いことを願う家庭があるならば、その家は滅びるのです。父親は大統領なのに、息子がそれより劣るようになり、そのような形態が数代か続けば、その家はだんだんと滅びるのです。しまいには肩身の狭い立場になるのです。息子がお父さんに、「私がお父さんよりも愚かでよいでしょうか」と言えば、お父さんが「この野郎!」と言うでしょうか。「それは良くない」と言うでしょうか。後者を選ぶのです。(41-283,1971.2.17)

 

 どのような父母でも、家庭の責任を任せるために自分の後継者を立てる時は、自分よりもできない者を後継者に立てることを願いません。なぜでしょうか。子女が自分より優れてはいけないと考える父母は絶対にいないからです。また、国を中心として見る時も、やはり同じです。国の主権者は、自分以上の後継者が現れることを願う主権者にならなければなりません。
 家庭においても、国家においても、誰彼を問わず自分より素晴らしく、自分よりすべてのものを備えている後継者が現れることを願わなければなりません。これは、歴史の変遷を超越する永遠に近い要求条件です。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1008)

 

 父母の愛が永遠に持続するためには、その伝統を継承した誰かがいなければなりません。明らかに子女たちが相続者です。私たちが子女たちをそのような伝統の相続者になるように教育しなければなりません。そして、その伝統をより高い価値に向上させ得る方法が私たちには必要です。世代ごとに既存の伝統の重要さを認識しなければならず、その伝統を継承するだけでなく未来に向かって発展させなければなりません。
 そのような伝統は、いつも父母が自分たちよりも子女が勝ることを熱望する、そのような真の家庭からのみ出発することができます。このような熱い望みをもった父母たちは、絶えず子女たちに注意を傾け、励ましてあげることでしょう。
 そのような父母は、子女たちが彼らよりもっと素晴らしくなるその日を待ち望み、できる限り子女たちに最善の条件を準備してあげようと精誠を尽くすことでしょう。このような父母は、子女たちの幸福のためにすべてのことを犠牲にするはずであり、さらには、子女たちを父母よりもっと素晴らしくしてくれる方向に自ら進んで強要したりもするでしょう。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1007)

 

 父母は、子供が自分より素晴らしいとき幸福を感じます。ですから、女性として生まれて自分よりもできの悪い息子、娘を生めば、天の国に入る面目を失います。お父さんとお母さんは、自分を愛する以上に自分の息子、娘を愛することができなければなりません。また、子女もそのように考えるとき、自動的に愛の世界が現れて天国が築かれることでしょう。(97-310,1978.3.26)

 

3)父母の愛は永遠不変の愛

 

 父母が子供を愛する愛のその起源的な動機は、どこから始まったのでしょうか。男性と女性を中心とする愛は変わる愛ですが、そこから生まれた息子、娘を中心とする愛は、なぜ変わらないのでしょうか。これは、その男性と女性を中心とする愛から来た愛ではありません。変わらない愛は、横的な夫婦の因縁でできたものではなく、縦的なある流れの起源を通じて関係ができたものに違いありません。
 そのような縦的な主体は、誰でしょうか。そのような主体を私達は、神様といいます。その愛は、夫婦が思いのままにできる愛ではありません。その愛の前に、私がしたければして、したくなければしない立場に立っていることができません。
 それは、切ろうとしても切れません。横的な人間としてはタッチのしようがありません。ですから、父母が子女を愛するその愛は、永遠不変です。
 今日、民主社会において、個人主義思想が澎湃したこの時代において、子女たちは「新時代と旧時代は次元が違う」と言いますが、子女たちはそのように変わっても、その父母の心は変わりません。旧時代だ新時代だと叫ぶからといって「お前がそうなら私もそうしよう」と言うようにはなっていません。父母の愛はそうではないのです。それは動物も同じです。赤ちゃんを愛するにも、自分の生命を超越するのです。(48-155,1971.9.12)

 

 それでは、そのような愛はどこから来たのでしょうか。私自身が第一のある相対的な結果の存在ならば、それは第一のある力の因縁の中から来たものです。それは、私たち人間としては触れることができるものではありません。ですから、「父母が子供を愛する愛を革命しよう! 革命の旗手になろう!」と言う人を見ましたか。
 もしある父母が、この愛を革命して人類歴史を改造してしまうといって、「私は、父母は父母だが、子供を愛さない」と主張したとしましょう。しかし、その父母は、子女のへその緒が離れる瞬間、子女を愛する心が自然にわくことでしょう。すべての生物は、ものの高低を問わず自分の子女を愛さざるを得なくなっているのです。愛するために生命を投入し、生命を踏み台にしてでも愛したいと思う作用があるのを見る時、永遠不変という概念に近いのが父母の愛です。
 それは、「絶対性」を求めていくにおいて、「絶対」それ自体にはなれませんが、人間の前に一番近い支え石にはなることができます。ただ一つの土台になり得るのです。その次に、これが人間の世の中において、それでも歴史を見るとき永遠の土台になっているのではないかというのです。
 そのような父母の愛は、どこから来たのでしょうか。それは、お父さんから何か勧められて習ったのでもなく、自分の相対に忠告されて習ったのでもなく、自分自身がこうだろうと思って出てきたのでもありません。自然にそのようになるのです。愛というものは、自然にそのようになるところで成立するのです。(48-156,1971.9.12)

 

 本質的な愛を分析してみれば、愛には革命がないことを知ることができます。父母が子女を愛するのは真の愛に該当します。ですから、人間始祖の時に人が子女を愛した心も、数千年後の子孫である私たちが子女を愛する心も同じなのです。また数千年後に、私たちの子孫が子女を愛する心も同じでしょう。
 愛には、発展もなく、終わりもないのです。革命の必要のない純粋なものが真の愛です。それでは、神様の愛とはどのようなものでしょうか。神様がある存在を絶対的な基準の立場に立ててその存在性を認定し、彼を愛されるならば、その愛は、それ以上革命が必要のない愛です。(18-12,1967.5.14)

 

4)すべてを犠牲にする父母の愛

 

 愛は、一人では成されません。生命が投入されずしては愛が成り立たないのです。親子関係の愛を見てみても、そこには生命の因縁が宿っているのです。このように生命の因縁が残っている限り、生命の因縁の中で希望をもっている限り、そこには必ず愛の因縁が残るのです。
 生命の因縁を離れては、愛の関係を結ぶことができないのです。ですから、愛には必ず生命の因縁が投入されなければなりません。また、生命をどれほど投入して愛するかによって、より価値を感じるか感じないかという問題が決定されるのです。(32-15,1970.6.14)

 

 例えば、子供に対する父母の愛は、ただ単純に生活的な因縁だけを通じて愛する愛ではなく、骨から湧き出る愛なのです。忘れようにも忘れられず、切ろうにも切れない愛の心を父母はもっているのです。
 それで生命の余力が残っている限り、父母は子女を愛するのです。子女と生命の因縁が結ばれているということを感じる時、父母からは子女を愛する心が自然にわき出るのです。
 「あの子は私の息子だから愛する」という意識的な心が先立って愛するのではなく、その心よりも、その因縁よりも先立った自分の生命力が子女と連結されているので、愛さざるを得ないのです。このようなことを私たちは、家庭生活でよく感じています。(32-15,1970.6.14)

 

 それでは、神様はどのようなお方かという時、千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっていらっしゃるお方です。そのようなお方なので私たちが神様を求めるのであって、与えてから、「ああ、これはいくらいくらだ」と言われる商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。万民は、なぜ神様が好きで、ついていかなければならないのでしょうか。
 神様をなぜ愛さなければならないのかというと、神様は万民のためにすべてのものを下さり、また下さりながらも恥ずかしく思われ、「今は、これしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍、何千倍もっと良いものをあげるから」とおっしゃりながら、きょう現在、下さったもので満足するのではなく、与えられながらも未来にもっと良いものをあげると約束され、与えることができる心の余裕をもっていらっしゃるお方だからです。そのような方と共にいれば、たとえ食べられず、貧しくても幸福だというのです。食べられない立場に立つならば、未来の希望となる刺激が現実圏内に衝撃的に感じられるのです。
 何の話かといえば、かえって新しい決心ができるというのです。与えながらも恥ずかしく思う立場、そのような父母をもった子女が、「お母さん」と言って抱きつくようになれば、体だけ抱きつくでしょうか。どれほど有り難いですか。
 その場は、未来のために互いに慰労の涙を流すことのできる場です。絶望が共にあるのではなく、あすの希望を現在の刺激として感じ、決意し合ってぶつかり合い、激励し得る爆発的な場がまさしくそのような場です。ですから、そこで現れる現象は、悲惨なものではありません。
 未来に対する刺激を引き込み、現実圏内で価値をたたえ得る場は、そのような愛の圏内においてのみ成されるのです。ですから愛の圏内に生きる人は、不幸がないという結論が出ます。(36-291,1970.12.13)

 

 父母は、愛する子女に対してすべてを犠牲にしようとします。神様と同じだというのです。それは、何を物語るのでしょうか。神様は、神様のために投入されるのではありません。自分のために存在するのではなく、相手のために存在しようとし、相手のために生きる神様の立場に立とうというのです。神様が神様のために存在しようとすれば、それは真の愛ではありません。自分をすべて子女に投入し、その子女と共にいようとするところに愛が、生命が、希望が成されるのです。(69-62,1973.9.10)

 

5)子供に対する父母の愛は絶対的

 

 先生は幼いころ、鳥の巣をたくさん見ました。鳥の巣を見ようと木に登ってみると、親鳥が来てつつきます。それは決死的です。一度だけではありません。たたいて追い払うと、飛んでいって、また来ます。これを見る時、自分の生命を越えて、愛する雛を保護しようとする動物世界の力があることを否定できません。
 人も同じです。愛のために生命を投入できなければなりません。そのような人が真の人です。本当に善なる人とは、どのような人でしょうか。愛を根本とし、自分の生命を投げ出して、愛する人を保護しようとする人です。そこには、主体的な善があるのであり、相対的な善の論理を立てることができるのです。これは、永遠不変です。(186-18,1989.1.14)

 

 私がアメリカのダンベリー刑務所にいた時、おもしろいものを見ました。坂道を平たいテニスコートにするために、毎日ブルドーザーで地面をならす作業をしましたが、長い間しました。作業の途中でが中止をすることもありましたし、また雨期になったらなったで乾期になるまで待つのです。2、3週間、雨期が過ぎてから作業をしたのですが、そこに水鳥が雛を産みました。そこに囚人たちが運動のために歩くコースがありましたが、そこからわずか3メートル離れた所に水鳥が巣を作ったのです。
 その水鳥の色は、ちょっと見ただけでは見分けがつきません。通り過ぎる人は分かりません。その保護色はなんとうまくできていたことでしょう。卵を産んで孵化するまで、人々は通り過ぎても分かりませんでした。うつぶせになった姿を横から見ると、黒い砂利の色のような保護色だったので気づかなかったのです。そうこうするうちに、雛が孵化し、(親鳥が)何かをくわえて食べさせようとしたところ、「ちゅんちゅん」という鳴き声がするようになり、ようやくみな気づきました。意地悪な人たちはみな、いろいろとちょっかいを出しました。
 ところで、その水鳥は自分の子に対してとても保護力がありました。どれほどあるかというと、餌を探してそれをくわえて来るとき、絶対に自分の子の近くに飛んで行きません。他の所に下りて、雛がいる所まで這って行くのです。ところで、それが毎日方向が違うのです。なぜそのようにするのかといえば、雛たちを保護するために方向を変えるのです。そのように雛を育てるのです。
 この雛たちがだんだん大きくなり、人がそのそばに近づこうものなら親鳥がつついて大変です。雛を見るなというのです。誰がそのように教えたのでしょうか。それが宇宙の力です。神様の愛を軸として、すべての万物が平面的位置にあるので、位置は低いのですが、その平衡線上の基準は変わらないようになっています。(136-23,1985,12,20)

 

 蜜蜂が花を探し回って蜜の味を味わえば、足を深く入れ、おしりを突き出して吸いつきます。先生は、蜂についてよく知っています。蜜を吸う蜂をピンセントで引っ張ると、尾が取れても花から離れません。真の愛は、そのような愛です。自分の生命までも捨てることができるのです。計算して、いくらの利益になるから、というものではありません。生命までも捨てながら忘れていける道が真の愛の道です。
 父母は、その道を行きます。子女を愛する父母は、子女が死地に行くなら、子女のために死地に立とうとします。愛の前に自分の命を捨てていこうとするのが父母の心です。その愛が真の愛です。(144-209,1986,4,24)

 

 ある人がこの世で誇れる金銀財宝を得て、血と汗を流して多くの財産を築いても、子女が死ぬ運命にさらされたなら、その子女を生かすためには、外的なものが問題ではなく、自分の生命までも犠牲にして生かそうとします。(34-161,1970.9.6)

 

6)限りない父母の愛

 

 私たちが愛というものを中心として見るとき、父母の子女に向かう愛の限界点はどこまでなのでしょうか。父母は、子供が幼い時だけ愛そうとするのではなく、生涯を通じて、さらには永遠を通じて愛そうとするのです。
 愛することによって生きがいを感じることができ、愛することによってさらに価値を感じられる親子の関係が結ばれるなら、無限の力と無限の刺激と無限に新しい何かがその関係圏内から生じるというのです。(32-12,1970.6.14)

 

 お母さんの愛やお父さんの愛は、人間世界において最も偉大な愛の中の一つです。この世でいくら高い地位にある人も、自分の子女の前ではどうすることもできません。
 父母の愛は、子女の前では無条件であり無限定です。父母の愛は愛の母体だからです。
 ですから、父母の愛を受けられずに大きくなった孤児たちは、何よりも父母の愛を渇望するようになるのです。孤児たちは、寝る家があり、食べものがあったとしても、彼らの胸にいつも満たされない思いと慕わしい気持ちがありますが、それが何かといえば父母の愛です。(祝福家庭と理想天国I-1020)

 

 皆さんは、愛する父母の子女として生まれました。父母の愛を受けて育ちました。年を取っても若くても、父母はその子女をいつも愛するようになっているのです。もし70歳になる息子がいたとしても、昔自分が育てたその基準をもっていつも子女を見つめるのが父母の心なのです。年を取っても、心情はだんだん近くなり、息子に対する責任が大きくなるほど、息子に尽くす心はもっと広くなるということを、私たちはこの世で子女に対する結びつきを見るとき、はっきりと知ることができるのです。(祝福家庭と理想天国I-1020)

 

 父母は、愛する子女のために骨が溶けるほど苦労しますが、疲れることを知りません。なぜですか。愛するからです。自分の骨身を削って、その代価がいくらか帳簿に付けておきますか。そのようにはしないでしょう。かえって、すべてを与えられないことをもどかしく思うでしょう。
 ここにいる女性たちもそうでしょう? 赤ちゃんに乳を与えるのに、飲まなければどうして飲まないのかともどかしく思います。それは、ホースをつけておいて自分の血と肉を取っていくことではありませんか。ある意味では、泥棒の中の最高の泥棒ではありませんか。それでもそのお母さんは、赤ちゃんが乳を飲まないのをもどかしく思うのです。どうしてそんなにも愛するのですか。愛の法度だからです。(39-334,1971.1.16)

 

 お母さんの胸に埋もれている赤ちゃんを見るとき、父母は、愛を中心として愛の感触に触れ、またその赤ちゃんを抱くことによって、自分の幸福よりも天地が平和の境地に入るので、良い雰囲気が芽生えることを感じるのです。ですから、赤ちゃんがいくら激しく騒いでも、「さあさあ、やってみなさい」と言える度量の大きな心があるのです。
 ですから、父母は、子女を無限に愛することができるというのです。ある意味では、その赤ちゃんはホースをつけて血と肉を吸う怨讐です。しかし、そのように考える人はいないのです。それは、何かといえば、お母さんとしての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激、その赤ちゃんによって見つける新しいものが多いからです。そのような時には、通じる何かがあります。その境地は、誰も思いのままにすることができないものです。(祝福家庭と理想天国I-1021)

 

7)父母の愛はすべての愛の基準であり、伝統になる

 

 何よりも父母の愛が初めなのです。その愛を動機として、その愛で円満に育った人ならば、愛がどのようなものかということを知っています。お父さんとお母さんを愛するので、父母の間で愛がどのようなものかを父母を通じて習うのです。それが子女には二つとない喜びになるのです。愛を体得することは、父母をもった立場でなければできない事です。(62-16,1972.9.10)

 

 子女の間の愛は、どうでなければならないでしょうか。何を基準にして愛さなければならないのでしょうか。お父さんとお母さんが愛するように、兄弟姉妹たちも愛し合わなければなりません。愛は誰から習うのかというと、それは、父母から習わなければなりません。(66-120,1973.4.18)

 

 息子、娘がお父さんとお母さんに対して、「私のお父さんとお母さんは世界で一番素晴らしい人だ。神様のような存在だ!」と言うことができなければなりません。夫婦間の変わらない心といちずな愛を見て、子女たちが「その愛を見本として、子女である私たちも一つになろう!」と言うとき、理想的な家庭を築くことができるのです。
 また、子供が成長して思春期になれば、心と心情が一つに成り得る相対を求めるようになります。これは、結婚を通して成すことができます。
 ですから、相手をこの上なく大切にして、愛と心情の基準を立てるために努力するのが男性が行くべき道であり、女性が行くべき道でもあります。
 ですから、お母さんとお父さんも神様の心と神様の愛に一致し、子供も父母に似て、神様の心と神様の愛に一致できる家庭にならなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-917)

 

 父母の愛を中心として、兄の立場に立った人が、自分を犠牲にしつつ、父母に代わって弟たちを愛することが、愛の秩序であり、伝統です。兄という立場は、兄弟たちの中で一番苦労しなければならない、責任ある立場です。
 父母の立場も同じです。子女の代わりに、子女よりももっと苦労する立場が、父母の立場です。愛を中心として、父母が子女のためには涙が交差する場をも甘受しようとすれば、子女たちは、涙を流しながらその父母についていきたいと思うのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-917)

 

 神様を中心として一つになるとき、千態万状に回るようになるのです。ですから、兄弟間で愛することも、父母が子女を愛することに倣って兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛し、一元化した家庭には、家庭の愛が花咲くのです。これがまた社会愛になります。これがさらに民族を愛する民族愛になります。そして、このように愛すれば世界愛になるのです。(28-151,1970.1.11)

 

 皆さん自身が父母の愛を受けるのはなぜでしょうか。夫婦であるお父さんとお母さんが互いに支え合い、愛し合うその動機が皆さんによって成されるからです。分かりましたか。ですから、その動機を中心として、兄弟同士愛し合うその愛は変わらないでしょう。
 それを中心として、隣人を自分の体のように思って生活するとき、正しい社会環境が展開されるのです。家庭を中心として見れば、その家庭が蘇生であり、社会が長成であり、国家が完成です。必ずそのような過程を経なければなりません。家庭と家庭をみな合わせなければなりません。そのようにしてこそ、その中で愛が広がるのです。
 このようにして、国家の範囲でも一つに合わさるのです。ここで社会は、いろいろな階層に分かれるようになっています。
 会社には、社長という代表者がいるでしょう。そうでしょう。国家の責任者が今、何人ですか。一人でしょう。一人の責任者がいます。このような姿に統一されるのであり、形だけが大きくなるのです。このように、分かれていても一つになるのが四位基台の原則です。(26-153,1969.10.25)

 

(2021.11.15:写経奉献)

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