「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(37) 第6巻「人間の生と霊魂の世界」 第1章 人生の行くべき道

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第1章 人生の行くべき道

1)私たちの人生の道

2)死に対する正しい理解

3)地上生活の価値

4)天国に入る秘訣

 

1)私たちの人生の道

 ①一寸先も見通す事の出来ない人生

 

 人々はしばしば、「人間は、来ては逝くものだ」と言います。古来より、いくら立派な聖賢、君子も来ては逝きました。このような歴史の動き、このような天倫の動きは、この瞬間、私にも続いているということを考えなければなりません。来ては逝くべき私たち自身です。何の因縁と関係しているのかは分かりませんが、この地に来て、この万象と、あるいはある理念的な形態の中で、身悶えして逝くことをよく知っています。
 では、私たち人間は、何のために来て、何の目的のために逝くのでしょうか。これを数多くの哲人たち、数多くの宗教人たちが心血を傾けて解決しようとしました。しかし、解決できないままに人類歴史は、それによる悲しみとともに今まで動いてきました。また今も、ずっと動いていっています。(7-178,1959.9.6)

 

 私がなぜ来て、なぜ生きなければならず、どこに行かなければならないのでしょうか。生まれたことを、皆さん自ら生まれたと考えてはなりません。生まれはしましたが、何の動機で生まれ、何のために生まれたのか、私を生むようにした動機と目的が分からない私たちです。生まれることは生まれましたが、私が生まれようとして生まれたのではなく、生きるには生きますが、私が生きようとして生きるのではなく、死ぬには死にますが、私が死のうとして死ぬのではないというのです。それなのに、自分を持ち上げて何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身のその何かをもって生きることもできず、死の道を避けることもできない自らをもって何かを誇ってみても、哀れで物悲しいだけです。生まれたから生きなければならない運命であり、またそのように生き、逝かなければならない運命です。(7-178,1959.9.6)
               

 今、私たちは、知っていようがいまいが、あるところに向かって進んでいます。私が動く時間にも進んでいて、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけではなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までもあるところに向かって今、進んでいるのです。これは否定できない事実です。この一生をたどったのちに、私はどのようなところに行くのでしょうか。これが、人間の解決すべき重要な問題です。
 宗教も、この問題を解決するために、哲学も歴史も、この問題を解決するために動員されています。ですから皆さん自身も、このような運勢に捕らわれ、引っ張られているということを否定できないのです。(8-194,1959.12.20)


 歩みをとどめ、揺れ動く心と傾く心情を抑え、「お前はどこに行くのか」と尋ねて、それを解決するために闘ってきた人々が聖賢、賢哲であり、あるいは数多くの道主だということが分かります。彼らは、それを解決するために出てきましたが、今日まで「私の体と私の心、私の心情、私の生命と私の理念は、このようなところに向かって走った。だから天下のもとにいるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物は、こちらへ行きなさい!」と自信をもって命令した人はいません。(8-194,1959.12.20)


 今日、人間の生活というものは70年、80年しかありません。70、80年しかないこの短い生涯路程において、歴史的に絡み合った善の圏をすべて収拾しようとするなら、億千万年かかってもできないことを、心は知っているというのです。ですから、この短い70、80年のこの期間において、善なる圏を因縁づけるべきことが、そのように膨大にあることを知っているこの心、良心は、どれほど催促するかというのです。死んでは駄目だというのです。死ねばできないのです。生きている間、因縁を結んで地上で祖国光復をし、本郷の地を求めて天の主権者に侍り、その民とその国で生きてから逝ってこそ、天上天国に行けるはずですが、その世界に行くことができず、その世界を見つめることができないこの心が、どれほど忙しいかというのです。(155-27,1964.10.6)

               
 どうせ逝くべき私自身だとするなら、この体は、どこに行こうとするのでしょうか。この心は、どこに行こうとするのでしょうか。またこの生命は、どこに向かって傾いていて、私の心情は、どこに行こうとするのでしょうか。また私の願い、あるいは希望と理念は、どこに行こうとするのでしょうか。
 この問題を解決できないとしても、私たちは、いずれ逝くべき運命に置かれているのです。私たちが生きたのちに死ぬ日、この体は、土に埋められることによって終わるはずです。
 では、体が埋められるその日は、心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは願いまでも、共に埋められてしまうのでしょうか。消えてしまうのでしょうか。
 ここに、はっきりとした内容と、はっきりとした解決点と、はっきりとした目的観を立てておかない限り、その人は、不幸な人にならざるを得ないのです。(8-194,1959.12.20)

               
 私たちは、何を中心として生まれ、何を中心として行き、何を目的として行くべきでしょうか。これは、神様を抜きにしては絶対に駄目なのです。神様を抜きにしては、動機のない因縁になるのです。動機をもてない人は、あることを成就しようとしても、その結果を収めることができず、価値を認めてもらえないというのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図によって建築をします。設計の原本もなく造られた建築物は、設計者が目的とした建物になり得ないのです。(2-100,1968.11.17)
               

 出発を誤れば、とんでもないところへ行くのです。それゆえに、船が大海を航海するとしても、羅針盤を中心に、出発した港から行くべき目的地に向かって方向性を描いておいてこそ、初めて行けるのです。それでは、人間が出発した港はどこでしょうか。分からずにいます。羅針盤をもって、彼岸の世界に到達することのできる、目的地を描いて行ける方向性は、どこにあるでしょうか。ないのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったり来たりしました。このように考えると、人間は、いくらやってみたとしても、人間として終わるのです。(172-28,1988.1.3)


 ②私たちはどこに進んでいるのか


 人生をこのように生きて行く目的は、何でしょうか。この問題を再び考えてみなければならないのです。動機が自分によるものではなかったので、目的も私だけのものではないことは相違いありません。暮らすにおいて、幸福な立場を嫌う者はいないし、豪華絢爛な立場で生きたくない者はいないと思いますが、思いのままにできないのが自分です。しかし、また自分自身を誇ってみたいし、思いのままに生きたいし、思いのままに残りたい自分です。このような心情の交差点をもった自分だというのです。(7-178,1959.9.6)
               

 秋の季節が来たという事実は、冬が迫っているということです。冬は、生命のあるもののみが通過できる過程です。生命をもっていないものは、すべてここで後退せざるを得ないのです。それで、冬が来る前に新しい生命を注入しなさいというのです。新しい生命は、新しい愛を中心とした新しい主義と思想、そして、新しい人生観、新しい世界観、新しい宇宙観をもたなければならないのです。
 そうでなくては、冬の季節を通過できません。冬の季節を通過できる生命力をもつようになれば、それを通過する過程は難しいけれど、行けば行くほど春が近づくのです。春が訪ねてくるというのです。統一教会は、その道を行くのです。(172-28,1988.1.3)
               

 私たちは、この世に生きていますが、この世だけではなく、霊界もあることを知っています。この世と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界として連結しています。私たちが行くべきところ、私たちが行って住まなければならないその場ところとはどこでしょうか。私たちは、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。
 一般の人々は、この世に生まれ、10代、20代、30代を過ぎ、青春時代を過ぎて壮年時代に入って行くようになれば、どんどんと一つの峠を越えて、その次には老年時代に入って行くようになるのです。このように、沈む太陽のように一生を終えます。(140-121,1986.2.9)
               

 霊界があるという事実を知っている人たちは、人生というものが束の間であり、死んだのちに私たちが迎えなければならない世界が永遠だということを知っています。ゆえに一生の期間とは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。世の中とは、そのようなものではないですか。(140-121,1986.2.9)

               
 人は、どこへ行くのでしょうか。霊界に向かっていくのです。霊界は、海と同じです。いずれ行かなければならないのです。海に流れがあるのと同じように、そこには造化の無双な変化があります。海には、主流の流れを中心として、淡水にはない造化の存在たちがいます。海に数多くの魚族がいるように、そこには数多くの新しい天地の家庭がいます。同じです。あの世に行くようになっても同じなのです。(141-306,1986.3.2)

               
 人は、どこへ行くのでしょうか。天国へ。このようになるのです。天使は、どこへ行くのでしょうか。天国へ。父母は、どこへ行くのでしょうか。天国へ。それだけでなく、育てた子犬は、どこへ。地獄ではありません。昔、避難する時、北韓でとても裕福な生活をしていた金持ちの家に、「とても高い犬だ」と自慢していた人がいました。その人が避難するとき、犬をしっかり門に結んでおいて、「おい! 元気でな。私だけ行ってくるから」と言うのです。私たち統一教会の食口は、それではいけないのです。今からは、犬も、天国へ。すべての万物も、天国へ。主人が行くところには、どこでもついていけるというのです。(78-336,1975.6.10)

               
 霊界と肉界、人間の混乱した思想界の複雑なことをすべて打開しておき、このように単調で簡単な一つの方向が設定されて、明確な一つの価値観を私が見つめて行けるようになった、という驚くべき事実を知らなければなりません。その段階ごとに、力が分散されるのではありません。段階が発展すれば発展しただけ、力が共にあるのです。愛の原動力が私の生活圏に反応するのです。ですから、愛から生じ、愛を受けて愛したのち、愛の世界へ行くのです。神様に帰っていくのです。結果は、原因へ帰らなくてはならないでしょう。ですから、神様のような考え方をもたなければならないというのです。(126-144,1983.4.13)
               

 私たちは、どこへ行くべきでしょうか。死線を越えてでも行くべきところとは、どこでしょうか。神様を求めて、その神様に仕え、心から喜んで楽しめる日、私の心の世界で、「これ以上の願いはありません」と言える一時を迎えなければなりません。そのために私たちは、困難に耐え、無念さに耐え、悔しさに耐えながら、この世界を越えていかなければならないのです。このような世界を越えていく自分自身になっていない限り、世界と共に消えるのです。(8-202,1959.12.20)
               

 なぜ人間は、何も考えずに流れに任せて生きながらも死ぬことを嫌い、「なぜ生きなければならないのか? 根源がどのようになっていて?」と、疑問が多いのでしょう。そのすべての疑問は、人間の哲学書だけでは解決できないのです。哲学というのは、今まで神様を求めていく道を開発したのです。宗教は何ですか。神様を知って、共に生きる生活から始めることが宗教生活です。(186-12,1989.1.24)
               

 霊界を無視してはいけません。これが行くべき原則であるので、いくら優秀な人も、その原則に合うようにこの地上で生き、一体理想、均衡的な平準化を成し遂げなければならないのです。相対的平面です。均衡を取り、90度を中心として引っ掛からないで水平に回らなければならないのです。
 それで、360度を回りながらも、これで引っ掛かってはいけません。サタンが少しだけ口出ししても引っ掛かるのです。
 ですから、回っても回っていないように見える、このような歴史をもつ人が、入っていかなければならないのです。家庭の本格的な再検討時代が来るのです。統一教会検討時代です。これからは教会がなくなるのです。神様に侍って暮らせる、本然の時代です。(271-277,1995.8.28)
               

 生命圏、愛圏、血統圏の堕落、全世界が引っ掛かっているものは、同じ条件と同じ公式なのです。同じ公式の条件に引っ掛かっているのです。それゆえに、どんなことがあってもサタン圏である自分の肉体が要求するすべてを放棄し、良心圏が願うところに100パーセント移動すれば地上天国圏に立つので、神の国、地上天国世界と天上天国世界を境界なしに、無限に通じ得る自由圏を得ることができるのです。そちらへ越えていかなければならない、という自覚をもたなければなりません。このような難しい問題があることを、人間は知らずに生きているのです。人間はみな、このようにもつれた背後の内容があることを知らずに生きて霊界に行くので、地獄に行くのです。(258-343,1994.3.20)
               

 私たち人間は、生まれると一度は死ぬようになっています。ところで、死ねばどこへ行くのでしょうか。煙が消えてしまうように消えてしまうのではありません。必ず霊界に行くようになっています。霊界に行くようになれば、霊界の国があります。では、その霊界の主人は誰ですか。神様です。それゆえに、その神様の息子、娘にならなければなりません。神様の息子、娘にならなければ天国に入れないのです。(208-109,1990.11.17)
               

 霊界があるならば、霊界は、ああしたりこうしたりと変わると思いますか。「人の心は朝夕に変わり、山の色は古今同じである」という言葉もありますが、霊界は変わりません。神様がいらしゃるならば、その神様は変わりますか。神様は変わりません。神様が統治する霊界の国があるならば、その国は変わりません。億千万世に定めた法に従って生きながらも、不平不満を感じないで順応と柔和の道理に従い、厳然と存続し、生存するのです。そこには、革命家は必要ないのです。革命をすれば、すべて滅びるのです。(203-327,1990.6.28)
               

 皆さんは、カナンの福地に入らなければなりません。この地球星はカナンの福地なので、天国の外的世界が近づいてきたため、地球村時代が来ます。人工衛星というものがあり、座っていても天上世界を旅行できる時代が来ました。相対圏の人工衛星時代が来るのです。その次には、コンピューター時代が来るのです。霊界にコンピューターがあり、一生のすべての記録が現れるのです。人生の歴史や、すべてのものをあっという間に知り得る時代になったのと同じように、統一教会を中心として地上地獄膨脹主義時代から地上天国出発時代へと交代するのです。(266-296,1995.11.1)
               

 エデンの園において、アダムとエバはお金を払って食べ物を食べたでしょうか。すべて、ただです。このように見るとき、霊界に行って住むときも、すべての環境的条件をつくられた神様が、人間に無限の価値をただで下さったので、霊界に行っても無限の価値の存在がすべて自然に供給されるのです。その霊界は、神様が住まわれる本郷の地です。ここでは、お金を出して買って食べはしないのです。私たち人間の想像が及ばないほど、すべてのことが可能な補給地です。
 皆さんは、その霊界を知らないから分からないのです。本来の堕落していない子孫ならば、霊界を知っているのです。(263-78,1994.8.21)
               

 なぜ本郷を恋しく思うのですか。父母に対する愛、兄弟に対する愛、夫婦に対する愛、その地に対する愛、故郷の山河に対する愛と同じです。あの世でも、真の愛という全く同じ公式になっています。本郷には父母がいて、夫婦がいて、兄弟がいます。すべてのものがそこにあります。素晴らしい食べ物もあるのです。食べ物も、見える食べ物と見えない食べ物を合わせてこそ、本当の食べ物になるのです。なぜ私たちがこのように苦労をするのですか。故郷に行くためです。そのような希望に満ちた霊界の相続を受けようとするので、そのようにするのです。(225-135,1992.1.5)
               

 故郷というのは、この制限された地域だけのことをいうのではありません。どこに行っても、故郷で暮らすように生きなければならないのです。どこに行っても、一生を恋しい故郷で暮らすのと同じ心をもって生きなさいというのです。大韓民国の4000万を中心として和合し、そのように暮らせる人は、あの世に行けば霊的な人格の価値が大きくなります。このようなことを知って、故郷を考える時は、必ず霊界を思いながら愛の人格を備え、父母のように、お兄さんのように、お姉さんのように「ため」に生きなさいというのです。それとともに、自らの愛と生命を投入し息子、娘を育てて、より立派な子孫を故郷の地に残すという心をもたなければなりません。そのような思想をもって暮らしてから、あの霊界に行くようになれば、すべてが私の故郷の地になるのです。(209-17,1990.11.24)
               

 私たち統一教会の食口たちは、どのような道を行かなければならないのでしょうか。神様が願う道に従っていかなければならないのです。天意の道に従っていこうというのです。天意とは何ですか。天意には個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界まで……。皆さんは、霊界を知らないでしょう。その分野の専門家が文先生です。霊界は、間違いなくあるのです。(121-146,1982.10.24)


 ③一生は霊界へ行く準備期間


 いくら考えても、自然世界の摂理は、どうすることもできないのです。皆さんも、死なないことを願うでしょう。死なない自信がありますか。自然が調節するのです。霊界の法に従っていかなければならないのです。それと同じ道理です。(247-95,1993.4.25)
               

 霊界が私たちの故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地なのです。この次に行く所が心の世界、霊界です。それゆえに、ここであらかじめ、そこに合わせて訓練をしてこそ、そこに行っても支障がありません。アメリカの人々は、ハンバーガーを食べなければならず、チーズを食べなければならないでしょう。韓国の人々は、キムチを食べ、唐辛子みそを食べなければなりません。霊界にもハンバーガーがあり、キムチがあればかまわないのですが・・・・・・。ですからここで、そこに拍子を合わせることにより、あの世に行って苦痛がないのです。(207-72,1990.11.1)
               

 今まで一般の人々は、死ねばすべてなくなると考えたのですが、そうではありません。霊界があるので、そのままつながるのです。その霊界に行くためには、地上で準備をしなければなりません。霊界に行けば愛によって呼吸するので、地上で愛を中心として生活してこそ、そこでも自由に呼吸できるのです。地上で愛を中心として生活しなければ、そこで自由に呼吸できないのです。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛が空気のような世界だと考えればよいのです。第2の新しい出発を「死」というのです。それゆえに、そのように怖がる必要はありません。死は、新しい出発の門を開くことです。(249-280,1993.10.11)
               

 霊界が故郷です。故郷に帰って永遠に暮らせるその基準を、地上で合わせて逝かなければなりません。地上生活で、今までの世の中の何も知らない人々のように、自分の思いのままには生活できないのです。霊界を知り、そこに合わせて生きることにより、この世を離れるようになる時、神様のみもとに行って天国と関係を結ぶことができるのです。そうでなければ、不可能だというのです。それゆえに皆さんは、霊界に対する事実をはっきりと知らなければなりません。(295-120,1998.8.19)
               

 霊界は愛の空気でできていますが、皆さんの霊人体が準備をせずに天国に入っていけば、息ができないのです。ここは空気で成っていますが、あの世界は愛の霊界です。皆さんの霊人体が愛を感じられるように準備をしなければなりません。そのようにできなくて霊界に行けば、関係を結べないのです。これが問題です。問題が大きくなります。何千万年もかかるのです。(265-327,1994.12.1)
               

 皆さんは、本然の愛で愛さなければならないのです。霊界に行くようになれば、霊界は、愛が空気になっています。細胞が愛化することを体験してこそ、すべてのものが自然らしくなるのです。細胞は、すべて呼吸するでしょう。愛の細胞をどこで育てていくかといえば、真の夫婦になって神様の愛を中心として育て、神様の世界に行って、愛の空気を永遠に吸いながら暮らすのです。それでこそ、死にません。愛が根本なので、愛をもてば、何でも自由に実践躬行できる世界だというのです。愛する人のために何でもつくり、何でも創造できるのです。そのような霊界があるのです。私たちの本郷があります。(283-267,1997.4.13)
               

 塩水と淡水は、何が違いますか。味が違うのです。塩水は塩辛く、淡水は何の味もありません。同じです。この地上では味がありません。しかし、霊界に行けば味があるのです。水は生命を伴える力をもっていますが、塩は生命を生産するために必要なものです。(229-90,1992.4.11)
               

 水は、海の深いところまで行かなければならないのです。いくら大きな川を流れる淡水であっても、海に入っていけば塩水になります。いくらきれいだといわれる有名な河川でも、海に入っていけば、間髪を入れず、さっと変わるというのです。全く異なる色合いと味に変わるというのです。これと同じように、人間たちは、すべて霊界へ行くのです。淡水で生きたことが、そのまま通じないのです。海水になるのです。
 ですから、宗教人たちは、生きていきながら塩水を加え得る資格をつくらなければならないというのです。そうすれば、霊界に行って相反しないのです。万一、淡水がそのまま入っていってしまえば問題が起こります。人間もそのまま霊界に入っていくようになれば、大変なことになるのです。(244-178,1993.2.7)
               

 河川は、どこへ行きますか。海へ行くのです。海水と河水は違うのです。地上は河水と同じであり、霊界は海水と同じです。それゆえに人間は、どのような人でも、地上で生きた人ならば霊界にすべて入っていきます。淡水と塩水が混ざった場合には、淡水魚は、塩水ではどのようになりますか。淡水魚は、塩水では死んでしまいます。突然に入っていけば窒息します。
 それゆえに、慣れなければならないのです。水の色合いも同じで、温度も同じであれば、どこにある水を飲んでも何でもないのと同じです。地上世界と霊界の世界が突然連結した場合には、淡水魚が塩水と出合って死ぬのと同じになるのです。どのように呼吸しますか。鮭が塩水から淡水へ上っていくときは、2週間の期間を費やし、少しずつ慣らしながら上っていくのです。呼吸が苦痛でないようにしながら、歩調を合わせて移動していきます。(256-61,1994.3.12)
               

 海へ入っていく時の気分は、どうでしょうか。「ああ、入っていきたくない!」と言うでしょうか。皆さん、そう思いますか。皆さんに、「死んでしまってどこへ行くのか」と尋ねると、みな「霊界へ行く」と、そのように言うでしょう。それでは、その霊界へはどのように行くのですか。死んでから行くのです。そうかといって、誰でも死んでみたいとは思わないのです。それでは、河川水が流れて、ついに海に入っていくようになれば、どのようになりますか。河水が海水をかぶると、どのようになりますか。「ああ、気分がいい!」と、そのように言うのですか。すべてのものが小さくなってしまったような衝撃を受けるのです。縮小されたとでもいいましょうか……。最も大きなものから最も小さなものになってしまったような、大きな衝撃を受けるというのです。(229-209,1992.4.12)

               
 霊界に行きたくないとしても、誰でも行かなければならないでしょう。ここで、自分は絶対に死なないという人、手を挙げてみてください。いくら刀をテーブルの上に刺して誓っても、人間は死ななければならないのです。死ねば、どこへ行きますか。霊界に行きます。そこは大きい川と同じです。いくら大きな川といっても、流れていってすべて海に行くのです。「海に行くわけにはいかない。海に行きたくない」と言うのは、生きているけれど死んでいるということです。それは、存在の価値をもっていないのと同じです。(229-88,1992.4.11)

 

(2021.12.14:写経奉献)

 


 私たちが霊界に行く前に、私が何をして暮らしたのかと、私たちの生活を一度ずっと反省してみる時、それは深刻な問題です。皆さん、霊界は未知の世界です。霊界は、いずれ行かなければならない世界ですが、未知の世界だというのです。無限大の世界です。そこに行くようになれば、皆さんの先祖にすべて会えるのです。数千、数万の先祖と一遍に会える所です。彼らが皆さんを迎えるようになる時、評価するのです。(142-160,1986.3.9)
               

 準備といっても、易しい準備はありません。それゆえに一生を見る時に、少年時代は青年時代のための準備時代であることを知っている人は、将来性があるのです。
 壮年時代は老年時代のために準備しているのであり、老年時代は霊界に行く準備をするのです。一生自体は、大宇宙の人格を備えるために一つの訓練過程をたどっている修練期間であり、準備期間だということを私はよく知っています。(147-188,1986.9.21)
               

 今はビザとか国境が問題になるのでできませんが、言語だけでも統一されれば、どこでも私の故郷のように、私の国のように暮らせる時代になるというのです。いずれ、そのように行かなければならないのです。ですから、ソ連でもアメリカでも、みな一つの家族のように生活しなければなりません。
 今後はテレビのようなものも、財布のように小さいものを作るのです。今でもそうではないですか。ポケットに入る小さなテレビも出ているでしょう。ですから人工衛星を中心として、すべて見ることができる時代に入ったというのです。どこに行ってもです。そのように集約された小さな世界が、すべて入ってくるというのです。
 人間生活が便利に、どこでも移動できるようになるのです。そのような小さなものを車一つにすべて積んで、行き来しながら暮らせる時代にならなければなりません。韓国を離れて70、80歳まで世界1周をしながら暮らすのです。そのような時代が間違いなく来るのです。先生は、そこに対する準備をしているのです。(238-361,1992.11.22)


 ④生涯はあまりにも短い


 人間の一生は、短いのです。生涯において、10年がいつ過ぎたのか分からないのです。結婚して30年以内に、すべてのものが決定されるのです。それゆえに、人生の道は、いつも待っていません。忙しいのです。
 そして、1回ずつみな死ななくてはなりません。死なないですか。死なない自信がありますか。死ななくてはなりませんね。死ねばどこへ行きますか。霊界があることを知っていますか。先生は霊界を知っているので、一生を懸けてこの仕事をしています。世界をすべて料理しながらです。この世は、つかの間です。10カ月の腹中生活と同じです。(143-333,1986.3.21)

               
 統一教会は、その霊界へ行くための準備をする所です。ですから統一教会は、霊界で合格するための準備をする所です。では、そこで完全に合格するか、不完全に合格するかというのです。また、落第生になって不合格になることもあるというのです。
 このように見る時、皆さんは霊界に行く準備を地上でしなければなりません。地上という所は、旅人の旅路のようなものです。いろいろな過程を通過します。女性として、ある父母から生まれて育ち、今は年も取るだけ取ってどこで生まれたのかも分かりませんが、そのように育ち、男性に出会い、共に道を歩んできながら、愛を通して子供も生むようになります。さながら苦労して馬車を引っ張って行くかのように、そのように歩んでいきながら苦労して進んで進んでいくのです。
 ところが、その車がいつ故障するか分かりません。険しい岩の道を通ることもあるでしょう。そこで誤ってしまうと故障するのです。故障すればどのようになりますか。それ以上行けません。それを修理しなければなりません。修理する能力がないと大変です。
 それで、力や能力がない場合には1年もかかり、2年もかかり、10年もかかるのです。そこを抜け出てこれなければ、死ぬのです。そのような旅路を行くのです。時には旅館に入っていっていろいろな人に出会ったり、時には立ち寄る所もいろいろあるでしょう。人生は、一つの旅行の旅路のようなものです。そうして行く所が、結局は霊界なのです。(229-209,1992.4.12)
               

 一生というものは本当に早いのです。物事の分別がつき、この世の事情を知って、ああだこうだしているうちに40歳、50歳となり、10年はつかの間です。10年経てば60歳はつかの間であり、60歳になれば70歳がつかの間です。私も静かに考えてみると、「一場の春夢(春の夜の短い夢)」という言葉を実感するのです。(188-38,1989.2.16)
               

 私たちの人生の1代というのは、つかの間です。この1代が永遠の尺度を上げたり下げたりするというのです。秤と同じように上がったり下がったりするのです。そのようになっているというのです。(46-155,1971.8.13)
               

 皆さんが80年生来たとしましょう。その中で夜に寝る時間を除くと40年に減ります。半分に減るのです。寝ることも生きていることですか。寝ることは死んでいるのと同じです。寝ることは死んでいる命なのです。
 そうなると、24時間の中で生きようとあくせくする時間は半分にしかなりません。また、ここで御飯を食べる時間を1時間ずつ抜いてしまうとどうですか。御飯を食べる時間を1時間と考えなければなりません。
 またその中で友人の祝宴の日、町内の人の還暦の日、誰かが死んだ日、葬式を執り行う日、病んで横になっている日、あらゆる日を除くと、生涯において生きている日が半分にもなりますか。この前、計算してみると、生きているということが7年と出てきます。その7年の中で「本当に生きた」と言える日が何日出てくるかです。何日にもなりません。(49-336,1971.10.24)
               

 この肉身世界は、短い期間なのです。長くないというのです。それを知れば眠る時間が惜しいのであり、ご飯を食べる時間が惜しいのです。ご飯を食べることも、行きながら食べます。寝るのも行きながら寝て、遊ぶのも行きながら遊んで……。
 それは、どれほど悲惨ですか。そうであればあるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。これは歴史的な内容だということを、皆さんは知らなければなりません。(80-226,1975.10.23)
               

 人の運はゴム紐と同じで、伸びたり縮んだりします。自分が運を100ぐらいもって生まれたのに、120ぐらい生きてから逝く人は、子孫が滅ぶのです。しかし、80ぐらい生きて死ねば20ぐらいの福を残し、その運勢を子孫に相続してあげて逝くことができるというのです。そうでなければなりません。(78-333,1975.6.10)


(2021.12.15:写経奉献)

 

2)死に対する正しい理解

 ①死は人生必然の道

 

 「70、80年生きればよい、死んでしまえばそれまでだ」と言いながら、「死ねばおしまいだ」と思って今まで生きてきた人々が多くいます。しかし歴史路程を通じ、考え深い人々は、「どのようにすれば人が死なないで永生できるだろうか、もっと生きられる道はないか」と考えてきました。志を抱いた人であればあるほど、「人生とは何か。人間は、なぜやって来て、旅人のように逝くのか」と言い、「人生は苦海だ」とか「草露の人生だ」という話をしてきましたが、永生することさえできるならば、そのように悩む必要がないのです。(39-229,1971.1.15)
               

 歩みをとどめ、揺れ動く心と傾く心情を抑え、「お前はどこへ行くのか」と尋ねて、それを解決するために闘って来た人々が聖賢、賢哲であり、あるいは数多くの道主たちだということが分かります。彼らは、それを解決するために出てきましたが、今日まで「私の体は、このような所へ行って、私の心と私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走るのである。だから天下のもとにいるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物は、こちらへ行きなさい」と自信をもって命令した人はいません。(8-194,1959.12.20)
               

 皆さん、ここで永遠に生きますか、無形の愛の実体になったところで永遠に生きますか。神様が無限な創造世界を見せたいと思う時、皆さんはこの体で、神様についていくことができますか。ですから霊人体が必要なのです。これは妄想ではなく、事実なのです。見えない精神の中心となる神様がいらっしゃって、その神様が相対的存在を必要とされるならば、人間を連れてきて自分が創造した永遠のそのすべての理想圏を見せてあげたいのであり、与えたいと思われるのです。(111-112,1981.2.1)
               

 服が一着しかないのに、それを誰かが脱がそうとすれば、死んでも脱ごうとしないというのです。春夏秋冬、四季の服を備えておいて、もう春なのに冬服を着ている人には春物を持っていって、「冬物は脱ぎなさい」と教え、(夏なのに)春物を着ている人には夏物を持っていって「(春物は)脱ぎなさい」と教えなければならないのです。そのようなことを知らなかったというのです。人間の死の問題もそれと同じようなものです。代替できる、より価値のあるものが何であるかを知らなかったというのです。(200-91,1990.2.24)
               

 天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望をもって死の峠も越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら暮らせるように、無限に心を砕かれたのです。それゆえに信仰生活をする人々は、地上の希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えられる希望を抱いて、永遠なる希望の世界を夢見て生活しなければならないと教えてきました。(6-44,1959.3.22)
               

 皆さんは、すべて霊界に行かなければなりません。それが一つの国ですか、二つの国ですか。一つの世界です。それでは、その世界で生活する内容とは何でしょうか。それを考えてみましたか。水の世界の魚は、水の世界を離れては生きられないのです。水が絶対的な生命です。
 河川に暮らす魚が河水だけにいては駄目です。海水にも行ったり来たりしながら生きなければならないのです。なぜそうあるべきですか。淡水の魚は、海水と接するその水を味わうことなしに繁殖することができません。それを知らなければなりません。海に暮らすものは、必ず淡水に来てその水を味わってこそ繁殖するようになっています。二つの世界に通じなければならないのです。心と体も、そのようになるのと同様に通じなければなりません。(210-128,1990.12.17)
               

 死の道は、友もいない道です。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただひたすら一人で行かなければならない道です。行ってみることもできず、行けば戻ってくることができない道、一度行けば永遠に帰ってこれない道ですが、この道を行くようになる時に、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着する瞬間、その死を越えて立ち得る希望がないとするならば、そこでおしまいです。(6-53,1959.3.22)
               

 韓国語の中に、年を取って死ねば、「トラガショッタ(帰られた)」という言葉があります。おじいさんやおばあさんがなぜいないか尋ねられると、「トラガショッタ(帰られた)」と答えるでしょう?どこへ帰ったのでしょうか。霊界へ帰ったのです。
 本来、無形の神様から出発したので、本然の故郷は無形の世界です。無形の世界から有形の世界を経て地上で繁栄して暮らし、その次には再び無形の世界へ帰っていくのです。そのように帰るのです。無形の父から出発し、有形の父の体を借りて生まれて暮らして、有形世界の体を脱いで本然の形態へ帰ることが、霊界に行くということです。(242-166,1993.1.1)
               

 人間の男性も女性もみな五官をもっています。その中で頭に四官があります。目、鼻、口、耳、手、これで五官ですね。ここで一番重要なものは頭にあります。この頭にある四官というものは、神様を中心とした霊界を象徴します。肉体とは別個の世界でしょう。その頭は、思いのままに回ります。それはなぜ回るのかといえば、四方を見るために、四方を聞くために、四方のにおいをかぐために、四方に向かって話すためにです。それゆえに、もし頭が回らなければ、どのようになりますか。とんでもなく不便だというのです。(228-125,1992.3.27)
               

 この地上に生きている人間は、第3世界である本然の世界に帰らなければならず、愛の世界に行って暮らせる私になるために、愛の世界において呼吸器官のようなものを準備しなければなりません。この肉身を破裂させて出ていくのです。赤ん坊が、自らの家を破裂させ、破壊して出てくるのと同じです。それゆえに、産みの苦痛を受けるでしょう? 同じように、第2の産みの苦痛が死です。
 肉身が生きている間は、何を準備しなければならないのでしょうか。水の中で、空気やすべてのものに合わせ得る呼吸器官を準備したように、この肉身の世界では、霊界に行って愛の器官を中心として呼吸し得る準備をしなければならないのです。そうして、体をすべて破裂させて出て行くようになれば、愛の器官を中心として呼吸し、制限的な環境に生きてきたことを越え、無制限に自由奔放な人間として生きなければならないというのです。(274-104,1995.10.29)
               

 私も神様に似てみたいし、神様も私が神様の息子、娘であるならば似るようにさせてみたいという観念をもつことは、必然的なのです。ですから、私は神様に似てみたいし、神様は私を連れていきたい、このことを可能にする道を模索するはずです。それで、人は再び神様と似ることができる体をつけて生まれるべきだ、という結論が出てくるのです。そのように生まれる日を神様も待ち焦がれるはずであり、人間も待ち焦がれるはずです。そのような人として生まれる日、そのような体で生まれる日、それは必要ですか、必要ないですか。これが、死だというのです。
 それでは、人間は、死を歓迎しなければならないでしょうか、歓迎してはならないでしょうか。死ぬにおいて、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから、肉身を脱ぐことは、無限な神様の愛の活動圏に私が同参するためであり、神様の愛の世界のためだというのです。(116-172,1982.1.1)
               

 神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では、「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。それでは神様は、それを見てゲラゲラ笑いますか、それとも「うー」と言うでしょうか。人間世界では泣いたりわめいたりしているのを神様が見るとき、悲しむでしょうか、喜ぶでしょうか。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内へ突入できる喜びを迎えることができる瞬間が、第2の出生の瞬間、死の道を通過するその瞬間ではないでしょうか。
 それなら、神様が皆さんの肉身が死ぬ日を喜ぶでしょうか、第2の無限拡大世界の愛のために活動する息子として生まれるその時間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱しなければ神様と関係を結ぶことができない、という事実を知らなければならないからです。(116-172,1982.1.1)
               

 神様の息子として、本当に生まれる日には……。あの無限な星の中で、ダイヤモンドの星の世界があると思いますか、ないと思いますか。それを考えてみてください。ダイヤモンドが欲しいでしょう。「金だけでできている星はない」とばかりは言えないのです。それは、あり得ます。私たちの父である神様は、どれほどお金持ちでしょうか。考えてみましたか。無限のこの宇宙を、あっという間に往来できます。そのことに関心がありますか。本当に関心がありますか。そのためにはどうしたらいいかというと、神様が「やってはいけない」、「やりなさい」というその法度を守らなければなりません。そうしてこそ、それが可能であって、自分勝手にしては可能ではない、ということは理論的に正しいのです。
 皆さん、神様が「やってはいけない」、「やりなさい」ということを守れますか。「人は二重になっていて、心が主体で体は相対なので、心と体が一つになりなさい!」。これは正しいですか、間違いですか。(116-174,1982.1.1)
               

 神様の恨とは何ですか。真の息子、娘を心情的完成者として教育できず、兄弟的心情を教育できず、夫婦の心情を教育できなかったことです。この地上において夫婦がこうでなければならないというその心情的基準で教育できず、夫婦になって母となるにはどのようにしなければならないかという教育ができなかったというのです。これが、人生の教本だったのに、その教本をすべて失ってしまい、自分勝手に生きる人間像になってしまったので、霊界に行く時は地獄に行くのです。地獄に行くにも、一つの所に行けないのです。地獄に行っても放浪する、あらゆる群れがいるのです。これを収拾しなければならないのがアダムとエバですが、知らずに堕落したから完成がないのです。
 それゆえに、すべてのことを知っている神様が責任を負うのです。救援摂理を誰が主導するのかといえば、神様が主導し、復帰摂理も神様が主導しなければならず、再創造摂理も神様が主導しなければならないのです。(228-268,1992.7.5)

 

(2021.12.16:写経奉献)

 

 ②死は3世界を連結する過程


 私たち人間の一生は、腹中時代10カ月、肉身時代100年、そして霊魂時代の千年、万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば口、鼻、目、3段階になっていますが、これは人間が生きて行く3時代の姿を見せてくれているのです。
 口は物質の世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界の天上時代を表しています。(298-304,1991.1.17)
               

 皆さん、人は最初生まれる時、最も深い水の中で生まれるのです。腹中時代は、水中時代です。赤ん坊が母の胎内にいる時は、水中にふわふわ浮いています。さっと考えれば、母の腹中時代には息が詰まって生きるのが難しいように感じられます。しかし、赤ん坊は胎内が宇宙です。そこが水中でも、赤ん坊にとってはその世界が自由天地なのです。水中に生きているので当然、水を飲んだり出したりすることをしなければならないでしょう。そのために、腹中の子供たちは、ホースをおなかに連結して暮らすのです。(299-69,1999.2.4)
               

 人は3世界、蘇生、長成、完成時代を経るのです。腹中での水世界、それから地上での地球星世界、その次には天上での空中世界で住みます。言い換えれば、腹中の水中時代、地上に生まれて暮らす100年地上時代、それから飛び回る空中時代、このように3時代を経るのです。
 腹中にいる時は、外側の世界へ行こうとしますか、ここにくっついていようとするでしょうか。このくらいの穴から私が抜け出さなければならないならば、「うー」と言いますか、「ああ、これはいい!」と言いますか。「そのためには、お前の家がすべて破壊され、お前の暮らしていた所の栄養価値とすべてのものが流れ出て、お前の頭も長く伸ばされ、体も伸ばさなければならないのに、それでもいいか」と尋ねれば、皆「ノー」と言いますか、「イエス」と言いますか。生まれる直前まで、母は死にそうになりながら、力を入れて子女が生まれるその時間まで「ノー、ノー、ノー」としつつ、ぐっと……。追い出すので出てくるのです。それで、一つの世界はなくなり、次の世界でまた「ふうふう」息をするのです。(116-174,1982.1.1)
               

 この地球星は母親のおなかのようなものです。このことをはっきり知ってください。腹中時代には、何によって食べ、息をしますか。口で息を吸い、鼻で息を吸いますか。どこで息をしますか。食べるのもへそで食べて、息もへそで吸うでしょう。へそですべてするので、食べる口も必要なく、息を吸う鼻も必要ないのです。見ることを可能にする五官が必要ですか、必要ありませんか。必要ないのに、なぜあるのですか。目があり、鼻があり、口がなぜありますか。外に出て使うためにあるのです。(295-321,1998.9.24)
               

 腹中時代には五官を使いますか。五官が必要ないでしょう。おしっこもしないし、うんちもしないし、すべて死んだようになっています。10カ月そのようにしているということが不思議ではないですか。おしっこやうんちは、真の愛より先んじることができないというのです。おしっこやうんち自体が人より先に出てくることはできないのです。アダムが出てきた次にそれが始まるのであって、先になることはないのです。そのようになっているというのです。(297-12,1998.11.15)
               

 人間を見ると、腹中時代には、水を飲まなくてはなりません。そうです、人間の4分の3は水です。(ところで)人間世界とは、空気世界です。それゆえに水中にいる時には、目、耳、鼻など五官が必要ないのです。水中では五官が必要ないので、目を閉じて微動だにしないのです。腹中で10カ月育つとき、鼻で息を吸ってみましたか。鼻で息を吸っては死んでしまいます。五官が完全にふさがっているのです。(302-166,1999.6.13)


 ところで、鼻は、なぜ必要ですか。時期の世界のために準備するのです。このときに、空気が鼻から次第に呼吸器に入っていくならば、このあらゆることを破壊して出てこなければならないのです。ただ、これも切ってしまわなければならず、母の子宮や水の家すべてを破壊して出てこなければなりません。それはどういうことかといえば、子宮と水の袋、その環境がすべて破壊されるのです。死ぬのです。水中世界に破壊と終末を告げて、新しい出発が始まるのと同じです。(122-327,1982.12.1)
               

 へそに緒がついているのを再び使わなければなりませんか、切って捨てなければなりませんか。切って捨てなければなりません。「人の命綱を・・・・・・、なぜ人と人の命綱を切るのか・・・・・・」と、赤ん坊は死に物狂いで「わーわー」泣くけれど、神様が見る時は、笑いますか、泣きますか。全く同じです。空気の世の中で、今まで霊人体が、体にくっついて、胎児のように肉身を吸い取っていましたが、肉身がすべて老いてしまったので、け飛ばして出ていこうとしているのに、肉身が「ああ死にたくない。死にたくない!」と言うとき、神様が見れば、ほほえみますか、「ああ!」と同情しますか、「こいつめ!」と言うでしょうか。
 赤ん坊が生まれて、父母の前に愛の対象になり、父母と愛の友になれる所が地上世界です。そして、父母と愛し合える地上世界に生まれるのと同じように、霊的無限な世界に通じる父母であられる永遠な神様と、愛を交わせる霊界に生まれなければならないのです。(116-174,1982.1.1)
               

 地上で愛を呼吸する人は、死んだのではなく、生きたのです。腹中で呼吸をしていたときには、未来の空気世界のパイプを装置して生きていました。生きてはいましたが、へその緒に連結された胎を破壊し、死んで、出てくるようになる時には、新しい次元、高い次元に、どれほど変化するでしょうか。高い次元で供給を受けるのです。空気の供給を受けて出てくるというのです。ここで出てきてからは、また何によって発展させますか。愛です。愛の要素を受けるのです。御飯だけ食べていてはいけません! 御飯を食べることは、死に向かって進んでいるのです。水を飲んでこのように暮らすことは、すべて死に向かって進んでいるのです。ここで何のために、この期間に何を満たせばよいのですか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなくてはなりません。(139-214,1986.1.31)
               

 腹中から空気世界へ連結させて出てくる時は、腹中世界で生きたへその緒と水の袋をすべて破壊して出てこなければなりません。その器官、腹中のへその緒と胎は、破壊されて死ぬのです。死と同時に何が出てきますか。この宇宙、地球星の母のところに現れるのです。このようにして、口によって元素の補給を受けて生きているのです。(139-212,1986.1.31)
               

 せみが飛ぶ前の幼虫のとき、「私は幼虫として生きるぞ。ああ殻を脱ぐのはいやだ!」と言っても、脱いでしまえば、パタパタと飛ぶようになるのです。幼虫からせみになるときに、それを脱ぎたいですか。「ああ、陸地も空気もみないやだ!」と言うでしょうか、「私は良い。早く脱がせてくれ」と言うでしょうか。飛ぼうとは考えていないのです。(116-176,1982.1.1)


 とんぼも、初めは幼虫になって水中で泳ぎ回っていますが、地上に上がってきて、一時は這い回ります。その次には、パタパタと天下を自分の舞台として飛び回るのです。昆虫類の中には3段階の世界を経るものが多いのです。
 昆虫の中には、羽のない昆虫はいないのです。大概羽があるでしょう? 昆虫もこのように水で、陸地で、空中で生きるのに、万物の霊長である私たち人間が地上でだけ生きて良いですか。(49-288,1971.10.17)


 皆さんも「いやだ」と言うけれど、死んで(肉身を)脱いでみると、ひゅうっと飛んでいくのです。それがいやですか。事実がそうなのです。うそではなく、事実がそうであることを知らなければなりません。3段階の世界を経ることが(昆虫と)そっくり同じだという事実を、皆さんは知らなければなりません。死が私たちにとって、第2の出生であり、幸福になる関門だということを皆さんは知らなければなりません。(116-177,1982.1.1)
               

 昆虫も飛び、小鳥も飛び回れるのに、人が飛び回れないのですか。植物の種も、風が吹けば飛び回れるのです。たんぽぽの種は、自然に飛ぶようになっています。飛び回るようになっています。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのに、万物の霊長である人が飛べませんか。それならば、神様の前でとなしくしていられますか。「神様、みんな飛んでいるのに、私はなぜ飛べないのですか」と抗議したくないですか。神様が「こらこら! じっとしていなさい。お前たちも何十年か過ぎればそのようになるはずだから、それまで待ちなさい」と言う時、「えっ、本当ですか。やっぱりそうでしたか」と言ってもかまわないというのです。それでは、その時まで何をすべきでしょうか。その世界に行って合うように、ここで訓練しなければならないのです。
 父母を見て愛してこそ、神様を愛せるのであり、夫を愛してこそ、あの世に行って神様を愛せるのです。訓練場が地上世界だというのです。それでは、死なないでそれを願うことが可能ですか。この体を脱がずに可能ですか。体を脱がなければなりませんか、脱がなくてもよいですか。(116-176,1982.1.1)
               

 人は水の世界で一度生きてみたし、地上の世界で一度生きてみたでしょう。それでは、空中の世界で一度生きてみたいですか、生きてみたくないですか。皆さんが腹中から生まれるとき、「私は陸地の世に出て口で蜂蜜も食べ、餅も食べ、御飯も食べ、牛肉も食べ、みんな食べる」と考えてみましたか。そういうことを考えてみたことがありますか。「ああ、ここから出れば死ぬ」と言いつつ、へそで息をしながら生きているのです。そう考えると、どれほど苦しいでしょうか。今それを考えると、窒息するほどでしょう。それでも腹中から外に出て行くのではないかと思って、「ああ、出ていかなければいいのに」と言うのです。しかし、「出ていかないほうがいい」と言うかもしれませんが、時になればすべて破裂してしまうのです。羊水がぱっと破裂し、出ていくのに従って外に出れば、安産になるのです。よく生まれたということです。(49-286,1971.10.17)
               

 地上時代には、宇宙が母であり、万物が母です。これが地上です。地球星が母なのです。元素を皆さんに供給してくれるでしょう。別の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育っている時には腹中で呼吸をするのですが、何によって呼吸しますか。へその緒で呼吸するでしょう? これが、母の体と連結されたホースなのです。よく知っておかなければなりません。しかし、第2の世界、空気の世界に連結されたことを知っています。腹中で暮らしていたのをけ飛ばして出てくれば破壊です。その時は、涙と同時に何に連結されるかといえば、息をする穴、鼻の穴によって息をするようになっている、空気の世界に連結されるのです。空気の世界に連結されて、鼻の穴が唯一の補給路となります。(139-212,1986.1.31)
               

 水(を飲む口)は、腹中時代を象徴します。その次に、鼻は空気の時代です。母の腹中から生まれて、空気の時代です。その次には、目の時代です。太陽の時代、太陽の光の時代です。「愛は光だ」と言います。明るくなるというでしょう。光の世界です。                  
 人生は3時代を経て暮らすというのです。とんぼも水中で暮らし、地上に来て暮らし、殻を脱いで飛び回りながら虫を捕まえて食べます。3時代を経るのです。万物の霊長である人間も同じです。腹中時代。母の腹中から出てくる時は、自分が使っていた所帯道具を抱き締めて出てきますか、すべて破壊させて切り捨てて出てきますか。一つでもつけたまま出てくれば、大変なことになるのです。
 へその緒で食べたり息を吸ったりしていたのに、それを切って捨てれば死ぬでしょう。しかし、母の腹中から出てくる時は、それを切って捨てなければなりません。無慈悲に切って捨てなければなりません。すべてを破壊して出てくるのです。(299-37,1999.2.1)
               

 死ぬこととは何ですか。地上生活は、空気中で胎内にいた時のように泳ぎ回って暮らすことと同じです。空気のふろしきの中で生きています。そうではないですか。死ぬこととは何ですか。死ぬことは特別なことではなく、第3の人生として出生することです。その瞬間が死ぬ時です。そのように考えると気分が良いでしょう。(49-286,1971.10.17)
               

 この体が今、何をしなければなりませんか。腹中においてへその緒で息を吸う時と同じように空気のパイプである鼻の穴を準備し、破裂して出て来た時にへその緒に代わって息を吸うのです。それと同じように、生まれてしなければならないことは愛の体恤です。愛という空気を吸わなければなりません。父と母から愛という空気を吸い込まなくてはなりません。愛の空気の供給を受けて、すべて経ていかなくてはなりません。
 ある家庭に赤ん坊として生まれ、サインカーブのように上がっていってみな死んでいくのです。赤ん坊として生まれ、大きくなって、その次には分解されていくのです。赤ん坊として生まれ、赤ん坊として帰っていくのです。そのようになる時は、第2の腹中世界をけ飛ばし、第3の愛の呼吸器官に連結されなければならないのです。父母の愛、兄弟の愛をけ飛ばし、大宇宙の神様の本体に和する愛の世界へ入っていきます。
 霊界は愛の空気です。愛の空気がぎゅっと詰まっているのです。それゆえに皆さんは、今この地上世界で愛の息ができるパイプを装置しなければならないというのです。ですから、霊界の体験が必要なのであり、霊的な愛を感じて、それを呼吸できる人になってこそ死なないというのです。(139-212.1986.1.31)
               

 私たちは、いつかは肉身を脱いで霊界へ行かなければなりません。ですから、この世に生まれた私たちは、死を覚悟しなければならないのです。
 また、善の自我を永遠な世界で第二の私として立てるためには苦労をしなければなりません。母の腹中で胎教をよく受けてこそ健康で善なる赤ん坊として生まれることができるように、この地上世界の生活も腹中での生活と同じなのです。ゆえに神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の神聖な神性を見習って成長しなければなりません。成長し、また命を懸けて、愛でもって越えていかなければならないのです。(14-17,1964.4.19)

(2021.12.17:写経奉献)


 ③死はもっと良い世界へ移ること


 人間は、自分を中心として見る時は希望をもっているようですが、死の峠を越えられる希望をもつことができずにいます。そのような希望をもてないまま消えています。これを人生のパターンだと思って死んでいくべきか、そうでなければ、死を嘲笑して越えていける一つの希望を求め、その希望を楽しみながら逝くのか。これが、今日、地上で生きている人間たちが考えなければならない重要な問題だと思います。(6-45,1959.3.22)
               

 私たちは、結局どこへ行かなければなりませんか。霊界です。それはどういうことですか。「死後の世界」といいますが、死後の世界ではないのです。なぜ死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界なので、死後の世界ではないのです。真の愛を中心として出発したので、私が真の愛の位置に立つようになる時は、今ここが霊界です。霊界と肉界、二つの世界が一つのものです。それゆえに愛が偉大だというのです。(144-199,1986.4.24)
               

 皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は、地球です。皆さんは、体が大きくなるように、地からすべての要素の供給を受けます。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母のところに入っていくことが死ぬことです。第三の父母のところに行く時は、そのまま入っていくのではありません。第三の父母のところに帰ろうと思えば、本来の父母だった神様の姿に似なければならないのです。(138-98,1986.1.19)
               

 皆さんは「70になろうとも、私はこのように行かん」ということを一度考えてみましたか。「年齢が80になって死ぬ間際であっても、私はこのように行かん」ということを考えてみましたか。死ぬ場においても、「私はこのように歴史を明らかにし、今までこの時代にこのようなことをしてきた」と言い、今後もそのようなことをなせるという証拠物を提示できなければなりません。言葉だけでは駄目です。そうしてこそ、彼が死んだのちに、人々が彼にすがって涙を流して、「そうだとも、そうだとも」と言うのです。そのようにならなければなりません。(73-116,1974.8.16)
               

 人生の行くべき道とは、無限であられる愛の神様を探すことです。10回でも100回でも、死の峠を経たとしても、また死んだとしても絶えず探していかなければならない神様の愛、その愛を探すことが人生の最高の行くべき道です。(39-210,1971.1.10)
               

 人が生きて行くにおいては、必ず達成しなければならない目的があります。その目的を中心として10年、20年、30年、70年、一生の間行かなければならないのです。目的が大きければ大きいほど、内的により一層強く決意しなければなりません。そうでなくては、その目的に到達できないのです。時間という過程を通して、その目的を凌駕できる内的な決意を続けない限り、その目的を達成できないというのです。(31-149,1971.5.24)
               

 心の終着点、すなわち欲望の終着点とはどこでしょうか。神様の愛を占領する所です。神様を占領したとしても、その中でもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自らの神様ではありません。ですから、神様の愛を占領しなければならないのです。その愛だけ占領すれば、神様はいらっしゃらなくてもかまわないというのです。その方のものが私のものであり、私のものがその方のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。そのような国が、上下の等級がない理想の本国となるのです。
 そのような場に横たわるようになれば、天下にあるすべての存在が、自分のためにないものがない、と感じられるのです。そのようなものが神様の愛ならば、今日、人間の行くべき天上世界、すなわち天国はどのようになっているでしょうか。そこは、愛によって充満している所です。(39-210,1971.1.10)
               

 統一教会の先生は、どのような位置で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国まですべて抱いて、世界のために死ぬのです。韓民族が一つになって世界のために死のうとするときは、世界と共に生き得る道があるので、その道を探し求めて行くのです。(34-192,1970.9.6)
               

 おじいさん、おばあさんも、千年、万年の後代の子孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生へ行くその公式的路程は同じなのです。そこには「ため」に生きた人々だけがパスできる正門があり、そこを門番が守っている事実を知らなければなりません。そこにパスできる資格者をつくってあげるために先生がお願いするのだということを、よく理解して下さい。(203-193,1990.6.24)

(2021.12.18:写経奉献)


 ④死は新しい次元への昇華である


 堕落しなければ、人が死ぬことは幸福です。それで今日、統一教会は、死を悲しみで迎える教会になってはならないと教えるのです。それゆえに、死を「昇華」と言います。(199-353,1990.2.21)
               

 皆さんも肉身を脱いで死ぬことが嫌だというでしょうが、実際死んで肉身を脱いでみると、私たちは、霊人体として第二の出生の幸福の関門を通過するために、さっと飛んでいくのです。(297-261,1998.12.19)


 私たちは、初め母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくる時、すべてけって、切ってしまってから生まれるのと同じように、私たちの霊人体にとって肉身はふろしきのようなものなので、これを切ってしまって飛んでいくのです。ですから、結局人間は、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠なる真の愛の世界で生きるようになるのです。(208-311,1999.1.17)
               

 統一教会は、死んだのちの葬儀も、そのようにしません。昇華式なのです。この世において怖いものがどこにありますか。罪悪の世界、混乱した世界において自主的な中心の形態を備え、天地の度数を合わせ、神様の愛の圏内の垂直の位置に入っていくようになります。なぜ垂直の位置に入っていくのでしょうか。その場には影がありません。垂直の位置に影がありますか。すべてのことが完成です。それからこれが回るようになるので、その回る環境全体が垂直化されます。(198-124,1990.1.25)


 自らの死に直面するとき、いかに90度で天上に跳躍し、昇華して上がっていくかということが問題です。45度で行けば、そこにたどり着くことができません。ただ90度でのみ上がっていってこそ、神様の愛の相対になれるのです。神様の愛は直短距離を通じるので、90度以外にはありません。垂直しかないのです。(215-109,1991.2.6)
               

 統一教会では、死んで葬儀をすることを「昇華式」と言います。死んだ人にすがりついて泣くのを見れば、死んだ霊が嘆息するというのです。「こんなに無知だから、私の行く道を綱で引っ張り、行くことができないようにしている」と言うのです。そのようなことを知っているので、統一教会では「昇華」と言うのです。高潔に飛翔するというのです。愛の力をもって押してあげなければなりません。引っ張らず、押してあげなければなりません。(199-130,1990.12.24)


 昇華式とは何ですか。変化して1段階上がって行くということです。(196-55,1989.12.24)
               

 今日、人間が死んで行くとはどういうことかを知らなかったのです。それは、悲しみではないというのです。それは、次元が低い世界から次元の高い世界へ、愛の橋を通じて移動することとみなすのです。ですから統一教会では、死を「昇華式」と言います。次元高く昇華するということです。それは愛でのみ可能です、愛でのみ。(137-316,1986.1.5)
               

 神様は、誰のためにいらっしゃるのでしょうか。愛の主体であられる神様は、愛の相対を探すため、立てるためにいらっしゃるというのです。何を中心として? 真の愛を中心として。真の愛は、「ため」に生きて投入して忘れてしまうのです。そこに永生があるというのです。世の中の万事がそうです。私のような人は、そうです。永生問題を知っているので、絞首台が問題ではありません。怖いものがありません。それゆえに統一教会では死を「昇華」と言い、その式を「昇華式」と言うのです。
 統一教会員たちは、霊界に行っている妻と話しながら生きているのです。今この世では、そのようなことを理解できずにいるので、あきれかえります。それは、お金を払って買うことができますか。(209-160,1990.11.28)
               

 昇華式は、興進が行った時から生じました。その時、成立したものなのです。病院で酸素マスクをしているのを先生が外さなければならなかったのです。霊界へ行く道を、すべて整理しておかなければなりません。そうすれば、堕落圏がありません。それゆえに興進がこの前、来て役事しながらも、「お父様に対する負債は返す道がない」という話をしたのです。真の父母の家庭で育った青少年で、霊界に行ったのは初めてです。興進が行くことにより、霊界の再臨主と同じように霊界のメシヤとして行ったのです。それで、彼と一つになることにより、高い所に上がっていくのです。(225-136,1992.1.5)
               

 霊界に行くことは、悲しいことではありません。解放のラッパの音とともに天国の旗を掲げ、足どりも堂々と百戦百勝し、天下の故郷に錦を飾る旗を掲げて、民族と人類の歓声を受けて堂々と入っていくことができる還故郷の道です。悲しいことではありません。統一教会では泣きません。それを何と言うのですか。「昇華式」と言います。(227-260,1992.2.17)


 ゆえに興進君が行くことによってこの死亡の垣根を、死の垣根を壊してしまうのです。それで、「昇華式」と言うのです。
 死は、落胆や気落ちではありません。落ちるのではなく、跳躍するのです。昇華するのです。ですから統一教会の食口たちは、死に対する恐怖をもってはいけないのです。死は、このような自然循環の法度によって来るものです。もっと良い世界に移してもらうための手順なのです。(196-270,1990.1.2)
               

 愛で、すべての死亡圏に勝ったのです。「真の愛は死亡圏に勝つのである!」。これが創造原理です。それで、「愛勝日」を宣布しました。今、興進君がそのように霊界に行くことにより、私たち統一家のすべての息子、娘たちが昇華式を行うようになるとき、サタンが讒訴する何らの条件もないというのです。あの世に行く船に乗るようになっても、義人たちがすべて迎えにくるのです。そのような、歴史的で大革命的な次元に連結される時間です。(242-278,1993.1.2)
               

 「愛勝日」という言葉は何ですか。皆さんは、それを知らなければなりません。先生は、興進が死んでから送り届けるまで、涙を一滴も流しませんでした。死亡圏に勝たなければならないのです。愛をもって死亡に勝ったという、このような立て札を立てなくては昇華式がなされないのです。
 「昇華式」という言葉は興進君から出てきたでしょう? そうでしょう? その「愛勝日」という、その愛勝とは何ですか。死亡に勝つことです。他の人々と同じならば、お母様も身もだえして痛哭せざるを得ないことですが、お母様が涙を流してはいけないのです。三日以内にこの式をしてあげなければならないのです。死亡に勝ったのだと宣布しなければなりません。
 それゆえに、統一教会では昇華式が生じたのです。死亡を越えて喜びに向かっていくのです。昇華式を経ていく人々は、霊界のすべての谷間をひゅーと越えていくのです。もちろんそうでない者たちは、行って中間にとどまっています。それを知らなければなりません。昇華式というものは、興進君から始まったのです。(212-96,1991.1.2)
               

 統一教会においては、人が死ねば昇華式をするでしょう? それは跳躍して別個の世界へ移動する瞬間です。それゆえに歓声を上げなければならないのです。死んで行く人は、霊界をよく見るのです。泣くような所へ行くのではないのです。楽しい所に移動していくのです。堕落したので、目がすべてめちゃくちゃになって分からなくなったのです(255-294,1994.3.11)
               

 痴呆が起こることも、世の中で良心自体が麻痺して肉体に主管されれば、地獄の霊人体と対話しながら痴呆が起こるのです。そのような人は、善の霊人を通し天国の理想を記憶させて、順次浄化して昇華、昇天するようにしてあげなければなりません。(258-136,1994.3.17)
               

 すべての人々は生まれて、結婚して、死ぬ時に戸籍地に申告をするのです。私たちもそのようにしなければならないのに、私たちの国がありません。私たちの国があれば、私たちも生まれて、結婚して、昇華する時に登録をしなければなりません。あの世に行けば、皆さんは、アメリカ人として入っていくはずです。「どこから来たか」、「アメリカから来た」、「天国に入りたいか」と、そこの門番が尋ねてくるのです。「どこから来たか」、「真の父母に侍っていた地上天国から来た」と言えば、天国に入っていくのに何の問題もないのです。これは事実です。コンセプトではなく、事実なのです。(278-36,1996.4.28)

(2021.12.18:写経奉献)


 ⑤死の前での姿勢


 人々が死ぬ時、最初に誰を呼びますか。神様を呼びます。最も難しい立場で神様を求めることは、その個人にあっては最高の真実です。死ぬ時、本当に神様を呼んで死ぬ者には許される道が開きます。それはなぜでしょうか。死の道理がそのようになっているためです。その原則に近い立場で、その原則だけつかんで死ぬようになれば、回生できる道が開かれるのです。
 それゆえに、すべての人々が死ぬ立場に行くと、「ああ、神様」と神様を求めるというのです。これは教訓の中の真実の教訓です。人が死ぬ時は、それでも正しい言葉を残して死ぬのが普通でしょう。そのようなことを見る時、誰が教えたのか分かりませんが、よく教えたものです。それは、正しい言葉の中の正しい言葉です。(26-297,1969.11.10)
               

 死ぬ時も四位基台を備えなければなりません。四位基台を備えることができずに死ぬ人は、死への道も正しく行くことができません。それゆえに死んだのちも、霊魂が行ったり来たりするのです。それでは、このような原則を知っている皆様は、死ぬ時には誰をつかんで死にますか。神様、その次には真の父母です。生まれる時もその方を通して生まれて、死ぬ時もその方を通して死んでこそ、霊界でも永遠に共に暮らすのです。その方を通して出て、その方を通して結末をつけるのです。すべてこの原則のもとで生きて行くことが孝の道理であり、忠の道理なのです。
 このような孝と忠の道理を果たした人が、人生行路において果たすべき責任を全うして行く人だ、という結論が出てくるのです。生き方は、このようにしなければならないのです。(26-297,1969.11.10)
               

 皆様が死ぬ時、何を中心として死にますか。愛をすべて忘れてしまって死にますか、しっかり抱き抱えて死にますか。愛の中でも誰の愛をつかんで死にますか。父母の愛を先につかまなければなりません。それから夫婦の愛と子女の愛をつかまなければならないのです。死ぬことも、四位基台の原則に符合しなければならないのです。(26-297,1969.11.10)
               

 今後、皆様の子女にどういう遺言を残すべきかというのです。どういう遺言をするのですか。父母がしていないのに子女に、「しなさい」と言えますか。そのような父母は、子女を利用しようと思っている父母です。ですから、皆さんが先に実践してから、死ぬ前に息子、娘に「私はこのように恥ずべきことがないように生きたから、お前たちもこのように生きなさい」と遺言をすれば、その遺言は神様が永遠に守ってくださるのです。皆さんは、死ぬ時に、子孫にそのように遺言する自信がありますか。これは深刻な問題です。(26-300,1969.11.10)
               

 普遍的に人は、歴史において、永生を中心として十年、百年だけではなく、千年、万年、億千万年を考えるようになるのです。人が死ねば動物と同じなのに、それ(名前や名誉)を残してどうするのですか。近ごろは、宗教を信じず神様を知らない人も、「ああ、名誉を残さなければならない」と言っていますが、その名誉を残してどうするのですか。
 アメリカの愛国者になって記念館に入ったとしても、アメリカが滅びる時は記念館がすべて壊れてしまうのです。知っているのはアメリカ国民ぐらいです。名前を残してどうするのですか。ですから、滅び、また興隆する歴史時代に行くら残したところで、「良い」と言っていたものも悪く取り扱われるのです。しかし、すべての主権者は百年も生きることができずにみな死に、国も何百年、何千年もたたないうちに滅びますが、永遠に死にもせず滅びない方がいるならば、どうでしょう。そのような方がいるならば、名前、名誉を残したことを、その方の前にすべて任せて依託したいのです。皆さん、そのように考えてみませんでしたか。(103-16,1979.1.28)
               

 天国を中心として死ななければなりません。天国は、世界のどの国よりも大きいでしょう。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。
 それでは、どこで死ぬのでしょうか。死ぬにも場所があるのです。これは、韓国的なつまらないものではいけません。韓国的にいくら死んでも駄目だというのです。最高の位置、天上天下を通過した、神様の心情の国を中心とした、最高の位置で死ななければなりません。天国の真ん中で死ななければならないのです。その天国が最も良いのです。
 それでは、世界がすべて反対するとき、どのようにしますか。逃げればいいですか。違います。平然と耐え、天下がすべて旗を掲げて歓迎する立場で死ななければならないのです。(34-185,1970.9.6)
               

 神様のみ旨を信奉して、神様のみ旨を立ててきた数多くの人々はどのような人々だったのかといえば、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通じてよく知っています。
 皆さんは、各自が死に逢着したとしても、これを越え得るという希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えていけば、私は天の前に堂々と立つようになるはずだという希望と、心で憧憬した世界、その本郷に向けて喜んで走れなければなりません。神様の理想世界を願う心が切実であってこそ死に勝つことができる存在になる、ということを皆さんは悟らなければならないのです。(6-53,1959.3.22)
               

 天の希望を抱いて暮らす人は、どのような人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も、喜びによって越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱いて暮らす人だ、ということを知らなければなりません。
 それゆえに皆さんは、死を前にして世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、喜んで天の前に立ち、自らの死の価値を誇り得る人にならなければならないのです。天は、このような希望の息子、娘を探していらっしゃるという事実を、私たちは知らなければなりません。
 このような立場に立って天の喜びを感じた人がいるとするなら、その人は、神様が愛すまいとしても愛さざるを得ない人です。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがあるとするなら、天はその泣き叫ぶことにこたえまいとしても、こたえざるを得ないのです。(6-54,1959.3.22)
               

 み旨のために死のうとする人は生き、生きようとする人は死ぬというのです。これはどういう話ですか。み旨のために死ぬべき立場では、死ななければならないというのです。それでは、死ねばどうなるでしょうか。死ぬ前には私のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは、私たちが堕落した血統を受けたからです。
 ですから、死ぬ前までは、私たちの生命すべては、サタン側の因縁から抜け出せないのです。しかし、死んだのちには神様と因縁が結ばれるのです。生命と死を見てみるとき、どちらが強いですか。死より生命がもっと強いですか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。したがって、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬことを嫌がってはいけないのです。(34-47,1970.8.29)
               

 劉孝元協会長がこの世を去る時、「先生に会って今までこのようにやってきたが、終わりをどのように結ぶのか」と私が尋ねたところ、劉協会長は、「永遠に変わらない」という言葉を残して逝きました。そうでなければならないのです。サタン世界は、いずれ死ななければならないのです。死ぬことなしに復活はできないのです。一つの時代を経なければ、他の時代を迎えられないのです。(34-47,1970.8.29)
               

 聖書でいう死とは、どういうことですか。神様が永遠にもち得る生命を殺せということではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せということです。ですから、み旨のために死のうとする人は生きるというのです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。
 これは復帰の正常な論法です。それゆえに、生命を差し出せるかということが、最も大きな問題です。先生がこの道を出発する時は、どうだったでしょうか。私は、生命を差し出す覚悟ができているかを考えました。(34-47,1970.8.29)
               

 私の生涯において、何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。これが結論なのです。「愛の墓を残していこう!」。愛の墓の中で生きれば恨がないというのです。墓のような、いくらうんざりするような所で生きても、愛の中で生きれば恨がないというのです。「私たちは、生きながら愛の墓を残していこう!」。そうすれば、人生は永遠において成功するのです。
 そのように皆様が生きて死ぬ時は、神様が祝福してくださり、霊界では神様が息子、娘を連れて歓迎しに出てくるでしょう。その時には、指輪をはめることができなかった手ならば、天国のダイヤモンドをはめてくれるはずであり、服を着られなかったとすれば、天国の皇族たちが着る最高の服を着せてくれるでしょう。
 私の一生は、何を残すのですか。愛の墓です。そのように理解して、それを忘れないで下さい。さあ、一度そのように生きてみるという人は手を挙げてみましょう。みんな挙げましたね。神様の祝福が皆さんと共にあるでしょう。(97-169,1978.3.12)

(2021.12.19:写経奉献)

 

 ⑥祝福によって永生の道が開かれる

  イ)最も重要なことは永生問題

 

 人は誰でも、自分なりの生の道を願って生活をしています。「生活」と言えば1日1日暮らすことをいい、「生涯」と言えば一生の生、一生を通して暮らすことをいうのです。さらに宗教をもった人々は、「永生」という言葉を使っています。
 永生とは一生ではなく、永遠の生活を送ることです。永生するためには、生涯路程をその永生にどのように連結させるかということが重要であり、それをすることが生涯の責任です。(197-186,1990.1.14)
               

 皆さんは、どのくらい生きると思いますか。みんな「70、80までは生きる」と考えているでしょう。その前に死ぬとは考えませんか。皆様は欲張りですね。私が一生を生きて行くのに、80で死ぬとか100歳に成って死ぬはずだと絶対的に信じるとしても、明日死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。ご飯を食べている途中で死ぬかもしれません。今夜、帰ってきて履き物を脱いで、眠っている途中で死ぬかもしれません。
 皆さんの考えでは「ああ、私は若いので、これから少なくとも40年、50年は生きる」と、そのような欲をみんなもっているでしょう。神様に保証を受けていますか。皆さんは、できるだけ短く、1年以内に死ぬと思いなさい。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。この観念をもって生きなければなりません。できるだけ短く計画するほど幸せだというのです。短く計画を立てるほど損をしないのです。その期間に真実に準備するその内容が、自らの永遠の生命の家を建てるのです。(102-122,1978.11.27)

               
 夜に寝床に入る時、脱いでおいた履き物を翌朝、再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、世の中に永生の問題以上に重要なことはありません。(この道を)離れていく人々がいるのは、この世で永生問題を決定するという、深刻な思い彼らにないためです。(10-249,1960.10.21)
               

 信仰の道とは、今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠な世界の生活のための準備であるに違いない、という信念だけもつようになるならば、それはほうっておいてもかまわないのです。人は時が過ぎていけば行くほど、40を越え50を越えるほど、死ぬ日が近づいてくるので、永生概念が深刻化するというのです。年を取るほど、ますます深刻化するというのです。愛というのは年を取るほど希薄になりますが、永生概念だけ入れると、年を取るほどますます深刻化するのです。
 それゆえに、宗教理念だけが今後、世界を主管できるのです。邪悪な環境、混乱した変化がどれほど頻繁に起こっていますか。頻繁に変わる環境を貫き越えて、いかなる所で悲喜劇がぶつかってきても、永生概念だけ徹底すれば、すべてのことが問題にならないのです。(230-22,1992.4.15)
               

 神様は人を、どのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対、唯一の価値をもてる、愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。このごろ、人間一人の生命の価値がどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではないというのです。
 神様において、宇宙を与えられても取り替えられない高貴な価値、その愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実、それはすてきでしょう。(142-143,1986.3.8)
               

 私たち人間は、神様が造られた創造的な傑作品として、神様に似て生まれたというのです。神様が永遠であられるので、私たちも永遠な性稟をもたなければならず、私たちの心は、老いないというのです。それゆえに、人は永生しなければならず、永生してこそ、その傑作品としての存在的価値をもてるというのです。(159-281,1968,5,19)
               

 人々は誰彼を問わず、最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものであり、また私は神様のものなのです。そのようになれば私は神様の息子になり、神様御自身にもなるので、宇宙は誰のものになるのですか。神様が最も愛して、最も貴く思う物があるならば、それを1日、あるいは10年や100年ぐらい共に過ごしたのちにほうり投げるようにつくったでしょうか、永遠に共にいるようにつくったでしょうか。永遠に共にいるようにつくられたのです。
 人も同じです。人が生まれて死ねばそれまでだ、となるのが良いですか、永生しなければなりませんか。永生しなければならないのです。なぜでしょうか。絶対者、神様が絶対的な愛を中心として喜び得る対象だからです。(39-342,1971.1.16)
               

 神様が永生なさる絶対者ならば、その方が愛する対象も永生しなければなりません。それで、人々は古くから永生することを願うのです。これを、はっきりと知らなければなりません。それゆえに、絶対者である神様は、永生する価値をもった愛する息子、娘を求めざるを得ないというのです。(39-343,1971.1.16)
               

 愛すれば愛するほど、共にいたいのです。愛する妻が死ねば、その妻のハンカチを持って独りで生きた人もいます。ネルーのような人は、自分の妻が若くて死んだのですが、その妻がバラを好んだからということで、一生の間バラの花をつけて行き来しながら過ごしたのです。それなら神様が、一つしかない限りなく貴い息子、娘たちを造る時、100年くらい生き、そして滅びるように造られたでしょうか。それゆえに、人は永生することが原則です。(39-342,1971.1.16)
               

 人は愛で生まれ、愛で大きくなり、愛で生き、愛で死にます。ところが、そのままなくなるのではないのです。
 神様、主体であられるその方が永遠、不変、唯一なので、その前に対象的愛の位置に立つようになる時は永生するのです。永生という理論がここから生じるのです。生命から始まるのではないのです。(142-143,1986.3.8)

               
 愛のゆえに人間を造ったとするならば、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様であるために愛に一致した人間自体は永生を備えている、ということは自然的な論理です。それゆえに永生しようとするなら、その真の愛圏内に生きなければなりません。(211-272,1990.12.30)
               

 「私たちは、永遠であり得る! 永生を願う!」。永生を願うにあたり変わらないのは何か。「愛だ!」このように歩むのです。ほかのものはみな変わります。環境的に変わるのです。それでは、愛はなぜ変わらないのでしょうか。愛は、すべての生命力の中心であるがゆえに変わらないのです。愛がなぜ変わらないのでしょうか。愛は、理想的な要件の中心の位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなる前にはなくならないというのです。愛は宇宙の中心になっているので愛と一つになることにより、その愛は神様を中心とした愛と一致しているので、神様がいらっしゃる限り残っているというのです。(157-267,1967.4.10)
               

 永生、私は永生する人です。それから、真の愛を実践する人です。永生と真の愛を、私はここで実践する人だというのです。ですから、私がここでしているすべての仕事、工場で仕事をして何かをするそのすべてが、永生を延長させ得る材料だというのです。
 「永生を訓練して永生を育てる、このような訓練材料を生産することが、今、私がしている仕事だ」と考えなさいというのです。皆様に永生と真の愛は、いつも必要なのです。永遠に必要なのです。(216-127,1991.2.9)
               

 自分の体と心の完成は、真の愛に属することによって根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛により、真の愛を中心として神様も永存しています。
 神様が永存するのは、何を中心として永存しますか。永生は、愛によって連結されるのです。それで、永生の環境を成すには愛の環境を中心として生活しなければならないのです。愛の実体圏をもつには、愛を中心として実体的な体恤をしなければならないのです。(218-134,1991.7.14)
               

 「どのように永生するか」と尋ねれば、皆様はどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないというのです。愛によってのみ救いを受けるのです。神様の創造原則の本質的原則から見るときに、真の人だけが神様の愛の同伴者であるので、真の愛をもてば永遠に生きるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で生きるときに、自分がどこに行って生きるべきか、すべて見ながら生きるのです。(215-53,1991.2.6)

(2021.12.20:写経奉献)


  ロ)愛から永生概念が出てくる


 神様の性稟がどういうものでしょうか。漠然としているというのです。神様は絶対的であり、唯一、永遠、不変なのです。それは否定する道理はないのです。そのような愛をもった人は、絶対的な幸福者であり、唯一的な幸福者であり、永遠的な幸福者であり、不変的な幸福者です。そこに初めて永遠な自由があり、絶対的な自由があり、不変の自由、唯一の自由があるのです。そこで初めて幸福も、絶対、唯一、不変、永遠なものがあるというのです。そこに連結されてこそ、永生は自動的な結論だ、となるのです。(297-73,1996.7.24)
               

 愛をもてば、食べても食べなくてもかまわないというのです。愛し合う人同士では、寝なくても疲れず、食べなくても腹が減らないというのです。愛する人同士は、会って時空を克服するのです。神様もそのような愛する相対が来る時は、夜になれば寝なければならないですか。愛する相対が現れることにより、夜を克服できるというのです。ここから永生概念が出てくるのです。永遠の愛の力が続く限り永生できるのです。すべてのものを克服して愛化できるので、喜びの永生が連結されるのです。(277-22,1996,3,17)
               

 神様は絶対的な愛だというとき、その愛の前に絶対的な相対になって一つになるときは、神様が永存する限り人間も永生する、という論理が理論的に決定されるのです。それを知らなかったのです。私たち人間が神様の前に絶対的に必要な、対象的な存在になったということを知らなかったのです。そうでなければ、神様は独りで生きなければならない、という論理が成立します。それは違うというのです。(262-137,1994.7.23)

               
 絶対的な価値の基準は、神様です。絶対愛を中心として神様と絶対愛を探していく人は、相対主権を絶対に否定できません。神様が絶対的な方であることを否定できないので、私が立てられた位置を絶対に否定できないというのです。絶対安着が生じるのです。ですから神様の愛は永遠であり、神様は永遠な方なので、そのような愛の関係を結ぶことによって永生が論理的な、理論的な相対圏として着地できるのです。それゆえに、真の愛をもった人は、地上世界から天上世界まで永生するというのです。この理論を否定することはできません。堕落した世界には真の愛の関係がないので、地獄へ行くのです。(272-63,1995.8.30)
               

 愛は、永遠性をもっています。離れることを嫌います。真の愛は永遠な愛であるので、永遠に離れたくないというのです。それゆえに、真の愛に永生があるのです。離れるところには永生がないのです。それゆえに愛は偉大だというのです。愛は不変で、永遠なものだというのです。真の愛を中心として血統関係を結ぶとき、人間は永生するようになっています。神様は変わらない愛の主体ですが、その主体と一つになったので、神様が変わらず永遠であるように、その愛と一つになり一体なったその対象も不変で、永遠だということは理論的です。(289-133,1998.1.1)
               

 父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り子女はその真の愛に無限に感謝するようになるのであり、父母は大きい喜びによってその犠牲の跡を埋めるのです。このように犠牲的な真の愛の力を授け受けする作用を発展させて、真の家庭で、そして真の世界で永遠の喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところに永生の理想世界が顕現するのです。(288-199,1997.11.28)
               

 この宇宙は、小さなところから大きくなってきました。そして、相対をもらって無限運動をすることで生成されてきたというのです。この空間に存在する慣性により、無限に運動してきたのです。
 言い換えれば、その相対的基準を中心として、この太陽系であれば太陽系においてそれを備え、成熟した立場に立って無限運動をするというのです。これと同じように、アダムとエバも愛を中心として完全に「ため」に生きる愛で一つになれば、無限運動をすることによって永遠、永生が始まるのです。直線には永遠がありません。永生圏がありません。回転するところに永遠が生じます。
 それゆえに、回転しながらだんだん大きくなっていくのが歴史発展の現象です。その中心は一つです。(261-151,1994.6.9)
               

 宇宙の大原則の起源と和合できれば、永存できるのであり、そうでないものは永滅するのです。神様が永存されるので、その対象、「ため」に生きる対象は永存するのです。理論的にも、永生論理は自動的な結論です。明快でしょう?(260-254,1994.5.19)
               

 「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的な神様、主体的な神様の対象の立場が正に私だというのです。神様の愛の相対だというのです。神様が自分自身よりも貴く思うものが、真の愛の概念です。
 神様は絶対的で永遠であられる生命の中心であり、その神様の理想はもっと永遠なものであり、その理想の中心が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。そのような永遠の座にどのように行きますか。永遠のパートナーの座は、なんと貴い立場でしょう! それは主体と対象が一つになるのです。どの場にも同参でき、どこに行こうとついていくことができます。財産をすべて相続することができます。
 神様の永生の座、その心情までもすべて相続できるのです。神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様が皆の心にとどまりたいという心まで、すべて相続できるのです。ですからどれほど貴いでしょうか。その高貴な価値を発見したので、どれほどうれしいことでしょう。いかなるものとも取り替えられない崇高で高貴な座です。驚くべき恩賜なのです。(216-115,1991.3.9)
               

 大気が100パーセント絶対低気圧圏になれば高気圧圏が生じ、自動的に循環運動が起こるのです。神様は真の知恵の王です。なぜ投入して、忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的に循環原理を通じて永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるというのです。投入して投入して、また投入するところから永生の論理が生まれるのです。「ため」に生きるところでは滅びません。小さなものから大きいものに移りながら、その次にはどこへ行くかといえば、中心へ入っていくのです。(204-107,1990.7.1)
               

 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるかというと、それは間違いなく人間だと結論づけることができます。それゆえに、「万物之衆 唯人最貴(注:あらゆる万物の中で、人間が最も貴いの意)」という言葉が出て来たのです。これは、何ですか。創造主の永遠の愛のパートナー、創造主の愛のパートナーになり得るという論理的結論を出すようになるとき、その愛と一つになった愛のパートナーは永生するという論理が生まれるようになるのです。
 永生というものは、自動的な産物です。永遠である永生は、ここから生じるのです。愛の関係を中心として永生論理をいかに立てるかという問題は、宗教ではこの上なく貴重な話です。男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのでもありません。神様の愛に永生があるという結論が出てくるのです。(218-211,1991.7.29)
               

 今から神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参したのです。外の世界のどこへ行っても、この永生概念はないのです。自分が永遠の生命によって生まれたので、死んで霊界に行ってみなさいというのです。一瞬に飛躍するのです。この制限された地球上とは次元が違います。制限された所では自由に動くことができませんが、あの世は次元が高い世界なので、何でもすることができる所です。時間を跳び越えるのです。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつでも、どこでも、すべて得ることができるのです。無尽蔵なのです。(216-115,1991.3.9)
               

 永生! 私は永生します。神様を中心とした真の愛が私と連結され、神様を中心とした真の生命が私と連結され、神様を中心とした真の血統が私と連結されるのです。結論は、はっきりしています。私は、神様のように真の愛を中心として永生する。神様がこのように創造されたのです。皆さんも、その責任分担を果たすようになれば、皆さんは成功したということです。(216-115,1991.3.9)
               

 神様も息をされるのです。愛の呼吸をしていらっしゃるのです。神様も、宇宙に拍子を合わせていらっしゃるので、愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるというのです。ですから、皆さんは、そこまで行かなければなりません。それでこそ、神様の呼吸圏内に入っていって、さっと越えて行くのです。(201-191,1990.4.1)
               

 神様の摂理が生きて地上の歴史と共に動くのは、永遠の道を築くためだ、ということがしっかりと入れば、信仰化させやすいというのです。そうでなければ着陸させる基盤、地上で信仰化させる基盤が、あいまいになるというのです。この時代的限界性をはっきり教えてあげることにより、地上に着陸できる信仰基盤が確定されるというのです。
 このように神様のなさるみ業を私が地上で協助するので、神様のみ旨が成されたあの霊界が、私たちの現在の実生活と関係をもつようになり、神様と共に永生できるという概念をもつことができるのです。それゆえに、この地上生活は、永生する準備の生活だというのです。直結するのです。それが連結していないまま信仰生活をすることはできないのです。(198-7,1990.1.20)

(2021.12.21:写経奉献)


  ハ)祝福と永生


 堕落人間は血統を転換しなければなりません。これが根本的な問題です。神様と人間の関係は父子の関係ですが、このようなことすべてが未知の事実として残ったので、歴史が解けず、今まで神様の摂理を知らなかったというのです。血統転換も個人圏、家庭圏、民族圏、国家圏、世界圏、すべてしなければなりません。これは、メシヤが来なくてはならないのです。父母が現れなければ血統が転換されないのです。
 このようなすべての問題に個人が責任をもたなければなりません。個人がすべて、このようなことをして越えていかなければなりません。これを知らないので、知っているメシヤが来て代わりにしてあげるのです。(161-147,1987.1.18)
               

 皆さんは、新しい血統を受け継がなければなりません。受け継ぐために、メシヤが父として来てサタン世界に勝ったという、サタンが干渉できない超世界的な基盤で、エバに侍り蕩減復帰しなければなりません。そして、夫婦の因縁を中心とした、家庭を中心とした息子、娘を立てて、横的に接ぎ木をすることが起こらなければなりません。それで、統一教会では祝福をしてあげるのです。統一教会は違います。統一教会は、血統がどこから始まったのでしょうか。神様から始まったというのです。それゆえに、サタン世界においていくら反対してみても、反対したほうが損害賠償を支払うようになるのです。(169-37,1987.10.4)
               

 私たち人間は、血統的にサタンの血統を受けたので、それ自体としては天の前に帰れないのです。ですからメシヤは、絶対血統復帰をして、サタンが汚した血統を造り変えなければなりません。これを転換させなければなりません。それで、メシヤは必ず来なければならないのです。メシヤが来なければ血統復帰はできないのです。血統を復帰しなければなりません。(175-53,1988.1.7)
               

 「終わりの日」には、どのような時代が来るのでしょうか。同族相姦関係が起こるのです。近親相姦関係が起こります。同族も近親も同じです。なぜそのようになるのでしょうか。イエス様の父は誰ですか。ザカリヤです。キリスト教ではみんな「聖霊によって妊娠した」と言いますが、うそなのです。無精卵を知っていますか。無精卵とは何ですか。卵は卵ですが、種が入っていなかったというのです。今日、堕落した人間は、無精卵です。神様とは関係がないというのです。ですから永生がありません。(274-256,1995.11.3)
               

 真の父母は、何をしなければなりませんか。サタン世界の根である誤った血統を正さなければなりません。また、誤った生命を元に戻さなければならず、誤った愛の道を正しく開かなければならないのです。聖書に、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」とあるのですが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのですか。サタン世界は、死ななければならないからです。
(169-37,1987.10.4)
               

 血統的転換は誰がするのでしょうか。それは、誰もができるのではありません。先生がこのことをするために、涙の十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。このような基準があるので、皆さんは何の功労もなく、祝福という新しい伝統を継ぐようになりました。
 転換の勝利圏を立てるために、数千年に及ぶ神様の労苦と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを基台として立った所が、正に皆さんが立っている位置です。祝福というものは接ぎ木することであり、接ぎ木することによって血統が変わるのです。(35-178,1970.10.13)
               

 真の愛を中心とした縦的な父母と横的な父母が合徳してこそ、そこに愛の定着地、生命の起源地、血統の因縁地が交錯するのです。そこで生まれたすべての人々は、神様の愛を受けて生まれた息子、娘であり、神様の生命をもって永生できる存在になるのです。ですから、永遠の天国に皇族的継代をつなぐことができる皇族になるのです。(245-94,1993.2.28)
               

 愛に同居すれば永生が連結されるのです。真の愛が神様が願う愛だとするならば、神様は、絶対不変の神様であり、永世の神様なので、その愛の相対者である人間も永生するという結論が出てくるのです。これは理論的な結論なのです。何の疑問の余地もありません。(247-223,1993.5.9)
               

 皆さん、祝福される時、血統転換式をしましたね。それを「私」の生命より、もっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だとして、ただ一般宗教儀式だと思ってはいけないのです。これは、死んだ人に対する回生という薬の注射と同じです。解毒注射です。(216-109,1991.3.9)
               

 血統を転換することはメシヤがするかもしれませんが、転換されるように行動することは自分自身でしなければなりません。このような基準を成さない限り、私たちは救いの道に達することができません。それは決して容易になされるのではなく、生きるか死ぬかの境地を通過しなければならないのです。40日断食祈祷とか、血を吐く死の境地に至ってこそ、血統転換が可能です。(35-160,1970.10.13)


 まずは、父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準をもって父母に侍らなくては、救いを受けることはできないのです。
 皆さんは、そのように侍ってみましたか。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。それゆえに、「私は真の父母と永遠に一つになり得る息子、娘だ」という信念を、自身の存在意識を超越できるくらい固くもたなければなりません。そうでなくてはならないのです。(30-237,1970.3.23)
               

 エデンの園で結婚を間違ったことが堕落なので、今、真の父母が正しく結婚させてあげることによって、再びひっくり返すのです。偽りの父母が犯したことを真の父母が清算することで、地獄を撤廃し、数百、数千億の霊界の先祖まで祝福結婚させてあげることが起きるのです。真の愛を中心とした地上の子孫の家庭基盤を通し、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を起点にして東洋と西洋がお互いに連結されます。(300-222,1999.3.14)
               

 皆さんは、先生をどれだけ愛さなければならないのでしょうか。根本問題に帰っていくのです。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛が染まった立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。それは何ですか。皆さんがサタン世界で生まれた父、母、妻子、その誰よりももっと愛さなければなりません。
 それで、聖書では、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)と言ったのです。すべてそのような結論を下したのです。そののちには、「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(同10:38)と言いました。「十字架を背負わなければならない」と言いました。反対に引っ張ろうとうる力を抑えて乗り越えようとするので、十字架です。そこにおいて悲痛な涙を流さなくてはなりません。(178-97,1988.6.1)
               

 霊界に行けばそうです。そこには影のない、永遠な朝の陽の光があふれているのです。白い光があまりにも明るく、紫色の光に変わるのです。銀の光、金の光に変わるのです。電気の光が何かというと、愛の光です。プラス電気とマイナス電気が一つになって現れるものが、電気の光です。同じように、神様の性相と形状も、一つになって稲妻のように現れるのです。永遠なる真の愛の光です。それが永生の本質です。その最後の目的点に到達しなければなりません。(292-265,1984.4.26)

(2021.12.22:写経奉献)


3)地上生活の価値

 ①地上は愛の実を収めるところ


 地上生活が絶対に重要です。地上がどれほど重要かということを知らなければなりません。キリスト教徒たちは、「死んで天国に行く」と考えますが、妄想的です。地上で完成しなければならないのです。地上生活の重要さを知らなければなりません。地上生活の重要さに覚醒し、その重要さを忘れるなというのです。いつでも、千年、万年、霊界に行ってする生活に、それが反映されるのです。これはすべて種です、種。ここで種を蒔いたものが天上世界で実として収めるので、完全な種をうまく蒔かなければならないというのです。地上世界の重要さに、もう一度覚醒しなければなりません。(232-322,1992.7.10)
               

 地上人は体をもっていますが、すべてのことが限定された生活です。霊人たちには体がありませんが、無限の世界で活動します。また地上人は体をもっていますが、永遠に定まる所をもてません。霊人たちに体はありませんが、永遠に落ち着ける所にいます。このように地上人と霊人との対比点を羅列すれば、無限に多いのです。
 ここで、地上人と霊人との一致点を調べてみましょう。地上生活や霊人たちの生活は、みな半分ずつもっているだけなので、半分ずつしか成し遂げることができません。それでは、体と霊人の結実は、各々どのようにすれば完全な実を結べるのでしょうか。地上生活で肉体と霊魂が分離する前に、地上での生をよく締めくくってこそ完全な実を結ぶようになります。ところが、霊魂がよく成熟できずに霊界に来るようになれば、問題が生じるのです。(293-256,1998.6.1)
               

 種の実は、すべての期間、時間圏や時空圏をすべて同化させ、圧縮しなければなりません。そこには、種も存在し、根も存在し、枝も存在し、実も存在し、すべて存在するというのです。花もあって、実もあるというのです。
 それで、そのようにして出発できる私たちにならなければならないのです。それでこそ、愛を中心として神様も私のものだということができるのです。そこには異議がないというのです。(137-330,19861,5)
               

 生涯の目的とは何ですか。愛を結実させることです。その愛の結実(体)が天国の倉庫に入っていくとき、神様が「嫌だ! ふん!」とおっしゃるでしょうか。どこに行っても、「ああ、私をこの宇宙のどこに置いても良い!」と言えるほどの愛の結実(実)です。それを天国の秘密の倉庫に置いておいても、自分を中心として、すべての中心として立ち得る愛の結実(体)だと考える時、どれほど尊ばれるだろうかというのです。愛によって蒔いたので、愛によって刈り入れなれるべきでしょう?(139-219,1986.1.31)
               

 なぜ私が貴いのでしょうか。愛の伝統を受け継いだからです。この宇宙のすべての理想的な力の核の伝統を受け継げる立場に立ったので、愛が貴いのであり、私が貴いのです。その愛によって私が生まれ、連結されのであり、またそれによって拡大的な愛の実を結ぶことができるために貴いのです。父母をなぜ尊敬しなければならず、父母に仕えなければならないかが分かりましたか。根を深くしなければならないのです。中心の根をです。(166-217,1987.6.7)
               

 神様の愛を中心とした男性と女性の心と体が、垂直線と均衡的90度を備えなければなりません。そのような正常な男性と女性が現れて、神様の愛を根とした一つの生命体として東と西が互いに極となり、一度にぱっと火がついて、宇宙の本性に雷が落ちて稲妻が炸裂すれば、そこには男性、女性、神様を問わず、完全に混じり合ってくっつくようになるというのです。それを誰が離すのですか。男性が離すことができますか。女性が離すことができますか。神様も、そこから抜け出てくることができないのです。
 そのように、人類の本性の基準である愛というものを中心として、男性と女性の心の根になって、その愛の花が咲き、実も愛によって結ばれ、循環法度による球形理想を通して螺旋形に発展し、世界へ前進するはずであった! アーメン! この話がどういう話か、みな研究してみなさい。(173-109,1988.2.7)
               

 皆さん、生命を何によって伝授しますか。生命体ですか、血ですか。血統という言葉はありますが、生命統という言葉はないのです。愛統もありません。血統という言葉だけあるのです。血を合わせることによって生命が出てくるのです。男性と女性の血を一つにすることによって生命が一つになり、それが投入されて愛の実体である実を結ばせるのです。それで、どのようになりますか。母の血と母の生命と、父の血と父の生命がこの愛を通して実を結んだのが「私」です。ここの、この人の中に父母の血が入っていますか、入っていませんか。父母の生命が入っているのです。父と母の愛が入っているのです。それゆえ「私」というものは、父母なしに主張することができないのです。(225-52,1992.1.2)
               

 「私」は愛の実ですが、その実には千年の歴史を通じた中心の根、幹、枝、花、全体の芽を一つにしたすべてのものが入っています。ですから、その実をもっていくようになれば歴史を運搬するのと同じです。また、それを植えれば、その歴史がどこでも継承されるのです。何によってそのようになりますか。愛を通してです。男性、女性の愛を通して、主体、対象の愛を通して、これが連結されるのです。それゆえに愛を侵犯する者は、宇宙秩序を破壊する最も放縦な者なので、地獄へ行くのです。(226-53,1992.2.1)
               

 父子関係の愛は、母の中に息子に対する実が熟すようになり、また息子の心に母に対する愛が熟し、熟した二つの愛が現れれば、神様は、これを摘み取りたいと思われるです。愛の主人は神様なので、母の中で子女を愛するその実、子女の中で母を愛する円熟したその実を結ばせるのです。
 完成した実を摘み取って神様が食べるでしょうか、愛の完成のためにそれを摘み取ろうとするでしょうか。創造主も、アダムとエバを造っておいて、父母としての自分の中に子女に対する実をもつと同時に、子女が父母に対する実をもつことによって、二つとも完成させることができるのです。それゆえに、神様は二つとも摘み取ってもてるという言葉が成立します。(222-309,1991.11.6)
               

 私たちは、神様の愛によって生まれ、その愛によって生きながら、息子、娘を生んで愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様のもとに帰るのです。すなわち私たちの一生というものは、愛によって始まり、愛によって成熟し、愛の実として摘み取られるのです。人が死ぬというのは、愛の実を摘み取るということです。
 私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を分かち合い、子女を愛したので、神様の愛が内的な愛の世界に蒔かれた、そのすべてを、私が一生かけて実を結び、摘み取ってあの世に行くのです。ですから、私たちが愛で完全に一つになれば神様に似るようになります。夫婦が一つになって、このような3段階の愛を完全に成し、霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。ですから、神様によって始まり、神様によって締めくくるのです。(298-311,1999.1.17)
               

 愛の実を摘み取って倉庫に送っていれば、天国が成され、天国の家庭と天国の国と天国の民になっていたはずですが、これが中間で腐って落ちて、すべて腐るようになったので、地獄の家庭になり、地獄の民になってしまったのです。
 そのようになったことを「堕落」と言います。落ちたというのです。私たちが堕落し、地獄に生きているというこの二つのことは、嫌でも認めなければなりません。愛の実を結んで天国の倉庫、天国に行かなければならないのに、堕落したがゆえに地獄の倉庫で腐っているというのです。(282-15,1997.2.16)
               

 子女、兄弟、夫婦、父母がすべて一点に行って実が結ばれるのです。真の愛を中心として定着が始まるのです。子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情が真の愛を中心として連結されるのです。それが焦点なのです。神様と愛で一つになることによって霊肉が完成したので、ここで父母が出てきて息子、娘を生むのです。神様が創造当時に感じたことを再び感じるようにするために、私たちに贈り物としてくれたのが息子、娘です。(244-310,1993.3.1)
               

 霊界というのは、真の愛の結実を保管する倉庫です。今まで、真の愛の実が出てきませんでした。真の愛という言葉とその結実を今、初めて話すのです。ですから、それは(まだ)霊界にあるはずはないです。「私」という存在は、どれほど素晴らしい存在でしょうか。(245-172,1993.3.7)
               

 家庭の隅々に手を付けるのは男性ではなく女性です。男性は中心に立っているので何も触りませんが、女性はすべて触るのです。それはどういうことでしょうか。地を愛し、宇宙を愛するということです。ずっと手をかければかけるほど愛がしみ込み、宇宙のエキス、核が集中するというのです。そうして、夫が絶対に愛してあげることで、女性に力を補充してあげるのです。そのようになった家庭こそ、神様の天国の倉庫に入っていくことができるのです。天国の倉庫とは何ですか。神様が、よくできた実を入れておく倉庫が正に天国です。(244-120,1993.2.1)
               

 愛も同じです。春夏秋冬があってこそ均衡が取れるようになるのです。暑いのが長くなれば、寒いのも長くなります。それゆえに愛を中心として夫婦生活をするにおいて、秋もあって、夏もあって、春もあって、それから何ですか。冬もなければならないのです。それをすべて消化できてこそ、天上世界に行って顔を上げることができるのです。(223-180,1991.11.10)
               

 お父さんがおじいさんを「お父さん」と呼ぶことが恥ずかしくなく、そのお父さんが息子、娘に「おい、何のなにがしや」と言うときに恥ずかしくなく、その息子がお父さん、おじいさんを呼ぶことが恥ずかしくないというようにならなければなりません。何を中心として、そうならなければなりませんか。お金をもうけることができなくて、おじいさんのお世話になったお父さんだからといって、責任を果たせなかったということではないのです。
 お金をもうけることができないからといって、知識がないからといって叱責することはできないのです。なぜですか。血族とは、愛とは、生命とは、知識を通して、お金を通して、権力を通して伝授するものではないからです。何を通じてですか。愛を通して! その愛を通して実を結ぶのです。その愛を通して生命の実を結び、その愛を通して血統が連結されるのです。お金ではないのです。(213-190,1991.1.20)
               

 神様は、なぜ天地創造をされたのでしょうか。神様と人間と被造世界との関係を何を中心として結ぶかという問題を考えてみるときに、それは知識でもなく、権力でもなく、お金でもないのです。それは愛の因縁を結ぶためだというのです。
 それゆえに、皆さんが生まれたのは、愛ゆえに生まれたというのです。愛ゆえに生まれて、愛を中心として暮らし、愛の結実の世界、愛の実の世界へ行くのです。愛の実の世界とは、どのような所ですか。そこが霊界なのです。その行く所、愛の結実を収穫する所が霊界なのです。霊界は、真実に生来た愛の内容を中心として評価を受ける世界です。それでは、その評価する主人が誰かというと、それが神様だというのです。(214-8,1991.2.1)
               

 愛の種になりなさいというのです。それが結論です。愛の、真の愛の種になる時は、宗教を通じて歴史時代の統一圏を越えるのです。分かりますか。
 種には根がありますか、ありませんか。幹がありますか、ありませんか。枝がありますか、ありませんか。花がありますか、ありませんか。香りがありますか、ありませんか。蜜がありますか、ありませんか。実がありますか、ありませんか。生命がありますか、ありませんか。すべてあるのです。
 それで、皆さん、種になりましたか。今見て下さい。気候学的に見るならば、古代は熱帯地方であり、中世は温帯文明圏です。一時はシベリアの北風が……。これが、春夏秋冬を中心として1周回るその期間が60年ないし70年です。この期間に世界を飛び回るのです。(182-90,1988.10.14)
               

 人間がどれほど素晴らしいかというと、愛のオーケストラを奏で、愛がすべての脈拍を中心として宇宙をすべて生かしていける動物世界、植物世界を食べるということは、愛の結実を食べて生きるということです。実を食べて生きるということなのです。食堂で食事をするとき、パンが一つ残っていても、「これが、世界的に数多くの手を経てここまで来るために、旅行手段がどれほど多く、どれほど多くの苦痛に勝って来たのだろうか。すべての人の努力の結実、愛の結実としてつくられたものをもってきて私に進上されたので、愛の主人である私がパートナーのように思いながら食べてあげなければならない」と考えなければならないのです。
 ところが、それを嫌う人には病気がついてくるようになっています。好む人には病気が退くようになっています。どうですか。愛に満ちあふれた世界の実を取って食べた神仙たちが、人間であった!どうでしょうか。
 愛の実として消化して食べて生きる、という概念を中心として愛し、神様の本質的な愛の父母の内容と一致した立場で食べて感謝する人は、病気にもならないというのです。これは理論的な結論です。(217-307,1991.6.12)

(2021.12.23:写経奉献)


 ②地上は天国の民の生産地


 天国の民を生産できる生産工場が地球星です。霊界で人が生まれるのではありません。地球星です。では、神様の人を生産できる工場のように造ったのが私たち人間が暮らす地球星ですが、なぜアダムとエバを分けて置いて堕落するようにして、この姿、このありさまになったのかというのです。神様の縦的位置では繁殖の場がありません。(201-44)
               

 神様は、なぜ人間を創造したのでしょうか。横的基盤、面積が必要だったからです。面積と球形には無数の細胞が分かれて出てくることができるので、その面積が必要であるために、人間世界にアダムとエバの体を通じて天国の民を製造していくのです。その民の製造工場が私たちの夫婦生活です。そのようなことも知らずに大口をたたく、そのようなでたらめな者がどこにいますか。目を開いているのに見ることができず、大口をたたいているのです。霊界に行けば、そのような世界がすぐに展開するのです。文総裁が教えてあげた話が、事実として展開するのです。(233-89,1992.7.30)
               

 なぜ、アダムとエバを実体として創造したのでしょうか。霊界というものは垂直の世界です。垂直には面積がありません。霊界に行ってからは繁殖がありません。天国というものは広大無辺な所です。その天国をつくっておいて天国の民を出産させるための基地がアダムとエバの家庭、子孫の家庭です。なぜ体をもったアダムとエバが必要だったのでしょうか。垂直には一点しかないので面積がありません。生産できる基地がないのです。しかし、垂直を中心として、東西を中心として、前後を中心として分けて、球形になれば無限の宇宙になるのです。無限のスペースが生まれます。
 アダムとエバは、神様がアダムの子孫の家庭を中心として天国を満たすための民を創造する工場として造られたのです。アダムは本工場で、皆さんの家庭は天国の民をつくる分工場だというのです。分工場でも本工場でも、生産品は同じなのです。価値は同じです。(262-229,1994.7.23)
               

 霊界は、膨大な天国です。故郷の地であり、本宮です。私たちが生きる本宮です。膨大な世界をつくりましたが、そこは神様の息子、娘を生む所ではないのです。垂直を中心として前後、左右となり、球形をつくるようになれば無限な空間が生まれるのです。宇宙のような空間が生じるというのです。この空間が多いので莫大な民を生産し天国に移動していくのですが、この天国の民を生産するその分工場が何かというと、皆さんの家庭だというのです。(261-229,1994.6.19)

               
 霊界では生産をしません。地上は天国の民の生産地です。なぜかというと、神様は垂直の位置では繁殖ができません。それゆえにに神様は面積が必要なのです。アダムとエバを実体としてつくっておいたのは、神の国の民を繁殖するためなのです。天国の息子、娘でしょう。傍系的な次子圏になる3番目の息子と4番目の息子がすべて従うようになれば、彼らが天国の民になり、直系の主流は地上世界の王権、天上世界の王権を受け継ぐのです。(229-349,1992.4.13)
               

 この宇宙は、愛の博物館です。その博物館で王にならなければならない存在が人間です。
 鉱物世界も、植物世界もすべて愛の因縁を中心として繁殖しています。愛がなければ歴史が停止してしまいます。繁殖があるので歴史が続くのです。それゆえに男性と女性が結婚して息子、娘を生まなければ、霊界に行って自分の位置を見いだすことができません。赤ん坊が生まれれば、その赤ん坊が神様のもとに行くとき、贈り物になるのです。そのような贈り物がなければ、自らの体面を立てることができないのです。
 皆さんが故郷に帰るとき、父母の前に行って何を誇るのでしょうか。そのときに息子、娘を立派に育てて誇るように、霊界に行くときも同じです。神様の前に行くときにも、神様の子女、天国の民を地上で育てて連れていく、それ以上の贈り物はありません。お金と権力と知識が重要なのではありません。(229-15,1992.4.9)
               

 地上は何かというと天国の王の子孫、天国の国民を生産する生産地です。それゆえに天国は無限の世界です。したがって、地上で息子、娘をたくさん生んで愛することができる訓練をし、東西南北、前後、左右、上下で、ありとあらゆる人を愛によって消化し、一つにする体験をした人は、あの霊界に行って活動できる範囲が広くなるのです。(209-99,1990.11.27)
               

 天国に行くようになれば生産地がありません。神様が人を何のために造ったのですか。垂直には繁殖がありません。垂直の位置には一点しかないのです。神様は、一点、垂直の位置で愛を行うので、そこでは繁殖することができません。霊界では繁殖ができません。それゆえに横的な360度が必要です。横的世界には東西南北に繁殖できる場がいくらでもあるのです。
 それゆえに女性と男性が霊界に行くようになれば、一つの体になって神様に似ていくのです。のちには神様化するのです。神様に似なければならないのです。神様は二性性相だといったでしょう? 二性性相は何から出発したのかといえば、愛から出発しました。愛の結実によって、本然の神様に似て帰っていくのです。ですから、神様も独りでは孤独なのです。(206-137,1990.10.3)
               

 霊界では赤ん坊を生みますか、生みませんか。なぜ生みませんか。霊界は、縦的な世界です。神様を中心として円形を成した世界です。それゆえに赤ん坊を生む必要がないのです。横的な基盤が必要なので、人間を、体を造ったのです。
 ところが、産児制限をなぜするのですか。それは天命によるのです。「悪なる血統をこれ以上繁殖させるな」ということです。考えてみてください。このごろは子供が誰の子か分からない人が多いでしょう。毎日、毎週、他の男性たちと会うのです。考えただけでも、その醜悪さは筆舌に尽くしがたいのです。そのような人に息子や娘がいると考えてみて下さい。それゆえに、みな産児制限をするのです。(205-97,1990.7.7)

               
 地上は、どのような所ですか。霊界では繁殖がありません。行ってみて下さい。ないのです。息子、娘をもたずに行くようになれば、あの世に行っても息子、娘がいません。地上でこしらえて霊界に行ってこそ、神様の心情を中心として創造した理想を代わりとなった心情圏に同参し、愛の刺激を感じて暮らすことができるのです。
 ですから、息子、娘をもたずに逝っては駄目です。また、相対を愛さずに逝っては駄目です。結婚は絶対的です。息子、娘を絶対的に出産することが原則になっています。(264-150,1994.10.9)
               

 霊界という所は、どういう所でしょうか。霊界では出産をすることはできません。霊界の国の民を生産する所は、地上です。なぜそうなのでしょうか。神様は縦的にいらっしゃる方です。縦を集めるのは一点しかないのです。面積がありません。
 この縦の価値が出てこようとするためには横を連結しなければならないのです。縦が必要とするのは横だというのです。横が必要とするのは縦です。これも「ため」に存在するのです。縦はなぜありますか。横のためにあるのです。本来、創造理想がそうです。縦が生まれたのは横的相対のためです。このような論理の定着をもたらしてこそ、理論的体制において矛盾が起きないというのです。(252-114,1993.11.14)
               

 霊界に行けば出産できません。出産は横的な基盤を中心としてなされるのです。ですから数多くの横的な基盤を拡大させて、数多くの氏族を中心として数多くの民族、数多くの国家を通じて膨大なその世界を満たそうとするのですが、霊界は無限な世界です。一人、二人をもってしては駄目だというのです。
 ですから、世界的な横的家庭基盤を拡大させて生産したその人々を、地上で完成させなければなりません。神様が願われる完成した個人、完成した家庭、完成した氏族、完成した国家、完成した世界の編成をなして、全世界で神様の血族として生きてきた人々が、地上で生涯を終えて還故郷する所が天国なのです。神様から始まったので、神様の傍らへ帰るのです。そこが霊界です。(245-188,1993.3.7)

(2021.12.24:写経奉献)


 ③あの世の所有権を地上で決定


 神様が創造した目的とは何ですか。地上に生きている神様の息子、娘を残すことが神様の目的です。ですから、「私」が霊界で神様の前に行っても、地上に生きた神様の息子、娘を残す立場になるときは、「私」も神様と同じ立場に立つようになるというのです。それが聖書のみ言にある、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という意味ではないかというのです。皆さんは、何を残そうとしますか。皆さん、妻と楽しく生き、息子、娘を生むこと以外に残るものがありません。(146-223,1986.7.1)
               

 これまで皆さんは、統一教会に入って何をしましたか。それは深刻な問題でしょう。50歳を越えるまで、何年間統一教会で仕事をしましたか。その時から何人伝道しましたか。1年に何人しましたか。それは深刻な問題です。今後、霊界に行って、そこでの個人の所有権は何かというと、天国の民をどれほど連れて入っていったかということです。それが自分の財産、永遠な財産です。これからは、それを問いたださなければなりません。そのような時が来ました。今からは、1日に何百万と伝道できる時が来るのです。
 統一教会に、そのようなすごい内容があるのです。世の中を見てください。今、死ぬとか生きるとか、人生が何だとか言って、宙ぶらりんの生活をしながら定着できずに、狂ったように放浪しては自殺する人が、どれほど多いでしょうか。(218-227,1991.8.19)
               

 霊界に行けばそうです。愛の懐が大きければ大きいほど、その懐に入っていこうと列をなしているのです。そういう人は、あの世で尊敬を受ける人だというのです。千人、万人に囲まれて、「ああ! 私はあの人と一緒に生来たい」という声を聞くようになれば、その人はそれだけ領土が大きい金持ちになるのです。ですから、ある家の門前を過ぎながら、「立ち寄りたくない」と思われるようではいけないのです。「立ち寄らなければいけない」、「そのまま過ぎることができない」と思わせるほどに、愛の心をたくさん植えつけてくれた人が、あの世における人格の基準となり、愛を中心として関係しているその舞台が、あの世における所有権となるのです。(205-347,1990.10.2)
               

 あの世における金持ちは、特別なことはありません。愛のために投入した分だけ、その人はお金持ちになるのです。皆さんが福を与えてあげられる群れが、ソウルだけでも1200万人も待っているのに、なぜ交流できないのですか。行って、「福を祈ってあげよう」と言って訪ねなければならないのです。犬がほえれば、「お前は福を受けることを知らない犬だなあ。お前の家にあるすべての福袋は私が持ち歩いている。私は磁石だ。福をすべて引き付けることのできる完全なプラスだ。マイナス要素はすべて切り捨て、サタンのプラス要素だけをすべて残して行くが、そのプラス要素はサタン圏でしかないから、地獄しか占有できないぞ」と、このように見るのです。福をかき集めるために回るのです。(205-347,1990.10.2)
               

 霊界に行って12の真珠門を経て行くためには、地上でどれだけ天の民をサタンから再び復帰して帰っていくかということが問題です。そのためには血と汗と涙を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心としてサタンの父母以上、サタンの夫、妻、息子、娘以上の心情を投入して、涙とともに、血と汗とともに交差するその過程をたどることなくして、天国の自分の民を所有できません。この数の比例によってあの世の栄光の位置に、神様の前に近づくすべての条件の成立が識別されるということを知らなければなりません。(211-352,1991.1.1)
               

 今後、霊界に何をもって行くのかといえば、お金をもって行くのではありません。統一教会の名前をもって行くのでもありません。「地区長をした」と言っても通じないというのです。ですから、今後、皆さんがしなければならないことは、神様が愛し得る息子、娘をどれだけたくさんつくって行くかということです。
 人が赤ん坊を生もうとしても、何人しか生むことができないのです。しかし、それは誰でもすることができるのです。今、復帰過程で経ていくべきこととは何かというと、皆さんがサタン世界において神様が愛し得る多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖と連結され、また先祖を解放させ得る道が生まれるのです。これが、復帰路程において自分が受ける最大の贈り物です。何の話か分かりますか。贈り物なのです。(230-25,1992.4.15)
               

 御飯を食べて生き、息子、娘に食べさせて育てたことは、あの世に行って大したことにはなりません。それゆえに天国の民を復帰しなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。
 ですから、私たちが早く50億人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界のすべての霊たちも再臨復活していくようになっています。今、長子圏がサタンの基盤になっているのが逆さまになり、アダムが長子圏になれば、天使長はアダムの話を聞いてついてくるようになっているのです。そうではないですか。絶対服従する立場に至れば、神様の愛とともにアダムの愛の圏内にあるために、自然に天国についていくのです。原理がそうなのです。(230-25,1992.4.15)
               

 私が教会に入ってから何年になったということを自慢するなというのです。何人を教区長にし、何人を祝福させ、何人を先生の一族と血縁関係を結ぶようにしたかが問題です。これは深刻な問題です。ここに先生の姻戚である朴普煕氏、郭錠煥氏、劉正玉氏がいますが、かといってこの人たちがそれですべて終わるのではありません。その背後に何千倍になり得る氏族メシヤ圏を早く拡張し、今後の歴史時代において恥ずかしくない天国の民を立てなければならないのです。(230-27,1992.4.15)
               

 歳月をただ何となく送るなというのです。青春時代に息子、娘を生んで育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残せるのと同じです。また、その子女たちが立派な人になってこそ歴史に誇れるのです。そのような歴史に対して誇り得る実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国には仲間入りできないのです。国に仲間入りするためには、歴史の伝統に残り得る実績がなければなりません。それゆえに、誰もがみな国に何かを残すことを願い、世界に何かを残すことを願い、天地に何かを残すことを願うのです。同じ道理です。
 ですから、自己の所有版図をどのように確定するかという問題が終生の目的だ、という観念をはっきりもたなければなりません。それゆえにみ旨の道で、「自分が嫌ならやめる」という考えはもつことができません。(230-27,1992.4.15)
               

 神様がしていることとは何ですか。世の中を救う仕事です。あの世に行ってみれば、霊界に行ったすべての次元の高い人々の仕事は、地上での仕事です。地上とは、どのような所ですか。天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。無限大です。あまりにも広いのです。人々が数億年の間に来ては逝きましたが、どこにいるか分からないほど広いのです。一家庭で子女百人ずつ生んでも、天国は広いので過剰生産ということがありません。あの世は、いくらでも受け入れることができる世界です。ですから、産児制限をしなければなりませんか、してはなりませんか。あの世に行けば、天国の民をどれだけつくって率いてくるかということが問題になります。
 真の天国の息子、娘をたくさん率いてくるとき、それが自らの権益になり、天上世界で表彰を受けられるレベルの差を設定できる資料になることを知らなければなりません。(202-40,1990.5.1)
               

 ご飯を食べることよりもっと重要なことは、天国の民を刈り入れることです。それが私たちにはうまくできなくなっているのです。考えてみて下さい。それが本職です。この地上に暮らす私たちの本業なのです。生涯にしなければならないことの中で、それ以上貴いことはないのです。この世で就職し、出世したりお金を集めたものは、すべて流れて行くのです。あの世では、お金を集めても何の効果もないのです。あの世では物質が必要ないのです。知識が必要ないのです。学ばなくても心が先に知っているのです。1週間以内に何でも、すべて通じるのです。
               

 今後、皆さんは、あの世に行き、復帰歴史をされる神様の前に、一人のアダムを取り戻すために今まで苦労してこられた神様の前に行って、何と言いますか。創世以後、今までアダム完成者を探してきたのではないですか。そして、皆さんは「原理」を知りました。これは数千、数万の民族を救い得る武器です。
 今まで神様が人間に教えることができなかったので、分からない中で摂理をなさる神様の切なさ、それを身代わりにして地上で神様以上のことを私たちがするのです。私たちには、「原理」で数百、数千のアダムを教化させて連れていける道があるのです。考えてみてください、これ以上にすべきことがどこにありますか。(230-28,1992.4.15)
               

 皆さんは、天国に連れていける息子、娘を何人つくりましたか。皆さんがしなければならないことは、それしかないのです。いくら億千万金をもって良い生活をしてみても、すべて流れていくのです。そこには自らのすべての物質と知識と自分の生命まで、堕落した私の生命まで投入してもやらなければならないのです。それを別々に投入しなければならないのです。投入する全体が加重するに従い、その価値は比例していくのです。(230-28,1992.4.15)
               

 天国は無限な世界ですが、そこでは、愛の心情で連結される橋がなければならないのです。ですから、自分が伝道した人がこの世にたくさん広がっているならば、霊界に行ったとき、それだけ広く往来できる道が生じるのです。すべてが自分と関係を結んで因縁を結ぼうとするのです。それは地上において思想を武装し連結させたのと同じような体制が、自分を中心として連結されるというのです。(230-25,1992.4.15)
               

 息子、娘をたくさん育てた人は、愛の内的な核が大きいのです。天国に行く時は、これが行くのです。他のものではありません。お金や名誉や良い暮らしをしているという、それが福ではないのです。息子、娘を育てるにおいて、春夏秋冬、四方を中心として自分の世界になれば、地がそこに合わせて平面的な地になるのです。東西南北に私が思いのままに与えられる立場になれば自分が満足するようになりますが、そのようにできない時は、いつでも一方的にしかなりません。(223-247,1992.8.1)
               

 この地上が天国の民の無限な生産地であるというのです。これをどこの誰も知りませんでした。本来の夫婦は、息子、娘を天国の民として生み、完成した人間として育てていくことが、この地上で生きて行く生涯路程だというのです。ですから、赤ん坊が生まれれば、その赤ん坊も神様のところに行くとき、贈り物になるのです。そのような贈り物がなければ、自分の体面を立てることができません。
 皆さんが故郷に帰るとき、父母の前に行って何を誇るのですか。そのとき、息子、娘を立派に育てて誇るのと同じように、霊界に行くときも同じことです。神様の前に行くときにも、神様の子女であり、天国の民を地上で育てて連れていくこと以上の贈り物はありません。お金と権力と知識が重要ではないのです。(229-15,1992.4.9)


 多くの息子、娘をもった父母は、多くの愛の相対を迎えたので、天国に行っても四方八方、誰でも思いのままに会えます。息子、娘をたくさん生んだ女性の中で、悪い女性はいません。なぜでしょうか。自らの息子、娘をかわいがる母の心をもって、自らの息子、娘と比較していつでも考えるようになるのです。ですから、生活圏内で自動的に愛の境地に高く上がっていける立場に立つのです。ですから多くの息子、娘を育てた人は、霊界の最も高い所にいます。(239-156,1992.11.24)
               

 皆さんは、氏族的メシヤとして、天国の民をたくさん繁殖してから逝かなければならないのです。それが自分の生涯において最も貴重であり、人生の希望です。それが自らの非常に貴重な所有権です。今まで、そのような人が霊界にいなかったというのです。それゆえに、呼びさえすれば皆さんの周辺に多くの友人たちが現れることができるように、100人以上、1000人でも連れていかなければならないのです。(227-208,1992.2.11)
               

 皆さんは地上で、子女を立派に育てて残していかなければならないのです。将来、その子女たちすべてが霊界に行くのです。霊界に行って天国の国民になるのです。自分が何人を天国の国民として捧げたのかというとき、地上では苦しいことでしたが、永遠の世界ではそれが高貴な栄光の道になるのです。(218-319,1991.8.22)

(2021.12.25:写経奉献)


 ④肉身をつけた地上生活が一つ残らず記録される


 皆さんは、霊人体と肉体が水晶のように清く生きてこそ、のちに霊界に行って問題がないというのです。そこにいかなる汚点があっても天国に入れません。地上での生活がこのように重要だというのです。生きていたそのごとくの霊界に行くのです。ここには誰も例外がありません。自分自身が透明に、すべて表れて見えるのです。分かりましたか。(294-26,1998.6.5)
               

 あの世に行けば、金だれそれならば金だれそれだと、ぽん、ぽん、ぽんとボタンを押せば、あっという間に(その人の)生きてきた歴史が出てくるのです。その世界は、時間と空間を超越しているので、これを捕らえる直感が速いのです。どのようにしても避ける道理がないというのです。それゆえに良心とは何かというと、永遠の世界に行くための地上生活の記録帳です。コンピューターと同じように一つ、二つ、すべて入力されるというのです。間違いなく入力されるのです。(275-36,1995.10.30)
               

 人の行動一つ、表情一つ、すべてのものがビデオテープに撮られるように映っているのに、霊界に行って隠すことができますか。自分の心を隠せないのと同じように隠せないのです。心よりも表面的にさらけ出された世界が霊界です。弁解が必要ありません。弁解をすることができません。口を開けば開くほど宇宙の恥が迫ってくるのです。それゆえに、その世界へ前進できません。後退だけがあります。怖い時代が訪ねてくるのです。(208-37,1990.11.15)
               

 良心が知っています。良心が知っているかぎり、良心世界の本宮が霊界なので、霊界のコンピューターに入力されるのです。「だれそれ」と言えば、ツツツッと何代前からずらっと出てくるのです。この人の父母が何をしたかということ、良いのか悪いのかすべて出てきます。自分が一生の間何をしたかということが、あっという間に出てくるのです。何年もかかるのではありません。瞬時に分かります。それほどに拡大された人間世界に入るのです。(263-127,1994.8.82)
               

 霊界に行けば自らの記録が100パーセント、コンピューターに入っています。すべて現れるのです。良心は、永遠の世界に展示するコンピューターのディスクのようなものです。すべて入っているのです。ボタンを押せば、子供が母に抱かれてお乳を飲む時から一生の間ずーっと何をしてきたのか、すべて心の映像によって知ることができるようになっているのです。そのような世界が、皆さんの完全な感情のために日ごとに記録しているのです。その日がいつ来るのかといえば、死ぬ時です。万能の感情コンピューターの前に立てば、誰もうそをつくことができません。霊界の映像が、影のような世界で現れるのです。すべてが記録されているのです。(246-188,1993.4.16)
               

 良心は、一生の間において自分がしたことを知らないことはありません。自己のすべてのことをみな知っています。このことが、そのまま天国のコンピューターに入るのです。間違いなく入るのです。霊界に行ってみれば分かります。(258-258,1994.3.16)
               

 偉そうにしている人々は、浮気をし、ありとあらゆるばかげたことをするでしょう。天国に行けないのです。私が霊界に入ってひっくり返してみて、このような事実を知るようになり、「ああ! 知らなければよかったのに」と思う時が、どれほどあると思いますか。行ってみると、幾重にも重なった山また山です。サタンによって失ってしまった愛ゆえに、永遠に包囲された監獄生活をしているというのです。(290-17,1998.2.2)
               

 皆さんの心、堕落した心もそうでしょう。自分が一生の間どのような者だったか、よく知っていますか、知りませんか。だますことはできません、みな知っているのです。偉そうにしていてもです。
 霊界に行けば100パーセント表れるのです。悪いのが先に表れます。悪いものを先に清算して霊界に入っていくのです。そうでなくては、霊界に入っていくことができません。目をつぶったとしても、悪いものが表れて処断を願うようになるのです。ですから、それがなくなる時まで教育を受けなければなりません。修練を受けなければなりません。猛訓練を受けなければなりません。霊界では今、そのような教育体制をつくるために、興進君を中心として全体的に修練しているのです。(287-203,1997.10.30)
               

 良心は欺くことができません。皆さんは、すべてビデオ・テープと同じように記録されます。一生の間生きて、霊界に行くようになると、そこに自分の番号があります。心霊状態の光を既に知って、「誰それが来た」と言って連れてきます。連れてくれば「どのナンバーか」と言って、18番ならば18番をぐっと押せば、あっという間に分かります。生まれてからのことが、あっという間に分かるのです。やむを得ません。良心が痛哭するのです。それに比例して地獄と天国の境界線を行き来する、このようなことが連結されているのを皆さんは知らないのです。その世界が、そのままむやみに大ざっぱな計算で動いているのではありません。数理的な世界です。理論的に動くのです。科学者の王が神様だというのです。天国は、自分勝手にはなっていないのです。(284-23,1997.4.15)
               

 習慣性は、永遠にそのままです。そのように難しいものなのです。しかし、地上では直すことができます。今まで習慣になったことよりも新しいことを習慣化させれば、地上では清算できます。今、しなければなりません。今、しなければ霊界に行って問題になります。霊界に行って引っ掛かってしまうのです。(289-208,1998.1.2)
               

 殻を脱ごうとするとき、蛇も通路にしっぽを突っ込んでおいて、逆方向に死力を尽くし、木を巻きついていって血を流して脱皮するのです。逆理的な過程を経なければ順理的な過程を行くことができないという、堕落を認める人間には不回避な非原理的、公式的路程となっているというのです。それが順理の立場で私の個人の心と体が一つになり、順理の立場で夫婦になり、順理の立場で父母となって生きた人間は、逆理的条件に引っ掛かりません。
 霊界は、堕落した讒訴条件に逆に引っ張られるのと、木が逆に引っ張られるのと同じです。根が引っ張られれば順理になるはずですが、枝を引っ張っていけば逆理になって、すべてのものが行けば行くほど傷を受けるのです。もっと難しい路程になるのです。ちょうどそのようになっているのです。(285-74,1997.4.21)
               

 そこでは許しがありません。偽りが通じません。皆さんは、ビデオテープを見るでしょう。笑えば笑ったとおりに、その実相を見せてくれるのです。ここではビデオの時間的観念圏内を抜け出すことができませんが、そこは超時間的世界です。
 カチッとボタンを押せば、千年の生活がすべてすぐに現れるのです。ばっとスイッチをつけてみると、誰かが「行きなさい」と言うのでもありません。自ら霊界でいるべき所を探していくのです。我知らず押されていくのです。押されていけば、もっと良い所に行こうと思っても、どんどん押されていくのです。行って、ぴたっと三角地帯にとどまるのです。その時になって、行って嘆息しますか。私は霊界を知っているので、このようなことをするのです。霊界を中心としてこのようになるのです。皆さんは、福が多いのです。分かりましたか。(163-308,1987.5.1)
               

 霊界の輪郭がすべて表れるので、死後の世界がどれほど現世と連結されているか、その内容を知れば、むやみに生きられないのです。(294-9,1998.6.5)


 地上の生活が、どれほど怖いかということを知らなければなりません。地上の生活が永遠の自らの生涯圏を左右するという事実、それを知らないので自分勝手に暮らすのです。(295-127,1998.9.19)
               

 地上生活を本当に良くしなければならないのです。精誠を尽くし、1日に何十回も原理基準を中心として反省しながら、このようにして朝、昼、晩、24時間、天上の法に引っ掛からないように生きなさいと懇切にお願いするのです。(294-26,1998.6.5)
               

 天の前に行くときに、あらゆることを清算して行くときは、良くやったことから報告するのではありません。誤ったことから報告して、良くやったことを話さなければなりません。世の中は反対でしょう。「君は何をしたか」と言えば、「私はこのようにしました」と悪いことはすべて隠すのです。しかし、霊界はそうではありません。霊界では、悪いことから報告しなければなりません。順序がそうです。
 何をしたかというとき、さっと現れます、テレビのように。悪いことから報告するのです。なぜですか。カインが先です。悪いことが先に現れて、それから良いことです。アベルは2番目に現れます。比較して善なるもの、アベル的なことが多くなる時は再教育し、そこから霊界を教えてあげるのです。(196-283,1990.1.2)

(2021.12.26:写経奉献)


 ⑤肉身で犯した罪は地上で蕩減しなければならない


 地上で結ばれたことは、地上で解かなければなりません。そのまま霊界に行っては大変なことになるのです。自分自身が刺激を通し、そこから抜け出てこなければなりません。そうでなければ、永遠に地獄に落ちるのです。(229-27,1992.4.9)
               

 私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、今から死んでも蕩減の峠を越えていくべき運命的な堕落の子孫だというのです。それを否定できません。この道を越えなければならないのです。それを自分の一生において越えずに霊界に行くならば、何百万年かかるかもしれないのです。
 霊界には蕩減がありません。そこは解放された完成圏なので、愛の波で充満した所です。蕩減や再創造はありません。再生産もありません。そのような刺激がないので、一度固着すればそれで終わりです。大変なことだというのです。神様はそのようなことを知っていらっしゃるので、この地上にメシヤを送られたのです。(229-243,1992.4.12)
               

 蛇は脱皮すればするほど大きくなりますか、小さくなりますか。1日に10回脱ぐことができれば、10回脱ぎなさいというのです。霊界に行っては、そのような刺激がありません。そのような装置がないのです。再び地上に訪ねてきて、それを解怨成就できるようにといくら願っても、それは不可能です。一度行けば、勝手に戻ってくることはできないのです。(242-305,1993.1.2)
               

 あの世、霊界には愛の刺激的な要素はありますが、罪悪を取り去り得る蕩減的な要素がないので、数多くの歳月がかかるというのです。そのようなことを知ったので、先生は40年間ですべて築いて片づけたのです。昼夜を忘れて過ごしてきました。1日に夕方1食だけ食べ、あるいは朝1食だけ食べる生活が普通だったのです。そのように生きてきました。(243-177,1993.1.3)
               

 地上で肉身があるときは、大変ですが、共に抱き合い、痛哭しながら、感動させ得る道がいくらでもあるのです。
 しかし、霊界から肉身をもった地上の人間を感動させることは、とても難しいのです。(250-112,1993.10.12)
               

 この地上にいる生活が、どれほど重要でしょうか! 1回しかないのです。瞬間ですが、1回しかありません。地上生活を永生と比較すれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。これは重要ではありません。私の肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。常にそのような主流思想をもってセンターに立ち、一切をコントロールし、一切を征服できなければなりません。そのようにしなければ、皆さんは完成することができないのです。(207-99,1990.11.1)
               

 霊界で最も嫌うことは、堕落圏を中心とした風習、習慣性です。風習によって習慣性になってしまうのです。日本人は日本で生まれましたが、食べ物は何を最も好みますか。汁と御飯なのです。アメリカ人はハンバーガー、韓国人はコチュジャン(唐辛子みそ)とキムチ! しかし、このようにだけ考えて生きれば、その習慣性は永遠になくすことができないのです。
 それなら、その習慣性をどのようになくせばよいのでしょうか。自らの習慣性をなくすことがこのように難しいのに、固着した堕落性、頑固な習慣性をもって霊界に行くならば、どれほど難しい立場になるでしょうか。それを、この地上で整備しなければならないのです。霊界に行くとき、それがどれほど難しいでしょうか。ですから夫が問題ではありません。息子、娘が問題ではありません。夫と妻、息子、娘は、自らの習慣性をみな解決したのちにもたなければならないのです。(228-114,1992.3.26)
               

 地上で結ばれたものは、地上で解いてから逝かなければなりません。霊界に行って解こうとしても、そのような刺激的な環境がないのです。反対する悪役がなく、善に反対する世界がありません。それが悪かった場合には、それに反対するのではなく、悪い方向に押しやってしまうのです。それに決別させてしまうのです。(256-28,1994.3.12)
               

 皆さんは霊界に行き、保護官に監視を受ける生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。祝福を受けた人々も今後……。息子、娘たちがみな、「お母さん、私をなぜこのように生んだのですか。なぜここに引っ張ってきたのですか」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘たちがじっとしていると思いますか。皆さんの家庭のレベルは、みな異なっています。ですから、行くにもすべて自分のレベルに合う所に行って、長い間とどまるのです。そうなれば、皆さんの先祖が、息子、娘たちが、「どうしたのですか。なぜそのように良くすることができなかったのですか。何ですか、それは」と言いながら讒訴します。
 そうなれば、皆さんは、それに相当するだけの長い時間、そこにとどまらなければならないのです。そんなに易しくありません。ですから、地上でしなければならないのです。先生が「しなさい」と言うことを、みなしなければなりません。(207-99,1990.11.1)
               

 皆さん、まだ真の家庭になっていないでしょう。霊界に行けば、すべて別れます。霊界は永遠に堕落せず、天国の家庭を成して生きた人々が入るように成っているのです。いずれ永遠をおいて皆さんは帰らなければなりません。地上においては70年、80年以内に解決できる問題が起こりますが、霊界に行けば永遠をおいて、何千万年かかったとしても、その解決の道は難しいのです。皆さんは、地上で清算しなければなりません。地上で解決しなければならないのです。地上で解けば天で解かれ、地上で結ばれれば天で結ばれる、とあります。地上で失ってしまったので、地上で取り戻さなければならないのです。(283-184,1997.4.12)
               

 体を打って3年間制裁すれば、3年から5年制裁すれば、その世界に行くのです。そうではないですか。肉的なものを大きくすれば、霊的なものは小さくなるのです。肉的なものをなくしてしまえば、これが高まるのです。同じです。ですから、外的なものを無視して縦的なものを重視するようになれば霊界が近づき、本然的良心的基準に接ぎ木をすれば電気線のプラスとマイナスが、発電所の電気が通じるように爆発するというのです。それゆえに、天地の変化の作用が起こるのです。そのような霊的体験がなければならないということを知らなければなりません。(282-308,1997.4.7)
               

 聖書の、「地で結べば天でも結ばれ、地で解けば天でも解かれる」という論理も、このような二重構造の一体性を知ることによって解明できるという結論が出てくるのです。今日、私たち人間は、肉身をもったこの期間が本当に、どれほど貴重なのかを知らなければなりません。神様も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、全天下を統一し得る期間は、肉身をもっているこの期間しかないという結論になるのです。
 神様と万物を合わせても、この肉身世界と取り替えることはできないのです。なぜそうなのでしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ完成できないからです。それゆえ、今日、私たち人間の体がどれほど貴重なのかを知らなければなりません。それは素晴らしいでしょう。(91-191,1977.2.13)
               

 天国に行き、地獄へ行く二つの道があるとすれば、天国を訪ねてくる人と地獄へ行く人とでは、どちらがより多いでしょうか。地獄へ行く人々が、より多いでしょう。それを見つめる神様の心情はどうでしょうか。どれほど唖然とするでしょうか。地獄とは関係なく天国に来て、膨大なこの国の民になって、愛を中心として神様と共に生きなければならない息子、娘たちが、みな地獄へ行くのを見るとき、どれほど唖然とするかというのです。皆さんの息子、娘が死の地に行くと考えてみてください。このようなことは、いずれ霊界に行けば、皆さんすべてが知ることです。(244-25,1993.1.29)
               

 霊界でみんな尋ねるというのです。「先生の教えはこうだったが、この基準に対してあなたは合格者か、不合格者か。霊的五感と肉的五感が一つになり、この基準に合わせようと努力したか」と聞くのです。皆さんは、どのように考えますか。天国は、誰でもそのまま通過できる所ではありません。深刻な人が集まる所です。皆さんは、先生よりも深刻でなければなりません。(246-191,1993.4.16)
               

 霊界に行けば、まず一番に誰に会えるかというのです。誰に会ってみたいですか。そのようなことも考えたことがないでしょう。自分の母親に会おうと思っても会えません。真の父母が解放させる前には会えないのです。いくら愛する人だといっても会うことができません。少し離れた場所から見ることはできますが、近くでは会えないのです。(285-125,1997.4.21)
               

 人間は霊界に入籍する時、地上生活を証明する証明書をもっていかなければなりません。「私はこのように生きた。このようなことをした」と言い得る生涯の証明書のことです。そのような証明書は、自分自身で書くことができないのです。初めはサタンが書きます。先にサタンから証明書をもらってから、イエス様の証明書をもらわなければならないのです。それから神様の証明書をもらわなければなりません。(200-77,1999.2.4)
               

 今後、皆さんは、自叙伝を書かなければなりません。自叙伝を書きなさい。統一教会に入ってからの生き方を、一つのうそもなく自叙伝を書かなければなりません。そうすれば、霊界に入っていく時、その自叙伝を前に置いて、「私がこのような役事をすることができたのか!」と痛哭できなければなりません。これを地上で書き、天国に行って、160名、240名、360名に該当する霊通人たちが前に立っている列をたどっていく時、うそをつけばそこで雷が起こるのです。欺くことはできないというのです。(297-120,1998.11.19)
               

 皆さんが行動したすべてが、あの世に行ってスイッチだけ押せば、あっという間に一生がテープにすべて現れるのです。それは悲惨なことでしょう。
 ここで先生がすべて許してあげるようになれば、そのテープがすべて消えてしまうのです。そのようなことを知っていますか。(165-90,1987.5.20)

(2021.12.27:写経奉献)

 

 ⑥自然の中への順応的生き方が貴い


 自然に向かい合う人は、宗教的な人です。宗教の世界は飾り気のない世界です。大地は、自然はうそをつきません。
 100パーセント私が努力すれば、そこに対する結果をもたらすのです。そこには投機性がありません。一獲千金がありません。また、そこには賭博性がありません。年齢が50になれば自然に帰り、自然の土とともに生きながら信仰生活をすれば、霊界に行く準備として、これ以上良いことはありません。(244-322,1993.3.1)
              

 先生は将来、ここに農場をつくり、世界の食口を連れてこようと思います。皆さんが年を取って60歳、70歳になれば、自然の中で万物を育てながら、子供を育てるのと同じような心情を体恤し、神様の創造の心情圏を体恤するのです。そうしてから霊界に行けば、高い霊界に行くことができるのです。ですから統一教会で苦労した人は、晩年に農場に連れていって別荘で自給自足させる計画なのです。それが理想郷です。先生は、そのような大きな構想をもっています。(246-216,1993.4.16)
               

 60を越えれば下野し、故郷の農村に帰って土地を耕し、霊界に行く準備をしなければなりませんが、その準備が忙しいのです。ですから精誠を尽くして先生のように農村に埋もれながら、農村を指導できる、このような責任を果たさなければなりません。
 ですから、趣味産業、趣味生活をやり終えて霊界に行ってこそ、高い霊界に行くことができ、情緒的な人になって霊界の舞台を活用できる皆さんとなるのです。どうですか。(289-193,1998.1.2)
               

 満60歳まで仕事をしますが、その後は公的活動時代から解放されます。しかし、3年間は公的に無報酬で仕事をするのです。霊界に行くためには報酬を願ってはならないのです。霊界に行くための訓練をするのです。実績があれば7年まで延長するかもしれません。それでは、何歳まででしょうか。霊界に行ける基盤を中心として、67歳までです。60歳で終わって7年もできるというです。そのようになれば、どこに行っても誇ることができるのです。統一教会の基盤をもって逝けば、「ああ功臣様が来られたのですね」と言って、先生の代わりに接待を受けるかもしれないのです。「ため」に生きるその基盤を通して、霊界に行くと考えるとき、そのような年輪が必要だというのです。(289-195,1998.1.2)
               

 陸地旅行、水中旅行、宇宙旅行をしながら暮らしてから霊界に行くのが良いのです。それで、海にも入って暮らせるようにするのです。5人が入って、いくらでも暮らせる潜水艦を研究しているのです。
 ですから、地上で定着生活をしながら旅行をするというのです。陸地旅行、水中旅行、宇宙旅行をしながら暮らしたのちに霊界に行かなければならないのです。(279-200,1996.8.4)
               

 鹿みたいな獣も育ててあげ、魚も育ててあげ、それから穀物も自然に人工を交えて育て、すべて育てるというのです。それがどれほど素晴らしいでしょうか! 神様が創造したすべてのものは何であっても再生させ、それを願いながら神様を考え、自然と調和を成し、このすべてのものがお互いに助け合って生き、趣味をもって暮らしたのちに霊界に行くのです。
 このようにすることによって、都市集中の世界をすべて分散できるのです。何の話か分かりましたか。(252-210,1993.12.30)
               

 神様が願う未来の家庭システムは、どのようなものでしょうか。それで、先生は趣味産業、趣味世界を考えたのです。今後、各国にどのような組織をつくるべきでしょうか。建築をするのですが、コンドミニアム・システム建築、四つの家庭が一つになって暮らせる、そのようなシステムで訓練しなければならないというのです。お金を稼ぎ、食べるのも一緒に食べ、息子の教育も一緒にさせ、一つの家族のように暮らさなければなりません。一緒に暮らせず、和合することができなければ、霊界に行って制限された環境に押し出されるというのです。一緒に和合できないのです。(278-327,1996.6.23)
               

 このおもしろみ、趣味文化というのはどこにもあるのです。創造の時から復帰の時、完成の時、地上生活、天上世界までおもしろくなっているのです。アメリカ人だけ裕福な生活をしなさいという法はないのです。アフリカ人も裕福な生活をすることを願いますか。「アメリカ人の中で最も裕福な生活をしている人の家で、アフリカで最も貧しい暮らしをしている人を1カ月住まわせてあげなさい」と言えば、どうですか。それができなければ、レバレンド・ムーンがします。(278-123,1996.5.1)
               

 故郷に定着する時は、どのようになりますか。天地のすべてのものが故郷になり、天地のすべてのものがそこに連結されているので、何ももって行く必要がなく、置いていかなければならないのです。それを置いておいて霊界に行けば、これを連結させられるというのです。世界のものをここに移すことができ、また私がそこに行けば自分の家も引っ張ってくることができ、私のものになるというのです。もって行く必要がありますか、ありませんか。(289-144,1998.1.1)
               

 ボートさえあれば一人で行って瞑想もすることもでき、小さい天幕だけ張っておけば、そこで寝ることもできるのです。天国のような観光をすることができるのです。人がいない所でです。自然に埋もれて、このような観光をするためには船が必要です。絶対必要だというのです。そのようになると思いますか、思いませんか。できなければ、そのようにさせるのです。(262-270,1994.8.1)
               

 霊界は、寝ることも食べることもせず行動できる世界です。千里、万里をあっという間に行き来するというのです。この宇宙をすべて行動半径圏内に消化させ得るというのです。
 ここの自然において、南米にどのような木があり、どのような鳥がいて、という関心事がどれほど多いでしょうか。この前、8メートル近い大蛇の抜け殻があったのです。やー、それを一度捕まえたいです。それ以上の大蛇を捕まえたいというのです。(276-77,1996.2.4)
               

 一生の間の生活の中で、人生の趣味生活が人間の歴史とともに、人間の理想生活とともに和合し、霊界と連結されなければならないのです。自然的幸福の世界と連結できなければならないというのです。(278-123,1996.5.1)
               

 地上世界で、いつも晴れているより、晴れたり雲がかかったり、ありとあらゆる気候の変化を見るとき、それは芸術的なのです。その環境で愛することを感じれば、あの霊界の澄んだ世界に行き、自分が雲がかかるようにしてみたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしてみたければ霧をかけることができる、愛によってそのすべての多様な感応圏をつくることができる特性をもった、そのような人間になることができるのです。ですから、すべての霊界が関心をもっているのです。「ああ、あの人のところに行けばおもしろい」と言うのです。(201-102,1990.3.11)
               

 私は、山に行って草を見れば、どれが食べられるものか、すべて分かります。芽が出てくるときは、すべてのものを食べます。子牛や子羊たちは、芽をみなかじって食べるのです。毒草を食べても毒がないのです。その時は、毒がないのです。そのようなことをみな学んだのです。山に行けば、食べるものがどれほど多いでしょうか。
 また、茂みに入れば昼寝をするのにどれほど良いでしょうか。蒸し暑い夏には腹を出して涼しくごろごろして過ごせれば、どれほど良いでしょうか。雨が降ったとしても、どれほど涼しくて良いでしょうか。腹を出して藤の下で大の字になって寝て、おならもぶーぶー鳴らしながら、いびきをかいて寝る男の姿を過ぎゆく尼なら尼が見て、南無阿彌陀仏……。それはなぜですか。あまりにも立派なのです。石で造られた仏像ではありません。何の話か分かりますか。分からない女性は木石に等しいのです。それは息子、娘も生むこともできず、嫁ぐこともできません。
 しかし、それを見つめて南無阿彌陀仏と唱える時、胸がどきどきし、おしりが突き出る時は、僧侶たちも一次元上がっていくのです。本当です。霊界に行ってみれば、そうです。愛を知らない僧侶たちは落第です。キリスト教徒たちがよく信じて天国に行こうと、いくら言っても役に立たないのです。私がくまなく、すべてかき回して見ました。金活蘭がどこに行っているか知っていますか。患乱世界に行っています。(202-231,1990.5.24)


4)天国に入る秘訣

 ①天国は皇族の名誉をもって入る所


 度数を合わせられなければ、天国に入れないのです。天国にそのまま行くことはできないのです。公式があるでしょう。メートルの原器はフランスのセーブルの国際度量衡局にありますが、それは気候や温度に対しても変化しません。数多くのメートルの物差しがあったとしても、みなそれぞれです。それが正しいか間違っているかということは、必ず原器に合わせてみて判断するのです。そのような公式があるということを知らなければなりません。天国は誰でも行けるものではないのです。(248-299,1993.10.3)
               

 皆さん、天国に行きたいでしょう? 天国に行きたいならば、天国に行くことができる内容をもたなければならないのです。同じことです。天国に入る時、チケットが必要でしょうか。そのまま無事に通行できるでしょうか、何かの条件をもってチェックするのでしょうか。無事通行ではありません。すぐに分かるというのです。霊界にコンピューターがあると思いますか、ないと思いますか。人間が造ったものもすごいですが、霊界のコンピューターは、さっと押すだけで1分の間に生涯全体を知ることができるのです。うそをつくことはできません。このような息子、娘として生まれてこのような生活をしたということが、全部でてきます。悪いいたずらをして、良くない年輪をたくさん残した女性ならば、それがすっと出てくるのです。(250-110,1993.10.12)
               

 堕落しなければ、神様の血族をもって神様の直系の息子、娘が天国に入るようになっていました。その家庭が天国に入るようになっていたのに、堕落し、怨讐の血統を受けたのです。愛の怨讐となり、怨讐の血統を受けたその怨讐の子女だということを忘れてしまい、堕落しない直系の子女のように考えることができるその立場をもたなくては、本然の神の国に入れる基準が立たないのです。神様の息子、娘、神様の血族である自分の息子、娘を直接愛した人が天国に入るようになっているのですが、サタン世界の怨讐の子女をそれ以上に愛し得る基盤をもつことができなければ、天国に入れません。それゆえに、怨讐の子女を自分の子女よりも愛さなくては、天国に入る基盤がないのです。(262-304,1994.8.1)
               

 サタン、怨讐の血統を受けた、そのことが問題です。神様の血統を受けて霊界に直通しなければならなかったのです。神様の愛をなした心と体が一つになり、夫婦が一つになり、子女が一つになって天国生活をし、地上天国で暮らして天上天国に入っていくのが創造の原則です。神様の直系の血統として、直系の100パーセント真の愛の因縁を結んで、統一的個人と、統一的夫婦と、統一的家庭の枠組みを中心として、彼らが地上で生きたのちに入る所が天国なのです。それが原理原則の基準となっています。(264-168,1994.10.9)
               

 堕落したのちに地獄が生じたのでしょう? それゆえに天上世界と地上世界、すべて真の父母の愛の門を経て入っていく、その世界が天国です。アダムとエバが堕落せずに真の父母の愛を通じて天国に入ったならば、万民の家庭のモデルになっていたはずです。一つの本然的モデルの家庭形態が天国に入るのです。そうすることによって、その伝統的歴史を受け継いだ皇族圏の愛を連結したすべての家庭は、一つの中心的な幹の前における、東西南北の枝と同じです。それゆえに、同じ圏統合の原則によって天国に入るのです。それでこそ統一世界になるのです。これを、はっきりと知らなければなりません。(231-76,1992.5.31)
               

 皆さんの家庭におじいさんがいますか、いませんか。ですから真の父母が、おじいさんの位置にいるのです。皆さんの家庭に真の父母がいれば、皆さん祝福家庭は、父母の位置以上だというのです。皆さんも真の子女として生まれたでしょう。そして、皆さん、子女をたくさん生んだでしょう。彼らが未来には王族たちになるのです。
 神様が最初に王家をつくり、完成して霊界まで連れて行くのです。そうではありませんか。理想的最高の家庭です。それが天の王族です。本然のアダムとエバが完成するのです。真の愛を中心とした王家だというのです。そののちに完成して行く所が天国なのです。先生が皆さんの家に行って暮らせれば良いと思いますか。なぜでしょうか。一生を喜んで父母様に仕えるようになれば、自動的に天国に行くのです。それが伝統です。
 真の父母は、一生をそのように生きたがゆえに、自動的に天国に連結されます。それゆえに皆さんとも連結されるのです。このことがどれほど驚くべきことであり、楽しく、価値があって、貴いことでしょうか。誰とも取り替えることができないのです。(230-110,1992.4.26)
               

 蕩減復帰原則について、もう一つお話ししましょう。蕩減復帰の原則は、不変の真理だというのです。エデンでエバが犯した罪を後代のエバの世界において蕩減しなければ、復帰していくことができないのです。これは、みんな知っているでしょう。それを復帰することによりサタン世界は消えて行くのです。
 ですから、真の父母を中心としてこの本然的基準が全世界的に成されるようになる時は、堕落しない本然的天国、理想世界が成されるのです。その世界は、人類の願うたった一つの方向へと訪ねて行く平和の世界であらざるを得ない、ということをはっきり知らなければなりません。(262-214,1994.7.23)
               

 真の父母と一つになり伝統の相続を受けて、皆さんの家庭が主体的伝統で万国を統治できる基盤となり、主体性をもつことができる家庭になるとき、天国の皇族圏内に入籍するのです。このようにして入る所が天国です。天国は誰でも入れる所ではないのです。その道を行こうと、3代が決心しなければなりません。おばあさん・おじいさんから母・父、夫婦、息子・娘まで段階は4段階で、系列は、夫婦を備えたものは3代です。(228-295,1992.7.5)
               

 本来、堕落しなければ、私たち人類の先祖は神様の息子、娘であり、地上天国、天上天国の王子、王女になるはずでした。それは世界的です。根源であると同時に、一番終わりです。アルファとオメガです。アルファから善の父母が出てくることができず悪なる父母が出てきたので、これをすべて抜き取ってしまわなければなりません。そして、悪なる父母で始まったすべてのことを消化させ得る真の父母が出てこなければならないのです。(226-319,1992.2.9)
               

 本来、アダムとエバは神様の息子、娘でしょう。神様の息子、娘なので天国の王子であり、この地上の王子なのです。天国の王子であると同時に、大きくなれば地上の王になるのです。王孫です。それゆえに、天国の王宮での法度を守り、その道理のすべてを実践して神様の愛を中心として縦横、前後、左右に一つの理想的なモデルになるのです。東方に行くとしても、西方に行ったとしても、南方に行ったとしても、北方に行ったとしても、前方に行ったとしても、後方に行ったとしても、どこへ行ったとしても理想的モデルになるのです。
 なぜそうなのかというと、この中心位置に立っているからです。その位置というものは、中心を中心として東方、西方、南方、北方、上下関係どこでもすべて核です。そのような立場を考えてみるとき、どこに行こうが、皆さんが見本にならなければなりません。(226-258,1992.2.9)
               

 愛の所有を中心とするならば故郷が私の故郷となり、家庭が私の家庭となり得るのです。そこで、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成がなされるのです。神様の教本に提示されたすべての内容を成せなかったことを、今日、真の父母を通じて再現し、知るようになり、それを再度実行することによって、堕落ていない本然的立場で、神様が完全に恨の峠を越えて、教育に対する定義を下すことができるのです。そのようにすることにより、天国の民として合格者、合格家庭となるのです。霊界は、この地上の愛の大海が連結された世界であり、そこが天上天国です。それゆえに、あの世では、愛の体恤的心情をもたなければ生き残ることができないのです。(226-173,1992.2.2)
               

 50億人類は長子権、直系王権を受け継いだ王家の親族たちです。その皇族圏の心情を体恤した人たちが天国に入るようになっているのです。それゆえに、全世界的に平面化された王族圏を中心として、それを実体化させた世界の統一心情圏を体恤する生活をしなければならないというのです。そこから真の父母も、長子の上の真の父母です。真の父母の王権なのです。このような王権を中心として、周辺の王族を率いていかなければなりません。
 天国は、このような家庭の兄弟はもちろん、父母を中心として、王権を中心として、王族を率いて、王権に仕えて入って行く所です。そのような心情を体恤して入る所が天国です。天国というものは何ですか。アダムとエバが双子として生まれ、暮らして成長し、結婚して二人が父母になったのと同じように、その心情圏を体恤し、王権をなして、その権限をもって王族を率いる人々が入る所です。そのように王が入ったのちに、王族を連れて入るようになっています。そのようにして平面的に四大王権になるのです。(247-265,1993.5.9)
               

 今から地上天国時代に入るので、私たちの家庭が王の一家だというのです。ですから、どれほど模範的にならなければなりませんか。王が勝手気ままに暮らせますか。女王が勝手気ままに暮らせますか。その息子、娘が勝手気ままに暮らせますか。王と王妃、王子、王女たちは、その国の法をすべて守らなければなりません。それだけでなく、王宮の法があります。法の中には王宮の法があるのです。宮で貴族たちが暮らす法があるでしょう。イギリスでも韓国でもみな、王孫の生活がどれほど難しいでしょうか。(232-326,1992.7.10)


 先生がその道、復帰の道をすべて歩んできたのです。そのようにしてみなければ天国を意識できないのです。皆さんは、天国を治める王の位置に上がることはできません。女王に仕えることができないのに、どうして男性の王になれるでしょうか。そうではありませんか。(232-331,1992.7.10)
               

 今、皆さんは真の愛を中心とした皇族にならなければなりません。皇族であるアダムがそのようになれば、アダムが直系の子女ならば傍系の子女であるその兄弟姉妹たちは、すべて民になるのです。
 それゆえに天国に入るには、天国の王子、王女の愛を備えて、その権威と威信をもって入るのです。そこが本郷の国、天国であることを知るべきです!(220-219,1991.10.19)

 

(2021.12.28:写経奉献)

 

 ②四大心情圏の愛の実体が天国に行く


 天国には、どのような人たちが入るのでしょうか。四大心情圏を完成した愛の実体が入るのです。自分より何千倍も優れたことを願う愛の対象者として、天の国と地の国と未来の三王権に代わる中心家庭が、私の家庭だということを知らなければならないのです。これを失ってしまったがゆえに、復帰された家庭でこのような概念と、このような内容を実践して結実させなければならないのです。それを息子、娘を通して繁殖させなければならない責任があるのです。
 このように本然の道を失ってしまったので、これを完成して帰らなければならないのです。それが復帰の道であり、再創造の道であることを知らなければなりません。アーメン! これは文総裁の言葉ではありません。神様が語られたみ言なのです。(238-254,1992.11.22)
               

 皆さん、このような話は初めて聞いたでしょう。四大心情圏と三大王権を復帰し、皇族の愛をもっていくべき祖国が天国です。死んでみれば分かります。いくら優秀な人でも、ここにすべて引っ掛かります。その時になって、「文総裁の言うことを聞いていればよかった!」と後悔せず、早く決定して祝福を受けなければなりません。それが最も早い解決方法です。それとともに学ぶのです。
 男性、女性が和合し、天国の失ってしまった家庭を取り戻して、神様を王として侍らなければなりません。ですから、おじいさんは神様の代わりです。おじいさんを神様の代わりとして侍らなければなりません。自分の父母は、50億人類の家庭を中心とした王です。その息子、娘には未来の王のように侍らなければなりません。神様のように、現代家庭を代表した王のように侍る父母の道理を受け継いで、千年、万年その道理を残していく世界が地上天国となるのです! アーメン!(239-76,1992.11.23)

               
 四大心情圏と三大王権を完成した家庭が理想的な家庭です。ですから、おじいさんは神様と同じであり、父母は世界の家庭の王であり、自分自身は天上と地上の王権を継承する未来の王です。これは天国の王権であり、これは地上でしょう。これを相続する王なのです。このような三大王権が結実しなければならない所が、私たちの理想家庭です。(239-185,1992.11.24)
               

 父母権復帰の目的は王権復帰であり、王権復帰の目的は皇族圏復帰です。それが四大心情圏です。おじいさん、父、自分の夫婦が三大王権を象徴します。おじいさんは過去を象徴し、自分の父母は現在を象徴し、自分たち夫婦は未来を象徴するでしょう。おじいさんは、霊界の特権大使として自らの家に送られたお方なので、おじいさんの言葉に絶対服従する家庭は繁栄します。(249-306,1993.10.11)
               

 私たちの地上生活がそのまま霊界に移るのです。それを知らなければなりません。それでは、霊界に行きどのように横的に連結されるでしょうか。私の家庭で感じたことが宇宙の家庭で感じる、その世界に入るのです。世の中では縦的父母を中心として、もちろん神様圏を中心として縦的父母になっていますが、横的父母を中心として家庭で暮らして、永遠な縦的世界、父母の世界へ行くのです。その世界が天国なので、それは一代ではなく、数千代がすべて入ると考えるのです。
 神様を中心として世の中でおじいさん、父母、自分の息子、娘と暮らしたことを拡大させた世界なので、そこに入って暮らせば、この地上で姉として、妹として、それから妻として、母としての責任、また兄として、弟として、夫として、父として一つの家庭で感じた責任を横的に感じられる因縁ができてこそ和するのです。(247-308,1993.6.1)
               

 男性は、絶対的に女性と一つにならなければなりません。女性は、男性と絶対的に一つにならなければなりません。また、父と息子、娘が、神様と息子、娘が絶対的に一つになり、兄弟が絶対的に一つにならなければならないのです。神様の愛を中心として、神様と共に一つの家庭で暮らし、死んでそのまま移る所が霊界です。(279-114,1996.8.1)
               

 アダムは、神様御自身です。家庭の主人ですが神様御自身の体です。国の中心も神様御自身です。世界の中心も神様御自身です。それで、人は生まれてこのような家庭において、家庭が一つになり、国が一つになり、霊界が一つになる三つの段階を越えていかなければならないのです。(278-169,1996.5.5)
               

 アダムは、神様御自身です。家庭の主人ですが神様御自身の体です。国の中心も神様御自身です。世界の中心も神様御自身です。それで、人は生まれてこのような家庭において、家庭が一つになり、国が一つになり、霊界が一つになる三つの段階を越えていかなければならないのです。(278-169,1996.5.5)


 アダムは、神様の愛を受けましたが、アダムの息子、娘は、神様の愛とアダムの愛、二つの愛を受けることができるのです。霊界の王権と地上の王権を受け継ぐのです。地上天国から天上天国に入っていくので、このカテゴリーは分けることができないのです。(278-161,1996.5.5)
               

 おじいさん、おばあさんが絶対必要で、父母が絶対必要で、夫婦が絶対必要で、子女が絶対必要だという心をもち、国は自分の家庭よりも愛さなければなりません。世界がそのように、4段階の人類が分布していることを知り、自分の国よりも(世界を)愛さなければなりません。そのような世界は天と地に対します。過去、現在、未来が一つになった霊界に行って暮らそうとすれば、そのような4段階の、すべてを愛した人々が行った所なので、それを愛さなければなりません。そのような世の中を地上に成し遂げたのが地上天国であり、天上天国は地上天国によって自動的に形成されるのです。(277-192,1996.4.15)

               
 四大心情圏は、夫婦によって愛で一体を成したところで結実し、三大王権は、アダムとエバが息子、娘を生んでこそ完成するのです。息子、娘を生んでこそ三大王権が完成するというのです。神様の代わりとなり、霊界を代表したのがおじいさんであり、アダムとエバは現在を代表します。過去、現在、未来です。現在を代表したアダムとエバを中心として未来を代表した息子、娘が出てきますが、「正」から「分」になったのが、「合」にならなければならないのです。(270-258,1995.7.16)
               

 霊界においても、神様が過去に感じられ、現れなかったすべてのことをアダムとエバが感じることによって、結婚時においてアダムとエバが一つになることにより、神様とぴたっと上下、左右が合わさるのです。ここから兄弟が発生するのです。それで、円形的球形を成していきます。この球形を成していくのが皇族圏であり、夫婦を成したのが王権です。3代一体圏が生じるのです。3代が一つになるということです。(270-268,1995.7.16)
               

 おじいさんは、過去の王です。神様の位置であり霊界を代表する、天国から派遣した特権大使です。そして、父母、アダム・エバ圏は、この世の国の王と王妃だというのです。おじいさん、おばあさんは天国の王と王妃の位置であり、父母はこの世の家庭を中心とした家庭世界の王と王妃だというのです。霊界を代表したおじいさんの王権と、現在のこの地上天国を代表した王権、この二つの王権が一つになったその継代を受けるのが子孫です。
 それゆえにいつもこの息子、娘は父母と一つにならなければならず、おじいさんと一つにならなければならないというのです。また、お爺さんは、いつも父母を中心とした孫と一つにならなければならず、父母もやはりおじいさんと一つにならなければならないというのです。これを離れては、天国の基台が崩れるのです。(246-74,1993.3.23)
               

 天地にいくら高低の差があり、広狭の差があったとしても、天地にとどまる人たちは4段階になっているのです。霊界にもおじいさん、おばあさんがいるのです。父母のような年齢、青年のような年齢、少年のような年齢がいます。これをもう少し集約すれば二人です。 二人!(253-132,1994.1.23)
               

 四大心情圏、三大王権を知っているでしょう。皆さん夫婦は、これを成さなければなりません。そのようになれば、思いのままに霊界から地上までいつでも来臨できるというのです。(253-71,1994.1.7)


 四大心情圏の完成は、結婚して愛を中心として一つになることによって可能です。もし、これが壊れれば、子女心情圏の未完成、兄弟心情圏の未完成、夫婦心情圏の未完成、父母心情圏の未完成になるのです。霊界にはこのような心情圏を完成して行くべきですが、堕落したので、その心情圏を今まで成したことがありません。それゆえに、蕩減復帰をしなければならないのです。(249-289,1993.10.11)

(2021.12.29:写経奉献)


 ③心に同化した生活をしなければならない


 良心が神様の代わりに私に植えつけられた第二の神様、私の中心存在であることを知らなかったというのです。神様以上に仕えなさいというのです。教主以上、イエス様以上に仕えなさいというのです。そうすれば、イエス様を信じた以上の位置に行くことができるのです。統一教会の文総裁を信じないでください。統一教会の文総裁の教えを受け、良心と完全に一つになるならば、統一教会の文総裁についていかなくても天国に行くことができます。教材を買って勉強をしなければなりません。
 良心を解放し、解放的な自我を確立させて統一圏をもたなければなりませんが、それができない人は天国に行けないのです。天国を探しに探しましたが、そのようにして天国に行った人がいません。今も修養過程にとどまって呻きながら、牧師や長老や立派だという人々の中には、すっかりひっくり返っている人が多いのです。(253-45,1994.1.1)
               

 良心を解放しなければなりません。皆さんの心は天国の監視所であり、皆さんの体は地獄の監視所だというのです。皆さんの体が心を引っ張り回しますか、心が体を引っ張り回しますか。宗教を信じる人々は心が体を引っ張り回し、宗教を信じない人は百発百中、体が心を引っ張り回します。自分を中心として生活します。それが違うのです。
 それゆえに地獄の出発地が私であり、天国の出発地も私です。心のとおりに行えば天国に行くのであり、体のとおりに行えば地獄に行くのです。他のために生きれば天国に行くのであり、自分のために生きれば地獄に行くのです。きょう帰れば、良心の解放を宣言しなければなりません。(252-257,1994.1.1)
               

 心と体はどのようなものですか。それは主体と対象です。相対のために存在しなければならないのです。心は体のために生き、体は心のために生きるのです。一つになれば、皆さんは五官ではなく、十官をもつようになるのです。天の霊界も、すべて見えて分かるのです。天国から聞こえてくる音楽の音も、すべて聞くことができます。(283-253,1997.4.13)
               

 今後は天国へ入っていくとき、霊通人たちが現れて、イエス様の横腹をローマの兵士が槍で刺したように、良くない行いをした人をつつくのです。無慈悲な時代が来るということを知らなければなりません。人民裁判があったでしょう。そこまではいかないかもしれませんが、それは自分が願うからといってやらないわけにいかず、絶対うそをつけません。そのような時代が来るということを知って、心と体が一つにならなければなりません。(252-148,1993.11.14)
               

 神様は一つになっていらっしゃるということになれば、堕落して争う存在は、神様の反対の所に行くしかありません。そのような所を指して、霊界でも地上でも地獄というのです。悪い者は、地獄に行くしかないのです。これを論理的に整理しておかなければなりません。はっきり分かりますか。良心と体がずっと闘って一体になれなければ、地獄に収納されますか、天国に収納されますか。地獄! 死ぬ前に、いつかはそれを一つにしなければならないのです。それを一つにせずして天国に行こうと考える者は、とんでもない者だというのです。そのような結論が出ました。(258-309,1994.3.20)
               

 サタンは、遠くにいるのではありません。自分と連結されています。自分というのは、天国と地獄の境界になるというのです。自分に地獄があり、自分に天国があるのです。良心は天国、地獄は肉身なのです。良心は主体であるにもかかわらず、堕落したので……。愛によって良心が愛と一つになり、霊的、地的、地上天国、天上天国の永遠のプラスの立場に立たなければならないのです。(256-51,1994.3.12)
               

 体は何かというと、地獄の中心核です。核の中の核なのです。それでは、良心は何ですか。天国の中心の核です。この二つが闘うのです。ずーっと毎日、闘うのです。これが問題です。いかにこれを解決するかということが私たち一生一代の課題です。
 ですから、体を打って弱めることを趣味と考えなくてはなりません。その反対領域をどんどん占領して広めて、自分の所有をつくらなければならないのです。そうすれば、肉身はだんだん小さくなるのです。
 それで、制限領域を無限の世界へと広げるのです。永遠な世界のために生きること、ですから肉身をずっと征服して霊界まで行くのです。水平になるまで行かなければなりません。このようにしなければ、地上天国を成すことができません。堕落していない本然の真の愛を中心として、平面上で心と体が一つになり得る起源的位置を復帰することができないのです。(254-221,1994.2.13)
               

 悪魔が支配する地獄があり、善の神が支配する天国があります。天国はどのようなものでしょうか。天国は建設するものであり、地獄は破壊するものです。これが違うのです。それで、この建設と破壊が、私の一身においてぶつかるのが、心と体の闘争です。(261-196,1994.6.19)
               

 神様は心と体が一つになっているので、心と体が一つになった理想的な息子、娘として生まれた人々が、地上で一つになって暮らしたのち、天国に移されるようになっているのであって、闘う者は絶対に存在し得ないのです。神様は、そのような存在形態を見るのも嫌うというのです。
 では、人類が願うこととは何ですか。このような闘いを停止させ得る主人、父母が来なければならないというのです。偽りの父母で始まって分かれたので、真の父母が来て、このような事実をはっきりと理論的に教えてあげなければなりません。故障したので、その故障した急所を取ってしまい、け飛ばすことができる、このような運動が地上で起こらなければ、地上天国は永遠に遼遠なものです。
(261-300,1994.7.24)
               

 良心が体のために、どれほど犠牲になったでしょうか。一生の間蹂躙される良心の事情を、皆さんは知っていますか。昼夜、私を管理するのに疲れているのが良心です。それでも、へたばらずに、体が悪い行動をしようとすると防ぐのです。「それだけすればもうやめるべきではないか、私の話をちょっと聞かなければならないではないか」と言うでしょう。自分の前に最も近い、父母の代身、神様の代身、先生の代身の存在が良心です。心自体には教育が必要ありません。しかし、体には教育が絶対必要です。(214-282,1991.2.3)
               

 すべての人間は、各々自分自身の中に、最も大切な先生を一生の間、終始大事に保管しています。それにもかかわらず、その先生を誤って待遇し、踏みつぶして乱用します。その先生が正に人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にも助けになるように語り、私たちを真の愛と連結させてあげようとします。父母のように私たちの良心は、私たちをして善なる非利己的な人になれと促し、神のみ旨に従って行動するように導いてくれます。しかし、各自の心の中にはまた、良心の声を常に拒む反乱者がいます。その反乱者が正に肉体なのです。(201-208,1990.4.9)
               

 皆さんの体と心の統一も、真の愛でなければできません。それゆえに心は、体のために犠牲になりながら、忘れに忘れ、また忘れてしまうのです。心とは、神様の代わりとなる立場なので、皆さんの先生の中の先生です。その心は、神様が御自身の代わりに派遣してくれた私の中心です。縦的な私です。(226-60,1992.2.1)
               

 先生は若い時、自分の体を制御するために、ありとあらゆることをしました。1週間、目を開けて寝るのです。いくら千万の美人たちの中で寝ても、男性のそのスティックが美人たちの三角地帯に接しても動いてはならないのです。自分の体をコントロールできない人は、天国へ行くことができません。(263-100,1994.8.21)
               

 地獄の根、天国の根がどこかといえば、世界ではありません。「終わりの日」の世界が地獄と天国ではありません。地獄と天国の根は、どこにあるのでしょうか。あくまでも皆さんの心と体にあるということを知らなければなりません。今までそれが分かりませんでした。数多くの聖人たちが来て教えてくれ、相対的世界に適応しようとはしましたが、自体において闘うこの根拠地を爆破させることができなかったのです。この統一は、ここから始めなければなりません。ここから始めなくてはいけないのです。(263-199,1994.10.4)
               

 サタン世界は地獄へ行くのであり、神様の世界は天国に行くのです。そうなれば、自主的な、自分のために生きる世界は悪なる世界へ行き、公的な世界、全体のために生きる世界は天国に行くというのです。善悪の分岐点が自分から始まります。
 皆さん、ここに、一つは公的に行こうとする心と、もう一つは私的に行こうとする肉体があるのです。心は公的であり、体は私的な立場で闘争するのです。偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統によって生まれたことを否定し、ここで切ってしまい、真の愛を中心とした真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木をして再び生きる、このような道を行くことが人類の行くべき道であり、個人全体が行くべき道です。これが結論なのです。
 宗教が出てきたのは、体を征服させて一つにするためです。このような立場で真の愛と一つになって、この地上で暮らしてから天国に行ける息子、娘を皆さんが生まなければなりません。宗教を信じずには、天国に行ける真の息子、娘を生める人になれていません。
 それゆえに宗教が出てきて体を征服し、一つにし、真の父母と一つになって接ぎ木をし、偽りのオリーブの木が真のオリーブの木となり、真の息子、娘を生んで、この地上で暮らしてから永遠にあの世に上がっていく、天国に入っていけるのが創造理想だというのです。(263-281,1994.10.15)
               

 皆さんの体において、この戦争を短期間で解決しなければなりません。この戦争を終えて生きることなくしては、天国に行くことはできません。永遠に、あの世で引っ掛かるのです。深刻な問題です。父母が問題ではなく、家庭が問題ではなく、一族が問題ではありません。一遍にこれが引っ掛かるのです。(264-121,1994.10.9)
               

 心身が統一されていない人は、天国へ行くことができません。それは偽物です。国が成立しても、再び家庭を中心とした7年路程があるということを知らなければなりません。無慈悲な、このような過程を経なければなりません。蛇が殻を脱ぐために岩のすき間を抜け出るとき、大きな蛇であればあるほど難しいのです。小さなものはたやすくできますが、大きいものは難しいというのです。大きなものが抜け出ながら皮をはがすことができる、そのような狭間がありますか。ですから平たくこのように行きながら、すべてはがれなければならないというのです。ですから、大きければ大きいほど難しいのです。世界の統一が難しいですか。霊界の統一がどうであるか考えてみよというのです。(303-264,1999.9.9)
               

 皆さんがいつも考えるべきことは、サタンの血統が自分の体で蠢動しているという事実です。これをどのように停止させるか、どのようにこの根源を清算するかということが、私たちの日々の生活から始まって、生涯路程の使命です。これを清算することができずに逝けば、永遠な世界で引っ掛かるのです。天国に入るためには、モデルがなければなりません。
 天国に入るためには、神様が創造なさった公式に従わなければならないのです。そうでしょう? 公式です。皆さんが学校を卒業しようとするなら、みなその学課を経て、単位を取って、卒業証書を受けるのと同じような過程があるのです。「これで終わる」という過程があるというのです。同じです。天国に入るにも公式がなければなりません。(263-81,1994.8.21)
               

 霊界に行けば、良心が霊界の体のようになり、その体に対する良心の立場に神様が現れるのです。自分の良心は、神様の体になるのです。皆さんが神秘的な世界に入って、「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、自分の中から「ここだ、ここだ」と言うのです。人々はそのような体験を多くします。それで、「人間は、すなわち天だ」という言葉が出てくるのです。(250-156,1993.10.14)
               

 神秘的な霊界の世界に入って、「神様はどこにいるのか」と祈祷すれば、腹の中から「どうしたのだ」と答えるというのです。そのようなことを体験するのです。自分も知らないうちに話をするというのです。「そこに行ってはいけない」と、そのように言うのに、そこに行けば事故が起こるのです。それは、誰が言うのですか。神様が言うのです。熱心に祈祷すれば、そのような神秘的な体験をする境地に入るのです。(249-223,1993.10.10)

(2021.12.30:写経奉献)


 ④絶対「性」を中心として天国、地獄が分かれる


 男女の初愛とは神様に出会う時間です。結婚して初愛を交わす瞬間は、男性として完成する場なのです。すべての神様のプラス世界、すべての男性型、右弦型を代表するそのアンテナとして君臨するのです。アンテナのてっぺんで陰電気と陽電気が出合う、正にその場と同じなのです。女性と男性が愛し合うその場は、男性完成、女性完成をする場なのです。
 また、初めて天地の中心として地上に定着できる愛の王宮が、そこから始まるのです。初めて愛の本源地が出発するのであり、また生命がそこから連結されるのです。そうではありませんか。血統がそこに連結されるのです。それと同時に、そこから国が生まれるようになります。地上天国、天上天国は、初愛の門を開くその場から、愛から始まるのです。これを知らなかったというのです。(261-16,1994,5,15)
               

 本宮、分かりますか。その愛の出発地は、地上天国の出発地であり、天上天国の出発地です。男性と女性が絶対的に一つになる位置です。その絶対的な位置で神様が見えない性相と形状を分立して人の創造を始めたのと同じように、女性と男性が愛で一つになって息子、娘を生むのです。見えない神様が創造したのを、見える実体になって成し遂げるのです。
 血を混ぜることのできる力は、愛です。血を混ぜることができるその軸は、どこでしょうか。どこが発電所かといえば、女性と男性の凹凸が初愛を交わす所です。そこで初めて、初愛によって発電を始めるのです。真の愛の発電、真の生命の発電、真の血統の発電、真の地上家庭と共に地上天国の発電、天上天国の発電の震源地がそこです。これを無視する者は、あり得ないのです。地獄しか行かないのです。とんでもないというのです。(259-229,1994.4.10)
               

 男性と女性のその器官がどれほど貴いか知らなければなりません。神様が降りてくるのです。神様の解放がここから始まり、神様の歌と踊りもその上から始まるのです。それが愛の王宮、永遠の王宮と通じるのです。地上天国、天上天国の初愛の門がそこから始まるのです。そうだと思いますか、うそだと思いますか。
 皆さん、独身のとき、そのように貴く思っていましたか。初愛は本当に重要です。初愛を間違えれば、天下がすべて地獄へ行くのです。ここで愛の王宮を失い、生命の王宮を失い、血統の歴史とすべてを失ってしまい、地上天国と天上天国の起源を失ってしまいました。その人は、どこに行くでしょうか。原理原則があるのにどこに行きますか。存続する所がないのです。ごみ箱に入るのです。永遠に暮らせるようになっていた人間ですが、逆さまになってごみ箱に入っていかざるを得ないのです。(261-27,1994,5,15)
               

 男性完成、女性完成、神様まで完成させることができるその本郷は、どこでしょうか。どこで神様の愛を完成させることができ、どこで男性、女性を完成させることができるのでしょうか。その中心の定着地は、どこでしょうか。これが問題なのです。これを知らなければ、地上に愛の理想天国を拡張、拡大できません。それは目ですか、鼻ですか、手ですか、足ですか。どこですか。(「凹凸です」)。(261-167,1994.6.9)
               

 男性と女性、凹凸が一つになることは、神様が完成し、半分である女性、半分である男性が完成する立場です。男女が結婚し初愛の関係を結ぶその場から、神様の愛的理想が完成する定着地が生まれるのです。男性と女性の愛を中心とした神様の相対的位置としての完成の位置が決定するのです。これは宇宙の核です。これが動けば、宇宙全体が行ったり来たりします。地上天国の本拠地であり、天上天国の本拠地だというのです。
 ここは愛の本然の地ですから、愛の本宮といいます。多くの王宮の中で中心宮を本宮といいます。これが愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮であり、それから天上天国と地上天国の出発地であり、人間が願う自由と幸福と平和がここから始まるのです。そこは愛、生命、血統すべてのものの王宮であり、個人、家庭、氏族、民族がそこから連結されるのです。天上天国と地上天国の本然の地であり、出発地だということを知らなければなりません。それから、自由と幸福と平和の起源です。女性にとって男性がいなければ絶対に暗黒であり、男性にとって女性がいなければ絶対に暗黒です。(261-173,1994.6.9)
               

 男性が崇拝できる最高の場所とはどこでしょうか。女性の顔ですか。女性の胸ですか。女性の体ですか。どこですか。凹凸を合わせることができる所は、一つしかないのです。そのために準備的な環境が、社会が連結され、国家が連結され、世界が連結され、地上、天上天国、宇宙がすべて連結されるのです。これが、存在世界の鉄則であり公式です。(262-55,1994.7.23)
               

 平和の基地もそうであり、地上天国、天上天国、すべてのものが愛から始まります。どのような愛ですか。男性の愛ですか、女性の愛ですか、男性と女性が一つになった愛ですか。一つになった愛です。その男女の愛はどこで一つになりますか。顔で一つになりますか、指先で一つになりますか。凹凸で一つになるのです。(263-52,1994.8.16)
               

 神様の結婚式がアダムとエバの結婚式です。それゆえに、地上天国と天上天国が同時に生じるのです。愛の巣から出発するのです。
 男性と女性の生殖器を中心として、堕落せずに出会うその時間が、地上天国と天上天国出発の起源地なのです。三大王圏を樹立しなければならないその基地が、そこです。その場でなければ愛の巣をつくることはできません。(263-57,1994.8.16)
               

 愛が理想的な天国を成し得る出発地なので、愛の中心です。王宮だというのです。生殖器は、愛の中心だというのです。それが王宮になるためには結婚しなければなりません。夫婦生活によって愛の王宮がなされるというのです。何がそれを連結しますか。男性と女性がキスして唇が連結しますか。何が連結しますか。凹凸が連結するのです。これは偉大な偉業です。
 この愛によって男性のすべてと女性のすべてが混ざるのです。一つになるのです。それから、そこから男性と女性の血統が連結されます。血統が連結され、渦巻きの中で、その中央で初めて新しい生命を中心として歴史が創建され、歴史が連結されるのです。一代で終わるのではありません。永遠の歴史が連結されるのです。地上天国、天上天国がその場から出発するのです。(263-122,1994.8.21)
               

 女性は、男性の愛の器官ゆえに生きるのです。愛ゆえに生き、生命ゆえに生き、息子、娘ゆえに生きるのです。女性は、子供が好きなのです。女性の胸が大きく、おしりが大きいのは、赤ん坊ゆえにそのようになったのです。それを満たさなければならないのです。それゆえに、3代の本宮がどこにあるのでしょうか。人間の根本問題です。これが、家庭の根本であり、社会の根本であり、国家の根本であり、地上と霊界、天国世界の根本出源地(起源地)です。(252-104,1993.11.14)
               

 愛の本宮は、神様まで完成させて安息させ得る王宮です。これが、どこで一つになるのかといえば、凹凸の1箇所です。アダムとエバ生殖器、その場が偉大だというのです。それゆえに、その生殖器は愛の本宮といいます。驚くべき言葉です。天地創造の全体、神様まで完成させて安息させることができる王宮ですが、本宮です。天国も最初ではなく、地上の国も最初ではありません。この家庭から始まるのです。これが本宮です。驚くべき言葉です。
 それから、その場は、真の愛を中心とした本宮ですが、真の生命を中心とした本宮でもあります。それからまた、血統を中心とした本宮であり、地上天国の出発地であり、天上天国の出発地だというのです。それがなければ地上天国と天上天国、天国と人間の国が成り立たないのです。
 真の愛のこの驚くべき所が、下品な言葉になりました。天地を滅ぼす亡国の種になったので、今まで最も悪いものとして取り扱われました。本来は神聖なものです。先生方、お分かりですか。朝、起きてあいさつをする時、生殖器に「よくお休みになりましたか」と言わなければならないというのです。先祖の中の先祖(をあがめる)よりも、先祖の中の先祖の愛をあがめることのできる場が、その場であるということを知らなければなりません。(263-347,1994.10.27)
               

 愛の器官をむやみに扱えば罰を受けるようになっています。それが愛の王宮であり、愛の先祖の園です。愛はそこから出発しました。生命がそこから出発しました。歴史がそこから出発しました。地上天国の起源であり、天上天国の起源であり、神様の幸福の出発の起源がそこから形成されるというのです。神様の笑いの基台がそこから出発するのです。愛を求めて神様が踊りを踊れる場が、その場です。その場を訪ねていかなければなりません。それは正しいですか、正しくありませんか。このように貴いのです。(256-199,1994.3.13)
               

 神様の花が愛から、人間の花が愛から、地上天国と天上天国は、この花が愛で咲くことによって始まるのです。ゆえに「真の愛は、すべての完成の花だ」という、このような言葉が通じるのです。このように見る時、夫婦の因縁を通じて神様が創造した第2の創造を私に与え、神様が感じた喜びを感じ、永遠に実存的な神様の存在を実体的に体恤できるようにした栄光の場が、どれほど偉大かというのです。(256-235,1994.3.13)
               

 天国において美しい人になろうとするなら、愛の花がぱーっと咲いて、そこに和合し、相対的世界で花の美しさを現し、花の香りを現して、その花を通じて新しい種をもつことができる、このような姿をもって地上で生きなければならないのです。
 そのように暮らして霊界に行くようになれば、永遠なるその世界でも、そのような姿で現れるのです。(256-170,1994.3.13)
               

 女性の生殖器が宇宙的な本源なのです。愛の関係を交わすその場が、愛の本宮となっているのです。本然の宮中なのです。愛は、そこから始まるのです。結婚初夜の愛が愛の本宮の出発なのです。女性の生命、男性の生命が初めて一つになるのです。それゆえに理想的な生命の本宮がそこであり、血統がそこから始まるので、血統の本宮がそこだというのです。
 そして、天国がそこから始まるので、そこが地上天国の本宮であり、天上天国の本宮であり、人間完成の本宮であり、神様の完成の本宮なのです。(257-324,1994.3.16)
               

 人間が堕落する時、愛ゆえに堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では、姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これは、すべて滅亡するのです。(261-302,1994.7.24)
               

 文総裁がすべての真理を探求し、霊界、肉界を探査し、あらゆる経典を探査しても、これは解決する道がありません。神様がいるかいないか。神様がいるならば、世界をこのようにさせた神様を、私がそのままにしておかないのです。決着をつけるために闘ったのです。人間が生まれた根本原則が何であり、なぜ生まれたのでしょうか。男性は女性のためにです。それが真理全体の中で最高の真理です。女性の前に理想的な男性は、最高の真理です。宇宙全体を完成した以上の真理の本体だということを知らなければなりません。男性の前にそのような女性も、宇宙の真理の本体の中の本体です。絶対的な真理体です。(267-230,1995.1.8)
               

 今まで人間が悩んだ根本問題がこのように簡単で、こんなに易しいものだとは、私は本当に知りませんでした。大変な苦労をしました。まさかこうなっているとは知らずに、正しいもの、間違ったもの、霊界に入って、使い道のないものまでくまなく探し、あらゆることをしました。ところが、気がついてみると、自分がすべてもっています。「ああ、これを知らなかったのだなあ!」と思いました。大概すべてあるのです。気分が良いでしょう。宇宙がすべて私の中にあります。宇宙がすべて私に入っています。(199-314,1999.2.21)
               

 真理が他の所にあるのではありません。私自身にすべて備わっています。学ぶべきものはありません。先生もそれを尋ね求めてきましたが、真理の世界が宇宙の他の所にあるのではありません。霊界だとか何だとか世の中をすべて調べ、苦労して、すべて探ってみると、結局、神様がすべて与えてくださっていました。唖然としました。すべて私にあったということを知らなかったのです。(263-97,1994.8.21)

(2021.12.31:写経奉献)


 ⑤夫婦愛が愛の理想の中心の花


 神様は縦的二性性相をもった方であり、人間は横的二性性相をもった実体であり、二つが一つとなって、完全な丸いりんごの形をなし、四つの性相形態をもち、東西南北に愛の理想を引っ張ってくっつけることができる母体にしようというのが、夫婦の理想です。(127-99,1983.5.5)
               

 結婚をしたならば、既に平面的ではありません。平面的な基盤しかありませんが、高いものが低いものと連結される時は、垂直的概念が生じるのです。平面的な歴史は、宇宙を収拾したり、天宙を収拾できないのです。垂直と水平が出合って90度を成す時、それは天を地にしても、地を天にしても、前を後ろに、後ろを前にしても、右弦左弦、上弦下弦、前弦後弦、どの面を付けてもぴったり合うのです。地上の完成基準は、霊界のすべての完成につながるのです。(230-259,1992.5.8)
               

 絶対的な夫婦の理想を描いて、芸術的な夫婦を地に形成し、地上にない愛の絵を描くのです。その絵をもって天上世界の永遠の世界を旅行しようとすることが、霊界に行くことです。霊界に行くことは、無限世界へ旅行することです。そこは、お金も必要ありません。御飯も必要ありません。服も必要ないのです。愛する相対に与えたければ、すべて特権的に、すべて与えるようになっています。金のような服、世の中にない想像だけしていた服を着せてみたければ、愛する心が切実になって与えたい気持ちがあれば、相対が現れるのです。どこでも旅行でき、どこでも自由です。(271-281,1995.8.28)
               

 家庭を芸術化させなければなりません。おもしろい夫、芸術的な夫にならなければなりません。何かの雑誌に良いことが載っていれば、さっと抜き出し、寝ようとする夫人の前で、すてきな声で読んであげるのです。感動を受けて寝る妻の姿を夢に描けば、それが再現されるのです。霊界と連結されるのです。それがどれほど素晴らしいでしょうか。そのように生きたいですか。そのまま、おもしろ味のない夫婦として生来たいですか。素晴らしく生きようとするならば、素晴らしくあり得る姿勢から、素晴らしくなり得る方向を取らなければなりません。それが第一条件です。(271-282,1995.8.28)
               

 霊界に行けば農作業もせず、食べて遊ぶばかりなのに、どのようにしておもしろく生きますか。これを考えてみて下さい。退屈で、どうやって生きますか。けんかもできずに暮らすのに、どのようにおもしろく生きるかというのです。千年見ても嫌でなく、千年触っても良く、万年聞いても良く、億万年良いというものがなくて、どのように生きますか。御飯は毎日のように食べるのです。思いのままに食べることができ、思いのままに得られる所です。何でも思いどおりにできる所です。その時は、旅行をして暮らすのです。(203-57,1990.6.14)
               

 この世の生活は、1カ月だけテレビを見ればすべて分かります。見るべきものはありません。それはみな飽きます。ですから霊界を知らなければなりません。
 祈祷と精誠を捧げるならば、霊界の幻想が広がるのです。それは、どれほど素晴らしいでしょうか! 天使たちが降りてきて、踊りも踊るのです。どれほど素晴らしいでしょうか! 何百年前の有名な人々も集まって踊るのです。どれほど素晴らしいでしょうか! 私は、妄想家ではありません。(203-57,1990.6.14)
               

 本然の地にすべての元素が連結されています。根と同じです。根が同じならば津液(注:樹液)も同じで、葉も同じで、花も同じではないですか。本質の元素が一体化し得るその期間だけ和するようになれば、学ぶ必要もありません。
 人は、自らの顔を100パーセント描けないではないですか。絵以上のものを自分がもっているのに絵が必要でしょうか。違いますか。男性、女性、二人を中心として美しい愛の理想的夫婦の花が咲いているのに、絵を描いてどうするのですか。そのように貴いというのです。絵が慕うことができ、称賛できる主題をもっているのに、それを分からずにいるというのです。しかし、人は服を着るとき、様々な柄で、季節によってこれが環境的調和をつくり出すように着ます。環境に合わせるために、様々な文化芸術などというものが必要になったのです。(202-92,1990.5.6)
               

 霊界に入っていき、霊人体が永遠に生きて行くならば、誰を訪ねていきますか。父母? 兄さん、姉さん? 子女? それは子女でもないのです。兄さん、姉さんでもなく、父母でもありません。自分の相対者です。なぜですか。子女を生んで育てる喜びというものは、とてつももないものです。
 夫婦生活をしながら初めて赤ん坊を生んだ喜びは、最も刺激的です。その中でも最初の男の子に最も情がいき、夫も夫人も一心に心情を投入するのです。それで、初めて生んだ子女を最も愛します。長男と次男の差というのは、長男は愛をよりたくさん受けたということです。長女もそうです。その長男、長女とは何かというと、父の延長、母の延長であることに相違ないのです。(258-242,1994.3.20)
               

 人間が完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入るのです。アダムとエバの実体の結婚式は、神様の結婚式だというのです。霊界に行ってみれば、それがはっきりと分かります。知り得ないこのような理論がみなぴったりと合うのです。
 それで、神様はどこにいるのか、夫婦を中心として、どこにいるのかというとき、それは子宮です。そこにいるというのです。愛の根がそこだというのです。歴史始まって以来、文総裁によって、霊界が、このように構成され、このような内容によって成り立っているということが明らかにされたのです。(252-119,1993.11.14)
               

 皆さんが夫婦関係を交わすのを神様が見ていないと思いますか。公開的なのです。これは宇宙的に公開するのです。それを知らないのは大きな過ちです。皆さんの先祖がみな見ているのです。霊界でもすぐ目の前に見えています。手のひらに立ってしているように見えるのです。ですから、それを恥ずかしいと思えば大きな過ちです。(250-244,1993.10.15)
               

 愛によってなされるすべての調和と万象は、神様にとっては香りのようなものです。神様は、このような美しい香りの中で生きたくて訪ねてこられるというのです。神様の愛が訪ねてこれる基盤が夫婦の愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が和動する場になるでしょう。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-889)
               

 愛を中心とした王宮と言えば霊界の王宮と地上の王宮がありますが、これらがどこで接触するようになるか、それが問題だというのです。人間と神様がどこで合わさるかという話です。それゆえに真の愛と一体となったその生殖器というものは、本源地です。それが本源地なので、宮と見れば本宮になるのです。それは、神様が出発した宮、最初に始まった宮であり、それが本宮です。(265-215,1994.11.21)
               

 夫とそのようにむつまじく暮らして、死ぬ時には何を考えるかといえば、いつも愛の器官を考えるようになるのです。彼の顔、キスを考えるようになるのです。あの霊界に行って残る記憶というのは、愛する夫、妻とキスして愛し合う、その生殖器を合わせた、それ以外にはないというのです。それをつかんで、キスしながら死んでいきたいですか。(269-57,1995.4.7)
               

 愛によって神様の代わりに生まれ、愛によって生きて愛の目的地に到達するために息子、娘を生んで、永遠に神様と共に生きるために神様のところに帰って行くのです。それゆえに皆さんが完全に愛で一つになれば、のちには神様に似るのです。夫婦二人が一つになり、このような3段階の愛を完全に成して霊界に行く人々は、永遠の主体である神様の前に、相対的な神様になるのです。そうではないですか。愛を中心として夫婦が共に死ねば、そのようになるのです。ですから、神様から始まり、神様に帰るのです。(207-36,1990.10.21)
               

 男性、女性たちは、愛し合う夫婦の愛に酔って生きなければなりません。これが課題です。父母と暮らしているならば、父母の愛の中で、家庭の愛の中で生きたいと思わなければなりません。それが理想であり幸福です。幸福がほかにあるのではありません。霊界に行って、霊界がいくら良いからといって独りで何をしますか。
 文総裁について言えば、気分が良ければお母さんを求めます。お母さん、母を求めます。母も二人の母がいます。自分を生んでくれた母と、息子、娘を生んだ母。一家に二人の母が暮らしています。そうではないですか。自分を生んでくれた母、それから息子、娘の母がいます。それから父の母、おばあさんがいます。ですから母は良いものです。そうではありませんか。(174-250,1988.3.1)
               

 私は、神様に似て、完成したアダムとエバに似たというのです。二つの父母に似たというのです。これが一つになっているので、心と体が闘いません。男性と女性が闘いません。完全に一つです。霊界と肉界と神様、創造主と創造物が一つになり得る完全な位置において、新しい泉がわき出てくるのです。これが平和の起点です。平和の出発です。幸福の出発です。理想の出発です。希望の出発だということを知らなければなりません。しかし、これを失ってしまったので、再び復帰しなければなりません。(254-281,1994.2.15)
               

 霊界に行って、男性として生まれ一人で生きたのちにそのまま逝った者たちを見ると、良い所に行っていません。良い所に行けません。神様を見つめる時も下を向いています。「こいつ、なぜ下を向いているのか」と言うのです。男のあの先が下を向いているので、(その人も)仕方なくうつむいているのです。それはどういうことですか。男性として生まれ、天地調和の、陰陽の合徳を知らず、愛を知らずに歩んできたお坊さんのような人に、天地大道の中心である愛の道理がどうして分かるでしょうか。(197-24,1990.1.7)
               

 息子、娘を生むことができずに霊界に行けば、片側だけにいなければならないのであって、思いのままに行き来できないのです。恥ずかしいのです。
 それゆえに独身生活を強調する者たちは悪魔の直系です。「終わりの日」に追い出される群れは悪魔サタンしかないのに、彼らはサタンのあとをついていく者たちです。悪魔は、天使長であったので相対理想がないのです。それゆえにその世界になってみると、青少年たちは淪落に陥り、年を取った男女は愛に疲れ、悪魔の愛に失敗して独身生活をするのです。独身生活をする者たちはすべて、地獄行きで終わるのです。(228-263,1992.7.5)
               

 独身生活をする人は、神様の本意のみ旨の前に犯罪者の立場です。赤ん坊を生まないで産児制限をした人は、あの世に行って、「貴方の息子、娘を通して天下を統治できる王子、王女を送ろうとしたのに、このありさまは何ですか」と審判されます。霊界に行けばすぐに分かります。すぐに分かるというのです。千年、万年の恨の歴史の中で苦労した先祖の功を自分一代、一族を通して福を与えようとしたのに、その首を切ったというのです。(264-150,1994.10.9)
               

 あの世に行けば、寡婦は困ります。寡婦ではなく一人で暮らしている人、それを何と言うのですか。未婚のままで暮らして一人で逝った女性・・・・・・、男性の場合は、一人で逝った、そのような者を何と言うのですか。
 死んだのちには「モンダル鬼神(注:独身のまま死んだ男の鬼神)」と言いますが、死ぬ前では何と言いますか。「モンダル鬼神」とは、死んだのちに言うのではないですか。そのような言葉ではないですか。それは何というのですか。「独身女性」ですか。
 それでは困るのです。どこに行っても和合できません。女性たちの世界に行っても立つ瀬がなく、男性たちの世界に行っても立つ瀬がなく、行く所がありません。方向は陰になった所、陰の世界、かといって自分が引き返すことはできないのです。和合は愛を中心として東西南北に通じるようになっているのに、方向がぴたっと固着されているために引き返せないのです。私は知りませんから、死んでみてください。(194-42,1989.10.15)
               

 祝福を受けた血統を汚してはなりません。それを皆さんは、よく知らなければなりません。天国を受け継ぐことができ、相続することができる財産です。それは、血族の証書、血統の権利書のようなものです。族譜(一族の系譜)のようなものなのです。純潔をいかに守るべきかというのです。(263-62,1994.8.16)

(2022.1.1:写経奉献)


 ⑥天国は家庭単位で入る


 私たちの家庭と天国は、類型が同じです。我が家には父母がいて、夫婦がいて、子女がいて、兄弟がいます。我が家は、愛で一つにすることができます。ここでは統一がなされ、生命が連結され、理想を実現させることができます。ですから、皆さんは夫婦の愛を尊重でき、父母の愛を尊重できてこそ天国に行ける資格者になれるのです。祖父母は父母の前に愛を相続してあげたのであり、父母は夫婦の前に愛を相続してあげたのであり、夫婦は子女の前に愛を相続してあげています。
 ここで、どの愛を否定しても天国はなされません。自分たち夫婦の間で愛し合う以上に父母を愛し、自分の父と母を愛する以上におじいさん、おばあさんを愛さなければならないという結論です。これが、すべての天国の核心になって、理想的なモットーになるというのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-946)
               

 神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体になります。父母は神様に代わる生きた神様であり、夫と妻はお互いにもう片方の神様であり、息子、娘はまた一つの小さな神様です。
 このように3代が真の愛を中心として成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さなくては天国が成されません。家庭というものは、宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。こういう場合、神様は、全宇宙の父母として、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。(298-306,1999.17)


 統一教会の「原理」でいう四位基台は、3代愛圏をいうのです。3代が一つの家に暮らしながら愛によって和睦して幸福になるとき、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛し合わなければならないということはもちろんですが、子女たちを愛で祈祷してあげて精誠の心で見守ってこそ、家庭が和睦して幸福になるのです。これが縦的に成って横的に連結されるとき、完全な愛が成されるのです。従兄弟や又従兄弟まで愛で一つになってこそ、愛の円形になって完全になります。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-947)

               
 家庭は、天国完成の基本単位です。天国は、一度行ってみると戻りたくなく、10回、100回会ってもまた会いたい、その方がいらっしゃる所です。万民が共通にそこに行きたいと思い、その方に会いたいと思い、その方のように生きたいと思うならば、世界は統一されるはずです。そこに向かって進んでいるのが統一教会です。しかし、それは一度になされるのではありません。先に個人の基台が立ち、それから家庭の基台が立ち、それから民族、国家、世界へと伸びていくのです。(12-180,1963.4.1)
               

 天国生活は、どこからですか。家庭からです。他の所から始まるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させたものにすぎないのであって、家庭圏を外れたものではないというのです。それゆえに皆さんが自らの妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つになるのだと考えなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立て得る位置が、正にこの家庭です。(30-82,1970.3.17)
               

 神様の創造理想世界とは、どのような世界ですか。真の父母圏を通じ、地上天国と天上天国が成された世界です。天国は愛の基盤を通じてのみ成されます。堕落した世界には、真の父母の愛を受けたことのある人が一人もいなくて、現れた痕跡もありません。霊界も同じです。真の父母の愛を受けて逝った者がいないからです。神様を中心とした創造本然の家庭的基台には男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛がすべて入っています。このような消化された位置で父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、誰でも天国生活をするのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-946)
               

 統一教会の使命は何ですか。統一教会は過去の宗教とは違い、個人的な救いだけを願う宗教ではありません。堕落しない本然の理想世界を願う宗教です。本然の理想世界とは、完成した人間が神様の愛の中で夫婦の因縁を結び、その息子、娘を生んで行く「天国」のことをいうのです。父は地獄に行って母が天国へ行けば、それが天国でしょうか。父母は天国へ行って子女が地獄に行けば、それが天国かというのです。天国は父母と子女、氏族、民族、国家がすべて入っていくところです。(42-286,1971.3.27)
               

 家庭天国を成す所で、初めて神様が理想とする地上天国が定着するようになるのです。これが四位基台にならなければなりません。「統一原理」では「創造理想の完成は四位基台の完成である」と説いています。それはなぜですか。神様とアダムとエバを中心として3段階を経て、縦的世界と横的世界が生まれれば四位基台が成されるからです。アダムとエバの息子、娘がいてこそ横的な世界が生まれます。このようになれば縦的な世界が自然に生じるのです。体を中心とした体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だというのです。そこで初めて神様が臨在なさることができるので、地上に天国が実現されるのです。(96-29,1978.1.1)
               

 統一教会の救援観というのは、夫が天国に行って夫人は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというものです。父母を地獄に送るのではなく、父母をお連れし、息子、娘も連れて天国に行こうというのです。統一教会は自分が愛する家庭、自分が愛する氏族まで一切を連れて天国に行ける道理を教えてあげる宗教なので、他の宗教とは次元が違います。
 それゆえに、今までの宗教は独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は、世界のための家庭であり、神様のための家庭です。これが統一教会の食口たちの行くべき道です。(34-359,1970.9.20)
               

 統一教会では、個人としては絶対に救いを受けることができないと考えます。個人では天国に行けないのです。一人では行くことができません。原則がそうです。エデンの園のアダムとエバが一緒に天国に行くようになっているのであって、夫または妻だけが天国に行くようになっていますか。夫婦が一つになり、家庭が一つにならなければ、天国には行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行って母は天国に行けば、それが天国ですか。天国は夫婦が行かなければならないのであり、家庭が行かなければならないのであり、家庭だけでなく、一族が行かなければならないのであり、国家全体が行かなければならないのです。(50-63,1971.10.31)
               

 おじいさんに対して、神様のように侍り、父母に対して、天下統一し得る父母として侍らなければなりません。おじいさんは、天上世界の特派員です。全権大使です。お父さんは、この世の全権大使です。自分は二つの国、地上天国と天上天国の全権大使として、息子、娘として、後継者として育っていると考えなさいというのです。そうすれば、間違いなく霊界に直行するのです。
 霊界へは、本来そのような人々が入っていかなければならないのです。今日基督教では、「信じれば天国に行く」と言いますが、いい加減な話はやめなさいというのです。行ってみなさいというのです、どうなるのか。唖然とすることでしょう。「こういうことになっていようとは。こんなはずではなかったのに」と言うでしょう。「こんなはずでは」とは何ですか。原則と異なれば、すべてそのようになるのです。原則があります。
 数万、数千いたとしても、誤ればすべて肥だめに入るのです。火で燃やして捨てるでしょう。同じです。原則的な基準を探さなければならないのです。(249-265,1993.10.10)
               

 自らの祖父は、天の特権大使です。もしアダム家庭が堕落していなかったならば、神様に対するようにおじいさんに侍るのです。歴史を通じて霊界に行った先祖の中で、最後の人として残された主人がおじいさんです。ですから神様の身代わりです。そして、お父さんは、この世界の家庭の王です。皆さんの父母はみな、現代の60億人類の家庭の王なのです。(246-198,1993.4.16)
               

 おじいさんは、天国である霊的世界を象徴するのです。ですから、神様に対するようにおじいさんに侍らなければなりません。天国の全権大使です。それから父母は、現在を象徴するので、世の中のすべての人類家庭を代表した王と王妃です。父母は、人類を代表した王と王妃だというのです。そして、息子、娘は未来です。未来において霊界と地上世界、二つの世界の王権を受け継ぐことができる王子、王女だというのです。(246-256,1993.4.18)
               

 おじいさんは過去を表徴するのであり、過ぎた時代の主体は、天国、霊界です。おじいさんは、霊界と地上を連結した代表者だということができます。神様と善なる天国のすべてのものを、地上にある自らの家庭に連結させる神様の大使です。神の国の大使とは誰ですか。おじいさんです。(249-304,1993.10.11)
               

 国を形成するには家庭がモデルになります。家庭が第1段階です。家庭から始まるのです。それを知らなければなりません。そこを見れば、おじいさん、おばあさん、父と母、子女の3段階がありますが、これを拡張するときは三つ、四つ……。これをくっつけるのです。これを中心としてこの世にも通じますが、霊界にもそのまま通じるのです。世界を見れば世界にもおじいさんレベル、それから父母レベル、その次には自分のレベルがみなあるのです。ここで練習するすべてを世界へ拡張すれば、どこでもすべて合います。(225-166,1992.1.12)
               

 家庭を見れば、そこにはおじいさんとおばあさん、父母、息子と娘がいます。これが3代ですが、歴史をおいて過去からつながってきたのです。おじいさんは、先祖から今まで霊界に行っている天国の私たちの先祖を代表し、我が家に派遣された全権大使です。ですからおばあさん、おじいさんに誰に対するように侍らなければならないかといえば、神様に対するように侍らなければなりません。そのように侍ることによって、天国の出発を見るようになるのです。(226-56,1992.2.1)
               

 霊界には、家庭を連れて入らなければならないという原則があるのです。なぜ息子、娘がいなければならないのですか。子孫というものは本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混ざり合って生まれたものです。
 したがって、子孫をもつことができなかった人は、霊界に行って天地の調和を成すことができず、東西南北に拍子を合わせられないというのです。子孫をもたなければ、あの世に行っても、遊んだり、休める場がないというのです。(297,269.1998.12.19)
               

 息子、娘を生んで正統的な家庭訓練をすることができなければならないし、また一族を率いた長になって霊界に入らなければなりません。霊界に入っていくときは、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成をすべて成さなければならないのです。(226-156,1992.2.4)
               

 家庭では、父母を中心として孝子になれというのです。その次には、国を中心として、忠臣になれといいます。また、世界を中心としては、聖人になれといいます。聖人とは、世界を愛する人です。
 聖子は、神様の息子になるので、神様と天国の宮法と天国の宮に暮らす人まで愛するのです。このような人は、愛を中心として暮らす人なので、愛の生命を尊重視し、愛の血統を尊重視するのです。このようなことを尊重視しながら、世界のどこでも、故郷のように暮らせるそのような所が人間の求めていくべき理想郷です。このように暮らす人が霊界に行くようになるときは、神様の前に躊躇することなく直行できるということを、皆さんが記憶してくださるようにお願いします。(209-16,1990.11.24)

(2022.1.2:写経奉献)


 ⑦「ため」に生きれば天国に行く


 天国は犠牲になった者が主人となるのです。家庭は氏族のために、氏族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために、世界は天宙のために、天宙は神様のために犠牲になるのです。結局、目的は神様に到達することです。神様を占領するのです。生命をもったすべての存在の最高理想は、神様の愛を占領することです。それを最高の目標とするというのです。その特権をもっているのが人間です。(249-49,1993.10.7)
               

 霊界に行けば、相対を重要視し、全体のために奉仕し、犠牲になった人が高い所に行くのです。それが天国民の共通した性格です。どのような人が高い霊界に行くかといえば、すべてのものを投入して、神様のように投入し、投入して忘れてしまう人です。人類救援のために多くの人々を神側に引き寄せた人が天国に行くのです。天国の国民をどれほどたくさん連結させるかによって、霊界での自らの立場、位置が決定されるのです。(249-80,1993.10.8)
               

 「ため」に生きる経験ができず、愛をもって生きられなかった男性や女性がどれほどかわいそうか、霊界に行ってみればはっきりと分かるようになります。あの世はすべて、「ため」に生きる人だけです。ここでそのように生きれば、そのまま神様のところにひゅーっと上がっていきます。それを知っているので文総裁は、今まで表に出ることを嫌いました。弟子たちをみな先頭に立て、栄光ある立場をみな譲ったのです。(202-249,1990.5.24)
               

 真を求めていくならば、心のために絶対的に生きられる体にならなければなりません。これが一つになって天地に神様を中心として90度で連結されれば、東西南北、上下、高低どこに行こうと分かります。自動的に霊界が通じます。学ばなくてもみな分かります。文総裁のような人がどのようにして天地の秘密をすべて知ったのでしょうか。その境地に入ったので、すべて分かるようになったのです。
 真の愛を中心として心と体が共鳴する境地にぴたっと入ると、みな見えたというのです。神様も見え、天上世界がすべて見え、歴史が見え、すべて見えます。なぜですか。真の愛を通して関係を結び、因縁を結び、理想的生活をし得る環境的要件が、本来、神様の創造理想の原則だったので、その境地に入ると、通じないところがありません。霊界の先祖も、呼べばさっと出てきて、会って何かを尋ねてみることもできるのです。(199-372,1990.2.21)
               

 宇宙を造った神様は、宇宙の法度を立てた神様は、どのようなお方なのでしょうか。全宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。それゆえに、その方に会おうとするなら「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、「知識をもって神様の前に来なさい」とは言わないのです。能力の大王ですが、「能力をもって来なさい」とは言わないのです。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、「それをもって来なさい」とは言わないというのです。「ために生きて来れば、皆来ることができる」と言うのです。(133-16,1984.7.1)
               

 私たちの本郷は、神様のために存在する者たちだけが入る所であり、「ため」に生まれ、「ため」に生き、「ため」に死んでいった人々が入る所です。これが、私たちの本郷の理想的な構造であるので、神様は本郷に訪ねるようにするために歴史過程に数多くの宗教を立てて訓練させてきたのです。
 宗教が柔和謙遜にし、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界の法度がそうであるので、宗教が霊界に帰らなければならない人間たちを地上生活の過程でその霊界にふさわしくなるように訓練せざるを得なかったのです。それゆえに、高次的な宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調したのです。それは、普段の生活を通してその世界に一致させようというところに、その原因があるのです。(75-320,1975.1.16)
               

 お金についていきたい人は、永生の道を行くことはできません。知識についていく人も、永生の道を行けません。知識に、学問に、永生がありますか。知識は多いほど、知れば知るほど驕慢になるのです。驕慢の主人、驕慢の親分がサタンです。サタン世界の近くへ行くのです。
 教授の方々、済みません。私が知っている真理はそうです。死んでみれば分かります。私が間違ったことを言ったかどうか、霊界へ行ってみれば分かります。行ってみて、その時、私に抗議してください。正しく教えてあげるので、正しい先生でしょう。そこでも先生であり、ここでも先生です。取るに足りない先生ではありません。(200-127,1990.2.24)
               

 霊界に行けば、固執というものが大きな怨讐です。国会議員をしていた人々が霊界に行けば、本当に困るのです。それをはっきりと知らなければなりません。
 教授たちを再教育すべきですが、皮をはいで労働者の立場から汗を流させるのです。汗を流して、地も耕してみなければなりません。そうしなくてはなりません。そのような意味で私が教授をすべて結び合わせましたが、今まではこの人たちを厚遇しました。そのようにしていては、霊界に行って讒訴されます。「先生はこのことをすべて知りながら、なぜそうしたのですか。なぜ正しく教えてくれなかったのですか」と言うのです。これは本当の話です。行ってみてください、私の話が正しいか正しくないか。(201-257,1990.4.28)
               

 霊界に行ってみれば分かりますが、すべて(他の)ために生きる人が行くのであって、「私のために尽くせ」と言う人は行くことができません。ですから、学者になり、世の中で大統領になり、王になった人々は地獄へ行くのです。「ため」に生きなかったからです。牧師たちの心情を見ると、自分が恵んでもらうことを考えるのであって、与えて生きようとしないのです。父母というものは、いくら子女に与えても、また別の何かを準備し与えようとするのです。与えたい心が連結されるそのような基盤には、発展があるのです。(276-303,1996.3.10)
               

 霊界と人間が関係を結べば隠すことができないのです。水を見れば、水は必ず上から下へ流れ落ち、空気は空間があれば満たそうとするのです。これと同じように、霊界が動く所には空の所がありません。満たされるというのです。水を受けようとするなら器が空でなければなりません。器がいっぱいであれば、空いている残りの所しか満たされないというのです。同じように、空気も空いている部分にはみな入りますが、ふさがっていれば、そのふさがった部分には空気を満たすことができないのです。(280-11,1996.10.13)
               

 霊界にさっと行ってみると、千年、万年になる人々が、すべて自分を中心として集まろうとするのです。自分が動くと、群れをつくってすべて集まってくるのです。皆さんも先生と近い所で生きたいでしょう? 近い所で「このように見ながら生来たい」と、そう思うのです。それは誰がそのようにしますか。自分ではないのです。天運が、宇宙の法則がそのような人を中心として、みな集まって一つになるようにしようとするのです。それが原則です。いくら「離れなさい」と言っても、離れることができません。(255-170,1994.3.10)
               

 「ため」に生きる人になりなさい。これが、天宙の生成、形成の根本なのです。神様も「ため」に存在するのです。このように見れば、平和の世界が目前に展開するのです。天宙のすべてのものの中で、これに逆らうものはありません。このように主体的、生成の根源、エキス的、核心的な立場に立ったその人は、天宙、神様までも歓迎するのです。先生のような人がそうなのです。今、皆さんは、そのようなことを知らないので実感できません。霊界も先生を中心として動いているのです。そのような世界を知らないでしょう。それゆえに、いい加減にしているのです。(255-176,1994.3.10)
               

 真の愛を中心として「ため」に生きる人は、夜でも昼でも天宙、万宙どこに行こうと歓迎を受けるのです。皆さんは、いずれ霊界の展示場に展示されるのです。人間の博覧会をする所が霊界です。霊界では、地上でどのような生涯を生きた人間なのか、すぐ展示されるのです。そこで、びりになりたいですか、皆が称賛する人になりたいですか。どちらですか。最高に称賛を受ける人になりたいでしょう? そのようになるためには、先生が言うとおりに生きなければならないのです。最高に称賛を受けようとする前に、最高に「ため」に生きなさいというのです。そのような人は、間違いなく中心者になるのです。(255-179,1994.3.10)
               

 青年たちは、それを知らないのです。20人の友人がいるとすれば、友人たちの中心として残る人は誰ですか。「お前たち、すべて私のために尽くせ」と言えば、すべて逃げてしまうのです。
 10年、20年、一生を終える時まで、死んでもその友人のために生きた場合には、霊界があるならばそこに行き、すべて彼を中心として集まるのです。それは、間違いない真理です。「ため」に生きる、より「ため」に生きる、より犠牲になる人が中心者になるのです。(257-44,1994.3.13)
               

 「ため」に生きる人は滅びません。また、「ため」に生きる人は、霊界でどんどんコーチしてあげます。どんどん新しいものと関係を結ぶようにしてあげるというのです。新しいものと関係を結ぶので、その人は、自然に有名になり、世界的に知られるのです。(292-26,1998.3.27)
               

 父母は苦労する息子、娘を先に考えるのです。それゆえに心情の潮流というものは何でしょうか。かわいそうな人々を訪ねて、いかにして自分のような人に育てていくか、ということを実践できなければならないのです。
 そのようになれば、世の中はすべて私に反対して冷遇しますが、神様と天国は私を擁護するというのです。神様を中心として、霊界の霊人たちが私を擁護し、保護して回るのです。雲のように私を擁護してくれるのです。それゆえに、そのような人々は、滅びません。
 それが過ぎるようになれば、雲が環境をすべて巻き込んで整理するのです。ですから投入して苦労した代価の分、創造することができるというのです。私は苦労し、迫害されたのですが、天運があとから来て、その基盤を築いてくれるのです。聖人たちは、当代では迫害を受けますが、後代において名を残すのは、霊界が、天が、天運がそうしてくれるので、そのような現象が起こるのです。(207-99,1990.11.1)
               

 天国に行こうとする人は、悲惨に生きなさい、悲惨に死になさい、悲惨に逝きなさいというのです。その言葉は、良い言葉ですか、悪い言葉ですか。良い言葉だというのです。それなら、死ぬほど出掛けていって伝道しろという言葉も良い言葉です。他人のために命を捨てろというのです。自分のためにではなく、他の人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば、大宇宙の主人として立ててくれるのです。(49-303,1971.10.17)
               

 永遠に残るものがあるならば、それは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたなら先生に抗議してもかまわないのです。民族と世界、天地のために働いている途中で打たれる人が賢い人です。(19-30,1967.12.10)
               

 悟りの道に入った人は、死ぬ時まで死の道を行かなければなりません。死んでする苦労を生きて蕩減するので、そのような道を行かなければならないというのです。死んで億千万年苦労するのを縮小させ、生前に蕩減してしまおうというのです。このように悟りの道は、永遠に行くべき受難の路程を、この地上で苦難の道を歩いて行くことで蕩減しようというものです。(31-320,1970.6.7)
               

 統一教会に来るようになれば、「地上で良い生活をしなさい」とは言いません。この上なく貧しく、この上なく苦労して死んで道端に倒れ、犬もかみつかない死骸を残したとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこには、すべての神聖な人々が集まって都をつくることでしょう。
 統一教会の群れを国のために、世界のためにうんざりするほど苦労をさせ、孝子、忠臣にしてみようというのが先生の考えです。「行かない」と言うならば、張り飛ばさなければならないのです。足でけ飛ばしてでも現在の悲惨さを、現在の難しさを克服させるのが愛です。(49-303,1971.10.17)

(2022.1.3:写経奉献)

 

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