「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(47) 第8巻「罪と蕩減復帰」 第4章 蕩減路程と私たちの生活

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第四章 蕩減路程と私たちの生活

1)復帰の道は人が当然行くべき道

2)信仰基台と実体基台

3)なぜ蕩減復帰が必要なのか

4)蕩減条件は自分が立てなければならない

5)蕩減法なしにはサタン分立できない

6)信仰は蕩減法を守っていくこと

7)蕩減の道は絶対服従、絶対従順の道

 

 

1)復帰の道は人が当然行くべき道

 ①蕩減復帰は再創造の道

 

 

 蕩減復帰というとき、それは復帰のための蕩減です。完成を中心として蕩減復帰すれば、完成します。蕩減されたのちに復帰をして、完成の道を行きます。ですから、蕩減と復帰は一つだと考えればよいのです。
 完成は、自動的にできるのではなく、蕩減により成されるのです。ですから堕落世界に住んでいる人間は、蕩減条件を立てなければ完成することができません。(御旨と世界-697)

           

 統一教会で言う復帰の道とは、どのような道でしょうか。一般の宗教は、ただ救われなければならないと救いの道を求めますが、私たちは、復帰しなければならないと復帰の道を求めるのです。
 それでは復帰とは何でしょうか。復帰をどのようにするのでしょうか。再創造の過程を通じてするのです。(168-324,1987.10.1)

           

 復帰の道は、人間が元の姿に帰っていく道なので、蕩減条件を立てなければ行くことができません。蕩減条件は、神様がお立てになるのではなく、人間が立てなければなりません。
 病気になった人が病気を治すためには、薬が苦くて飲みたくなくても飲まなければなりません。良薬口に苦しです。苦いのが本当の薬になるのです。蕩減条件を立てるのは、苦い薬を飲むように難しいことです。しかし、蕩減条件を立てなければ復帰できないのです。蕩減とは、堕落した経路に従ってさかのぼっていくことです。反対に行くことです。(92-254,1977.4.18)

           

 「蕩減」という言葉を知れば、皆が一番好きになります。蕩減がなければ福もありません。統一教会において無限な黄金の塊とは何かと言えば、蕩減です。蕩減は死を押し切って、すべてを犠牲にし、すべての困難を克服することができる驚くべき単語です。(97-71,1978.2.26)

           

 復帰歴史とは、説明してあげてするのではないのです。やっておいて、勝利しておいて収拾するようになっているのです。説明してあげて行くようであれば、聖書新・旧約の66巻は必要ないのです。10枚あれば、すべて記録されます。66巻がなぜ必要ですか。くだらないのです。10枚も必要ないのです。3枚あれば全部記録されるのです。

           

 蕩減の概念は、再創造のためのものです。ですから私たちには、再創造のための蕩減が必要だというのです。蕩減は、再創造されて本然の人間になるために必須なのです。本然の人間が出てくれば、本然のみ旨の道を行く人間が現れるのです。
 皆さんは本然の人間ですか。堕落した族属(同じ姓に属する人)です。堕落した族属ですから、蕩減を通して再創造されなければならないのです。(133-69,1984.7.8)

           

 アダムの堕落は、どのようにして起こりましたか。不信から堕落したのです。不信が第1の原因です。その次は、自己主張から堕落したというのです。自我主張、自己を中心としたのです。自己中心の立場で堕落したのです。
 その次は、自己を中心とした愛の圏を要求したというのです。これが堕落の三大要素です。不信、自我主張、自己を中心としたこと。その次には自己を中心とした愛の圏を夢見たこと。これがサタンの足場なのです。堕落した天使がそのようになったのです。(126-34,1983.4.10)

          

 先生が、なぜ皆さんに苦労させるのでしょうか。蕩減の道を行かなければならないからです。先生自身も一生蕩減の道を行こうとするのです。嫌々行くのではないのです。願って行かなければなりません。願って行かなければならないというのです。それを知らなければなりません。監獄にも願って行くのです。蕩減のためには行かなければなりません。不平を言えば蕩減にならないのです。(133-69,1984.7.8)

           

 私たちには蕩減の道が必要なのです。皆さんは、この世の中を救うためには蕩減の道を行かなければなりません。イエス様がいくら神様の本然の息子として生まれたとしても、世の中を救うためには蕩減の道を行かなければなりません。世の中ができないので、するべき人が全部反対するので、イエス様ご自身も行かざるを得ず、責任を負わざるを得なかったのです。(133-69,1984.7.8)

           

 復帰の道は、堕落した経路と反対の経路を貫いていかなければなりません。蕩減の道は、堕落した者には原則として現れるのです。これを克服しなければ元の姿に復帰することができないので、自分を清算しなければなりません。個人的な問題から、家庭、氏族、民族、国家、世界をどのように復帰するのかという確実な理論体系をもっていなければなりません。(御旨と世界-354)

(2022.4.3:写経奉献)

 

 ②蕩減の道を行かなければならない理由

 

 再創造は本来、投入した力よりももっと投入しなければなりません。「修理するのは、新しくつくることよりも大変だ」という言葉と同じなのです。ですから、創造よりも修理するほうが大変なように、それ以上に投入することを蕩減という条件で払わなければならないのです。分かりましたか。蕩減という概念が分かるのかというのです。(133-69,1984.7.8)

           

 皆さんは神様のみ旨を深く知れば知るほど、サタンによって汚されたこの肉体、サタンの汚れた血が流れる自分の肉体を焼き殺してしまいたい思いになるのです。サタンに利用された手と足、この体全体を一度に切ってしまいたい思いになるはずです。
 サタンにより汚された自分の姿をそのまま保存していこうとするのは、とんでもないことです。皆さんは、このような心情を体恤してみましたか。しかし、そのように殺すこともできないので、私たちには、サタンとかかわり合った過去の自分を清算するための条件が必要なのです。(22-207,1969.2.4)

           

 復帰路程は、一人で行くことができません。必ず再創造の原理を通し、神様と霊界の協助を受けて行かなければなりません。
 また、そのようにならなければならないのが救援摂理なので、神様と霊界が動員されて再創造の役事をしているのです。なぜならば、神様は人間を創造される前に天使世界を造られ、天使たちの協助を受けて万物を造られ、その万物を材料にして人間を造られたからです。(100-264,1978.10.22)

           

 完成は、蕩減完成を通じて成されます。蕩減の峠を越えない人には、絶対に完成の道はありません。それは、内的な意味から見れば個性完成を意味しますが、神様の立場から見れば復帰だということができます。蕩減完成の基準を復帰完成だということができます。復帰は、蕩減を通じて成されます。ですから蕩減復帰というのです。それゆえ、蕩減と復帰は切り離すことができないのです。(御旨と世界-697)

           

 人類の先祖であるアダムとエバは、自分を中心とした間違った愛で堕落しました。天使長を介入させ堕落したことにより、神様を追放し、本然の真なるアダムの人格を追放し、本然の真なるエバの人格を追放した結果をもたらすようになったのです。(35-215,1970.10.19)

           

 神様は、堕落していないアダムとエバに現れます。ここから神様を発見することができます。私たちはみな、堕落以前のアダムとエバ、罪のないアダムとエバの立場に帰っていかなければなりません。そこで真の父母を迎え、真なる氏族をつくり、真なる国家をつくり、真なる世界をつくらなければなりません。このような主張をするのは、「統一原理」以外にはありません。(御旨と世界-354)

           

 天国は、神様を絶対的中心として侍り、神様を通じて愛の因縁を結んで生きる所です。この根本を正しく立てるために神様は救援摂理をされるので、自分を立てれば絶対にできないのです。(92-255,1977.4.18)

(2022.4.4:写経奉献)

 

2)信仰基台と実体基台

 ①メシヤのための基台

 

 信仰基台と実体基台を復帰してメシヤのための基台を成すのは、原罪を脱ぐためです。原罪を脱げば、神様の生命圏と愛の圏内に新たに越えていくのです。そのようになろうとすれば接ぎ木されなければなりません。
 野生のオリーブの木を真のオリーブの木にするためには、野生のオリーブの木を切ってしまい、真のオリーブの木を接ぎ木しなければなりません。同じように野生のオリーブの木のような人間を真のオリーブの木のような人間にするためには、自分自身を否定する過程を経て、新しい肯定、あらん限りの肯定を提示する過程を経て越えていかなければなりません。
 そのようにすることにより、その本質、素性が質の悪いオリーブの木ではなく、真のオリーブの木と化し、完全に善のみを主としたそのような人間として登場し、一つの家庭、一つの氏族、一つの民族、一つの国家、一つの世界を形成していくのが統一教会です。そしてこれが今日、統一教会の食口たちが願う現在の立場であることを皆さんが知らなければなりません。(41-62,1971.2.13)

 

 信仰の基台を何で復帰しますか。祭物で条件を立てなければならないのです。実体基台は、堕落性本性を脱ぐことですが、それはカイン、アベルが一つになることです。体が堕落性本性を脱いで復帰されるためには、堕落性本性がなくならなければならないので、血肉の感情が完全になくならないといけないのです。「東へ行け」と言えば「はい」と言わなければならず、「西に行け」と言っても「はい」と言わなければならないのです。
 異議があれば復帰されないのです。異議があって復帰ができますか。絶対についていかなければならないのです。(46-233,1971.8.15)

 

 メシヤを迎えるためには信仰基台と実体基台がなければなりません。実体基台が完結されたのちは、メシヤのための基台が必然的に要求されるのです。
 それでは実体基台が完結されたのち、メシヤのための基台の位置に立つ者は、誰でしょうか。堕落した人間の子孫として生まれた私たち人間は、サタンの血統を受け継いだので、いまだにその血統を越えることができません。その血統を越えるためには血統を換えなければならないのですが、人間は自分自身ではそれをなすことができません。それでメシヤが必要なのです。(47-12,1971.8.19)

   

 人間が堕落することによって、第1に父母を失い、第2にサタンの血を受け、第3にサタンの支配を受けるようになったのです。ですからそれを復帰するためには、逆に上がっていかなければなりません。皆さんが「原理」を習うことにより、どこまで行くことができるかといえば、信仰基台を成し、実体基台を成して、メシヤを願うことができるようになっています。これが原理です。ですから、外的に信仰基台と実体基台まで成そうというのです。(54-186,1972.3.24)

 

   人間は、完成基準に入ったとしても、これはまだ血統的には完全に清算されていないのです。サタンの血統を受け継いだことにより、血統的にはまだ清算されていないのです。血統的に清算するには必ずメシヤが必要です。
 それで信仰基台、実体基台、メシヤのための基台が、堕落した人間には、絶対に必要なのです。最後の問題は、どのようにメシヤのための基台をつくり、メシヤを通じて自分が血統転換を成すのかということなのです。(55-135,1972.5.7)

 

 信仰基台、実体基台を完成してメシヤのための基台を受け継ぎ、メシヤと接ぎ木するということをしなくてはいけないのです。接ぎ木されることにより、過去に野生のオリーブだったのを真のオリーブの木に変えられるようになるのです。
 言い換えれば、サタンの血統を脱いで善なる神様の血統に帰ってくるので、その位置を受け継ぐことができるところでのみ新郎新婦の位置を迎えられるのが原理の道です。(64-16,1972.10.22) 

          

 「復帰の道を最後まで行った」と言うことができる人は、この世の中にはいません。ですから滅ぶしかない人間になったのです。これを滅びないようにしようとして、このような内容を備え、最後まで行けるようにする責任者として来られる方が、メシヤという方です。そのメシヤと接ぎ木されれば、私はついて行くことができるのです。統一教会には、信仰基台を立て実体基台を完成するようになればメシヤのための基台を成すことができる、という言葉があるでしょう。それがこのことなのです。(63-340,1972.10.22)

           

 復帰途上で、僕の僕時代から僕の時代を経て養子の時代、直系の時代に上がっていかなければなりません。それでは完全に僕の僕時代を経て、僕の時代、養子の時代を通過し、直系の時代と因縁を結ぶことができるのでしょうか。直系の時代と因縁を結ぶには、ただ結ぶことができません。必ず原理によって信仰基台を経て実体基台を経、メシヤのための基台を経なければなりません。
 すなわち、メシヤを迎えなければならないということなのです。メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子とでは血統的に関係が違います。ですから血統転換が必要だというのです。(55-192.5.9)

           

 さあ、それでは皆さんは、どのようにしなければならないのでしょうか。皆さんは、死ぬほどの苦労をしなさいというのです。縦的な歴史を横的に蕩減するために僕となれというのです。天使と同じように、神様が愛する韓国国民は僕となれというのです。僕になれというのです。そこにおいて主人になれば、養子となるのです。
 養子になるのは、信仰基台と実体基台を復帰することです。実体基台を復帰してこそメシヤのための基台が成されるので、これをしなければならないのです。(62-259,1972.9.25)

           

 皆さんは、悪を屈服させて善を残すことにより、悪が自動的に順応できる立場に立ってこそ善なる人になるのです。それを原理的にいえば、実体基台完成です。これを成すためには、サタンと闘って勝たなければなりません。(58-18,1972.6.6)

           

 イスラエルがどんなに世界を復帰し得る国家になったとしても、その国家だけでは駄目なのです。皆さんは原理を通じて、カイン・アベルの実体復帰時代、すなわち実体基台というものを知っているでしょう。
 同じように、探し出されたイスラエル国家を中心としてカイン国家、すなわち天使長型国家を屈服させなければなりません。それを武力でするのではありません。
 アベルが兄であるカインによって殺されたので、死ぬ位置、すなわち打たれる位置に入って死なないで、生きて彼らを屈服させ得る因縁をもつことができなければ、復帰の起点が現れないという事実を私たちは知らなければならないのです。(30-46,1970.3.15)

           

 復帰の道を行くために、まず信仰基台を立てなければなりません。信仰基台は、自分が位置を確保し得る確固とした基盤を築き、主体的な立場に立つために必要なのです。その次は、自分自ら目的に向かって行くことができるようになったとしても、それだけでは駄目なので、戻ってきて実体基台を立てなければならないのです。
 実体基台とは何でしょうか。アベルの前にカインを屈服させ得る基台です。カインとは誰でしょうか。怨讐の子です。このカインを通じて歴史的な闘争が行われてきたのです。カインを通じて悪の母体が根を下ろしたのです。カインを通じて今まで、死の波が歴史時代に向かって続いているのです。 このような事実を見る時、このすべての悪の要件と悪の側をここで防止するためには、アベル的立場、すなわち天の側に立つ人が、必ずカインの立場にいる人を屈服させなければならないのです。(30-289,1970.4.5)

        

 私たちが行く道は、二つです。それは、カインと自分のために行く道です。怨讐のための道まで経ていかなければなりません。それは何を意味するのでしょうか。カインを収拾していかなければならないということなのです。実体基台というのは何なのでしょうか。アベルが自分の道を修めたとしても、カインを完全に屈服させなければ、神様の前に行くことができないのです。怨讐を導いていかなければなりません。怨讐と闘っていくのではなく、怨讐を導いていかなければならないのです。(30-338,1970.4.6)

           

 信仰基台が立てられたというのは、条件的立場で、神様を不信することによって堕落したことを、信じることができるアダムの立場、すなわち希望的なアダムの立場にもう一度立ったということです。
 このようになったのちは、サタンと闘って実体基台を立てなければならないのです。アベルの立場でカインを屈服させなければならないのです。(40-243,1971.2.6)

           

 皆さんは「原理」を通じて、信仰基台と実体基台を知っているでしょう。実体基台を成したとしても、その実体は神様の前に捧げられる実体ではなく、メシヤのための基台、すなわちメシヤを迎えるための実体となるのです。(43-187,1971.4.30)

(2022.4.5:写経奉献)

 


 ②結局は血統復帰が問題


 アダムが信仰を失って実体を失ったので、信仰基台を取り戻し、実体基台を確保したのちでなければ愛を見つけることができないのです。
 アダムが失ったものとは何でしょうか。最初は信仰を失い、その次は実体を失い、その次に愛を失いました。この三つです。これを取り戻そうというのです。(65-314,1973.3.4)

           

 信仰基台というのは原理原則に立脚し、揺れない人、夜も昼も四季が変わっても青春時代や壮年時代、老年時代になってもそのまま変わらない立場で、神様の原理と一致させ得る信仰の基盤を立てなければならないのです。そうしてこそ、原理を通じた実体基台が成立するのです。
 信仰の基台の上に原理を通じて実体基台が現れ、その実体基台の上に原理と一つになった立場に立てば、対象価値の心情世界が賦与されるのです。これが堕落した人間の行く道です。(68-189,1973.7.29)

           

 先生が偉大な貢献をしたというのは、神様と人間との関係を、愛を中心としてはっきりとさせ、責任分担と蕩減路程、カイン・アベル問題、血統問題をはっきりとさせたことです。カインとアベルが一つになれなくては、メシヤは来ることはできません。
 カインとアベルが一つになれば実体基台が成され、メシヤが来て、ここで一つになってこそ血統復帰をすることができるのです。これが原理の要点です。皆さんは、このようなプログラムをすべて知って祈祷しなければなりません。ですから頭の中は、全部その思いでいっぱいでなければなりません。(161-149,1987.1.18)

           

 信仰基台、実体基台、その次はメシヤのための基台です。血統が問題になっているのです。アベルの勝利圏を中心としてアメリカの反対を押さえ、すべての自由世界のいかなる国の反対にも勝たなければならないのです。全世界が私を反対しても、先生はその反対に押されなかったのです。原理がすべてあるのに、大ざっぱにできると思いますか。原理原則が鉄瓮城(注:堅固に取り囲んだたとえ)のようなものです。
 神様が公証した理論がそのようになっているので、仕方がないのです。あなた方が怨讐の国、悪魔までも愛したという条件を立てられなければ天国に入り得る要件がないのです。
 ですから、イエス様が十字架にかかり、ローマ兵の槍で突かれながらも、「彼をお許しください」という祈りをなぜしたのか知っていますか。それは個人ではありません。世界を支配するローマの国なのです。今日、キリスト教は個人救援を追求しているのではありませんか。(182-285,1988.10.26)

 

3)なぜ蕩減復帰が必要なのか

 ①蕩減復帰しなければならない二つのこと


 私たちが復帰路程を行くのに、なぜ蕩減法を重要視しなければならないのでしょうか。それは摂理的に見るとき、神様が創造したものを人間が滅ぼしたので、私が再創造しなければならないのです。再創造するためには、神様が創造の役事をするとき、精誠を尽くしたので、私も精誠を尽くす、その条件を復帰するのです。
 ところで神様がこの宇宙を造るとき、遊びながら踊りながら造ったのではないのです。ありったけの精誠の限りを尽くして、100パーセント投入して造られたのです。神様が創造された時と同じように、私が再創造するのが復帰の道なのに、ただ遊びながらしますか。(96-114,1978.1.2)

           

 元来、アダム・エバが成長の各段階を完成するために、各々の責任分担が与えられていました。1段階の成長期間にはその段階の責任分担を、したがって3段階の成長には3段階の責任分担を完遂しなければなりません。
 ここには例外がありません。すべての人は同じ条件をもっていて、責任を完遂することによって成長できます。もし神様が堕落人間に、同じ量の責任分担を要求されたならば、堕落前の本来の位置に私たち自身を復帰する希望は少しもありません。責任分担を完遂できる機会を失った代わりに、私たちは蕩減条件を立てなければならないのです。(牧会者の道-711)

           

 責任分担と蕩減は、一つは右側の立場であり一つは左側の立場です。また、一つは右足のようなもので一つは左足のようなものですが、それを失ってしまったのです。責任分担も知らず、蕩減も知らないのです。ですから、どうやって行くのですか。そのようにしては行くことができないのです。責任分担と蕩減復帰を連結しておかなければ、前進は不可能だということを知らなければなりません。そのようなことを考えてみましたか。蕩減、嫌いでしょう。
 神様も摂理もみな嫌いでしょう。きょうからは新しく、御飯を食べることを忘れたとしても、寝ることを忘れたとしても、自分の愛する人を思うことを忘れたとしても、これを忘れてはいけません。そのように深刻なのです。
 神様もこれを通らなければならならず、レバレンド・ムーンも生きてこれを通らなければならず、すべての統一教会の教会員もこれを通らなければならず、全世界もこれを通らなければ行くことができないのです。みな何もなしに通過したいでしょう。博士や教授の位置を、ただ得ることができますか。そのコースを経て博士になってこそ、博士としてやっていけるのです。それを通過しなければ、それは偽物です。今こそ分かるでしょう。(124-105,1983.1.30)

           

 サタンを縦横に分別するには、内的な蕩減条件と外的な蕩減条件があります。外的な蕩減条件はカイン・アベルの蕩減条件です。内的な蕩減条件は、アダムの蕩減条件です。この責任分担を中心として、これを完全に屈服し、サタンの支配権を取り除くとき、天の側が始まるのです。これが原則です。(161-207,1987.2.4)

           

 アダムは、なぜ堕落したのでしょうか。アダムの堕落は、責任分担を完成できずに、神様との関係、神様の愛の関係が切れたことです。責任分担を連結できず、その次には神様の愛に連結させられなかったのです。堕落することによって、責任分担を喪失し、神様の愛の圏を喪失したというのです。(161-205,1987.2.4)

           

 サタンをどのように分別させるのでしょうか。蕩減条件を立て得る立場に立った、アダムの代わりの存在にならなければなりません。ですから本然の基準において責任分担を完成した資格者となったアダムの位置で、愛を中心としてサタンと対決し、サタン側に対する人たちよりももっと天の側的に、サタン側で愛するよりも天の側でもっと愛したという条件を立てることにより、分別が行われるのです。
 ここに蕩減条件が成立することを知らなければなりません。サタンは、環境を支配しているので、中傷謀略をして、いかなる手段を使ってでも切ってしまおうとするのです。しかし、その環境を克服して、どのようなことがあっても神様に代わり、アダムが失った責任分担を取り戻すなら間違いありません。永遠なものです。そして神様を愛するのに絶対に、誰が何と言っても、「間違いない」と言い得る基準を立てなければ蕩減ができないのです。(161-205,1987.2.4)

           

 蕩減条件は、何を分別させるものでしょうか。責任分担を完遂して、その次に神様を愛するものです。サタンがどんなに迫害し、攻撃しても、それを退け、そこに動揺しないとき、サタンは打って打ちまくってそれでも退かないときは、自分が退かなければならないのです。このようにしてサタンを分別するのです。これが決定できなければ、カイン・アベルを蕩減する道がありません。(161-205,1987.2.4)

           

 縦的な蕩減条件は、何によって立てなければなりませんか。責任分担完成と神様に対する絶対的な愛の復帰完成、この二つの条件です。
 このような基準があるのでイエス様も、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)と言われました。この原則から、このような言葉が出てきたのです。こうしてこそ聖書がすべて解けるのです。同じように皆さんも、先生をそのように愛しますか。(161-213,1987.2.4)

           

 蕩減復帰の道は、必ず行かなければなりません。サタン分立をしなければなりません。サタン分立ができないところには責任分担完成がありません。責任分担完成ができなければ天国に入っていくすべがありません。アダムとエバも追い出したのが神様の法度なのに、皆さんがアダムとエバより優れていますか。答えてみなさい。劣っていますか。優れていますか。劣っているのは、いつでも捨てることができるのです。偉そうに大手を振って歩き回りながら、ちょくちょく出入りするからといって、誰でも統一教会の教会員なのではありません。原理をはっきりと知らなければなりません。(148-156,1986.10.8)

           

 生活観念は、世界のために生きることです。世界のために生き、神様のために生き、さらには神様の解放と、父母様の解放と、世界の解放のために生きるのです。これが統一教会員の生活内容ではありませんか。解放するのに、蕩減復帰だけ知っていては駄目なのです。責任分担というものがあるので完全に整備されるのです。(148-166,1986.10.8)

           

 カイン・アベルは、責任分担を完成する責任がないのです。責任分担完成は誰がしなければならないのですか。アダムとエバ、すなわち父母がしなければなりません。
 先生にその責任があるので、皆さんができないことを、キリスト教が失敗したことを、私が全部責任をもって40年間父母の位置から個人で整備し、家庭で整備し、氏族・民族・国家・世界的に整備したのです。このようにして個人責任分担の蕩減復帰、サタンを追放できる壁を造っておいて……。責任分担の完成圏をつくったので、ここから新しい世界が始まるのです。世界理想の位置から成されたので、これから天国が可能だというのです。
 それで「天国創建」という言葉、「祖国創建」という言葉が出てくるようになるのです。これはすべて原理的です。(148-163,1986.10.8)

           

 今まで、この歴史を誰が動かしてきましたか。サタンが動かしてきました。ですからサタンを分別しなければなりません。サタンを取り除かなければ、神様は入ってこられないのです。神様の領土ではありません。サタンの領土なので、堕落した圏内から蕩減条件を立ててサタンを分別しなければ、追放できる蕩減条件を立てなければ、神様の領域が拡大され、神様が活動できる基盤が築かれません。ですから、分別して追放してしまわなければなりません。(161-204,1987.2.4)

           

 サタン世界に、「いくらでも迫害してみよ、打ってみよ」と言うのです。私がお前たちを占領する。何によって。愛の力で。神様の創造の能力で・・・・・・。
 そうすれば神様が共にいるのです。ここには、神様が共にされるのです。やってみなさい。共にされるかどうか。先生は、監獄にいても、どんな拷問される所へ行っても、これを忘れないで闘ってきた人なのです。そうやってこそ分別されるのではないですか。(161-213,1987.2.4)

           

 今日、統一教会員たちは、蕩減の道を好まないのです。それは何かといえば、復帰を好まないということです。「ああ、私は復帰というのは好きですが、蕩減は嫌いだ」と、このような言葉はありません。それでは、どちらが先ですか。復帰が先ですか。蕩減が先ですか。皆さんは、「復帰は好きだが、蕩減は嫌いだ」と言います。神側から見れば反対です。
 皆さんは、どちら側ですか。神側ですか。サタン側ですか。これをはっきりと知らなければなりません。皆さんは、復帰が好きです。しかし、神側では復帰を好むことができないというのです。蕩減をした、蕩減を通じたのちに復帰があるのです。(116-127,1981.12.27)

           

 蕩減復帰、蕩減はなぜ必要ですか。蕩減せずしてはサタンを屈服させるすべがありません。本来、神様の愛の焦点が個人に合えば、そこにはサタンがいますか、いませんか。原理的に見るとき、サタンがいますか、いませんか。(181-214,1988.10.3)

           

 蕩減復帰するには、反対にしなければなりません。それで絶対信仰が出てきたのです。人類の先祖が不信して堕落したので、これを踏んで上がらなければなりません。私たちの先祖が堕落した、その線以上に上がっていかなければなりません。絶対信仰をしなければなりません。絶対信仰は死ぬまで、死んでからも、死にながらも行こうとするのです。皆さんは、絶対信仰を知らないでしょう。絶対信仰の限界とはどこですか。生命体をもった私自身と比較していえば、死にながらも行くのです。私は死ぬとき、横に倒れるのではなく前に倒れるのです。そのような意味で私の信仰を否定すれば、死の道を選ぶのです。(126-34,1983.4.10)


 二つ目は自己否定です。100パーセント否定しなければなりません。自己否定です。私の見たい目、私の食べたい口、すべて否定しなければなりません。先生は30歳までおなかがすかなかった日がありませんでした。これは、私自身を否定することです。(126-39,1983.4.10)

 

 三つ目は絶対愛です。絶対愛は、怨讐を消化するのです。敵を討つのは許しではありません。怨讐が自ら進んで自分の国と自分のすべての権限、長子の嗣業までも全部渡してくれなければなりません。渡してもらわなければなりません。(126-46,1983.4.10)

           

 蕩減を嫌う者はサタン側であり、蕩減を好む側は神側だ、ということが今、分かりました。それでは、自分自身をじっと反省してみなさい。
 自分が神側ですか。サタン側ですか。それは、皆さんがよく知っているのです。皆さん自身に聞いてみなさい。今まで皆さんは、み旨に従ってきましたが、復帰を好むのはサタン側で、蕩減を好むのは神側であることをはっきり知ったならば、今からどの道を行きますか。(116-127,1981.12.27)

           

 皆さんも先生に従って、ファンダレイジングをしたでしょう。「ああ、私はファンダレイジングが嫌いなのに、何だこれは」と言うかもしれませんが、これからが始まりです。「これから逆に歩きなさい」と言うかもしれません。「世の中が悪なので、お前たちは逆に歩きなさい!」と。世の中が逆になっていますから、そう言うかもしれないのです。悪なる人と一緒に行けば悪くなるので、私たちは反対に行かなければなりません。そうすれば善なる人になるというのです。それは理論的です。(133-69,1984.7.8)

(2022.4.6:写経奉献)

 

4)蕩減条件は自分が立てなければならない

 ①他の人が代わりに立てることができない


 蕩減条件は自分が立てなければなりません。他の人が代わりに立てることができるものではありません。堕落は、主管権を失ったことを意味します。復帰のためには他の人がどのような干渉をしたとしても、自分自身の確固とした主体性をもって進まなければなりません。
 他の人がどんな道を行こうと、私の行く道は忙しいのです。横で何を話しても、そこに気を遣ういとまもありません。夜、寝る時間もありません。落ち着いて、ゆったり座って御飯を食べる余裕はありません。そのような切迫した心情をもたずしては、復帰の道を行くことはできません。(22-211,1969.2.4)

           

 堕落は人間がしでかしたので、蕩減復帰も人間自らがしなければなりません。罪を犯した者が罪を蕩減しなければならないのが原則なのです。父母が偽りの父母となったので、真の父母が来てそのすべてのものを蕩減してくれなければ、神様に帰っていける道はありません。このすべてのものを解決してくださる方が真の父母なのです。
 真の父母は、皆さんの生命を何千万、何億捧げたとしても換えることができない価値をもっていらっしゃる方です。ですから皆さんは、真の父母を求めて、「命を懸けて従います」と言うことができなければなりません。(55-161,1972.5.7)

           

 人間が堕落することによって、どのような結果が現れたのでしょうか。人間世界から神様が追放され、天使世界が追放され、万物世界を失って、その次には個人基準、家庭基準、氏族・民族・国家・世界基準をすべて失ってしまいました。その責任は誰にあるのでしょうか。その責任は、神様にあるのでもありません。天使世界にあるのでもありません。万物にあるのでもありません。人間にあるのです。このような結果が現れたのは人間の責任です。ですから人間は、自分たちが責任をもって復帰路程を歩んでいくべき運命に置かれているのです。(100-264,1978.10.22)

           

 復帰の道は、堕落した経路と反対の経路を突破していかなければなりません。そして蕩減の道は、堕落した者には原則として現れるのです。これを克服しなければ本来の姿に復帰することができないので、自分を清算しなければなりません。個人的な問題から、家庭、氏族、国家、世界をどのように復帰するのかという確実な理論体系をもっていなければなりません。(御旨と世界-354)

           

 皆さんが統一教会員として伝道をする時、「いやー、大変でできない」と言うならば、どうなるか知っていますか。それは神様を中心としたことにならず、自分を中心としたことになるのです。
 このような原則を考えるとき、皆さんが統一教会に入ってきて活動するにあたって、行けないとか、不平を言いながら活動する人がいれば、不合格なことをしたということをはっきりと知らなければなりません。
 自分を中心として統一教会で働く人は、困難に遭うとすぐにレバレンド・ムーンと統一教会に対して不平を言いながら、今まで統一教会に入って働いたことが私のものだと主張する可能性があるのです。(92-256,1977.4.18)

           

 蕩減条件は、自分が立てなければなりません。他の人が代わりに立てることができるものではありません。堕落は、主管権を失ったことを意味します。(22-211,1969.2.4)

           

 天国は、神様を絶対的な中心として侍り、それを通して愛の因縁を結んで生きる所です。この根本を正しく立てるために神様が救援摂理をされるので、絶対に自分を立ててはいけないのです。(92-255,1977.4.18)

           

 アダムが責任分担を果たせなかったので、私たちは責任分担を全うするのに誰かの協助を受けては、その使命を完遂することができない立場にあります。最後の決定は、私たち自身がするのです。言い換えれば、善なる人になるのか悪なる人になるのかという決定は、神様がされるのではなく、私たち自身がしなければならないのです。(29-333,1970.3.14)

           

 皆さんは、生命以上に懇切なる立場に立たなければなりません。ですから、おなかをすかせた立場でも祈祷しなければなりません。断食をしながらも、自分をすべて投入しなければなりません。
 神様の愛とともに生命力を、万国に投入しなければならないのです。その過程では、神様は絶対に答えられず、知らないふりをされます。干渉してはいけないのです。その投入が終わるまでは干渉されません。人間の責任分担とは何ですか。自分自ら完成することではないですか。同じように、自分が祈祷していくときは神様が中間で干渉されないのです。本当に不思議ですが、かえって反対するのです。(180-195,1988.8.22)

           

 勝敗の起点をどこに置くべきでしょうか。先生に置いてはいけないというのです。先生がどんなに勝敗の起点をもったとしても、それは皆さんと関係がないのです。皆さん各自には5パーセントの責任分担があるのです。(31-208,1970.5.31)

           

 個人の生活環境が変わり、時代の違いが生じるに従って、その時その時ごとに神様が呼ばれる道の前に、相対となる立場を決定するためには、私自身が努力していかなければならない責任分担5パーセントの路程がいつもあるのです。それは個人を中心としてもそうであり、教会を中心としてもそうであり、国や世界を中心としてもそうだというのです。(40-66,1971.1.24)

           

 神様は、どのようなな方なのでしょうか。玉座に座り、栄光を受ける神様だと思いますか。
 そうではないのです。堕落した人類に対して神様は、今まで何をされたのでしょうか。人類を救援しようと毎日痛哭していらっしゃるのです。そのような立場で人類を引っ張ってこられたのが神様の姿です。
 神様は、このように悲惨な方です。悲惨な中に落ちた人類を救援するために、神様は、眠りこけた人類を起こして、「来い、来い」と言われるのです。しかし、そのようにして行くようにはなっていません。皆さんは責任分担を果たさなければならないのに、それを代わってあげることができない立場で、(救援)しようとされるのが、どれほど大変だったでしょうか。(20-220,1968.6.9)


 ②責任分担の心構え


 人間は、自分が今生きているところが善側か悪側かということを決定しなければならない、中間位置にいます。また、私が善なる方向に行くのか悪なる方向に行くのかということも、第三者の力を借りて決定するのではなく、自分自らの判断によって決定しなければならないのです。
 さらに責任分担を全うすることができずに、堕落した人間の子孫になった私たちは、必ずこれを決定しなければならない、重大な岐路にあるということを知らなければなりません。(29-333,1970.3.14)

 

5)蕩減法なしにはサタン分立はできない

 ①私は分水嶺に立っている


 以北から以南まで、行く先々で、先生は監獄に何度出入りしたでしょうか。それを知らなければなりません。なぜ蕩減復帰しなければなりませんか。なぜサタンを分立しなければなりませんか。サタンを分立する目的は、責任分担圏自由化のためです。堕落する前のアダムとエバがサタンの干渉を受けましたか。サタンの干渉を受けていては天の国へ行けないのです。
 皆さんは今、どこに立っているのでしょうか。自分がどこにいるのかは、自分の良心が知っているのです。それはだますことはできません。私がどこへ行こうとしているのかを良心は知っているのです。(148-199,1986.10.9)

           

 蕩減復帰は不可避なものです。なぜ蕩減復帰しなければならないのか、なぜサタンを分立しなければならないのかといえば、自然な本然の責任分担、自由環境基盤を必要とするからです。そうすればサタンが讒訴できないし、サタンが因縁をもつことができない位置を私が占有するようになるからです。それで蕩減復帰、責任分担完成という基準は、論理的にも不可避です。
 ですから、サタンを分立しなければならないのです。ですから、御飯を食べないで座っていても、サタン世界とは関係がないという考えをもっていなければなりません。ここが分水嶺です。これが境界線です。(148-204,1986.10.9)

           

 蕩減復帰の道は、サタンを分立するための道です。サタン分立をなぜしなければならないのでしょうか。責任分担圏を探すためです。本来責任分担圏は、サタンがいない所です。アダムの責任分担圏がそうです。アダムの責任分担圏は本来、サタンが侵犯できる基準ではありません。その確実な思想を注入しなければなりません。
 私たちは、いずれにせよ行かなければなりません。責任分担を完成して、神様の愛の中に接ぎ木されなければなりません。神様の愛の中に接ぎ木しようとすれば、サタンを分立しなければなりません。サタンと因縁をもったすべてのものを、完全に分立しなければなりません。(148-197,1986.10.9)

           

 蕩減復帰は、なぜ生じたのですか。堕落以後、何のために生じたのですか。責任分担がなければ蕩減復帰という言葉も必要ありません。人がどの位置で堕落したのかというと、責任分担を果たしていく過程で堕落したのです。このとき堕落した人間は、責任分担圏をサタンに渡してしまったのです。サタンに奪われてしまったのです。それゆえこの責任分担圏を、もう一度取り戻してこなければならないのです。(143-77,1986.3.16)

           

 もし堕落した人間に神様が責任分担を設定しなかったならば、今日の統一教会で主張する「蕩減復帰」という言葉は出てこなかったはずです。ただそのまま復帰すれば良かったでしょう。蕩減しなければならない! なぜ蕩減しなければならないのでしょうか。人間には責任分担があるからです。
 人間が完成しなければならない責任分担を自ら壊してしまったので、その賦与された責任を果たさなければならないのです。そのようにするためには、サタン世界のすべてのことに勝利し、サタンを主管する位置に立ち、堂々とサタン世界の反対環境を取り除いたその位置に立ち、神様の愛を受けることができる位置に入らなければなりません。そのようになればサタンは離れるのです。(143-77,1986.3.16)

           

 堕落した子孫である私たちには、責任分担圏が残っているのです。責任分担を中心として見るときに、個人的な原理結果主管圏で個人完成して神様の愛と連結させ神様の直接的な愛の因縁を結ぶことができる基盤をもったのかという時、もてなかったというのです。蕩減復帰はなぜ必要かといえば、サタンを分立させるためです。サタンを分立しなければ責任分担を果たすことができません。(148-148,1986.10.8)

           

 責任分担がどれほど重要かを、みんな知らないで生きてきたのです。これが解放の基準です。蕩減復帰とは何ですか。責任分担を完成できる自由環境をつくるためのものです。サタンが侵犯するので、サタンを防御するにはどのようにしなければならないでしょうか。サタンよりも神様をもっと愛し、人類をもっと愛さなければなりません。
 サタンよりも神様を憎み、人類を愛する反面、私たちは、「私は、お前より神様をもっと愛し、人類をお前よりももっと愛する」と言わなければなりません。堕落しなかった人間がもっていくべきその基準を中心として、一方通行化させることができるこのような立場に立たなければ、サタンを分立することができません。(148-154,1986.10.8)

           

 蕩減復帰の道は、必ず行かなければなりません。サタン分立をしなければならないのです。サタンを分立できないところには、責任分担完成がありません。
 責任分担完成ができない者たちは、天国に入る法がありません。アダムとエバも追い出したのが神様の法度ですが、皆さんがアダムとエバより立派ですか。返答してみてください。立派ですか、立派でないですか。立派でない者は、いくらでもすてられるものです。
 偉そうに大手を振って歩き回っている、この者たち! この女性たち! しきりに出入りするからといって、誰でも統一教会の食口なのではありません。原理をはっきりと知らなければなりません。(148-156,1986.10.8)

 

 なぜ蕩減復帰が必要になったのかというと、サタンを分立するためです。サタンを分立しないことには、責任分担を果たすことはできません。(148-148,1986.10.8)

 

 サタンは、責任分担が果たせなかったという条件の上に侵犯しました。ですから責任分担が終われば、サタンは追放されるのです。責任分担を完成すれば、サタンはいることができません。(137-254,1986.1.3)

           

 皆さんは、責任分担完成圏に立っていますか。未完成圏に立っていますか。未完成圏に立っているのに先生と何の関連がありますか。それを知らなければなりません。
 蕩減復帰をなぜしなければならないのですか。責任分担を果たすにおいて、本来堕落する前の責任分担圏はサタンが讒訴することができないのです。サタンが侵犯するその場においては、責任分担圏が出てきません。ですからサタンが侵犯できないのです。その場が監獄です。(148-156,1986.10.8)

           

 神様を愛する力をもって、サタン世界の監獄を自ら進んでいくのです。サタンが一番嫌う所を、私が一番喜んで歓迎するのです。この世の中の人たちは、苦労を嫌うでしょう。統一教会の教会員は、苦労が好きです。なぜ好きなのですか。蕩減復帰をしようとするからです。驕慢はサタンがする行動です。サタンは、下がっていく所へは下りていけないのです。(148-156,1986.10.8)

           

 サタンを防御するには、神様を誰よりも愛さなければなりません。この世界の誰よりも愛して、宇宙を誰よりも愛さなければなりません。自分よりも愛さなければなりません。自分は堕落した人間なので、自分より愛さなければならないのです。サタンは、神様より自分を最も愛し、世界より自分を最も愛しました。それがサタンです。ですから、個人主義を中心とした皆さんは、サタンの王者たちです。(148-161,1986.10.8)

           

 責任分担法がなければ整理ができません。責任分担があるのでサタンもきれいに整理されて、国もきれいに二つの国に分かれて、境界線をはっきりさせて、神様の愛を中心とした宇宙的な主管圏時代に入っていきますが、これが神様が霊界と肉界を直接主管する天上天国であり、地上天国です。はっきり分かりましたか。皆さんが問題です。
 皆さんは、どこにいるのかといえば、いつも境界線にいます。個人を中心とした蕩減復帰の境界線においては、サタンがついてきてはいけないのです。(148-166,1986.10.8)

           

 統一教会の教会員の生活観念とは何でしょうか。世界のために生きるということです。世界のために生き、神様のために生き、さらには神様の解放と父母様の解放と世界解放のため生きるのです。これが統一教会員の生活内容とならなければなりません。(148-166,1986.10.8)


 ②サタン圏(堕落圏)を脱するには


 完全に救いを受けるには、自分の罪を清算しなければなりません。皆さんの過去と現在のすべての生活を通じて犯した罪を清算しなければなりません。罪を清算するには、原理原則に食い違いがないようにしなければなりません。(55-158,1972.5.7)

           

 堕落して故障したので、故障を直すには故障する前の原理原則に従って合わせなければなりません。
 そして創造法度に一致できるようにするためには、再創造歴史の過程を経なければならないのです。堕落は相手のために自分を投入しないで、反対に相手に自分に投入しろというところから始まったので、反対に投入することを経なければなりません。ですから宗教は、「自分を犠牲にしなさい」と言うです。(69-84,1973.10.20)

           

 アダムとエバの堕落以後、人間がかかった病気とは何ですか。サタンを中心とした愛の病気になり、間違ったその愛の病気でサタンの血統を繁殖させてきたのです。(92-255,1977.4.18)

 

 言い換えれば、サタンの血統を受けてサタンの直系として生まれたのが病気なのです。ところで、その愛の病気はどのように出発したのでしょうか。神様が立てた秩序と天地の道理、環境などすべてのものを否定して、自分を中心として愛したところから堕落の病気が始まったのです。(92-255,1977.4.18)

 

 ですからこの病気を治すには、自己を否定し、神様を絶対的に中心として生きなければならないのです。天使長やアダムとエバが神様を中心とした愛を願ったならば、堕落しないで理想世界を成したはずです。(92-255,1977.4.18)

           

 サタン圏を抜け出すには、神様を中心とした観をもたなければなりません。そうでなければ、抜け出すことはできません。それ以外には抜け出すことができないので、このような道を選ばざるを得ないのです。(御旨と世界-437)

           

 私が行かなければならない道は難しいけれども、私の前を行かれる神様がいて、私のそばで歩む友達がいて、私たちの兄弟がいるという事実を考えなければなりません。また、人類が行くべき未来の運命の道が、まだ私たちの前に残っているということを考えなければなりません。
 私の生命が尽きるまで行くと考えなければなりません。そのような考えをもつことにより、自分を中心として堕落したサタンの基準を越えていくのです。私中心ではなく、神様を中心とした考えをすることにより、堕落圏を越えていくことができます。ですから、統一教会で最も大変な時は、最も大変なサタンの堕落圏を払いのけて解放され得る日が近づいた、ということを意味します。(92-256,1977.4.18)

           

 元来、堕落は死の境地に落ちたことなので、救援するために死の境地に飛び込まなければなりません。どうせその過程を通過しなければならない運命ならば、男らしく喜びの心で臨む皆さんにならなければなりません。そのように決意をもってみ旨の道を歩む食口が多くなれば、世界は新しい方向に進むのです。私たちは、その母体を成す心情に燃えています。皆さんの心の中には、生死の境界を超越できる信念がありますか。
 先生は何十、何百、何千、何万にもなる生死の境界線を見守りながらサタンと対決して来ました。言い表し難い大変な環境が波のように何度も押し寄せても、先生が立てた基準は変わりません。足が折れたとしても、目の玉が落ちたとしても、首が飛んだとしても、出発した時の心情基準から外れません。ですから死にさえしなければ勝利するのです。(22-184,1969.2.2)

           

 どのようにすれば、サタン圏の愛とサタン圏の血統が脱げますか。自分を愛して自分だけ考えれば、いつでもサタンは引っ張っていきます。反対に私を否定し、神様を中心として考えて生活するようになれば、サタンは私を管理できず、神様が臨在して管理するようになるのです。それによって、サタン世界の天使長圏から解放され得るのです。堕落した天使長の位置から、堕落しなかった天使長の位置に上がっていくのです。死ねというのです。死んだふりをなさい。あの足の裏に何度も踏まれよというのです。(92-264,1977.4.18)

 

 私が知るところによれば、高いところに上がって心と体を一つにできる道はありません。天下に高い心をもって上がれば、一つになる道がありません。踏まれなければなりません。先生も高くなるのではと思って、神様が40年間足で踏んでしまったのです。踏んでみると、上がろうとするのがつぶされて一つになるのです。
 三千里半島を歩き回った金サッカ(1807~1863。本名は金炳淵。家門が滅んだのを嘆き、生涯放浪生活を送り、多くの風刺の詩をつくった)のように、ののしられ、踏みにじられ、ぞんざいに扱われながら、さまよわなければならないのです。そうしながらも、それを消化することができ、それをみな喜んで消化できる自分自身を発見しなければなりません。(144-255,1986.4.25)

           

 「愛という枠をもって私がサタンよりも愛するという心で、神様を愛し、宇宙を愛する心をもって、神様のみ旨と人類の解放のためにどん底に下りていく」と言うことができなければなりません。下りていくのはどういうことでしょうか。踏まれてみなさいということです。40億人類に、みな踏まれてみよというのです。踏まれても不平を言わないのです。感謝し、愛によって消化するのです。このようなことをしなければなりません。(138-288,1986.1.24)

(2022.4.7:写経奉献)

 

6)信仰は蕩減法を守っていくこと


 統一教会は98パーセント、95パーセント生活的な面が全部信仰です。95パーセント神様が造られたものを失ってしまったので、95パーセントやってこそ再創造が始まるのです。その上でさらに5パーセントまで私がしなければなりません。ですから、どんなに大変なことでしょうか。堕落していなかったら95パーセントは天がしてくださり、5パーセントだけを私がしていたでしょうが、堕落したことによって神様がもう一度してあげることはできないというのです。再創造を私がしなければならないのですが、95パーセント、プラス5パーセントです。ですから死ぬ覚悟をしなければなりません。犠牲になる覚悟をしなければなりません。世界蕩減路程を歩みきるまでは、楽な考えをしてはいけないのです。(142-84,1986.3.1)

           

 先生がこの地に来て、信仰世界に残した偉大な内容は、四つです。神様と人間との関係をはっきりさせました。責任分担と蕩減というものを、この歴史の中で誰も知らなかったことをはっきりさせておきました。その次に、良心的な人は生きていくことが難しく、悪人は良い生活をしていますが、これはどうしてかということです。蕩減法、カイン・アベルの問題を知らなかったことを、これをはっきりさせました。(161-153,1987.1.18)

           

 人間は、堕落性を相続して習慣の奴隷になってしまいました。今日においては宗教者までも、このような惰性に浸り、安逸な生活をする傾向があります。習慣的な信仰生活は、危険です。このような信仰生活は、サタンの讒訴条件を提示させてしまう要因になります。
 人間たちが復帰路程を歩んでいくにつれて、一人でも失わないようにしようとするサタンは、あらゆる方法を通じて再侵犯の機会をねらっています。サタンは、個々人が立てた蕩減条件によって個人から離れていかなければなりませんが、また再び家庭的次元、民族的次元において、侵犯することもあり得るのです。(167-98,1987.6.30)

           

 私たちが行くべき公式路程がありますが、皆さんは、そのような公式をはっきりと知らないでいます。「私たちには蕩減が必要ない。何のために私たちがこの大変な蕩減の道を行かなければならないのか」。このような人は、サタン圏内で死ぬしかありません。サタンは、彼らの圏を主張します。
 皆さんは、このようなサタンの領域を征服しなければなりません。サタンを退かせなければなりません。サタン圏を占領しなければなりません。果敢に立ち上がりなさい。過去のことを清算しなさい。これが信仰生活において皆さんがしなければならない責任です。はっきりと知らなければなりません。(167-319,1987.8.20)

           

 蕩減復帰は、条件復帰ではありません。事実蕩減だということを知らなければなりません。このようなものは原理にはありません。条件蕩減でありながら事実蕩減というようなことは初めて聞くことでしょう。したがって、今までの復帰路程を考えてみると、サタン世界で一番良心的な一人を立てます。ノアが正にそのような人でした。ノア一人の信仰を絶対信仰の基台の上に立て、ノアの家庭を中心として着陸するようになります。絶対信仰の男性、絶対信仰の女性、絶対信仰の四位基台が必要です。(183-164,1988.10.31)

           

 神様は堕落した人間を蕩減復帰させようとして宗教を立てられました。神様は宗教を通じて神様中心の精神を強化させる方法、生と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を教えておられます。宗教が断食、犠牲的奉仕、温柔で謙遜な態度などを要求する理由は、正にこのようなところから来ています。これは、肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従させる方法です。
 信仰生活を通じて、肉体中心的な生活習慣から脱して新しく精神中心的な生活方式をつくっていくまでに、通常3年ないし5年かかります。(201-208,1990.4.9)

           

 蕩減は、何を中心としてするのでしょうか。蕩減の内容とは何でしょうか。サタンをより愛するのか、神様をより愛するのかという愛の問題です。すべてのことが愛の問題です。蕩減するには神様を絶対に信奉しなければなりません。ところがサタンは、神様を絶対に信奉しませんでした。背信したというのです。歩んでいく途中で神様を背信しました。
 それゆえに、まず蕩減の道を行くに当たって、信仰や行動が絶対的でなければなりません。(206-238,1990.10.14)

           

 蕩減路程というものは責任分担圏を立てなければなりません。この責任分担は何を中心としてしなければならないのでしょうか。より天を愛すること、より絶対的な信仰とより絶対的な愛をもたずしては、サタンを屈服させることができません。(139-279,1986.1.31)

           

 今までの蕩減復帰時代は、過ぎ去りました。蕩減復帰時代が過ぎたために、これからは法的な時であり、行動いかんで即座に引っ掛かる時です。蕩減復帰時代は循環するのです。第1次ができなければ第2次に移るので、前進的な発展に通じることができる過程でしたが、今の時は、蕩減復帰時代が過ぎたので復帰時代です。今は復帰時代なので、誤ったことを後日に延ばして解決する時ではありません。即刻的です。このようなことをはっきりと知って、過去のぼんやりした信仰概念があったならば、それをけ飛ばして先頭に立つ覚悟をしなければなりません。(144-128,1986.4.12)

           

 み旨のために行く道で、先生自身の生活を中心として見れば、誰も理解できない道を歩んできましたが、その背後で天が理解してくださるその裏面的な深さと幅がありました。そのような事実を考えるとき、それは不幸ですか、幸福ですか。幸福なことです。彼らが私に反対するのは、反対したくてそうするのではありません。反対しなければ蕩減復帰は成立しません。
 天がすべてさせているという事実を知り、皆さんは感謝しなければなりません。感謝していけば、結局は私が考えもしなかった世界に行くことになり、私に反対していた世界は考えもしなかった結果の世界に落ちてしまうということです。それゆえ、天に侍っていく人の生涯は、感謝しなければならないということです。(138-129,1986.1.19)

           

 自分が行った忠誠の実績をもって、それを貴く思い、天の前に1歩1歩前進することが貴いことであって、欲を張って大声を出して祈祷しても、み旨がすべて成就するというわけではありません。
 蕩減復帰の道を中心としては、自分を第一に立てる人は、みな流れていくのです。文先生は、「自分が一番素晴らしい」と言いますか。私が今まで皆さんに教えたことは、私が行わないで教えたのではありません。私がすべて行ってから教えたのです。(142-89,1986.3.1)

           

 神様の解放は、真の父母と一つになって地上のすべての祭物を捧げ、サタンの讒訴条件を清算しなければできません。皆さんが、どのようにして神様の心情的な所有権に帰着するのでしょうか。父母と皆さんと万物が平行線上で、神様の所有だと決定し得る位置をもてなかったということです。これを蕩減復帰しなければなりません。(137-268,1986.1.3)

           

 皆さんが蕩減復帰の道を歩んでいるという事実、責任分担という宿命的な道を歩んでいるという事実を、どれだけ感謝して受け止めましたか。もう一度考えてみなければなりません。「ああ、統一教会の原理のみ言は良いが、蕩減復帰は嫌だ」と言うことはできません。
 大学に入るためには、その関門を通過するために試験を受けなければなりません。私が願う反対の道が横たわっています。これを解決しなければ学校に入ることができません。同じことです。統一教会の行く道は、簡単ではありません。(138-120,1986.1.19)

           

 私がどうしてついていかなければならず、私の心がなぜ促され、良心が生きた心地もなく追求されているのかということを、皆さんは誰よりもよく知っています。私の心は、どうしてこうなのだろうということです。正道が目の前にあるがゆえに従っていくべき歴史、人間が行くべきであり、私が行くべき蕩減復帰の深刻な運命の道が残っているからです。落ちてしまっては、この道は行けません。
 父母様の背に乗って行かなくては、行く道がないということです。いくらはえが汚くても、走っている千里の馬(一日に千里も走る名馬)の腹の下にくっついて落ちることなく忍んでいけば、千里の道を行けるのと同じことです。ひっくり返っても、くっついていかなければならないのです。落ちてはなりません。(138-120,1986.1.19)

           

 今日、信仰をする人たちは蕩減復帰の道を歩んでいるということを忘却しています。アダムとエバがどうして堕落したのでしょうか。責任分担路程を忘れてしまったからです。現実を忘却してしまったから堕落しました。責任分担圏を残したまま人類は呻吟せざるを得ない立場に立ち、この責任分担圏さえも自由に迎えることのできない立場になりました。堕落した人間であるがゆえに、責任分担圏を自由に迎えられるその位置まで出てくるためには、今日の歴史的なすべての堕落圏を解脱していかなければなりません。そうでなければ、復帰の道に出てくることはできません。(142-82,1986.3.1)

           

 蕩減復帰を完成した人は、手を挙げてみなさい。こいつ、棍棒でたたかれて、罵声を浴びせられ、雷に打たれなければならない邪悪な者たちよ。これをしなければ、先生もどうにもなりません。先生は、はっきり教えました。そのとおりに霊界が変形されるのです。
 皆さんがこれをできずに逝けば、あの世に行って必ず引っ掛かってしまうのです。いくら夫婦同士が息子、娘を愛したとしても、全部行ってストップです。
 霊界に楽園ができたのと同じように、統一教会において天国に入る前の家庭楽園ができてしまうのです。そこでは愛し合うこともできません。どうやって愛し合いますか。我が子だからといっても、愛したくとも愛することができなくなっているのです。そこに行けば、どうしますか。夫に、「あなたは私を愛していたのに、ここに来てどうしてそうなの」と言ったとしても、愛することができなくなっています。愛することができません。自分が立っている位置では愛するようになっていません。(148-168,1986.10.8)

           

 皆さんに聞きたいことがあります。皆さんは、蕩減復帰の道を歩いてきましたか。そのように生きてきましたか。長子復帰をしなければならない運命として私の前に長子復帰の道が立ちふさがっているのに、これを必死に努力し、どのような代価を払ったとしても、この峠を越えなければならないといって身もだえをしましたか。しなかったというのです。しませんでした。ただ先生についてきたのでしょう。先生がどうだから? 先生が好きだからですか。どうしてついてきたのですか。ついてきたその動機も、原理よりも先生が好きだからついてきたのです。(138-134,1986.1.19)

           

 統一教会に入り、すべて腰掛けていて天国に行くと考えてはいけません。心情圏を相続しなければなりません。皆さんは、いつ蕩減復帰すると考えましたか。いつ蕩減復帰しますか。蕩減復帰するために行けと言うのに、いつ行きましたか。(140-197,1986.2.9)

           

 人間にとって、一番難しいこととは何でしょうか。サタンの三大門がありますが、一つ目は食べることです。この口は、食べて食べて食べたなら、「もっといい物をくれ」と言います。しきりにそうします。その次は、休むことです。寝さえすれば、しきりに休みたいのです。そうでしょう。仕事をしたくありません。その次は何ですか。情欲です。浮気をしようとします。
 統一教会で浮気をして男女問題があれば一箇所に連れていって、ガソリンを掛けて燃やしてしまうでしょう。そのような時が来るのです。私が、そのような指示をしないからこのようにしているのです。
 神様が、エデンの園にいたアダムとエバを追放したでしょう。この子たちを処理する道がありませんでした。二人しかいなかったので、処理する道がありませんでした。ところが今はそうではありません。おびただしいほどあります。先生の時代にそのようなことを見たくありません。ですから深刻だというのです。(199-107,1990.2.16)


7)蕩減の道は絶対服従、絶対順従の道


 宗教人は、なぜ絶対服従をしなければならないのでしょうか。絶対的な主体の前に絶対的な相対になろうとするので絶対服従しなければならないというのです。
 そして悪に対しては、死んだとしても絶対に仲間になってはいけません。悪と絶対に仲間になるなというのです。愛せよと言いながら・・・・・・。人間は愛しますが、人間と一つになっている罪を愛してはいけないということです。皆さんは、これを知らなければいけません。(57-57,1972.5.28)

           

 神様が絶対的ならば、私も絶対的な位置を願わなければなりません。神様が不変ならば、私も不変でなければなりません。神様が唯一ならば、私も唯一でなければなりません。神様が永遠ならば、私も永遠でなければなりません。
 このような観点で人間の永生は不可避です。それは結果的な帰一点でないわけがないという結論を堂々と下すことができると見るのです。いくら神様に愛があるとしても、私に愛がなく、いくら神様に生命があるとしても、私に生命がなく、いくら神様に理想があるとしても、私たち人間に理想がないならば、すべてが無駄だというのです。(69-74,1973.10.20)

           

 我欲をもってはいけません。先生を中心にして完全に、絶対的に一つにならなければなりません。一つの根です。根を引っ張れば、引っ張られていかなければならないのです。幹や枝は、自分の存在意識をもつことはできません。主張することができません。二つの方向は、あり得ません。一つです。これが勝利的基盤を築き、位置を確保すれば東西南北に自由が広がるというのです。そうしなければ自由がありません。どういうことか分かりますか。ですから自由行動をすることができません。(169-199,1987.10.31)

           

 今までの道人たちは、何を中心に生活してきましたか。イエス様もかわいそうな人です。人間的に見れば何の主張もない人です。夜も昼も神様のみ旨だけをもって、自分の思いはないのです。神様のみ旨の前に絶対服従でした。絶対服従! なぜ絶対服従したのでしょうか。絶対的な主体、円形的な主体がいるにもかかわらず、もう一つの三角形的主体の圏を成したのがサタンなので、そのサタンを取り除くためにそうしたのです。
 今日、人間は、サタン圏の中に隷属しています。サタン圏内に隷属している人間を脱出させるためには、サタンが一番嫌がる道を行かなければならないのです。それで宗教は、「良心を中心に絶対服従しろ」と言うのです。本来は神様が絶対的なので、絶対的な神様を中心に絶対的に一つになるようにしようとするので、宗教世界では、「マイナスになれ」と言うのです。(57-114,1972.5.29)

           

 絶対的に服従しなさい。絶対的に服従することは滅亡することではないのです。服従したらどうなりますか。一つになります。一つになったらどうなるのでしょうか。悪は反発するのです。完全に一つになっているので、悪は反発するのです。それで悪を取り除くことができるというのです。これが原則です。(58-114,1972.5.29)

           

 神様のみ旨には、神様の理想的なみ旨と、人間が堕落してしまったので蕩減復帰しなければならないみ旨があります。二つあるということを知らなければなりません。それではどのようなみ旨の道を行かなければならないのでしょうか。二番目です。それではその二番目のみ旨の道には、天に従って信仰生活をする人たちが自由にすることができる内容が、少しでもあるのかということです。これっぽっちもないのです。(134-117,1985.2.25)

           

 絶対的な信仰をしなければいけません。「統一教会を信じるか」と言う時、「絶対的に信じて行く」と言わなければなりません。(46-99,1971.7.25)

           

 絶対信仰とは何でしょうか。自分が信じているある宗教の指導者がいたら、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い隔たりがありますが、信じる心を中心としては平面的に対等な時代圏内に入ることができます。それで絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じる時、その人と一緒にいるということが分かるようになるのです。また、その人と一緒に暮らしているということが分かるようになるのです。このようなことを新しく認識させて刺激させるためのものが、信仰だということを知らなければなりません。(32-162,1970.7.12)

           

 残るものは何でしょうか。絶対信仰も去り、絶対服従も去りますが、最後には絶対愛が残るのです。信仰と愛と希望、この三つはいつもありますが、その中で一番は何ですか。愛です。信仰も去り希望も去りますが、最後には愛が残るというのです。同じことです。絶対信仰も、みな去ります。(169-130,1987.10.29)

           

 死ぬところでも答えなければいけません。「死ぬ」と言って目を閉じて、「私は、死んだ」と言っていれば、既に別の世界に行っていたということです。飛躍が起こったということです。
 統一教会はそのように発展してきたのです。気が詰まり、息が詰まり、四方が堅く絞められて、地に入ることも天に跳ね上がることもできないその場を、死を覚悟して乗り越えていけば、生きていらっしゃる神様は間違いなく顕現されるのです。
 ですから私には、神様がいるか、いないかということは問題になりません。そして怨讐を消化しなければいけません。怨讐を愛さなければなりません。その道は、易しくはありません。自己否定を何十回、何百回するだけでなく、怨讐を愛せるところまで行かなければなりません。そうでなければ、神側に立つことができません。(126-38,1983.4.10)

           

 宗教は、肯定概念から始めることができません。先祖がそうしたからです。それを否定する第一条件が何かというと、絶対信仰です。分かりますか。では、あなた方は絶対信仰を身につけましたか。ですから苦行の道をなぜ行くのか、その原因を暴かなければなりません。
 今日、文なにがしが来て、宗教の秘密世界をすべて明らかにすることを願うでしょう。なぜ苦行の道を行かなければならず、犠牲にならなければならないのか、なぜ絶対に信じなければならないか、と牧師たちを呼んで三つのことを聞いただけでも答えられず、「それは、信じることによってすべての救いを……」と言うのです。そのような妄想的なサタンの煙幕戦術に引っ掛かってはいけません。(126-36,1983.4.10)

           

 統一教会員たちが蕩減復帰するためには、反対の行路を通じて行かなければならない以上、自己認定、自己肯定から始めるのではありません。完全否定です。完全な宗教は自己否定から、堕落した世界の完全否定から始まります。
 それで世界を否定して、国を否定して、氏族を否定して、家庭を否定して、妻夫、男性女性自体を否定して、私の体と心自体を否定しなければなりません。否定の版図がどのくらい大きいか知らなければなりません。私の心を中心にして体まで否定しなければなりません。(126-34,1983.4.10)

           

 統一教会を信じて福を受けようという考えをしてはいけません。福をあげようという考えをしなければなりません。統一教会自体内の福を、「国と世界のため、もっと大きいもののためにあげる」と言わなければなりません。そのように行く時、レバレンド・ムーンが皆さんの進路に責任をもちます。皆さんの足を私が引っ張りはしません。そのような人にならなければなりません。(130-61,1983.12.11)

           

 表では喜んでいますが、心の中で頭を横に振る人がいます。このようなことを見るとき、良い性稟をもって生まれなければならないというのです。信仰の道において自己と闘って勝つということは、世界を克服することよりも難しいのです。このような観点で見るとき、第一次の十字架は自己を克服しなければならないということです。(46-95,1971.7.25)

           

 では、今まで責任分担の蕩減の役事を、誰が全部しましたか。それをお金で返すことができますか。皆さんの家を売って、国を売って返すことができますか。それでは、何をしなければなりませんか。することはありません。ただ絶対服従です。
 皆さんが20代までは、絶対服従です。20代になる前に、エデンの園でアダムとエバがおしりを振って堕落したのです。自己主張していてです。20代までは絶対服従です。20代前は服従しなければなりません。
 ですから子供たちは、絶対服従です。絶対服従を教えなくても、服従するようになっています。彼らも、もし父母と一つになれなかったならば滅ぶということを知っているのです。神様と一つにならなければ滅ぶというのです。(133-136,1984.7.10)

           

 四大心情圏と三大王権を失ったので、これを取り戻さなければなりません。これを成すためには絶対服従と絶対従順と絶対犠牲を中心として順応し、何をさせたとしても、「すべてをやる」と言わなければなりません。そのようにしてこそ、父母がサタン世界からここに来るのです。
 ですからサタン世界の男性は、天使長なので切ってしまわなければならないのです。そうすれば、ここから上がっていくのです。(235-293,1992.10.25)

           

 カナン復帰路程では、先生についていかなければなりません。雁が大洋を渡るとき、親分雁の前に絶対服従です。異議がないというのです。「飛べ」と言えば、飛ぶのです。死ぬほど疲れても、ただついていかなければなりません。今まで、そのようなことをしてきたのです。今は、目的地に来て雛を産む時です。すべてこのようになっているので、同族同士お互いのために生きて、愛して、一つの族属(同じ姓に属する人)を成して、族属自体を誇ることができる、そういうことをしなければならないのです。これが「今、この時、しなければならないことだ」と言ったのです。今までは、カナンの福地に向かっていく時でした。今は、定着時代に入ったのです。(115-107,1981.11.4)

           

 本当の孝子は、服従する者です。本当の忠臣は、奸臣に追われて死んだとしても、王に対して「無能な王だ」と言うのではありません。奸臣に追われて死にながらも、忠臣の志操でかわいそうな心を抱いて涙を流しながら、王の安泰を願う人が、本当の忠臣です。絶対服従です。絶対服従で成功をもたらせるただ一つの道は、真の愛の道しかありません。(164-48,1987.5.3)

           

 先生は今まで、「ああ、お前たち、先生の言葉に絶対服従しろ」とは言いませんでした。私たちは、歴史的な路程に順応していかなければなりません。歴史的路程とは何かといえば、神様のための摂理的な歴史路程です。
 今まで、皆さんに復帰摂理路程を教えてあげたのは、そのような意味からです。統一教会の文先生のために教えてあげたのではありません。ですから先生も行くのです。主体となり得る神様の目的と、相対となり得る人類の目的に向かって行くのです。その目的を一点で結末を見ることができなかったので、この結末を締めくくってあげようとするのが今日、この時代の統一教会が主張する「統一原理」であり、「統一思想」だということを知らなければなりません。(71-66,1974.4.28)

(2022.4.8:写経奉献)

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