●はじめに
フェミニズム神学は、1960年代からの解放神学の系譜の中にある。
解放の神学は、南米のカトリック教会の神父が、独裁政権下で貧困と人権蹂躙にあえぐ人民を解放する動機で構築した神学である。ところが実践理論として共産主義を取り入れてしまったことに失敗の原因がある。
「解放の神学」の系譜には「黒人神学」と「フェミニズム神学」がある。
これらの神学は、人間本性の回復という摂理的背景で登場したものであるが、サタンの巧妙な思想工作によって、無神論共産主義と手を組んでしまった運動が少なくない。これはフェミニズム運動も例外ではない。
●フェミニズム運動概要を「アベル型」と「カイン型」に分類し以下に整理した。
今回テキストとして、E・モルトマン=ヴェンデル著(著者は著名な神学者ユルゲン・モルトマン夫人)の「乳と蜜の流れる国・フェミニズム神学の展望」を手探りに解明をすすめてみたい。(もちろん原理的に判断すればさんざんな内容で、食口にはお奨めできない。)
■「アベル型フェミニズム神学」その1
神学に「母なる神」を取り戻す
「母なる神」という主題は、韓鶴子女史が「天の父母様」を強調するはるか以前から、既成キリスト教神学でも議論されてきた主要テーマの一つである。以下に引用文を示す。
『母なる神、女性としての神の探求は、この宇宙的なひろがりを許容し、制限的な掟によって娘たちを生の諸領域から締め出すことをしないまことの母をもとめることである。女性としての、母としての神の探求は、私たちの損なわれた母観念、そこではすべてを喰らい尽くす母への不安と依存が決定的な役割を演じている母観念を、乗り越えてゆく。そのような宇宙的で、自然と知恵を代表する母は、男の必要に左右されず、だから自分の子供にも依存を要求せずに無条件に受け容れ、愛するはずだ。女性神の観念は、私たちの父権制的制限と拘束を踏み越えた彼方にある全体的な生の観念の探求なのである。(132頁)』
「母なる神」を取り戻すことは、摂理的な方向性でありなんら問題はない。独生女論の間違いは、母なる神(本陰性の神)を強調し、それを「初臨独生女(女性メシヤ)」の根拠に使ったことにある。
■「アベル型フェミニズム神学」その2
女性の罪の自覚(堕落天使との聖別)
フェミニズム神学のもう一つのテーマが、女性の罪意識からの解放がある。以下に引用文を示す。
『私たちの者会の能力主義的文化では、これらの起源、よい存在であるという原感情は、失われてしまっている。多くの女性にとって ー ある私立神経病院の女性心理学者が述べているところでは ー 「罪悪感は、女という存在の根本悪」なのである。彼女たちは、弁解し、説明し、理解を乞い、あらゆる禍の原因をまず自分自身にないかと探すことが、男性よりはるかに多い。「すでに幼年期の早いころには私は罪悪感というものを識った」と、ある女性は報告している。(213頁)』
神学的には、原罪観に通じる内容だと思われるが、残念ながら、現代神学においては、もはや「原罪」は死語なのかもしれない。心理学的な手法での分析は、逆ぶれすると「性解放」の神学に突き進む危険性を内包している。
根本的な解決策は、キリストとの関係性の中でしか得られないのであるが、その方向性が明確に示されていない。
■「アベル型フェミニズム神学」その3
キリストを迎える新婦圏運動
福音書に示されるように、真にイエス・キリストの心情の相対圏にあったのは女性たちなのである。それは、福音書のクライマックスの次の二つの記事に示されている。
●イエスの十字架に寄り添った女性たち(マルコ15章)
37イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。 38そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。 39イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。 40また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。 41彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
●イエスの墓を訪ねた女性たち(マルコ16章)
1さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。 2そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。 3そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。 5墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。
女性に対する四つの福音書の記述はかならずしも一致しないが、「十字架の絶頂」「墓をたずねる」というイエスのもっとも大切な場面に心情の相対圏にいたのは女性である。(男性の弟子たちが、ユダヤ人教職者から捕縛される危険性があったという事情を差し引いても)やはり弟子たち(男性)は、復帰されていない天使長でしかないのである。
女性のフェミニズム神学者たちは、当然この男性弟子たちのふがいなさを讒訴する。口では偉そうなことを述べる弟子たちも、イエスの再絶頂時には逃げていなくなったではないかと・・・。
残念ながら、この著書に、キリストを迎える新婦圏準備の神学的な記述はない。しかし、原理的にイエス地上降臨の根本目的が、第一義的に女性復帰にあることを、この女性神学者たちは示唆しているように思われる。
■カイン型フェミニズム神学その1
「家父長制」の否定
この本の中で「父権制」という表現で登場する。以下に引用文を示す。
『父権制、男性支配は、70年代になってはじめて、抑圧のこういう多層的な観念に拡大されるようになった。もともとこの概念は社会学から出ていて、「父の支配 ー 男親が家長である社会的構造」を意味する。(中略)これらの両方の観念が、60年代末から始まった女性運動の省察の中で再会して、こんどは女性の経験によって尖鋭化され強化されていった。女性の肉体的、性的搾取と差別こそ他のあらゆる抑圧の原因であるという彼女たちの根本的経験から、《父権制》は新しい内容をいっぱい詰めこまれた。三つの大きな父権制分析が成立し、それらは性倫理=文学の面と、宗教の面と、文化史の面で、男性優位の背景と帰結への注意を喚起した。』(52頁)
原理的に解釈すれば、キリストのみが真の男性であり、その他の男性は堕落天使長の位相にある。女性を創造本然の姿で愛することができる男性はキリスト以外一人も存在しなかった。その女性解放の狼煙(のろし)が、1970年代から始まるのは、1920年真の父の出現と、1960年の真の父母の御聖婚が背景にあることはいうまでもない。
■カイン型フェミニズム神学その2
「聖書の権威」の否定
父権制的な観念を打破する目標は、ついに、キリスト教の経典である「聖書」にまで及ぶ。以下に引用文を示す。
『神学の内容のうちで、解放の神学がほとんど批判しなかったものまで、その男性的表象に対して、その男性的容れもの(聖書)に対して、そのヒエラルキー的構造(教会)に対して、批判的な問いかけがなされている。フェミニズム神学はそれによって、神学のほんとうの革新に着手しているのである。』(108頁)
ここで勘違いしてはいけないのは、著者の意図が「聖書」を全否定しているわけではないことである。プロテスタント神学は、新約にあってはブルトマンの高等批評学の洗礼を受け、聖書を無条件的な「霊感の書」とはとらえていない。複数の執筆者による成立プロセスの中で、「父権制的」な混入物がはいっていることを除却しなければならないという意味なのである。
いずれにせよ、啓示の書としての「聖書」の権威が揺らいでいることに変わりはないであろう。
■カイン型フェミニズム神学その3
「男女平等」「男女同権」(性解放運動)
カイン型フェミニズムの最後の帰結が、「男女平等」「男女同権」の実践運動である。この運動は「性解放運動」にすすんでしまう危険性を内包している。
以下に文書を引用したい。
『だからフェミニズム神学というのは教義学ではない。それは神学上のどこかの位置にはめ込まれることを許さず、それ独自の力学を発展させている。それは第一に運動であって、その運動は一つの共通の目標はあるにしても、さまざまなグループによってさまざまな経験の刻印をしるされている。(中略)神学のおこなわれる新しい場を拓く解放の神学として、フェミニズム神学もやはり、神学的実践におけるのと同様に、学問においても新しい方法を発展させている。フェミニズム神学は、私たちに正当性の認知を得させてくれる一つの道具、社会と教会と神学における女性の抑圧された現実と神の現実を問うための道具となったのである。(中略)1.神学的思考と行動の出発点は、社会的抑圧の経験である。2.神学的省察の中心にくるものは人間の尊厳であり、正義にかなった社会秩序の中で人間が人格として存在しうることである。3.神学とは実践である。(98~106頁)』
本来は、再臨主を迎えるための女性の創造本性回復運動であるべき「フェミニズム運動」が、サタンに侵害され、無神論的男女同権運動に転落していることを、神学者すらも自覚していないのかもしれない。
この事実は現代神学の限界を露呈しているといわなければならない。
●おわりに
「フェミニズム神学」の中には、「神の創造した本然のエバの回復」という原理的主題が存在することは認めなければならない。既成キリスト教神学の中で根本的に解明されていない、創世記に登場し「血統転換プロセス」に関わった女性たちの事績が代表的な例である。
「創造本性の女性の回復」という神由来の原理的な側面と、サタン由来のラディカルな「男女平等」「家父長制の否定」を主張する非原理的な側面の混合が、「フェミニズム神学」の実態なのである。
●本題に戻ろう。
結論として、韓鶴子女史の主張する「独生女論(真の父母神学)」は、フェミニズム神学から何を相続したのであろうか。
「独生女論(真の父母神学)」は、カイン型フェミニズム神学の土台の上に構築され、人(韓国鮮文大学神学部教授たちが)創作した、この地の神学体系なのである。
カイン型フェミニズムは、本来「愛の秩序」のために存在する格位性を否定し、「男女平等」「男女同権」を主張することで、本然の宇宙秩序の破壊をもたらす。
キリスト教の聖書に基づかない「独生女論(真の父母神学)」は、そもそも神学とは呼べない。キリスト教と絶縁してしまった、韓国土着のシャーマン宗教でしかないのである。
天の父母様聖会に、真のお父様は臨在しておられない。
家庭連合信徒の皆様が、家庭連合(天の父母様聖会)の根本的に間違った教義内容に気づき、三代王権に復帰する道を選択しますことをことを祈念してやみません。
祈り。アージュ!
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