
連載【独生女論が家庭連合を滅ぼす】
第八回 神は「天の父母様」なのか、「男性格主体」なのか。
――統一原理の神観から独生女論の神観への転換――
はじめに
第八回では、【独生女論・第七の中心教理】を検討します。
第七の中心教理は、次のように要約されます。
【◆独生女論:第七の中心教理】
絶対者である神は、二性性相の中和的主体、あるいは被造世界に対する男性格主体ではなく、完全に平等な「天の父」と「天の母」である。
この原則によって、神は一男一女のアダムとエバを、位階秩序のない平等な主体・対象、あるいは対象・主体として創造した。
したがって、神は男性メシヤと女性メシヤを、それぞれ独立した救援主体として、別の時期に別の場所に送ることもある。
この教理は、独生女論の中でも特に重要です。
なぜなら、ここでは単に韓鶴子総裁の位相が高められているだけではなく、統一原理の根幹である「神観」そのものが再構成されているからです。
【天の摂理から見た真の父母様の位相と価値】第二章では、基元節以後、神様を「天の父母様」と呼ぶべきであると強調されています。
もちろん、神を父母として理解すること自体は、統一思想において重要な意味を持ちます。神と人間の関係を「父母と子女の関係」として理解することは、統一原理の核心にも通じるものです。
しかし問題は、「天の父母様」という呼称が、統一原理の神観を補足するために用いられているのか、それとも従来の神観を上書きし、独生女論の根拠として用いられているのか、という点です。
本稿では、【天の摂理から見た真の父母様の位相と価値】第二章を手がかりに、独生女論における神観の転換を検討します。
第一の論点
「天の父母様」という呼称は、基元節以後に強く宣布された。
【天の摂理から見た真の父母様の位相と価値】第二章では、二〇一三年天暦一月十三日の基元節が、摂理的に非常に重要な日であると説明されています。
その文脈で、韓鶴子総裁は次のように語ったとされています。
今や名称を変えなければなりません。祈るときに、「神様」を「天の父母様」に変えるのです。「ヘブンリーペアレント」です。
祈るとき、最初に出てくる言葉が「天の父母様」、その次に、「愛する天地人真の父母様」とならなければなりません。
そこから変えるのです。基元節を迎え、私がこのように整理しなければ、皆さんはできません。
ここで注目すべきことは、「天の父母様」という呼称が、単なる表現の変更ではなく、基元節以後の新しい時代認識と結びつけられている点です。
このテキストでは、基元節以後の天一国時代は、神様を「父なる神」とだけ認識する時代ではなく、「天の父母様」として侍る時代であると説明されます。
つまり、神の呼称の変更は、信仰生活の言葉遣いの問題にとどまりません。
それは、神をどのようなお方として理解するかという、神観そのものに関わる問題です。
第二の論点
統一原理の神観は「二性性相の中和的主体」であり「男性格主体」であった。
従来の統一原理では、神は二性性相の中和的主体であり、被造世界に対しては男性格主体であると説明されてきました。
すなわち、神は陽性と陰性、性相と形状を内包する根源的存在であり、その神が被造世界に対して主体の位置に立つという理解です。
この神観では、神の中に男性性と女性性があることは否定されていません。むしろ、神が二性性相を内包するからこそ、被造世界に男と女、雄と雌、陽と陰の構造が現れると説明されます。
しかし同時に、統一原理では、神は被造世界に対して「男性格主体」として表現されてきました。
したがって、従来の統一原理の神観は、
神は二性性相を内包する根源者である。
しかし被造世界との関係においては、男性格主体として立つ。
という構造を持っていました。
ところが、独生女論の第七の中心教理では、この理解が大きく修正されます。
そこでは、神は「二性性相の中和的主体」あるいは「被造世界に対する男性格主体」ではなく、完全に平等な「天の父」と「天の母」であるとされます。
ここに、神観の大きな転換があります。
第三の論点
「天の父」と「天の母」の平等化が、独立した女性メシヤ論へつながる。
独生女論において重要なのは、神を「天の父」と「天の母」として平等に理解することが、単なる神学的表現にとどまらない点です。
この神観は、そのままメシヤ論へと展開されます。
すなわち、神が完全に平等な「天の父」と「天の母」であるなら、地上においても、男性メシヤと女性メシヤは、それぞれ独立した救援主体として現れ得る、という論理になります。
ここで問題となるのは、「真の父母には父と母が必要である」という点ではありません。
家庭連合の信仰において、真の父母が父と母の両方を必要とすることは、従来から語られてきました。
問題は、独生女論において、女性メシヤが男性メシヤの相対ではなく、独立した救援主体として位置づけられる点です。
この論理によれば、韓鶴子総裁は、文鮮明師の相対として真の母になった方ではなく、天の母を実体で顕現する独立した救援主体となります。
すなわち、
天の父が男性メシヤを送る。
天の母が女性メシヤを送る。
男性メシヤと女性メシヤは、それぞれ独立した救援主体として立つ。
という構造が生まれるのです。
ここに、独生女論の神観がメシヤ論を組み替える重要な仕組みがあります。
第四の論点
「天の父母様」は、真の父母論を支える言葉か、それとも独生女論を支える言葉か。
「天の父母様」という呼称そのものは、信仰的に豊かな意味を持ち得ます。
神が単なる支配者ではなく、父母である。
神と人間の関係は、主人と僕の関係ではなく、父母と子女の関係である。
神の愛には、父性的側面だけでなく、母性的側面もある。
このように理解するなら、「天の父母様」という呼称は、統一原理の父母思想を深めるものとして受け止めることができます。
しかし、独生女論では、この呼称がさらに別の機能を持ちます。
すなわち、「天の母」を明確化することによって、地上における「天の母の実体」として韓鶴子総裁を位置づける神学的根拠となっているのです。
【天の摂理から見た真の父母様の位相と価値】では、天の父母様は天の父だけでも、天の母だけでもなく、天の父と天の母が授受作用を通して完全に一体を成した存在であると説明されます。
ここまでは、統一原理の二性性相の理解と接続できる面があります。
しかし同時に、同テキストは、真のお父様を通して天の父に、真のお母様を通して天の母に実体的に出会う時代が開かれたと説明します。
ここで、神観は真の父母論と結びつき、さらに独生女論へ接続されます。
つまり、
神は天の父母様である。
天の父は真のお父様を通して実体的に現れる。
天の母は真のお母様を通して実体的に現れる。
したがって、天一国時代においては、真のお母様を通して天の母に侍る必要がある。
という論理です。
ここに、「天の父母様」という神観が、韓鶴子総裁の天の母実体論を支える役割を持つことが分かります。
第五の論点
「天の母」の強調は、韓鶴子総裁の絶対化と結びついている。
【天の摂理から見た真の父母様の位相と価値】第二章では、キリスト教二千年史において、人類は神を「父」としてのみ理解してきたが、「天の母」を知らなかったと説明されます。
さらに、イエス様を通して人類は天の父に出会うことができたが、独り娘が誕生できなかったため、人類は天の母に出会うことができなかったとされます。
この説明によれば、韓鶴子総裁の独生女性は、単に家庭連合内部の真の母論ではありません。
それは、人類史に隠されていた「天の母」を初めて実体的に現す出来事として意味づけられます。
この場合、韓鶴子総裁の位置は非常に大きくなります。
韓鶴子総裁は、
文鮮明師の相対
真のお母様
真の父母の母の位置
にとどまりません。
むしろ、
人類が二千年間知らなかった天の母を実体で現す方
天一国時代に神を正しく理解させる方
神観そのものを完成させる方
として位置づけられます。
ここに、独生女論の神観が韓鶴子総裁の絶対化と結びつく構造があります。
第六の論点
「天の父母様」神観は、統一原理を補足するのか、上書きするのか。
ここで問うべきことは、単純に「神を天の父母様と呼んでよいかどうか」ではありません。
問題は、その呼称変更が、従来の統一原理の神観をどのように扱っているかです。
もし「天の父母様」という表現が、統一原理の二性性相理解を分かりやすく表現し、神の父母性を深めるための補足であるならば、それは一つの発展的表現と見ることもできるでしょう。
しかし、もしそれが、
神は二性性相の中和的主体ではなく、完全に平等な天の父と天の母である。
したがって、男性メシヤと女性メシヤは独立した救援主体である。
したがって、韓鶴子総裁は文鮮明師の相対ではなく、独自の救済主体である。
という論理へ進むならば、それは単なる補足ではありません。
それは、統一原理の神観・人間観・メシヤ論・真の父母論を組み替える神学的転換です。
この点を明確に区別する必要があります。
「天の父母様」という呼称そのものが問題なのではありません。
問題は、その呼称が、統一原理の二性性相論を深めるためではなく、韓鶴子総裁の独生女性と独立救援主体性を支えるために用いられる場合です。
第七の論点
神観の変更は、信仰の中心軸の変更につながる。
神観が変われば、救済論も変わります。
救済論が変われば、メシヤ論も変わります。
メシヤ論が変われば、信仰の中心も変わります。
従来の統一原理では、神は二性性相の中和的主体であり、被造世界に対しては男性格主体として理解されました。そして、再臨主である文鮮明師が真の父母の父の立場に立ち、韓鶴子総裁を真の母として迎えることによって、真の父母が出発したと理解されてきました。
しかし、独生女論では、神は完全に平等な天の父と天の母として説明され、韓鶴子総裁は天の母を実体で現す初臨独生女として位置づけられます。
その結果、文鮮明師は再臨主として尊重されながらも、韓鶴子総裁の独生女性によって再解釈されます。
すなわち、信仰の中心軸は、
再臨主である文鮮明師を中心とする真の父母論
から、
初臨独生女であり天の母の実体である韓鶴子総裁を中心とする独生女論
へと移動していくのです。
ここに、第七の中心教理が持つ重大な意味があります。
結論:第七の中心教理が示すもの
第七の中心教理が示しているのは、単なる神の呼称変更ではありません。
それは、統一原理の神観を再構成し、その再構成された神観をもとに、韓鶴子総裁の独生女性を神学的に基礎づける試みです。
「天の父母様」という呼称は、それ自体としては、神の父母性を豊かに表現する言葉になり得ます。
しかし、独生女論においては、この呼称が、天の母実体論、女性メシヤ論、独立救援主体論へと展開されます。
その結果、韓鶴子総裁は、文鮮明師の相対としての真のお母様にとどまらず、人類が二千年間知らなかった天の母を地上に実体で現す方として絶対化されます。
ここに、独生女論の第七の問題があります。
それは、神を「天の父母様」と呼ぶことそのものではありません。
問題は、その神観が、統一原理の「二性性相の中和的主体」「被造世界に対する男性格主体」という理解を後景に退け、男性メシヤと女性メシヤを独立した救援主体として立てる方向へ進む点です。
この論理を受け入れるならば、文鮮明師と韓鶴子総裁の関係は、再臨主とその相対という関係ではなく、天の父を現す男性メシヤと、天の母を現す女性メシヤという並列的関係に再構成されます。
そして、天一国時代の中心は、天の母を実体で現す韓鶴子総裁へ移動します。
この神学的転換こそ、独生女論が家庭連合の信仰体系を根底から変えてしまう理由です。
(第八回:おわり)
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