「成約摂理」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●基督は、ユダヤ教・キリスト教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

■天聖經(32) 第5巻「地上生活と霊界」 第3章 霊界

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第3章 霊界

1)肉身をもって体恤可能な霊界

2)霊界はどのような所か

3)霊界の内容と状況

4)霊界の立場と実相

 


1)肉身を持って体恤可能な霊界

 ①霊界と時

 

 今我々が、どの段階まで来たかというと、霊界と肉界を世界的舞台でつなげ得る段階に来たのです。
 霊界と肉界が世界的に一つになり得る場は、静かな場ではなく、世界が揺れ動く場、天地が揺れ動く場です。世の中はできないようにし、天はしようとし、二つが執拗な戦いをして、天が勝つことによってできるのです。それがいつかと言うと、ワシントン大会の時なのです。
 1976年を起点に、サタン世界が神様に対して讒訴できなくなったのです。サタンは直接神様を讒訴できないのです。霊界に行った先祖たちを讒訴することはあっても、神様を讒訴することはできません。
 そして、霊界のすべての霊人たちを動員して、地上にいるサタン勢力を追い出すのです。それで今まで、サタンがやった以上の善なることをできる基盤が形成されるのです。

 「統一教会を信じろ」と教えてくれるのです。イエス様が現れて、孔子が現れて、釈迦牟尼が現れて、ムハンマドマホメット)が現れて、自分の先祖が現れて、統一教会を信じなければ全部霊的に制裁をし、霊的に罰を与えながら追い込むのです。
 霊界が今まで分かれていたのを全部収拾して、今日世界が分かれたのを全部心情的に結んでいくのです。超民族的基準を中心として、ここに世界的代表を集めて、心情的に一つになるこのような運動をするために、霊界も一つになって接触するようになれば、ここから光を発して世界的な運動が大々的に繰り広げられます。
 今までは、西洋の霊界と東洋の霊界は互いに異なっていました。それを、どのようにして一つに結ぶことができたのでしょうか。
 一つの愛によって結ぶことができました。神様の愛を中心として、東洋、西洋の人々を統一教会合同結婚式を通じて、民族として結んでおき、氏族として結んでおきました。
 それゆえに、個人的な基準、家庭的な基準、氏族的な基準、民族的な基準、国家的な基準、世界的な基準をみな築いておきました。天国、霊界は、完全に我々にかかっているのです。(91-162,1977.2.6)

 

 ②これからの時代

 

 最近、統一教会に新しく入ってきた食口たちを見ると、霊的に先生と出会い、教えを受けて来た人たちが多いのです。そのような人たちは遠くない将来に、一国の王になることもでき、一国の大統領になることもできるのです。いつ、どのようになるか分からないのです。全世界的にそのような人たちがたくさんいるのです。これから、アメリカのような国には、一人で歩きながらぶつぶつ話す人が絶えず増えることでしょう。これから全霊界が、地球上に襲撃して入ってくるでしょう。そのようになれば、これを誰が総指揮しますか。これは先生の責任です。(67-77,1973.5.20)

 

 皆さんはこれからいい加減にしては、先生の前に絶対に現れることができない時が来ます。その時になって、先生が霊界の門をすべて開くでしょう。門の前に来ていて、そのような者が現れれば「こいつ、何しに来た」と言いながら、門前から追い出してしまうのです。これからは専門的な面を中心として、世界を収拾する時に入るでしょう。今、世界にはどんな人たちがいるのでしょうか。イエス様の時と同様の人たちが、世界にいるのです。復帰時代である以上、先生がまだ、そのようなことを言ってはいけないために、言わないのです。
 神様はさせませんが、先生の代わりに、ありとあらゆることをする人たちが世界には大勢います。空中を飛ぶ人もいるし、水の上を歩き回る人たちもいるし、千里、万里を瞬く間に行く人が、今、いくらでもいるのです。間もなく先生がそのような人たちを、あのヒマラヤ山脈から、修行の世界から呼んでくる時が来るでしょう。
 そのようになるのに、世界が統一されますか、されませんか。神様の全権が平面化して、再創造歴史に、理想的な愛に呼応できない一切の与件は全部破綻して、新しい世界に入るでしょう。
 これが先生の見る、今後における超感覚時代の世界観です。愛だけが超感覚時代の世界観を形成することができるのです。超感覚時代で愛するようになれば、つかんだまま離そうとしません。神経を越えようとsます。それゆえ、神様の愛だけが、それを平面的に歓迎し得る世界時代に入るのです。
 先生は祈る中で、そのようなことを知っています。皆さんの知らない、そのような何かがあるのです。皆さんに話をしないので、先生は何も知らない人のようですが、みな知っているのです。今がどんな時かというと、実体の体で霊界を完全に支配する時です。先生が霊界の内容をもって、真理と体をもったために、サタンも屈服しなければならず、天使世界も完全に屈服しなければなりません。それゆえ、仏教に精通した人とか、キリスト教に精通した人たちは、全部先生の前に屈服しなければなりません。
 霊通する人たちが、先生が「死ね」と言えば死ぬことができてこそ、実体完成圏をなして、地上天国を開門するのです。
 「その様な世界になった」と思ったとき、仕事をする時があるでしょうか。その時、先生の考えを知ったなら、皆さんはあぜんとするでしょう。「どうして、あのようになったか。どうして私があの様にしたか」と、そういう時が来るのです。冗談ではありません。恐喝、脅迫ではないのです。そのような時が来ます。統一教会の食口の中にそのようなことが起きるでしょう。(60-194,1972.8.17)

 

 ③霊的体験も必要

 

 皆さんは涙を流しながら、「私はこの顔では、そのまま帰れません。死ぬことがあっても、帰れません。死ぬよりもっと悲惨です」と、その様な祈祷をして回らなければなりません。皆さんが祈祷しながら霊的体験をたくさんすれば、復活するのです。
 皆さんが考えに先立って、いつもそのような心情で立ち上がるようになれば、神様が役事するのです。皆さんが話して教えるすべての言葉の前に、神様の心情を感じるべきです。言葉のあとに立つのではなく、言葉の前に神様の心情が先立たなければなりません。それゆえ、いつも謙遜でなければならないのです。
 ですから、自分は何とも言えないほどに、後ろに行かなければなりません。そうなれば、神様の心情が前にあるのを感じるのです。それは何ですか。自分を常に導いていくのです。そのような立場に至れば、多くの群衆が集まっても、みな教育することができるのです。
 そこでは何だか分からずに、全部教えてくれます。それでも自分が言う声なので、自分の耳にも聞こえます。自分が話す声を聞けば、不思議なのです。その境地に至れば、言いながらジェスチャーをしても実に自然なのです。どんな表情をしても、それがみな自然なのです。ぎこちなくありません。そのようなことを感じながら働いてこそ、生命の運動が繰り広げられるのです。(96-168,1978.1.3)

 

 霊的世界を体験するということは、四次元の世界に通じるということです。また、そのようなとき、何千年前に生きて死んだ先知先烈たちも、今日の自分と因縁を結んで対話することもでき、相談もするというのです。すなわち、今日、実際の生活的な時間圏内で、自分が経験することができ、また肌で感じることができるのです。(4-225,1958.5.4)

 

(2021.11.29:写経奉献)

 

 ④霊的体恤の過程


 我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。
 主体は確定していますが、「私」は感じることができないのです。我々が五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、「私」から調べなければなりません。「私」という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。
 今日、堕落した我々人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。全部が同じではないのです。それは、なぜそうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平行線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないというのです。
 そうするには、どのようにすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に「私」が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。必ずあるということです。
 我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その方向や力や量の対比を定めるのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。
 では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」という言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる「私」にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。
 それゆえ、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。
 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。
 そのように、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間によくできるかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。よくできるというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。
 皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきでしょうか。心を磨かなければなりません。
 神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意を中心として広がった宗教もあります。これらが全部混ざっているために、それをより分けて行くということは、限りなく難しいのです。
 このような結果と同様に、我々の心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ! 私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。
 それゆえ、信仰生活で一番重要なこととは何でしょうか。心の門をどのように合わせるかということが、信仰生活で最も重要な問題です。それゆえ、皆さんが信仰生活でいつも注意すべきことは、心の門が開く時を知って、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければならなりません。随時、探して合わせる生活態度が必要です。
 それゆえ、いつもその深度を見極めていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
 だんだん、この相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。
 昔は、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。それゆえ、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、我々の心の世界も、回りながらそのように変化する感度を感じるようになっています。
 1年を見ると春夏秋冬があり、1年を縮小したのが1日ですが、1日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。
 このように、春夏秋冬の季節的な形態が、1日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝でも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じることができます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも、相対的なその単位の形態を備えているのです。
 我々の心もそれと同様です。それゆえ、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのが分かればいいのですが、分からないのです。冬だ、ということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ! 今、このような時に処しているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。
 そのような境地に入るようになれば、どのような現象が起こるのでしょうか。我々の言葉に暗示という言葉があります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀にとまっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれることが起きるようになるのです。
 実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるようになります。このような事実が、だんだん多くなるのです。
 この段階を過ぎるようになれば、どのような形態が起こるでしょうか。夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も深い眠りの中での夢ではありません。パウロも、夢うつつの間に「第3の天」を体験しました。
 そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出せと言うのです。必ずその結果が現れます。それゆえ、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、100パーセント的中するようになります。そんな体験があるでしょう。
 夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。私が夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、横で誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。これはどういうことを言うのかと言うと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることを言います。音叉というものがあります。共鳴することができる圏内に入ることを言います。このようなことを、限りなく貴く思わなければなりません。
 そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。
 皆さんが、そのようなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できていないからであり、体に引きずり回される人になっているからです。その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。
 祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞くのです。そのような境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。
 それゆえ、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように求める心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。
 それゆえ、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。
 肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そのような形態が繰り広げられるのです。
 我々の体には、触覚のようなものがあって、全部接触します。それで、見えない電波のようなものを発射して、対象を探しています。
 それゆえ、信仰する人の態度は、全部自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、全部切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、我々が再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させ得る作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。
 皆さん全部が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」というのが分からなければなりません。「良いことがあるから、そのごとく良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それゆえ、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすと言うのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。
 その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、我々は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。
 それゆえ、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が1対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな幻想が繰り広げられるのです。
 そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。我々の心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。でこぼこしているのです。形は水平のような面をもっていますが、それ自体はでこぼこなのです。でこぼこしたここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。それで、全部が違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。
 啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。1日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達することができます。
 皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、我々の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。それゆえ、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤的な信仰が高貴なために、啓発していかなければなりません。
 我々食口たちは、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用のように入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、我々の意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪れて入るようになれば、我々の体が、堕落性を持っているために、必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになります。
 それゆえ、堕落した人間の前に、ある神の性稟が強力に入ってきても、自然に純化する立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス、マイナスのように、音波も強弱で伝播していくように、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。
 このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が、それに純化して自然に100パーセント受け入れられるように成るのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けながらも、寸分の狂いもないのです。このような現象の過程を経て、純化する立場にまで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。
 皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとしているのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良いことをその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。まかり間違えば、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければなりません。
 このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことによって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉にも左右されません。体恤と実践、これは我々の信仰生活に最も必要なことです。
 そのような境地に入るには、どのようにすべきでしょうか。大概、我々人間は二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは、思いで把握する人です。それを我々統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。
 そのような立場にあるために、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様!」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいと言うのです。そのような人がいます。
 大概、霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大概、信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。
 世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に百発百中する、そのようなことが起こるのです。これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのです。パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、全部否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。
 それゆえ、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界では指導者になれません。
 我々人間には、2種類がありますが、自分はどのようなタイプの人かということを知るべきです。大概、霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では大きくありません。初めは太くとも、細くとがるようになれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ我々は、これを調整する生活をしなければなりません。
 祈祷と真理、神霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平衡をつくって和する場に入れというのです。我々人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立つことはできないのです。(76-125,1975.2.2)


 ⑤霊的感覚の発展方法


 ある人を恋しく思う心情をもっていれば、その人に接することができないように塀で妨げておいても、その塀を乗り越えるということが起こります。
 先生が口をつぐんでいても、そのようなことが起こります。霊界からその間隔を埋めてくれます。私が興南の監獄にいる時も、言葉では伝道しませんでした。無言で伝道したのです。霊界が動員されて、協助してくれました。してくれなければ大変なことになるためです。同様です。それゆえ、皆さんが地方に出ていっても、このようにしなければなりません。先生は1960年代に、名が知られた所へはみな行ってみました。
 きょう、道を歩いていて、「どのような人に会うだろうか」と考えなければなりません。最初に会う人はどのような人か、2番目に会う人はどのような人か、3番目に会う人はどのような人かを考えて、「お父様、どのような人ですか、私はこのような人に会うのを願いますが、どのような人ですか」と祈らなければなりません。自分が考えて、祈ったその基準とぴったりと合うなら気分がいいのです。このような体験をすることによって、皆さんの霊的触覚が発達するのです。
 そのようになれば、道に出ると「きょうはこのような人に会うだろう」という感じがするのです。人の霊は、無限に通じるのです。「きょうはこのような人に会うだろう」と思い、実際そのような人に対するようになれば、「ああっ!」と言ってびっくりするようになります。このように、自分の思いと霊界から教えてくれた霊感が、実際の事実と一致するときが多いのです。このような体験を積んで、上がっていかなければなりません。(30-150,1970.3.21)


 ⑥君臨(実体役事)


 霊と肉は、本来、真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようになってはいません。それゆえ、真の愛の起源を探さずには、これが一つにならないのです。その立場を皆さんが越え、天の祝福を願って行かなければなりません。
 寂しい立場に行くほど、なぜ天が近くにいらっしゃるのでしょうか。世の中の愛を忘れ、天の愛の圏内に入るので、天が近くに来るのです。天が直接的に現れて関係するのです。神様の直接主管圏内ということです。神様が現れても、皆さんは分からないために、先生が現れて代身になるのです。そのように直接主管を受ける圏内で生きなければなりません。(91-184,1977.2.6)


 皆さんは、先生とどのような因縁がありますか。祈祷の中で、あるいは夢の中で、先生を毎日見なければなりません。世界の統一教会の信者は、そのような体験をみなしなければなりません。霊界に対して知らなければならないのです。また、目を開けても、先生をみな見なければなりません。そのような人もいるでしょう。それで、これは歴史始まって以来、世界に初めて起こることです。それは、前にもなく、あとにもないことだというのです。
 そのことがだんだん強くならなければなりません。アダムとエバが堕落する以前に、神様に干渉を受けたのと同様に、皆さんの生活圏を先生が干渉しながら、全部指導してあげるのです。
 先生が「せよ」と言うことを、うれしい心で、浮かれて動けば、その世界に入るのです。先生は、一番難しいこと、できないようなことをさせましたが、「先生よりもっと楽しんでしよう」と言えば、その世界に一遍に入るのです。自分の生命を捧げてその場に立ち上がれば、一遍に先生が指導してあげるのです。(91-174,1977.2.6)


 我々統一教会の信者たちは、祈祷や夢のお告げの中で先生から指導を直接受けなければなりません。我々食口たちの中には、どこへ行っても、その立場で先生の指示を直接受ける人たちがたくさんいます。
 イエス様の時以上に実感のわくことがたくさん起こります。我々統一教会の信者たちは、先生に直接侍って暮らすのです。それで統一教会では、イエス様の時にあったこと以上のことが時々あるというのです。そのようなことがあるために、世界が統一教会と一つになることができるのです。
 今日、この死亡圏を通り過ぎようとすれば、決死的な祈祷をしなければなりません。祈祷は、一瞬だけするのではなく、24時間しなければなりません。このような自由な時代に、そのような体験をできずに直接侍りながら暮らせない人は、かわいそうな人です。
 祝福を受けた人は本来、そのような基準と経験があって、そのような内容に全部結びついていなければなりません。本来は、先生と霊的に接ぎ木して、一つになってこそ祝福対象者として祝福を受けることができるのです。(31-331,1970.6.7)


 我々は、「神様の心情」を言います。神様の心情は、どこにあるのでしょうか。祈祷の中で声を聞いてみれば、「先生の言葉をよく聞け。先生を悲しませてはいけない。先生を喜ばせてさしあげなさい」と言うのです。それしかありません。そのように教えてくれるのです。そして、先生に会いたくて眠らずにいると、霊界が開いたというのです。それゆえ、体恤がなくてはいけないのです。(76-152,1975.2.2)


2)霊界はどのような所か

 ①霊界と肉界

  イ)霊界、肉界の中心


 皆さんは、霊界について相当に気掛かりでしょう。世界には、多くの宗教がありますが、その宗教が行く道は、霊界と関係を結んで、永生という世界、永遠に生きる世界、すなわち神様と共に生きる世界を探して行くのです。そのような世界が宗教の目的地です。
 しかし、今になっては、宗教はどのようになるでしょうか。だんだん脱落して、「宗教は、弱者たちが信じるものだ。我々人間に必要ないものだ。それは道義的な一つの表象として、人間たちが操作しておいたものだ」と、このように結論を下す時代に入ってきました。
 宗教の中心になるキリスト教だけを見ても、そのようになりました。アメリカが全世界のキリスト教国家の代表国ですが、そのようなアメリカの家庭で育った人たちが、宗教を離れて、今まで自分勝手に暮らしています。
 世界の中心であり、すべての理想の中心が神様なのに、その神様がいらっしゃる霊界を中心として理想を描いたそのようなキリスト教の中にいて、なぜ出てくるようになったのでしょうか。
 第一の原因は、永遠の霊界があることをはっきりと知らなかったからです。知能をもった比較の能力がある人間なので、良い所があれば、悪いものを捨てて、そこへ行くようになっています。より次元の高い価値のある所があれば、そこに行くようになっています。それが人間の本性です。
 第2の原因は、神様を知らなかったからです。
 第3の原因は、霊界の中心になり、神様の中心になる愛と関係を結べることが分からなかったからです。この三つが分からなかったのです。たとえ神様を知り、霊界を知ったとしても、愛を中心とした世界ということが分からなかったのです。
 愛がある所では、上がっても良く、下がっても良く、間にいてもいいというのです。愛する夫が自分より高いといって嫌だと、愛する妻が自分より低いといって、それを憎みますか。一つになれば、自由に低い所から高い所に上がることもでき、高い所か低い所へ下りてくることもでき、中間にいることもでき、どこでも行くことができます。制限がありません。それで世の中では、「この世界は、一つの世界であるべきだ。統一の世界であるべきだ。平和の世界であるべきだ」ということをよく口にするのです。(91-140,1877.2.6)


 霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。我々が普通考える堕落した人間は、神様が中心になっていません。
 人間は、心と体から成っていますが、それは違います。次元が違うのです。心と霊界は違うのです。霊界と肉界とは、神様の愛を中心として言うのです。したがって、霊界と肉界が一つになるためには、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛を介在せずには霊界はありません。神様を中心として霊界というものがつながるのです。
 皆さんには良心があります。良心と霊界は、どのように違いますか。心と霊界は、どのように違うのですか。「自分の心も霊だろう」と、このように考えるかもしれませんが、混同しています。
 心は霊界ではありません。堕落したために、心は霊的世界と関係を結んでいません。いわば、骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心です。「骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心である」と考えれば実感がわきます。骨のない人のような形態が、堕落した人間たちの心というものです。
 霊人体を見ると、霊人体も体的な要素があり、心的な要素があります。霊人体の心のようなものが、霊的世界です。それは必ず神様と関係を結んでいます。それゆえ、神様と関係を結ばずには、霊人体の心のようなものが生じないのです。
 霊と心が違うということを知るべきです。心は、神様と関係ないのです。神様が離れたのです。神様ご自身が関係することができません。神様が直接主管できないのです。皆さんの心は、「ああだ、こうだ」と変わります。
 しかし、霊的世界、霊的存在は変わりません。それは、永遠に一つの目標を立てて、絶えず行くのです。それは、なぜそうなのでしょうか。神様の側に立っているためです。心は、人間内に属しています。行ったり来たりする人間内にいるのです。
 皆さんは原理を習っているので分かるでしょうが、生心とは何でしょうか。生心は、心と霊と合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになり、理想的な自分をつくり上げ得る動機的心です。それで、その生心がなくては、霊界と真なる愛と関係を結べる、自体の根源を探すことができません。
 生心が自分に生じれば、体も喜び、全部それについていきます。自動的にこれらが一つになるのです。今まで、人間において一番問題になることとは、体と心が互いに離れているということです。霊的な力が自分に臨んで生心的起源にさえなるようになれば、心と体が自然に一つになるのです。そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、我々は理想を尋ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てくるのです。
 宗教は生心を植えておこうということです。生心を中心として多くの宗教があります。ありとあらゆる形態があるのです。(91-142,1977.2.6)

 

(2021.11.30:写経奉献)

 

■天聖經(31) 第5巻「地上生活と霊界」 第2章 死と霊界

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第2章 死と霊界

1)人生必然の道

2)死に対する理解

3)高い霊界に行くには

 

 

1)人生必然の道

 ①永生と距離が遠い体

 

 地球も息をして運動をするのです。皆さんの細胞も息をします。皆さんは、地上で永遠に暮らしますか、無形の愛の実体になった所で永遠に暮らしますか。無形の愛の実体になった世界で永遠に暮らさなければなりません。神様がご自身を見せてあげたいと思われても、皆さんの体では神様を見ることはできません。ですから、霊人体が必要なのです。
 見えない精神の中心が神様なので、神様は相対的存在である人間に、ご自身が創造した永遠の理想圏を全部与えたいのです。(111-112,1981.2.1)

 

 ②大部分の生涯

 

 今、我々は、知る知らないにかかわらず、ある所に向かって進んでいます。私が動いている時間にも進んでいて、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって今、進んでいるのです。これは、否定することのできない事実です。
 一生を経たのちに、自分はどこへ行くのでしょうか。これが、人間たちが解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身も、このような運勢に引きつけられ、率いられていっているということを、否定することができないのです。
 では、いずれ行くべき自分自身だというのに、この体はどこへ行こうとし、この心はどこへ行こうとするのでしょうか。また、この生命はどこに向かって傾いていて、自分の心情はどこに行こうとするのか、自分の願い、あるいは希望と理念は、どこへ行こうとするのでしょうか。この問題を解決できなかったとしても、我々はいずれ行くべき運命に置かれているのです。
 我々が生きて死ぬ日、この体は土に埋められて終わるのです。それなら、体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは希望までも共に埋められてしまうのでしょうか。ここに、内容と、解決点と、目的観を提示しておかなければなりません。
 それで、行く歩みをつかまえて、動く心と傾く心情を妨げておいて、「お前はどこへ行くのか」と聞いてみて、これを解決しようと闘ってきた人達が、聖賢、賢哲であり、数多くの道主たちです。彼らはそれを解決するために出てきたのですが、今まで「私の体はこのような所に行き、私の心と私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走っていく。ゆえに、全天下に存在するすべての存在物は、ここに向かって行け!」と、自信をもって命令した人はいないのです。(8-194,1959.12.20)

 

 宗教は、私的な欲望から出発したこの世の中が滅びるのを願います。公的な世界を、一つに統一された平和の世界を、数千年前から待ち望んできたのが宗教です。
 では、宗教人は、どのように生きるべきでしょうか。自分たち夫婦だけでおもしろく生きることより、もっとおもしろく生きることができるのは、この歴史的距離を短縮させ、世界とつなげて、天宙とつなげて生きることです。そのような家庭が、解放された家庭なのです。また、その家庭は、絶対的な家庭にならざるを得ないのです。
 明洞の街を歩いてみると、若い男女たちは仲むつまじいのです。それは誰のためにそうなのでしょうか。一度しかない若い青春時代を楽しむためだと言って、仲がいいというのです。では、その楽しむことにおいて、主人は誰でしょうか。これが深刻だというのです。皆さんは、いつまでも楽しむ事ができますか。20代から楽しく60、70、80歳と過ぎるようになれば、楽しいはずはないのです。
 しかし、統一教会式は違います。食べるのも何のために食べますか。世界のために食べるのです。悪なる世界をなくすために食べるのです。見るのも、悪なる世界を討ち払うために見るのです。悪の側になるために見るのではなく、悪を討ち払うために見るのです。聞くのも、考えるのも、歩くのも、行動するのも、全部世の中と違います。(36-72,1970.11.15)

 

 もし、人を、何日間かいてなくなる、そのような存在として創造したなら、神様は絶対者ではありません。神様は、人間を永遠に見ていたい、貴い存在として創造したのです。
 人間が神様の喜び得る対象なのに、神様が永遠であるなら、人間も永遠であるしかありません。そして、永遠な神様は、永遠の世の中を相手にするのです。
 ところで、「80年生きればいいだろう。死んでしまえば終わりだ」という考えで、今まで生きてきた人たちがたくさんいます。
 しかし、歴史路程を通じて考えを深める人たちは、「どのようにすれば人が死なずに永生することができるのか、もっと生きることができる道はないか」という考えをもちました。志を抱いたことがある人であればあるほど、「人生とは何か。人間はなぜ生まれて旅人のように逝くのか」と言い、「人生は苦海」とか、「草露の人生」とかと言いました。
 しかし、永生することができるなら、そのように悩む必要はないのです。(39-229,1971.1.15)

 

 ③死は人生必然の道

 

 皆さんは、いつかは霊界に行かなければなりません。間違いなく霊界に行くのです。大韓民国に訪ねてくるのに、金浦空港に降りたからといって大韓民国に着いたわけではありません。金浦空港からどこへ行くのでしょうか。全羅南道に行くか、慶尚南道に行くか、平安道に行くのか。平安道に行って、またどこに行くのでしょうか。郡を訪ねなければなりません。また郡でもどこへ行くでしょうか。面を訪ねていかなければなりません。また面に行って、どこを訪ねていきますか。里です。里でも、ある班を訪ねていかなければなりません。簡単ではありません。自分の居所を確定づけられない人間たちが出世して、何をするのでしょうか。問題です。
 神様が霊界から呼び出し命令をすれば、文先生も、きょう偉いとしても、あすの夜に連れていけば逝くのであって、他に方法がありません。どんなに大きなことを言っても、逝くのです。私が大きなことを言いながら逝くにあたっては、正しいことを言って逝くのです。国が行くべき道を提示しなければならず、世界が行くべき道を提示しなければなりません。誤ってやれば死ぬのです。(177-42,1988.5.15)

 

 ④生命の主人は神様

 

 先生の起源は何でしょうか。「私」ではありません。先生の起源も「私」を超越したものでなければならず、目的も「私」を超越したものでなければなりません。「私」の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったというべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出することができるのです。「私」の生命を超越的な動機に結びつけなければなりません。「私」の生命の出発は、「私」から始まったのではありません。
 絶対者であられる神様から出発したのです。自分を超越的な動機に結びつけるようになれば、死んでも超越的な過程で、神様のみ旨によって死ぬようになるのです。(36-64,1970.11.15)

 

 人間は、何千年、何百年生きるのではありません。百年ほど生きて、皆死にます。数多くの歴史時代を経てきながら、多くの我々の先祖たちが死んでいきましたが、全体に良いこと、全体の利益を考えたなら、百年生きたことが、千年たってもそのまま残されたことでしょう。ところで、個人を中心として歩みながら、全部滅びました。全体を滅ぼしてしまうのです。
 そのような人生の暮らしをしてきたために、問題が起きたのです。ここで一番問題になるのは何でしょうか。自分を中心としたすべての測定方向を、どのように全体測定方向に代替するか、自分第一主義を強調していたのを、全体に利益になるように、どのように投入するかということです。
 それで、個人主義、自体の利益を追求する人生行路の出発を、ひっくり返さなければなりません。ひっくり返すには、ただそのまま、何もなくひっくり返してはいけません。
 1着しかない服を着ているのに、これを誰かが脱がそうとすれば、死んでも脱ぐまいとするのです。春夏秋冬の服を持って、春に冬の服を着れば、春服を持っていき「これは冬の服だ、脱ぎなさい」と言い、夏に春服を着れば、夏の服を持っていって「脱ぎなさい」と言うべきなのです。そのようなことを知らなかったのです。代替し得る、より価値があるものが何かを知らなかったのです。(200-91,1990.2.24)

 

 この地上には父母がいて、師がいて、親戚がいます。この地には、そのような因縁を結んでいくことができる道がありますが、霊界にはそのようなものがありません。
 霊界では、すべて神様を中心として全体のために暮らすのです。位置がすべて区別されています。それゆえ、上にいる人が下に来ることもできず、下にいる人が上に行くことも難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行くことができるようになっています。一度あの世に入れば終わりです。どちらにせよ人間は死にます。
 生涯の路程は、あまりにも短いのです。霊界の時間では、8時間にもなりません。永遠の世界の時間で考えれば、8時間にもならないのです。
 ですから、真の愛の力は偉大なのです。真の愛の速度は、我々が認識できないほど速いのです。(205-65,1990.7.7)

 

(2021.11.23:写経奉献)つづく。

 

2)死に対する理解

 ①「亡くなる」という言葉の意味

 

 間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界はあり、我々人間は、霊界から生まれたために、霊界に帰らざるを得ません。
 韓国の言葉の中で、おもしろい言葉は「トラガンダ(帰る、亡くなる)」という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは、亡くなることではありません。出発した本処に帰るということです。その出発が共同墓地ではないというのです。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰るということです。
 人間が帰る(亡くなる)ということは、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡くなる)ということを言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰るというその道ではないのです。我々人類の先祖の根源の世界に帰るのです。それは何を言うのでしょうか。創造主がいらっしゃるなら、その創造主がいらっしゃる所に帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るのです。
 宇宙は、循環作用をします。山に積もっている雪が解けるようになれば、小さな渓谷を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入るようになれば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。
 循環運動をします。帰ろうとすれば、どこに帰るのでしょうか。高くなれる所に、もっと良くなれる所に帰ることを願います。誰も小さくなることを願いません。しかし、すべての自然界の運動法則というものは、作用すれば小さくなるようになっています。作用すれば、だんだん小さくなるのです。我々が何かを転がしてみても、それが永遠に転がらないのです。早く転がって、だんだん遅くなり停止するようになります。(141-269,1986.3.2)


 ②我々が行くべき所


 我々は、この世の中に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界もあります。この世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながっています。
 では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきその所とはどこでしょうか。もちろん我々は、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かっているのです。一般の人たちは、世の中に生まれれば、10代、20代、30代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして、壮年時代に入るようになれば、だんだん一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るようになるのです。このように沈む日のように、一生を終えます。
 しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生はちょっとの間であり、死んだのちに我々が迎えるべき世界が永遠だということを知っています。ゆえに、一生は、永遠の世界への準備するための期間です。(140-121,1986.2.9)


 ③亡くなる日は貴い日


 アダムが生まれた日と成婚の日、そして、亡くなった日を記念する、世界的な統一圏が形成されていたなら、そのような日々を記念する人類は、一つの兄弟になり、一つの民になったでしょう。すなわち、一つの世界に暮らす人間になることができたということです。そのようになっていたなら、アダムが生活したすべての風習は、人類歴史に継承されたであろうし、その時に形成された文化は、永遠に継承されたでしょう。(31-231,1970.6.4)


 ④二つの死


 皆さんがいくら「死なない」と言っても、死ぬ時になれば死ぬのです。霊界に行く人にも種類があります。自分の寿命どおりに生きて行く人と、自分の寿命どおりに生きられずに行く人がいます。自分の寿命どおりに生きられずに行く人にも、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために早く死ぬ人がいます。
 もしある町内で、屈指の若者が3人だけ死ぬようになれば、その町内には福が来るというのです。ある一族を例に挙げるなら、その一族から期待を受けた若者が、3人だけ死ぬようになれば、その一族には福が来ると言うのです。すなわち、蕩減を払わなければならないということです。どこでもそうなのです。因果法則はどこでも作用します。
 神様が、千人の価値をもった一つの存在を中心的な立場に立てて、代わって死の道を行かせたとき、千人がその人の恩徳の前に感動して、その人を慈しみ、その人の生涯を見習い、その人のように生きるというようになれば、その民族はその人のような恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の思想を見習おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入るためにそうするのです。
 昨年も何人かが霊界に行きましたが、今年も何人かが霊界に行くでしょう。言いはしませんでしたが、先生は既にみな知っています。これはなぜそうなのでしょうか。1段階越えていくときには、必ず蕩減を払わなければならないためです。(33-10,1970.7.28)


 この地上に生まれた人間たちの中には、希望をもって生きる人たちがいて、希望をもてずに生きる人たちがいます。しかし、希望は人間を中心とした希望と、天を中心とした希望の二つがあります。我々は、生まれたその日から、母の懐の中が何よりも自分に一番いいものと思って育ちますが、母の懐を離れ友達と付き合うようになると、友達が一番いいものと思って過ごします。しかし、結局は友達とも別れてしまうのです。
 それで、人間たちは、だんだん育ちながら、愛する父母も自分の希望の全体になれず、愛する夫婦も自分の希望の全体になれず、さらには、愛する子女も自分の希望の全体になれないのです。
 人間たちは多くのことを希望しますが、その心が薄れてなくなってしまうのです。家庭に対する希望、あるいは国家に対する希望、さらには世界に対する希望をもっていますが、年齢が多くなるに従って、その希望をもった心がだんだん弱くなっていくのです。
 地上に生きている人間たちの中に、その希望を自分の全体の希望として誇り、自分の生命を失うことがあっても、それを離れては生きられないという確固たる信念をもって生きていく人は多くありません。人間は、そのように生きて、最後には死と戦って越えなければいけない運命に逢着するようになります。
 人間は、一生の間、すべての希望を抱いて生きますが、のちには死にぶつかり、自分が抱いていた希望をみな捨てたまま行ってしまうのです。きょうも生きるのを願い、あすも生きるのを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかるようになるときには、希望をもてなかったまま、絶望しながら最後の道を行くのです。
 人間が自分を中心として見るときは、希望をもっているようですが、死の峠を越えることができる希望をもてずにいます。そのような希望をもてなかったまま、消えています。これを人生の手本と思って死んでいくのでしょうか。そうでなければ、死もあざ笑って、一つの希望を探して行くのでしょうか。これが今日、地上に生きている人間たちが考えなければならない、重要な問題です。
 今日、世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界あるいはある主義も、みな過ぎ去ってしまいますが、最後に残されるものとは何でしょうか。死と戦って勝利することができる一つの希望です。我々にそのような希望がなければ、人生の敗北者です。
 反面に、生まれながら世の中の人たちが願う一切の希望を拒否し、人間的なものを一切拒否し、天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群れがあります。
 天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望をもって死の峠を越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら生きることができるようにするために、無限に苦労されました。それゆえ、信仰生活をする人たちは、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立つことができる永遠の希望の世界を夢見て生活すべきなのです。(6-14,1959.3.22)


 ⑤死の意味


 「死」という単語を使った目的は、人生の意味を知るためです。では、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。生きようとする人は分かりません。死の窮地に入って、生死の岐路で、天にしがみついて人生の価値を打診してみた人でなければ分からないのです。(74-243,1974.12.31)


 今日世の中には、睡眠薬のようなものを飲んで自殺する人がたくさんいます。それは、女性が多いですか、男性が多いですか。女性が多いのです。なぜ女性が多いのですか。女性は一方的にしか考えるすべを知りません。
 男性はどんなに見劣りしても、あれこれと考えるすべを知っています。女性は決心が一つしかありませんが、男性はああだこうだと考えて、死にそうな道を避けていくのです。ですから、女性より男性に自殺が少ないのです。(222-70,1991.10.28)


 ⑥死は3世界を連結する過程


 「私」も神様に似ようとし、そして「私」が神様の息子、娘であるなら、神様も似させたいという観念をもつのは必然的です。ですから、「私」は神様に似たいし、神様は「私」を連れていきたいのです。これを可能にし得る道を模索するでしょう。それで人は、再び神様と似ることができる体を着て生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。そのような人として生まれる日が必要です。それが何ですか。死です。
 では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。それゆえ肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神様の愛の世界のためにそうするのです。
 神様の愛の中で生まれることが、死ぬことですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入し得る喜びを迎えることができる瞬間が、死ぬ瞬間です。ゆえに死ぬ瞬間が、第2の出生の瞬間です。
 そうであるなら、神様は、皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第2の無限の世界の愛のために活動する子女として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱せずには、神様と関係を結ぶことができないないからです。(116-172,1982.1.1)


 人は、蘇生、長成、完成時代を経ます。腹中の水の世界、地上の地球星世界、天上の空中世界で暮らします。言い換えれば、腹中の水の時代、地上に生まれて生きる100年の地の時代、飛んでいく空中時代、このように3時代を経ます。(116-174,1982.1.1)


 人は生まれるとき、一番深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水の中の時代です。赤ん坊がお母さんの胎中にいるときは、水の中に浮いています。水の中に暮らすために、水を吸って送り出さなければならないので、赤ん坊はホースをおなかにつなげて生きるのです。
 赤ん坊は、栄養分をどこから供給されますか。へそから供給されます。へそが口なのです。ですから、それをばかにしてはいけません。「へそや、お前は昔苦労した」と言い、たたいてやれというのです。へそをたくさんたたいてやれば、健康になるのです。そのように運動しろと言うのです。へその運動をたくさんすれば、健康になるのです。いくら寒い部屋で寝たとしても、へそだけよく覆いかぶせて寝れば下痢になりません。腹中では、皆さんの口はへそです。この息をする器官が、へそを踏んで上がるのです。その次の口は何ですか。この口です。絶えず上がるのです。
 では、へそにつながった緒を、どのようにすべきでしょうか。切ってしまうべきです。同じです。空気の世の中では、霊人体が体にくっついて、胎児のように肉身を吸い取っているのです。そうして肉身が老いれば、捨てていくのです。胎児が生まれて、お母さん、お父さんの前に愛の対象になるように、霊人体が、霊的父である永遠の神様と相対することができる人として、再び生まれなければならないのは、原理原則です。
 胎児が生まれて、お母さん、お父さんと友達になることができる所が、地上世界です。お母さん、お父さんと、愛を共にすることができる地上世界に生まれるのと同様に、霊的に無限の世界に通じることができる父母の代わりの神様と、愛を分かち合うことができる霊界に生まれなければなりません。(299-69,1999.2.4)


 水の中の時代があり、陸地の時代があり、飛んでいく時代があります。今日、人間が飛んでいくのをどれほど待ちましたか。飛んでいくというなら、世界で一番の注目の的になります。(49-284,1971.10.17)


 地上で愛を呼吸する人は、死んだのではなく、生きているのです。腹中で呼吸するときは、パイプ装置を通じていました。生きていますが、へそにつながった胎盤を破壊して生まれ出るようになるときは、新しい次元、高い次元に上っていきます。高い次元で供給されるのです。空気を供給されて出てくるのです。
 腹中から出て何を発展させるのでしょうか。空気ではなく愛です。愛の要素を受けるということです。御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べていれば、死んでいくのです。水を飲んで、皆このように生きるのは、全部袋、水袋です。全部死んでいくのです。それは、第2の存在です。地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。(139-214,1986.1.31)


 この地上で、皆さんに必要なものとは愛です。お母さんとお父さんの愛を受けられない子供を、なぜ「孤児」と言うのでしょうか。あの霊界と永遠につながり得る愛がないためです。それで、一人で独身暮らしをするを、「かわいそうだ」と言います。(139-214,1986.1.31)


 死ぬということは、第2の呼吸をしていた肉体に連結された器官を壊して、愛の要素を受け継ぐことです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛を中心として、一つの内的な構造が育つのです。ですから、神様の法則のとおりに、胎内で正常な赤ん坊として育つのと同様に、地上でもよく育たなければなりません。(299-69,1999.2.4)


 とんぼが初め幼虫になって、水の中で泳ぎ回って、地上に上がってきてしばらくの間、はい回ります。その次には、ひらひらと飛び回り、地ではい回っているときには食べるだろうと思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として、飛び回るのです。
 昆虫類の中には、3段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫といえば、大概羽があります。昆虫も水で、陸地で、空中で暮らすのに、万物の霊長という我々人間に羽があるでしょうか。次元の高い羽があるのです。死が第2の出生の、幸福なる関門です。(299-71,1999.2.4)


 死ぬということはどういうことでしょうか。地上生活は、空気中において「胎内で泳ぎ回って暮らすこと」と同じです。空気というおくるみの中で、生きているのです。死ぬということは、特別なことではなく、第3の人生へと出生することです。その瞬間が、死ぬ瞬間です。(49-286,1971.10.17)


 ⑦死ぬ前にすべきこと

  イ)最後の境界線を越えよ


 どちらにせよ、一生に一度は死にます。ですから、いくら恐ろしい暴風雨が吹き付けても、最後の峠を越えなければなりません。しかっりと進んでいるのに、境界線の前で倒れてはいけません。皆さんは、このような境界線に立って何をするのでしょうか。皆さんは、統一教会によく入ってきました。皆さんの姿は、各自自分勝手な姿をしていますが、よく入ってきました。しかし、気をしっかりもって走っていっても最後まで行くかどうか分からないのに、慌てたなら、行く途中でやめてしまうのです。最後の決勝点まで行き、境界線を突破しなければ勝利者になることはできないのです。
 人として生まれるのは、価値のあることです。後ろから反対し迫害したとしても、自分の行くべき道を行けばいいのです。人が反対しても、関与する余地がありません。1歩1歩運命の道を経ていこうとする人こそ、最後の境界線を越えることができるのです。皆さんは、そのように行かなければなりません。(24-77,1969.6.29)


  ロ)形状と心情と神性に見習え


 我々は、いつか肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。それゆえ、この世に生まれた我々は、死を覚悟しなければなりません。また、善なる自己を永遠の世界に第二の自分として立てるためには、苦労をしなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善なる赤ん坊として生まれるのとおなじように、この地上世界での生活は、腹中での生活と同様なのです。
 それゆえ、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習って育たなければなりません。育って、また生命を懸けて越えていかなければなりません。(14-17,1964,4,19)


  ハ)罪を犯すな


 皆さんは「心がまっすぐだ」という話をします。電信柱がまっすぐだというとき、一直線に立っていることを言います。心がまっすぐだというのも同様です。それで、人は立って歩くのです。垂直にならなければなりません。
 自分の心を完全に垂直になるようにすべきです。そして体が水平線になるのです。遠心力と求心力がなければなりません。垂直から引いてくれる力と、回る力が均衡を取らなければならないのです。それゆえ、自分を探さなければなりません。
 自分が「私だ」というときは、神様が「そうだ」と言うべきであり、真の父母が「そうだ」と言うべきなのです。その次に、親戚、一族、一国が正しいと言わなければならないのです。糾弾される者は、問題になります。これからは、大陸を中心として、寒帯地方と温帯地方を分けるのです。罪をたくさん犯した人は、北極に送るという時が来るでしょう。伝染病患者を隔離するようにするのです。(202-280,1900.5.25)


  ニ)世界のために生きて死ぬべし      


 先生は、アジア情勢や韓国民族を中心として苦労したのではありません。世界的な分野で、いかに責任を果たすか。そのためには、死をも辞さないのです。
 このようなことを考えてみるとき、皆さんは世界のために生きて死ななければなりません。世界的でなければなりません。では、どのような立場で死ななければならないのでしょうか。世界的な立場立って、愛する妻を抱き、家庭を抱き、氏族を抱き、民族を抱いて死ななければなりません。統一教会は、今、氏族を編成して、民族を編成していっています。
 それゆえ統一教会の先生は、死んでも、どのような立場で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国までそっくり抱いて、世界のために死ぬでしょう。韓民族が一つになって、世界のために死のうとするときは、世界と共に生き得る道があるために、その道を探していくのです。(34-193,1970.9.6)


  ホ)多くの仕事をせよ


 皆さんは、どの版図で働くのでしょうか。お金が必要ならお金を稼ぎ、人がいなければ人を育て、そのためには、寝食を忘れてやりなさいというのです。誰かに助けてくれと、絶対言うなというのです。本部にもそうせず、助ける側に回らなければなりません。普通の人の3倍以上をすべきです。
 それゆえ、私が70年を生きたとしても210年生きるのと同じです。皆さんも100歳まで生きると思わずに、70歳まで生きても3倍働くようになれば、210歳まで生きることになります。10倍するようになれば、700年を生きるのです。20倍するようになれば、1400年を生きるのです。一生の間、24時間働くのです。そうしてこそ、霊界に行って実を結び、愛の所有が多くなるのです。愛の財産が多くなるのです。自分の所有が多くなって、活動舞台が広くなるのです。(102-38,1978.11.19)


  ヘ)公的な仕事をせよ


 天の法度とは何でしょうか。公儀を優先することです。私的なことはサタンのものであり、公的なことは神様のものです。皆さんは、公儀のために行くべきです。そのような路程で、すべての人たちがいくら反対したとしても、そこで侵害を受けることなく、難しい道も生命力をもって行く人がいるなら、その人は春を迎える天国人になるでしょう。(47-272,1971.8.29)


 皆さんが市場に行って見ても、店の主人が自分の欲ばかり張るようになれば、お客が物を買いに来ないのです。自分の欲ばかり張れば、誰でも嫌がります。公的な仕事や、私的な仕事を中心として見ても、治める方法と秘訣を知らない人は、一人もいません。それゆえ、「知らなかったので天国に行けなくなった」と言い訳をすることはできないのです。なぜでしょうか。公的か、私的かということは、教えてあげなくても分かるのです。
 例えば、皆さんのお母さんが、皆さんのお姉さんや皆さんにおいしい餅を全く同じように分けてくれたとき、皆さんは自分の分をみな食べ、お姉さんは食べずに真心込めて保管しておいたとします。それを、寝てからそっと起きて、一人で食べようとすれば、心が「こいつ!」と言うでしょう。そのような気がしないなら、人ではありません。そうなるべきなのです。なぜでしょうか。皆さんの心は、公的なものを追求するためです。私的なことについていけば、滅びるのです。
 本来、天法に従っていけば、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してくれようとする心があるのです。本来あるものとは何でしょうか。これは、神様に本来からそのような心があるので、人間にも本来からあるようになったのです。自分が作った法ではないというのです。「良心よ、私がこうだからこうだ」と、そう言いますか。「私の考えがそうなので、そうであるべきだ」と命令するとして、良心が作用しますか。どこだか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。そのような感情が、自分を支配するのを見るとき、これは公私問題を中心として支配するということが分かるのです。(31-241,1970.6.4)

 

(2021.11.24:写経奉献)つづく

 

 今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、表や裏にひっくり返って行ったり来たりしたあげく、結局は私的におぼれる場合がたくさんあります。しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び公的な生活のために歯を食いしばって歩んでいかなければなりません。行ったり来たりしているうちに、私的な側に入り込むときが多くなり、公的な善とは遠ざかる生活を送りがちです。これが今までの信仰生活です。それゆえ、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければなりません。(1-242,1970.6.4)


 皆さん、福を受けるのを願いますか。永生するのを願いますか。そうするには、公的な人にならなければなりません。子供を教育するのに、自分の息子、娘として愛するだけではいけないというのです。世界の人のための祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を懐に抱いてお乳を飲ませるときは、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した幼い赤ん坊にお乳をあげるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供だけかわいいといって対するのではなく、人の子も自分の子と同じだという心情で対する母になるべきです。そのような母のお乳を飲んで育つ赤ん坊たちは、必ず偉大な人になるでしょう。すぐには駄目でも、1代、2代を経ていく間に、必ずその子孫の中に、世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これは公式です。(31-168,1970.5.24)


 では皆さんは、私的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。そうでなければ、公的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。一生を投入するのは同じですが、公的な蕩減のために公的な環境に一生を投入すると生命を懸けて立ち上がる人は、偉大な人物になるのです。そのような群れによって、新しい歴史は創建されるでしょう。
 では、そのような瞬間を前にしている我々は、残った時をどのように埋めればいいのでしょうか。これが今から皆さんが行くべき試練の路程です。それで、自体の生活で、個人的な生活をするのか、公的な生活をするのかということが問題になります。自分自身の生活で、自分が何を食べて、何を買って売ってというすべてが、誰のためのものでしょうか。自分のためのものでしょうか、神様のためのものでしょうか。また問題になるのは、それが公的な生活か、私的な生活かということです。そして、皆さんの感情が私的な感情か、公的な感情かということも問題になるのです。
 公的な道を行くために誓うべきです。歴史を蕩減させるべき使命を負った人なら、誰でも願う立場まで進まなければなりません。それゆえに、生活の中で私的な感情を超越して、公的な感情をどのように体得するかという問題が、信仰者が重要視すべき問題です。
 罪とは何でしょうか。罪は、私的な所から生じるのです。滅びるのも、私的な基準から始まるのです。悪も同様です。私的なことが度を超えるようになれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があり、その限界を超えれば、悪くなり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。
 では、永遠に善であり、永遠に繁栄することができ、永遠に福を受けることができる立場とはどこでしょうか。滅びることを避け得る立場、罪となることを避け得る立場、悪くなることを避け得る立場とはどこでしょうか。それは、正に公的な立場です。御飯を食べても、公的な立場で食べなければなりません。仕事をしても、公的な仕事で、言葉を話しても公的な言葉で消化しなければなりません。このように、一切を公的なことと関連づけて暮らさなければなりません。そのような人は、地獄に行こうとしても行くことができないのです。(31-164,1970.5.24)


  ト)愛を体恤すべし


 皆さんは、自らが「私だけだ!」と、自分だけを考えてはいけません。皆さんは、皆さん自身だけで存在しているのでしょうか。皆さんから、お父さんとお母さんの要素を抜き取り、供給されたあらゆる万物の元素を抜き取っていけば、皆さんはなくなります。それゆえ、「私」という存在とは何でしょうか。お母さん、お父さんに代わる立場です。お母さん、お父さんを通じて生じた腹中時代を経て、お母さん、お父さんの血と肉を受け継ぎ、供給されて生きるのです。
 それで、今日地上時代には、「宇宙の母、万物の母」です。これが地です。地球星が母なのです。元素を皆さんに供給してくれます。他の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育つようになるときに、腹中で呼吸するのに、何で呼吸するでしょうか。へそで呼吸します。へそが母の体とつながったホースです。
 しかしながら、第2世界、空気の世界につながっていることを知っています。腹中で暮らしたのちにそれをけって出てくれば破壊です。そのときは、泣くと同時に何につながるのかというと、気管、鼻の穴で息をするようになっている、空気の世界につながるのです。鼻の穴が絶対補給路です。では鼻の穴をふさいで生きることができるでしょうか。息ができなければ死にます。二重構造になっています。
 腹から空気の世界に出てくるときは、腹中世界で暮らしたへその緒と羊膜をみな破壊して出てこなければなりません。その器官、腹中のへそと胎盤は破壊されて死ぬのです。死ぬのと同時に、何が出てくるのでしょうか。この宇宙、地球星の母に現れるのです。こうして、口から元素を補給されて生きているのです。
 腹中から出て、この体は何をすべきでしょうか。腹中でへその緒で息をしたのと同様に、空気のパイプである鼻孔を備え、ぽんと生まれるときに、それに切り替えて息をするのです。そして、今、この世界ですべきこととは何でしょうか。生まれてからすべきことは、愛というものを体恤することです。愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給され、経ていかなければなりません。一家庭に赤ん坊として生まれて、サインカーブと同じように、上がれば下がらなければなりません。赤ん坊として生まれて成長して、年を取って死ねば分解されていくのです。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。
 そのようになるときは、どのようになるのでしょうか。第2の腹中世界をけってしまい、第3の愛の呼吸器官につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけってしまい、大宇宙の神様の本体に和した愛の世界に入ります。霊界は愛の空気でいっぱいに満ちています。
 それゆえ、皆さんは今、この地上世界で愛の息をすることができるパイプの装置をしなければなりません。それゆえに、霊界の体験が必要であり、霊的な愛を感じることができ、呼吸することができる人になってこそ、死なないというのです。
 この地球星という母の腹の胎内を蹴り飛ばして進みでるとき、皆さんは愛の呼吸器官で息をするというのです。第3の愛をつないでこそ、永生を得るというのです。それで、愛をつなげてどこに帰るのでしょうか。神様に帰るのです。愛の呼吸器官につながって、霊界に帰りますが、神様の本体に帰る道が残っているのです。種が出たなら、それは本体から出たので、結果を結んで本体に帰らなければならないのです。
 それゆえに、人生行路は、旅人の行路ですが、ここで備えるべきものとは何でしょうか。愛の体恤をして行かなければならないのです。父母の愛をよく受けられなかったのが堕落なので、真の父母の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の息子、娘の愛を中心として、縦的な家庭を成して、横的な環境に、東西南北に多くの家庭を広めておかなければなりません。
 それゆえ、彼らが縦横をつなげることができる真の家庭の形態をなして、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏につながるようにするとき、愛でつながったその世界を天国というのです。(139-212,1986.1.31)


 ⑧霊界に行く前に残すべきこと

  イ)愛の墓を残すべし


 普遍的に人は永生を中心として十年、百年だけでなく、千年、万年、億千万年を考えるようになります。人が死ねば、動物と同様ですが、それを残して何をするでしょうか。このごろは、宗教を信じないで、神様を知らない人も、「ああ、名誉を残さなければならない」と言いますが、その名誉を残して何をするのでしょうか。アメリカの愛国者になって、記念館に入っていても、アメリカが滅びるようになるときは、消えるのです。名前を残して何をするのでしょうか。ですから、滅びたり繁栄したりする歴史時代に残ったとしても、良いというものも、悪く扱われるのです。(103-16,1979.1.28)


 地上に生きている神様の息子、娘を残すことが神様の目的です。それゆえ、自分が霊界の神様の前に行っても、地上に生きた神様の息子、娘を残す立場になるときは、自分も神様と同じ立場に立つようになるのです。それが聖書の「うめよ、ふえよ、地に満ちよ」というみ言の意味です。(146-223,1986.3.11)


 生涯に何をすべきなのでしょうか。愛の墓を残すべきです。愛の墓を残していこう! 愛の墓の中で暮らせば、恨がありません。墓のような所で、いくらじっと暮らしても、愛の中で暮らせば恨がないのです。我々が暮らしながら愛の墓を残せば、人生は永遠において成功するのです。そのように皆さんが暮らして死ぬときは、霊界で神様が息子、娘を連れて歓迎しに出てくるでしょう。そのときには、指輪をはめられなかった手なら、天国のダイヤモンドをはめてくれるだろうし、服を着れなかったなら、天国の皇族たちが着れる最高の服を着せてくれるでしょう。(97-169,1978.3.12)


  ロ)霊界の所有権は伝道で決定


 霊界での自分の所有権とは何かというと、天国の民をどれほど連れていったかということです。それが自分の財産です。永遠の財産です。今からは、それを問いただすべきときが来ました。1日に何百万が伝道される時が来ます。統一教会には、そのようなすごい内容があるのです。世の中を見てください。今、死ぬとか生きるとか、人生とは何かとか、宙に浮いたようにさまよいながら、落ち着くことができず、狂ったようになって自殺する人がどれほどたくさんいますか。(218-277,1081.8.19)


 霊界に行けば、愛の懐が大きいほど、その懐に入ろうと列をなすようになります。その人は、あの世で尊敬されるのです。千人、万人に囲まれて、「あ! この人と一緒に暮らしたい」という声を聞くようになれば、その人はそれだけ領土が大きい金持ちになるのです。あの世の金持ちは、どんな人でしょうか。愛のために投入した人が金持ちなのです。
 伝道とは福を集めることです。愛の福を集めるのです。天のものを奪っていったサタン世界のどろぼうたちに、主人が愛をもって訪ねていくのです。お前のお母さん、お父さんを私がもっと愛するという、愛の心で訪ねていき、愛に因縁づけられたすべての福を取り入れるということです。
 冷遇を受けるとしても滅びるのではありません。その後ろには数限りない聖徒が従い、万物がついてくるのです。ついてくるから、自然に金持ちになるのです。(205-347,1990.10.2)


 霊界に入っていくとき、お金を持って行くのではありません。サタンの息子、娘を収拾すべきです。一人が120人以上収拾しなければなりません。天国の民をみな失いました。それを接ぎ木して、失わなかったという条件を立てなければならないのです。
 霊界の12の真珠門を経ていくためには、地上でサタンから天の民を取り戻さなければなりません。そうするためには、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心として、サタンの父母以上、サタンの夫と妻以上、息子、娘以上の心情を投入して、涙と血と汗とともに交差する過程を経ずしては、天国の自分の民を所有することはできません。この数に比例して、あの世の栄光の立場に、神様に近づく条件が成立します。(211-352,1991.1.1)


 これから、霊界に行くとき、何をもっていくかというと、お金をもっていくのではありません。統一教会の名前をもっていくのでもありません。これから皆さんがすべきこととは何でしょうか。神様が愛し得る息子、娘を、どれくらいたくさんつくるかということが問題です。人々が赤ん坊を生むとしても、何人かしか生むことができません。それは、誰もができることです。
 復帰過程で経ていくべきこととは何でしょうか。皆さんがサタン世界で、神様が愛することができる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖とつながって、また、先祖を解放させることができるのです。これが復帰路程において、自分が取ることができる最大の贈り物です。
 いくら教区長をしたといっても、信仰の息子、娘がいなければ、あの世に行くとき、手ぶらで行くのです。自分を中心として一人もぶら下がっていないために、そうなのです。
 天国は、無限の世界なのに、そこでは愛の心情でつながることができる橋がなければならないのです。それゆえ、自分が伝道した人が世の中にたくさん広がっていれば、霊界に行っては、それだけ広く往来することができる道が生じるのです。全部が自分と因縁を結ぼうとします。
 地で解いてあの世に行くようになれば、霊界で解くことができる相対的関係になっているので、膨大な活動基盤になるのです。それが全部、自分の所有になるのです。それゆえ、自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じることができるのです。それがなくなれば、コーナーに追い込まれて活動するのが難しいのです。ですから、歳月を送りながら休む間がありません。
 御飯を食べて暮らし、息子、娘を食べさせて育てることは、あの世に行くようになれば大したことではありません。それゆえ、天国の民を訪ねていかなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。
 それゆえ我々が、早く世界人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界のすべての霊たちも再臨復活していくようになっています。今、長子権がサタンの基盤ですが、神様の基盤として逆さまになれば、アダムが長子権をもてば、天使長はアダムの言うことを聞いて、ついてくるようになっています。絶対服従する位置に行くようになれば、神様の愛とともに、アダムの愛の圏内にあるために、自然に天国に入るのです。原理がそうなのです。
 地上で人間が、この責任を果たせないことによって、裏返しになったために、人間がすべきことは、裏返したものを再び解かなければならないのです。蕩減復帰して、道を開いてあげなければなりません。ですから、伝道という仕事がどれほどとてつもないことかを知るべきです。それゆえ、自分が何人を永生圏内に受け付けさせるかが問題です。統一教会という看板をつけていても、何の役にも立ちません。実がなければなりません。
 イエス様がエルサレムに上ったとき、いちじくの木に実があると思って行ってみたのに、実がなくて、それを呪うことによって、いちじくの木が枯れて死んだのです。ちょうどそのようになるのです。うわべだけ良くてどうしますか。それゆえ、自分が祝福家庭を何家庭つくったかということが、皆さんの収穫になるのです。
 120人、何百人を伝道しなければなりません。それもできずに、自分の息子、娘を愛するというのはあり得ません。原理を見ると、120人を伝道しなければなりません。120数は、イエス様の世界国家を代表したのです。430家庭は、一国を中心として、その中にある姓氏と同じです。4300年を中心とした430家庭です。それはすべての姓氏と同じであり、国民が天国に入れる門を開いておいたのです。門を開いておいたのであって、入ったのではありません。
 これは、空論ではありません。理論です。歳月を無為に送るなと言うのです。青春時代に息子、娘を生んで、育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残すのと同じです。また、その子供たちが、立派な人になってこそ、歴史に誇ることができるのです。そのような歴史に対して、誇り得る実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国には入れないのです。国に入るためには、歴史の伝統に残り得る実績がなければなりません。
 それゆえ、誰でも国に何かを残すのを願い、世界に何かを残すのを願い、天地に何かを残すのを願うのです。同様な道理です。それゆえ、自分の所有版図をどのように確定するかという問題が、終生の目的だという観念を確実にもたなければなりません。それゆえ、み旨の道で「嫌だから辞める」と考えることはできません。
 先生が監獄に入って苦労を一人でしたとしても、その責任をもつということは何のためでしょうか。その環境で、苦労する人たちを救ってあげるということです。苦労する環境で、自分たちが利益になり得るなら、ついてくるのです。ついてくることによって、収穫になるのです。霊界に行くとき、これを全部公的なものとしてもてなされるために、その人は天国の一番高い位置に行くのです。
 国民教育をよくすれば、その国が繁栄するのです。同様の道理です。天国の生命圏を中心として、これをどれほど悟らせて、精神を正して、自分以上の息子、娘として残し得るかということが問題です。そのようになるとき、世界は早いうちに復帰されます。それゆえ、精誠を尽くして育てなければなりません。
 先生もそうです。先生が今までみ言を語るようになれば、5時間、6時間ずつしますが、そのようにしたくてするのではありません。その骨子は簡単です。15分話す内容にもなりません。しかし、それを中心として多方面の人たちに、来たすべての人たちに、いろいろな例を挙げて分かりやすく説明して、その人たちをその圏内に共に同参させようとしてそうするのです。目的は、春が来るようになれば、何としてでも種をたくさん蒔こうということです。種をたくさん蒔いておけば、たくさん生えるのです。
 では、種を蒔くには、どこに蒔かなければならないのでしょうか。処女地に蒔こうとすべきです。処女地とはどこでしょうか。青少年たちです。分かりますか。その時、一度植えておけば、一生もつのです。その時、一度植えておけば、抜いてしまうことができません。
 人は、どの時が一番鋭敏でしょうか。小学校の時が一番そうなのです。中高等学校に行けば、だんだん希薄になるのです。大学に入ると、隣町をただ素通りするようなものです。あたかも旅行(休暇)に来て何かをしているような感じです。一番難しいのが小学校の時です。その次に中高等学校の時です。時がたつほど、だんだん薄らぐようになります。ですから、その時に生命の種を蒔かなければならないのです。
 日曜学校で子供たちと遊びながら、童謡も教えてあげ、話もしてあげれば、それが自分の将来のための永遠な財産を積むことになるのです。年取った人たちも、会いさえすればみ言を証すのです。統一教会の指導者たちは、このようなことがよくできていません。
 バスに乗る場合には、10人に、どこに行くのかと聞きながら、親しくなり、もう一度会って話をしようと言って、また会えば「原理」のみ言を伝えるのです。いくらでも伝道することができるのです。材料はいくらでもあるのです。伝道しようとするなら、自家用車に乗って回るよりも、バスや地下鉄に乗って回るのが良いのです。通勤時間に一つのコースだけ行っても1年12カ月を毎日通ってみると、顔が分かるようになります。ですから、あいさつするようになれば、互いが受け答えできる人脈がつながり得るのです。そのような道が通じているのに、なぜ歳月だけ送るのかというのです。
 御飯を食べることよりもっと重要なことが、天国の民を刈り入れることです。それが我々には、うまくいっていないのです。それが本職です。この地上に生きる我々の本業です。生涯にすべきことの中で、それ以上貴いものはありません。就職して出世したり、お金を集めたりしたものは、みな流れていくのです。あの世で、お金は何の役にも立ちません。あの世では、物質が必要でなく、知識が必要ありません。習わなくても、心が先に分かるのです。1週間以内に、何でもみな通じるのです。
 そして、あの世では、権力が必要ありません。霊界で必要なのは愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。それゆえ、愛を中心として感化力をもてなかった人は、愛で感化され得る本然の世界に行ったら、本質的に和合できず、反発するのです。それは地獄に行くのです。
 皆さんは、今まで統一教会に入ってきて暮らしながら、仕事をすると言いますが、どの立場で仕事をしたかを考えなければなりません。方向がどこで、位置がどんな立場なのかをいつも考えなければなりません。そのようになって、祈祷すれば、神様が自分と共にあると言うのです。それば目をつぶっただけで分かります。祈祷をしなくても分かるのです。どこかに行って話せば、言葉がすらすらと出てきます。良心のある人に行けば、自分がすっと引かれて入っていくのです。
 全部が相対的です。花も、自分と相対し得るものを引っ張る力があるのです。自分の主体や対象になれば、引っ張るのです。初めて会ったといって、相手にならないのではありません。磁石がそうです。その本質は、永遠に不変です。それと同じように、そのような所に行くようになれば、心がうれしく、言いたくなるのです。その境地に入れば、話すまいとしても口が開くのです。
 皆さんが、これからあの世に行って、復帰歴史をされる神様の前に、一人のアダムを探すために、今まで苦労した神様の前に行って、何と言うのでしょうか。神様は創世以後、今までアダム完成者を探してきました。そして皆さんは、「原理」を知りました。これは数千、数万の民を救うことができる武器です。今まで神様が人間に教えることができず、知らないうちに摂理されました。それに代わって、地上で神様以上に我々が仕事をするのです。我々には「原理」で数百、数千のアダムを教化して連れていくことができる道があります。
 ですから、生命とつなげなければなりません。永生問題は、深刻なことです。春になれば、娘たちが山菜を摘みに探し回るのと同様に、自分が要求するものがどこにあるかを探し回るのと同様に、皆さんは一生をそのように生きていかなければなりません。そうして、相手が現れれば、夜通しで彼のために「原理」のみ言を伝えてあげるという心をもたなければならないのです。一度会って感動を与えるためには、精誠を尽くさなければなりません。
 皆さんがすべきことは、天国に連れていくことができる息子、娘を探すことしかありません。いくら億千万の金をもって、豊かに暮らしても、そればみな流れていくのです。自分のすべての物質と知識と生命まで投入してでも、しなければなりません。それを別々に投入するのではなく、一遍に投入して天国の民をつくろうとしなければならないのです。投入する全体が加重するに従って、その価値は比例していくのです。
 ここの統一教会の長という人たち、肩に力を入れて誇るかもしれませんが、恥ずかしいことです。自分を中心として、いくつの生命を救ったかが問題です。
 皆さんが、どれほど永遠に天の前に功績を褒めたたえられるかということは、どれほど天国の民を収穫して刈り入れたかという問題にかかっているのです。それを刈り入れる鋤が今まではありませんでした。知らないからできなかったのです。ですが、皆さんには背負子があります。熱烈にみ言を伝えるようになれば、爆発的な収穫を収めることができるのです。しかし、そのような内的な実力をもちながらも、ただ歳月を送っているので、神様が雷を落としたいはずです。
 夜12時が問題ではありません。明け方が問題ではありません。夜も昼もそれが問題ではないのです。天は、それを受け入れるのを願いますが、「ああ、私は眠りたいです」とは言えません。その立場は直行する立場です。
 永生問題を教えてあげなければなりません。これからは、皆さんが責任をもたなければなりません。それゆえ、今まで私は、統一教会に反対する人を呪うことができませんでした。天は、自分と関係を結び、決定づけるのを願うのに、その人が落ちれば、我々の統一教会の責任だというのです。先生が責任を取らなければなりません。サタンによって、世の中が反対するようになりましたが、その反対される環境を早く克服すべきことが、我々の責任なのです。それができないことによって、被害を受けるすべての環境は悲惨なのです。
 それは、赤ん坊にお乳を飲ませるのと同じです。赤ん坊を生めば、お乳を飲ませなければなりません。それゆえ、会いに訪ねてくるのです。訪ねてくれば、絶対冷遇してはいけません。先生も一生をそのように暮らしています。誰かが夜12時にここに入ってきても、その人が行きたいと思わなければ、自分が座り続けるのであって、「行け」とは言いません。その人は、必要なものがあるために行きたくないのです。それなら、み言を語ってあげなければなりません。先生は一生をそのように暮らすのです。絶対事務的ではありません。霊界はいつも目覚めています。
 皆さん、統一教会員同士けんかをし、一人でも落ちれば、その被害は大きいのです。その人がこれからみ旨を知って、天の前に自分の責任を果たすとき、何千人、何万人を救うことができる、自分より優秀であり得る、驚くべきこともあり得るのです。ですから、人事措置を誤れば、全部引っ掛かるのです。それゆえ、自分が低い所にいて、みな高い所に置こうとすれば、引っ掛かる所がありません。それが謙遜だと言うのです。
 しかし、誤れば下がります。夜に妻と子供たちがいる部屋に入るとき、父として責任をもち、夫として責任をもたなければなりません。夫がう正しくすれば、あの世で妻が自分についてくるのです。もちろん、その父の家に入るためには、訓練過程がありますが、ただそのまま行くことができれば早いのです。あの世は、許しのない世界です。その世界に拍子を合わせるために、今、準備をするのです。
 そのことのためには、食事を抜いてもしなければならないのです。「御飯を食べてきてからしよう」と言ってはいけません。今、ダイナマイトの導火線に火がついて、爆発しぞうなのに、御飯を食べてはできないのです。深刻なのです。それゆえ、永生問題をどのようにつなげるかということが問題です。
 電気でいえば、全部送電所を経て、配線器具につながってこそ明かりがつくのと同じです。発電所の電気がここに来ているのです。つながってこそ残ります。
 それで、信仰子女を自分の息子、娘よりももっと愛し、信仰の子女は、信仰の父母を、自分を生んだ母よりももっと大切にしなければならないのです。自分を生んでくれたのはサタン世界の父母ですが、信仰の父母は、天の世界の父母なので、自分を生んでくれた母よりももっと大切にしなければならなりません。そして、信仰の子女たちはみな、自分を救ってくれた人の子供を精誠を込めて育て、結婚させてあげるべき責任があるのです。み旨がそうなのです。ですから、その子供たちを全部育ててあげなければなりません。
 それゆえ、永生問題とつなげなければ、すべてが無駄です。彼らがみ言を聞いたとして終わるのではありません。催促し、催促して、祝福の場にまで出させなければなりません。祝福を受けなければならないのです。それで、祝福を受けて伝道するようになれば、それは自然につながるのです。難しい環境のサタン世界で、迫害を超えていくことができれば、その人は、既に命の道に入るのです。祝福を受けるところまで行けば、終わるのです。
 そして説教をしても、「私」というものが生きていてはいけないのです。血と汗を流しながら、話さなければならないのです。出産の苦労をしなければなりません。涙を流しながらしなければなりません。皆さんの目から涙が乾くようになれば、それは偽者です。(230-25,1992.4.15)

 

(2021.11.25:写経奉献)

 

  ハ)息子、娘をたくさん生むべき理由


 統一教会の人たちで、神様を知らない人はいません。霊界を信じます。愛から始まって、神様から分かれて出てきて、結局は神様に帰る路程です。
 霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性になり、女性が男性になることができるのです。愛は一体だといいます。女性の中をのぞいてみれば、男性が入っています。神様の二性性相と全く同じです。性相と形状、それが分かれて出てきたために、その本体に帰るには、愛のはしごに乗らなければなりません。創造の基準が愛から始まったために、このはしごに乗って入らなければなりません。結局終着点は、神様と共にあるのです。
 霊界では赤ん坊を生みません。霊界は縦的な世界です。神様を中心として円形を成した世界なので、赤ん坊を生む必要がないのです。横的な基盤が必要であるために、人間を、体として造ったのです。繁殖する畑です。霊界の民は、全部この地球から行くのです。このように考えてみれば、今、産児制限をなぜすべきなのか分かりますか。それは、天命によるものです。悪なる血統をこれ以上繁殖させるなというのです。
 統一教会の祝福家庭は、どれほど天国の国民を繁殖させるかということが財産です。信仰の息子、娘より、自分が生んだ息子、娘がもっと価値があるのです。信仰の息子、娘は、祝福という関係を知りません。そのような息子、娘をどれほど残していくかによって、天国で自分の位置が決定されるのです。(205-99,1990.7.7)


 完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上で真の愛を中心として、可能なのです。霊界ではありません。それゆえ息子、娘を生まなければなりません。息子、娘が正に天国の民になるのです。皆さんの息子、娘が、理想的な天国の民になるのです。ですから、皆さんが息子、娘をたくさん生まなければなりません。本来は12方向以上にならなければなりません。それで、先生が12方向以上を願います。(217-130,1991.5.12)


 息子、娘がいなければ、天国が繁栄しません。ですから祝福家庭たちは、地上で産児制限してはいけません。飢えて死んでも、全部霊界に行きます。飢えて死んでも、愛の中で飢えて死ねば、天国に行くのです。
 それゆえ、サタン世界は産児制限しますが、統一教会では産児制限をしてはいけません。先生がみ旨のために苦労しましたが、飢え死にはしませんでした。飢えて死ぬような場に行っても、生きることができるのです。そのような訓練が、すべてなされてているのです。
 絶対的な愛のために、すべてを犠牲にするようになるとき、神様も調節することができ、サタン世界も調節することができ、天運も調節することができるのです。調節するのは何でしょうか。神様がついてくるということです。神様がついてきて、この世界がついてきて、天運がついてくるのです。(201-133,1990.3.27)


 皆さんは、地上で子女を立派に育てて残していかなければなりません。将来、その子女はすべて霊界に行くのです。霊界に行って、天国の国民になるのです。自分が何人を天国の国民として捧げたかというとき、地上ではつらいことでしたが、永遠の世界では、それが高貴な栄光の道になるのです。
 地上では、教育とか、食べさせることの問題で、とても苦労します。しかし、霊界では、食べるものは問題ありません。着ることは問題ありません。暮らすことは問題ありません。できるだけ多くいればいいと思うのです。(218-319,1991-8.22)


 霊界に行けば、繁殖がないのです。神様は、縦的な父母の立場でいるために、一点しかないのです。(221-204,1991.10.24)


 神様がすることとは何でしょうか。世の中を救うことです。霊界に行ったすべての次元の高い人たちの仕事とは、地の仕事です。地とはどんな所でしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。
 一人が子供を約100人ずつ生んでも、天国は広いので過剰生産ということはありません。あの世は、いくらでも収容できる世界です。産児制限してはいけません。あの世に行けば、天国の民を、どれくらいつくって率いてくるかということが問題になります。真なる天国の息子、娘をたくさん率いてくるとき、それが自分の権益になり、天上世界で表彰され得る等級の等差を設定し得る資料になると言うのです。(202-40,1990.5.1)


 ⑨死の前での姿勢


 イエス様がみな教えてくれました。「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と教えてくれました。世の中に、そのようなでたらめな言葉がどこにあるでしょうか。そのような言葉はありません。しかし、その言葉は事実です。
 では、死ぬのはなぜ死ぬのでしょうか。死ぬ目的とは何でしょうか。生きるためにです。生きるにも何か目的があるのです。生きていく人間の目的は、全部違います。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)というのは、何のためでしょうか。神様の息子になるためです。神様を愛するために、首を差し出せということです。その首が一つしかないのに、差し出せと言うのです。
 どこに行って死ぬべきでしょうか。あのどん底に行って死ぬのではなく、最高の立場で死ななければなりません。それゆえ、天国を中心として死ぬべきです。天国は世界のどの国よりも大きいのです。天上天下の、一つしかない天国で死ぬのです。では、どこで死にますか。これが問題です。死ぬのにも方法があるのです。
 死ぬのにも場所があるのです。つまらない韓国的なものをもってしてはいけません。韓国的なものをもってしては、いくら死んでも駄目なのです。最高の立場、神様の心情の国を中心とした、最高の立場で死ぬべきです。天国の真ん中で死ぬべきなのです。その天国が一番です。天下が、旗を掲げて歓迎する立場で死ぬべきです。(34-185,1970.9.6)


 今日、我々は最後の復活の1日、希望の1日を願っています。すべての人が願っている、その希望の時は、万民が楽しむことができる希望の時とはいえ、その時はたやすく近づいてくるものではありません。そして、その希望は、死に勝った者だけが所有することができます。その希望は、神様と共に、サタンと戦った者だけが占有するでしょう。その希望は、天のために、神様と共に迫害を受けた者であってこそ、占有するでしょう。
 このような時が、我々の前に来るということを考えるとき、この生活環境を乗り越え、死の恐怖までも乗り越えることができる切なる心をもたなければなりません。そのような切なる心が、皆さんからわき出なければ、その希望の1日を皆さんの生活圏内に引き込んで暮らしていくことができないのです。
 それゆえ、真の生活をするという人は、「私がどんな姿で死ぬのか」ということを考えるのです。80年生きて死ぬその時になって、「私はどんな姿で最後の1日を飾ろうか」と考えてはいけないのです。イエス様は死の場に行って「すべてが終わった」、「父よ、私の霊をお受けください」と言いました。やはりあの方は、人生行路に勝利された方でした。
 皆さんは、これからある1日に死ぬようになります。そして死を前にして過去を回顧しながら、そのとき、どのような一言の言葉を残して行くか、ということを考えなければなりません。
 この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。再び行ってみることもできず、行って帰ってくることもできず、一度行けば永遠に帰ってくることができない道です。このような道を行くようになるとき、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がなければ、そこで終わりです。
 今日まで神様のみ旨を奉じて、神様のみ旨を立ててきた数多くの人たちは、どのような人たちかというと、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と乗り越えた人たちでした。そのような人たちが、天の道を立ててきました。
 皆さんは、死に逢着するようになっても、それを乗り越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えてしまえば、自分は天の前に堂々と立つようになるだろうという希望と、心で憧れた本郷に向かって、喜びで走ることができなければなりません。神様の理想世界を希望する心が切実であってこそ、死に勝つことができる存在になるということです。
 世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。愛する父母、愛する妻、愛するすべては、みな過ぎ去って、あとには死の前に逢着するようになります。しかし、その死までも過ぎ去ってしまうようになる勝利的な希望をもった人であってこそ、天の前に立つことができます。
 今日、地上に生きている人間たちは、苦痛の道や悲しみの道を願いません。ある喜びの場面があれば、その喜びの場面が過ぎ去るのを惜しく思い、懐かしむのが人間の心性です。
 我々が生きているこの地は、悲しみと喜びがひっくり返っている世の中です。我々が楽しんでいるこのすべての喜びは、死とともに消え去る喜び、すなわち死を越えて残り得る喜びになり得ないというのです。
 では、悲しみが死とともに消え去り、楽しみも死とともに消え去れば、人間が喜びを探して、もっと良いものを願い、永遠の世界に憧れるその心も、死とともに終わるのでしょうか。違います。心がそのような方向に動き、心情がそのような方向に動くということは、そのような世界が実際にあるという証拠です。
 人間は、霊的な存在であるゆえに、その生命は永遠です。天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も希望を抱いて行った人がいれば、彼は普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったのです。そうなったので、死の道も行くことができるというのです。
 皆さんの憧れることが、現実生活でぶつかるどんな逆境と困難と悲しみ、あるいは死よりも、もっと強くなれなければ、皆さんは死の前で後悔する者であり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれないということです。イエス様が死の峠を越え、永遠の世界に行かれたので、復活の世界を建設されたので、今日我々も、いずれ死の峠を越えなければならない運命に置かれているのです。
 では、天の希望を抱いて生きる人は、どんな人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も喜びで乗り越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱く者です。それゆえ、皆さんは死を前にして、世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、天の前に立って自分の死の価値を誇り得る人になるべきです。天は、このような希望の息子、娘たちを探していらっしゃいます。
 このような立場に立って、天の喜びを感じた人がいるならば、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがいるとしたら、天がその叫びに答えまいとしても答えざるを得ないのです。(6-53,1959.3.22)


 み旨のために「死なんとする人は生き、生きんとする人は死なん」というこの言葉はどういう意味でしょうか。み旨のために死ぬべき立場では、死ななければならないのです。
 では、死ねばどのようになるのでしょうか。死ぬ前までは自分のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは、我々が堕落した血統を受けたためです。それゆえ、死ぬ前までは、我々の生命が、サタン側の因縁を逃れられないのです。しかし、死んだのちには、神様と因縁が結ばれるのです。
 生命と死について見るとき、どちらが強いでしょうか。死より生命がもっと強いでしょうか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。それゆえ、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬのを嫌がってはいけないのです。サタン世界では、いずれ死ななければなりません。死ななくては、復活することができません。一つの時代が過ぎなければ、他の時代を迎えることはできないのです。
 では、聖書でいう、「死」とは何をいうのでしょうか。神様が、永遠にもつことができる生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せと言うのです。ですから、み旨のために死のうとする人は、生きるのです。この言葉は、逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。これは、復帰の正常な論法です。
 それゆえ、生命を差し出すことができるかというのが、最も大きな問題です。先生がこの道を出発するとき、生命を差し出すことができる覚悟ができているかを考えました。
 先生は、死ぬ覚悟をしました。死ぬとき、どのように死ぬかも考えました。そうしながら、死ぬ時は、どんな言葉を残して行くのかを考えました。どのようにすれば生きるかを考えたのではありません。
 大韓民国を中心として、役事しなければならないために、死ぬ立場を訪ねていったのです。死ぬ立場とは、どこでしょうか。怨讐と対決する立場、すなわち怨讐を訪ねていったのです。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤が、サタン側に回ったために、それを探すためにサタンの巣窟である北朝鮮に行ったのです。
 先生が、今後の世界的な共産党と戦わなければならないために、それのために北朝鮮を訪ねていったのです。手錠をかけて牢屋の身になるのを覚悟して、不倶戴天の敵の国を訪ねていったのです。いくら暴悪な試練が私に襲いかかってきても、私はそれに屈服しませんでした。いくら極限の飢えの立場でも、神様の威信を失いませんでした。組織的な生活圏内で、いくらつつかれる生活をしても、天の法度に背きませんでした。
 先生は、すべてのことが拘束されても、その拘束される基準で、すべてを探すことができ、さらに神様の前に新しい出発の動機と、新しい生きがいを探してきました。そのようにして出発したのです。先生は、ありとあらゆる重労働をする立場に入っても「私は負けない、他の人はみな死んでも私は死なない」という信念をもってきたのです。
 統一教会は、生きようとする所から出発したのではなく、死のうとする所から出発したのです。しかし、皆さんは統一教会のみ旨を知ってから、死を覚悟しましたか。自由党時代の特務隊長金昌龍殺害事件の首謀者である、許大領(大佐)が死刑を受けるときに、「今回のことを計画して指示した者として恨がないか」と聞くと、彼は「何の恨もない」と言いながら男らしく死んでいきました。そのような殺害事件や銃殺事件が起これば、それを自分と比較してみなさいというのです。比較してみながら、自分は果たしてどのように死ぬだろうかと考えなさいと言うのです。
 怨讐の謀略で、国家の大反逆者として追い込まれて死ぬこともあるでしょうし、同志の妨害や、友達の妨害、あるいは愛する人の妨害など、いろいろなことによって死ぬこともあるでしょう。しかし、死ぬときには、世の中のためになる心で死ななければなりません。恨みを抱かずに死ななければならないのです。いずれ死ぬからには、恨みを抱かずに何かを植えておいて死ななければならないのです。怨讐を怨讐ではない友達として愛しながら死のうということです。そのような意味から見るとき、イエス様が十字架上で怨讐のために祈ったのは、偉大なことです。(34-47,1970.8.29)

 

(2021.11.26:写経奉献)

 

 ⑩霊界に入るとき

  イ)死が差し迫ったとき

 

 人生の勝敗は、何十年の期間によって決定されるのではありません。それは一瞬に決定されるのです。
 我々の人生について見ても、皆さんが生まれるその瞬間は、長い時間ではありません。もちろん、生まれる前までの腹中の時期がありますが、その腹中の10カ月という期間は、出生する一瞬のための準備期間です。ところで、10カ月間いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ん坊は悲運の運命を迎えるようになるのです。
 10カ月の期間を安全な生命体として絶えず育ててきたのは、生まれるその一瞬を飾るためです。言い換えれば、出生を望む目的の一瞬のために、腹中時代があるのです。それゆえ、腹中時代がいくら立派だったとしても、生まれる一瞬に誤るようになれば、悲運の結果を迎えるようになります。(31-185,1970.5.31)


 この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去のすべての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だということを、誰が教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。先祖から受け継いだ生命体をもって、今まで因縁づいた環境と、残しておいた事情など、過去のすべてが一生の最期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。
 その中で、「真があった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐のある一時を残す人になるでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人のようにただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。そのような人のすべての過去の事情を回想してみるとき、そのすべての事情が、頭を振って回想したくない過去をもったなら、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分のすべての問題が理想に浸ることができるなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。
 このようなことを見るとき、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去も死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そうできる過去をもった人は、必ず民族が従ってくることができる因縁をもった人であり、世界万民がついて来ざるを得ない因縁を残した人だと見ることができます。
 では、それはどのような事情でしょうか。ある民族に、当面した問題を解決できない悲惨で非情な時があるとき、その問題を自分が責任をもって解決するために、命を懸けてそこにぶつかった時があったなら、それはその過ぎ去った時の中で忘れられない一時であるでしょう。
 生涯路程で、自分のために死の場まで行くことより、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人のために、自分の命をみな捧げて彼らを救ったなら、彼らを救うためにぶつかった時があったなら、そのような事実が最後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れ得るということになるでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が輝かしくたたえられた聖なる時があったとしても、それはその瞬間には効力を発揮できないようになっています。
 善であったか、真になったか、神様の前に一人立つことができたかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらすことができてこそ、善になり得るのです。我々の原理で、天地のすべての存在は与えて受ける因縁を経なければならない、というのと同じです。
 過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人のためにすべてを与えて、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によったものなので、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を引き集めて、人のために投入したというなら、その過去は輝き得る過去でしょう。
 そのような過去を懐かしく思いながら、民族を思うようになるとき、希望の民族はこのような民族であるべきだという結論が出てくるでしょう。彼がそのような過去を懐かしく思うようになるとき、人のために犠牲になり、希望する本然の善は、こうであるべきだという決定を下すことができるのです。「私がそれのために戦ってきた過去があるために、必然的にそうすることができる未来がなければならない」という内容をもって、神様の前に行くというとき、その内容は、自分の永遠の生命の基盤になります。
 聖賢が行く道と、凡人が行く道は違います。聖賢は、歴史とともに生きようとし、世界とともに生きようとし、未来とともに生きようとした人です。しかし、凡人は、自分によって生きようとし、世界も自分によってあるようにしようとした人です。(31-308,1970.6.7)


  ロ)霊界に入るとき


 我々人間が生活するのを見ると、生まれてみな同じ生活をします。転がっていっていますが、これがだんだん弱くなるのでしょうか、だんだん強くなるのでしょうか。
 自分を知って、ある決心をしたのに、その決心したものが10年になり、20年になり、30年の生涯路程を経て、50、60、70、80年、老後の生活圏に入っていけばいくほど、だんだん小さくなります。これが問題です。作用すればだんだん小さくなるようになっています。自然力学世界でなされるのと同様に、ある力があれば、その力を中心として作用すれば、小さくなるのです。
 それゆえ、入力、入ってくる力、電気でいえば入ってくる力が、どのようなモーターを回しても、作用をしていくときには小さくなるのです。ここには、必ず消耗が起きます。このように見るとき、我々は一生の間、停止していることができません。一生の間動くのです。否応なしに動くのです。動くのに、正しく動くか、間違って動くか、いろいろあります。
 では、人間が行くべき、自分が転がりゆくべき方向とはどこでしょうか。どの方向に行くのでしょうか。それを知らずに転がっています。岩にぶつかるか、あるいは、ある下水のたまりに落ちるかもしれないという立場で、転がりゆく生活をするというときに、それがどれほど危険千万なことか。どれほど不幸なことか。どれほど不安定なことか。これが問題です。霊界に入るようになれば、今日我々人間たちが、空間と時間圏内の内容をもって測定したすべてのものでは、相関関係もなすことができません。その世界は、時空を超越した世界です。(141-270,1986.3.2)


 霊界に行くようになればどうでしょうか。心霊基準があります。一度なら一度の限界内においての心霊基準があるために、最初にあの世に行く時は、祝福された人たちも、ある時は分かれます。なぜでしょうか。心霊の程度が違うからです。(194-62,1989.10.15)


 皆さんは、天国の何になるのですか。大使になりますか。その大使館で使いをする僕になりますか。大使にならなければなりません。大使になるのは易しくありません。死ぬことがあれば、自分が先に死ななければなりません。
 私たちは、霊界があるということを知っています。この世界よりももっと確実なのです。その世界は、どんな世界でしょうか。神様が良いと言うことができる構想で、すべてが可能な世界です。(107-56,1980.1.20)


 皆さんは、天国に行く時に、献上品として持っていくものがあるでしょうか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずっと並んでいるのに、彼らの前に、皆さんが包んでいったふろしきを開いておくことができるでしょうか。
 統一教会が何の苦労をし、皆さんが何の苦労をしましたか。それだけの苦労もせずに、どうして国のため、世界のためだと言いますか。「苦労するにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。
 霊界に行ってふろしきを開いておいて、「これは一生の間、私が準備した贈り物なので、お受けくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行くときは、一包みずつ持っていくのに、天国に行くときは、ひょいひょいと体だけ行くことができますか。(32-71,1970.6.21)

 

(2021.11.27:写経奉献)

 

 皆さん自身において、自主性をもたない人は、霊界に入れません。霊界にも霊界なりの世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「そこで絶対的に必要な存在だ」と言うことができる自主性がなくては入れない所が、天国です。家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、やはり「自分が絶対的に必要だ」と言うことができる、そのような自主性がなければなりません。そこで自分が絶対的に必要だという自主性があってこそ、行くことができる所が天国です。(19-45,1967.12.24)


 霊界では、天地というもの、地球というものは、ほこりの一点のようなものです。霊界はどれほど広大か知れません。時空を超越した無限の世界です。そして、「ある時代に、これこれこういう心情をもって、地上で生まれて暮らして行った人がいれば、ここに直接出てきなさい」と言えば、瞬く間に現れます。そのように、直感的感覚が現実化する世界です。
 一度に百万人の宴会をすると言っても問題ないのです。「私がこのような理想的な愛の喜びを、みなに分けたくて、晩餐会をもとうと思いますが、女性はこのような服、男性はこのような服を着て現れろ!」と言えば、すぐに現れるのです。食事も、果物も問題ありません。瞬く間に願うとおりに現れます。そして、おなかがいっぱいになれば、残ったものはどのようになるのでしょうか。
 そこでは炊事場もありません。そこでは、何の心配もする必要がありません。そこには食糧を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません。花は、いろいろな花があります。家も、愛の心情の基準に相応する家を、自分が願うとおりに、いくらでも造ることができます。(224-105,1991.11.23)


 凡人は過去を思えば暗黒ですが、聖人は過去を思えば光明です。その光明とは何でしょうか。それは、自分のためのものではなく、希望の民族を描き出すことができるのです。それゆえに希望の天国があるなら、その天国は彼らによって出発を見なければならないのです。それが天国です。
 皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を図表を書いてみるようになるとき、1年はこのように行き、1年はあのように行くだろう、あるいは10年はあのように行き、10年はあのように行くだろうと言って、自分なりに一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。
 その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、最後の運命を迎えるようになるとき、自分のために生きながら、人を犠牲にしたそのすべてが、自分をがんじがらめにするでしょう。(31-308,1970.6.7)


 皆さんが「70になっても私はこのように行く」ということを一度考えてみましたか。「年が80になって死ぬ瞬間にも、私はこのように行く」ということを考えてみましたか。死ぬ場でも、「私はこのように歴史を明らかにし、今までこの時代にこのようなことをし、これからもこのようなことをすることができる私が死ぬが、お前たちが代わりにしてくれ」と言える証拠物を提示できなければなりません。それを言葉だけで言ってはいけません。彼が死んだときに人々が彼にしがみついて、涙を流して「そうだとも、そうだとも」と、そのように言えなければなりません。(73-116,1974.8.16)


  ハ)霊界の手続きに必要な証明書


 皆さんは、最初にどこで証明書をもらってくるのでしょうか。「私はこのようになった。このようなことをした。これが勝利の証明書だ」と言い得る証明書のことです。そのような証明書を自分自身で書くことはできません。では、誰が書くのでしょうか。初めには、サタンが書きます。神様は書くことができません。サタンから、その勝利の証明書をもらわなければいけないのです。
 イエス様は、それはよく知っていらっしゃいました。それで、3年の公生涯路程の出発のときに、40間サタンを呼び出して証明書をもらう戦いをされました。それが三大試練でした。イエス様が三大試練を勝利すると、サタンは「あなたは、民族的に勝利しています。ですから、私が証明書を書かざるを得ません。そうでなければ、私の活動舞台をすべて天の側にすぐに捧げなければならないためです」と言ったのです。
 それゆえ、皆さんは、まずサタンに証明書をもらい、イエス様の証明書をもらわなければなりません。その次に、神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要です。(15-121,1965.10.3)


 ⑪死んでみてこそはっきり分かる


 皆さんが、祈祷で霊界と通じるようになれば、霊界では子孫たちを天の前に近く立てるために努力しているということを知るようになるでしょう。しかしここでは、先祖の悪口でも言って、自分だけよく生きようとします。
 それゆえ、死んでみてこそ分かるのです。先生の言葉が合っているかいないか、死んでみれば分かります。しかし、死んで生き返ることができればいいですが、死ねば終わりです。
 ですから、人々は、統一教会の文先生が恐喝をしても、とてもすてきな恐喝をする、誰もできないとてもすてきな恐喝をすると言います。しかし、死んでみなさいと言うのです。先生が何もすることがなくて、このようなことを言っているのではありません。(23-338,1969.5.11)


 神様の最高の愛は、どこで発見されるのでしょうか。王宮ではありません。死んでいくあの地獄のどん底に、血を流して倒れていくその中に、神様の最高の愛を占領し得る道があります。先生が共産地下の監獄にいるとき、言葉を話さなくても霊界から伝道しました。それで、先生のために死を覚悟して、どんなことでもできる弟子たちをもっていました。私が世の中の悪党なら、監獄を爆破して出てくることができる道が、いくらでもあったと言うのです。そのような立場に神様が共にあるのです。(91-175,1977.2.6)


⑫「ため」に生きれば神様の近くへ行く


 霊界は3段階になっています。霊界では、誰が高い所に上がるのでしょうか。より「ため」に生きた人です。自分のために生きた人は、反対の世界が展開します。それも同様に3段階です。「ふん! 我々はお前のような者は嫌だ!」と反対するのです。自分のために生きた人は、全部反対し、人のために生きた人は、全部歓迎します。
 地上に生きて霊界に行った人たちで、高い所に行く人たちは、全部人のために生きた人たちです。世界40カ国なら40カ国を回りながら、自分の母と家庭を拡大したような心情で「ため」に生きた人たち、世界の人々を全部悪から救ってあげる聖人の心をもった人たちが、高い所に行くのです。
 それで先生は、「私は一人の男として、歴史時代の孝行者を代表した総大将であり、愛国者の総大将であり、聖人の総大将だ。神様の息子という名前をつけたすべての人たちは失敗したが、私は勝利した息子として生まれた」と考えます。そのように言えるようにしてくれるものは、たった一つありますが、それは何でしょうか。簡単です。絶対「ため」に生きることです。与えて忘れ、「ため」に生きて忘れてしまって生きる人だけが、その世界を消化することができます。
 皆さんが天国に行く輩か、地獄に行く輩か、はっきり知るべきです。レバレンド・ムーンが、ただ考えて言う言葉ではありません。霊界をよく知っている人です。
 死を避けることができる人は一人もいません。死を避けることはできないのです。自分のために生きた人は、地獄に行くのであり、人のために生きた人は、天国に行くのです。この二つの世界が、死から分かれるのです。(203-100,1990.6.17)


 これからどんなことが起こるかと言うと、自分の財産を天のものとして捧げるための仕事が展開します。「ため」に生きなければなりません。全体のために、より大きいことのために生きなさいというのです。世界のために、神様のために、人類を解放するために生きなさいと言うのです。自分によって、新しい血筋に転換させなければなりません。血筋が引っ掛かっているために、今まで神様が無力な神様になりました。今は、転換時期に入ってきたので、自由天地が訪ねてくるのを知って、皆さんが善の種を植えなければなりません。自分がどのようにすべきか、よく分からなければなりません。これから、メシヤの一族、天国の国民、永遠の天国とつながり得る、永生をもった群れになるべきです。(203-187,1990.6.24)


 これから何の競争が起こるでしょうか。互いが「ため」に生きようとするのです。なぜでしょうか。天国では「ため」に生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために自分が生きれば、その人に乗って跳躍できるからです。ケープ・ケネディ(現ケープ・カナベラル)に行けば、人工衛星の発射台がありますが、そこで人工衛星が発射されて空に飛んでいくのと同様に、そのようになるのです。 その人のために生きるということは、神様が創造して相対を造ったのと同じであり、その人の愛の対象圏に立とうということです。誰かについていって、「ため」に生きるのも、みなそのためです。
 先生のために生きるのは、先生を利用してしまおうということです。先生の愛の対象になって、跳躍して、神様を占領しようということです。人工衛星が出てきたのは、今日信仰者たちが跳躍して、天国にどのように行き、何千里、何万里をどのように行くかということを表示するものです。
 いずれ、人間は本然の故郷に帰るようになっています。世の中の故郷もあるでしょうが、それよりも本然の故郷に、永遠の故郷に帰るようになるとき、そこで歓迎され得る内容を備えられなかった人は、悲惨なのです。グループに入れないということが、どれほどあっけに取られることか分かるでしょう。(213-194,1991.1.20)


 今までは家庭がありませんでした。しかし、今から家庭の組織が始まるのです。全部分かれていったのです。なぜでしょうか。文化背景が異なり、心情的背景が異なり、暮らす風習が全部異なるので、みな分かれたのです。
 ですから、家庭とは何かというと、新しい風習と新しい文化をつくって、習慣化する所です。しかし、家庭がないので、社会があり得ません。一国の社会がありません。その次には国がなく、世界がないのです。
 それゆえ、今、主流を成しているのが宗教です。仏教圏とかキリスト教圏ということで、ここにとどまるのです。他国の者同士は共にいられませんが、同じ宗教圏は共にとどまることができるのです。宗教圏は、一つの世界を願ってきて、一つの神を信じてきたために、共にとどまることができるのです。しかし、すべての宗教が神様の圏に属しているのに反して、すべての国は神様の圏に属していないのです。
 統一教会から、個人が生じ、家庭が生じ、氏族的メシヤ、国家的メシヤ、世界的メシヤが出てくるのです。個人が行く道が家庭につながり、家庭が行く道は氏族が行く道につながるのです。
 では霊界は、どんな世の中なのでしょうか。真の愛を中心として、他の人のために生きる所が霊界です。自分のために生きるのではなく、全体のために生きる所です。ここの地上でも、100パーセント人のためにする人は、「私を踏み越えて行け!」と言うのです。いくらアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりも、その国民のために生きる人がいるなら、その人が大統領を踏み越えていってもみな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを取るようになるときは、全部怨讐になるのです。
 霊界に行っても同じです。より大きなことのために生きるというときは、自然に通過するのです。より大きなことのためになれば、自然に通ずるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。韓国も同じです。すべての国が含まれるのです。
 では、行くにおいて、家庭もそのまま通り過ぎて、すべてが歓迎し得るその方向の内容とは何でしょうか。それは「ため」に行く、愛の道しかありません。
 この二つは、地上のサタン世界でも妨げられません。この二つは、サタン世界も絶対順応しなければならないのです。いくら悪徳な父母、いくら悪い者でも、真の愛をもって自分のために与えようとする人は、すべてが歓迎するのです。(215-174,1991.2.17)


 ⑬審判


 皆さんに霊界の大審判の法廷に出廷しろという命令が下るだろう、ということを考えてみましたか。いつかは大審判の法廷に出廷しろという命令が下るのです。
 その法廷を管理して支配するためには、判事がいなければならず、検事がいなければならず、弁護士がいなければなりません。では、その判事は誰で、検事は誰で、弁護士は誰でしょうか。判事は神様であり、検事はサタンであり、弁護士はイエス様です。(17-177,1966.12.18)


3)高い霊界に行くには

 ①宗教人たちの標準は霊界


 宗教を信じる人たちが、信じない人と違うこととは何でしょうか。彼らは一生の間、霊界を標準として信じます。宗教というものは、神様に会って生活しようとするところから始まるのです。
 すべての教祖たちが残していった経書の内容は、人間の暮らしを紹介したものではありませんでした。これは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がいらっしゃる所を中心として、我々が関係を結ぶことができる内容を教えてくれたのです。(187-286,1989.2.12)


 ②霊界での所有権決定基準


 昔、我々は、麦飯もなく、食べられずに冷たい部屋で震えていた、そのような日が多かったのです。かえって、そのような日が神様の前に近かったのです。その時は、国を心配し、世界を心配しました。すべてが大きくなって、すべての基盤が拡大されるに従って、多くの人が、どのようにすれば「私」という人を喜ばせられるかを考えるのです。
 知識が多くても、権勢があっても、お金をもったとしても、そのようなものはみな流れていくのです。死ぬとき、みな置いて行くのです。もって行くべきものは、神様の愛を世界に拡大するために努力したことです。人類を愛し、神様を愛したことが最後に残って、あの世の所有権決定の基準になるのです。(127-38,1983.5.1)


 復帰の道には、値引きというものはありません。我々がこの世に来るときは、一人で来ましたが、行くときは一人では行けないのです。多くの人たちを連れて行かなければなりません。(14-105,1964.6.20)


 皆さんが霊界に行けば、伝道した人の数によって、皆さんの霊界の所有権が決定されます。自分は責任者だった、という看板をもっていくのではありませ。(125-17,1983.3.1)


 ③人を愛すべし


 霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる権利がないのです。地獄は、見ながらも食べることができない所であり、知りながらも行うことができない所です。それゆえ、神様の愛を中心として、霊界と肉界が一つになり得る、このような価値的な中心を立てておいて、神様の愛を中心として、地上で霊肉が一つになった天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもつことができないのであり、天国を所有することができません。(91-173,1977.2.6)


 霊界に行って、誇るべきこととは何でしょうか。先生は霊界に行ったのですが、「お前は地上で何をしてきたか」と神様が尋ねるならば、「お金をたくさん使ってきました」と言うことが誇りではありません。どれほど人を恋しく思い、愛して生きたかということが誇りです。(187-310,1989.2.12)


 ④神様をもっと愛すべし


 あの世で必要なことは、ほかでもありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛さなければなりません。それが原則です。
 あの世に行けば、金もうけをしますか、億万年眠りますか。億万年眠るのも、金もうけも必要ありません。自分の程度によって、食べることはいつでもできます。(126-142,1983.4.12)


 ⑤家庭の基台を成すべし


 なぜ息子、娘がいなければいけないのでしょうか。必ず愛がなければなりません。神様がいなければならず、夫婦がいなければならず、男女がいなければなりません。その次には、血が混合しなければなりません。神様の血、愛の血、縦的な血、横的な血が混合して生まれたのが子孫です。それゆえ、子孫をもたなければ、あの世に行っても、遊んで休むことができる場がないのです。
 夫妻が80になって、90になるまで、二人だけで、額を突き合わせて暮らしながら「幸福だ」と言いますか。おもしろく暮らすことはできません。息子の嫁がいなければならず、孫がいなければなりません。おじいさん、おばあさんは、孫を連れていって抱かせてあげれば、それ以上の幸福はありません。
 孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を成せず、東西南北に拍子を合わせられないのです。(197-32,1990.1.7)


 仕事をしてから「ああ、大変だ」という考えをする余地がありません。「ああ、大変だ。眠れなくて疲れてだるい」と考える余地がないのです。そうすれば、霊界が開かれます。霊界が見えるのです。皆さんが目を開けて霊界を見、霊的に御飯を食べれば、1日御飯を食べなくてもおなかがすかないのです。そのようなことが起こります。体が軽く、1日中走っても疲れないのです。
 そのようなことを体験すれば、この世がおもしろくないのです。横的に、息子、娘を生んでそうするために必要であって、事実上、この世にいる必要がないのです。あの世に家庭を連れて入らなければならないために、仕方なくこうしているのです。(91-176,1977.2.6)


 ⑥心情圏の伝統を中心として暮らすべし


 霊界で宗教が必要でしょうか。必要ではありません。そこでは長老派とか、カトリックとか言う必要はありません。神様との生活圏内に入るのです。ですから、宗教は必要ありません。
 では、何が必要でしょうか。貴いものが必要ですが、その貴いものとは何でしょうか。神様の愛を受けられることが貴いのです。
 今日、統一教会では、心情圏ということを言いますが、心情圏の基地とはどこでしょうか。神様を中心とした、真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛が普遍化し得る世界が、心情圏の世界です。
 そのような本然の世界では、夫婦を主にするのではありません。天地、天宙を主にした夫婦の愛なのです。それゆえ、天宙をもっと重要視するのです。また、夫婦の愛をなしますが、世界を主にした夫婦の愛をなすべきです。
 ですから、その世界に合格し得る愛の基盤をどこで築くか、どこで探すかということが、この上なく深刻な問題です。それゆえ、今日統一教会は、この世でそれを築こうとするのです。数多くの宗教、この世で貴いという、数多くのその何かと異なり、世の中で初めてこのようなことを始めた所が、統一教会です。ここでは何を教えてくれるのでしょうか。心情圏の世界における合格者になることを教えるのです。
 では、あの世に行くようになれば、民族を愛する数多くの人、数多くの夫婦、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちが、みないるでしょう。しかし神様の本然の心情圏の伝統を中心として生きた人は、一人もいません。(126-139,1983.4.12)


 ⑦あの世にパスするチケット


 今からでも、何かのことを出発させるときは、神様を中心として出発すべきです。これが原則です。
 霊界に行けば、そのような原則にどれほど同化して、どれほど一致するかということが、地獄から中間霊界、楽園、天国にまで、全部つながるのです。
 そうかといって、世界的に有名な学者だからと言って、霊界に行けば、天国に行けるのでしょうか。行けないのです。それゆえ、宗教界は、すべてを捨てて行けと教えるのです。みな捨てて行かなければならないのです。そのような論理が成立します。では、何が一番貴いのでしょうか。天のためにどれほど苦痛を受け、世界のためにどれほど苦痛を受け、涙を流したかということが、あの世にパスできるチケットです。
 それを神様の立場から見れば、神様は、うれしい神様でしょうか。うれしい神様だと思う宗教は、頭もなく、ただ常識外れの輩です。一番悲しい方が神様なのです。その神様が、今まで涙を流し、苦痛を受けたなら、それは神様自身のためではありません。神様が造ったこの宇宙のために、堕落した人類のために、今も涙を流しているということです。なぜそうなのでしょうか。心情の神様であるためです。(97-172,1978.3.15)

 

(2021.11.28:写経奉献)

 

 

 

 

■天聖經(30) 第5巻「地上生活と霊界」 第1章 有形・無形世界における人間の存在

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第1節 人生路程

1)人生路程

2)人間の位格

3)人間の生命の本質

4)肉身生活の高貴性

5)祝福と永生

 

 

1)人生路程

 ①人生路程についての祈祷文

 

(祈り)
 愛するお父様! 天が屈辱を受けるその恥ずかしさを恐れながら、幼い時から今まで闘ってきた私を守って下さったお父様の恩賜に感謝申し上げます。
 この地に何が良いといっても、お父様が運行される本然の心情につながったもの以上に貴い基準がないことを思うとき、その立場を無限に恋しく思わなければなりません。お父様のその愛に接する人は、世の中の万事をみな放棄しても未練の残らない立場にあるということを、私たちは知らなければなりません。今、私たちは、お父様の愛で暮らす理想世界、本郷を訪ねていかなければなりません。第3の生の自由の権限をもち得る解放児として出生するその日を、今日この地上世界で準備しなければなりません。
 赤ん坊が胎中にいるとき健全であってこそ、地上に生まれてからのその一生が健全であり得るのと同様に、地上生活が健全であってこそ、天国の生活が健全であり得る、ということを知らなければなりません。天と地が協助し、万宇宙の動的な運勢に拍子を合わせることができる立場に立つためには、今日の世の中とは相いれず、悪が主管する世の中であるために、死を覚悟しなければいけないという事実を、私達は知らなければなりません。私たちの子孫たちは私たちと同じ立場に立てられては絶対いけない、ということを悟らなければなりません。(49-308,1971.10.17)

 

(祈り)
 愛するお父様、今まで春の環境を開拓するために、絶えず苦労されたお父様がいらっしゃるという事実を思うとき、私たちはお父様に無限に感謝し、無限に歓迎しながら、自分の生命と愛全体を、そっくり移してさしあげられる自らになれなかったことを嘆息し得る息子、娘にならなければなりません。私たちが新しい春を迎えるためには、私の生命が同化できる因縁をもって、そこに完全に吸収されなければならないということを知らなければなりません。
 そうしてこそ、初めて春を迎え、花を咲かせることができるという事実を知らなければなりません。
 「一生で、どのひと時に春を迎えたことがあるのか」と聞かれるとき、いつだと答えられない、春を迎えられずに逝ったかわいそうな霊になってはいけません。一つの花が咲いて実を結ぶためには、夏と秋を経なければならないように、私たちも一つの実を結ぶためには、そのような過程を経なければならないのでございます。
 一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力をもって第2の生を出発できるという事実を思うものでございます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれる生命の気運が膨れ上がり得るかという問題を、自ら推し量れる息子、娘にならなければなりません。
 いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第2の生命の母体である種になることを知るのでございます。
 同様に、私たちの外的な姿はみすぼらしいものですが、無限の生命力を集約できる母体、あるいは結実体として再び無限の世界に植えられ得る価値ある人であるならば、いくら外的に悲惨であっても、悲惨な人ではないということを思うのでございます。その外的な姿が悲惨になれば悲惨になるほど、内的な価値はより充実することが保障されるという事実を、私達が知るようにお許しくださることを切にお願い申し上げます。(32-37,1970.6.14)

 

(祈り)
 お父様! お父様に侍り、謙遜に敬礼を捧げたい心のない人は、永遠のあの世でお父様と因縁を結ぶことはできない、という事を知らなければなりません。今、私たちが、心の門を開いてお父様の心情を感じさせてくださいまして、今日我々の心から聞こえてくるあなたの音声を聞き、失った自分の体を探すことができ、お父様が私一人を探すために、私の背後において艱難と苦労の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げ得る私たちになるようにお許しください。(4-280,1958.9.14)

 

 ②人が願う目的

 

 神様には体がありません。それで、すべての万物を神様の体として、アダムを神様の顔として表したのです。それが創造理想です。神様は、本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が90度をつくるのです。それが神様の創造目的であり、人が願う目的です。アダム、エバが堕落しなかったなら、あの世に行ってお父さん、お母さんとして永遠に現れることができるのに、堕落したためにそうできないのです。堕落しなかったなら、自分の父母に神様のように侍れば、誰でもみな天国に行くようになるのです。(119-109,1982.7.4)

 

 ③生まれた理由

 

 今日、この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地球も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どんなものでも、みなそのようになっています。それゆえ、宇宙は丸く丸く回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっていても個別的に存在するのではなく、全体に連関性を結んでいます。
 では、なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。それで海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、自分の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てるというのです。(104-122,1979.4.22)

 

 愛から生まれ、愛で育って、愛から生きて、愛で死ぬようになるときは、生まれるのも有り難いことであり、生きるのも有り難いことであり、死ぬのも有り難い事です。皆さんは、母、父がこの上なく愛する場に同参して生まれたというのです。同参者であるということです。皆さんは、父母の愛から生まれたために、父母の愛が差してある旗だと思いなさい。それゆえ、旗が動くのは愛を表示するためなのです。一生の間、愛のために生きるのです。それで、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげるのです。(103-258,1979,2,25)

 

 ④瞬間(1日)と一生の関係

 

 皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成することができません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。
 瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。それゆえ、瞬間を輝かせるために、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考えることも注意すべきです。自分の生活で繰り広げられるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決できる所でのみ、勝利圏が決定されるのです。
 このように、勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせ得る無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人になることができるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなることができるのです。このように、生死の分岐点は瞬間にかかっています。(31-218,1970.5.31)

 

 今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来ることを願い、そのみ旨が成されることを願うのも必要でしょうが、それより、自体がどのようにすればみ旨と一致していくかという事が重要です。
 1時間なら1時間を、どのようにすればみ旨と一つになるかということが、み旨の国が成されるのを願うことより重要だということです。それゆえ、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶことができるために、神様を中心として、1日の生活圏内で、1時間なら1時間をどのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題とならざるを得ません。
 復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭まで、4000年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある1年を中心としたものではありません。アダム家庭において、アダム、エバが堕落したのも、1年や10年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたということを考えるときに、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかを知ることができます。
 その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったというのです。このような事実を考えるとき、1時間、カチッカチッという瞬間が恐ろしいのです。それゆえ、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。
 永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに、一瞬でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。
 それゆえ、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、10代に行けなければ20代に行き、20代に行けなければ30代に行き、30代に行けなければ40代に行き、40代に行けなければ50代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、その人は、一生の間、み旨と一つになった1日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。
 いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、1日の勝利基準をもてなければ天国に行くことができず、1年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入ることができないのです。それゆえ、信仰者は永遠を夢見ていくことも重要でしょうが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算して善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。
 このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を残してきたのです。アダム家庭で、カインとアベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。
 120年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受けることができましたが、そうできなかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたというのです。
 アブラハムも同様です。神様が「あなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のする。・・・・・・もろももの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記22:17,18)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチッカチッという一瞬に下されたというのです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった1日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、1時間未満でしたが、ここで歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてくるのです。
 今日、信仰者たちが恐れるべきことは、「終わりの日」に訪ねてくる審判ではなく、1日1日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と交差路を形成していくかという問題です。(37-219,1970.12.27)

 

 ⑤幼児期と3段階秩序

 

 アダム、エバを神様が造ったのなら、それをどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこから出発したのでしょうか。どこから始まったのでしょうか。アダム、エバを、成人になった人として造ったとは考えられません。赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、そのような過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての3段階の秩序を通じた存在の形成というものは、説明する道理がありません。それで、アダム、エバに幼児期があったというのです。その次に、成人期がありました。これは天理です。その次に完成期がありました。
 幼児期とは、どのよう期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の過程を経てくることができる、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。(225-198,1992.1.20)

 

 ⑥我々の人生の道

 

 我々が暮らしている社会、国家、世界は、自分の意志に符合する環境になっていないので、全ての苦衷が生じており、善悪の分岐点が重なり合っています。100人なら100人、各々自分なりの1日の生活を営むために環境と闘争しており、その環境を押して進んでいます。
 それゆえ、朝に計画した1日の仕事に対して誰も自信をもつことができないということを、我々は1日の生活の中でよく体験します。その上に、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自身の1日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例した決意と推進力をもたなければなりません。そうでなくては、その日が勝利の日になり得ないのです。その様な1日1日が加わってひと月になり、ひと月ひと月が加わって1年になります。
 そのひと月も、我々が計画したとおりに暮らせる環境になっていません。我々がひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての与件を打破することができる推進力と決意がなければなりません。それがなくては、ひと月の計画を勝利したものとして終えることができないのです。
 1年を押し進めるためには、365日を克服する事が出来る闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなくては、1年を勝利で飾る事はできません。このような1年に10年が加わって、20年、あるいは30年が加わった日々を過ごしているのが、我々の人生の道です。(31-30,1970.4.12)

 

 今日、この地に暮らしている人間たちは、時間性を外れることができません。人類歴史について見ても同様です。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界もそのような時間圏内で動いていっています。
 人が生きていく所には、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、10年、20年、30年、70年、一生の間行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く誓わなければなりません。そうでなくては、その目的に到達することはできません。時間という過程を通じて、その目的を凌駕し得る内的な決意を続けない限り、その目的を達成することはできないのです。(31-149,1970.5.24)

 

 ⑦我々が訪ねるべき本郷

 

 皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。
 その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則の世界である「ために」生きた人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。
 そこが、我々人間が訪ねるべき本郷です。今日、我々は堕落した人生として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては入ることができないために、神様は、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。
 それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異なることによって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入ることができる資格者を錬磨させる訓練場です。東西、四方の文化背景によって、高い所に前進することができる一つの統一された宗教世界を率いてきています。
 そのような本郷の所へ導くべき宗教なので、宗教は何を教えているのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えていると言わざるを得ません。そして、高次的な宗教であるほど、「ため」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜であれ」と言うのです。数多くの人を高め、彼らのために生きる立場に立てというのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。なぜでしょうか。その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。(78-117,1975.5.6)

 

 ⑧人生最高の行くべき道

 

 人生の行くべき道とはどのようなものでしょうか。神様の愛を占領することが、人生の行くべき道です。神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男性も女性もみな行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。
 人生の行くべき道は、無限であられる愛の神様を探すことです。10回でも100回でも、死の峠を経てでも、死んでも絶えず探していくべき、神様の愛を探すのが人生の最高の行くべき道です。
 欲望の終わりとはどこでしょうか。神様の愛を占領する所です。神様を占領したといっても、その中にもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自分の神様ではありません。それゆえ、神様の愛を占領しなければなりません。愛だけ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても大丈夫なのです。神様のものが私のものであり、私のものが神様のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。
 そのような場に横たわるようになれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にいる存在の中で、自身のために存在しないものがないと感じるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で充満した所なのです。(39-219,1971.1.10)

 

 ⑨出生の基準と生涯の基準

  イ)誤った出生の基準

 

 今日、世の中の人は、自分自身が高貴な人だと言っている人でも、いくら博士だと言っている人でも、自分の出生が間違ったということを知りません。神様の怨讐であるサタンの愛と、生命と、血筋をもって生まれたということを知らないというのです。重要な問題です。
 堕落によって人間は、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にサタンの血が流れていて、その血が今日、自分につながってきたというのです。そのような3種類の結実が、正に自分です。
 ですから皆さんは、サタンの血統に属したのです。いわば皆さんの血管に乗ってサタンの血が流れているのす。したがって、自動的にサタンは自分の理想的な結実を結んだのであり、神様は、そのような男女を本然の純粋な完成人間に救おうとされるのです。皆さんは、サタンの愛から出発したのです。皆さんは、サタンの血統をもって生まれたのです。
 それゆえ、出発が誤ってしまいました。出発が誤ったので、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母として始まったので、帰って真の父母として再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。自分が、神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再び引き継がなければなりません。
 それで、出発するとき、血統転換式をします。それを、自分の生命よりも信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ立場から回生させる注射と同じです。解毒注射です。
 我々の先祖が過ったのです。これのために、歴史を経ながら多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対行けないのです。
 堕落天地に不倫の愛を残すことによって、歴史を通して受けたその代価が、とてつもなく大きかったのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、とてつもなく大きかったというのです。(216-109,1991.3.9)

 

  ロ)生涯の基準

 

 ここで、生涯とは、永遠の生涯をいいます。霊界のことだけを言っているのではありません。それは生きている永遠の人生です。
 「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的であり、主体的な神様の対象が、正に私です。神様の愛の相対が私だというものです。神様が自分より、もっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が自分です。
 愛の属性は、主体と対象が一つにすることです。それは、国家を一つにします。それゆえ、どんな場でも同参することができ、どこにでもついてくことができます。全財産を、みな相続することができます。神様の心情までも、みな相続するのです。先生が悲惨な過程を経てこれを発見することによって、その基盤の上に立つようになりました。これは何ものとも換えられないし、崇高で高貴なものなのです。驚くべき恩賜です。
 それゆえ、神様と同じ立場に立つのです。永遠の真の愛の場に同参するのです。あの世は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動くことができませんが、あの世は次元が高い世界であるために、何でもできる所です。時間を飛び越えられるのです。愛を中心として何でも願いさえすば、いつでもどこでも、みな得ることができるのです。
 我々は元来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である自分は、永遠の生命体なのです。ですから、霊界に行けば自由なのです。それで、生涯の基準として、第1が善悪の基準です。皆さんは、それを知るべきです。善悪の基準が第1であり、第2が本然の出発点であり、3番目は永生です。(216-115,1991.3.9)

 

2)人間の位格

 ①神様が人間を創造した目的

 

 神様は、人間をなぜ造ったのでしょうか。第1は、神様自身が父母の立場に立つためです。その父母は、霊界でも無形です。形がありません。それで、形をもった人間の父母になるためには、形をもたなければなりません。そうでなければ、中心になり得ないのです。
 2番目は何かというと、垂直線は一点にとどまります。面積がありません。すなわち、霊界では繁殖をすることができないのです。垂直の次元で、それを横的に展開して360度の球体になってこそ、多くの空間が生じるようになります。
 3番目は、愛の相対圏の永遠性を維持するためです。神様の相対になるのは、アダムとエバだけではないということです。アダム、エバが相対の位置に立つのと同時に、その子女たちも相対の位置に立つようになるのです。ですから、神様の相対の位置を永続的に保存するため、人間を創造したのです。
 アダムもエバも神様をお父さんと呼びます。では、その子女たちは神様を、おじさんと呼びますか。おじいさんと呼びますか。お父さんと呼びます。相対というのは、平等なものです。神様の愛を横的に繁殖し、その愛の価値を完成しなければなりません。完成した愛の価値は、一つです。平等なのです。
 そこには、三つの理由があります。1番目は、形が必要なのです。形態が必要です。父母としての形が必要です。アダムの父のような顔で、霊的にその形態を得るということです。
 2番目は、天国の国民の生産地が必要です。ですから、夫婦は生産工場です。生産工場なら、大量生産するのがいいでしょうか、少量生産するのがいいでしょうか。大量生産するのがいいのです。
 生産工場が自動化され明確に大量生産するようになれば、天国はいっぱいになるのです。ですから、女性は多くの赤ん坊を生むようになっています。(222-338,1991.11.7)

 

 ②人間は、霊界と肉界の媒介体

 

 本来、神様の創造過程を考えてみれば、神様は万物を造って、人間を造ったのです。神様を中心としてすべてが始まりました。人を造ったことによって、神様と人間と万物が平衡的な立場で統一することを願われました。これが神様の創造のみ旨です。神様がいて、この被造世界があり、その中に人がいます。このような中間的立場に立ったのが人間であるために、人間は霊界と肉界を接触させることができる媒介体なのです。(67-143,1973.6.1)

 

 ③体と心、そして霊人体

 

 今日、我々が暮らしているこの被造世界には軸があります。その軸にも、二つのものがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっています。一つの主体を中心として回るのに、その主体自身も回ります。体と心が授け受ければ、回るようになるのと同じことです。
 すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界からの復帰の道も、軸を直さなければいけません。
 人間において、体の中心とは何でしょうか。心です。心を中心として、体がつながっているために、体は心を中心として回るのです。心の命令に体が動きます。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体は勝手にできません。(136-14,1985.12.20)

 

 人間には、体と心があり、心の上に霊があり、霊の上に神様がいらっしゃいます。それゆえ人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史に代わった存在であり、未来のすべての因縁に代わる存在であるために、天宙的な価値をもっています。(4-268,1958.8.3)

 

 人は、自分の生涯の因縁を訪ねていくにおいて、自分の心を前にして、それに侍っていかなければなりません。これが天倫です。心の命令に服従しない者は、天が打ちます。今まで天は、歴史路程で人間に良心のとおりに生き、物質的な悪の条件に引っ掛かるなと言いました。
 では、人間の良心は、天倫に100パーセント似たのでしょうか。そのようになっておらず、数多くの障壁で遮られているのです。天国の関門の前に、曲折の門が横たわるようになるというのです。これがキリスト教でいわれる審判の関門です。今日の思潮は、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。中心をつかもうとしてつかむことのできない時代ということです。
 今日、我々は、物質を多く持っていてもいけません。なぜなら、神様が人を造るとき、体と霊人体を造りましたが、霊が中心であるからです。(4-269,1958.8.3)

 

 ④完全作動と共鳴

 

 共鳴とは、振動するときの周波数が同じことをいいます。人間は、永遠に生きることができる我々の内的人と、地上天国に暮らすことができる外的人が、愛を中心として共鳴することができなければなりません。共鳴するときは、音波が同じであってこそつづられるのです。そうしながら回ります。回るには、そのまま回るのではなく、核を中心として回るのです。
 同様です。霊人体と肉身が神様の愛を中心として調和するようになるときは、霊的細胞、肉的細胞が完全に作動するのです。それゆえ、目が完全作動するときは、天上天下、地上天下がみな見えるのです。完全作動をするためです。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、100パーセント響きわたります。同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がすることなく、みな共鳴するようになるのです。(171-103,1987.12.13)

 

 人間を見ると、心と体が二重構造になっています。男性もそうであり、女性もそうです。男性も女性も心の人と体の人から成っています。それで、男女を合わせれば4人だと言うことができます。分けておけば4人ですが、これがどのように一つになるのでしょうか。神様は、なぜこのように4人に造られたでしょうか。神様の真の愛を中心としては、完全に一つになるのです。真の愛で完全に一つになるのです。
 皆さんには、霊的人、統一教会でいう霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。では、霊人体と肉身はいつ一つになるのでしょうか。これが問題です。これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、他の側も振動数が同じように共鳴するのと同じ道理で、神様の愛の作用が我々の心に来れば、自動的に体に反応するということです。
 それゆえ、体と心を100パーセント共鳴させ得る圏内に追い込むことができるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、ただ愛だけです。皆さんの目や鼻のような肉的五官が、霊的な五官と願う一つの焦点、理想的標準点とは何でしょうか。神様の力でもなく、知恵でもありません。愛がすべてのものの焦点、標準点です。(138-254,1986.1.24)

 

(2021.11.20:写経奉献)

 

3)人間の生命の本質

 ①霊的なものが人間の本質

 

 ある一つの核心があれば、それを中心として回る相対的な存在が必ずあります。陽子を中心として電子が回っているのと同じように、神様と人間との関係もこれと同じです。電子のような我々人間の心が、陽子のような神様の心の核心と関係を結んで作用しているため、神様が人間に対して復帰摂理をなさることができるのです。
 我々が真理のみ言を探せば、神様の生命が躍動すること、神様の愛が和動するのを感じることができす。このように、真理の道を経て、神様の生命と愛を探していくのが、価値あることです。パウロが言ったのと同様に、世の中の光になることができる自分になったのも、中にある神様の愛のためです。
 真理は、永遠不変です。では、我々はこの悪なる世の中で、どのように善悪を分別しながら真理を探していくべきなのでしょうか。自分を中心とした心を捨てて、いつも低い位置に下りなければなりません。聖書でも、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ23:12)と言いました。人間の本質は、霊的なものです。それゆえ、あの世に行けば、そのような人間の本質が人のためになるようになっていることを、もっと実感するようになるでしょう。ところが人間は、どうして自分だけのためにという心で万事に臨んでいるのでしょうか。これは、すべての人間が、天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているためです。(2-137,1957.3.17)


 今我々は、霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんは、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがおいしくなければならないでしょうか。自分が生き残って神様の側に立つためには、霊的な御飯の味が、肉的な御飯の味よりももっと良くなければなりません。霊的な力を中心として暮らす生活の味が、肉的な力をもって暮らす生活の味よりも、もっとおいしくなければならないのです。(131-211,1984.5.4)


 ②万物の霊長であるという意味


 万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長は神様です。皆さんは、霊があるということが分かるでしょう。人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長であるために、結局神様と直結させて霊長だというのです。
 万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物なのに、どのように万物の霊長になるかということです。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じることができず、原因を占領することができないのです。被造物は、原因に占領されるようになっています。
 皆さんは、結果的存在であることは間違いありません。霊長と言えば、霊の中で中心だという言葉です。この言葉は、本来、神様と人間が一つになった関係についていう言葉です。
 それゆえ、霊長は、神様と通じるのです。しかし、人間が万物の霊長だといって、すべてが霊長ではありません。霊長になり得る人は、別にいます。その霊長になり得るクラブに加入できる資格者は、少なくとも個人のために生きる人ではありません。全体のために生きる人です。神様は、そのような人を中心として願いを成そうとされるのです。そうなれば、誰の天国になるのでしょうか。神様の天国ではなく、その人の天国になるのです。(32-136,1970.7.5)


 人は、どのようにすべきでしょうか。永生しなければなりません。悪なる世の中で、80年ほど暮らしますが、蟻が死ぬことも人が死ぬことも、違いはないと考えるかもしれませんが、それは違います。人は霊長なので違います。万物の霊長になり得るのは、何のためでしょうか。年を取らない心のためにそうだというのです。万物は、みな変わり得ます。純金も変わります。風化作用により、減少します。しかし、心だけはそうではありません。変わらないということにおいて、最高の権威をもっています。(159-278,1968.5.19)


 「万物の霊長だ」ということは、何を中心として言うのでしょうか。お金を中心として、知識を中心として、権力を中心として言う言葉ではありません。それは、神様の最高の愛を中心として言うことです。(210-309,1990.12.27)


 ③内の人と外の人


 人間の本然の因縁とは何でしょうか。神様の絶対的な愛の圏内で、互いに完成した愛を楽しむことができ、褒めたたえることと尊敬の価値を現すことが、本然の因縁です。そうする中で、天の因縁と地の因縁が、すっかり和合して、一つに調和して現れたのが人間です。それゆえ、見えない心があり、見える体があるのです。本来の因縁をもって生まれたなら、体と心が分かれますか。一つになっているのです。
 皆さんも、内の人と外の人が互いに闘っています。この闘いは、いつ終わるでしょうか。10年ほど過ぎれば終わるでしょうか、死んでも終わらないのでしょうか。神様が人間をそのように造ったなら、その神様は一つの目的をもった神様ではなく、二つの目的をもった神様です。そのような神様は、混沌とした神様だというのです。
 宇宙のすべての法則は、前後左右が行き違いなく秩序整然と一つのはっきりとした目的があります。これを見る時、人は本来、このように創造されたのではないのです。それで、体をほうり投げて、本然の心を探さなければなりません。(44-194,1971.5.7)


 我々人間の肉身と霊人体の中で、より重要なものとは何でしょうか。肉でなく霊なのです。肉は70、80年の時間圏、限界圏内で生きては去ってしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間圏まで超越する権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟って、責任を果たすことが人間の本義です。
 皆さんがいくら肉身を中心として豊かに暮らしても、結局は死ぬようになるのです。いずれ肉身は死ぬようになっているのです。そのようになっているのです。では、霊的な基準と肉的な基準のうちで、どちらがより重要なものでしょうか。我々は、肉的な基準を中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。皆さんは、世の中の人たちが生きていくのと同じ立場にすがってはいけません。
 皆さんは、肉を救ったという立場で、霊肉が合わさった実体を備えて、より甲斐のある立場から出発しなければなりません。(20-326,1968.7.14)


 ④地上生活の目的は霊肉完成


 み旨の目的とは何でしょうか。人間の霊肉を完成させることです。自分自身を中心として見るとき、過去は霊的であり、現在は肉的だということです。二つの世界が侵犯を受けました。現在の立場がサタン世界だから、サタン世界に勝った肉になるべきであり、過去のサタン世界に勝った、霊的基盤を築かなければならないのです。過去と現在に勝利すれば、霊肉をもつことができる基準が、未来に対する祝福に広がるのです。(73-96,1974.8.4)


 我々が知るべきことは、霊界が主体ではなく、肉界が主体だということです。完成させるのには、霊界が主体でなく、肉界が主体です。肉界の完成は、霊界と肉界の完成なのです。ですから、肉身生活が貴いというのです。(91-178,1977.2.6)


4)肉身生活の高貴性

 ①肉身生活は霊界生活のための準備

 

 神様が、万物と人間を造られ、良しとされたのは、互いに闘うなということです。体を打って心の前に屈服させることが、宗教の教えです。悪から善に越えられなければいけません。自分の体が完全に勝利したということは、サタンまでも完全にその根を抜いて征服したということです。天国へは、サタンを征服してこそ行くことができます。サタンに勝つことは、肉身を脱いではできません。なぜなら、肉身が地で事故になったので、直すのも肉身を使って、地で直さなければならないのです。地上ですべきことをみなできなければ、永遠に地獄に行きます。それゆえ、地で勝利して天の側の善なる立場に立つようになれば、永遠に天国に行くのです。(65-294,1973.3.2)


 この肉身世界は、短い期間です。長くありません。それを知るようになれば、寝る時間が惜しいのです。御飯を食べる時間が惜しいというのです。そうなると御飯を歩きながら食べ、寝るのも歩きながら寝て、遊ぶのも歩きながら遊ぶのです。そうであるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。(80-226,1975.10.23)


 私がたとえ制限されたこの地で80年くらいはいるといっても、我々の舞台は世界の祭壇です。それゆえ、ここにある万物は、世界の万物であり、自分の体は、世界人類の体であり、自分の心は、世界人類の心です。そのような心情は、神様と一つになっています。これが全部一つの祭壇です。(75-166,1975.1.2)


 偶然に物事が起きるのではありません。準備というものは、たやすいものではありません。それゆえ、一生について見るときに、少年時代は青年時代のための準備です。壮年時代は、老年時代のために準備しているのであり、老年時代は、霊界に行く準備をするのです。一生は、大宇宙の人格を備えるために、一つの訓練過程を経ている修練期間です。準備期間だというのです。(147-188,1986.9.21)


 我々は、この世に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界があります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界につながるべきです。では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべき所とはどこでしょうか。もちろん、我々は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人たちは、世の中に生まれ、青春時代を過ぎて、壮年時代を過ぎて、老年時代を経て、沈む日のように人生を終えます。
 しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生というものがしばらくの間であり、死んだ次に迎えるべき世界が永遠だということを知り、準備するのです。ゆえに、一生は、永遠の世界に入るための準備する期間です。
 学生を例に挙げていえば、一学年に単位を取るべき、学校で制定する単位の基準があるのです。その基準にどれくらい到達したかの比較基準によって、学校で認められる学生になるのです。しかし、単位に達しなければ、学校が立てた価値基準から遠ざかるのです。それゆえ、ある標準を中心として、すべてを測定するようになります。
 我々が肉身世界で暮らすのは、まるで学校で定めた単位基準に合わせようとして準備する期間と同じです。我々は、一生の間に積むべき実績を追求しているというのです。言い換えれば、責任を追及するある基準の前に、どれほど一致するかという、その基準値を中心として生涯路程を行っているのです。(140-121,1986.2.9)


 皆さんは、すべてを自分のために消化してはいけません。神様のために消化し、自分の国と自分の氏族と、自分の家庭と、自分の相対のために消化するということを考えるべきであって、自分のためにしてはいけないのです。一生の間、自分を中心として暮らせば、全部が心配です。
 しかしながら、「ため」に暮らすようになれば、すべてが自分の友達になるのです。絶えず「ため」に生きれば、自分は真空状態になるために、真が訪ねて入ってきます。(203-101,1990.6.17)


 我々統一教会の誇りとは何でしょうか。第1が真の愛であり、第2が真の父母です。これは、統一教会にだけある言葉です。辞書にもありません。第3が真の子女であり、第4が真の氏族です。これが我々の四大目標です。(203-103,1990.6.17)


 ②肉身生活の貴重性


 自分が解放されれば、神様が解放されます。家庭が解放されれば、天国の家庭がそうなり、この地上がそうなら、天国がそうなるのです。それゆえ、聖書に、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ16:19)とあるのです。このような二重構造の一体性で解明されます。
 皆さんは、肉身を使ったこの期間が、どれほど貴いかを知るべきです。神様も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、すべての天下を統一させることができるのは、肉身を使っているこの期間しかありません。神様と万物を合わせても、この肉身世界と換えることができません。なぜでしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ、完成されないからです。人間の体がどれほど貴いかを知るべきです。我々の肉身は、宇宙とも換えることができません。聖書の、「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ16:26)という言葉も、それで成立するのです。(91-191,1977.2.13)


 肉身生活は80年ほどしかありません。80年ほどにしかならない短い生涯路程で、歴史的に絡んだすべての善の圏を収拾しなければならないのです。この短い肉身生活に因縁を結ぶべき善の圏が膨大だということを知るこの心、良心は、どれほどせきたてるでしょうか。死ねばできないのです。生きている間に本郷の地を訪ねて、祖国光復(祖国の主権回復)をすべきです。そのようにして天の主権者に侍り、その国で生きていってこそ、天上天国に行くのです。(155-27,1964.10.6)


 霊界、無限の世界は永遠です。そのような世界に行くためには自分自体をどのように収拾すべきでしょうか。そんなことを考えてみましたか。肉身生活をする間に収拾しなければなりません。これを正すことができるのは、この時しかないのです。それを正すのは、絶対自分のためにしては正す方法はありません。自分のためにして正す方法があるなら、統一教会の文先生が、今まで絶対に苦労しなかったのです。(59-50,1972.7.2)


 統一教会が提示する原理の道は、千年、万年過ぎても行かなければなりません。生きている間に行けなければ、永遠の霊界に行ってからでも行かなければなりません。(135-297,1985.12.15)


 ③習慣性が重要である


 今日、我々はサタン世界の習慣を捨てて、神様の新しい秩序を確立しようというのです。(213-19,1991.1.13)


 習慣性を打破するということは、とても大変です。その言葉は、今まで皆さんがサタン世界で自分を中心とした習慣性をもって生きてきましたが、その習慣性が固着しているということです。そのように固着してしまったその習慣性は、韓国人たちがキムチ、味噌、コチュヂャン(唐辛子味噌)を食べる習慣性よりももっとひどいのです。
 これは歴史性を持っているのです。悪魔が出発したその日から、根が刺さった習慣性を持っていますが、これをどのように抜いてしまいますか。穴を掘って根まで埋めようとしても、埋められないのです。深刻な問題です。天国に行くには、神様を中心とした習慣性もたなければなりません。(213-20,1991.1.13)


 ④肉身生活の標準


 先生の生活は、神様のために生きる生活です。この世界のために生きる生活です。自分のために生きるという考えをしてはいけません。それで皆さんは、神様と真の父母と人類のためにしなければなりまん。神様と真の父母と人類を結ぶためには、自分を中心として四位基台をつくるためには、真の愛がなければなりません。神様も真の愛を願い、真の父母も真の愛を願い、人類も真の愛を願います。真の愛を中心として、真なるこの宇宙を相続することができる人になければなりません。これをいつでも考えなければななりません。
 それゆえ、今まで皆さんがどれほど天が願う生活と一致したかということを、比較しなければなりません。そして、人類を代表した自分になるべきです。父母を代表した自分になり、神様を代表した自分になるべきです。そのように生きた人は、霊界に行っても、地上のどこへ行っても、境界線がないのです。
 自分が千人の友達と共に食物を食べたい場合、そのような環境も、愛を通じた世界でだけ可能なのです。神様が創造主の能力を行使するとき、その愛を中心として造ったのです。霊界の世界では、真の愛がつながれば、すべてを調節することができ、すべてを創造することができます。それが我々の理想郷です。真の愛と関係を結ばなければ、みな不可能なことなのです。(147-115,1986.8.31)


 ⑤肉身を使って記録される


 皆さんの生涯の中で、もし3分の2以上が口で言えない悲惨な生活をしたとするなら、その3分の2の生活をすべて取り除いてしまうことができますか。取り除くことができません。必ずついて回るのす。(34-139,1970.8.30)


 蕩減、なぜ必要ですか。復帰するためです。復帰とは、再創造でもあります。それゆえ、皆さんは価値のある生涯を残さなければなりません。ある人は、「ああ、年を取ったらイエス様を信じて、死んだら天国に行こう」と、このように言っています。しかし、年を取れば、何かを正すことは難しいのです。
 それゆえ、若い人でなければならないのです。それで、20歳に入ってくるより、15歳に入ってくるのが良く、15歳のときよりも、赤ん坊のときから知って大きくなったというのが、もっと価値があるのです。
 皆さんの中に、水がいっぱいになっていれば、それは清い水ですか、泥水ですか。そこに砂粒が混じっているし、小石が混じっています。大雨が過ぎた後に、川辺にありとあらゆる汚いものが引っ掛かっているのと同じで、皆さんの中にもありとあらゆる汚いものが混じっているのです。ですから、振り回して、みな排泄しなければなりません。濾過装置を経なければならないのです。したがって自分があってはいけないのです。自分があれば、引っ掛かります。水自体に砂粒のように汚い塊が混じっていれば、流れることもできず、引っ掛かるようになっています。
 霊界に行くようになれば、そのような装置、レントゲン写真のようなものに照らされるだろうと考えてみませんでしたか。神様も、そのような濾過装置を経た人たちを必要とします。(97-60,1978.2.26)


 ⑥地での暮らしが余りにも重要である


 皆さんは、霊界に行って、保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。
 皆さんの家庭の基準がみな違います。それで、行くのにも、みな自分のレベルに合う所に行って、長い間とどまるのです。そうすると、皆さんの先祖たちが、息子、娘たちが、「なぜそうしたの? なぜ、そのようにうまくできなかったの? それは何?」と言いながら讒訴します。皆さんは、そこに該当するほどの長い時間、そこにとどまらなければなりません。そのように易しいことではありません。それで、地上ですべきなのす。先生が「しなさい」とい言うことをみなしなければなりません。
 ボルトがあれば、これに合うナットを作って、はめなければなりません。ナットが合ってこそ、はまるのです。分かりますか。それが合わなければいけません。
 この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間ですが、一度しかありません。地上生活を永生に例えれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。これは重要ではありません。肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。
 いつもそのような主流思想をもって、センターに立って一切を調節し、一切を征服することができなければなりません。そうでなければ、個性完成をなすことができません。(207-99,1990.11.1)


 ⑦肉身を使って責任分担遂行


 皆さんは暮らしながら、神様を思い、真の父母を思わなければいけません。そうすることで、愛によって心身が円満で、安定した、満足な圏内に暮らすようになるのです。
 そのような生活をした人は、霊界に行けば、そのままになるのです。地上には内面的に拡大した生活がありますが、内面的に拡大したその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が内面化されているために、神様と人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「神様!」と呼べば、自分の心の中で、「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、神様と共に暮らしていく世界です。
 責任分担はそれほど重要なのです。それで先生が責任分担という原則を立てたのです。皆さんが毎朝鏡を見るとき、男性として女性として、責任分担をどのように果たすかを考えなければなりません。それは深刻な問題です。五官が、責任分担を完成した愛に酔っていると思うのです。感覚のすべては、愛の実体圏に立つためのものです。(218-128,1991.7.14)


 責任分担を遂行するには、皆さんはどのようにしなければならないでしょうか。責任分担を果たすことができる人になるためには、どのようにすべきでしょうか。サタンの情、サタンの血筋を受けて、生まれたすべてを否定する立場に立たなければなりません。(139-251,1986.1.31)


 人間が霊界に行けば、どのようになるでしょうか。神様の体になります。アダムは、神様の体になるのです。ヨハネ福音書とコリント人への第1の手紙に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記録されているのと同様に、神様が臨在し得る聖殿、家です。では、神様とどのように似るのでしょうか。責任分担完成段階に至って、神様が臨んで一体化がなされるのです。(130-22,1983.12.11)

 

(2021.11.21:写経奉献)

 

5)祝福と永生

 ①永生問題を知るべき理由


 何ゆえ今、世の中の家庭が壊れていっているでしょうか。また、お母さん、お父さん、子女が、怨讐になるでしょうか。真の愛がないためです。一番重要なものは永生です。しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。間違いなく永生するということを知るようになれば、他の人が「罪を犯せ」と言っても犯さないのです。「自分のために生きろ」と言っても生きません。これを知らなければ、既成教会を信じても、何かの宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛、生命を投入せずには、駄目なのです。(205-261,1999.9.9)


 我々の教会が原理で武装しておけば、永生問題が確実になります。この永生問題とつながらなければ、社会革命も不可能です。現在の立場で暮らしていることよりも、もっと疲弊して没落した環境に陥るなら、誰もがその場に行かないのです。しかし、永生問題、永遠の命の問題となると、環境的与件をすべて克服することができるのです。宗教は、それで偉大なのです。永生問題が懸かっているのです。永生の概念だけしっかりと立てておけばできます。今まで宗教は、習慣性で結ばれた文化背景を消化できませんでした。越えられませんでした。なぜそうでしたか。永生という概念をつくっておけなかったからです。
 キリスト教は、環境が変われば変わるほど、なぜ揺らぐのでしょうか。永生という概念がないからです。永生問題に自信がないのです。生命を差し出して、環境を越えていくことができるかという問題について見るとき、皆そこに所属して、四方を見回しながら現在の生活に落ちていっているのです。
 その人たちに永生の概念を入れなければ、途中で落ちるのです。では、永生の概念を入れるのは何でしょうか。愛です。これは、統一教会だけが完全に入れることができるのです。
 信仰の道は肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備です。このような信念さえもつようになれば、それはほうっておいてもいいのです。人は、40を越え、50を越え、死ぬ日が近づくと、永生問題に対して深刻になるのです。年を取るほどに、だんだん深刻になるのです。
 愛というものは、年を取るほど希薄になりますが、永生の概念を入れれば、年を取るほど、だんだん深刻になるのです。それゆえ、宗教理念だけが、これから世界を料理することができるのです。環境が頻繁に変わっても、悲喜劇がぶつかってこようとも、永生の概念さえ徹底すれば問題にならないのです。それゆえ、問題は、永生という概念をどのように入れるかということです。神様はアダム、エバを愛の対象として造りました。それは間違いありません。そのために、愛の対象となって生きるべきなのです。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また、体恤しなければなりません。
 真の愛の力が偉大だということを知れば、「行くな」と言っても、行くようになっています。それゆえ、永生の概念だけ入れれば、みな終わるのです。これを入れるにも、理論的に一致し得るとき、心にどかんと響き、体まで一番近いレベルで一つになり得るのです。そのような時が青少年期だというのです。
 そして、15歳以前は、堕落前の本性基準を100パーセント活用し得る時です。15歳以前は、アダムとエバが堕落する以前なので、本性基準が生きているのです。それゆえ、青少年の時に、神様を知らなければなりません。神様を知ることによって、自分と神様との不可分の関係を知るのです。その関係が不可分だということを分からせるためには、永生概念を入れなければならないのです。
 これさえ入れれば、我々統一教会の二世たちに、「他の道を行け」と言っても行きません。それゆえ、世の中を早く救い、すべて天国に連れていかなければなりません。それが自分の所有になるのす。その持っていったすべてで、あの世での等級が決定されるのです。ですから天国は、今、完全に空いています。(230-22,1992.4.15)

 

 ②永生の道

  イ)一生と永生問題

 

 皆さんは、どれくらい生きそうですか。全員「70年、80年は生きるだろう」と、このように考えているでしょう。その前には死ぬと思いません。皆さんは、欲張りです。一生を生きるのに、80歳に死ぬとか、100歳に死ぬだろうと信じるとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。皆さんの考えには、「ああ、私は若いので、今後少なくとも40年、50年は生きる」と、そのような欲をみなもっているでしょう。それが神様に保障されましたか。
 皆さんは、できるだけ1年以内に死ぬものと思いなさいというのです。この短い時間にみな準備すべきです。このような観念を持って生きなければなりません。できるだけ短く定めるほど、幸福です。短く定めるほど、損をしないのです。その期間に真になるように、準備するその内容が、自分の永遠の生命の家を建てるのです。
 では、その短い期間に、神様を愛してみましたか。神様と一つになって愛したいのに、愛することができないのです。神様は、「愛せよ」と言われるのです。そのように生きて死ねば、それが永遠の生命の主体になるのです。
 皆さんが、2年後に死ぬと思うならば、どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式をする所にも行ってみるのです。これは、信仰生活に絶対必要です。それゆえ、「生きよう」と言う人たちは死ぬのであり、「死のう」と言う人は生きるのです。原理が適用されるのです。その短い期間にみ旨のため死のうと、天のため死のうと思えば、永遠に生きるのです。
 同様な道理です。独身のときに死ぬと思って、愛する妻を迎えるようになれば、どれほど有り難く思うでしょうか。結婚できずに死んだ男が、復活して結婚することができる日をもつようになれば、どれほど喜ぶでしょうか。皆さんは何歳まで生き死にますか。神様の命令によって、すぐに死ぬ立場に進むならどうしますか。天が自分を褒めることができる何かを残すべきです。そうなれば寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しく思われます。心配しようにも、心配する間がないのです。一生と永遠の問題で、一生を短く定めるほど価値ある人生を送れるのです。個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛することとは何でしょうか。全人類を愛するための教材なのです。彼らを愛するのは、全体を愛するための教材なのです。そして、時間と空間を超越したあの世へ行って、すべての人を愛するための教材だというのです。(102-122,1978.11.27)


  ロ)人間は永遠の生命を追求する


 永遠の生命の世界を追求するのが、信仰生活です。永遠な神様の愛を追求するのが、信仰です。永遠の生命とともに永遠の愛と一致するために、神様の喜びを自分の喜びとして感じられる決着点を探していくのが、信仰の道です。それゆえ、信仰生活をする我々の個体が、どれほど前進的愛と生命力をもって生きるかというのが、なによりも重要な問題です。
 我々が五官を通じて感じる感覚の一切が、生命、愛とどの程度の関係を結んで生きるかということによって、人間としてどれほど価値を持っているかという問題が左右されるのです。
 それゆえ我々は、我々自身が生命力と加重された愛の心で社会生活をしてきたかという問題を考えなければなりません。もし、そのような立場に立っていられないならば、それは停止したり、でなければ後退するのです。(23-19,1970.6.14)


  ハ)永生と宗教


 人は永生するのです。宗教は、今まで地球星でなくならず、文化背景と風習が異なるすべての環境を経てきながら、世界的な版図を拡大させてきました。それは、人の一生が問題ではなく、永生すべきであるためです。
 人が生きるには、宇宙と共に生活しなければなりません。一生は100年くらいの短い生涯ですが、生涯の限界でそのままなくなるのではありません。その限界線を克服すれば、限界としていた地球村を越え、超越した場で生存を続けることができるのです。
 それゆえ、厳然と永生しますが、そうでないとしても今まで苦痛の中でうめいて生きてきた人類に同情し、助けるためには、仮想的な永生論であっても主張すべきであり、仮想的な神を中心とした理想国家形態を何としても推理しなければならないのです。そのような面でも、宗教が必要なのです。それで、皆さんの永生問題とともに、神様の問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題がつながっているのです。(162-264,1987.4.17)


  ニ)永生しなければならない理由


 神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値になり得る、愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。このごろ、一人の人間の生命の価値がどれほどになりますか。いくらにもなりません。本来、そのような無価値な人間ではありませんでした。宇宙とも換えることができない高貴な価値がありました。
 今日、すべての文学世界について見ても、その骨子は愛です。人は、愛から出て、愛で生きて、死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が、永遠、不変、唯一なので、その前に対象の愛の立場に立つようになるときは、永生するのです。永生という理論が、ここから出発するのです。生命から始まるのではありません。(142-143,1986.3.8)


 真なる人とは、どのような人でしょうか。神様と内外で一つの体になって、子女の立場で完全に愛される人が、真なる人です。そのような人が暮らしていく生活を、真の人生の道だというのです。人は、誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の立場に行くようになれば、神様は自分のものです。また、自分は、神様のものです。そのようになれば、自分は神様の息子になり、神様自身にもなるので、宇宙も私のものになるのです。
 神様が一番愛して、貴く考える物があるなら、それを1日、あるいは10年や100年ぐらい共に過ごしたのちに、ほうり投げるように造りましたか、永遠に共にいるように造りましたか。永遠に共にいるように造りました。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。
 人は永生しなければなりません。なぜでしょうか。絶対者の神様が、絶対的な愛を中心として、喜ぶことができる対象であるためです。1日や2日、あるいは10年、100年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。愛する妻が死んだので、その妻のハンカチを持って独身で生きた人もいるではないですか。インドのネルーのような方は、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。
 それなら神様が、一人しかいないこの上なく貴い息子、娘を造るとき、100年ぐらい生きたのちに滅びるように造られたのでしょうか。違います。それゆえ、人は永生するのが原則です。永生するには、より強い力が排出され得る作用の基盤の上に立たなければなりません。それゆえ、愛の力は、時が過ぎれば過ぎるほど、授け受けすれば授け受けするほど、消耗するのではなく、もっと強くなり、もっと大きくなるのです。そこでは、うれしかったらうれしいものとして終わるのではなく、その喜びが拡張して、無限の喜びとして発展し得るのです。そのような世界が、我々が理想とする国であり、神様がいらっしゃる天国です。
 では皆さんは、永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分に貴いものがあれば、避難する時それを持っていきますか、持っていきませんか。持っていきます。それを誇りたいと思いますか、誇りたいと思わないですか。誇りたいと思います。では、それを1日、2日誇ってやめますか。やめません。自分が死ぬようになれば、それを自分の後代に永遠に残したいと思うのです。それは、神様も同様です。神様が永生される絶対者なら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。それで人々は、昔から永生するのを願うのです。それゆえ、絶対者である神様は、永生の価値をもった愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。(39-342,1971.1.16)


 我々人間は、神様が造られた傑作品として、神様に似ました。神様が永遠であられるので、我々も永遠の性稟をもたなければいけないために、我々の心は老けないのです。
 それゆえ、人は永生しなければなりません。永生してこそ、その傑作品の存在価値をもつことができるのです。
 それで万物の霊長なのです。ここで、霊が出てくるのです。人は、永生しなければなりません、ですから、我々が80年ほど生きて、死ねば終わりだとは考えられません。(159-281,1968.5.19)


  ホ)永生のための人生


 人は誰でも、各自自分なりに生活しています。「生活」するとは、1日1日暮らすことを言い、「生涯」は、一生の人生、一生を生きることを言います。さらには、宗教をもった人たちは、永生という言葉を使っています。永生というものは、一生ではなく、永遠の人生を生きることです。生涯路程を永生にどのようにつなげるかということが重要ですが、それをすべきなのが、生涯の責任です。また、一生ということは、1日1日の生活をつなげてこそ決定されるのです。皆さんの一生というものは、日々がつながったものです。
 生涯の価値的な内容は、どこから決定されるのでしょうか。生涯をみな生きて、決定されるのではありません。1日1日の暮らしの日々が、決定するようになっています。それゆえ、正しく暮らさなければならないのです。
 では、いったい、正しく暮らすこととはどういうことでしょうか。正しく暮らすのは、生涯のすべての路程を代表し得る日々を、意味深く送る生活です。きょうを正しく暮らしたというのは、自分の一生で誇らしくあり得る記憶の日です。「正しく暮らす」ようになれば、生涯路程において、必ず一番価値があるように暮らした日でしょう。価値があるように暮らした日があれば、生涯の中でその日は、忘れられない日になるでしょう。(197-186,1900,1,14)


  ヘ)永生論理とは


 神様は、知恵深いお方です。もし、神様が愛の理念を立てなかったら、神様は孤独単身です。喜怒哀楽を感じることができない神様だというのです。絶対的なこの愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験することができない、深刻で、呆れれるほど、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も永遠に慰められないのです。本然の願いだった息子、娘を生き返らせて、ご自身が夢見た希望の理想形態を再現させたことで満足するのではなく、それを抱いて、千里、万里移動しながら、もっと輝くように装って、もっと美しく表示することができなければならないのです。万宇宙をそのように造ったのです。(204-101,1990.7.1)


 大気が100パーセント絶対低気圧圏になれば、高気圧圏が自動的に生じ、循環運動が起こるのです。神様は、知恵の王です。そのように自動的循環原理を通じて、永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるのです。投入して、投入して、また投入するところから、永生の論理が繰り広げられるのです。「ため」にするところは、滅びません。(204-107,1990.7.1)


 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすると、それは間違いなく人間です。それゆえ、「万物之衆 唯人最貴」(注:万物の中で人が最も貴いの意)という言葉が出てくるのです。これは創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーも、永生するという論理が生じるようになるのです。
 永生というのは、自動的な産物です。永生は、ここから繰り広げられるのです。愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重な話です。男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるというのです。(218-211,1991.7.29)


  ト)一番重要な永生問題


 今日、キリスト教徒たちは、「イエスを信じれば永生する」と言います。永生しようとすれば、継続的な作用を続けていかなければなりません。人生の道を永遠に行こうとすれば、心臓の動脈と静脈のような、循環器官が恒常的に動かなければならず、神経系が恒常的に動かなければならず、大脳、小脳のすべての作用が恒常的に動かなければならないのです。そうするには、莫大な消耗が生じます。(121-172,1982.10.24)

 寝床に就くとき、脱いでおいた靴を、次の日の朝に再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、永生問題以上に重要なものは、この世にありません。それで、この世の中で永生問題を決定づけること以上に深刻なことはありません。(10-249,1960.10.21)


  チ)結局人間は永生に帰結すべし

 

 新しい潮流の波である真の父母の愛の道理を植えて、堕落の恨を解消し、神様が君臨することができる真の愛の家庭を築いてこそ、天国に直行し得るようになるのです。地上天国と天上天国のレールは同じでなければなりません。レールが同じでこそ貨車が走ることができるのと同様に、地上と天上の世界のレールが合わなければなりません。地上天国から天上天国をつなぐための道が、真の愛の道です。それゆえ、個人が行く道、家庭が行く道、全部つながらなければなりません。方向が一致しなければならないというのです。
 それゆえ、一生の間、自分がするすべてのことは、全部真の愛のための実績として、自分の後ろに永遠に固着されるために、あの世に行くようになれば、一生の間残された功績にふさわしいそのレベルに自然にとどまるのです。(211-288,1990.12.30)


  リ)信仰と永生問題


 どのように永生するでしょうか。キリスト教徒たちは「イエス様を信じれば永生する、救われる」と言いますが、とんでもないというのです。愛によってのみ救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真なる人だけが神様の愛の同伴者なので、真の愛をもてば永遠に暮らすことができるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすようになるときに、自分がどこで暮らすべきか分かるようになります。
 大洋を通う大きな船が破損する危険が生じれば、その船の中に暮らしていたねずみたちは全部陸地に逃げるというのです。微々たるものにすぎない動物も、自分の生死圏を見極めていくすべを知っているのに、ましてや万物の霊長である人間はどうでしょうか。なぜ、そうなったのでしょうか。堕落のためです。この堕落の仮面を脱ぎ、悪魔の愛と、悪魔の生命と、悪魔の血筋をどのように解脱するでしょうか。この解脱という言葉は、抜け出すという意味です。完全に抜け出して、関係ない立場に、自主的な立場に立つという言葉です。(215-53,1991.2.6)

 

 90歳を超えた母親は、70歳を超えた息子がどこかに出掛けるとき、「車に気をつけるんだよ。行ってきなさい」と言います。90の老年になるほど、そのように毎日繰り返して言います。それは、永遠に続けても疲れません。そのようにさせる原動力とは何でしょうか。愛です。堕落した世界の父母の愛もそうなのに、本然の世界である神様の愛に属していればどうでしょうか。
 このようになるとき初めて、真なる神様の対象圏を確定づけることができます。神様の愛が永遠不変なことを知るようになるとき、我々人間の愛を中心として、永生の論理を妥当化させることができるのです。愛を中心として永生するのです。(143-280,1986.3.20)


  ヌ)統一教会と永生


 先生は、統一教会の教徒たちに、苦労をたくさんさせようと思います。苦労させても逃げません。なぜ逃げていかないのでしょうか。永生があるために逃げないのです。統一教会から離れられないのは、永生があるためです。(204-82,1990.7.1)


 人々にはみな欲望があります。すべて神様の息子、娘になろうとします。孫では嫌で、神様の婿でも嫌で、神様の息子、娘になりたいのです。誰でも欲望を成就、完成する所は、家庭なのです。(221-25,1991.10.20)


  ル)永生に必要な観念


 皆さん、「自分は永生する人だ。真の愛を実践する人だ」という姿勢で生きなければなりません。ですから何をするにしても、「永世のためだ、永世の訓練をするのだ」と、考えなさいというのです。皆さんには、永生と真の愛との観念は、いつも必要です。永遠に必要なのです。(216-127.1991.3.9)


 ③愛と永生

  イ)愛と直結した永生


 我々は、永生を願っています。永生を願うのに、変わらないものとは何でしょうか。愛です。他のものはみな変わります。環境的に変わるのです。では、愛はなぜ変わらないのでしょうか。愛は、すべての生命力の中心なので、変わらないのです。愛は理想的な与件の中心に位置を占めるためです。中心は、その周囲が全部なくなる前には、なくならないということです。愛は宇宙の中心になっているために、愛と一つになれば、神様が残っている限り残っているのです。(157-267,1967.4.10)


  ロ)真の愛と永生


 真の愛とは何でしょうか。結婚するとき、結婚相手には自分より良い人を願います。自分の息子、娘が、自分より良いことを願わない父母はいません。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。神様が愛の相対が自分より優れているのを願うのです。
 絶対的な神様が我々人類の父なら、その父は絶対的に行わないで、その息子、娘にだけ、絶対的に行えと命令できるでしょうか。できません。神様は愛の相対を自分よりも優れていることを願われるという原則から見るとき、人間の価値は最大の価値です。愛は中心として神様よりも高い価値があるということです。
 それゆえ、皆さんの心は、最高のものを願っているのです。それが不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったなら可能なのです。
 高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理して主導するようになっているのであって、引かれて回り、服従するようになっていませんでした。皆さんの心がそうです。解放された心です。誰の支配も受けたいと思いません。これは、万民が共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国のみ座に自由に行くことができます。神様の友達になることができるのです。愛のために人間を造ったというときは、神様が永遠で、絶対的であるがゆえに、人間自体も永生をもつというのです。これは、自然な論理です。それゆえ、真の愛は永遠です。永生するには、その真の愛の圏内で暮らさなければなりません。(211-272,1990.12.30)


 真の愛により、永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程、目的などすべてのことが、愛を中心として完成するからです。過程を通じて結果が出てくるのです。自分の体と心の完成は、真の愛によって、根本的に可能になっています。理想の結実を結ぶものは、愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛により、神様も永存しています。永生は、愛によってつながるのです。それで、永生の環境を成すには、愛の環境を中心として生活しなければいけません。愛の実体圏をもつには、愛を中心として、実体的な体恤をしなければいけないのです。(218-134,1991.7.14)


  ハ)絶対必要な真の愛


 神様は霊界のどこにいらっしゃるでしょうか。絶対的な中心、愛の中心にいらっしゃいます。その愛は真の愛であり、直短距離を通じます。
 皆さんは第1に、神様を知らなければならず、第2に、永生を知らなければならず、第3に、真の愛を知らなければなりません。
 これは投入です。100パーセント以上投入します。100パーセント以上投入するところに永生があります。真の愛をもたなくては永生がありません。永生しない人は、神様に会うことができません。(205-129,1990.7.29)


 これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第1は、利他主義、第2は、真の愛、第3は、永生です。これによって世界が収拾されるのです。
 真の愛とは、何でしょうか。自分の生命以上の投入をしなければなりません。生命以上を投入しない所には、真の愛はありません。生命以上に投入するところから真の愛が成立します。真の愛が成立しなければ、永生はないのです。
 なぜそうなのでしょうか。皆さんがサタンの血を、サタンの血統を受け継いで生まれたからです。それで、聖書には、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な第一のいましめである」(マタイ22:37,38)とあります。
 この言葉の意味は何でしょうか。心を尽くして、思いを尽くせと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第1の戒めです。
 第2の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39)ということです。「隣り人を自分を愛するように愛せよ」というのはどういうことでしょうか。生命を懸けて愛しなさいということです。生命を投入しなければいけません。
 なぜ、生命を懸けなければいけないのでしょうか。第1は、サタンを屈服させることができず、第2は、サタンの環境から抜け出すことができず、第3は、サタンの血統から抜け出すことができないからです。サタンの環境からは抜け出すことができるとしても、サタンの血統は仕方がありません。真の愛は生命を超越するのです。
 男女が生まれたのも、利他主義です。男性が生まれたのも女性のためです。これは、絶対的な真理です。永遠の真理です。
 なぜ、そのように生まれたのでしょうか。真の愛のためです。男性もそうであり、女性もそうです。世の中では、「二人で永遠に一つになりたい」と言いますが、二人が一つになって何をするでしょうか。神様を占領しようというのです。真の愛でなければ、神様を占領できません。
 皆さんの家の中で、主人には誰がなるでしょうか。その家の全体のために、一生を生きていく人が、中心者になるのです。神様の代わり、父母の代わりに中心者になるのです。100人の友達がいるとき、その100人のために一生の間を生きれば、その友達100人からあがめられる中心になるのです。ですから、永遠の世界で、永遠に「ため」に生きる主人がいれば、永遠の主人になるのです。
 その方とは誰でしょうか。神様です。ところで、その方は我々の父なので、すべての宇宙が「私」と共にいるというのです。そこに永生があります。そうでなかった所には、永生がありません。それゆえに、聖書に、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とあります。それはどんな言葉でしょうか。死を越えるべきで、越えなければ生きることができないという言葉です。(205-258,1990.9.9)


  ニ)愛と関係した死後の世界


 我々は結局、どこへ行くのでしょうか。霊界です。「死後の世界」と言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界だからです。愛と関係している世界なので、死後の世界ではありません。真なる愛を中心として出発したものなので、自分が真なる愛の立場に立つようになるときは、今、ここが霊界です。それゆえ、愛は偉大なのです。(144-199,1986.4.24)


 球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合することができます。縦は縦となり、横は横になって和合しなければ、上下、前後、左右全体が和合しないのです。そうなれば、統一がなされません。愛だけが統一することができるのです。それゆえ、統一教会が、真の愛を中心とした統一理想世界を論ずるのも、原理観において一致した結論です。(144-219,1986.4.24)


 神様は、人間を率いてくださろうとします。神様も息をするのです。愛の呼吸をされるのです。愛を中心として、宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるのです。愛も息をするのです。宇宙の脈拍がこのようになっているために、男性や女性が「ああ! 私、嫌だ」と言えません。拍子をが合わそうとすれば、互いが愛し合わなければならないのです。一方向です。全部神様を中心とした一方向だというのです。(201-191,1990.4.1)


  ホ)「ため」に生きてこそ永生する


 おじいさん、おばあさんも、千年、万年後代の後孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生できるその公式的路程は同じです。永世へは、「ため」に生きた人たちだけがパスすることができるます。(203-193,1990.6.24)


 ④祝福と霊界

  イ)愛の威力


 霊界も肉界も、愛によって動きます。真なる愛を中心として、環境的与件は、拍子を自動的に合わせるのです。(185-20,1989.1.1)


 過去の人も、現在の人も、永遠となり得る資格とは何でしょうか。我々人間世界で必要とする、そのすべての欲求の要因とは何でしょうか。それは愛です。つまらない愛ではく、真の愛です。
 真の愛は、縦横を通じて、どこでも90度に合うのです。東洋の家にも合い、西洋の家にも合い、南方型の家にも合い、北方型の家にも合い、五色人種、文化背景、すべての宗教背景が全部違ったとしても、合わなければなりません。それが真の愛です。(180-86,1988.8.7)


 今日、この世には、多くの人たちが暮らしています。その人々の中で、統一教会でいう祝福という意味を知る人は、多くありません。この祝福という言葉は、統一教会で初めて始まった言葉であり、その言葉を中心として、今まで祝福行ことをしてきました。これから、人類は、祝福の門を通らずしては、天国に行くことができません。数多くの人たちが、既成教会を信じますが、その既成教会自体も祝福という門を通らずには、天に行くことができないのです。
 このように言うと、既成教会では、「統一教会のレバレンド・ムーンは独善的な言葉をたくさん言う」と言うでしょう。統一教会でいう祝福は堕落した人類が、必ず行くべき道です。いくら反対したとしても、霊界と肉界をつなげて入らなければならない、非常に重大な問題になるのが、この祝福です。今日、一般の宗教を信じる人は、「救い」というと、個人の救いだけを考えます。自分がよく信じれば、天国に行くと信じるというのです。
 しかし、本来の神様の理想について見るとき、天国は一人で行くようになっていません。愛する夫婦、愛する家族が共に入るようになっています。(143-235,1986.3.19)


  ロ)夫婦の霊人体


 我々は、愛の理想を探していく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つために、愛の理想を横的な世界に扶植させなければなりません。種として蒔かなければなりません。ここで愛の心を授け受けしながら育つのです。大きくなるのです。こうして、愛の実を結んで、その夫婦が霊界に入るようになるとき、神様の永遠の愛の圏内に抱かれ、神様と一つの体になるのです。神様と一つになるのです。(144-224,1986.4.24)


 皆さんは、真の愛の論理をたくさん習わなければなりません。我々統一教会の霊神(注:草創期からいるお婆さん)たちは、50になったのに、顔を見れば40代のようです。50歳を越えたのに、人々でいえば大体30代しかならないように見えます。ですから愛するほど若返るのです。
 人はこの地上で、うわべは老けていきますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど、霊人体は若くなるのです。どういう意味かというと、人間が長く生きれば生きるほど、内的人間である霊人体は、最高の円熟した美男、美女になるのです。そのうわべは服のように脱がなければならないのに、(それさえも)若返ってくっついたらどうしますか。
 ですから、外的なうわべは、老ければ全部駄目になりますが、内的な中身は、丈夫になって未来の相続者になり、美人になるのです。それゆえ、秋のいが栗のようになるのです。秋になり、丈夫だったいが栗が、熟れれば、殻はぶよぶよになって割れ、栗の実が落ちるようになっています。それと同じです。(164-102,1987.4.26)


  ハ)結婚と霊界


 キリスト教では、神様を愛するといいますが、漠然としているのです。聖書でいうには、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイ22:37~39)とあります。そうなればいいのです。神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。
 皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの体が大きくなれるよう、その要素を供給してもらうのです。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入るのが死ぬことです。第三の父母に行くには、そのまま入るのではありません。第三の父母に帰るには、本来の父母だった神様の形に似なければなりません。
 したがって、結婚はなぜするのでしょうか。神様の形に似るためです。神様は、二性性相が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性自体が男女なので、彼らも合性一体化して種のようになって、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。
 しかし、その種をつなげるためには、愛の道を通じなくてはならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、歩みながらも愛に帰るために歩まなければらないのです。その道は、「ため」に生きる目標を中心として訪ねていかなければ、方向が異なってしまいます。(139-98,1986.1.19)


  ニ)祝福家庭の霊界の立場


 我々統一教会の信者たちは、霊界が確実にあるということを知っています。信じているのではなく、知っているのです。多くの体験を通じて、否定しようとしても否定できないのです。今日、統一教会が世界的な基盤を形成するまで、多くの体験過程を経てきました。それゆえ、「霊界がない」ということのできない立場にいる人たちが、統一教会の信者です。
 霊界は絶対的神を中心として構成された世界です。その絶対的神がいるなら、その神は、宇宙の起源になる方です。その方によらないものがありません。その方に属しているために、その方に属した全体は、その方と共に感じ、その方と共に因縁をもって過ごしているのです。(140-123,1986.2.9)


 そのような愛の圏が成される所には、サタンはいません。それゆえ、サタン世界は、自分を中心として愛するのです。天が一番ではなく、自分が一番です。天を否定し、地を否定して始まるのです。しかし、その反対に、天を認めて地を認め父母の平均的愛のもとで一つになれば、サタンが主管することができないと見るのです。それが本然のアダムの位置です。その基準を回復しなければなりません。(140-201,1986.2.9)


 ある町内に、統一教会の夫妻が住めば、その町内で話題になければなりません。先生がどこへ行っても話題になるのと同じです。「あの夫婦は、この町内に実によく来た。あの奥さんは、この町内のすべての男性たちが好み、おばさんたちがみな好んでいる。子供たちまでが好んでいる」と、そうでなければなりません。
 それができなければ、霊界に行って再び帰ってこなければならないのです。帰ってくるには、先生がサインをしてあげなければいけないのです。祝福を受けた家庭たちが、地に勝手に来ることができますか。先生が祈祷をしてあげてこそ、可能なのです。それで、先に行った人たちが、みな縛られています。今まで統一教会の祝福家庭は、みな縛られているのです。それゆえ、地上が問題です。(13-202,1986.2.9)


  ホ)祝福は約束


 統一教会の祝福家庭は祝福を受けたとき、永遠の家庭として暮らすということを、先生と約束しました。先生は、永遠の家庭を治める人であり、永遠の国を治める人です。永遠の国の家庭を設定するのです。その約束を守る人が、家庭はもちろん、永遠の国を引き継ぐのです。(205-359,1990.10.2)


  ヘ)祝福の栄光


 真なる女性は、どうあるべきでしょうか。真なる男性を中心として、男性がしようというとうりにしてあげなければなりません。家庭のために奉仕して、氏族のために奉仕するようになれば、その周囲が全部拍手するようになります。
 皆さんは、先生が好きです。なぜ好きでしょうか。苦労しながらも皆さんを生かしてあげようと、人類を解放させてあげようとするからです。先生が苦労しなければ、皆さんが霊界に行って、億万年待っても祝福を受けられないのです。不可能なことなのに、先生が苦労して、価値ある祝福の版図が繰り広げられたというのです。これは霊界とこの地上世界に、栄光なことであり、栄華なことです。(162-68,1987.3.27)

 

(2021.11.22:写経奉献)

 

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