「家庭連合」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●真の父母は、ユダヤ教・基督教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

連載第4回「成約聖徒のためのヨハネの黙示録解明」第一章「序文・祝祷・預言委託の幻」

第一章の解明から始まります。


●はじめに


 小説でも、論文でも、最初に重要な注意書き(注意喚起)がございます。(*これはイエス・キリストを介しての神様からの注意書きであります。)

 ヨハネの黙示録も同様でありまして、第一章に、この書の目的や取り扱いの注意書きがあるのであります。

 それでは、本文をたどりながら、進めてまいりましょう。


●第一章(序文・祝祷・預言委託の幻)


●解明01
黙示録の伝達手順

ヨハネの黙示録1章1節)
1:1
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。


●伝達手順
神 ⇒ イエス・キリスト ⇒ 天使 ⇒ヨハネ(見者ヨハネ


 なるほど、真理伝達の手順が四段階でなされているわけか。そのように理解できそうですが、事はそんなに簡単ではありません。

 「ヨハネの黙示録」を読み解きますと、イエス・キリストが直接語る部分(祈祷部分)があったかと思えば、明らかに「ヨハネの独白(黙示解説)」とは別の、ナレーター役(天使)の伝達文書があったりします。

 もちろん、神様が直接登場することは、ヨハネの黙示録にはございませんが、①イエス・キリスト ②天使(ナレーター) ③見者ヨハネ がそれぞれ、自己紹介することなく、次々にいれかわるという事態になっておりまして、これは誰が語っている文書かという判明が最初の仕事になります。

 

 

●解明02
「時が近づいているからである」

ヨハネ福音書1章2節)
 1:2ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。
1:3この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである


 この「ヨハネの黙示録」が成立したのは、AD90年頃といわれております。
こちろん、学者によってさまざま見解がことなりますが、そこには触れません。
 イエス・キリストの十字架がAD33年(-4?)であるとしまして、エルサレムがローマ軍によって壊滅するのがAD70年、そこから20年後の文書成立ということになります。
 つまり「ヨハネの黙示録」執筆時点での「時が近づいているからである」は、もちろん「再臨」の預言であります。(実際の再臨成就は、1920年ですから、信徒激励のための聖句であると理解できます。)


●解明03
イエス・キリストによる祝祷

1:4ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、 1:5また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 1:6わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。
 
1:7見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。
 
1:8今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。(ヨハネの黙示録1章4節~8節)



 1章1節~3節は天使のナレーター部分であり、4節~8節は「イエス・キリスト」による祝祷部分と理解できます。

 

●解明04
「見よ、彼は、雲に乗ってこられる」

 

1:7見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。(ヨハネの黙示録1章7節)


 この聖句は、キリスト教信徒にとっても、そうでないものにとっても、大変な争点となった(今でも継続中)聖句の一つであります。キリスト教信徒の主流派と呼ばれる人々(日本基督教団に代表される)は、もはや、この文字通り「雲に乗ってこられる」とは信じません。

 一方いわゆる「ファンダメンタリスト」と呼ばれる人々(いわゆる「福音派」とよばれる人々の中の中心的な人々)は聖書を「逐語霊感説」の立場でとらえようとしますので、この聖句も、そのまま解釈ぜずに受けいれます。

 ただ、このような聖句解釈は、基督教の長い伝統からすれば、とても正統的な人々であるといえます。「雲にのってくる」を「解釈して」受け入れるのは、おおむね1700年代以降。文芸復興の影響で、聖書の価値や神学が疑問視され、伝統的な基督教神学の見直しが迫られて以降の変化なのであって、それまでは、聖書の文字通り信じるのが、篤信な信仰者の証しであったわけです。

 文鮮明師が韓国で初期伝道を展開した1940年代から50年代の、韓国基督教の主流派は長老教(改革派)で、現在と違い、ほとんどこの文字どおり「雲に乗ってくる」と信じる人々でした。

 (佐竹明著『ヨハネの黙示録』中巻P64・新教出版社)によれば、釈義的に「彼は雲とともに来る」に解釈できると記述されています。ただ「雲に乗って」と訳すことも誤りではないという、両論表記的な解説です。

 統一教会では、「雲」はキリスト教信徒の表徴と理解しますので、「再臨主は篤信なキリスト教徒の群れの中に出現すること」とこの聖句を理解します。

 

●解明05
「わたしは、主の日に御霊に感じた」


1:9あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。 1:10ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

 この御霊に感じたは、本日のヨハネの黙示録解明の核心的な部分です。いったいぜんたい、このヨハネの書いた「ヨハネの黙示録」執筆の動機をどうとらえるのか。これは基督教神学でも意見が分かれます。

 これは、おおきく4つに分かれると思われます。

1)この黙示録に記されているとおり、見者ヨハネが、見せられた「黙示」をイエス・キリストに命じられるままに、黙示録にまとめ、世に公開したととらえる。
⇒基督教信仰者の立場では、当然にしてストレートにそのまま受けとめる内容です。

2)旧約聖書の黙示文学を題材に、脚本にしたがい、一人または複数のチームで技巧を凝らしながら組み立てられた。
⇒信仰的な立場を捨て、どちらかといえば、人間中心の装飾劇との立場です。新約聖書の「高等批評」の権威はいまでもブルトマンだと思われますが、その流れの中で、「ヨハネの黙示録」を構築した素材を旧約聖書の「エゼキエル書」や「ダニエル書」に代表される預言書から探し出し解明せんとしたものです。

3)90年代が、ローマ帝国による基督教迫害時代であったことから、信徒の忍耐と再臨の希望をしめし、ローマ帝国の主権者をさまざまな隠喩で表現することで、体制批判を黙示文学に託した。
⇒信徒を鼓舞激励する動機で執筆された、創作信仰文書という立場です。

4)統一教会の「ヨハネの黙示録」解明の主張
文鮮明師は「原理講論」の中で、ヨハネの黙示録の主な内容は、再臨主の地上聖誕以降の黙示であることを明言しております。


●執筆の動機の著者の結論

1)のヨハネに与えられた黙示をそのまま公開した文書というのは、そのとうり信ずるべきであり、絶対譲れない解明の出発点です。

2)の旧約聖書の預言書からの引用構築であるという主張は、形式的にはそのとうり受けいれるべき主張でしょう。しかし、イエス・キリストを通じ与えられた神からの黙示が前提であり、その後ヨハネが、黙示内容を基に、信者が受けいれやすいように、預言書の言葉や装飾的表現を使いながら記述されたものであります。

3)と4)はかなり対立的な見解です。私はもちろん4)の主張を信じます。旧約の黙示文学成立の歴史から、その当時の切迫したローマ帝国の迫害から、信徒を守り鼓舞する動機の書であるというのは、一定の説得力があります。

 しかしながら、神がこの書を信徒のために準備したという大局的な摂理観に立って解明するならば、神の第一の関心事は「再臨」にあるのですから、「再臨主の聖誕とその後の三代王権の預言」というのが、正しい見解なのです。

 

●解明06
「人の子のような者がいた」

 

 1:13それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。 1:14そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。 1:15その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。 1:16その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

 

 「人の子のような者がいた」という聖句が意味しているのは、イエス・キリストであるというのは、基督教会での統一的見解であると思われます。私もそのように理解します。ただし私が理解しているのは、霊界にいまし給う霊人のイエスという捉え方であります。

 統一教会では、創造原理の第六節で「霊界論」はかなり明確に提示されております。

 しかしながら、基督教会では、プロテスタントカトリックの「煉獄」を認めないという議論が象徴するように、神学的には、まったく明確に定義されているとはいえない状況のように思われます。

 基督教会ではイエスが三位一体の神という理解から、この聖句のイエス・キリストの位置づけの理解はとても困難です。また、信徒が基督教会が信じる再臨の際の復活までのあいだ、いかなる姿でどこにいるのか等々、まったくよく分かりません。神学者はこの部分には触れたがらないし、共通の見解がみあたらないのです。


●解明07
神からの「ヨハネの黙示録」解明についての謎解き

 1:20あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。

 

 第一章の最後の聖句です。神は自ら「ヨハネの黙示録」解き証しのポイントを語っているわけです。「ヨハネの黙示録」で語られる「星」とか「燭台」という「象徴的な言葉」は、実は、具体的な事物や人物に置き換えることで具体的に解明できるということです。

 統一教会文鮮明師もみ言の中で、このことについて語っております。

1)「『創世記』は創造を、『ヨハネの黙示録』は復帰を記録したみ言である。」(『文鮮明先生御言選集』16-205 1966.5.21)

2)「聖書をみると『創世記』が堕落を中心として記述されたものだとすれば、『ヨハネの黙示録』は復帰を中心として、この内容を解説したものだということが分かりました。」(『文鮮明先生御言選集』194-208 1989.10.22)

3)「ヨハネの黙示録』を人間に例えて説明すれば、すべて説明することができる。」(『文鮮明先生御言選集』15-158 1965.10.7)

 上記のみ言にあるように、ヨハネの黙示録は、人間的な創作劇なのではなく、神が明確な意図と目的をもって、イエス・キリストを介し、見者ヨハネに黙示として託した、人類救済の預言なのです。

 

 

●おわりに

第一章は「ヨハネの黙示録」の序論であり、説明書きです。

次回・第5回では、「七つの教会」について解明します。

祈り。アージュ

 

 

 

●この記事がたくさんの人が見れるように
クリック支援をお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村●連絡がとりたい方はメールでお願いします。maile-address: kawahara@yui0123.com