「家庭連合」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●真の父母は、ユダヤ教・基督教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

連載14 文亨進様御夫妻み言選集・李妍雅様のみ言「聖霊大学リーダー会議でのみ言」2021年4月29日

文亨進様御夫妻の礼拝を中心とした御言選集です。

 

 

■14)李妍雅様・2021年4月29日
聖霊大学リーダー会議でのみ言

 

■質問:聖霊大学はどのように作られましたか。

 コロナが来ることを予期しませんでしたが、コロナによって画像で会って対話するのが自然に出来るようになるのを見て、聖霊大学を通して学ぶことが、神様の知恵だったということを最近よく考えます。もし、教会にこのような聖霊大学のようなオンライン信仰共同体がなかったら、信仰の空白期が出来てしまったでしょう。それで、聖霊大学を考えたら本当にありがたいと感じます。聖霊が指示してくださり出来るようになったと思います。

 教会に人も少なく、遠くから通う人もいたし、日本にも韓国にも食口がいらっしゃるので、距離上、時間上、空間上さまざまな制約がある状況で、オンラインでコミュニティを作ることを考えました。初めは、オンラインだけでなく、直接会ってする授業も両方しましたが、オンラインが段々増えてきました。聖霊大学は、二代王様が、「どのようにすれば食口の人達が、礼拝後に小グループなどで集まり、信仰共同体を成していけるか?」という課題を下さり、ケリー氏と私とそしてジャニーチャーチという教会のモデルを使って作りました。1年間に3学期制で運営しています。

 内的目標は色々ありますが、実質的目標は、ひとつの授業をしたら授業のリーダーがいて、リーダーが助力者(アシスタント)を立てて、その助力者が次の授業のリーダーになります。授業の中でリーダーひとりを発掘するのです。このようになっています。
 私たちは、小グループを色々やって来ました。天福宮(チョンボクグン)と青波洞(チョンパドン)でも試してみましたが、度々失敗しました。その理由は、目標が大きすぎたからだと思います。そしてリーダーの方々が、とても疲れてしまったのです。この2つが大きな壁となっていたので、聖霊大学を準備しながらこれらを最大限考慮しなければならないと考えました。

 まず、聖霊大学のリーダーは、1年に3学期のうち2回を行ったら、1回は休む構造としました。リーダーがやりたくなかったり、休みたいのに、誰もする人がいないのでお願いされたりします。教会の婦人会長のような方たちは礼拝にも出ずに食事や洗い物の奉仕ばかりして疲れて、引退したりします。運動をするときにも、足の運動ばかりしませんよね。足の運動をして、腕の運動もして、交代でしながらそうして筋肉を休めることが出来ます。

 次に、段々リーダーがいなくなってはいけないので、授業の中で助力者が次のリーダーをしていくのです。このようにしています。

 聖霊大学の良い点は、教会という大きな集団の中で、あるプログラムをしたい時、聖霊大学システムとして簡単に適用できることでしょう。教会全体でしなくても、例えば、この子女養育講座が良いようだと思ったら自分でまずやってみるのです。そして、反応をみて、修正する部分をチェックしながら、規模を拡大することもできるし、一種の実験のような役割を果たします。

 そして、「愛と尊敬」クラスを通して、夫婦教育や祝福夫婦教育などもすることができて良かったと思います。これからも続けてやっていくと良いです。米国で聖殿教会の教育局長を務めているケリー氏とよく話し合いをするんですが、どうしたら1年に1回でも「愛と尊敬」の授業を、固定的にすることが出来るだろうか。その年に祝福を受けた方々がこの授業を経験することができるように。

 今、現地での教育を考えています。聖殿で一緒に会ってすることを考えています。1年に一回、その年に例えば2020年に祝福を受けた人たちは、夏に授業を受けて、もし10月に受けて、授業期間が過ぎてしまったなら、次の年に受けられるように、名簿も作って直接勧めたりして。

 新しいプログラムを始めようとすると、難しいことが多いですが、聖霊大学のプログラムの良い点は、他の人を探さなくても、構成が出来ているので、授業の中で1つだけ選べば良いのです。リーダーがいて、どんな授業をしようか選べば、例えば、韓国語の授業だとか、キムチ作りだとか、10回のクラスで1学期になりますが、4回にするとか計画を立てて、前もって提出しますから、4回にしても良いし、3回にしても良いし、融通が利くという利点もあります。

 また、聖霊大学の良い点はもう一つあります。二代王様は、とても速く前に進んで行きますよね。まず聖書に関して強調し、愛と尊敬も強調し、そして次の話題に移ってしまうじゃないですか。でも私たちは愛と尊敬がまだよく分からないのに、二代王様は先に行ってしまうのです。私たちは、天一憲法はよく分からないのに、他の事に進んでしまったのです。

 では私たちはどうしたら良いでしょうか。二代王様が天一憲法の話をされる度に、私たちはまだよく知らない、そんな風に考えてしまい、宿題として残されるのです。でも、この聖霊大学で学んでいたら、「あ、二代王様が天一憲法について話される。あ、このみ言葉のことなのだな。」とより深みのある学びが出来るのですね。

 今、天一憲法クラスや聖書のクラスなどありますが、新しいリーダーが増えているのが本当に希望的だと思います。「聖霊大学」という名前は、 二代王様が付けてくださいました。

 国進様も最初は心配されましたが、「中央集権にならないように」と助言を下さいました。公教育のように、洗脳する組織、中央集権的な教科指針を下したり、「こうしたらいけない」というように人を縛り付けることをしてはならないし、リーダーには自由を与えるけれども、聖書やお父様のみ言葉をベースにした教材なら構わないとおっしゃいました。 二代王様も簡単な指針だけ示してくださり、聖書中心ならどんな教材でも良いとおっしゃいました。

 以前、ある方が、「丹田(人体のツボの1部)」に対して、イエス様のイメージを描く、そんな本を持ってきてやりたいと言いました。ニューエイジスタイルでイエス様の聖句をいくつか引用はしますが、瞑想とか自己の離脱とか、どうやって丹田を開くかとかそんな内容でしたが、二代王様はだめだと言われ、その方はリーダーを出来ませんでした。

 聖霊大学には限界もあります。仲間同士でするクラスもありますね。クローズクラス(closed class)もかなり進んでいます。クローズクラスは馬が合う人同士と言うか、他の方にオープンすることができず、仲間同士に限る現象や、何と言うか中を見つめるというか。中を見つめる小グループは後でお互いをダメにすると言うんですよ。ですから、中を見る小グループから外を見る小グループになるためには、自分たちだけで固まらないように、かなり気を付けなければなりません。 このようなクラスが何が問題かというと、伝道が難しいです。新しい人を招待するのが難しいのです。それで、自己満足になってしまう問題が出てきますから、そのような部分は聖霊大学コーディネーターがよく見て、警戒しなければならない点だと思います。

 そして、聖霊大学だけしていると、活動や、二代王様のされる救国運動などをおろそかにする恐れがあります。その様な部分に対してバランスをよく取りながらやっていかなければならないのが宿題です。それでは、聖霊大学についてご質問がありましたら、質問を受けましょうか。

 


■質問:
妹がいるんですが、まだ家庭連合にいて、半分半分の状態です。完全に王様を受け入れる立場でない人にも、聖霊大学を誘ってもいいですか。どんな立場の人に限定されますか。


二代王妃様
それは、あなたの判断にまかせますが、妹の性向をよく把握して、また授業のテーマをよく選ばないといけないと思います。 例えば、天一憲法の場合でしたら、二代王様を完全に認めなければ聞くことができないでしょう。なぜなら、基本的に家庭連合にも憲法がありますから、聖殿の憲法を聞くということ自体が、二代王様を認めて初めて聞くことが出来る授業じゃないですか。ところで、もし聖書のクラスなら、招待しても構わないと思います。根本的に、行ったり来たりするということは妹さんが、どこかで詰まっているということです。ある部分で、救いに対して確信がないとか、メシア観がはっきりしないとか、自分では判断が付かない所、信仰でどこかに詰まっている部分があるんです。私たちにはわかりませんが、聖書の勉強などで信仰的な部分を公有してみたら、そんな部分が出てきて、真のお父様が聖霊を通して教えて下さるので、そんな部分がいいと思います。個人的に私はいいと思います。

 事実、世間の人を伝道するのも、家庭連合の人を伝道するのも、子供たちを伝道するのも、みんな似ています。私たちの感情が違ってくるからなんですが、それは私達の問題で、実際は全部同じです。子女たちもみな同じです。私は個人的にはそう思います。 もちろん細かい所はちょっと違いますが、世間の方も家庭連合の方もお子さんもみんな似ていると思います。基本的な所は。

 個人的には家族に伝える場合は、1対1教育をお勧めします。例えばお子さんや、お姉さんのような家族とは、どうしても感情的になりやすいじゃないですか。それで、1対1で聖書の勉強をしたらいいのですよ。1対1で聖書の勉強をしながら、たくさんの話をしたり、また、結局こんなことだと思います。子供たちもそうだし、兄弟たちもそうだと思いますが、私の兄弟たちも私が知らない私の部分をよく知っているのです。だから私たちが嘘をつくことができないようです。

 だから「あ、聖殿に入ってお姉さんがなんであんなに変わったんだろう? 前は傲慢な部分があったのに、なんであんなに謙遜な人になったんだろう? どうしてあんなに平穏な人になったんだろう?どうして神様との関係であんなに平和になったんだろう? なんで経済的な問題を気にしないでいられるんだろう?」

 実は、このようなことはお父様に従いながら、私たちに聖霊の実がみのっているのです。実際、そのような聖霊の実を見ながら、1世の方々も、信仰の親のそのような姿を見て信じるようになったのではないですか。結局、考えてみると妹であれお姉さんであれ子供であれ、そんな姿を見ながら、私たちが何とか隠せるものではありません。本当に変化したその姿を見ながら来るのだと思います。特に、家族と繋がっている方々は そうだと思います。

 皆さん、お子さんがいらっしゃると思いますが、お子さんには、聖書の勉強をとてもお勧めします。子供たちには原理講論がとても難しいです。私も2世で、私はあまり賢い人ではないので、原理講論が難しいのかもしれませんが、原理講論がとても抽象的です。若い世代が理解するにはですね。

 私は、アブラハムのストーリーも知りませんでした。私はアブラハムが将軍だとは知りませんでした。アブラハムは、鳩を裂かない人だとばかり思っていました。イサクを献祭した人だとばかり思いました。 

 でも、そうではないじゃないですか。神様がアブラハムをどれほど愛され祝福されたか、子孫が空の星ほど増えるだろうと祝福されました。鳩を裂かなくて子孫が400年エジプトで苦役をするとおっしゃっいましたが、それでも一刀のうちにアブラハムを殺しはしなかったのです。その後も神様と交流を続け、ソドムとゴモラを救ってほしいという様々なことがありますが、そのような部分については私たちは全く何も知らず、アブラハムについてはハトを裂かなくてイサクを捧げた、そんな印象でした。

 原理講論をとても断片的に知っていたので、聖書をとても断片的に知りながら摂理史的に解釈した模範解答を学んだというべきでしょうか。その模範解答をいつも暗記しているので、どんな感じかというと、全体的な韓国史、全体的な世界史を知らず、ただ試験に出そうな所を暗記する学生のようになってしまったのです。 多くの二世たちが。

 だから、神様の愛だとか、神様の偉大さだとか、神様の憐みだとか、私の人生にどうやって聖霊の実が結ばれて、私が神様に似た人になるだとか、これがもっと重要な核心じゃないですか。私が罪人だったのに、どのようにして赦され、どんな恩恵を受けて立ち上がり、こんな部分を1世の方々はお父様と一緒に生活しながら経験しましたが、2世の方々は「堕落したら絶対だめ!」「鳩は絶対に裂かないと!」「最後までサタン分立しないと!」このように原理講義を聞きながら子供たちはとても恐れを感じるようになったのだと思います。神様の恐ろしさを先に経験したようです。だから怖いんです。

 神様のことを考えると楽しく、私が間違っても、私が悔い改めたらまた見守ってくれるだろう。私は祝福を受けましたが、私は堕落性も多く、相手も堕落性が多く、それで祝福がダメになったのです。それで私は離婚することになりました。ところが、こうなる場合に、2世たちがほとんど帰ってこれません。私が間違って高校の時に堕落をしました。すると、ほぼ2世達が教会から離れます。教会内に許しの文化がないと思います。恩恵の文化がないと思います。なぜなら、自分が原理講論で学んだ神様は、非常に正義の神様なので一刀で切り捨てるんです。「あなたはこれくらい罰を受けなさい!」と言って。それが出来ないと摂理史が壊れるんだ!そんな非常に大きな重圧感で原理講論が迫ってくるんです。

 私は聖書を通じて2つのことを学びましたが、1つ目は「愛の神様」「恩恵の神様」を学びました。「私が罪人だな、私がいくら偉くて、2世で、お父様の言うことに全て従ったとしても私は罪人だな、それはどういう意味なのか私に」。そして、私がなぜメシアが必要なのか、これらは、信仰において当然で、とても基本的なことなのに知らなかったと言うべきでしょうか。そういうことを学ぶようになりました。恩恵の神様、愛の神様に出会いました。

 2番目は、聖書を通じて「メシアの重さ」を学ぶことになりました。お父様は再臨メシアだという話をよく聞きますが、知っているようですが、私は再臨メシアの重さが何なのか知りませんでした。聖書を知らなかったからです。どんな準備を通じて、どんな罪悪の事件を乗り越え乗り越えて、神様が再臨メシアをどのように準備されたのか、その過程について抽象的で表面的に考えていました。どれだけ神様がイスラエル民族を準備してエルサレムの土地を与え、そこをどれだけ戦ってまた堕落し、また戦って堕落して、それをどれだけ多く繰り返しながら、そして捕虜生活もして。このような具体的で実際的な状況を通じて、多くの人々が待ち望んだ救世主再臨メシア、それに対する重さ。またイエス様を送ってくださいましたが、そのイエス様が亡くなったことでの痛み、そしてイエス様に従った弟子たちの姿。こんなことなど。それで2番目にメシアの重さについて学びました。

 もう一つありますね。3つ目は、1世の方々を理解できました。聖書の勉強を通じて、私は個人的に1世の方たちを理解するようになりました。何かと言うと、2世たちの立場ではこういうのがあります。2世の立場では、「私は両親のようには信仰できない」「あれがもし信仰なら、私は放棄」こんな感じがあります。

 自分の国も全部捨てて、国籍も捨て、自分の学歴をあきらめて、職業もあきらめて、すべて諦めて自分の信仰だけを見てついて行こう、そんな雰囲気があるじゃないですか。2世たちは、こういうのを見ると「あれ? なんだ?私にはこんなことできない!」こういう感じがあります。だから、こんな話があるじゃないですか。目標がとても不可能に見えると、人々は諦めてしまうというじゃないですか。どんなに大きな目標でも一歩ずつ行けば行けるのに、目標があまりにも遠く見えるのでそのまま諦めてしまうんです。私はそこには絶対に行けない。あそこはまるで月の国みたいだ。月に行くためにはどれだけたくさんの準備をしなければなりませんか。だからただ諦めてしまうのです。月の国がなくても豊かに暮らせる。こう言って、そうやって生きるんです。しかし、「月」なら大丈夫ですが、神様は私たちを作ってくださった、創造してくださった方なので、話は違ってきます。でも、そこまでは考えられないんです。2世の方々のことです。私も同じです。

 しかし、聖書を読みながら、ペトロに対して、イエス様が歩いて行って、ペトロに会って「さあ、網を下ろしなさい。行こう!私について来なさい。あなたを人を捕る漁師にしてやろう。」こうおっしゃった時、ペテロはそのまま網を置いてついて行くじゃないですか。これを見ながら私は思いました。あ~これが1世の方々の姿なんだ! これは神様だけが要求できるんですね! そして神様が要求されたとき、1世の方々は「はい、行きます。網を下ろします。」イエス様が、私たちの真のお父様が私たちを人を捕る漁師にして下さるなら、私が喜んでついて行きます。こういう気持ちで来たんです。そして、十字架に逆さまにかかって死ぬペトロ、ペトロも葛藤が多かったでしょう。イエス様を否定して…。しかしイエス様を否定しましたが、最後までイエス様を守ろうと努力しながら私はまともに死ぬことができません。それで十字架に逆さまについたペトロ、初代教会を作ったペトロ、そしてパウロ

 このような色々な人々の姿を通じて私自身を見るのです。あ、私はパウロみたいな存在だったんだ。主は生きていらっしましたが、私は主に石を投げる人だったんだ。それで、私は本当に主を否定する人だったんだ。こういうことを学ぶことが出来て、あ~、じゃあこれが1世の方々の道だったんだ。それで私は私の両親世代を聖書を通じてたくさん理解するようになりました。そして、主の仰ること、また、主の願うこと、心には本当に多くの葛藤があるけれど、これらを乗り越えるということを考えると、十字架で本当に殉教する気持ちでこれらをやり遂げられたのですね。

 このように私は大きく3つを学びました。いろんなものが、たくさんありますが。そして究極的にイエス様を通して、この3つをまとめてみると、結局は一言で言えば、イエス様を通じて真のお父様に会ったのです。ひとつの文章にまとめたら、イエス様を通じて主がどんな方なのか知ったので、お父様がどなたなのか知ることができました。それで、「あぁ、お父様とイエス様は1つなんだな!」ということがわかりました。

 事実、この過程が多くの2世たちに必要です。2世の方々には、1世のような信仰が難しいのです。そして二代王様は、はっきりとおっしゃいました。「私は祝福でパートナーを結ぶことはしない」「それ(祝福マッチング)は親マッチングに回す。お父様はその伝統を続けてきたけれど、私はマッチングしない。」と言われました。

 また最近、教会の経済問題で、ファンドレイジングチームを作ることについて意見が出たのですが、二代王様に提案されたのですが、二代王様はファンドレイジングチームを取り消しにしました。ファンドレイジングチームをしないと言いました。でも短い期間のファンドレイジングをするのは大丈夫だと言われました。例えば今回、防御と創建のための献金で、子供たちも1~2ヵ月毎週土曜日に出て、7時間から8時間くらいファンドレイジングをしました。約8回出て500ドルから1,000ドルくらい復帰し、それで献金をしたのですが、子供たちはその時良かったと言いました。1週間に1回なので、自分で時間を作って、お金がないので、そんなふうにして献金をして良かったと言いました。

 ただ、ファンドレイジングチームは少し違う問題ではないですか。「ファンドレイジング·チームはしたくない。下手をすると、それが教会全体の組職にずっとお金が入ってくるので、教会が人を搾取し、また教会も、まるで中央政府に税金が入ってくるように、そのように次第に本意がぼやけ、本質がぼやけ、人を利用する誤ったシステムになる恐れがあるため、そのようなものすごい誘惑は最初から手をつけないでほしい。」 そのようにおっしゃいました。

 そして二代王様が明らかにした部分が、清平みたいに霊媒はしない。この言葉もとても強くおっしゃいました。霊媒のような場合は聖書でも非常に強く禁止されていますよね。『申命記』にも出てきますし、皆さんご存知だから言わなくてもいいでしょうが、サウル王もサムエル預言者霊媒します。

 霊媒する人のところに行ってするのですが、お父様がいらっしゃる時は、全ての霊がお父様の主管下にいるので、お父様が清平を主管される時は、もちろん私たちは疑っているのではありません。その時は本当に私達が多くの恩恵を受けましたし、お父様も承諾してくださったので大丈夫でしたが、二代王様は自分はメシア再臨主ではないので、それをしないとはっきりと言いました。私がこの言葉をなぜ話すのかと言うと、皆さんご存知の部分ですよね。これから二代王様は、神様のみ言葉を中心に天聖経とか真のお父様のみ言葉中心、そして聖書中心に行くことを強調していらっしゃるんですよ。

 私たちが昔は、様々な活動もし、救国運動もし、動員もしましたが、(二代王様は)動員もしないとおっしゃったんです。動員とか数字を満たすための祝福もしないとおっしゃいました。これも非常に重要な部分ですね。皆さんご存知の部分ですが、ストレスを受けながら動員、動員、動員…。 もちろん、今回は防御と創建の献金がありましたが、ご存知のように韓国がいくら負担し、日本がいくら、10倍を負担して、そのようにはしなかったでしょう。全部できる部分だけやればよかったではないですか。そうでしょう? 自発的にするんだととても強調されました。もちろん、個人的に多くの負担になったでしょうし、その部分で私達はとても感謝しながら、本郷苑も建てて、法的訴訟部分でもとても感謝しているのですが、昔はそれがたくさんプッシュされたではないですか。

 ですから、この部分もされないとおっしゃったので、私達がこのように出来るのも時代的な恵沢じゃないですか。事実、私たちはみな、献金のために一度は泣いて来たではないですか。みんな泣いて…。私も日本の教会に行ってみたらとても心が重くて申し訳なかったし、またこれではいけないなのに..。こんな考えを本当にたくさんしたんです。

 ですから、この部分は蕩減の部分だと言わなければなりませんね。日本の方々は、蕩減期間なので、蕩減しないといけないと言われて。二代王様は、それを個人に任せることにしたのです。自由と責任として任せてくださったから、本当にみ言葉の中で喜び、み言葉の中で復活し、また神様に出会い、また聖霊と共に、そのように私たちが生活できる、信仰が生活化されるそこに焦点を合わせ、私たちがこのようにできるという時代的な恩恵を受けたことは、嬉しくて良いことです。

 この時代的な恩恵があるのに、子供たちにつなげてあげることができないなら、実際にはとても悲しいではないですか。ですから、子供たちと聖書の勉強をしてみると良いと思います。私がしたい話をしてもいいのかわかりませんが、子供たちと聖書の勉強をする時、私は3つぐらいの方法を使ったようです。

 ただ、男の子たちは親としたがりません。これは訓読会とはまた違うことです。訓読会とは、少し違う性格です。私は1対1ですることをお勧めします。特にいつが良いかと言うと、少なくとも祝福を受ける1年前(祝福を準備しながら)にはしないといけません。祝福を受ける1年前頃になると自分から聖書の勉強をしたがります。男の子たちはですね。面白いのですが、男の子たちは祝福を受ける1年前くらいになると、自分が聖書の勉強をすると言うのです。自分が家庭の頭(かしら)にならないといけないから、やるって言うのです。だからその時に機会をつかむのです。そこで機会を得て、3つの方法があります。

 時間を正確に決めなければなりません。時間をしっかり守らなければなりません。お母さんたちは聖書の勉強時間に自分の話したいことを話しがちですが、そうしてはいけません。30分なら30分、1時間なら1時間正確に守ってください。聖霊大学も時間をきっちり守っていますね。

 カウンセリングクラスは異なる場合がありますが、それは同意を求めてしなければなりません。私の場合、男の子たちはこうしました。子供たちは10代、12歳から17歳くらい、その時は約30分に決めて、私が聖書の一節を選びます。その言葉を英語で読んで、韓国語で読んで、私が準備した例えとか、例話を一つ話して、イエス様のみ言葉か、お父様のみ言葉、例話を話すのに、それを5分以内に終わらせます。

 その次、25分は質問があればしてみなさいと言います。すると、自分がしたい話をします。ゲームがどうだとか、友達が変だとかなど。私は話をずっと聞いてあげます。ある時は、子供の服の形がおかしくても、足を伸ばして変な姿勢をしていても放っておきます。とにかく聖書の時間に子供が座っているじゃないですか。気になる部分は全て考えないようにしてお茶を一杯持ってきて、「そうか、そうか」と言いながらカウンセラーのようにして聞きます。そして、30分経って終わろうとする時、子供がもっと話をしたいと言ったら「お母さんは30分で終える所を、あなたがもっとやりたいと言ったんだよね」こう言うといいですね。30分で終わろうとしたことをはっきり伝えます。それで30分以内に正確に終わるという確信を子供達に与えなければなりません。そうしないと男の子たちはほぼ失敗します。

 小言を言わないこと。時間を守ること。そしてお話は短くすること。12歳くらいから子供たちは親と時間を過ごしたがらないではないですか。

 順序は、最初に私(お母さん)がお祈りして、最後のお祈りは息子がします。息子がお祈りは難しいと言うなら、「すごく簡単だよ。今日勉強した聖書の句節をそのまま読めばいい。」と言います。「神様、お父様、ありがとうございます。今日、私は青年時代をどうやって清く過ごすことができるでしょうか。ただ神様のみ言葉に従うだけです、という神様のみ言葉を読みました。」と言いながら、自分が1、2節話します。「今日はありがとうございました。三代王権の名前でお祈りします。アーメン」こんな風に終わるのです。

 女の子たちは、次のようにやりました。子供の性向を見てください。書くことが好きな子供がいますが。聖書の中に「開かれたノート聖書」というのがあります。聖書の句節が真ん中にあって、脇には書き込みができるように空いているのです。子供たちは聖書は絶対読まないのですよ。ホコリが溜まる本棚用です。ラーメン鍋の下に敷いて食べないのが幸いです。

 女の子の場合、キリスト教書店に一緒に行って「開かれたノート聖書」を買います。種類がとても多いのですが、その中からきれいなもの、文字がよく見えるものを一つ選ばせます。自分が好きなものを選ばせて、準備してください。そして、この本ではないですが、「聖書の60の物語」のように12歳程度が読める本を一つ買います。まずお母さんが祈祷して、例えば今日はサミュエルについて読みます。絵もあったりして読みやすいですね。そしてサミュエルが出てくる聖書の部分を一緒に探してみます。色々な話が出て来ますが、お母さんが読んだなかで、息子、娘が理解すると良いなと思う部分を1~2段落ほど子供に読ませます。その部分を説明してあげた後、子供に5分与えます。母親は席を外して、子どもが一人で聖書のノートの部分に自分の感想を書けるようにします。

 ここで大事なことは子供が書いたそのノート部分を絶対に見てはいけません。絶対に見ないと子供と約束します。私は絶対に娘のノートを見ません。

 私は子供にこんな風に言います。「お母さんは後で死ぬ。お母さんは死んでいなくなるよ。お母さんがあなたに伝えられるのは、神様が私たちをどれだけ愛していらっしゃるか、どれほど恵み深い存在でいらっしゃるのか、それしかあなたに伝えられるものはありません。ところでそれをお母さんがあなたにただ伝えることができないから、神様のみ言葉で、神様の霊がみ言葉になったのだから、あなたに本当に伝えてあげたい。でも結局はあなたと神様との関係であって、お母さんと神様との関係はあなたには意味がないでしょ。」こんな話をしてあげます。

 そうして自分たちが聖書に少しずつ書き始めると、後にそれがだんだん積もっていくんですよ。すると自分がリマをしたり、その聖書を教会に持って行ったり、聖書を見た時に、自分が書いたものを見ますね。聖書は読まなくてもそれは見るようになります。そして少しずつこの聖書が自分の聖書になるのです。

 「あ、私がこんなことも書いたなあ。」そのような部分が積もっていけば聖書とだんだん親しくなるということです。これが第1段階として娘たちにとても良かったんですよ。最後に、ああ、悪を行ったことが、後でそれを善に変えられたのだな。そんなヨセフのメッセージのことを考えながら、子供たちは、知識も増えますが、神様の恩恵と感謝の気持ちが積もり、後では祈りもするようになります。

 まず、時間を30分と短くすること。2番目はノート聖書、そして、3番目に子供たちが信仰について体系的に学ぶ必要があります。

 長男の場合は、長男なのでとても厳しく教えようとした部分があったのです。それでも彼はよく付いてきてくれました。そのため、図表とかこんなもので勉強していました。(薄い冊子を見せながら)この教材を使っています。どんなものでも構いません。始めなければならないので私がお見せするんです。英語教材ですが、こんなに薄いです。 厚くても薄くても構いません。

 ところで、何が重要かというと、救いに対する確信、神様はどんな方なのか、イエス様は誰なのか、主の中に住むとは何の意味なのかといったことが説明されていますが、この本はトゥランノ(出版社名)から出た韓国教材ですが、「1対1弟子養育」。目次を見ると、イエス様との出会い、救いの確信、神の属性、神の言葉聖書、祈祷はどうやってするか、教友とは何か、伝道とは何か、聖霊に充満した人生とは何か、試練に勝つ人生とは何か、従順に従う人生とは何か、使役する人生とは何か、このように私たちが信仰において重要な要点を1度ずっと見て、聖書で探して、話をしてみて、私たちがどのような面で神様との関係が詰まってしまったのか、こんな部分を一緒に話し合ってみるのです。

 例えば、統一教会の人々は、責任分担を強調するあまり、責任分担も神様の恩恵だということを忘れてしまいました。責任分担は実は神様の恵みなのです。多くの2世の方々がこれを理解できません。「何だって? どういう意味?」こんなふうに理解できません。ところが、責任分担があるという事実、私が、神様とこの仕事に一緒に参加できるという事実、神様は素敵なケーキを作るのに私の助けは必要ないです。ところが私に「さあ、ケーキにデコレーションしてみて。ケーキの飾りのために赤い色を持ってきて。」 こうおっしゃること自体が、私には恩恵なんです。神様が素敵なケーキを作ろうとした時、私がそこに共に参加した。それだけでも私には大変な恩恵なのに、私たちはそれを忘れてしまいます。これは非常に小さな例ですが、多くの方がいろいろと閉ざされています。それで信仰が前に進ことができません。だから、そんな部分を開いてくれるのです。

 長男はこうしていて、娘はノート聖書をしています。信得(シンドゥク)の場合、今までは最初の方法でしたが、最近はキリスト教弁証論をホームスクーリングで行っているんですよ。とてもレベルが高くなりました。本当に今は私よりレベルが高いです。それで、私が教えるよりも、一緒に話をするやり方でやっています。だから、子供たちと聖書の勉強をしてみると良いです。

 祝福を控えている息子には聖書の勉強をしながら最後にこれを入れることをお話しいたします。何かというと、息子さんに、お母さんの手を握って、もう一方の手を肩に置いて祈ってほしいと言うのです。最後の祈りの時です。始めの祈りはお母さんがします。これは男の子たちにとって非常に重要です。なぜなら、息子は家庭の頭(かしら)にならなければならないのです。しかし、家庭の頭がどういう意味なのかわかりません。そしてとても怖いのです。「家庭の頭」という言葉が。私たちが子供を産んだら、とても怖いではないですか。「私が良いお母さんになれるかどうか。」とても心配ではないですか。

 ところが、男性は2つの怖いことがあります。1つは、私が奥さんを養っていけるだろうか。もう1つは私が果たして家庭の頭、牧師になれるだろうか?この2つが、本当にすごく怖かったのです。この2つがとても怖いのですが、まずは食べさせていかせないといけないので、この部分は忘れたいのです。今まで見た多くの男性の方がそうでした。そうではない方もいるでしょうが、多くの若い男性の方がそうでした。

 息子たちを見ても家庭の頭になるべきだという事実に、「ええ、僕が?どうやって? 自分一人のこともうまくできないのにどうしよう?」こんな感じなんです。男の子たちは。それで私がこう言います。2つだけやればいい。最初はわずかでも良い。最後に大きく立派になればいいのだから。ところで、わずかなスタートを何ですれば良いかというと、いつも神様に聞いてみることです。「神様、私がこうするのが合ってますか。」こうして神様に祈ってみて、み言葉を探して、神様に訊ねる姿勢、それが1つです。

 2つ目は、奥さんに祈ってあげること。祈ってあげる時は手を握って、肩に手を置いて奥さんに祈ってあげるのです。奥さんが赤ちゃんを産むことを心配する時よく祈祷をしてあげますね。

 エルカという食口が、とても恐れていたのですが、ご主人は運転中でしたが、自分が祈祷ができないので妻に祈祷をするようにと言いながら手を握ってあげ、私が一緒に祈るから祈ってみなさいと励ましました。少し変形された形ですが。初めは女性はどう祈ればいいか分かりませんでした。ご主人が手を握って肩に手を置いてお祈りをすると、奥さんは「あ!私がこの人の相手としてついて行けるんだな。」このように感じるんです。ところが、こんな事をしたことがないと初めはとてもぎこちないです。ぎこちなくても間違った訳ではないですが、ぎこちないからしないようになり、しないから出来なくなります。だから、この訓練を男の子たちと必ず行うと良いと思います。

 子供たちと聖書の勉強をしながら、その中に原理講論を入れればいいです。このように、聖書の勉強の3つの方法があります。もちろん、他にも良い方法がたくさんありますので、そんな良い方法を使っても良いです。

 親が変わらない状態で子供にみ言葉について話そうとすると、神様が非常に私たちをとがめます。子供たちを叱る時、神様が私たちを厳しくたしなめて、「おい!あなた、子供によくそんなこと言うね。あなたはちゃんとやっているのか?」。叱りながら私たちが良くなるようにしてくださいます。実に驚くべきことだと思います。

 神様の弟子作りの中で、最も難しいのが子供のようです。なぜなら、私たち(両親)の一挙手一投足をすべて見ているではないですか。フフフ、見てないようですが、息子は部屋でゲームをしているようでも、全部知っています。これは驚くべきことです。それだけ親が努力して変わろうとし、主の中で努力して奮闘する姿に最もよく気付くのも家族だと思います。そういう面ではありがたいし…。ちょっと時間がかかりますが。

 息子ごとに性向が違いますね。私が色々な方法でやってみたのも息子たちが皆性向が違うからです。

 娘の場合は、やってみて何度か失敗しました。私は長男に教えたスタイルで、2番目も3番目も教えようとしましたが、次々に失敗してしまいました。それで、もう少し直して簡単に作って、知識的なことを全て除いて、ただ恩恵に集中して、知識的なことは後でもう少し学べばいいから、やっているうちに神様がまた知恵をくださるでしょう。

 年を取った40代の子供の場合、聖書の勉強をして効果があるだろうかと考えがちですが、40代、50代こそ本当にみ言葉が必要な時期だと思います。なぜなら、すでに経済的に独立したではないですか。自分も母親だし、忙しいし、ある程度は知るべきことは知っていて、賢くなる時期じゃないですか。20代の場合は、何か自信がなく萎縮していますが、4、50代は、はばかることのない年齢なので、むしろ神様と遠のいていく歳ではないでしょうか。私はもう全て知っていると思うからです。

 どのように始めるかは祈ってみて、(年を取っていても)子供と親との時間、1週間に1時間でも良いし、1ヵ月に1度でも良いので、持ってみるのがいいと思います。子供が30歳、40歳で、すっかり成長して結婚もしたのに、多くの人がとても気の毒に思えるのです。

 今週もテキサスへ行ったときそんな人に会ったのですが、子供たちは皆祝福を受けたと言うんです。子供たちが祝福を受けていない親の場合、「子供たちが祝福だけでも受けたらいいのに」とよく考えますよね。祝福を受けて2人で仲良く生活したとしても、これが信仰に結びつかないことがとても多いです。私たちが、子女教育のフォーカスを間違って置いたのです。

 子女教育のフォーカスは「主の弟子になること」であり、その主の弟子になる過程で自然に、「ああ!私が主のみ言葉どおりに生きるには、理想家庭を成さなければ」と思って選択するのが祝福でなければならないのに、主の弟子化としての結果が祝福でなければならないのに、私たちはまず結果から結ぼうと大騒ぎしたのです。「祝福から捧げないと!」とやっていたのです。

 そうするうちに、前後が変わってしまいました。子供は満たされていないのに、「私は家庭の頭として役割をできないと思うんだけど。私は妻として夫を尊敬できないと思うんだけど。」まあ、そんな状況で祝福を受けてしまうので、子供たちが祝福を守ることだけでもとても大変なんです。祝福を守ることに、すべてのエネルギーを注いでしまうんです。ところで、世間の人でも結婚を守っている人は本当に多いです。でも、彼らは皆、主の弟子たちではありません。

 ですから、私たちは子供たちが祝福がうまくいかない、難しい、そこにフォーカスをたくさん置くのですが、そこにフォーカスを置くのではなく、子供が本当に主の弟子の姿になったか、ここにフォーカスを置くことが正しいと思います。

 それで男の子たちは聖書の勉強をしながらキリスト教弁証論もたくさんしなければならないと思います。例えば、「神様が善良だというのにどうして世の中にこんなに悪が多いの? 神様が公平であるなら世の中で悪い人たちがどうしてもっとうまくいくの?」。こんなことは本当に単純なことなのです。「会社で悪い事をする人たちの方がうまくいくよ。お母さん。よく知らないで言ってるんだよ。」

 こんな話をする時、私たちも萎縮するではないですか。これは事実、神学的問題と言うよりはキリスト教弁証論に近いんですよ。考えてみれば、こんな部分は、私たちが先延ばしにしておいたので、この部分に対して確立することが非常に重要だと思います。そんなことを言える雰囲気を作ることも、とても重要だと思います。

 それで30分なら30分、怒らないで。本当に子どもとの信頼回復というのは、難しい話題ですが、でもどうしますか。親の役割は終わらないのです。祝福を受ければ終わると誰かが言ってましたけど、絶対に終わりません。こんな言葉がありますよ。子供が小さい時は問題も小さく、子供が大きくなると問題も大きいと。ですから少しでも幼い時、私がまだ生きている時に、少しでも子供たちに、小言を言う信仰伝道ではなく、もしこの子が一般の人だったら、私がどう伝道するかと考えて、攻略して念入りに祈ったり、み言葉を伝えたりする過程があります。でも、私たちは、子供たちは当然そうなると思ってきた、という考えをよくします。何だか、私より上手な方々の前で小言を言う感じがして、申し訳ありません。

 


●聖殿アカデミーについて

 聖殿アカデミーは二代王様が枠組みを作ってくださいました。二代王様が、様々なみ言葉をくださり、多くの訓練をなさっておられます。私が平和軍平和警察訓練についてまとめた内容を申し上げたのですが、二代王様が「それでいい」と承諾をしてくださいました。私たちが平和軍と平和警察で訓練すれば、銃の訓練をすることだけ、鉄の杖訓練だけすると考えがちですが…。

 もちろん鉄の杖もありますが、この平和軍平和警察訓練は第1祝福、第2祝福、第3祝福、すなわち、生育せよ。繁殖せよ。万物を主管せよ。この第1、第2、第3祝福を完成させるそういった祝福、そういう訓練が平和軍平和警察訓練だ。このように見ることができます。そして、第1、第2、第3の祝福を我々が享受できるように、訓練できるように保護する役割をするのがまさしく鉄の杖だ。このように枠組みを作ってくださいました。あまりにも理論的になるのがちょっとあれですが、第1祝福は個人で、第2祝福は家庭、そして第3祝福は万物主観。 これの説明は少し、長くなるのですが…。

 第1祝福はお分かりだと思います。バイク訓練、祈祷室訓練など様々、ブラジリアン柔術訓練、生死主観訓練、訓読会訓練などたくさんありますね。第2祝福も、二代王様が たくさん語られましたね。夫婦の日をすること、1:1の子供の日をすること、こういったみ言葉をたくさん語られました。ところで、第3祝福の万物主管について、二代王様がおっしゃったことの中で私が思いつかなかった部分があります。

 万物主管は経済的な部分もありますが、家庭菜園やタイニーハウスも万物主管に入ったりもしますが、二代王様がこうもおっしゃっていました。「女は夫に対しては対象の立場だが、万物に対しては主体の立場だ」こうおっしゃったんですよね。私はそれがとても不思議でした。私にとって非常に大きな悟りを与えられました。

 女性達の場合、最近バイク訓練をするのですが、最初は私がなぜバイクや、鉄の杖訓練をしなければならないのか、ただ男性達だけがすればいいんじゃないのかと思ったんです。男性たちの方が強いっていうのに、なんで私がやらなきゃいけないの? こう思いました。 

 しかし、二代王様がおっしゃることは、「女性は男性には対象の立場だけれども、万物に対しては主管する立場にある。」 女性たちは昔、馬にも乗って···。箴言31章に、箴言はずっと、「息子よ、息子よ」と言っているのですが、一番最後の31章は、この知恵の本が女性で終わります。どんな女性がいい(賢く淑やかな)女性なのか、そのように終わります。だから…え? これは何だろう? ちょっとおかしいなと思うほど、どんな女性が神様が望む女性なのかが、ずらっと出てくるんですよ。  ところで、この箴言31章の女性像とは、万物主管する女性なんです。商業もしているそんな女性です。腕をまくって仕事をし、こんな女性像が出てきます。ですから、女性が万物に対しては主体の立場になるということをとても強調しているんですよ。

 それで、この万物主管は男性は当然のこと、聖霊大学の先生方も女性が多いじゃないですか。それがバイク訓練であれ、実際我々の体も、ある意味神様が作ってくださった万物の一つではないですか。 「この万物も、心と体の統一も、第1祝福にも入るけれども、体を主管することも万物主管に入り得るんだな」とも思い、私たちが怖がること、困難なことも、万物主管の一環になるのだなとも思いました。それで、その部分は今日たくさんお話ししたので、そのまま短く話すことにしましょうか。 

 聖殿アカデミーでは、このように平和軍平和警察の訓練として第1祝福、第2祝福、第3祝福を訓練する場である。こう考えることができると思います。一つだけ付け加えると、第1祝福、第2祝福、第3祝福を可能にし、天一国を保護するのが鉄の杖だ。このようにおっしゃいました。そこに鉄の杖が入ると言われました。

 

 

●バイクに乗る息子を持つ方に助言

 バイクに乗り始めて6ヶ月くらいから、気をつけなければならないそうです。 二代王様も道が交差する交差点に入ると、いつも「パン!パン!パン!」と大きなクラクションを鳴らしていました。そちらの道に車が少しでも見えるとしたら、車が出てこなくてもパン!パン!パン!~~~~パン!パン!パン!と鳴らすのです。 なぜかというと、車からはバイクが見えないらしいのです。バイクが小さいから目に入らないそうです。

 二代王様が一番前にいらっしゃるじゃないですか。私がずっと見ていると、いつもパン!パン!パン!と鳴らされ、交差点からも一時様子を見てから出発されます。そのままでずっと行かれずに。なぜなら、たまに信号を守らずに来る車もあるんです。私達も黄色信号の時アクセル踏んで行く時があるじゃないですか。そのため、その2つの点にいつも気をつけるのだそうです。そして、道路が2車線から1車線になる地点では、速度をいつも落とします。なのでほぼ、その3つの点に、気をつけておられるようです。そして夜にはほとんど乗りません。

 そして、お酒を飲んではいけませんね。 普通、事故はお酒を飲んだ時に起きる場合が多いんですよ。
そして息子さんには「ねえ、息子君。気をつけて乗りなさいよ!」この言い方はあまり役に立ちません。「二代王様も交差点などでは、パン!パン!と(クラクションを鳴らして)乗っているそうだよ。あなたもそうした方がいいよ。」と、このように正確に言ってあげるほうがいいです。10代が一番嫌がる言葉はこうだと思います。「ちょっと、気をつけて乗りなさいよ。」でなければ「もうちょっときれいにしたらどうなの?」

 なにを具体的にどうしろというのか? ヘアロールをしろだとか、化粧を赤色でしろだとか、何か正確な注文がなければいけないのに、あいまいに「何とかしたらどうなの。」なにかしらこういった言葉は、本当に役に立たないし小言のように聞こえます。「気をつけて乗りなさい」とかよりは、「こうこう、こういうのは危険なんだって。」 具体的に言ってあげる方が良いと思います。

 

 

 

●ミーティングに参加している二世に(母も一緒に参加)

 お母さんに、自分に合った聖書の勉強方法を具体的に話してみてください。お母さんも一緒に話し合われたらいいと思います。親たちは、(子供たちに)してあげたいことがとても多いのが問題です。  「お母さん。私、このくらいだったらできそう。」と正確に言うべきです。そうでなければ一気に5時間ずつくらいするかもしれませんよ。(笑)「祝福を受ける前に、これは絶対やらなければならない!!」こういうやり方ですると、2人とも疲れてしまいます。 2人とも疲れてしまうので、自分にできるだけの量を正確に話すのがいいです。うちの娘は話すんですよ。「お母さん、今日はアルバイトがあるのでできません。」という話もします。だからそんな時は休んであげるんです。無理やりにさせるのも良くないのですよ。

 

■質問:
 最近、息子が、自分には神様がいるとは思うが、確率は50:50だと思うと言うんです。 息子が小学校の時「神様は(自分が)望めば答えてくださる。声が聞こえる。」と答えてあげたことがあるのですが、「自分は神様の声が聞こえなかったから、だから50:50なんだ。」と言う息子をどのように導いていけばいいでしょうか?

 

■二代王妃様:
 信仰教育について、私たちが知っている分だけを話してあげるしかないのですが、具体的にお話することが非常に重要だと思います。

 私の場合も、祈祷に対する不信感がいつ生じたかというと、障害をもって生まれた弟を治してほしいと祈ったことがあるんです。それなのに、いくら祈っても聞き入れてもらえませんでした。ところが私の母親は、祈れば聞いてもらえるものだと言うんですよ。それで私は「あ~、神様は必要ない。私とはなんの関係もないんだ。」そう考えるようになりました。その質問が私にとってそれほど大きな質問だったとは思いもしませんでした。これが本当に不思議です。私にとって非常に重要な人生の質問だったのに、これを誰にも口に出すこともできず、またこれが私の心の中の大きな葛藤となっていたということさえも認知できていなかったので、ただそうやって生きてきました。

 ですから、我々が祈りについても体系的に説明することが必要だと思います。二代王様も以前語られたと思いますが、神様は私たちが祈った場合に3種類の返事を下さいます。.神様はYesとも答えられ、Noとも答えられ、待ちなさい。ともお答えになる。 

 ところが、私たちが知らなければならないことは、「神様は私たちを、私たち自身よりもあまりにもよく知っておられる。」ということです。私たちが10億がほしくても、この職業につきたくても、私たちに必要でなければ神様は「No」と答えられるのです。

 また、祝福がうけたくて仕方がないのに、神様はしきりに「No」と答えられるという人がいますが、それは「No」ではありません。それは「待ちなさい」という返事です。「おまえの祝福を受けたい気持ちは分かった。しかし待て。彼ではない。しかし待て。」ところで待てと言われたとき、私たちは待つのが難しいのですね。そうですね。それではその待つこともどのように待つのか、ということも話してあげられなければなりません。

 そして、Noと言われる時もあります。「私はこの職業を本当に願っていました。それなのに、神様がダメだ! と、試験で落とされました。この大学に本当に行きたかったんですが、弘大美術大学に行きたかったんですが。それなのに神様がだめだと言われました。私に不合格を下さいました。 それで、また浪人していたんです。浪人しながら、僕がここに来ることになったというわけです。もし、その大学に入っていたら、おそらく遊びに夢中で、そしてあまりにも純粋だったので、おそらく先輩たちを通じて堕落していたかもしれません。あまりにも純真だったから。とても切実な思いでした。一生懸命準備したし、勉強してきたから。けれども、(今思うと)神様が僕を不合格にされたのは、僕のためだったのかもしれません。」

 「あの人と、祝福を受けたくて仕方ありません。この人のことがとても気に入ったんです。」 けれどもその人に、神様はNoと言われました。それがその人にとって祝福であるということです。 

 そういうケースを、たくさん見ました。ある人が、ある人と本当に祝福が受けたくて泣いて、泣いて、泣いたけれども、結局かないませんでした。けれどもそれがその人にとっては良いことでした。私がその子に、「その人はそんなにいい人じゃないよ。もう、あきらめたほうがいい。」このように言うことはできないじゃないですか。両方を知っているから、両親のことも知っているじゃないですか。でも、この子とは合わないのです。祝福を受けていれば、もっと大変なことになっていたでしょう。 お互いに。でも、とてもとても祝福を願っていたんです。一方のほうから。でもこの2人の問題は、よく整理ができました。そんな場合は、もちろん私が神様という話ではありませんが、神様がこの子のためにNoと言われる時もあります。

 ですから「祈祷をしたら、神様が叶えてくださるわよ」と話した時、子供は5年生の時の経験だけを言うのです。「息子君。考えてごらん? あなたがバイクについて切実に望んでいた時、神様に祈ったら聞いてくださったんじゃない。そうだよね?」そして、他のことも話してあげるんです。そうしながら私たちが聖書を見る時に多くの人物が祈りを捧げるのですが、ある時は待つことが出てきて、ある時はNoという答えも出てきて、Yesという答えも出てきて、様々な答えがたくさん出てくるんですよね。

 Noという答えが出た時はある人物を連れてきて、ヨセフのような場合、ポテパルの妻が謀略を働いて刑務所に入れられた時、神様に「悔しいです。自分を刑務所から出してください」と祈ったのではないでしょうか? けれども神様が3年間監獄にいさせたじゃないですか。

 お父様も神様が燦爛たる約束、「あなたが再臨主の使命を担え」と言われたにもかかわらず、興南監獄に入れられたではないですか。神様がお父様に苦難を与えたましたがその時、神様はお父様のその姿勢を見たのではないですか。「あなたはどうやってこの苦難をやりとげようとしているのか?」このように見られたじゃないですか。けれども、お父様は『栄光の恩賜』を神様に捧げられたのではありませんか。そのようになさいながら、「神様にもっとして差し上げることができないことに申し訳ない心を禁ずることができません。(栄光の恩賜)」こう答えられましたね。

 神様との会話なのです。結局は「天一国歌」その歌詞が…。お父様が神様に捧げる独白じゃないですか。だからお父様を興南監獄に送られたのですが、それが神様のお返事だったというのです。だから、そのような信仰の姿勢について話をしてあげるのです。

 二代王様が、信俊と信得に特に強調されているのは「キリスト教弁証論」です。 キリスト教弁証論を勉強しろと強調されていますが、私は全部は見ていないのですが、「ウィリアム·レイン·クレッグ」という方がいます。この方のキリスト教弁証論の講義があります。検索をしてみたら 7分位のビデオがずらっとあります。

 そして、【답답함에 답을 하다.(もどかしさに答える)】 (ユーチューブ:チョ·ジョンミンの답답답)この牧師も答えを簡単に比喩的によく説明してくれています。ですからそういった部分(信仰生活における質問と答え)が出てきます。どうすれば 神様とお話がよくできるのか。よく祈れない時にどうすればいいのかなど、その牧師さんのチャンネルも良さそうです。そして、若い方が見る分で良いものは、【성서학당 (聖書学堂)】でもいいですが、少し長いので。短く軽い気持ちで見れるものは、【CBS 날마다 새롭게 (毎日新しく)】ではなく、YouTubeで見れますか? あ!ここにありますね。 【CGN TV SOON】というのがあります。これも良かったですね。

 このような映像を見ながら、私たちが勉強する必要があります。子供のこういった質問は一生に一度の質問です。ただの質問ではありません。伝道対象者からの質問です。とすると、私は最高の答えをしなければなりません。伝道しないといけないじゃないですか。この祝福を。祝福を伝えないといけません。神様の前に主の弟子として育てなければなりません。とても深刻な問題です。子供がその質問をしたということは。「あなたがそういう話をしたからお母さんがちょっとじっくり考えてみたんだけどね。そんな質問をしてくれて母はとてもうれしかったよ。」嬉しくなくても嬉しいと言うべきです。(笑)お母さんが演技者の気質がなければなりませんね。半分は努力でなされるものなのかもしれませんね。それは仕方がないようです。

 神様のことがよく分からないというのにはいろいろあります。祈りの問題もあり得るし、私には霊的体験もない。私が二世だというけど一体何が特別なの? 神様と話すこともできないのに…。子供の中には本当に多くの質問があります。その質問をこうやって引きださなければなりません。引き出して子供が質問したいことが何であるのかを見つけなければなりません。その作業は私たちに言語というものが与えられているので、それを通じて行うしかありません。心を開いて見ることはできませんから。その努力が必要なようです。その二つのサイトが役に立てばいいですね。


■質問:
深いお祈りをするためにはどうすれば良いでしょうか。 

■二代王妃様:
私もそれほど深い祈祷をする人ではないので、お話しするのが少し申し訳ないですが。私が長い間、気になっていたことが一つあります。 関連した内容なので言いますが、クリスチャンは疲れることなく信仰生活するのに、統一教徒はなぜ信仰生活のなかで疲れてしまうのか? とても気になっていました。 

 どうしたら私は楽しく信仰できるのだろうか。どうすれば神様に出会って信仰することができるだろうか?? それが私にとってとても大きなテーマでした。そういう部分についていつも悩んでもみたし、いろいろな方法もやってみました。今も色々やっているのですが、 最初は祈祷の部屋がいいと思いました。男性の方には合わないかもしれません。でも女性の方々には確実に良いと思います。

 イエス様も、人々が見える所で祈らずに小部屋に入って、静かな密かな所で神様と1対1で祈れるような場所を作りなさいとおっしゃったので、マタイによる福音書6章ですか? そこでそう祈りなさいとおっしゃったから。ここに出てきますね。(聖書を見ながら)マタイによる福音書6章6節に「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」また、マルコ福音1章35節に「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」こんなみ言葉もあります。

 真のお父様も 16歳でイエス様にお会いした時、猫頭山に一人で登られ、家から 1時間半位かかる所なのに一人で登られ、密かに 1対 1で神様に会える所で祈りをされ、そこでイエス様と出会いました。だから、イエス様もそうですし、真のお父様もそうですし、神様と会えるそういった隠れた密かな場所、私達は普通、隠れた場所で若者達はアダルトサイトを見たり、女性はドラマを見たり、ウェブトゥーンやウェブ小説とか見るじゃないですか。 最近は、アダルトサイトの10%の顧客が女性だそうです。 アダルトサイトを見るその10%は、地下鉄のど真ん中で見ないですよね。隠密な所で見るのではないですか。そうですよね? 

 神様と会えるような秘密の場所がなければいけないと思います。それが祈祷部屋でも良いし、家の庭の石でも良いのですが、女性の方には祈祷部屋をお勧めします。部屋の片隅でもいいです。でも自分のスタイルに合うといいですね。この前、私が祈祷はひざまずいてしなければならないと思い、そんな場所を作ってひざまずいて祈祷していたのですが、何度も居眠りするようになってしまったので、私にぴったりのやり方ではないんだなと思いました。(笑)なので今は椅子に座ってお祈りするやり方で、祈祷部屋を変えてみました。だから祈祷部屋は、自分のスタイルがないといけないようです。 祈祷の部屋は自分が好きなスタイルに飾ればいいです。好きなみことば集とかお祈り集とかもいいですね。

 二番目はQUIET TIMEです。「敬虔の時間」ともいいますが、 最近私がこの敬虔の時間をしています。毎日すれば良いといいますが、毎日はできないのですが努力はしています。

 私たちは、信仰生活がすべて訓読会を中心に動いているじゃないですか。訓読会は、あえて言うならば第2祝福に近いです。訓読会は集まってみことばをを一緒に読むものじゃないですか。それで訓読会は第2祝福の信仰生活により近いとみることができます。もちろん、第1祝福として一人で訓読をしても良いですが、お父様が訓読会をしておられたのを見ると、多くの人と一緒に訓読会をなさいましたね。訓読会と言えば、多くの人と家族が集まってすることだと考えると思います。

 でもQUIET TIMEは少し違います。QUIET TIMEは何かというと、主と私の1対1の時間です。最近、私がやっていることは朝起きてから20分ほどQUIET TIMEをしてみようと思っています。 とても簡単です。聖書に様々な人物が出てきます。例えば、この前ヘロデをしたんですが、ヘロデについて聖書に出てくる部分を読み、ヘロデについて考えるのです。ヘロデのある部分は悪く、ヘロデにも良い部分があるんだな、こんな部分は私が真似てはいけないな…と。今日神様が私にくださったみ言葉を一つ一つ書きだすんです。(ノートを見せながら)サムエル、スルバベルと書きます。

 並行して勉強している本があります。「敬虔の時間を過ごせる6つの秘密」(Six Secrets to a Powerful Quiet Time)という本です。この本でどうすれば敬虔な時間を上手くできるのか、今しています。その日の気分によって聖書の勉強の中で良かったみ言葉を書いたり、み言葉の映像を見て良かったみ言葉、苦難というのはいつも悪いことだと思うが、いつも日光があれば砂漠になり、いつも波のない海には潮流が生じます。こんなことも誰かがおっしゃったんですよ。それで、そのようなみ言葉も再び書き取ってみて、私の人生に苦難があれば、私はこれを神様が私をもっと素敵な陶磁器で仕上げてくれるための痛みなのか、どうすれば神様の方法で私がこれを解釈できるのかなどを話す人がいましたが、そんなことも適用してみたりします。ところが、これの焦点は常に絶え間なく続けることです。

 ところが、私がこれをなぜするようになったかというと、さっき言ったたように、どうすれば祈祷生活がもっと深まるのかと悩んだ挙句、色々なことを探してみたのですね。多くのキリスト教宣教師の方たちが宣教に行くとだんだん枯れてきてしまい、仕事だけをしていたら神様も忘れて、恩恵も忘れてしまうような場合が多々あるというんです。 

 そこで、そのような状況をどのように克服したのかを聞いた時、「Six Secrets to a Powerful Quiet Time」があるという話を聞いたんです。それでやってみているところです。 簡単に言えば、これが神様との1対1の訓読会です。誰かに見せるために集まって行う訓読会ではありません。私が神様からみ言葉を直接受ける時間です。

 核心はこれです。神様にいただいたみ言葉を一日中黙想することです。そうすることで力が生まれるのです。一日中、神様のことを考えることができる力が生まれるのです。今日のような場合は、「私にある苦難が、私が大きいと感じていたのも、あぁ、今まで苦しいとばかり思っていた苦難に対して、それをきちんと解釈できる能力が私になかったからだったんだな。これは神様が私に下さる鍛錬の課程、訓練の過程なのだな。」このように考えて解釈できる能力がなかったからだと思います。

 それで、そういった部分を反省してみて、この部分は私が反省しなければならない、この部分は神様が私に祝福を下さるのだなと、このようにするのです。毎日いいことばかりではありませんよね。(笑)ある時は欠かしてしまったり、完璧ではないがそのように努力をしてみる。

 たぶん、私より信仰が深い方々はもっと良いアドバイスをしてくださると思います。私がお話しできる部分はこういったところです。祈りだけで終わるのではなく、祈りとみ言葉を並行していけるようにすることが大切なのだと思います。

 私にお金がなく、状況が切迫していて本当に何もなくても、「神様、私の力ではできませんが神様の力によるならば、全て成すことができるということを信じます。」こうして私の祈りではなく、神様のみ言葉が私の祈りになるのです。「神様を通じて私は全てのことができると信じます。今は神様が待ちなさいと言われたので、私は喜んで忍耐し、そしてこの喜びの忍耐の中で神様の栄光がより現われるように私にできる知恵をください。」このように、私の言語ではなく、神様の言語が私の言語になるように、神様のみ言葉が絶え間なく祈祷の中に入ってくるようにする作業が非常に重要だと思います。

 私が今思い起こしてみると、お父様も同じようになさっておられました。お父様は訓読会を5時にされるではないですか。お父様は朝起きられるとお祈りをされ、その次に運動をなさいました。 ほぼ4時に起きられて、祈って、運動して、今日のみ言葉のことを考えられ、また祈っていたことを考えられて、お父様においてはそれが完全に生活化されたものでした。

 ヘリコプター事故の前には、お父様はいつも白い下着のズボンを着て走られました。今思うと、お父様はただ運動だけされていたのではなく、その時間が神様との1対1の時間だったんだんだな。 そうだったんだ。私がそれを逃していたんだな。お父様もすでに敬虔の時間を神様としてらっしゃったんだな。私たちはお父様の見えるお姿だけを見てきましたが、お父様は神様と1対1の時間をしていたということをもう一度悟りました。 私たちもお父様に似て、同じようにやらないといけないですね。イエス様がされていたように。またお父様がされていたように。

 それで、神様との関係が深くなるということは、一番目は神様とお会いする密かな場所、二番目は敬虔な時間、神様と1対1の関係、そして三番目を一つ付け加えると、神様のみ言葉を私の祈りとすること。このように3つを地道に実践してみると、そこにおいて祈りの深さが生まれる実ができるのではないかと思います。

 

 

●二代王妃様の祈り

 愛と恩恵の多い天のお父様、ありがとうございます。お父様、私どもは本当に不足で主の前には本当に身の毛ほども価値のない者であるにもかかわらず、あなたが一人一人を立ててここまで導いてきてくださいました。神様の裾でもつかんでここまで来る思いで、お父様、私たちは孤軍奮闘して出てきたと思っていますが、結局はあなたがすべて導いてくださり、あなたが注いでくださる恩恵、あなたが注いでくださる信仰で、ここまで大きくなることができました。

 振り返ってみると、実に多くのことがありましたが、過ぎればすべて愛だったとおっしゃったように、私たちが通過した苦難も障害物もすべて主の前におろし、また私の栄光の王冠もすべて主の前におろし、私たちの父、お父様お一人だけを見つめながら信仰できることを、改めて感謝申し上げます。

 お父様、私たちは時には主の前で本当に申し訳ない姿ですが、主が恩恵の神であり、あわれみの神だということを知っております。 

 また、この難しい時局において、私たちの体は殺せるが、私たちの霊を殺すことのできない、そういったものを恐れずに、私たちの体と霊を地獄の火で焼き尽くすことができるような、神様お一人だけを恐れる信仰の道となるようにしてください。貴重な再臨主に私たちの人生で出会い、私たちがどれほど祝福された者であるのか、私たちがもう一度考える時、主から与えられたその恩恵が、返しても返すことができない、主に差し上げても差し上げることができなかったことを申し訳なく思える、そのような姿になるよう切に願い申し上げます。

 私たちは、お父様、まだ幼くて足りないですが、主が導いてくださったことをもう一度感謝し、私たちの人生を通じて主だけがお一人、栄光を受けられることを切に切に願っております。 

 本日、ここに送ってくださったすべてのリーダーとサブリーダーの方々の人生においても、主が光となり、踏み出すための光となり、主が導いてくださり、彼らの道をあなたが真っ直ぐにしてくださることを願います。全てのことに感謝をささげ、祝福中心家庭の文亨進、李妍雅家庭の名前でご報告申し上げます。アーメン。アジュ。

 

おわり。

 

 

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おおくの成約聖徒に真実が届けられますように!
祈り。アージュ

 

 

連載13 文亨進様御夫妻御言選集・李妍雅様の御言「親は子の伝道師、祈り続ける愛」2021年4月3日

文亨進様御夫妻の礼拝を中心とした御言選集です。

 

 

■李妍雅様の御言
■13)2021年4月3日・翻訳チームへの御言
「親は子の伝道師、祈り続ける愛」

 

1.個人の救いと家庭の救い

 個人の救いと家庭の救いの違いについて、二代王様がお話しされるのを聞いて、何か感じることがありませんでしたか?

 二代王様が、火曜日(3/30)にキングスレポートで話された内容です。二代王様が仰るには、私たちは家庭の救いに集中してしまいます。お父様の御言で天聖経にもこんな御言がありますが、「クリスチャンは個人の救いに集中しますが、それは間違いです。家庭の救いをしなければなりません。」こんな御言をよく聞いたではないですか?『天国を開く門、真の家庭』を見ても、家庭の救いについてありますが、二代王様は、「私たちが家庭の救いに集中したため、むしろ利己的になってしまった」、と表現されました。

 二代王様:「子供たちに、あなたたちが信仰生活をちゃんとしなければ、私が天国に行けない。このように間違った文化を作ってしまいました。子供たちが信仰を自然に育てるより、家庭単位で無条件に信じなければいけない、というように信仰を強要する立場で全体の家庭を見るようになり、もし、子供たちが復帰されずに信仰から遠ざかると、それがまるで私たちに、私の救い、私の信仰の救いに、天国行きにブレーキをかける、行けないようにすることになるので、完全に信仰自体が絶望になり、結局は家庭の救いに焦点を当て、そこに全てを注ぐようになり、私たちの信仰生活を利己的にしてしまった。」と話されました。

 それで、家庭の救いに関するお父様の御言を探して見たのですが、ソユアン訓師二ムから14くらい頂いたのですが、家庭の救いについて語られながら、もしアダムとエバが堕落しなかったなら家庭の救いが正しい。このような表現を3回位されました。14の御言の中で。これを見ると、勿論、家庭の救いは正しいですが、私たちが、今、堕落世界にいるので家庭の救いで私たちが完璧にはならないということをお父様もご存じでいらっしゃるのだなあ、ということも考えました。

 次は、火曜日の王様の御言ではありませんが、韓国のあるコンサ二ムが直接二代王様に尋ねた内容です。「子供が40歳を過ぎましたが、祝福を受けず、世間的に生きている、私は本当に希望が無い。」「どうすれば良いでしょうか。私はもうお父様にお会いすることもできないし、こんな状態で、これ以上生きたくもない。」このように言いました。

 二代王様は次のように話されました。「その子に自由意志がある限り、この世が堕落した世の中である限り、私たちがその子の責任分担5%を代わりにしてあげることはできない。父母が。」このように話されながら、「でも、父母が信仰の中に立っていたら、この子が悪い道に行ったとしても、父母が神様の近くに、天国に行き、その子を救うことが出来る道がある。ところが、母親までが、父親までが、もうこれ以上道がないから、うちの子は(祝福)家庭に入っていけないから、信仰がないから、わたしはもうダメだ。と考えて信仰の道から落ちてしまったら、本当に家族全体が行く所がなくなってしまう。神様の前に行く機会がなくなってしまう。」「今は子供たちが大きくなり、これ以上親がなんとか出来る立場でないなら、祈祷してあげ、子供たちが帰って来れるようにすることですが、それが終わりではありません。」 

 それで、お父様が語られた家庭の救いは、堕落していない本然の世界で、本然の世界では、私たちも神様の直接主管圏で、神様と、1対1で対話するではないですか。お父様が語られた家庭の救いの理想は、私たちがただ「しなければならない」というものでなく、理想を描いて、アボ二ムの御言どおりに生きようと最大限の努力をしますが、それができない時、私は終わりだ、というのは違うというのです。この御言を見て、私も勘違いしていました。色々な勘違いがありますが、私が子供たちの信仰を代わりにしてあげることが出来るかのように勘違いしていたなあ。と思いました。

 

 

2.親の役目、子女を主の弟子にすること

 今日は、子女の問題について話したいと聞きましたが、そうですか。質問はありますか。

■質問者A:私の家庭の場合も、子供たちは大きくなり、各自の考えを持ち、教会から遠くなって行くばかりです。主体者は聖和して男の子ばかりなので、どうやって祝福につなげていったら良いか悩んでいます。

 

 

2-1.父を早く亡くした苦難を理解する

■二代王妃様: 

 私が子供の立場だったら「善の神様だったらどうしてお父さんを早く連れて行ったの。神様が善だというけど、僕にこんな大きな悲しみを与える神様がどうして必要?僕には必要ない!」こんな風に考えると思います。あるお母さんは、子供が7歳の時に夫が亡くなったのですが、とても幼いですね。長男はもう大きくなっていますが、もし、末っ子と話すなら、神様が善であることに対して話をして、私たちが受ける苦難は、神様が私たちを嫌いで与えるのではないことを話す必要があるでしょう。

 私たちは苦難は、神様が私たちを嫌いで与えると考えますが、御言を見ると、「私たちが試練に会うとき、喜びなさい。」とあります。

 それで「お母さんは、お父さんが亡くなるのはとても悲しかったけれど、お父さんをとても愛したけれど、神様が苦難を下さって、あなたたちを下さって、とても感謝しているし、この苦難を通してお母さんがとても恩を感じている。」という話をたくさんしてあげないといけないと思います。そして、神学的な良い本も色々あります。善なる神様ならどうしてアフリカの子供たちが餓死するようにされるのか、同じ脈絡ですね。神様が善ならどうして日本に津波で無実の人達を死なせるのか、どうして北朝鮮の子供たちが飢餓で死ぬようにするのか。

 こんな質問に対して、冷静に答えるなら、「苦難があったとしても神様の善と相反するものではない。なぜなら苦難を見るのは私たちの目で見ることであって、神様の大きな計画の中では、私のこの苦難がどうやって使われるかわからないのだから。神様の善と苦難とは相反するものではない。」

 これが答えではあります。ただこれが息子たちや、今苦難に会っている人には正解ではないですね。感情的に、これが答えだなとは思えません。

 それでこの事について息子とよく話をして、私はこれをどうやって乗り越えるのか、まずお母さんがこの事に対して答えを出さなければなりません。ゆったり座って「私はこれについて恨みはないか、突然夫が亡くなって、私はこれに対して神様に対する恨みはないだろうか。どうして夫をこんなに早く連れて行ったのですか。毎晩泣きながら過ごしはしなかったか。まずは私が心の整理ができたか。夫が亡くなったことを苦難を受け入れ、神様は私を憎んでいらっしゃると受け止めはしなかったか。」

 それを一度綿密に自身をチェックするのです。

 お父さんの役割もしなければならないことに対して、それが傷になっていないか。そんなことをずーっと振り返る時間を持ち、その質問に対して勉強してみるのがいいです。息子たちは賢くて韓国語も上手だし、そんな対話をしたことがありますか。

 息子たちにも、1対1子女の日が重要だと思います。最近私は傲慢だったなあと思うことがありました。『금쪽같은 내 새끼 (かけがえのない私の子)』(子女教育の韓国のユーチューブ)というプログラムを見ながら、皆さんご存知の有名な番組ですね。私は育児について良く知っていると思っていましたが、この番組を見て、自分が傲慢だったと感じました。私の親がとても厳格だったので、私も子供たちに厳格になろうとしました。とんでもない基準を子供たちに要求して、ひどく叱りました。今は王様の助言で、神様の恵みで直しましたが。親が自分を振り返る必要があるでしょう。

 二代王様が1対1子女の日をしなければならないと言うと、大部分の親が、やってみたけれど、子供たちが嫌がってしない、出来ないと言います。それでも一緒に住んでいる子供とは、努力してみるのが良いと思います。ただ、「(やらないと)お母さんがかわいそうじゃない?」というのは良くない方法です。子供たちが悪いかのようにしてしまい、脅迫するような方法。「お母さんが、年もとってあなたたちと一緒の時間を過ごしたいんだけど。」とか言いながら話すのです。

 

 

2-2.子女の祝福を目標としない

 これは私の個人的な考えですが、子女教育の目標が祝福であってほしくないと思います。勿論祝福は重要です。私たちの場合は、1対1の教育を、次男の場合は、3歳からしました。長男は5歳から、ずっとやってきました。続けて教育しながら、子供たちが準備ができたと考えたので受けたのです。準備も出来ていないのに、もう18歳でしょ、早く受けなさいと言って受けたのではありません。 

 子供が祝福さえ受ければ良いという考えですが、初めに、個人の救い、家庭の救いについて話した内容と繋がってくると思います。子供たちが祝福を受けるのが目標ではなく、主の弟子になると自然に祝福を受けたくなります。私たちは、順序が変わってしまったのだと思います。どうやって祝福を受けさせるかより、どうやって息子を主の弟子にすることができるか。これを先に考えるとよいです。成人になった息子はお母さんと話したがりません。お母さんが、何を考えているか知っているからです。2人で会おうと言うと怖いのです。写真を見せて「とても良い子だよ。お母さんが話をつけてあるから。」と祝福を勧めるので。それでお母さんとの1対1が嫌です。良いことがないので、お母さんを避けるでしょう。口を開けば祝福のことばかりで疲れてしまうから。

 不思議ですが、子供たちは親を好きですが、嫌がります。親に認めてもらいたいけれど、心配されるのは嫌がります。親を愛していますが、親が何かした時にとても嫌だった思いが蘇ってきたり。親たちは祝福に対してあまりに一生懸命になって、多くの失敗をします。ある人は、親同士が親しくて子供を結ぼうとしますが、男の子はまだ準備が出来ていないのに、女の子を連れてきて祝福を受けさせようとしたので、子供に謝るように言いました。子供同士で話せるようにしてあげないといけないし、返事を待つのに、子供たちに期間を決めてあげないといけません。「愛と尊敬」の本が終わるまでとか、7か月間とか。ずるずると引きずらないで期間を決めると良いです。1年、2年経っても、決まらずに引きずり、どうしていいか分からないというのは良くないです。

 そんな時は、「うちの子がまだ不足していて...」とうまく断って、決して相手を批判したりしないで下さい。この点は、親が整理してあげることです。祝福は重要ですが、祝福を受けてもうまく行かない難しいカップルも沢山見ました。本当に祝福は難しいです。子供たちはとても傷つきます。

 子供たちが、神様がいらっしゃり、私が本当にこの道を行きながら、私が、主について生きて行くようになれば、私は今までつらくて、私の背に沢山の重い荷物があったけれど、その荷物を肩から下ろし、主の前に、主を中心として理想家庭を築いていける。この心がなければなりません。この思いが無いのに押して祝福ばかり勧めたら子供たちは逃げてしまいます。この教会に通うには祝福を受けなかったら、お母さんとも話が通じないんだな。こんな状況になるのです。

 隣の家は18歳で祝福を受けたんだって、良いですね。拍手!でも、みんながそうではありません。自分の子は自分が一番良く知っているではないですか。祝福を受けたら、何か魔法の薬でも飲んだように全てうまくいく、絶対にそうではありません。祝福を受けて逃げてしまう子もいるし、準備も出来ていない子供たちを無理やり一緒に住まわせて、別々に暮らす人もいます。祝福は信仰の結実であって、絶対に信仰の目標になってはいけません。これを本当に強調したいです。神様との関係の回復、主との関係の回復、これが先でなければなりません。分かるでしょう。子供たちが私を避けていたら、ああ、私が子供に負担をかけていたなあ。強要していたんだなあ、と悟らなければいけません。子供一人一人違います。

 最近、次男と話しながら分かった事があったのですが、以前、私に対してとても心の傷を受けていたという事がわかりました。私が気付いてあげてなかったなあ。息子はお母さんに謝ってほしかったのに、気付いてなかったなあ。子供も人なので、私がお腹を痛めて生みましたが、私とは違う人格者です。親が見過ごしてしまう部分が多いのです。私は神様の代わりになってあげられません。

 私は子供たちに次のような話もします。「お母さんはいつかは死ぬんだよ。わかるでしょ。お母さんは死んでいなくなるよ。その時、あなたを守ってくれ、共にいて下さるのは神様であり、主です。それでお母さんが持っている一番大切なものは信仰だし、主です。だからお母さんは、あなたが主に対する恵みを必ず受けてほしい。」このように言います。

 子供たちと聖書の勉強をして何度も失敗もしました。ある時は、始めたけれど私が手に負えなくて止めてしまったこともありました。うやむやになって、また始めたり... それで、今からでも1対1を始めると良いですが、祝福の話はしないで、どうやったら子供が主の弟子になることが出来るかに集中します。「どうやったら息子が主の弟子になることができますか。どうやったら息子を主の前に捧げることが出来ますか。神様、知恵を下さい。」と祈りながら。

 これを祈祷項目に加えて紙に書いて貼るのです。私の祈祷項目8つの中に、「5人の子供たち(一人々の名前を書く)の弟子化」があります。そして、長男と次男には、「この2人の配偶者が神様のみ心にかなった人となりますように」も祈祷項目にあります。これは、私の中で祈ることであって、私と神様との秘密の対話です。

 

 

2-3.主体がいなくても、信仰の主体として立っていなくても

 主体者がいなかったり、いても信仰の主体として立っていない、状況は違っても似たような立場で、家庭に王と祭司長がいない状況で、私が王の役割も祭司長の役割もしなければならないので大変なんですよね。難しい状況なので、その難しい状況で祈る切実な祈祷を、他の誰よりも神様が切実に受け取って下さると思います。「息子をどうしたら良いかわかりません。わからないのです。どうしたら良いですか。神様、私には本当にわかりません。どうか教えて下さい。」と涙ながらにすがって祈るのに、神様が教えずにいらっしゃるでしょうか。「魚を求めるのに蛇を与える父がどこにいるか」とおっしゃったではないですか。

 子供を家庭として考えないで、今、一番難しい子がひとりいると思いますが、次にはまた違う子が問題になったりします。この子が一番可能性があるとか。でも、それは私の考えですね。子供たちの名前を一人ひとり、紙に書いて、祈るのです。

 事実、これはもう7年前に二代王様が仰ったことです。10年、14年前に1対1子女の日をしなさいと言われたではないですか。でも私たちがやらなかったのです。その頃は子供たちはもっと幼かったでしょ。「これを敢えてしないといけないだろうか、子供と二人で外に行って。外のファーストフードは体に良くないし、忙しいし。」と言ってやりませんでしたが、でも子供にはこれが必要なんです!  お父さんがいない息子さんは、自信がないかも知れません。自分が、男として夫や父親の立場でちゃんとやっていけるだろうか。自信を持つようになれると良いです。今や私のお父さんは、肉親の父ではなく、私の本当の父は主なんだ。全ての苦難に勝利され、私を深く愛してくださる主が私の父なんだ。

 2世たちは、信仰について恐れをもっている場合があります。1世に比べて未熟です。被害意識を持っています。「教会は私の親を奪って行った。」また、こんな思いもあります。「もし、私の親のように信仰しなければならないなら、私には出来ない。私の親はだまされた。」などなど。「まるで自分が、純真な親を目覚めさせてあげないといけない、現実世界に」、というような。とんでもない英雄心理があるのです。教会に反対することが親のためだ。

 それは仕方ないことです。子供たちは長い間、世間で教育を受けて来たので、世間の目で見るのです。世間の目で見た時、間違っているので、親は間違っていて、信仰自体を否定するようになるのです。親たちの中には、「もし、私がアボ二ムに会ってなかったら、たぶん私は死んでいたかも知れない。完全に廃人のように麻薬中毒になっていたかも知れない。アボ二ムに会って完全に変わってまともに生きられるようになった。」こんな人もいますね。でも、2世はそんな事は見えないのです。それより、「私の親は被害を被った。私が2世だと言っても何も変わったことは無いではないか。」このように言います。 

 キリスト教に通っている子もいますが、キリスト教の方がよっぽど良いと言う人もいるでしょう。でもキリスト教も同じ問題を抱えています。例えば、私の罪の償いは死であるけれど、私が主を信じて告白して永遠の命を得たと言いますが、そう言いながらクリスチャンでも喧嘩する人が多いです。まるで聖殿教会だけ問題があって対立があるように見えますが、それも事実、勘違いです。最近読んだ中に、あるキリスト教放送局で働いている人の話ですが、その人がうまくいっているので、先輩が嫉妬して、辞めさせようとします。「ここで働くな。言うことを聞かないなら、ひどい目に会うぞ。」その人は力のある先輩だったので、どうするのが一番良いか考え、静かに仕事を辞めて神学校の大学院へ行った、というのです。本当に、どこにでも喧嘩をする人はいます。そうでない人もいます。

 

 

2-4.聖殿教会の喧嘩

 聖殿教会がこんな風になり、喧嘩をして失望した。私はそのようには考えません。心が痛むことはありますが、私は、それは過程だと思います。私たちが家庭連合から垢を取る過程。牧会者を批判して、私の方がうまく出来るとか、牧会者は、家庭連合の時の権威、地位を考えて、食口を当然のように対応する、この二つがぶつかるのです。これは重要な過程だと考えます。これを通して、牧会者は、食口に対して当然だと思ったらいけないんだ、食口からこんな反応が来るんだな、と学び、食口も教会を運営してみたら、考えていたように簡単なことではないんだ、と学びます。中道を探すんです。 王様が、あなたは間違っているとか、あなたはどうだとか、そのようにされた方が良いと思いますか。そうではありません。そうしたら、私の立場を分かってもらえなかった、と言ってもっと大騒ぎになります。教会が成熟していく過程。心配し過ぎることもしないし、放っておくわけでもありません。

 ある人は、「教会が分裂して、喧嘩をするので、子供たちも行かないし、子供があざ笑うので私も行きたくない。」そんな人には、お子さんは以前は信仰があったのですか?と尋ねます。これにかこつけて自分がどうして教会に行かないかを言っているだけです。今まで自分が子供たちを教育してきたことが、言葉として出ただけで、以前と今と別に変っていないのです。韓国スタイルでもあります。でもある面、すっきりした感じもあるでしょう。嫌気が差していたのに良く言った、というような。そして、私の中にもまだ堕落性があることも分かり。色々な事が起こると思います。和解する人もいれば、それが嫌だと言う人は新しく自分たちで作れば良いのです。嫌なのに無理に一緒にする必要はありません。自分で牧会者の立場に立ち、どれ程大変なことか知って。人に対してこんな風にしたらいけないということも学び、ブーメランとして自分に戻ってくるのです。なぜなら、そのときは言いたいことも全部言ってすっきりしたと思うかも知れませんが、いつかは自分にブーメランとして戻ってくるのです。

 ある人が私に聞いたのですが、「そうしたことはいいことだったのでしょうか?」と。しかし、神様はいつかこのように聞かれるときが必ず来るというのです。

 神様:「その当時は子供たちまで動員してやりましが、そうすることによって子供たちの信仰がもっと良くなりましたか?あなたの言うことが正しいと人々に認められて相手に勝つことが一番の目標だったのですか?それとも神様の願われる聖殿を一緒に作ることが一番の目標だったのですか?」と、このように神様が聞かれたとき、堂々と答えられることができますか?それも責任になるのです。自分自身に責任として再び戻ってくるのです。それは本当に不思議なことです。

 私は牧会を長くはしていませんが、時々そのように未熟な方々がいます。その方が今日教会に来るのなら私は今日は教会に行きたくないと思うこともありますよ。サモニ厶である私がこんなことを言ってはいけないのですが。その人に問題を指摘してあげるよりも聖霊がその人に気付かせてくださるのです。その人たちは堕落性を全部出しきった後に、「あ、こうしてはいけないんだな」と悟らせてくださるのです。だからその人をやり込める必要はないのです。

 

 

2-5.主との訓読と、子女を主の弟子にすること

 子女や教会の問題に対してはもっと楽に考えて頂きたいです。楽には考えられない問題かもしれませんが。まだ子供たちは30歳にはなっていないですよね?韓国のコンサニ厶の中には子供が40、50歳になるのにまだ祝福を受けていないという人もたくさんいますね。子供が教会にもまったく来ないとか、教会とも親とも関係ない生き方をしているとか。私たちは親としてそのような姿になってはいけませんね。

 だから今からでも子供を主の弟子にするという目標を持ってください。子供たちは祝福を受けてもお互い嫌いだったら離婚もします。親の思い通りにはできないのです。神様は人間をロボットには作られなかったのです。私たちもロボットには作られなかったし、子供たちもロボットには作られなかったのです。

 祝福の問題よりも先に親と子供たちとの関係回復、信頼回復、そして、どうすれば子供を主の弟子に作ることができるか?私がどのように生活してこの子供たちに主を伝えることができるのか?私が何を持って子供たちに主を信じさせるように感動を与えられるのか? 私がこのように言えば、ある父母は活動を一所懸命して、訓読会も朝方の3時にしなければならないと言われます。何というか、見せようとすること? 見せようとすることに集中されるのですね。特に女性はそのような人が多いのですが、私が言いたいことはそれとは違います。私と主との関係です。

 私自身、私と主の関係を直接持つようにしています。私は最近このようなことをしています。「訓読日誌」とも言いますが、「真のお父様との訓読会」をやっています。私は「主との訓読」このように言うのが好きなのです。御言を読んだり聖書を読んだり、いろんな形の訓読会があると思うのですが、私の場合、聖書にでてくる人物について読んで、要約します。この人物はこのような生き方をした、このようなことを誤ったとか、私はこの人物からこんなことを学ぶことができるな、と、このようなことをしています。

 何日か前にした人物はへロデ王でした。多くの建物を建てたり、偉大なことをしました。人々に見せるたくさんのことをしましたが、それは神様が見られるには良くなかったのです。聖殿も建てて、ユダヤ人の関心を惹こうとしましたが、同時に異教徒の聖殿も建てたので、神様が見られたときに「この人は王としてふさわしくない。神様の聖殿の他に何の聖殿を建てているのか。」 10分か15分くらいですが、お茶を準備して、自分の好きな時間としてやっています。そうすると一日中その人物に関係した書物を読みたくなります。この人物に関する聖句なども見ることになります。この内容は黙想と繋がります。いつもきちんとやっているわけではありませんが、このことに関心を持って続けてやっていかなければならないと思う理由があるのです。

 私たちは訓読会と言えば子供を引っ張ってきて一緒に読ませること。これが訓読会ですよね? しかし、訓読会というのはお父様が私と共にいらっしゃること、これが訓読会なのです。でも、訓読会といえば私も子供たちも負担になりますよね。訓読会ではなく戦争になってしまってますよね。感想とかもなく毎朝戦争ですね。子供に頼み込んで訓読会をしたりとか、そうではなく、私と主の関係回復です。

 しかし、ある人は「私は聖殿教会で一所懸命活動したり、聖霊大学を一所懸命やっているのに、聖殿教会には希望がないから教会を離れる」といった人もいると聞いたのですが、それは実は、自分と主との関係がとても渇いているのです。見えるものだけをずっとしているからそうなるのです。人々の前で「私はこんなに頑張っている、知ってますよね?私はA級の信者です、そうでしょ?」このようにすることに慣れてしまったようです。

 私が密かに、神様と密かな場所でどのように行動をしているのか、神様は注視されており、見ておられるのですが、そんなこととは関係なく、聖霊大学とかで「人々の前で何か信仰的ないいことを話さなきゃ」そのようになってしまうんですね。それは人に見せるためにする行動であり、パリサイ人のようになってしまっているのですね。

 私がこの「主との訓読会」に関心を持った理由が、クリスチャンで30年間アフリカの宣教をされた方、50年間インドで宣教をされた方々がいらっしゃるのです。皆、国も国籍も違うんです。また、モンゴルで宣教をされた方がいらっしゃるのですが、余りにも恩恵がないという悩みを持ち、自分が宣教に来たのに何をしても恩恵が感じられなくなったというその方の証しを聞いたのです。何をして恩恵がなく、それを回復することができなくなっていたのですが、それでも活動をずっと続けたそうです。

 しかし、ある瞬間、こんなことではいけないと、毎日毎日恩恵を回復する点検をする時間を持ったそうです。主と自分との静かな時間を、1対1の関係を持つようにしたそうです。自分と神様が1対1できちんと立たなければならないですよね。自分が神様との関係においてちゃんと立てば子供たちを何とかすることができるではないですか? その方はそのようにすることによって自分と神様との関係を少しずつ回復することができたそうです。

 私は素晴らしい篤実なキリスト教徒の方の証しを聞きながら、どうすれば霊的な主との出会いが持てるのか、秘訣は何なのか? ずっと悩んだのですが、私は祈祷に答えがあると思いました。祈祷も難しいのですが、祈祷の中にある祈祷。敬虔な時間。「静かにお父様と持つ訓読会の時間」「主と自分との時間」、それが"鍵"だということを最近とても感じます。そこに充満されている主との出会いがあります。とても大変なときに主を必死に掴もうとしている私を祝福してくださる主がいらっしゃることを感じたりもします。私だけに特別に恩恵を下さる主にも出会え、そこで1対1の主に出会うのが本当に重要だと感じます。

 しかし、私もいつも良いことばかりではありません。ある時は辛いと思うこともあり、ある時はやらないときもあり、忘れる時もあります。しかし、確実に私は主の御言を黙想したり考えたりします。そして、私は主にこんなことも話します。「神様、喜んでください、私、とても成長したでしょ?」と言ったりするのです。

 例えば、夫のいない人はこのように思うでしょう。「夫がいれば、どれだけいいだろうか。いろんな話ができるのに」とか。夫に信仰がない人の場合、「夫に信仰があればこんな話もできるのに。でも話したいことが話せない」とか、思ったりしますよね? しかし、不思議なことがあります。

 私が本当に話したい話があっても、夫は(二代王様)他のことで忙しいので話せないことが多いのです。(笑) 本当におかしいですね。夫には全てを話せると普通思いますよね? でも私の場合はそうではありません。夫のいない人とか夫に信仰のない人を慰めるためにわざとこんな話をしていると思うかも知れませんが、事実なんです。

 以前、聖書を読んでいてとても恩恵を受けたことがあったのです。そのものすごく感動受けた内容を二代王様に話したことがあるのですが、反応が「そう」でとてもあっけなかったのです。何で私の受けた恩恵を王様も同じように恩恵と感じないんだろう。王様の反応に少しショックを受けました。

 しかし、すぐに祈祷室入って、「神様、神様、私が新しいことを発見しました!本当に嬉しかったのです!」と報告したら、神様は一緒に喜んでくださったのです。(笑) 

 私はその時、悟ったことがあるのです。恩恵というのは各個人が受けるものなんだなあ。夫は摂理で忙しいこともあるのですが、私が恩恵を受けたからといってそれを夫に話して、夫も一緒に恩恵を受けるというのは難しいということが分かりました。だから夫よりも神様にたくさん話すのです。「夫がいないから寂しいでしょう?」と言う人はいるかもしれませんが、こんな話をしてくれる人はいなかったでしょう? だから神様はこのような訓練を先にしてくださっているのかも知れないのです。「神様と近くなれ」と言われているのです。

 恩恵を受けるということはこういうことのようです。自分と神様との関係が回復されれば知恵もたくさん下さるし、私が神様から愛を受ければ私たちの子供にも小言をたくさん言わなくなると思います。(笑) そうではないですか?

 私たちが愛を受けていないから子供に小言を言ったりするということもあるのではないでしょうか? 「私には夫がいないんだから、おまえたちを小言の対象にする!」こうしていませんか?(笑)それではいけませんよね? そのようにしないためには私が神様から多くの愛を受けていなければいけませんね。そうすれば自分が成熟できるし、神様はこのように私を愛してくださるんだな。私の祈祷もこのように聞いてくださっているんだな。雀も見られるが私も見てくださっているのだな。今日はとても時間がたくさんあるのですが、他にも質問がありますか?

 

 

3.成人の子へ親として

3-1.信仰の姉妹として接する

 

■質問者B:
 子供が成人している場合(祝福を受けている場合も含めて)、親として子供をどのようにサポートしていけば良いのか教えてください。

 

●二代王妃様: 
 親が成人の子供に対するときですが、神様がこのような知恵を私に下さいました。私が嫁を迎えてどのように嫁に接すればいいのか悩み、祈祷をしたのですが、神様は答えを下さいました。「嫁とは考えないで同じ信仰をする同志だと考えるように。」このように御言を下さいました。「信仰の姉妹と考えなければいけないのです。」とおっしゃいました。それで同じ論理を私の娘にも適用したのです。私の娘は韓国年齢で20歳になりますが、娘というよりは信仰の姉妹です。だから私の娘ではないのです。娘というのは私が肉身から見た存在性ですよね。娘は信仰の姉妹なんです。その信仰の姉妹が成熟している場合もあるし、とても手の掛かる姉妹かも知れません。しかし、神様は一旦私にまかせられたのです。伝道するようにと。神様が私にまかせられた信仰の姉妹なんです。娘をそのように見ると、とてもたくさんのことが変ってきます。

 例をあげれば、私の娘は聖書について良く知りません。余り関心を持たないので心配した時期がありました。だからといって娘に私が感情的に接するのではなく、信仰の姉妹なので娘の信仰を育てることをどこから始めればいいのか、と考えたときに、自分が客観的になり、感情を押さえて子供を見れるように神様がしてくださいました。そして最近、娘が難しい相談を持ちかけてきたのですが、私が感情的になって驚いたように言葉を発するのではなく、落ち着いて相談員のように、信仰の先輩としてどのように助言をするのがいいだろうか、そのように落ち着いて対することができました。

 一つ例をあげると、以前ある成人した女性から相談を受けたことがあるのですが、その女性はある問題が起きて母親に相談したのですが、母親は非常に驚いてパニックになったそうです。母親が何か良い助言をしてくれると思って相談したのに、母親は私よりももっと不安になってしまったため、それは私をもっと不安にさせたと言いました。

 自分の娘ですが、信仰の姉妹ですよね。信仰の姉妹とか信仰の兄弟が悩みを相談してきたというのは、私が信仰の先輩であると思って相談してきたのです。自分の娘、自分の息子が相談をしてきたのだとは考えてはいけません。信仰の兄弟姉妹がどのようにこの悩みを信仰で乗り越えていけるかを考えて見たときに、第一に感情を無くさなければいけません。

 私が産んだ子供ではあるけれど子供が成人した場合には、成人として認めてあげるべきです。もし子供の方が感情的になって聖殿教会の批判をしたり、信仰をしないと言い出したりする場合ですが、子供というのはまず、親に全部吐き出します。その場合には親はまず、ショックを受けてメンタルが崩壊してしまいます。そして、親は感情的になってしまうのですが、その感情を止めてください。余りにも感情にはまってしまうと、問題の解決やどのように助けてあげるかとかには関心がいかなくなり、感情に捕らわれることで忙しく、問題が見えなくなってしまうのです。

 子供は成人になったのだから信仰の同志として見なければいけません。子供がそのように言ったことでショックを受けたり、腹が立つかも知れませんが、しかし、子供が自分に吐き出してくれたこと自体はいいことなのです。子供がそのように言ってくるときは親の反応を見ようとする場合もあります。

 だから、子供が「自分はこう思うのだが信仰の先輩であるあなたはどう思うのですか?」と聞いているようなものなのです。だから、子供は信仰の同志として助言を聞きたいのです。子供が感情的になって「聖殿なんか必要ない」などと言ったとき驚いて「えー!どうしよう!」といって感情的になりパニックってはいけません。信仰の同志として神様が私に与えてくださった人なのです。

 相談員というのは相談してきた相手の状態を良く把握して何を言ってあげればいいか判断できなければいけません。相手が感情的であっても自分は落ち着いて対応できなければいけません。それが相談員というものです。すぐに解決しようとあせることもいけません。鳥の卵から早く雛を取り出そうとすれば雛が死んでしまいますよね? 雛が死んだら雛を生き返らせることもできませんよね? 雛が卵から孵化するとき、雛が出れるように少しだけ殻を割ってあげると自分の力で殻を割って出てきますよね? そして殻を割って雛が出てきたら、神様の恩恵で出てこられたのだと神様に感謝するのです。

 神様に感謝を捧げれば自分というものはなくなってしまいますよね。成熟した親の信仰者の姿を子供たちは見たがっているのです。私たちはとても感情的で自分を責めて悲観的になったりしますね。過去を振り返って、私がこうしたからいけなかったんだ、などと言いながら。そうする必要はありません。子供は親がそのようにすることを願っているのではありません。子供は親の成熟した信仰者の姿を見たいのです。子供自身が大変なときに成熟した信仰者の姿とはどのような姿なのか? 見たいのです。「自分はこんなに大変なんだけど、お母さんならこういうときどうするの?」と質問しているのです。

 たとえ子供の話す内容が感情的で否定的な内容の話であったとしても、それでも子供が親に話す場合はいいことだと思います。なぜなら解決できる道を開いてあげられるからです。そして、相談にのってあげるときは声の調子もトーンを下げて話してあげます。若い方の相談にのるときは声色もとても大切です。しかし、私たちの気持ちは非常に忙しいですね。早く解決しようと焦ってしまいます。子供たちがとても大変な相談をしてきたとき、以前、私の娘が泣きながら私に相談してきたとき、私が何を感じたかというと、私は相談員のように娘に対しなければいけないのだなと感じたのです。

 

 

3-2.信仰の相談員として接する

 先ほども少し話しましたが、7年くらい前の話です。次男が私に不満的な内容を二度も繰り返し話したことがあるのですが、そのとき私は瞬間的に感じたのです。あ、私に謝ってほしいのだなと。それで息子に謝りました。「とても大変だったんだね。お母さんもそのときは事情があったんだけど、おまえのことをかまってあげられなくてごめんね。」すると息子は涙ぐんだのです。そのとき私は驚きました。しかし、心の中では驚いたのですが、それを表には出しませんでした。私の役割は信仰の先輩であり、相談員だからです。(笑) 子供もそれを願っているからです。そのあと。息子との関係が少し回復したと感じました。

 子供たちは親との関係をこれ以上持ちたくないとどこで思うのか率直に言ってわかりません。最近になってこのようなことが分かってきました。感情をコントロールできない子供の場合は、子供が成長する段階で何か詰まってしまっていることがあるのです。

 私もいつもうまくやっているわけではありません。失敗もします。悪口も言われるし、偽善者だという言葉も聞きましたし。(笑)ヨナニムと祈祷会を一緒にやりたくないとか、恩恵がないとかいろんなことを言われます。(笑)祈祷会中に喧嘩をする人もいます。そんなことは韓国だけにしかないと思ったでしょう? 実は、アメリカでもあるのですよ。(笑)いろんな人がいます。

 子女との関係においては知恵が必要だと思います。もし、子供に感情的に対した場合は、まず子供に真実に謝ってください。子供たちは親からの謝罪を受けたいのです。そして、感情的に子供に対さないように、克服するように努力することが大切です。私が育てている信仰の姉妹に対して失敗した場合は謝罪をしなければいけませんね。自分の子供だから謝らなくてもいいというのは間違っています。うやむやにしてごはんを食べて笑ってそれで終りだというふうにしてはいけません。

 神様が子供を私たちに伝道するようにとまかせてくださったのに、信仰の兄弟姉妹を誤って傷付けてしまいました。どうしたらいいでしょうか? しかし、だからといって諦めるわけにはいかないですね。伝道対象者だから伝道して私が救われなければいけない、このように考えるのもいけません。家庭の救いだからと考えないでください。私が死んだとき、信仰の基準を立てなければいけません。神様の香りがする信仰者を願われています。まず、焦りすぎて感情的になったことに対する私の悔い改めから始めなければいけません。そして、子供たちに謝ってください。

 そして、子供たちに絶対にこれだけは言わないでください、特に男の子に対してです。「お母さんはおまえのせいでとても大変だった。お母さんの気持をわかってほしい。おまえは悪い息子だ。」このように言うのは一番悪い方法です。「おまえはお母さんを苦しめた。」などと言えば息子は100%の確立で二度とお母さんを見たくないと思うでしょう。

 私は『금쪽같은 내 새끼 (かけがえのない私の子)』を見ながら自分はこんな母親だったのかと自分自身を振り返ることができました。子供によっては他の子供よりもたくさんの意志疎通が必要な子供もいます。しかし、次男や三男はわざわざ疎通する必要がありません。でも長男と末の息子は疎通する必要があるのです。かわいいと言って触ってあげたりとか、彼らにとってはスキンシップが愛の言葉なんです。子供たちの愛の言葉を全て把握してあげることもいい方法です。

 5種類の愛の言葉の質問用紙がありますよね? あるいは、子供にどうやってあげたときに喜んだのかを把握するのもいいです。「5種類の愛の言葉」知っていますか? 本があるのですが、人には自分の愛の言葉があるという内容です。人は愛の言葉で自分自身を表現するし、自分に当てはまるこの愛の言葉で愛を受けたとき、人は最も満足し、愛を感じるのです。

 一つ目は褒めたり認めてもらうこと。二つ目はプレゼントをもらうこと。三つ目は奉仕をしてもらうこと。四つ目は自分と良い時間を過ごしてくれること。五つ目はスキンシップ。スキンシップが好きな人は早く祝福を受けるのもいいですね。私の場合は褒められたときに愛をたくさん感じます。

 しかし、私の両親は褒めることを全くしませんでした。学校で賞をもらってきても褒めませんでした。私の母はプレゼントも、時間を一緒に過ごすことも、スキンシップも好きではなかったし、褒めることもしませんでした。母は手伝うことで愛を感じた方だったと思います。しかし、私自身は母からとても褒め言葉を聞きたかったのですが、母はそうしてくれませんでした。「ヨナや、ありがとう、いいこだね」という言葉をとても聞きたかったのですが、そうしてくれませんでした。なぜなら、母の愛の表現は朝早く起きて家族のためにごはんを作ってあげることなどが愛の表現だったのではないかと思います。しかし、私はそんなことより母から褒めてもらいたかったのです。うまく噛み合っていないですね。母親である自分と子供の愛の言葉が同じ場合は、自分にとって最も愛する子供になるのです。なぜなら自分と愛の言葉のコードが合うからです。この話、初めて聞きましたか? 子供によって愛の言葉が違うので子供に合わせてあげることが大切です。

 私の末息子はスキンシップが愛の言葉です。だから末っ子とスキンシップをたくさん心がけています。末っ子との朝の挨拶は息子をギュッと抱きしめてあげることです。そして良く寝た? と言いながらキスもしてあげます。末っ子にとってはスキンシップがとても重要なのです。意識して毎日たくさんのスキンシップをしてあげています。

 長男は私と同じで褒めることを喜びます。長男は不動産の資格を取って不動産の仲介をやっています。最近、家を二つ売ってたくさんのコミッションをもらい小切手を持ってきたのです。息子はとても喜んでいました。だから特別にたくさん褒めてあげました。「お母さんは本当に嬉しい。本当にご苦労だったね。どれだけ大変だっただろうか。おまえが誇らしい。」たくさん褒めるその褒め言葉を聞くことで息子は母親の愛情を感じるからです。子供に合わせて接してあげることが大切です。長男の嫁はプレゼントです。次男の嫁は褒めたりスキンシップをしたりすることです。三男は褒めることです。娘は褒めることやプレゼント、時間を一緒に過ごすことなど複合体です。

 5種類の愛の言葉に関する質問用紙があるのですが、一度してみてください。あるいはどれが一番反応がいいのか見るのもいいですね。夫のいる方は夫と一緒にしてみるのもいいですね。男性はほとんどスキンシップが好きですね。

 親が子供に対して自分が信仰の主体であるとか、子供に対しては霊の親だという考えを持つことで、子供に責任を持たなければならないという気持ちになり、小言を言ってでも引っ張っていかなければという考えになるのですが、そうではなく、一番重要なことは、親が子供に対して信仰の兄弟姉妹だという考えを持つことです。そして子供を尊重してあげなければいけません。子供は完璧ではないですが、少しづつ成長していきます。私は自分の子供を信仰の兄弟姉妹というふうに考えて接しています。

 また、子供は自分が投入してあげなければこの世に取られてしまうという考えを持たなければいけません。二代王様がキングスレポートでこのように言われました。「私がなぜ1対1の子女の日をするのかと言えば、子供はいつでもこの世に取られてしまうということを知っているからだ」と言われました。それが現実なのですが、私たちはそのように考えませんね。教会がやってくれるとか、私が活動を一所懸命すれば子供たちは分かってくれるだろうとか。そうではないですね。

 子供は自分とぶつかる母親の姿しか知りません。自分がいくら7時間も活動してきたと言っても子供たちには分からないのです。聖霊大学を6つも聞いているのを子供は分かっているだろう。そんなことを期待するのは全く的外れです。子供たちにとって親とは私と対面したときどのように行動する人なのか、それしか知らないのです。

 では、私は子供たちの前でどのような顔をして過ごしているのだろう? 私が考える自分の姿と子供たちが感じる私の姿にはとても大きな違いがあるかもしれないのです。私は食口から尊敬もされているし信仰の逆境を乗り越えてきた信仰者だと思っていても、子供たちはそう思わないのです。子供たちは却って親のことを二重人格者だと思うかも知れないし、あんな教会には行かないでもっと楽に生きればいいのに、と思うかも知れないし、お母さんの信仰は私の信仰ではないのになんで干渉するの? とか、子供たちの感じる私の姿は私の考えている自分の姿とは違うかも知れないのです。

 

 

3-3.主との1対1の時間、そして祈り続ける愛

 最近、とても感動的な証しを聞きました。夫だけが信仰をして、夫人は信仰をしませんでした。この夫婦は大変難しくお子さんをもうけられたのですが、その子供が幼いときに早くにして亡くなったそうです。夫人はもう子供を持つことができない状態であり、子供が死んだために夫人はショックで信仰を失いました。自分はこれ以上、信仰はしないと夫に宣言したそうです。夫は一人寂しく信仰されたそうです。その間、夫人は礼拝などには一度も出てこられませんでした。

 夫は40年間祈祷を続けられたのですが、38年目だったでしょうか?ある作家がこの方に「神様を恨みたくないですか?38年にもなるのに神様はあなたの祈祷を聞いてくださらないので恨みたくないですか?」と聞きました。すると男性は「私は神様が善であられることを知っているので祈祷を聞いてくださると信じています。祈祷しか方法がないので、これからも祈祷を続けるつもりです。私は神様を恨まないです。」と言われたそうです。

 この男性はこのような会話をして2年後に亡くなったそうです。その夫人はその間もずっと教会に来なかったそうです。しかし夫の葬式のときはもちろん夫人は来られました。そして、たくさんの方が夫の葬式に参加され、この男性はこの信仰のコミュニテイで模範的な方であったと夫の証しをされたそうです。そのときこの葬式で、夫が生前本当に願った場面が実現されました。奥さんは泣きながらその証しに感動して再び主に戻るよう回心されたそうです。夫の40年間の祈祷が実ったのです。そして、2年後にまた奥さんも亡くなったそうです。

 この内容は聖殿の状況とよく似ているように思います。あなたの子供が、あなたの一生涯の人生において、信仰の道に戻ってこないかも知れません。しかし、私が死んだとき、子供たちにどんな言葉を残してあげるのか? 子供たちがそれを聞くかも知れないし、あるいは神様がどのような状況を作られるか分かりません。

 私が言いたいことは何かといえば、活動などすることで人に見せることに続けて集中してはいけません。もちろん二代王様が活動するようにと言われたときには一生懸命活動するのは良いことです。しかし、見せるための活動なら絶対にいけません。私にも恩恵がないし、見る人にも恩恵がないし、神様も好まれません。私たちは今まで長い間そのようにやってきたと思います。私がこのように活動すれば子供たちは感動するだろう。そうして家に帰ってきたら完全に疲れきって倒れている姿を子供は見ています。家では私が神様の代表者です。私が真のお父様を現わす存在です。私を見るのが子供たちが主を見る時間なのです。

 私は個人的にこれを皆さんにお勧めしたいです。毎朝の「訓読日誌」、「真のお父様との訓読会」をすることを。活動をしたければ続けてされてもいいと思います。しかし、一番重要なことは主との関係回復です。そのようにして主からたくさんの愛を受けなければいけませんね。私たちは愛を受けていなければ、爆発したり、急に息子の祝福が気になって泣いたり、夫の写真を見て泣いたり、そんなことしないでください。

 娘に息子の悪口を聞かせたり、末の息子に長男の悪口を聞かせたりするという行動は、必ず長男の耳にはいるのです。そのようなことはやめてください。なぜそんな行動をするかというと神の愛を受けていないから、そのような行動をするのです。その行動は自分の伝道対象者に他の伝道対象者の悪口を言っていることになるのです。すると悪口を聞いている子供は何を思うかというと、自分の悪口も他の兄弟に言っているのかと疑問を持つようになるのです。もっと悪い状況になるのです。

 しかし、もどかしいときは誰かに話さなければいけませんよね。話さなければ気が狂ってしまいますよね。そんなときは神様に聞いてもらうのです。神様、お父様に書いた日記を、私たちが亡くなるときに子供たちがそれを見て泣くかもしれません、誰にも分かりません。でも見せるためにしてはいけないのです。

 関係回復のために努力してください。本質的なことにもっと重点をおかなければいけません。私たちがこのようなことができ、こんな話をすることがどれだけ貴重でしょうか。昔は献金をいくらしなければどうだとか、伝道を何人しなければどうなるとか、昔はいつも動員でしたよね? そのようなことを考えるときに、二代王様は動員をしろとか祝福を何人しろとかそのようなことは言われませんよね? もちろん早く祝福を受ければいいとは言われますが。それは準備ができた人のことです。祝福を受けたくないという人に無理やりしろとは言われません。

 娘は母親にたくさん似ると思います。娘はとにかく母親が好きです。娘が成人になれば母親が説教するのは嫌がるのでショッピングにも一緒に行ったりいろんな話をしたり、「私が死ぬときにあなたに相続したいものは主に向けた愛だ。」と言ってあげるのです。少しずつしなければいけません。子供が信仰的に余りにも遠くに行ってしまっている場合にです。最初から一緒に聖書の勉強をすることはできないからです。

 聖書の勉強が一緒にできる状況になれば、このような聖書もあります。中間が聖書で横が白紙になっていてノートにも使えるものです。私はこの聖書で娘と一緒に勉強しています。これは英語版で日記バイブルといいます。子供たちは聖書について知らないし、神様についても全く知らないのです。聖書も余り開きません。だから私がこれを始めた理由は娘が余りにも関心がないからです。どうすれば娘が聖書を開くか。文字が書いてあれば見るかも知れないと思ったのです。子供用の聖書の本があります。アブラハムについての話しとか聖書の話が50個くらい抜粋されているのです。それを一つか二つ読みます。聖書の本文も横に書いてあり、どこにこの話がのっているのか出ています。重要だと思う部分を一段落づつ一緒に読んで私が説明してあげ、娘に5分くらい時間を与えます。そうすれば自分が感じたことを横に書きます。

 最初の祈祷は私がして、最後の祈祷を娘にさせます。「何を祈ったらいいのかわからない。」と娘が言うので、「今日学んだ聖句で感動したところや感じたことを簡単に祈祷すればいいんだよ。」と言いました。私は娘が何を書いたのかは絶対にチェックしないようにしています。「お母さんは絶対にチエックしないからね。あなたと神様の関係においてあなたが神様に話すことなので、お母さんが中間に入るのは良くないと思う。」と言い、信仰の姉妹としての位置を確実に守ってあげます。親なんだから全部を知らないといけないとは言わないのです。

 「お母さんはいつもおまえを見守ることはできないし、いつもいろいろ言ってあげられることはできないが、神様はいつもおまえと共にいらっしゃるので、お母さんが母親としてあなたに一番あげたいプレゼントは神様を愛して神様を敬虔することだよ。これを一番あなたにあげたいんだよ。」とこのように説明します。このように娘と一緒に聖書の勉強をしています。今までやった聖書の勉強の中でこの勉強の仕方が娘にとっては一番いい方法だと思っています。娘にとってはです。

 でも息子たちはそうではありません。子供たちによって聖書の勉強の仕方が全部違います。三男と末っ子は質問形式にするのが良かったです。討論式にやります。長男と次男は歴史。長男とは最近1対1の勉強を始めました。

 子供たちは信仰の同志なので、信仰の成長に合わせてやることが大切です。子供がどのレベルの信仰にいるのか確認しなければいけません。そしてやりながら反応を見なければいけません。子供のレベルに合わせず、高いレベルを強要すると消化できなくなり嫌いになります。自分が食べれないのに食べろと強要するので子供たちにとって母親は強要する人になってしまうのです。

 子供のレベルを知ることはとても重要です。私は娘との関係において、娘のレベルを高いと考えたのです。それで娘に難しいレベルの勉強を要求したので娘は拒否しました。そして嫌いになったのです。だから娘と勉強するときはいつも「本当にいい質問をしたね。お母さんにもわからなかった。」と娘を褒めながら進めています。たくさん話しましたが、他の質問がある方? 

 

 

4.不安を越え名誉深く死ねる神様への愛

■質問者C:
 個人的に感じることなのですが、今まで王妃様がたくさん語ってくださいましたが、私たちが非常に不足なのでどうしたらいいのか方法がわからずに、子供たちに対してのお話をいただいたら「その通りに従わなくてはならない!」と思って、例えば1対1の関係を持たなければならないと聞いたら、直ぐにその時間を持つのですが、本質的なことに理解が乏しく、いったんはその時間を持とうとするのですが、今まで通りの姿で「あんたは祝福についてどう考えてるの? どうして祝福を受けないって言うの?!」と問い詰めてしまうことがよくあります。だから子供たちが(その時間を)拒否せざるを得ないし、「あんた、どう考えてるの?なんでお母さんにちゃんと話してくれないの?」こんな風に対してしまうので、子供たちが話さなくなってしまう場合があるように思います。

 さっきもお話ししてくださったように、子供たちは認められたいし、愛されたいのに、お母さんからは小言を言われる... それって嫌ではないですか。受け入れがたいし。そういった事情があるのに、「御言通りにやってみたけど、何も変わらなかった、だからうちはもうだめだ」こうなってしまうようです。

 御言を文字通りにだけ受け取って行うようなことが、私たちには多いように思います。個人的には、子供に対する以前に自分自身を振り返らなければならないと感じています。私たちが見逃しやすいのが「自分は信仰をしているから正しい、子供は信仰生活していないから間違っている」と考えて、そういう立場で、どのような方法を使ってでも自分の方に引っ張って来ようとしている場合が多いと思います。それよりも、子供や夫の状況に対して、以前は私自身も自分は正しい、夫は神様、真の御父母様を否定していて、なんでこの人はこうなんだろう!この人をいかに変化させるか!を考えてきましたが、結婚生活を通して、この状況が私自身の鏡なのだなと感じさせられたことがあります。夫のしていることを通して、その状況で自分がどう感じるのか、なのだと思いました。

 実は私は、夫が私よりも信仰的に優れていて夫が私を引っ張ってくれたらいいのに、自分には信仰がないから夫が信仰的に引っ張ってくれたらいいのにと望んでいました。でも、そうしてもらえないので、腹を立てて、夫に対して不満をたくさんもっていました。

 葛藤の中で、祈り続けていた時に、私が神様との関係を結ばせるために神様を不信し教会に通わない夫が与えられたのだなと、自分自身を振り返らされました。いろいろな方とお話ししていると、自分はちゃんとやっているのに、相手がやってくれないと嘆く場合が本当に多いようです。私が思うに、自分の中の罪であったり、自分の中の堕落性を見過ごして、それについて考えもしないことが多いのではないかと思いました。何かの困難にぶつかった時に、なにかが間違っていたのだなと気づき、解決のために断食してみたり、御言を訓読してみたり条件を立てますが、行いだけではそのようにするけれども、本当の悔い改めができないのではないか、何故なら何が誤っているのかが見えてないから、私たちはあまりにも自分の堕落性を見ないようにしてきたのではないか... という思いがします。

 その中で、摂理の中で私たちが本当に一生懸命歩んできて、お父様の御言を必死に守ってきたけれども、今の状況を見ると周辺の人はみんな去ってしまい、私には何も残っていない、となった時に、何故お父様がそのように語られたのか、お父様が責任を持ってくださるとおっしゃったのになぜこんな風になったのか... たぶんそれは、摂理のせい、というより自らの罪と堕落性のゆえにそうできなかったのではないか、ということを振り返ってみるべきではないか... 最近祈祷していてそのような感じを受けました。

 私の場合は、摂理の中で幼い子供を置いて、40修や21修に参加したため、子供が分離不安障害になってしまった、どうしてお父様の御言通りにしたのにこうなったのか、今さら1対1の時間を持てとか言われるけれども、その当時はそうすることができなかったのに今さらどうしたらいいのか、という思いが少なからずありました。

 でもそれは、私の中に解けない傷や葛藤があまりにも多かったので教会に行くことに現実逃避し、教会に行って活動すればいったんは人々から認められるので、自分の罪を隠して、摂理のせい、お父様のせいにしてたんだなと。それが分かった後で、やっと本当の悔い改めに至りました。でも自分はそのようにしかできなかった、どうにも身動き取れなかった、自分自身では正しい道にとうてい到達できないと悟り、限界点に達した時に、真のお父様がそんな私を救ってくださったのだと感じるようになりました。

 統一食口たちは摂理があまりにも忙しく、しなければならないことが多かったので、お父様の御言にあるように、我が子を愛する前にカイン圏のために犠牲にならなければならないとあったので、そのまま文字通りに従ってきたのだと思います。我が子よりも他の活動に重点を置いてきましたが、それゆえに自分の子供たちが不安と寂しさの中で過ごしてきたように思います。

 そういったものをもう一度振り返ってみる必要があるのではないか。私自身は、神様のためにしたことだから正しいと思ってきたけれども、親の視線と子供の視線には非常に違いがあるということを感じさせられています。親からすると、自分は子供を十分に愛してきたと思うのだけれども、子供からすると「お母さんは私が祝福を受けなければ愛してくれないではないか!」と思っている。子供たちとの関係において、まず自分を振り返り、私が活動で忙しかった時、子供たちはどう過ごしていたのだろうか? と考えること。

 日韓、韓日家庭においては、より問題があると思います。親が日本人であることについて、子供は社会からたくさんの葛藤を感じてきました。けれども、親自身がその問題を避けて解決できていなかったなら、子供は親が悲しむからという理由で、その心の中の葛藤について親に話すこともできません。もしも親が、「自分も韓国なんかに来たくなかったのに来てしまった」などと言った日には、子供たちはひどく傷つくでしょう。

 けれども、その時に、親自身がその問題を克服していれば、子供の話をじっくり聞いてあげることができるし、子供も安心して話すことができるのだと思います。「お父様が韓国に呼んでくださったから、その一点で私は来たのだ」というのもいいけれど、自分がまずその社会的、家庭的葛藤を克服したものを子供に教えてあげるべきなのではないだろうか、そのように感じています。

 いろいろな2世たちの話を聞きながら、とても胸が痛みます。お母さんは一生懸命生きてきたとは言うけれども、子供たちはとても深い寂しさを感じているのが見えるので。今まで私たちは前だけを見つめて走ってきたけれども、二代王様が今この時に家庭についてのお話をたくさんしてくださるのを聞いて、今私たちは家庭をもう一度収拾できる機会がきたのだなと、感じています。

 

 

4-1.お父様との関係を後悔しないということ

■二代王妃様:
 ある一世の方がいらっしゃるのですが... 子供たちが、とても難しくなりました。一人の子はレズビアンになり、ある子は男性と同居していて一年に一人ずつ相手を変えるような、少し精神的な病があり、ある子は離婚を繰り返すような状況で、みんな良い大学を卒業し外見もいいのですが、親の立場においては家の中がめちゃくちゃになってしまったわけです。その方が言われるには、「二代王様が礼拝説教で家庭についての御言を語られる時は、自分は礼拝の場を飛び出したくなるような衝動にかられる」と、そのように話されました。

 「そういうお話をされると、私が子供を育てる時には(王様は)何をなさってたのですか... 私はこういう内容が分からなかったのに... うちの子供たちはもうすでに大変な状況になってしまって...」そのように感じると話されるのですね。どれほどたくさん悩まれたでしょうか? 私の過ちだ。自分がどこで何を間違ってしまったのか...。これについて、(その方が)3つほどお話しされました。

 1つ目は、「私がもし信仰を失うなら私は私の子供たちを助けてあげられない。私の信仰をより育てなければならない。深い祈祷の中で、その答えを得た」と話しておられました。「だから私が中心を失ってはならない。神様との関係をより近くしなければならない。」と。

 それから2つ目は、「これも私の欲心なのだ」と気がついたそうです。二代王様は、今アメリカに来る子供たちに対してよいアドバイスをしてあげようと努力しておられるのに、それすらも私が嫉妬し、それすらも聞きたくないと言って、わめく、そういった自分の未熟さを見ながら、自分は器の小さい人間なのだなと自分を振り返ったと言います。神様は私に、『他の人の子供たちがうまくいくのを見て喜びなさい』と言っておられるのだと、だから私は喜ばなければならないのだなと、思ったそうです。

 ところが不思議なことに、そのお話しをされて約2年ほどたった時に、息子さんの一人が戻ってこられたのです。そしてその息子さんが祝福を受けられ、子供もできたのですね。どれほど感謝なことでしょうか。その息子さんは離婚を繰り返しては苦しんでおられたのですが、今は熱心に喜んで活動しておられます。死にきれずに無理やりに活動するのではなく、です。

 2世の男性なのでもともと無理やりにはしませんよね。(今は)そのように変わりました。そうやって(他の人の子供のことも)喜ぶようにしたことによって、神様が回復を下さったのですね。本当に驚きました。私たちが本当に、一つのことにおいても神様に捧げるなら、神様は回復させて下さるのだと。そこにおいて、また奇跡を見ました。

 3つ目はこのお話をされました。「私はお父様に捧げた時間は後悔しません。お父様がこれをしろと言われたからしたのであって、私はその時間について後悔しません。私は再臨の主に私の時間と私の情熱を捧げることができたのだから、私は感謝します。」このようにお話しされました。

 子供たちが幼い頃、託児所に預けて活動に出なさいと言われたので、多くの食口がそのようにしたそうです。自分自身もそのようにしたし、子供たちを預けて、それが当然のことだと思ってしてきたけれど、その当時を思い起こして自分自身をひどく責めたそうです。うちの子たちがこうなってしまったのは、幼いころに愛情をたくさん与えてあげられなくてそうなってしまったのだと、だからこうなんだと、そのことを非常に嘆いていたのですが、けれども自分はそのようにはしないでいよう、と。そのように嘆くことは私がお父様の前に捧げた時間を辱め、汚すことになってしまうのだから、そのようにはしたくない、と。

 このように3つの決定をなさったそうです。そしてその3つの決定を守るのは、簡単なことではないともおっしゃいます。ある時には自分でも知らないうちに、深い泥沼にはまってしまうこともあるそうです。けれども、その泥沼から抜け出てくる時間が少しずつ短くなってきたと話されました。

 私たちが再臨主に出会い、お父様が私たちに指示され、誰も受けることのできないような福を下さったのに、私たちが喜んでお父様に従うことができなかったのは、それは私たちの受け持つ分なのですが、けれどもそれをした時間までもったいなく思ったり、後悔するということはしないでおこうと...
私はこの3つ目の言葉がとても心に響きました。その時間は全てを主に捧げて、今私たちに与えられたものは、また私たちがやり遂げていけばいいのであり、今このような話ができるという事はまた喜びであり、発展であり、良いことだ、このように私たちが消化していけるようになった時代的恵沢に本当に感謝しよう...。

 そこでたくさんの傷を受けた人もいますが、けれども親というのはこういうものかもしれません。努力をしても実は完璧にはできないのだろうと思います。その完璧にできない理由が、私たちが本当の親ではないからそうなのだと思います。主が私たちの親であられるのであって、私たちが完璧でない姿を持っていることも私たちを謙遜にさせるのだと思います。

 子供が何か言ってきたときに親が感情的に対応した、そのことについて後悔したような内容が皆さんあると思います。自分が間違っていたな、なんであの時あんなことを言ってしまったんだろうと思いだす瞬間があると思うのですが、ですから私たちが完璧ではないということですよね。私たちは失敗をしますよね。ですから子供たちも、親が努力した一生懸命にしてくれたけれども、結局は私の本当の親は神様であり、主が私の父であるということを分かるようになるのだと思います。

 私も子供たちにそのように説明をします。お母さんが完璧ではないから、だから神様があなたたちにとって絶対に必要なのだと。そのように説明をしますね。私たちが完璧で失敗も一つもせずにいたなら、子供たちが神様だけを信じてハレルヤと従っていたでしょうか? 私たちに何の逆境もなければ、子供たちは順調に進んでみんな祝福を受けて5人の子供がいて...そうなっていたでしょうか?  多分、それでもまた違った逆境があったのではないでしょうか。千態万象で神様が見られない人はおらず、私たちよりも大変な状況の人も見てこられたでしょうし、もっと良い状況の人も見てこられたでしょうが、そこからでも神様が救い上げてくださったので、私たちが救い上げられないはずはないと、私は思います。

 ですから、私とお父様との関係の回復、私と神様との関係の回復、これはいつも良い状態であるとは言えないと思います。大変な時もあるでしょうし、ある時は上り坂を上がる時もあるし、ある時は下り坂を行くときもあるし、二代王様が政治的なことをお話しされるので、情勢を知ることによって不安になったりもするではないですか。それも事実ではないですか。

 

 

4-2.不安を克服する

 そういった部分においても、実は女性はどうしてニュースに関心がないのかを考えてみると、女性たちは不安に耐えられないのだと思います。不安になると、怖れにとらわれ、怖れるとコントロールできないほどすべてが麻痺するのだと思います。不安で恐ろしいと、運動や日常的に生活したり服を着たり、そういったことすらもできなくなってしまうようです。そういったことまでも、怖さのために。脳の構造がそうだというのもありますね。脳の構造がスパゲッティのように連結されているというではないですか。AがBにつながり、BがZにつながり…。

 それから「愛と尊敬」を読まれたと思いますが、女性の脳構造が3000個の電球がついていれば、そのうちの3つが消えてもすべて消えてしまったと考えるそうです。とても面白いですよね。まだ2997個がついているにもかかわらず、3つが消えたといって「もう終わりだ!全部消えてしまった!」と考えるのだといいます。女性の脳構造がそうらしいです。

 男性たちはそうではないそうです。男性たちは箱に一つ一つ別々に入っているそうです。それでこの箱とこの箱が連結されていないから、互いに影響を与えないというんですね。でも女性たちはうどんのようにあちこち絡まっているので、洗濯のことを考えたかと思えば、便秘のことを考え、姑のことを考えたかと思えば、末っ子のことを考えたり、二代王様のことを考えたり、それが瞬間的に全部できるというんですね。でも男性たちはそうではないっていうのです。

 ですから女性たちは情勢のことに不安になると、トランプがうまくいかなかったので、アメリカがそうなれば中国がどんどん大きくなるだろうし、そうすると私たちの日常生活に脅威を及ぼすだろうし、そうなったらうちの子たちは一体どうなってしまうんだろうと...。こういった具合に怒涛のように私たちの考えを侵食されるといいましょうか、私たちを不安に陥れて、知れば知るほど不安になり、アパートの値段が上がった下がっただの、あそこがこうなったああなっただのと、とてもたくさんのことを知ってしまうと、私たちにとってはそれが情報として受けいれられるのではなく、怖れとして受け入れられてしまうのが、それが大きな問題だと思っています。

 私にとても不思議なことがあったのですが。私に最近起こった出来事の中で一番大変だったことでこの2つが大きなものだったと思うのですが、7年前に韓マザーがお父様を背信するようになり、私たちが全く何もない状態でアメリカに来るようになったのですが、その当時私はとても不安だったのですね。それで聖書を読まなければとか、勉強しなければとかいう風に思えず、ぶるぶる震えながら子供たちに声を荒げたり、イライラしていてとても良くない姿でした。そのうち、後になって聖書の勉強を1年ほどからするようになったのですが、その当時はそういう状況でした。

 その数年後、トランプが当選できなかった時、私が(その当時とは)違う姿でいられた事に私が私自身に驚きました。トランプがうまくいくかもしれない、これからどうなるかといっていた頃、私たちが戦わなければならないといいながら、ヨハネの黙示録、それから詩編箴言を読み、申命記を勉強し、続けてマタイの福音書を勉強していました。その時、このようにして御言に頼るような、私が決して完璧だとは言えないのですが、御言がより近しく感じられたのですね。この状況において、私が狂ったように不安がる人ではなく、御言により近づいている私がその場にいたのですね。それが、とても驚くべきことであると私は感じました。それで私は「神様、私はこんなに成長したのですね。神様、誇らしく思ってくださいますか?」と申しあげたりしました。

 私たち女性は不安になると一番初めにすることが、神様を信じなくなることだと思います。神様のことを考えずに、不安なことばかり考えるようになるみたいです。でも、私がこんなにまで不安がることができること考えてみると、逆に、ああ、私がこんなにたくさん神様を考えることのできる可能性を持っているんだなあと、そのように反対に考えてみることもできるのだと思います(笑)。

 ですから、神様が女性たちにその2つの内容を同時に下さったんだと思います。ですから非常に完璧さを追求し、家の中を綺麗に片付けたり、ケーキを作ったり、刺繍をしたり、ピアノを弾くにしても非常に正確に、アクセサリーを作るにしても正確に、人に教えるにしても完璧にするなど、女性たちは完璧主義があるというのも、神様により近づきたいという、ある意味でこれも表現なのだなと感じます。

 

 

4-3.不安で魂を殺さず、名誉深い死を覚悟する

 御言を通して、その不安に対して勝負をかけなければならないと思います。かといって私が全く不安ではないというのではありませんが、ティム本部長が奥様といっしょに訓読会をしておられた時のことですが、お父様の御言に「おまえたち、本当に殉教をしなくてもいいのなら、しないように全ての努力を尽くしなさい。できるだけの努力をして、宣教地で生き残りなさい。けれども、本当に死ぬしかない状況になった場合には、名誉深く死になさい。」このように語られたといいます。

 それから、マタイの福音書にも『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、体も魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい。(マタイ10:28)』そういう御言があるではないですか? 

 ですからその恐れに向き合って、私が死ぬかもしれないのなら恐れの中でブルブル怖がりながらではなく、御言の中でそれと向き合いながら、それなら主の勇士というのは、主の軍人というのはどういうものなのだろう、私が死ぬとしても本当に冷徹に、主のために怖がらずに死ぬことのできる人なのだろうか。それをごく冷静に見つめさせておられるということを今回感じました。今回特にトランプ大統領を見ながら、よくそのように考えました。

 私たちは神様にお願いしたわけですよね。「神様、お願いします。私たちこのように努力するので叶えてください。」けれども、神様は違う形で叶えてくださったわけですよね。神様はしてくださったのです。大きな投票差でトランプが当選できるようにしてくださったのですよね。けれども、私たちが願ったやり方ではしてくださらなかったのですよ。私たちは大統領選までひっくり返して下さることを望んだのですが。 

 けれどもどちらにせよ、神様は叶えてくださったのですね。私たちが願ったことを叶えてくださいました。けれども【私たちが願うやり方】では叶えては下さいませんでした。(笑)とすると、私たちの願ったやり方で叶えてくださらなかったので、私たちとしてはとても力が抜けてしまいました。かなえるには叶えてくださったのですが。今回、本当に票がたくさん得られましたね。これは歴代においても本当にたくさんの得票でした。これ以上得ることができないほどにたくさんの票を得ました。ですから、(願いを)聞き入れてくださったのです。けれども、悪の勢力が持っていってしまいました。それなら神様が叶えてくださらなかったということではないですか!と言いたいところですが、そう言うことはできません。神様は聞き入れてくださったのです。

 私たちはそのやり方が気に入りませんでした。どうして私は気に入らないのだろう? じっと考えてみたら、私の平安と私の生命までも脅威にさらされるかもしれないからなんです。それがとても嫌で、怖いのですね。楽な道に行きたかったのです。それで私がそれについて考えたのですが、死について私にたくさんのことを考えさせるように神様がなさいました。

 私は本当に死ぬことができる人間なのか。ヤマナラシの木が震えるように震えて怖がる、私は怖がりなんだな、とそれを感じさせられました。そのことを思った時に、御言をもっと勉強したいと思うようになりました。

 私がもしも名誉深く死のうと思うのなら、主がどういうお方なのかをまず知らなくてはならないではないですか。もっと深く知らなければならないではないですか。殉教することができるという事はどういうことなのか、はるかに多くの関心を持つようになりました。それで私が最後に殉教をするとしても、喜んで殉教することができるということはどういうことなのだろうか?

 『自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である。』(コリント第一13:3)。自分の体を焼かれても、ですから殉教ですね、火刑に処されるという、殉教することになったとしても、私の中に愛がなければそれは無意味なのだと、言われたのですが、私は神様を本当に愛している人間なのか、それとも私の安全と私の生命がより重要な人間なのか。そういった信仰の本質を、今非常に政治的に不安な状況において、それと向き合うようにされながら見させられるということを、このごろよく考えさせられています。

 私はその部分についてたくさん悩みましたが、自分は銃弾を受けて死にたい! 全然怖くない! 実はこうではないのですが、それについて少し向き合おうとするので、それについて認めるようになり、昔のように漠然と怖いという思いはなくなったように感じます。漠然と怖いというのではなくなりました。

 私には霊魂があるのだな、それならその霊魂は神様のもとに行くことができるのだな、そのように考えながら、ああ、これが私の望みになりうるのだなと、そんな考えもおこってきました。このようにしながら。また信仰も一歩成長させてくださるんだと感じました。そういった面では、本当に感謝に思っています。

 それから、最近になって教会に新しい食口たちがたくさん訪ねて来られるのです。それを見ながらも、ああ、こんな風に伝道をしてくださるのだなと。最近になって、祝福を受けたいという方が増えてきたのですね。外で私たちが伝道したわけでもないのですが、伝道されてくる方がいるのを見ると、神様の計画というのは超越しておられるのだな。そういったことも目の前で見せてくださり。二代王様がこのようにも語られますね。「トランプを当選しないようにされることにより、人々に天一憲法に対する必要性を神様が知らしめてくださっているのだ」と、このように語られます。

 ですから、これをどのようにしていかれるかは、私も人間ですので分かりませんが、けれども主の計画があり、その過程の中で神様がもしも私の犠牲を要求されるのであれば、私は名誉深く死にたいと思います。死のう! ではないですが。けれども、名誉深く神様を愛する人生を生きて死にたいとそういう思いが入ってきました。それは確実にそう思います。これが人間として可能なことなのだな、いったん私にとってはそれが非常に重要でした。

 これは絶対にできない、絶対にできないものだと、思っていた時もありましたが、可能なのだな、そうすることもできるのだなと、神様が私たちにできないことを要求されることはないのだなと、そういう風に思いました。本当に不思議なことです。多分こういう状況でなければこんな考えはできなかったと思います。そういう部分も本当に感謝だと思っています。あと、何か質問がありますか。こんな風に少人数でのミーティングもいいですね。あ、もう家に帰りたいですよね。(笑)

 

 

4-4.不安と絶望の時にこそ信仰の言葉を言える者

 私は最近、これを宿題に出されました。なにかというと、私は詩編を読むと感動がなかったのです。それで、詩編を今回ずーっと読んでみたのですが、それでも感動がありませんでした。すごく感動した、というそういう話を聞いたりしますが...。どうすれば私も詩編を読みながら感動することができるだろうかと考えていたのですが、最近感動した部分がありました。なにかというと詩編51編を見ると、ダビデがバト・シェバと床を共にしたので預言者ナタンがダビデのもとにきて叱った後に、ダビデ王が悔い改めをするという場面なのですが、悔い改めをする立場であるのにこんな風に言えるの? それが私にとってはすごく不思議でした。私はこんな風に言えるだろうか、悔い改めをする時ってどんな言葉を使っていたっけ? こういった思いがわきながら、そういう気持ちで見たところ、この部分が非常に感動的でした。

 それから、私が本当に大変な状況にある時、それにあったダビデの詩を読める人にならなければいけないという思いがしました。今私たちはリマをしていますが、それもいいですが、そこにも神様が語られる内容がありますが、私が本当に絶望した時に信仰の言葉を言える人にまだなっていないのであれば、私が絶望した時に私が読める詩編、私が本当に嬉しい時に読める詩編、また私が悔い改めをするときに読める詩編、こういった私の詩編のリストが必要だと感じました。

 どうしてこの話をするかというと、私たちみんな信仰の中で神様が一人一人に下さった思いが違うわけで、恩恵が違い、成長させてくださる方法も違うんですよね。それで、詩編のお話をしたかったのです。どうしてなのかは、私にもよくわからないのですが...。 

 今、マタイによる福音書を勉強していますが、詩編についても、私がこういう風に勉強すればいいですよ、と言えるようになれたらいいのですが...。いつかはその日が来ますよね?(笑)ですから、私にとってはそれが今宿題です。私はこれほどまでに骨にしみいるほどの人間ではないのだな、神様をこれほどまでに愛する人間ではないのだなと...。いまだに知識的に、見せるための信仰が染みついているのだなという、こんな思いもわきながら、いろいろ考えさせられました。けれども私がこのように、信仰のこの部分について勉強したいし、この部分は神様が知恵を下さったらいいのに、そういうものがある時に、とても喜びを感じます。そういった部分があればいいなと、思いました。

 お父様の御言のなかで、家庭盟誓の部分を読んでみようとしてるのですが、以前は真の神様、真の御父母様、真の愛、真の家庭、こういった部分が好きだったのですが、最近は申命記を勉強した後、家庭盟誓を読みたいと思うようになりました。家庭盟誓がものすごく感動として響いてきました。

 乞食のような私をお父様はこのように見てくださったのだな。それが、以前はそれがとても重苦しかったのですが、私を家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を...。私のことを孝子、忠臣、聖人、聖子として見られたのだな。そういう可能性のある人間として見られたのだな。お父様は私のどこを見てそんな風に思われたんだろうか? 一人、そんなことを思いながら、とても恩恵を受けました。 

 神の日の御言で、家庭盟誓を朗読したのですが、それほどまでに深い喜びを感じ、恩恵を受けたのは初めてだったと思います。そのように家庭盟誓を読みながら感謝にひたりました。不思議なことは、信仰の楽しさ、恩恵の楽しさ、御言の楽しさ、こういったものが私の方に近づいてくるようです。それが常に来るというのではないのですが、そういったものが来た時にとても感謝に感じています。

 1対1の、神様との1対1の個人的な関係だというではないですか。それを私がまず感じてこそ、子供たちに話してあげられるのだと思います。今までの私たちは、見せるための信仰、活動の信仰でぎっしり詰まっていると思います。それを長い間してきたものですから、私たちがそれについて専門家ではないですか?(笑)

 ですので、神様と1対1で対話できるですって? 神様から愛を受けることができるですって? 私がもっと頑張ってこそ、神様が私のことを愛してくださるのではないの? 私がもっと何かをしてこそ、神様が私に良くやったと言ってご褒美を下さるのではないの? おまえは義であると言ってくださるのではないの? そのように、ずいぶん長い間してきました。

 でもそれが、お父様がいらっしゃる時には必要だったのです。なぜなら、それは再臨の主が私たちにそのようにお話しされたからです。このようにしなさい! とおっしゃったので、私たちはそのようにしました。ですからそれは立派なことでした。そして私たちはその時間を後悔しません。

 けれども今お父様が、霊的に復帰しつつ心情を吐露しながら共になさることを望んでおられるので、そこにも私たちが反応し、「神様、どうすれば私が神様と対話することができるでしょうか、どうすればお父様により近づくことができるでしょうか、お父様こんなことを語ってくださいましたね、私はこの御言がよくわかりませんでした。お父様がどれほどもどかしかったでしょうか...」。こういったことをお話しするようなことが必要なのだと思います。ですから、お父様との関係回復、お父様がどれほど私のことを愛してくださったのか、また愛してくださっているのか、それについて私が受け取るべきものを受け取れずにいたのだと。

 実は、お父様は喜んで犠牲になりさいとおっしゃっておられたのに。私たちのように、死ぬことができないから無理やりに足を引きずりながらしなさいとはおっしゃっていなかったのですよね。喜んでしないのなら、受け取らないとおっしゃったのですよ。

 私が、娘と私の違いを見つけたのですが、実は私はバイクに乗るのも嫌だし、柔術するのも嫌だし、しろと言われると辛いのですよね。もっと楽に生きればいいのに、どうしてこんなことをしきりにさせるんだろうと。私はそうなんですが、私の娘はそうではないのですよ。それをしながら、とても楽しみながらするのですね。「すっごい楽しい!バイクも買いたい!」と言って。

 とても喜んでするのですね。バイクもないくせにヘルメットに絵をかいたり、キラキラシールをくっつけたり。それを見ながら、「私は喜びながら従えなかったのに...」。自分自身を振り返らされます。喜んで従えば神様が喜んでくださるのだということを強く感じるのですが。ですから二代王様が娘に対して喜ばれるものがあります。 

 かといって、娘に対しても厳しいのですよ。無条件に微笑みながらなんでもしてあげるというのではなく、厳しい時には涙がこぼれるほどに叱られる時もあります(笑)。それで最近、娘がこんなことを言ってました。「私は娘なのに、こんなにまで冷徹に現実を言われなきゃいけないの?」。(笑)そんな思いもしたという話をしていました。ですが、ともかく喜んでするのですね。

 二代王様が、これこれこういう面で困難な時期だけれども、バイカーたちこそが立ち上がって戦うことのできる人たちなのだと。この人たちはまだ伝道されていない人たちなので、私たちがこの人たちを伝道できるような場を作っていこうと言いながら、バイクの使役をしておられるのですが、私は怖いし、わざわざこれをしなきゃいけないだろうかと、仕方なく引っ張っていかれる立場にあったとすれば、娘は喜びながらしているのを見て、たくさんのことを考えさせられました。

 次回はスキューバダイビング? 実は私は水がすごく怖いのです。7歳の時におぼれて死にかけたことがあったのですが、褒められることが好きな私が、その時ひどく母に叱られたのです。「おまえがだらしないから、水に入ってこんなことになったんだ」と。ひどく叱られて。母は海女だったのですよ。だから母の立場からすれば、あっけにとられるような事だったのですね。海女の娘が水に入っておぼれ死にそうになったことが。今思えば理解できるのですが、その当時には相当傷つきました。そういうわけで私は水が嫌いなんです。なので喜んでは従えないです。いまだに。そういうレベルではないのですが、でも不平不満は持たないでおこうと。その段階にまでに、少しレベルが上がったようです。

 

 

4-5.不平不満を、神様への感謝にする主の弟子

 不平不満を言わずに、そして少しずつ喜んでできるようになるまで努力していこうと。神様も喜んで従う人のことを喜んでくださると思います。私たちはよく、「神様、どうして私にこんな人生を下さったのですか?」「どうしてこんな奴を夫に下さったのですか?」「どうして夫を早く連れて逝かれたのですか?」「どうしてこんな格好悪い男をくださったのですか?」「どうしてうちの夫は信仰がないのですか?」皆さんこんな風に思うではないですか? なじったり、不平不満を言ったりすることもあるでしょう。

 でも、その不平不満の時間を減らして、「それでも神様がこんなにも私のことを愛してくださいましたね。私こんなにも楽しいことがたくさんありましたね。」こういったお話をする方が、神様が喜ばれると思います。だから、そのようにしていこうと思っています。私にはあまり合わないのですけれど。 私も否定的な人間ですので。けれども神様により愛される娘になりたいですから。今までは不平不満の多い娘だったとしたら、もう少し、喜んで従っていく娘になりたいと、二代王様にだけでなく、神様にとっても喜んで従っていく娘でありたいと最近よく思います。やっと私が分別がつく大人になり始めたのかもしれないです(笑)。

 子供たちとの関係には悩みがたくさんあると思いますが、長く見るのがいいと思います。焦るのはよくないですから。それは祝福をおいて考えてみた時に、誰々はもう3人目を生んだとか、心がハラハラしながらうちの子はどうなるんだろうと思ったりするかもしれません。けれども、その子がほんの少し前からそうなったわけじゃなくて、(何年も)時間がかかってこのような状態になったのですから、回復されるのにも時間が少しかかるということです。せきたててはいけません。せきたてることでもっと悪くなってしまいます。

 祝福は信仰の結実である。だから、主の弟子になることが先なのです。この子は神様が私にまかせてくださった信仰の兄弟姉妹だ、でも今はすこし遠くに行ってしまった、では私がこの関係をどうすれば回復できるだろうか、わたしはどうすればいいのだろうか...。そのための知恵を(神様に)求めなければなりません。それは私(王妃)がどうこう言える部分ではありません。私(王妃)が聖霊になることはできないではないですか。それでもいろいろな方法の中で、もし高校生だったりあるいは娘だったらこういうことが好きだと思うんですが、(5種類の)愛の言葉を把握して、(その人にふさわしい)愛の言葉を話してあげること、それもよい方法だと思います。

 それから、子供たちはみんな違います。その違いも認めなくてはいけないですね。ある時は本当に腹がたち、ここまでしてやらなきゃいけないのかと、そんな風に思わせる子供もいますが、そうでない子供もいます。同じ環境の中で育っても、違った傷を受ける子供もいますし。私が見る時に、私自身がそういう一風変わった子供だったのです。私の姉は母に対してそれほど傷つかなかったのに、私は母にものすごくたくさん傷ついたのですね。今はそういった恨みはないですけれど、今思うと、どうしてあのとき私はそれほどまでに傷ついてたんだろうと考えたこともあります。それで、その時の私にはそれ(優しい言葉)が必要だったのだなと、そんな風に思いました。だから、姉と私とは違っていたのだなと。私はそのせいで呵責があったのですよね。でも、姉とは違うタイプで、私にはそれが必要だったのだな、そのように整理されました。

 そのように整理されたので、子供たちを見る時にも、この子にはこれが必要なのだなと。なにかしら「この子はこんなことも分からないの? こんなことまで? こんな当然のことがわからないなんて...」。と思うのではなくて、「ああ、違いがあるのだな。神様がそのようにつくられたのだな。」と思えば、私が親として、私自身をより成熟させるために、このような子供ともうまくつきあえるようにされるのだなと、そのように知っていけばいいのだと思います。 

 それについて、私がダメで...。このように自分を責めることをしないわけにはいかないでしょうが、けれどもそれをサタンが利用するかもしれないということは確実に知っていなければならないと思います。サタンがそれを利用して、私を感情の中に閉じ込めようとして、これ以上前に進めないように、これ以上この子と関係回復できないように、そうやって妨害作戦をするかもしれません。今日こんな風に失敗してしまった、そういう思いがわいたら、そういう時には良い聖句を探してみたり、お父様の御言を探してみたり、これはサタンの計略なのだな、私に御言を読みなさいと言われていることなのだな、と。 

 どちらにしろ、それについて勝負をかけなければなりません。そこにずっと留まっていてはいけません。子供に対して悪いことをしてしまった、過去にしたことがしきりに心に残って自分を責めるようなことをすると、それがむしろサタンに利用されてしまうことがあります。「おまえはこの程度の人間だ、あきらめろ」 このように利用されることがあるので、それをしないようにして、ある時には謝り、またある時には教えてあげ...。そのようになさったらいいと思います。

 私が今話しているこの場所は祈祷室なんですが、私がひざをついて祈祷しているといつの間にかうつ伏せになって眠ってしまうことがよくあったのですが...。告白します(笑)。これじゃいけないと思って、椅子に座って祈祷をしようと思い立って、祈祷室をちょっと変えてみました。座って、メモしながら、アクティブにしなきゃと思って。いまだに進行中です(笑)。私がいまだに骨身にしみて感じられないのが問題なのだと思います。神様が私をつくりかえようとしてくださっているのだと思います。アーメン。

 そのようにしきりに考えているところです。自分を責めすぎないように。どうすればもう少し御言に親しみ、怠けずに続けられるか、いろいろ考えたりします。祈祷室の雰囲気も変えてみたり。そんな風にするのも良かったです。新しい服を着るように、新しい祈祷室に入ってきたので。小さな小部屋からもう少し広いところに移動しました。御言関連の本もここに置けるし、書きたければここで書くこともできるし。向こうの小部屋は少し狭かったので。このように変えてみました。とてもいいです。以前はここに服がたくさんあったのですが、全部片づけたのですよ。今回、初めて公開しました^^。 

 私が時計を持っていないので、長い時間お話ししてしまいましたね。では、祈祷して終わりましょう。

 

おわり。

 

 

 

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おおくの成約聖徒に真実が届けられますように!
祈り。アージュ

 

連載12 文亨進様御夫妻御言選集「心情世界の鬼神を消し灯火を灯せ」2021年6月30日・水曜礼拝

文亨進様御夫妻の礼拝を中心とした御言選集です。

 

 

 

■12)2021年6月30日・水曜礼拝
「心情世界の鬼神を消し灯火を灯せ」

 

 

■二代王様

 さあ、席に着いて下さい。後ろは幼稚園だね。一番後ろにマットは敷いてないの? 赤ちゃんたちの為にマットを敷いたらいいね。OK。皆、韓国語を理解出来るね。この子は日本語も流暢だ。今日は、イギョンとユナは来てないね。イギョンはまだ回復中ですか? イギョンには日曜日に会ったけれど。

 とにかく、韓国語礼拝に入りましょう。韓国食口が参加していますから。Numbers、民数記8章。(二代王妃「民数記8章です。読みます。」

 

 

民数記8章

 『8:1主はモーセに言われた、「アロンに言いなさい、『あなたがともし火をともす時は、七つのともし火で燭台の前方を照すようにしなさい』」。アロンはそのようにした。すなわち、主がモーセに命じられたように、燭台の前方を照すように、ともし火をともした。燭台の造りは次のとおりである。それは金の打ち物で、その台もその花も共に打物造りであった。モーセは主に示された型にしたがって、そのようにその燭台を造った。

 主はまたモーセに言われた、「レビびとをイスラエルの人々のうちから取って、彼らを清めなさい。あなたはこのようにして彼らを清めなければならない。すなわち、罪を清める水を彼らに注ぎかけ、彼らに全身をそらせ、衣服を洗わせて、身を清めさせ、そして彼らに若い雄牛一頭と、油を混ぜた麦粉の素祭とを取らせなさい。あなたはまた、ほかに若い雄牛を罪祭のために取らなければならない。そして、あなたはレビびとを会見の幕屋の前に連れてきて、イスラエルの人々の全会衆を集め、レビびとを主の前に進ませ、イスラエルの人々をして、手をレビびとの上に置かせなければならない。そしてアロンは、レビびとをイスラエルの人々のささげる揺祭として、主の前にささげなければならない。これは彼らに主の務をさせるためである。それからあなたはレビびとをして、手をかの雄牛の頭の上に置かせ、その一つを罪祭とし、一つを燔祭として主にささげ、レビびとのために罪のあがないをしなければならない。あなたはレビびとを、アロンとその子たちの前に立たせ、これを揺祭として主にささげなければならない。

 こうして、あなたはレビびとをイスラエルの人々のうちから分かち、レビびとをわたしのものとしなければならない。こうして後レビびとは会見の幕屋にはいって務につくことができる。あなたは彼らを清め、彼らをささげて揺祭としなければならない。彼らはイスラエルの人々のうちから、全くわたしにささげられたものだからである。イスラエルの人々のうちの初めに生れた者、すなわち、すべてのういごの代りに、わたしは彼らを取ってわたしのものとした。イスラエルの人々のうちのういごは、人も獣も、みなわたしのものだからである。わたしはエジプトの地で、すべてのういごを撃ち殺した日に、彼らを聖別してわたしのものとした。それでわたしはイスラエルの人々のうちの、すべてのういごの代りにレビびとを取った。わたしはイスラエルの人々のうちからレビびとを取って、アロンとその子たちに与え、彼らに会見の幕屋で、イスラエルの人々に代って務をさせ、またイスラエルの人々のために罪のあがないをさせるであろう。これはイスラエルの人々が、聖所に近づいて、イスラエルの人々のうちに災の起ることのないようにするためである』。

 

 

●新約で全ての人がレビに成れるようになった。

 OK。燭台。日曜日に沢山話しましたね。燭台はともし火を乗せるものです。燭台から光が出るのではありません。燭台から光が出るのではなく、ともし火から出ます。その如く、教会も同じです。教会も燭台ですが、教会から光が出てくるのではありませんが、教会の中でキリストを掲げなければなりません。ともし火のように。キリストは教会のともし火、人の灯火。私たちは燭台。私たちは燭台として来て、その灯火の中のともし火はキリスト。

 だから、日曜日に、旧約聖書に出てくるレビ族は特別な使命を受けて、ユダヤ人の中でレビ族を祭司長の民族として立てたのです。祭司長として立てて聖幕のなかでレビ族が全ての行事を行って神様に仕えるのです。ですから、旧約聖書においてユダヤ人は特別な民族で、ユダヤ人の中でレビ族は祭司長の責任があるのです。

 そうしながら新約時代にイスラエル民族だけでなく異邦人もキリストの中に入って来ることができます。異邦人が牧師になる事ができます。神父になる事ができます。レビ族でもない、ユダヤ人でもない、異邦人がキリストを受けるようになれば、その異邦人は神父にも牧師にもなる事ができるのです。分かりますね。ですから、発展します。旧約聖書で、それはイエス様が来られる責任と路程なので、(再臨を)待つ路程なので、基盤を作る路程なので、ユダヤ人は特別に、ユダヤ人の中でレビ族だけが祭司長をするのです。

 

 

ゲッセマネで弟子達が眠ったことは大罪。

 しかし、イエス様が来られて後、本当に驚きです。ゲッセマネで十字架に架かって亡くなる前、そこにいる弟子達はずっと眠ります。続けて眠ります。これがどれほど、驚くほどの罪でしょうか? 私たちは現代に生きているから、これがどれほどの罪か分かりません。

 しかし、ローマ強帝国時代において、ローマの軍人がどこかを守らなければならなかった。その日に、もしも自分が寝てしまったらそのローマ軍人は殺されます。ローマ帝国はその軍人を殺します。OK?それほど大きな罪です。寝ることは。特に何かを守っていたら。ローマの建物や軍部隊や国境線や。とにかく、眠くなって、眠ってしまったら capital punishment、死刑です。

 ですから、それはどういうことですか?イエス様の弟子達はローマの一般軍人の次元でもなかったと言うことです。ローマの軍人達はイエス様の弟子達よりもローマ強帝国をもっと守ったと言う事です。その基本的なことをこのベーシックな内容をこの弟子達はできなかったのです。イエス様に。これは驚くべきことでしょ?

 実際、ローマ文化文明圏の中で主は王の中の王です。皇帝(カイザー)の王ではないですか? イエス様は。カイザーの王です。カイザーの王を守りながら眠ってしまう。これは100%死刑です。どういうことか分かりますね? ですから、この弟子達がどれだけ大きな罪を犯したのか人々は理解出来ないのです。そして、この弟子達のレベルがどれほど低かったか。一般の軍人よりもカイザーの王をそれほど守らなかった。驚くでしょ?

 そのような信仰を持っている、そのような態度の軍人がいるので、イエス様はカイザーの王としてどうすることもできないのです。十字架の路程に行かなければならないのです。自分の弟子達が(出来なかった)、サタン世界のローマ帝国の一般軍人はサタンのカイザーをもっと守るのに。

 ですから、イエス様はヨハネによる福音書16章でしたか?このように言われます。「もし私の王国がこの地にあったら私の弟子達はあなた達と戦うだろう。」と言われたではないですか。17章ですか?この言葉のように、ローマ帝国の将軍でもない管理者でもない一般の軍人よりももっと低い精誠と信仰なので、トレーニング中だったのです。このように信仰の基盤が弱いので、イエス様は十字架の路程に行かれたということなのです。

 しかし、イエス様は実際、ローマ皇帝、カイザーの王ではないですか。驚きでしょ? その時にいた人達は、ナザレのイエスローマ帝国のカイザーの王と考えませんでした。それを想像も出来ませんでした。もし、その弟子達がその現実を分かっていたら絶対に寝ることはなかったでしょう。自分が死んでもイエス様を一人で放っておくことはないのです。

 ですから、このような内容の下で、新約時代で神の王国が来ることはできませんが、救いの摂理は霊的救いを通して、霊的神の王国と連結することができる権利が生じました。弟子達の信仰の不足故に不信故に。ですから神の王国は実体的に来ることはできず、神の霊的王国が来るのです。

 しかし、イエス様が再び来られて、再臨されて神の王国を建設するという預言もされましたね。そのような部分で、新約時代にそのレビ記、祭司長のパワーは異邦人にも開かれました。異邦人が主を信じたら、異邦人も牧師や神父、伝道師になる事ができるように。特別なユダヤ民族でなくても、特別なユダヤ民族のレビ族でなくても、新約聖書、新約時代に祭司長の階級が開かれたのです。

 

 

●再臨主の時代の祭司長は非中央組織

 そうしながら、主が再臨されて神の王国が地上に立てられるとき、その祭司長の責任は中央組織に行くのではなく、非中央組織に、もっと広く広がります。ユダヤ民族の時は中央組織のレビ族だけ、祭司長が現れました。そうですね。そして新約聖書でその責任が開かれたのです。異邦人もその責任、牧師にも神父にもなる事ができるようになりました。

 しかし、神の王国が建設されるとき、全ての市民が王と祭司長、王妃と伝道師にならなければなりません。そうしながら、全市民の家庭の中で祭司長の責任はより広くなります。どういうことか分かりますね? ですからお父様は、祝福の中心家庭と言われました。天一国の主人。そうしながら、私たちの基盤がこの旧約聖書に出てくるような聖幕になるのです。その聖幕を指導するレビ族は教会だけでなく家庭に入ってきます。多くの中央組織ではなく、非中央組織:Decentral organization(分散型組織)。そうしながら、私たちの家庭においてお父さんお母さんは、王と王妃、牧師、祭司長と伝道師になるのです。

 ですから、二つの責任があります。王と祭司長。右側の王の責任は、その国を運営しなければなりません。羊飼いを行わなければなりません。その国を羊飼いのように・・・韓国語で何と言いますか? Rule、万国を・・・治める。ヨハネの黙示録で治めるといいますね。国を治める、それも少し変ですね。ポイマイノは羊飼いから来ます。治めるは、羊を治めますか?羊を飼育する?。韓国語ではちょっと。とにかく、右側の王の責任は、良い羊飼いのように小さな王国、ミクロコスモスの家庭の王国をよく運営しなければなりません。正義を持って。

 ですから、多くの人は私がもの凄くやられたのに、子供を少しくらい叩いたらどうだ? こうでしょ? とくに韓国では。韓国人は自分の子供を叩く事が好きだろ? 私が子供の時はそうされたのに、そうしなければならないだろ、と簡単に考えるのです。

 しかし、王国を運営するときはそのように簡単に考えることはできない。なぜなら王国には正義がなければならない。正義がない国で、暴君がただ怒って、自分を殺して殴って監獄に入れて、そんな国は共産主義の国だ。暴君の国だ。

 韓国、日本の親、日本の親は子供を叩くか? 日本の親は冷淡にするだろ?違う? とにかく、韓国、日本、中国の親は有名だ。お父さんとお母さんは叩くか、あるいはタイガーマムのようにピシッと狂ったように勉強させるとか、このようにさせると東洋の人は(米国では)有名だ。幼いときから子供を一日中勉強させて、また塾、塾、塾、子供を殺してしまう。だから、世界で韓国、日本の子供の自殺率は世界で最も高い、世界で。あまりにも多くのストレスを、特に勉強勉強と勉強させて。

 だから、あなた達は親がそうしなかったから、あなた達もできないと言うのは話にならないことだね。あなた達の親はただ知らなかった。学ばなかった。お父様に付いてきたが教会がもの凄く大きくなって、愚かなお父様の反逆者から教育を受けた。だからこれは、お父様の相続者、代身者、後継者に学ばなければならない。お父様の王家と王権から学ばなければならない。何故ならあなた達も王家を作らなければならないから。分かるね。

 だから、親になる事はこれほど驚くべき事だ。驚くべき事だが、そのような責任と愛で子供達を訓練して、常に肯定的な心で、倫理の武道使用法を使って虐待しないで正義のある王国を運営する。子供が、市民が、暮らしたい王国、住みたい王国。

 親が武力の使用法を分かって、親の倫理法を分かって、父母の正義法を分かって、子供を育てて1対1の訓練をしたら子供達はあなた達のそばを離れたくない。ずっと親のそばで子供を育てたい。これがどれほど驚くほどの祝福か。そうしたら自動的に三代王権になるのだ、あなた達のミクロコスモスが。何故なら親のレベルが高いから、親が正義で天一国を運営するから。だから、訓練が必要だ。訓練、御言を実践する訓練が。

 だから、お父様が最も好きな漢字語は何か?「精誠の誠」(言成)御言を成し遂げる。(誠から)成し遂げる(成)を取ったら御言(言)だけだろ。お父様が最も好きな言葉は「御言を成し遂げること」。神の王国の御言を成し遂げること。家庭に成し遂げること。暴君はサタン主義だという御言を家庭で暴君の行動をしないこと、御言を成すこと。

 多くの親は自分も知らないうちに暴君そのものになってしまった。あなた達の子供のために感情を管理して心と身体を主管して、子供達と未来の、あなた達と一緒に訓練する事ができる未来の平和軍警察と未来の王と王妃と祭司長と伝道師をみながら、エアンパワーメント(能力開花)を与えなければならない。ただトラウマと虐待、感情のコントロールができないトラウマと虐待を植えたら駄目だろ。そうなればサタンがその家庭を破壊する。

 だから、このような無意識世界を見つめることも本当に重要だ。特に親になったときに、自分が幼いときに、私のお父さんはいつもいなかった、お母さんはいつも小言ばかり言っていた。だから、私はいつも逃げだそうとしていた、と。このように常に無意識世界を見なければならない。祈りながら心情世界を。その心情世界を常に見つめなければならない。

 ところで、過去に心情世界の痛みと存在感のない事実と内容が心を痛くして泣かせるが、泣いてはいけない。泣いてもどうにもならない。泣いても解決にならない。分かっりました? この内容を対象化しなければならない。対象化。対象化が何かと言えば、この内容があっても私を主管する事ができない。

 「私には見える。しかし、あなたにはパワーがない。私は肯定的な神様の恩恵を考える。ああ、あなた、また来たのか。私を苦しめるために。お前にはパワーがない。バイバイ。私は神様の恩恵にまた行く。(深呼吸をして)お父様感謝します。」(このような)訓練! この無意識世界に入って訓練してこそ、あなたも過去のそのような内容、恨や良くない記憶がどれほど未だに(自分を)絞めているか学ぶようになり、そいつらを対象化しながら自分の主体性を再びつかむ。だから、二代王はそのようなことが好きなのです。

 

 

●お父様が私の無意識世界に下さった愛

 幼いとき、big roomで、お父様が大会で御言を語られて、食事かを大きく300名から400名くらいいる食事(会)で、私は幼くて、10歳くらいだったか。人が沢山いるから、人の前に行って拍手されて、そうしながら小さな子供のように少し震えていたら、お父様に「ハッ!」と叱られました。人達の前で。人の前なのでもっと、恥ずかしくて。人の前だと、もっと恥かしいだろ? 叱られたら。幼い頃に。

 だから、自分も知らずに、(動作で小さいことを示されながら)こんなに小さい頃だ。部屋に行ってテディベア、熊の顔に顔を埋めて寝てしまった。部屋で寝てしまったのだ、10歳の子供だったから。

それで、私も知らなかった。後で私の面倒を見てくれているお姉さんが来て、寝ているときにお父様が来られたと。そして頭を触りながら「どのようにして寝ているか、恥ずかしかっただろう」と考えながら来られたのだ。お父様が、頭を触って行かれたそうだ。

 私は覚えていない。寝ていたから。ただお姉さんが話したことだけ覚えている。しかし、それで何を感じたか? 無意識世界で何かを感じた。ああ、お父様は私を愛して下さっているのだなあ。とこれを感じた。私は寝ていたではないか。寝ていたがその事実、お父様が私を叱って、私が無意識世界の心が傷つくかも知れないと、(二代王様が)上に上がって泣きながら熊の顔に乗って寝たのに、お父様が上がってこられたのだ。確認をするために。

 ですから、私は10歳の子供だったが、その記憶を忘れることができません、これを。根本的に、無意識世界は心情世界でわかる。「ああ、お父様は私を愛して下さっている。どんな人も私の記憶を奪うことはできない。それは私のものだ。私の記憶」、どういうことか分かりますね?

 その無意識世界、その心情世界で、その様なエピソードが一つあるから、それがお父様、ほぼ1年に約7から14日、12週だけ会うことができるその様な状況で、私のお父さんは私を愛して下さっている、これを掴んで生きてきたのだ。親に毎日毎日会えなくても。お父様に毎日毎日会えなくても。それを幼い頃に経験した内容をずっと覚えて覚えて私に力を与えるのだ。

 また、幼いとき、その時よりもっと幼い時、お父様の部屋にただ開けて入って行った、いつも。ドアも叩かないで。ハハハ! ただ「お父さんお母さんが何をしているだろうか」と、ただドアを開けて入っていく。それがとても嬉しい。「お父さん何しているの」。それをお父様がどれほど喜ばれたか分からない。「わあ、この子は平気でお父さんお母さんの部屋に探して入ってくる」と。

 そして幼い時、夜には、小さな布団を持って「お父さんと一緒に寝たい」と言って(入っていく)。何故ならお父様は、その当時いつもいらっしゃらなかったので。いつも世界を生かそうとしておられたから。

 だから一旦幼い時、布団をただ、私は青い布団を使っていたその時。青色のざらざらした生地の。幼いときはざらざらした布団が好きだった。柔らかい布団ではない。ざらざらして、こそばゆい布団。修道者が着るようなざらざらした、何かこの、蕩減するためにカサカサする服を着るだろ、わざと、辛い服を。そんなざらざらの青い布団。考えてみると、姉さんがその布団を手作りしてくれた。手作りだ。だから、その姉さんは韓国の姉さんだったけれど、私をたくさん叩こうとしたのだけれど、でも、私を捕まえられなかった。捕まえられない。約5歳以上だったが捕まえられない。うまく逃げていた。とにかく、その姉さんが作った青い布団。あのみっともないざらざらした布団。それを好きになったのだ。

 とりあえず、そのお姉さんは一つは上手くやった。いつも肯定的に未来の祝福について話をしていた。高い次元(の話し)ではないのだけれど、「お兄ちゃんは祝福を受けないとね」「お兄ちゃん祝福を受けましょう」いつもそうだった。それ一つは本当によくやった。

 それでいて、その姉さんにはたくさんイタズラをしたよ。夜寝る時におばさんが寝ている時に鼻の穴をほじったり、鼻くそをつけてやったり、よくやった。寝ている時に顔にマーカーでひげを描いたりした。それで、とにかくその姉さんが作ってくれた青い布団を持って、お父様の部屋に乗り込んでいくのだ、夜。お父さんと寝たいと。

 お父様はどれほど喜ばれたか! そうだろオンマ? 私が30歳、お父様が聖和される時まで、いつも訓読会の時にその話をされていたのだ。「この子はいつも布団を持ってお父さんお母さんの部屋に乗り込んできた」と。とても喜ばれたのだ。他の子供たちはお父様を怖がっていたので。こういうことを話して何だというのか。 

 あなたたちも、こんなストーリーを聞くと喜ぶではないか。何故なら、これは二代王様の私の心情世界の内側をあなたたちに見せてあげるから。無意識世界を! 私が事実、このような自分の内面を見せてやる必要はないだろ。何故、見せてやっているのか? この無意識世界がどれほど力があるのか、学ばないといけないから。人は何もない時にそれにしがみつくことが出来る。その小さな愛、その愛を掴んで希望を感じることが出来るから。

 全てを放棄して、それにしがみついて、生き残ることができる。無意識世界は、それが怖いのだ。だから、その無意識世界で問題ばかりあると「わぁ~」、こうなってしまう。そうすればあなたたちの人生に、バンバン現れる。悪魔たちが、鬼神たちが出てくる。そして、生活しながら、ずっと引きずり降ろそうとする。どこそこでぱっと現れて「ああっ!」さあ行こうと、そして引き摺り落とす。だからこの無意識世界を見つめなければならない。そうして、その世界から整理しなければならない。対象化しなければならない。もう一度その世界を主管しなければならない。

 

 

●絶対性とロマンスは無意識世界を開いてこそ深まる

 実際この女たちは、おまえ達は、夫に「私に話してよ、あなたはどう感じているのか」これとて違う表現だ。あなたたちが間違った表現をするから男にはどういう意味なのか分からないだろう!「あなたがどう感じるのか話してみて」。夫は何? 何? 何々? こんな風に言うから、あなたも正確にはわからないから、これが問題を作るのだ。実際、夫がどのように感じるのか、これはどういうことか? 実は「夫が無意識世界を開いてくれたら良いのに」という事ではないか、実際は。え? そういうことではないか。「もう! 私に何故話してくれないの」「毎日話してるじゃないの、昨日も今日も毎日話しているのに」これこれ、混乱し、表現も皆間違っている。しかしこれでは男は理解できない。 「何が話をしないだ、毎日話しているではないか! 自分の仕事の話、子供たちが学校に行かなければならない話、薬を買わなくてはならない話、等々等。毎日話しているではないか!」

 男の立場では毎日話をしているのだ。あなたたちが言う話は別の話ではないか。え? あなたたちが言う話とは「無意識世界を見せて」。これではないか、実際は。考えて見ろ、そうだろ?

 それを間違った表現をするから、夫はどういう意味なのか解らずに、あなたも、もどかしくなり夫も怒ったりする。続けてそうい話をする度に、夫たちは「ああ、何のことかさっぱりわからない」と理解できない、お互いに。それが続いて、だからお互いが恨みになり喧嘩になる。

 実は女は、夫の何を? 無意識世界、「その心情世界を開いてよ。私に、あなたがいつも隠していることを私には見せてよ。あなたと同感して、あなたの傍にいてあげるから」。こういうことが言いたいのではないの? あなた達! そうか、そうでないか。あなたたちも同じだろ? え? 女は皆そうではないか。そうか、そうではないか。

 その心情世界と無意識世界を開ければ、その男をより深くわかることが出来るようになるではないか。そうだね。心情的に。どんな鬼神なのか、何を恐れているのか。何がずっと自分を痛めつけるのか。「ア~! ちょっと話してみてよ~! どうして、どうして! 話してよ~!!」夫は「あ~! 俺は話さない! 話しがなんだ!」これこれこれ、これはミスコミュニケーションだろ。え? そう、そうじゃない?(日本語で)そうだろ?

 ですから、このようなことから夫の、夫は祭司長として、このような無意識世界をよくわからなければいけない。自分の過去を、その無意識世界に入って行きながら自分の過去をずうっと、その中で訓練することを知らなければならない。それを知ってそれを夫人に開いてあげれば、そうなれば、その関係が強くなる。深まる。その関係が強くなるから、夫人がその心情世界と無意識世界を理解し同感するのであなたをより愛するようになる。そうして、あなたをより愛するから、あなた達の絶対性、ロマンス生活をする時に、喜んで絶対性とロマンスをすることが出来るのだ。

 しかし、そのような無意識世界が開かれなければ、それならば妻は知らない人とロマンスと絶対性をしなければと感じる。そうか、そうでないか。合ってるか、合ってないか? 女性達。そうだろ?だから男たちは祭司長として、この無意識世界を訓練し、見つめて、入って言って、主管することが、それほど重要なのだ。

 そのような内容を通して、ああ、このようなことをお父様がどのようにされたのか、このようなストーリーを聞いたら、あなたも喜ぶではないか。何故ならば、二代王の中の無意識世界と心情世界を少しだけ覗いてみるようになるので。え? そうじゃない? そのように、あなたも牧師として、牧師様は祭司長として、あなたは伝道師として話してあげなければならない。心を開いてやらねばならない。そうすれば、伝道師が、牧会者の伝道師が、遙かにあんたの為に一緒に牧会することができるようになる。そうだね。多くの男たちはその無意識世界を知らないので、その中を観察し、そこにいる鬼神を見もせずに逃げてしまうから。

 妻が「ちょっと話してよ~ あなたが何を感じているのか。ああ、分からない、本当に!」こうなってしまう。実質的に自分も解らない。何故そこに入って行かないのか。習慣を作ってしまった。逃げること(逃げる習慣)。そのことが出てくると、「ああ~」と酒を飲んだり、別のことをしたり、そうするではないか。このような習慣を作ってしまった。

 だから訓練はこれほど重要だ。訓練しながらその無意識世界、・・・。考えてみなさい。私たちの心は95%は無意識世界だ。恐ろしいだろう。それだから妻に5%だけ見せれば、妻は夫が分からないと感じるだろう。だから女性はそう感じたら、もどかしくなる。何故なら、この男とセックスするのに、この男はどんな男か分からない。だから一旦無意識の心情世界の中に入って、そこで主管できるパワーを持って、次にそれを妻と子供の為に...。

 子供達が10代になったら知りたがる。家庭の祭司長である父親の無意識世界、心情世界を聞いてみたい、学びたい。だから妻だけではない。子供達も皆あなたの無意識世界、心情世界を見たがるだろう。それを男はずっと隠して、隠れて、ずっと逃げて別のことをしてごまかしていると、子供たちを伝道するのが難しくなる。

 

 

●無意識世界の自分の鬼神を対象化主管するパワー

 何故? 無意識世界では多くのことは現れる。上手くいった事だけが現るわけではない。自分が失敗したこと、自分が怖かったこと、自分が勇気がなかった事、全て、その中にあらわれる。隠れる事は出来ない。私が良くやった事も、もちろんあるが、私が上手くいかなかったことも全て中に詰まっている。無意識世界、心情世界に。だから人々は再びそれを見つめたくないから目をつぶる。あー見るな。見るな。別のをしよう。テレビ見よう。

 こうするがゆえに、心情世界が分からない。そして心情世界の悪い鬼神たちをサタンが使い、人生をもっと混乱させる。ずっと悪い事件を起こし、ずっと逃げる。見ない。見ない。見ない。要らない。要らない。この様に。

 しかしずっと、真っ暗な夜寝るとき、パッと再び鬼神が上がってくる。運転している時、パッと鬼神が上がってくる。シャワーをしている時、パッと自分の鬼神が出てくる。あなたたち皆経験しただろう? そうじゃない? した? しなかった? 玲佳、こういうの経験したか? しなかったか? そうだろう?

 そして、それを悔い改めなければずっと、バンと出てきたとき、続けて問題が起きる。だから私たちの心情世界を観察して、その内容の中で神様に栄光を捧げ、感謝を捧げるパワーを作るようにする、無意識世界で。そうしたら段々主管するようになれる。

 二代王が無意識世界の訓練を始めてから、一日に4時間、最低4時間。壁を眺めながら無意識世界に入って行った。一日に4時間! 朝2時半から夜に更に2時間、毎日毎日、10年以上、一万時間以上。最初は無意識世界に入ったところ、知らない鬼神たちが現れた。「両親は私を捨てた! 両親は私の存在感がない! ハァーあなたは失敗者!」もう、このようなことがずっと。それだから無意識世界に入りながら神様に感謝を捧げる事が出来ないだろう。

 私自身も知らずに神様を恨んでいるから。お父様は再臨主でいつも世界だけを救うから。子供達は、子供達は「私たちは?、私達は?」こうなってしまう。それから恨みつらみが出てくる。ところが、ずっと逃げ続ける。逃げる、逃げる。ずっと武道をしながら逃げる。続けてスケボーして外で遊ぶのだ。自然の中で遊びながら忘れる様に。見つめるのではない。

 だから無意識世界の訓練を始めて、一日4時間見つめながら、自分は逃げない。神様への恨み。お父様に対する怨恨。お父様もいなかった。再臨主は世界を愛しながら私は愛さなかった。私たちを捨てた。こんなおかしな狂ったお姉さん達が私たちの面倒見ながら、互いに喧嘩しながら私たち家族を分離させ、自分の政治パワーを得るために私たちを道具として利用し...こういう事を全部、眺める!初めて見つめると、ずっと何時間も、じっとしていながら、ずっと無意識世界で涙がワッーと溢れ出てコントロールが出来ない。

 でもずっと毎日座っていた。無意識世界に続けて入って行った。それから約3~4年からは、段々無意識世界に入っても、この鬼神たちがパワーが少しずつ弱まっていくのを感じた。ほぼ3年かかった。それ位詰まった恨みつらみと憎しみと憎悪、怒り。3年位でそれを治療された。3年。その無意識世界にずっと入って行って。逃げずに。毎日毎日。

 「あー私が可哀そう可哀そう」そういうことはしないで。その鬼神たちに、あなた見える、見える、お前もまた来たか。見える、見える。おーお前も見える...継続して。あー、お前見える!おー、お前見える。(笑)そうして3年経ったところ、3年、4年経ったので、それからは「お前も見える、見える。あなたお前、まだ見えるね。お前お前、その内容が見える。」

 ところで見える度に「お父様ありがとうございます。」それからは神様に感謝を捧げることが始められようになった。パワー。約3年経ったから。3年したところ感謝をそれからは正直に、正直に、恨みつらみなく、怨恨無く、感謝します。実際は感謝です。こういう事を捧げ始めた時、それからは無意識世界を主管するパワーが強くなる。ババババッと強くなる。

 そしてサタンが無意識世界と私の中の秘密の怨恨と恨みの内容をもう使用する事が出来ない、私がお父様を憎むように、(恨みを)使えない。何故? その無意識世界にずっと入って行き、その無意識世界の奴ら(鬼神たち)をずっと対象化(するから)。対象化、対象化。

 「お前そこに座れ。私の前に座らないで行ってしまえ!」。鬼神たちが私の隣に座って「あー君は可哀そうだった、あー君疲れたでしょう? あぁ~。」このように言いながら誘惑するのだ、鬼神たちが。

 それは皆サタンが使う方法だ。横に座って、「ああ、あなたは本当に大変だったでしょう?オォ~。」

 「黙れ、お前向こうに行け!行ってしまえ。」主管、主管。横に座ることが出来ないように。横で誘惑できないよう「おいお前、見える、おい!あっちに行ってしまえ!」息を吸って、ハー「お父様、ありがとうございます。アジュー」パワー!。

 

 

●夫婦で自己無意識世界主管の訓練でキリストの祭司長と伝道師となる

 そうしながら、その無意識世界で約3年5年と訓練すると、主管し始めながら、だんだんその無意識世界を主管するようになって、だんだんその無意識世界を知るようになって、無意識世界を訓練させることができるようになる。他の人たちも。

 そのようなことをしたから、うちの王妃を訓練することができるし、子供たちを訓練することができるし、そのようにできるということではないか。その世界を誰よりも多く入っていったから。もちろん、お父様と比べることはできないが、しかし、一般の人よりは遥かにたくさん無意識世界に掘って入って行ったから。

 だから王と祭司長はそのような時間が必要だ。無意識世界に入って、心情世界に入って、無意識世界に入って、静かに入って、その鬼神たちと面と向かって直視する。だからその訓練の時間は重要な訓練時間だ。実際、あなたたちは、女性たちは夫に対して、心にとめていることを話せとそのようなことを願うとき、実際その表現は、間違った表現だ。「話してみてよ。」-「何を話せというのだ」、「あなたが何を感じているのか。」-「何を感じているというのだ」、それは間違った表現だ。だから、夫は理解ができないのだ。わかるだろう? 合っている表現はなんだ?

 「それは無意識世界。あなたの鬼神たち、あなたの恐怖を、あなたが毎日、毎日戦わなければならない、あなたに辛い思いをさせるその鬼神たちは何か一度話してみて。」これではないか、実際。夫の中にある秘密を、夫の心情世界、無意識世界での幼い時のトラウマたち、あなたたちは聞きたいだろう? 妻として。知りたいだろう? そしてそれをどのように乗り越えたのか、見たいでしょう? 学びたいでしょう? そうだね。

 しかし、女性たちはこれをどのように表現するのか知らない。違って表現していた。もちろん男性たちもこの無意識世界に入らないことも問題だ。入らないからそこが何なのか分からない。それも問題だ。だから夫婦は訓練がそれほど大切なのだ。訓練。その訓練を通してあなたたちが、心と体を主管しながら、心情世界を知り、無意識世界を知り、心と体を主管と、その鬼神を主管するパワーが強くなりながら、そうするとあなたたちは父母として、感情の父母の法則を使わず、正義の父母の法則、正義のある父母の法則を使わなければならない。そうだろう? 何のことかわかる?

 だからその夫婦と家庭が、民数記8章のlampstand、燭台のともし火、あなたたち夫婦は燭台のともし火、そのともし火はキリストの愛。あなたが無意識世界に入ったら、どれほど多くのキリストの愛を受けるているのか、だんだんとわかってくる。そして、心の中にあるその痛みやトラウマや追いかけてくる鬼神はどれほど弱いのかという事実を学ぶようになる。続けて掘り進んで入っていくならば。

 その内容になぜ力があるのか? 何故なら一般の人はずっと逃げるから。逃げれば、もっと強くなる、あいつら(鬼神たち)は。立ち向かって見ていれば、正面から見つめれば、面と向かって続けて監察していれば、そいつらは弱くなる。

 そいつらが弱くなれば弱くなるほど、あなたはもっと体と心を主管することができるし、体と体を主管すればするほど、もっとキリストのような祭司長や王になり、キリストのような王妃や伝道師になれる。

 正義のある王と王妃、正義のある祭司長と伝道師として、自分の家庭の小さなミクロ王国を治める鉄の杖王国天一国、祝福中心家庭、真の父母様とイエス様とお父様の三代王権とともにサタン世界を滅亡させる天一国の勇士、王と王妃、祭司長と伝道師になるだろう。アージュアージュアージュ。拍手しないといけないだろ。(拍手)あなたたち3時間もっとやりたいんだね。ハッハハハ。

 さぁ聖歌隊降りてきて。神様に大きな栄光をお捧げしましょう。アージュ。神様の王権樹立勝利、億マンセー。万王の王、天地人真の父母様、三代王権、億マンセー天一国創建、億マンセー。横の人とハグ、アージュアージュアージュ

 

おわり。

 

 

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おおくの成約聖徒に真実が届けられますように!
祈り。アージュ

 

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