「家庭連合」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●真の父母は、ユダヤ教・基督教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

連載18『永田正治先生選集』天一国国歌の研究(「栄光の賜物」が絶対正統である理由) 

 

天一国国歌の研究(「栄光の賜物」が絶対正統である理由)

 

 

この内容は2018年4月28日に配信した記事です

 

 

永田正治 masaharu nagata

 

●●●第一章
アボニムの正統天一国国歌

 

2006年、アボニムは「栄光の賜物」を天一国国歌に定めました。

みずから作詞し、国歌とするほど愛された栄光の賜物は、メシア・アボニムを象徴する聖歌であり、ご自身の「信仰の告白」であり、キリスト教の「主の祈り」にも相当する至高の価値を有する歌です。

本来、メシアが定めた国歌が未来永劫、天一国の絶対正統国歌であり、それを改ざんすることが罪であることは議論の余地もありません。

ここで、あえてこの問題を論じるのは、天一国国歌改ざんが、韓氏オモニと家庭連合が行なってきた、アボニムの伝統を葬り去る最初の策動であり、多くのことと関連する、きわめて象徴性が高い事件だからです。

アボニムの正統国歌」と「韓氏オモニの改ざん国歌」を比較することによって、「無原罪の独生女」、「真の父母の完全一体」などの虚構を打ち砕くことができるのです。


2006年、天正宮入宮が行なわれました。

天正宮は、清平聖地の豊かな自然にかこまれ、美しく威厳があり、世界のどの王宮にも引けを取らない素晴らしい宮殿です。

入宮に際しアボニムは、「栄光の賜物」を天一国国歌と定めました。
しかし、この歌は、立派な天正宮と似つかわしくないものです。

栄光の賜物」の歌詞は、アボニムが、入宮から56年も前に、北朝鮮興南監獄から解放された後によんだ詩です。

死線を越える過酷な苦役を終え、なにも持たず、みすぼらしい姿で弟子を訪ねたときによんだ詩なのです。

栄光の賜物」は、「統一教会は、自由天地から始まったのではなく、最低の立場、監獄から出発したことを思いなさい」というみ言に直結し、その背景と内容に込められた高い宗教的、内的基準があればこそ、天正宮がアボニムの伝統を相続でき、世界、人類を救済する強力な中心地であり得るのです。

どんなに威厳ある宮殿でも、アボニムの精神がなければ、ただの世俗の豪華な建物と変わりないものになり、宗教的生命を失ってしまいます。

1  はるかに輝く栄えの光 強く生きよ自由の生命 この地の果てまで目覚め立て生命の光、永遠にあり 生命の光、永遠にあれ

2  呼びて求むる栄えの主よ 大いなる姿は 天地を抱き 蘇きた生命はいずこにと尋ぬる君を如何に迎えん 尋ぬる君を如何に迎えん

3  死から蘇きたこの我は 蘇かしたお方に抱かれて  永遠の愛と恵みの声いついつまでも喜びを いついつまでも讃めまつれ

4  栄に入るのも主の恵み 愛に満つるも主の恵み 崇め崇めて奉れども足らぬこの身を如何にせん  足らぬこの身を如何にせん


1番は、興南監獄から解放された喜び、2番は、自分を訪ねてくれる神、3番は、神に生かされ抱かれる喜び、4番は、神の恵みの大きさと悔い改めです。

2番から4番まで、テーマは神への感謝と愛です。

「栄光の賜物」は、アボニムが神と極限のなかで出会った心情を吐露した、神主義を体現した歌で、物質的栄華を超越した本質的精神が息づいているのです。


このアボニムの心と深く共鳴していた子女様がいました、それが亨進ニムです。

天正宮入宮に先立つ講演のなかで、亨進ニムは、「世界の食口が苦労しているのに、宮殿か -----?」、「私はある行動をしたいと思います」と言って、壇上から降り、会場にいたお婆さんと黒人食口の足を洗ったのです。

聴衆は驚きに包まれました。私は、長い信仰生活のなかでも、こんな感動的場面を目にしたことはありません。

天正宮入宮をまえにして、高い精神的価値をもつ「栄光の賜物を国歌にした」メシア・アボニムと、キリスト・イエスのように「食口の足を洗った」亨進ニムの行動は、心情の発露をおなじくするもので、まさに成約、新約のキリストを象徴するような役事でした。

アボニムの天正宮は、世界救済の中心として、盤石の内的基準をそなえていたのです。

 

●●●第二章
「栄光の賜物」からみるメシア・アボニムの唯一性・絶対性

 まず、私たちが考えなければならないことは、「栄光の賜物」を作詞した1950年当時は、天一国も、聖婚も、統一教会さえもない時代だったということです。

この歌には、韓氏オモニも、子女様も、私たち食口もいないのです。
ただ、メシアであるアボニムが、神と二人だけで歩まれた時代でした。

この事実に、メシアの「唯一性」と「絶対性」という神の救済摂理の核心が反映されています。

メシアとは、自体が信仰の目的体であり、希望の目的体であり、愛の目的体であり、また、全人類の信仰の結実体であり、希望の結実体であり、愛の結実体である。(み旨の道)


「栄光の賜物」のストーリーは、神とメシア・アボニムの関係が絶対テーマです。


「栄光の賜物」の国歌制定には、この関係を、永遠に天一国国民に伝える確固たるみ心があります。それはまた、神と人類の仲保者であるメシアの「唯一性」が、神の救済摂理にとって、他に比類ない重要性をもつことを教えます。

人間の歴史にかつてなかったような両者の深い心情の絆を中心に、すべての人類に救済の光が及ぶのです。その内面世界を表現し切った「栄光の賜物」は、歌う人々が、自然と、神とメシア・アボニムにつよく心情が引き付けられる国歌なのです。

「栄光の賜物」の背景から分かる、神の救いの要諦は、救世主である「メシア・アボニム」あっての「真の父母」「天一」「統一教会」であることです。

もし、アボニムと韓氏オモニ、天一国、統一教会との関係性が救済摂理にとって最重要ならば、2006年の時点で、アボニムはそれらが盛り込まれた歌詞の国歌を制定されたはずなのです。

アボニムにとって、家庭連合が唱えている「アボニムと独生女の一体による救済」は、アボニム30才の北朝鮮における受難期も、86才の天正宮入宮期も、そして聖和に至るまで、すなわち全生涯にわたり、第一義的重要性を持つものではありませんでした。

家庭連合が主張する救済観は、アボニムの救済観とちがうのです。

家庭連合は、真の父母様の勝利で聖婚が行なわれ祝福・救済の道が開かれた、とします。

しかし、それよりも、聖婚に至るまでの、アボニムの血と汗と涙の歩みが重要なのです。

それがなければ、そもそも何も成就しませんでした。

救済摂理の第一義的重要性はこの苦難の路程で、アボニムはそれに勝利しました。
聖婚、祝福はそれが「形」になったものです。

「形」より「内面の勝利」が重要です。

だからこそ「栄光の賜物」を国歌に定めたのです。それは何にでも言えることです。

天才ピアニストの超絶演奏会も、天分をもって生まれついた運命と、血のにじむような練習があればこそ可能で、演奏会という結果より、出発と過程が重要なのです

韓氏オモニは、アボニムと自分が一体と主張しますが、どこまでも、唯一のメシアとして、また主体としてのアボニムの優位性を認め、対象として同参する一体化です。

ですから、オモニはアボニムに侍ったのではないでしょうか。

そして、アボニムの苦難と勝利の歩みは、「アボニムのもの」としてほめ讃えなければなりません。アボニムの聖和後、韓氏オモニは完全一体という名のもとに、アボニムの苦難と勝利の歩みをそっくり自分の功績にしているのです。

また、アボニム30才という年齢が意義深いことは、世界宗教の教祖の歩みからも悟ることができます。

エス公生涯開始30才、釈迦出家29才、孔子学問確立30才など、世界三大聖人も同じくらいの年齢が最も重要な時代でした。

三宗教にとって、これら聖人は、唯一、絶対の存在です。アボニムにとって、興南監獄の受難期は、三大聖人の歩みと同時性をなし、その基準を越えた時代でした。

アボニムに「あなたの人生の絶頂期はいつでしたか?」と問えば、おそらく30才、興南監獄時代と答えられると思います。

ですから、86才になったアボニムが、あえて、56年前の「栄光の賜物」を天一国国歌に定めたのです。

実は、私たちにとっても同じなのです。

修練会の主の路程で、最も涙を流すのは、興南監獄の受難の場面です。

「栄光の賜物」は、統一食口にとっても他に代えられない聖歌であるとともに、神・アボニム・食口を、深い心情で結びつける掛け替えのない国歌なのです。

韓氏オモニにとって、ご自身があらわれず、正しい救済観を教え、メシア・アボニムに食口の心情が集中してしまう「栄光の賜物」は、自身が「無原罪の独生女」になる道を決定的に閉ざす、極めて都合の悪い国歌でした。

そのため、突然の聖和から基元節という混乱期に乗じて廃したのです。
その目論みは見事に成功しました。

5月14日、韓氏オモニの東京公演では、アボニムの言及が一切なく、独生女の強調に終始しました。

本来、アボニムを証しに日本に来るのが、オモニの使命なはずです。

なぜ、韓氏オモニはメシア・アボニを前に立てず、常に自分を主張するのでしょうか?

今度の公演は、約20分とみじかく、青年のアトラクションも会場でご覧にならなかったそうです。お体がつらいと察せられます。

その20分間に、もしアボニムを証されていたら、どんなに素晴らしいことだったでしょうか。

それは天宙的価値をもち、暗雲立ち込める東アジア情勢を解決する運勢を呼び込んだに違いありません。ところが現実は、神も霊界も認めない独生女を強調し、日本と朝鮮半島情勢を一層混迷へと誘導したのです。

5月29日、久しぶりに、渋谷本部前にある愛美書店に行きました。

店内には、ご夫妻の写真は複数ありましたが、韓氏オモニの写真は12にもおよぶ様々なものが並べられ、反対に、アボニムの写真は申し訳程度に一枚だけ置かれてありました。

今の家庭連合の人々には、これが当たり前のこととして、何も感じないのです。

アボニムがおられた時には、よもやこんな時代が来るとは夢にも思いませんでした。

「12対1」、これが現在の家庭連合の、独生女とアボニムの比重を如実に象徴しています。

 

 

●●●第3章
韓氏オモニの改ざん国歌


 2013年1月、韓氏オモニは、天一国国歌を「栄光の賜物」から「聖励の新歌」に変え、アボニムの歌詞を廃し、別人のものに変えました

しかも新歌詞は、公募で採用されたのです。

国歌とは、建国のために戦った人々が高い志でつくる神聖なものです。
建国者の精神が表明されるべき歌詞を公募で決めた国などありません。

この方法そのものが邪道で、天一国を冒涜するものです。

繰り返しますが、そもそもメシア・アボニムが定めた国歌は、天地が崩れても、絶対に変えてはならないのです。

しかもこの国歌にはアボニムの深い思いが込められているのです。
その国歌を廃すという恐ろしいことを韓氏オモニはしました。

家庭連合が言うように、韓氏オモニがアボニムと完全一体ならば、こんな反逆行為をできるはずがありません。

世俗の国でも国歌は革命でも起きない限り変えるものではありません。
しかし、家庭連合の天一国国歌の改定理由は陳腐です。

韓国と日本のメロディーがちがうので、混乱をさけるために変えた、というものです。
実際は、メロディーの違いは一部だけです。

こんな違いは、どちらかに統一すればいいことです。
現に、サンクチュアリ教会では、日本人、韓国人、アメリカ人がピッタリ合わせて「栄光の賜物」を歌っていますよ。

どうやったら混乱するか教えてもらいたいものです。
それはすなわち、理由にもならないような些細な理由で、メシア・アボニムの尊い国歌を廃したということなのです。

この改定理由が本当ならば、あまりにも非常識で見識のないものです。

それよりも、本当の理由は別にあり、それを隠すため、苦し紛れにこんな言い訳にしたのでしょう。

すべての国家は、建国に至るまでの過程を最も重要な時代とみなします。

ですから、独立戦争や革命戦争を背景とした歌詞がおおいのです。おなじようにアボニムも、ご自身の若き時の苦難から、天一国時代にいたるまでの戦いの歩みを最重要の時代とみました。そのなかで最も記憶すべき時代として、過酷な戦いであった興南監獄を背景とした歌を天一国国歌と定めたのです。

それに比べ、韓氏オモニにとって最も重要な時代は、アボニムの聖和後、2013年からはじまる天一国新時代です。

アボニムを中心とした家庭連合から、自分を中心とする家庭連合に変えるためには、アボニムを象徴する国歌を廃し、自分を象徴する国歌をつくらなければならなかったのです。

家庭連合は、なにかといえば、天一国新時代が到来したと強調しますが、宗教にとって新しい時代とは、教祖が生まれ歩まれた時代です。

その時代を中心に置き、つねに教祖の生涯を振り返るのが宗教の正統な歴史観です。

世界の高等宗教はみなおなじです。

アボニムの聖和後に新しい時代がはじまったと強調し、アボニムの時代には想像もできなかった、無原罪の独生女という女メシアが登場するなどということは、宗教の基本さえわきまえない偽りの救済思想です。

 

第四章
神不在の改ざん天一国国歌


「聖励の新歌」はすばらしい曲です。
曲のよさに覆いかくされ気づきませんが、新国歌の歌詞は問題です。

これはとうてい神様とアボニムは認めることができません。

1 麗しき花よ 愛のバラ   望みの訪れ 満ち溢る   全世界あまねく こぞりて祝え尽きぬ喜び 輝かさん 自由の天一

 2 気高き純白の 清きユリ  まばゆき心は とこしえに  全世界あまねく こぞりて祝え尽きぬ喜び 輝かさん  平和の天一

 3 真白き妙なる 鶴が舞う  永久に果てなき エデンのごと  全世界あまねく こぞりて祝え尽きぬ喜び 輝かさん 統一の天一

 4 高くはためく 天つ御旗  天地(人)父母様の 願う理想  全世界あまねく こぞりて祝え尽きぬ喜び 輝かさん 幸福の天一


不思議なことに、この天一国国歌には「神さま」があらわれません。

「言葉」からも「意味」からも「ストーリー」からも、神があらわれないのです。

統一教会の聖歌(韓国版)には、「主:チュ・チュニム」、「父:アボジ」、「神:ハナニム」という神を示す語があらわれます。

神を賛美する「聖苑のめぐみ」は、「われ今楽しく常に(神を)讃えん、栄光を高く捧げまつれ」など、「語」は省略されても、意味とストーリーにしっかり神が示されています。

2曲の例外(5番、46番)をのぞき全てに「神」があらわれ、しかも多くは複数あらわれるのです。

キリスト教の讃美歌はむしろもっと徹底して「神」があらわれます。

「神」を高く戴く、神主義を標榜する天一国の国歌に、「神」があらわれないのは、にわかに信じられない驚くべき事実です。

韓国、アメリカ、イギリス、ロシアなど多くの国歌にも神があらわれます。

この国歌は、キリスト教の伝統がある世俗国家よりも、むしろ神に対する意識において劣っているのです。

 

イギリスなどは6番ある歌詞すべてに神があらわれ、12回も神の名が登場します。イギリス国歌一番を見てみましょう。

●神よ我らが慈悲深き女王陛下を守りたまえ。我らが高貴なる女王陛下の永らえんことを。
●神よ我らが女王陛下を守りたまえ。
●勝利・幸福そして栄光を捧げよ。
●御代の永らえんことを。
●神よ我らが慈悲深き女王陛下を守りたまえ。(「女王陛下」は、男子が即位すれば「国王陛下」に変わる)


世俗国家でもこれだけ神を意識するのです。
アングロサクソンが世界に君臨する理由もこんなところにあるのかもしれません。

ともあれ、天一国の根本理念と照らし合わせてみても、宗教上、こんな重大な欠陥をもつ歌が、天一国国歌になるべきではありません。

神がこの歌を聞いてうれしいでしょうか。
神を崇める国歌を定めたアボニムがどんなに嘆くでしょうか。

これは、公募に応じた人も、審査する人びとにも、アボニムの伝統を重んじるという思いが完全に欠如していたことを暴露するものです。

こんな国歌をもつ国に、神の祝福があるはずがありません。

 

第五章
歴史認識、世界認識、人間認識が欠如した改ざん国歌


国歌は、国民の歴史を踏まえてつくられます。
善悪闘争の歴史を繰り返した国民の運命は悲惨なものでした。

そのため、明るいだけの国歌など存在しません。

各国の国歌を調べれば、つらい外国の支配や悲惨な戦争の歌詞が多いのです。
世界で、幾多の侵略をうけ亡国の悲しみを味わった国として、ヨーロッパのポーランド、アジアの韓国をあげることができます。

ポーランドは、「ポーランドは滅びず、我等が生きる限り、外敵の包囲、サーベルにて打ち破らん」、韓国は「神が護りたもう我が国万歳」、「一片丹心」、「苦しくとも嬉しくとも国を愛せ」と、苦難の中で身をささげ国を愛する精神を歌います。

アボニムは、誰よりも歴史の真実を知っています。

まさに「栄光の賜物」には、アボニムが、自由を奪われ、残忍な共産国家の監獄に収監され、信仰をつらぬいた背景があります。

このような国歌は、国民につよい信仰心と忍耐力を養わせることができます。

しかし、韓氏オモニの国歌は、底抜けの明るさしかないのです。

この歌詞は、陽陰ならば「陽」だけ、昼夜だったら「昼」だけ、喜怒哀楽だったら「喜」と「楽」だけ、というように世界や人間の明るい面だけしか見ておらず、一面的で、単純です。国歌というより、まるでスポーツの応援歌です。

ですから、本来、国歌に求められる真剣な歴史認識をもちません。

「神」がなく、「苦」のかけらもなく「喜」だけが強調される、お花畑のような国歌で、国民の信仰心と忍耐力を養うことができるでしょうか。

また、国歌に求められる世界認識も欠如しています。

世界のすべての国家は外敵をかかえ、国防を重視しなければならず、多くの国の国歌は戦う勇気を鼓舞するものが多いのです。

アメリカの国歌は「彼らの邪悪な足跡は彼ら自らの血であがなわれるのだ」、フランスは「武器をとれ市民よ、隊列を整え、進め、進め、敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ」などです。

私たちが生きる21世紀は、9.11テロ、アフガン、イランでの戦争、今も世界で頻発するイスラム過激派のテロ、北朝鮮の核の脅威、そして自然災害の被害など、平和と安寧とほど遠い世紀になりました。

現在、おおくの人々が苦しみ、未来はさらに深刻化する可能性が高いのです。

私たち食口にも、いつどんな災難が襲いかかるかも知れません。

アボニムは過酷な世界情勢を熟知しています。

ですから、共産軍と激しく戦った韓国動乱下によまれた詩を国歌にしたのは単なる偶然ではありません。

天一国の存続と安全のためには戦争の教訓を踏まえなければならないのです。

天一国国民も、悪なる勢力から無法な攻撃を受けたら、スイス国民のように、家庭と国家を守るため、銃をもち、勇敢に戦う覚悟が求められるのです。

このような厳しい世界の現状をみると、韓氏オモニの天一国国歌は、なんとズレたものでしょうか。

まるでシャンパンを抜いて盛大なお祝いするような雰囲気で、こんな国歌を歌いながら、厳しい21世紀の困難を克服し、人々を導くことができるでしょうか。

最近、イギリスではイスラム国の連続テロが発生し、多くの死者を出しました。

「韓氏オモニの改ざん国歌」は、明るい新時代を強調したいあまり、厳しい現実を忘れてしまったのです。

この歌は、戦争やテロの危険に直面する国際社会のなかで、国歌としての資格はありません。
また、人の苦しみや試練に対する認識も欠如しています。

こんな深みのない明るいだけの国歌で、未来の天一国国民が、人生で苦難や試練を受け悩み苦しんだとき、助けになるでしょうか。


「栄光の賜物」は、「死から蘇きたこの我は、生かしたお方に抱かれて」、「蘇きた生命はいずこにと、尋ぬる君を如何に迎えん」など、アボニムの深い信仰の世界を伝え、私たちに、神の助けを得て、苦しみに打ち勝ち、生きる希望を与えてくれます。


アボニムの国歌がどんなにすばらしい歌でしょうか。
「アボニムの正統国歌」には優れた歴史認識、世界認識、人間認識があります。

反対に、「韓氏オモニの改ざん国歌」はそれらすべてが欠如しています。

どちらが天一国国民を正しく導くことができる国歌かはあまりに明白です。

未来の天一国国民のため、「改ざん国歌」を廃し、アボニムの国歌を復活させなければなりません。

 

 

第六章
過剰なキーワードの羅列


 ●1番:「愛のバラ」「五大洋六大洲」「天宙」「億万歳太平聖代」「自由」
天一国」
●2番:「純潔のユリ」「五大洋六大洲」「天宙」「億万歳太平聖代」「平和」
天一国」
●3番:「千年鶴の翼」「永生の理想郷」「五大洋六大洲」「天宙」
「億万歳太平聖代」「統一」「天一国」
●4番:「天一国の旗」「天地人真の父母様」「五大洋六大洲」「天宙」
「億万歳太平聖代」「幸福」「天一国」

                                     
これは「改ざん国歌」(韓国語の直訳)にあらわれるキーワードを抜き出したものです。
当たり前のことですが、キーワードとは、文のなかで特に強調される言葉のことです。

ふつう、詩や歌詞のなかに、数個しかあらわれません。
私は、こんなにキーワードが多い詩も、歌詞も見たことがありません。

皆さんはいかがでしょうか。
キーワード26個を並べれば、歌詞の大部分を占め、歌の意味が分かってしまいます。

要するに、キーワードでつなげた歌なのです。

キーワードがこんなに多ければ、キーワードどうしが相殺し合い、強調効果はゼロになってしまいます。しかもこれらのキーワードはいい言葉ばかりで、苦難、忍耐、悔い改めなどを示す言葉はひとつもありません。

なにか、やたらといい言葉だけ並べて、何にポイントがあるか判断できない歌詞なのです。

韓国文化に根づいたキーワードは、翻訳すると意味が軽くなってしまいます。
ですから、家庭連合の動画や手帳には、韓国語からの直訳の日本語訳が出ています。

また、キーワードは翻訳困難な語も多く、たとえば「五大洋六大洲」は「全世界あまねく」に、「億万歳太平聖代」などは「尽きぬ喜び」と意味が全くちがうものになっています。
そのうえ、音がおさまらないキーワードもあり、歌うとき、「天一国」は「くに」に変え、たとえば「幸福の天一国」は「さちのくに」に変えています。

家庭連合が「栄光の賜物」を廃した理由は、韓国と日本のメロディーがちがい、国際的統一性がはかれないということでした。

しかし、この新しい歌詞は、はるかに国際的統一性がはかれない深刻な問題があります。

それに比べ「栄光の賜物」は、キーワードといえば、まさに神をあらわす「主」、そして「自由」、「永遠」など数個で、神を中心としたストーリーがしっかりあるので、翻訳しても、韓国語の原意を伝えられ、日本語で歌っても深みがあり恵みがあります。

私が、「改ざん国歌」の問題点を指摘するのは、改定の目的が、決して、「いい国歌をつくる」ものではなかったことを明らかにしたいからです。

もし、いい国歌をつくろうとするならば、新国歌制定委員会が設けられ、アボニムの伝統を考え、聖歌、讃美歌や、他国の国歌も参考にし、作詞の能力がある人が、充分な時間をかけつくるのです。

そうしていれば、少なくとも「神」が入らなかったり、「明るいだけ」の歌詞にはなりませんでした。

それをしなかったということは、とりもなおさず、改定の目的が「いい国歌をつくる」のではなく、「アボニムの国歌とその伝統を廃する」ことに真の狙いがあったことを示す事実に他ならないのです。

作詞者である崔洪吉氏の証によると、崔氏は詩作の経験すらなく、そのうえ時間は3日の猶予しかなかったそうです。

すぐれた詩人であるメシア・アボニムが、2年5か月の受難を背景に作詞した国歌を廃し、なんと、詩作の経験すらない人が3日でつくった国歌に変えたのです。
ですから、とんでもないものができ上がってしまいました。
このアボニムへの冒涜、不誠実は言語に絶するものです。
こんな国歌を歌う場に、アボニムが臨在するはずがありません。

家庭連合の天一国国歌の動画をみると、アボニムがあらわれます。
それをご覧になるアボニムの情けない心情を思うべきです。
家庭連合の皆さんは、目を背けず、この事実を直視してください。

家庭連合がアボニムの国歌を廃したことに納得できますか。

アボニムは「栄光の賜物」を国歌にしたとき、何度も歌われ、当時を思い出され泣かれたそうです。

そのような国歌を平気で廃する人を理解できますか。

統一食口としての良心に問うて、家庭連合の現指導者についていくか、否か、真剣に考えてください。

 

第七章
亨進ニム・荒野で呼ばわる者の声

荒野で呼ばわる者の声」とは、聖書にでてくる、洗礼ヨハネを指して言う言葉です。
エスが公的にあらわれる前に、洗礼ヨハネが人々にメシアが来ることを伝え、イエスをメシアとして受け入れられるように準備する歩みを表現します。

しかし歴史は、洗礼ヨハネが使命を果たせず、イエス自らが人々に訴え「荒野で呼ばわる者の声」となりました。結局、イエスは受け入れられず、殺害されました。

アボニムも、キリスト教牧師が責任を果たせず、自ら「荒野で呼ばわる者の声」になりました。
そして、おもむいた所が北朝鮮であり、ついには興南監獄に収監されました。そこから解放されたときによんだ詩が「栄光の賜物」です。

21世紀になり、ふたたび同じことが繰り返されました。

アボニムが苦労し基盤を築いた家庭連合は、韓氏オモニが権力を掌握し、アボニムの伝統をくつがえし、アボニムの存在を極小化する行動を繰り返してきました。

正統後継者である亨進ニムは追放され、アメリカの片田舎から「荒野で呼ばわる者の声」を発するようになったのです。

その悲痛な呼び声にこたえた群れが、サンクチュアリ教会の食口たちです。

この亨進ニムの叫びがなかったら、韓氏オモニの計画は成功し、この地上からアボニムの正しい教えは消え去ってしまったことでしょう。
誰が、絶対権力をもつ韓氏オモニに「あなたは間違っている」と直言できたでしょうか。
誰が、「偽の国歌」「偽の神名」「偽の家庭盟誓」「偽のメシア」「偽の経典」に反対を表明できたでしょうか。

この訴えがなかったら、すべての食口は韓氏オモニの偽りに気づくことはできませんでした。

私たちは亨進ニムに限りない感謝をささげなければなりません。


「荒野」は困難な環境を象徴します。
宗教にとって、真に重要で本質的な言葉は、つねに「荒野」から発せられました。キリスト教のみならず、ユダヤ教イスラム教、そして仏教や儒教も同じです。
アボニムをはじめ、イエスマホメット、釈迦、孔子は、逆境のなかで真理を説いたのです。

亨進ニムはペンシルベニアの地で、アボニムと諸聖人の苦難の路程を継承したのです。
そして、アボニムは私たちにこう命じます。

統一教会人となるためには、神様と先生の内情的な願いを相続しなければならない。(み旨の道)

アボニムが「神様と先生の内情的な願い」を、すべての食口に相続させようとしたものが、「栄光の賜物」の天一国国歌でした。
私たちはこれを子々孫々まで、国歌として歌い継ぐ天来の使命があるのです。

亨進ニムは荒野で私たちに叫び、そのことに気づかせて下さいました。

今日、サンクチュアリ教会はアボニムの正統天一国国歌を歌います。
「栄光の賜物」の背景と内容にサンクチュアリ教会のすべてが象徴されています。
反対に、家庭連合は、韓氏オモニの「改ざん天一国国歌」を歌います。
この歌の背景と内容に家庭連合のすべてが象徴されているのです。


あなたが真の統一食口ならば、亨進ニムにしたがい、「栄光の賜物」を家庭連合の国歌に復活させるため、みずからも「荒野で呼ばわる者の声」とならなければなりません。


家庭連合の皆さんは、30年以上の信仰がある方も多いでしょう。長く信仰をして、今、ふかい落とし穴に落ちてしまいました。
それが、韓氏オモニの偽りの教説と逸脱によるアボニムの真理の無力化です。
天一国国歌問題をみても、その深刻さがお分かりになると思います。

偽りの策動に関わったり、翻弄されれば、信仰の歩みは失敗し、長年の精誠が無に帰し、後悔するときが訪れます。

神とアボニムを悲しませてはなりません。

今こそ、勇気をもって、韓氏オモニのもとを去り、亨進ニムのサンクチュアリ教会の門を叩き、真のみ旨に合流してください。

 

 

【永田正治さんのプロフィール】

1954年東京生まれ。高麗大学歴史学科卒業。崇実大学統一政策大学院修士、啓明大学日本学博士課程修了。慶州ソラボル大学勤務(1997—2007)。慶州歴史文化都市造成計画TF委員歴任。著作に『北朝鮮関連日本書籍の分析』、『徳川綱吉儒教政策』など。日本に帰国後は、信者の異宗教交流により宗教間交流の活性化をめざす「異宗教コミュニケーション」を提唱。「異宗教コミュニケーションのすすめ」、「宗教の復権と異宗教コミュニケーション」、「宗教多元主義と異宗教コミュニケーション-遠藤周作『深い河』を中心に」などがある。

 

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