「家庭連合」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●真の父母は、ユダヤ教・基督教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

連載22『永田正治先生選集』「天の父母」という虚構(偽りの神名と異端的歴史観)

 

 

「天の父母」という虚構(偽りの神名と異端的歴史観)

 

 

この記事は2018年5月1日に公開されたものです。

 

 

永田正治 masaharu nagata

 

 

●●●第一章
混乱期の改ざん


2012年9月、私たちを襲ったアボニム聖和の衝撃を思い起こしてください。

もはや、アボニムは生きて自分たちを導いて下さらないという悲しみと不安、今後の世界がどうなるかという危惧の念で、心が動揺しない食口はいなかったでしょう。

しかも、あれほど待ち望み、精誠を尽くして準備していた基元節まで半年もない時点でした。

当時、聖和と基元節のはざまで、食口は途方に暮れ、冷静に教会内外の動きに目を配る余裕はありませんでした。

しかし、韓氏オモニと側近だけはちがいました

韓氏オモニはアボニム聖和式の期間にもかかわらず、幹部150名をまえにして、「アボニムは愛でお前たちに対したが、自分は冷淡にやる」と宣言したといいます。

アボニム後は自分が命令する、それに歯向かう者は容赦しないという強力なメッセージを伝えたのです。

その後、天正宮に主要幹部たちを個別に呼び出し、自分に従うか否か、忠誠心を問い質し、独裁体制を確立しました。

そして基元節をまえにして、電撃的に、二つの重要な信仰上の改ざんを断行しました。

アボニムが定めた「栄光の賜物」の天一国国歌を「聖励の新歌」に変え、また、神の呼称、祈りの神名を「天の父母」に変えたのです。

この二つの改ざんは、後の、狂気の独生女論を導入する布石でした。

韓氏オモニは原罪なし、アボニムは原罪がありとする独生女論は、家庭連合の異端行為の核心です。

天一国国歌改ざんは、食口からアボニムを慕う心情を削ぐ異端行為です。

そして「天の父母」という偽りの呼称は、「天の父」という真の神とつながる道を閉ざす異端行為でした。

それはまた、「天の父母」と祈り始めた2013年、天一国時代を歴史の中心とする家庭連合の歴史認識を生み出しました。これは異端行為を歴史観で正当化する役割をしました。

これらの改ざんは、基元節直前という混乱期に乗じて行われ、食口は内容を深く考察し、疑問を呈する余裕もなく、決められてしまいました。

しかし、神の呼称と天一国国歌の改ざんは、メシア・アボニムは認めておらず、まったく正統性はないのです。

 


●●●第二章
2016・天一国指導者会議
アンドリュー・ウィルソン「天の父母と真の父母」

 その1《アボニム不在の呼称》

昨年の2月、清平に、天一国最高委員をはじめ、世界の高位公職者が集められ、家庭連合の教義を確認する会議がありました。

ここで4人の学者が語った内容は、アボニム聖和後に改ざんされた新教義で、韓氏オモニの強い意向があり、出席者はこの内容を受け入れることを暗黙に強要されるものでした。

特にアンドリュウ・ウィルソン教授のこの講義は、各国の教会で食口の教育に活用されました。

アボニムは、「真の父母」は神の代身者であり、偉大な価値を有し、一つであると幾度となく強調しました。

家庭連合は、韓氏オモニの逸脱行為を正当化するために、このアボニムのみ言を徹底的に利用します。

アボニム原罪あり、自分は原罪なしとアボニムをおとしめる説を唱えながら、自分の異端行為を正当化するときには、アボニムのみ言を利用するのです。

このウィルソン教授の講義も、大部分、「真の父母は一体」を強調するものです。

そして、韓氏オモニが、アボニムが認知しなかった「天の父母」という呼称を制定したことを、「真の父母は完全一体」という理由で正当化します。

アボニムは、「天の父母」などという呼称はまったく認めていないのです。

この事実を覆い隠すため、「真の父母一体」を最大限に利用し、ウソの論理の無理強いをしています。

しかし、化けギツネが人間に化けても尻尾は隠せないように、ウィルソン教授の講義には、うまく騙したつもりでも、随所に誤りと矛盾があらわれます。私たちはこの尻尾をつかまえなければなりません。

そして、教授の講義内容から、いかに家庭連合がアボニムの教えとかけ離れた異端的教義をでっち上げているかが分かります。

食口の皆さんはこれを、自分と関係ない問題などと思ってはいけません。韓氏オモニの異端行為は、一人一人の信仰生活、地上生活の運勢、永遠の命に決定的影響を及ぼす、信仰上、霊性上の重大問題なのです。

●それではまず、ウィルソン教授の神の呼称の変化に関する説明から見ましょう。

●宗教の歴史を振り返ると、神さまに対する人類の理解は、時間が過ぎれば過ぎるほど発展し、変化してきたということが分かります。
●旧約前の時代とシャーマニズムにおいては、人々は、山の神や川の神など、自然に向かって祈祷しました。
●旧約時代には、神さまがみずからを主、あるいは王としてあらわし、イスラエルの人々は神さまを自分たちの敵を打ち破り、エジプトから解放し、約束の地につれて行ってくれる、強力な主だと思っていました。
●それから新約時代では、神さまを天の父と呼ぶ時代に入りました。
●そして、今、私たちは、新しい時代である天一国時代に進入しています。
●では、ずっと私たちは、神さまを天の父と呼ばなければならないのでしょうか。
●神さまは、真の父母様を通して、私たちが神さまを天の父母様と呼ばなければならないと教えてくれました
●ですからこれが、神さまの本性に対するより完全な理解なのです。

●これを整理すると、以下になります。 

  • シャーマニズム時代:山の神や川の神など自然に向かって祈祷した
  • 旧約時代:神は自らを「主」あるいは「王」とあらわした
  • 新約時代:神を「天の父」と呼んだ
  • 天一国時代:神は真の父母様を通し、神を「天の父母様」と呼ばなければならないと教えた

お分かりになるでしょうか。

何でもないような内容ですが、ここに重大な間違とウソが隠れています

原理講論の「復帰摂理から見た歴史発展表示図」を想起しください。

旧約時代といえるのは復帰基台摂理時代と復帰摂理時代、この時代は神を「主」や「王」とあらわしました。

一方、新約時代といえる復帰摂理延長時代は、神を「天の父」と呼びました。これらはほぼ間違いない指摘です。

しかし、新約時代の次に、神の呼称を変えると復帰原理のどこにも書かれていません。

数千年に一度の摂理史上の大改革を原理で言及しない訳はないのです。

それ以上に、アボニムの発言に、神の呼称が変わるというみ言もありません。

神の呼称変更は、原理にもアボニムのみ言にも無いのです。

ですから、真の父母が、神を「天の父母」と呼ぶように命じたというのは全くのウソです。

当のウィルソン教授も「お父様も祈るとき99パーセントは、神さまを父と呼んでおられます」と、アボニムが「天の父母」という祈りをほとんどしなかった事実を認めています。

私の知る限りでは、アボニムが天の父母と祈られたのは2010年1月1日の祈祷、一度だけです。

アボニムはこの日「天の父母」と祈り、その後は「天の父」に戻し、ずっと聖和まで「天の父」と祈られました。

この事実は、アボニムは神を「天の父」と祈るべきと判断したことを示す、絶対的証拠なのです。

ですから家庭連合の「天の父母」は、アボニムが認めない、アボニムの意志を完全に無視した間違った祈りです。

この祈りの対象は、神とアボニムと無関係の、神ならぬ霊的存在なのです。

それが、知らず識らず、食口に与える心霊上のマイナスがどれほど致命的か、想像を絶します。

 

その2《食口が馴染めない祈り》

 
また、ウィルソン教授は、この祈りは未だに食口が馴染んでいないと指摘します。

今でも一部の食口のなかには、神さまを天の父母様と祈ることに対し、なじめない人もいます。

皆さんの教会ではどうですか。

教会のメンバーが祈祷するとき、天の父母様で始めますが、中盤になるほど、お父様、お父様、お父様と、言わないでしょうか。

これをしばしば経験したとか、みずからも時々、こんなふうに言ったりとか。

それは私たちの天の父母様に対する理解が、相変わらず形式だということを意味します。

神さまを天の父母様として理解できる霊的利点、すなわち、本当の利点を明確に知るために、霊魂の奥深くまで受け入れなければならないのに、それができていなかったということです。

本当に一部の食口のことだったら問題はないのです。

「私たちの天の父母様に対する理解が相変わらず形式」、「天の父母様として理解できる霊的利点、―― 霊魂の奥深くまで受け入れなければならないのに、それができていなかった」、という言葉でわかるように、全体食口が、「天の父母」という祈りを、霊的、心情的に「霊魂の奥深くまで」受け入れられない状況があるから、教授はあえてこの問題に言及したのです。

新しい祈祷の制定からこの講義まで、すでに3年の月日が流れていました。

「天の父母」が真に恵みを実感するよい祈りであったら、食口は親しみを感じ、喜んで唱え、すぐに馴染んだはずなのです。

そんな恵みを感じず、3年たっても馴染めない祈り、神の呼称、それ自体が異常なことです。

「天の父母」になじめないのは、なじめない食口の信仰に問題があるのでなく、偽りの呼称に問題があるのです。

アボニムが「天の父母」という呼称を避けたのは、人の信仰、心情において、神の呼称、祈りの神名にはなり得ないと、霊的に感じ取られたからでしょう。私たちはそれに従うべきなのです。

アボニムが陽・陰をそなえる両性の神を強調したのは、神の父性しか問題にしないキリスト教に向けられたものです。

アボニムは両性の神を認めますが、神の呼称はどこまでも「天の父」と定めました。その教義上の根拠は、創造原理に明記されています。

―「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。(P,47)

 この原理の内容が、神を「父」と呼ぶことを明確に教えています。

これは長く全ての食口が共有してきた神観でもあります。

アボニム聖和の年である2012年に出版され、全ての食口に学ぶことを命じられた「原理本体論」にも同じ内容が書かれています(P,83‐84)。

「原理講論」はアボニム46才の経典、「原理本体論」はアボニム晩年の経典です。

統一運動の二大経典は、神を「父」と呼ぶと明記しているのです。

サンクチュアリ教会は「原理本体論」を重んじ、家庭連合はこの貴重な経典を絶版にしました。

こんな確かな指針があるにもかかわらず、韓氏オモニはそれを無視し、「天の父母」という偽りの呼称を制定したのです。

こんなものは、アボニムのみ心と原理の教えを踏みにじる、「反アボニムの神名」といえるものです。

 


その3《神がのぞむ呼称は「父」》


創造原理では、存在物は主体と対象という関係性で成立していると説きます。

性相と形状、陽性と陰性は、それぞれ主体、対象の関係にあります。

ならば、神の両性も、陽性が主体で陰性が対象です。神がご自身の名をあらわす、或いは、人間と対するときには、自然なこととして、主体である、陽性としての、男性・父としてご自身をあらわされることは、当然の理なのです。

創造原理の内容からみても、神は、人がご自身を「父」と呼ぶことを望んでおられるということを理解できます。

また、神は歴史を導かれました。宗教において、歴史的に継承されたものは、神が良きものとして、人間に受け継ぐように摂理されたものです。

神が人間の「父」であるという認識は、旧約時代から歴然として存在するのです。


イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプト記4.22)、「主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか」(申命記32.6)
など、ユダヤ教徒も神を「父」と認識していたのです。


ですから「父」は、旧約、新約、成約の三時代をつらぬく神認識です。

「父なる神」は、ながい歴史を通じ受け継がれ、伝統があり、それ自体が完成され、永遠性をもつ不変の呼称なのです。

それだけでなく、「主」も「王」も、旧約、新約、成約の三時代で使われているのです。神とメシアを示す「主」が、私たちの聖歌の歌詞にどれほど多く用いられているでしょうか。

「王」もおなじです。「万王の王神様解放圏戴冠式」など、様々なかたちで使われます。

ですから、「父」、「主」、「王」は、全ての時代に使われ、しかも、相互に葛藤なく、それぞれの固有の意味に基づき神を表現し、高い宗教的価値を有する、不変性、永遠性がある呼称なのです。

神の呼称の歴史は、ウィルソン教授の説のように、決して、不正確から正確に発展したなどと単純化はできないのです。

教授の言い方は、「神さまを天の父と呼ばなければならないのでしょうか」、「天の父母様と呼ばなければならないと教えてくれました」。「霊魂の奥深くまで受け入れなければならないのに」など「~なければならない」と、神の呼称について、義務や強制のようにとらえる表現を多用します。

人は神の強制で、「天の父」と呼んだのではありません。「天の父母」と呼ばなければならないと強要するのもおかしいです。

また、それ馴染まないと言って、「霊魂の奥深くまで受け入れなければならない」と叱責するのもおかしいのです。

神の呼称は、神が導き、また、人々の自然な信仰心から使われてきたものです。

しかも、ゆっくり、ゆっくり、数千年をかけ、他の呼称と相互に葛藤なく使われた、神と人がしっかり守り続けた、心の通った呼び名なのです。

神の呼称は、韓氏オモニが偽基元節の数週間前に、一方的に命令し、押し付けるようなものではありません。

「天の父母」という呼称は、神の導きも、アボニムの許しも、人の愛着も、歴史的伝統も踏まえない、独裁的権力で、聖和と偽基元節のどさくさに紛れて導入した偽りの呼称なのです。

更に、ウィルソン教授の主張の問題点は、旧約時代は力をもって戦わなければならない時代で、「主」や「王」という、強力な神を必要としたと論じました。

「父」という神の呼称は、男性優位で女性が抑圧された、男尊女卑の時代状況のなかで使われてきたと論じていることです。

すなわち、「主なる神」、「王なる神」は争いの時代の産物、「父なる神」は女性差別の時代の産物だと指摘しているのです。

もはやこれはウィルソン教授や韓氏オモニの偏見としかいいようがありません。

家庭連合は、「天の父母」が最も優れた呼称で、「父」、「主」、「王」は神の本性を正確にあらわしていない劣った呼称だと、神の呼称に優劣の差を付けました。

当然、教会で劣った祈りはできず、家庭連合では他の祈りをさせません。

そのため、「天の父母」は、歴史的に融和してきた「父」、「主」、「王」と共存できず、葛藤しているのです。

 

その4《み言の悪用例としての「原理原本」引用》

 ウィルソン教授は、アボニムが65年前に書かれた「原理原本」が、自分が「天の父母」を確信する手助けになったと言っています。

彼は、「天の父母」という呼称を正当化するために、アボニムが1951年に書かれた「原理原本」の内容を引用します。

神様が、父格だけでいらっしゃるということは、創造がすべて終わらない未成事を意味することを分からなければならない。だから、神様が父格だけで人に対することは、人がまだ完全に成熟できなくて、神様を中心として、天の愛を中心とする神さまが、地上で人間の夫婦と合体しようとした目的が、まだ未完成であることを意味する。 (「原理原本」P,631)

夫婦は、天の父と天の母を代身する者たちなので、極めて貴い対象の位に立っている。だから、各自は天の父母を代身して、お互いを貴く敬わなければなりません。(「原理原本」P,172)

  1952年に書かれた「原理原本」のつぎに「原理教本」(1957)、そして「原理講論」(1966)が書かれました。「原理原本」には「天の父母」に対する記述がおおく見られます。

しかし、「原理原本」から14年後に書かれた「原理講論」には、「天の父母」に対する記述は大きく後退しました。

これは、アボニムが、神の正しい認識は「天の父」であると判断した事実を示すものです。もしアボニムが「天の父母」が正しいと思われたなら、「原理講論」で教義化しないはずはないからです。

ウィルソン教授は、「原理原本」を持ち出し、アボニムが早くから「天の父母」という神認識に強い関心をもっていたことを伝えました。

しかしアボニムが、神の呼称という、宗教上の重要問題について強い関心をもっていたならば、神に祈り、模索し、何が正しい呼称なのかを考えたはずなのです。 

そして、アボニムが、「天の父母」が正しいと判断したら、とうの昔に、統一教会の祈りは「天の父母」に変わっていたはずです。

1952年から聖和にいたる60年ものあいだ、アボニムが「天の父」と祈りつづけた事実そのものが、「天の父母」は神の呼称、祈りの神名にはなり得ないと判断したことを証すのです。

ウィルソン教授はこのような「前後関係」に気が付かないのでしょうか?

家庭連合は、食口が共有していていない、到底信じられない教義を信じ込ませるため、過去のみ言から自分たちに都合のいい部分を見つけ出し、はなしを組み立て、偽の教義をつくります。

教授の「原理原本」利用も、膨大なアボニムのみ言の中から、自分に都合のいい内容を探し出し、話を組み立てる、家庭連合の教義ねつ造の典型例というべきです。

 


その5《性別不詳の呼称》

 もっと自然な感覚として、「天の父母」がおかしいと感じるのは、性別が不詳だからです。

父性の神を信仰するユダヤキリスト教のみならず、日本を代表する新宗教である天理教も、神を「親神様」と親しみを込めて呼びますが、「親神天理王命」という男性・父性をあらわす神名も持ちます。

祈祷は、自分という「個」が、神という「個」と、一対一で対面するものです。

それが祈りの基本です。容易に存在を実感できない、見えない神と個と個の対面をするには、個を示す存在感をもつ呼び名が必要です。そのため性別は明確でなければならないのです。

しかし、「天の父母」は「個」ではなく、性別も不詳です。

「天の父母」という呼称の矛盾は、「男」でも「女」でもなく、「父」でも「母」でもないということです。人間は男・女という別の性で、「個」として存在します。

例外はありません。動物や、すべての存在も陽・陰があるのです。ですから私たちは「性別をもたない存在」をイメージできず、人間の感性からは、この呼称では、個と個の対面は不可能なのです。

エス様の「アバ、父よ!」(マルコ14.36)という「アバ」は、古代アラム語のかなりくだけた表現で、「お父さん」という語感です。

アボニムも、「アボジよ!」と、「お父さん」と祈りました。「アボニム」、「アボジ」も「父」、「お父様」も生活化した親しみがある言葉です。

しかし、「天の父母」のばあい、「父母よ!」という呼びかけは成立しません。

それは「父母」が生活化できない言葉だからです。

ウィルソン教授が奇しくも「天の父母に対する食口の認識は形式」と批判しましたが、そもそも「天の父母」が形式的な用語なのです。

「父母様!」と呼びかけるのでしょうが、どう考えても、「お父様!」のように生活化し、神と深い心情的関係を結べるような呼びかけではありません。

ですから教授が指摘したように、食口は、お父様、お父様、お父様と呼びかけるのです。

そのためウィルソン教授は、男性は「天の父」、女性は「天の母」に祈り、それぞれの性にかなったよい解決策を求めよと言います。

こんな提案は「天の父母」が欠陥神名であることを告白するようなものです。

神を「父」と「母」と分けて、それぞれの性にかなった神に祈れという神認識は、旧約、新約、成約を通じて存在せず、アボニムのあらゆるみ言の中にもありません。

このウィルソン教授のアイディアは、宗教としても、信仰の慣習としても極めておかしなものです。

アメリカの巨大教団モルモン教には、神は「父なる神」だけではなく、「母なる神」もあるという神認識をもちます。

しかし、イエス様の教えにしたがい、天の父と祈ります。

187年の歴史をもつモルモン教の神の呼称は、私たちやキリスト教とおなじ「天のお父様」です。

おなじくアメリカ発祥のエホバの証人も、「エホバ」という神名を持ちますが、やはり「天のお父様」と親しみをこめて祈るのです。

もちろん、両教団とも「天のお父様」は、「主」、「王」という呼称と葛藤なく共存しています。

キリスト教は、「天のお父様」という呼称を共有しています。

これはキリスト教諸派の融和、協力にとって重要なポイントなのです。

せっかく同じ祈りで統一されているキリスト教のよき伝統を、家庭連合は「天の父母」などという不明解な呼称を採用し、孤立することになりました。

いくら韓氏オモニが「天の父母様」はいい呼び名だといっても、この呼称を世界のキリスト教徒が相手にすることはあり得ません。

それでは、アボニムの神観を考えて見ましょう。

アボニムの「天の父」は、ウィルソン教授がいうような、男尊女卑の思想が反映したものではありません。

アボニムの「天の父」は、男性的な強い神であるとともに、悲しみと切なさの思いをたたえる女性性もそなえた神です。

・神様の心情には、創造理想を失われた悲しみと、このみ旨をなすために預言者、聖人たちを送ってサタンと闘わせた歴史的な悲しみがある。 ・切ない神様の事情を知る者なら、悔い改める前に、身を置く場所を失い、自分の足りなさに涙するであろうし、お父様と呼ぶ前に、慟哭するであろう。「み旨の道」

メシア・アボニムが祈った神は、「悲しみ」と「切なさ」など、人間の悲哀を受けとめ、つらい歴史を人とともに歩まれました。

「天の父」のなかに、豊かな「母性」があるのです。聖書は、ダビデ詩編は女性的で、ソロモンの箴言は男性的です。日本人の神はより母性的で、韓国人の神はより父性的です。男性にとって神は、男性的要素を強く感じ、女性にとって神は女性的要素を強く感じるでしょう。

男は男なりに、女は女なりに、人のあらゆる事情を包容することができる、広大無辺な心と海のように深い心をもった「天のお父様」に祈りを捧げればいいのです。

 

●●●第三章
信仰の故郷を奪う歴史観

 その1《成約聖歌がキリスト教の歌?》

ウィルソン教授は、「天の父母」を歴史観で正当化します。

これは、韓氏オモニ中心の歴史観をつくり、アボニムの歴史観を否定する論理を成立させます。

そして、食口の信仰観、価値観を韓氏オモニを中心とするものに転換させるのです。

見てみましょう。

●私たちが天一国を建設するのであれば、神さまを正確に理解しなければなりません。
●そのことが、神さまをいっそう理解できるように手助けし、真の愛を実践するのを導いてくれるでしょう。
●私たちの教会もキリスト教から出発したので、このような転換がおこったのです。
●真のお父様は、キリスト教から出発されました。
●主の祈りをみれば、イエス様は祈祷するとき、我らの父といわれました。
●また、お父様も祈るとき99パーセントは、神さまを父と呼んでおられます。
●そして、「新エデンの歌」のような聖歌をみれば、すべての内容が父に関するものです。
●また、私たちの聖歌の大部分は、真のお母様が登場するまえに、聖婚式以前の1950年代に作詞、作曲されたものです。
●日付をしらべ、聖歌を研究してみれば、その大部分がキリスト教の歌であることが分かります。
●また、真のお父様が書かれた歌詞は、ほとんど1950年代に書かれたものです。教会では、統一教会の根、草創期の心情に帰ろうという話をしていますが、私たちが注意するべき点は、教会の草創期と現在、私たちがいる天一国とはまったく異なるという点です。

この発言も何でもないような気がしますが、アボニムの教えを否定する内容が満載です。

まず、分かりやすい部分は、「日付をしらべ、聖歌を研究してみれば、その大部分がキリスト教の歌であることが分かります」と指摘し、ウィルソン教授は、私たちの聖歌の大部分は「キリスト教の歌」と言っているのです。

はたして聖歌を「キリスト教の歌」と思って歌っている食口がいるでしょうか?みな、私たちの聖歌、成約聖歌と思っています。

教授は極めて珍しい感覚の持ち主です。

彼は、多くの成約聖歌を「キリスト教の歌」に分類しましたが、ならば、「統一教会の歌」とは何なのでしょう。聞いてみたいものです。

教授の学説では、神の呼称が「父」、「主」、「王」となっている聖歌はキリスト教の歌で、神を「天の父母」と呼ぶ聖歌は「統一教会の歌」ということなのでしょう

そんな歌は聖歌集に一曲もありません。「自分が何を言っているか分かっていますか?」と問いかけてみたくなる話です。

教授の説にしたがえば、1950年にアボニムが作詞した「栄光の賜物」などは、それこそ代表的「キリスト教の歌」ということになります。

統一教会の歌」ではないのですから、アボニムの天一国国歌「栄光の賜物」を廃することに何の抵抗もなかったはずです。

また、「私たちが天一国を建設するのであれば、神さまを正確に理解しなければなりません」と一方的な主張をしています。

教授にとっては、「天の父母」の呼称を受け入れることが神の本性を正確に理解することで、これ以外の、「父」、「主」、「王」という呼称は、不正確だということです。

それは、「父」、「主」、「王」と呼称してきた統一教会の信仰が不正確というのに等しいことなのです。

「私たちの教会もキリスト教から出発したので、このような転換がおこったのです。
真のお父様は、キリスト教から出発されました」といいます。
これなどは、教授の原理観、摂理観がどうなっているか、まったく不可解です。

統一原理から、ユダヤキリスト教の要素を除いたら何が残りますか? 統一教会は、ユダヤキリスト教を土台とします。

復帰摂理の中心宗教であるキリスト教から出発するのは、神の摂理以外の何ものでもないのです。キリスト教統一教会はひとつの流れなのです。

ですから、キリスト教唯一神、メシア思想、世界観、歴史観、文化など、多くのものを引き継ぎ、当然、讃美歌、聖歌も引き継ぐのです。

それをことさら「キリスト教の歌」と分類するのは、統一教会の信仰をわきまえない奇妙な見方です。

ウィルソン教授の歴史観を要約すれば、「キリスト教のように神を父としか呼べなかった、おくれた時代の信仰と、神を天の父母と呼び、神の本性をより正確に理解できる天一国時代とまったく異なる時代」というものです。

教授の説は「天の父」をいただく時代をおとしめ、「天の父母」をいただく天一国時代を高める意図が歴々としています。

そして、ウィルソン教授の講義が導く恐るべき結論は、「天の父母」という呼称を確信できず、「天の父母」と祈ることができなかったアボニムは、神の本性を正確にとらえていない方であったとすることです。

アボニムは、神と人の父子の因縁についてこう述べます。

「・これから神様の真の姿を知るように努めなさい。そして次には、「お父様!」と叫ぶだけで痛哭する先生に学びなさい。」 
「・父子の間の心情は、革命を起こすことができない。それは神さまもなすことができない。神様は、父子の因縁を教えるのが最後の目的である。世界を統一することのできる武器は、父子の因縁である。」「み旨の道」

ウィルソン教授は、このアボニムのみ言をどう評価するのでしょうか。

神を「父」と呼んでいるので、神の本性について不正確で、価値が低い内容とでも評するのでしょうか。

アボニムも私たちも、神を親しみをこめ「父」と呼んできました。すなわち、「父」という呼称で神との因縁を築きあげてきたのです。

それを家庭連合は、韓氏オモニの一片の命令で、「天の父」を廃し、「天の父母」としました。その暴挙を、学者の知性で正当化したのが、ウィルソン教授の講義です。

しかし、考えてみてください、アボニムの前でこんな講義ができたと思いますか?

皆さんは、インターネットで、ウィルソン教授の講義を見ることができるので、ぜひご覧になってください。

小山田天一国最高委員トーマス・ウォルシュUPI世界会長宋龍天総会長徳野会長など、家庭連合の最高幹部たちが顔をそろえて出席しています。

この映像には、韓氏オモニの異端行為を正当化し、その権威を高める講義を、世界の指導者が熱心に傾聴している光景が映し出されます。

アボニムが、ご自身が認めない教義に納得し、拍手する弟子たちのこの姿を見てどれほど嘆かれるでしょうか? これが、今の家庭連合指導者たちの情けない実態です。

 

その2《アボニムの歴史観と宗教の光源》

それでは、アボニムの歴史観を見てみましょう。
ワシントン大会の翌年、1977年5月1日に語った内容は、以下のようなものです。

きょう、統一教会の創立24周年を迎えましたが、この24年間は教会の外的な歴史であり、教会創立の基台をつくろうとした創立以前の歴史こそ本当の統一教会の歴史です。そしてそれはわずかな人々のみが知っています。そして先生が真に信頼できるのは、そういう時代を共にしたこの人々だけです。  (『御旨と世界』,「創立以前の内的教会史」,p593)

アボニムの歴史観は、統一教会が創立された1954年以前の時代、お一人で、あるいは数人の食口と歩んだ時代を最も重要な時代とします。

先生が真に信頼できるのは、そういう時代を共にしたこの人々だけ」と言いました。

今日、この時代を共にした方は、女性では、最元老食口として、アボニムが、統一教会の母と讃えた姜賢實先生がいらっしゃいます。昨年の12月、姜賢實先生は命がけでアメリカに赴き、亨進二代王様に帰依なさいました。まさにアボニムが真に信頼できる方だったのです。

実に、アボニムがお一人で、或いは少数の群れを率いて苦難を受けた時こそ、神とアボニム、そして私たちにとっても、一番重要な時代なのです。

この期間が、統一食口すべての「信仰と心情の故郷」と言えるものです。

ですからアボニムは、2006年、天正宮入宮に際し、1950年にご自身が作詞した「栄光の賜物」を国歌に制定し、天一国国民が永遠に歌い継ぐ歌と定めたのです。

これは全ての宗教について言えることです。

キリスト教は、エスの馬小屋誕生苦難の生涯十字架の苦しみと復活をつねに想起します。ユダヤ教ではモーセが導き、荒野で苦難を味わった出エジプトの記憶がどんなに貴重でしょうか。仏教ではブッダの過酷な修行と菩提樹の下の悟りが重要です。

信徒たちは聖人の苦難の歩みを生命視し、ここに最も深い思いを向けます。

宗教は、教祖が生きて苦難の歩みをした時代を、自らの宗教のみならず、宇宙史、人類史の光源(光のみなもと)とします。

この光源が天宙と森羅万象のすべてを照らすのです。アボニムの正統歴史観は、それをご苦難の時代とします。

ところが家庭連合は、偽天一国の時代、すなわちアボニム聖和後を最も重要な時代とします。

すなわち韓氏オモニが支配するようになった偽天一国を、家庭連合の「光源」としているのです。

ですから異常なほどに、天一国新時代を宣伝します。

これは、アボニムを過去の存在とし葬る歴史観であり、教祖を生命視する宗教の基本から見ても異常な歴史観なのです。

これは、統一教会信仰の真実の光源を奪い、偽りの光源に置き換えることです。

すなわち、私たち統一食口の「信仰の故郷」を奪う歴史観です。

家庭連合は、アボニム聖和から5年、アボニムの血統、真理、伝統、文化を葬り去ろうと、多くの策動をしてきました。

2017年、いよいよ今年はその策動が完成します。

アボニムは原罪をもち生まれ、隠していた偽り者とする独生女論を、食口に対し強制しようとしています。

この教義が定着し、韓氏オモニが女性メシアになれば、家庭連合の陰謀は成功します。
今、私たちは歴史的な岐路に立たされています。

私たちサンクチュアリ教会は、家庭連合の陰謀を必ず阻止します。

7月16日、亨進二代王は、「適正な秩序の王国」の説教のなかで、このように述べました。

・お父様は ―、文字通り、すべての瞬間を私たちのために苦難の道を歩いて下さいました。
・10億の何兆倍のそのまた何兆倍もの苦難です。
・私たちはその全体を理解することなどできません。
・しかしその苦難の理由、背後の心情、それを介して少し理解できるのです。

今まで、私たちはアボニムの苦難を多くの言葉で表現して来ましたが、このような宇宙的スケールで語った方はいません。

亨進ニムは、アボニムの苦難が天宙のすべて照らす光源であると教えて下さいました。

亨進ニムこそが、統一運動にアボニムの真の光源を取り戻し、食口を信仰の故郷へ帰還させることができる唯一の指導者です。

家庭連合の皆さん、亨進ニムに一刻も早く帰依し、メシア・アボニムの真理のみ旗を高くかかげ、家庭連合の異端陰謀を打ち砕くため、共に闘いましょう。

 

 ●おわり 「天の父母」という虚構(偽りの神名と異端的歴史観

 

【永田正治さんのプロフィール】

1954年東京生まれ。高麗大学歴史学科卒業。崇実大学統一政策大学院修士、啓明大学日本学博士課程修了。慶州ソラボル大学勤務(1997—2007)。慶州歴史文化都市造成計画TF委員歴任。著作に『北朝鮮関連日本書籍の分析』、『徳川綱吉儒教政策』など。日本に帰国後は、信者の異宗教交流により宗教間交流の活性化をめざす「異宗教コミュニケーション」を提唱。「異宗教コミュニケーションのすすめ」、「宗教の復権と異宗教コミュニケーション」、「宗教多元主義と異宗教コミュニケーション-遠藤周作『深い河』を中心に」などがある。

 

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