「家庭連合」の研究

すべての成約聖徒は三代王権に帰りましょう!

●真の父母は、ユダヤ教・基督教の伝統の基に使命を果たされます。「聖書」と「原理講論」に帰り、成約聖徒としての使命を全うしましょう!

奇怪千万なる「家庭連合」の「聖日礼拝」。(神の涙を語らず「礼拝」といえるのか?)

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奇怪千万なる「家庭連合」の「聖日礼拝」
(神の涙を語らず「礼拝」といえるのか?)

 

■はじめに

復帰摂理歴史の主体者は「神」である。礼拝を主管されておられるのも他ならぬ「神」ご自身である。なのに、なぜ家庭連合の「聖日礼拝」で神の心情を語らぬのか。それが、そもそも「礼拝」といえるのか。掘り下げて検証してみたい。

 

 

■「説教」より韓鶴子総裁の活動映像
ばかり流したがるのはなぜか。

家庭連合の「公職者」はもはや「聖職者」とはとてもいえまい。

一番聖命視すべき「聖日礼拝」で自ら「説教」することを回避し、これ幸いとばかりに「全国の活動映像」や「韓鶴子総裁」の活動映像ばかりを流す。

家庭連合本部も、映像を流すことを推奨しているように見える。

これでは、3分で即席麺をたべる「インスタント礼拝」とでも呼ぶべき「代物」ではあるまいか。

これで、一般信徒の「心霊」を守れるのだろうか。

 

 

■なぜかアボジの業績を語らぬ「韓鶴子総裁」

そもそも、韓鶴子総裁は、「講話」はするが「説教」はしない。「自分の業績」は語るが「アボジの業績」は語らない。

長年付き添ってきた歴史の証人として、アボジのメシアとしての苦闘、赤裸々なる生き様を聞きたかったのは私だけではあるまい。

なのにその言葉はない。なぜか。

 

 

■なぜか自分の過去の自慢話ばかり
したがる「韓国人公職者」

 日本人は、自分の自慢話を恥とする「武士道」的文化があるが、残念ながら、文化の違いからか韓国人公職者には、当てはまらぬ。それとも、たまたま私が接した韓国人教区長が、特異なキャラクターの持ち主だったのか。

聖日礼拝での説教のたび、如何に自分が霊的に導かれておるか、如何に自分が「韓鶴子総裁」と近い関係にあるか、そんな同じ逸話(エピソード)を「繰り返し」「繰り返し」語る。

しかしながら、信徒が欲しているのは、神から賜る「み言」である。枯渇している心霊を潤す(うるおす)泉である。よもや、くだらない自慢話を聞きに参加しているのではない。

なにか、間違っていないか。

 

 

■神様の「涙」アボジの「涙」を語らずして、
「説教」と言えるのか?

 「家庭連合」の聖日説教で、歴史的な復帰摂理を導いてきた神様の心情を聞かなくなって久しい。ほんとに「家庭連合」に神様は臨在しているのであろうか。「韓鶴子総裁」そのものが神なのだから、神様の心情を語る必要がないとでもいうのであろうか。

そもそも我々は、神様の歴史的な「涙」を解放するために「み旨の道」を歩んできたのではあるまいか。

もはや「神様の心情」も「再臨主の涙の路程」も語らぬ「家庭連合」に、神は臨在しておらぬ。

そう断じるのは、私だけであろうか。

 

 

 ●「短編エッセイ」おわり

 

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